今日の一言「さっそく目標を達成できなかった」
日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。

なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。
まえがき
前回の日記では、「明日日記を書こう」という目標を立てたが、どうにも気持ちが乗らずに、書ききれなかった。途中まで書いたけど、投稿する気になれなかった。日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
安全の話
さてタイトルについて。可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
可能性の話
さて、可能性の話というのは、確定していないことを指すというわけだ。5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。
人を信じること
とにかく、最近、ストレス半端ない。なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
前に進むこと
なんか、段々書いてるうちにストレスが減っている気がしてならない。書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。
あとがき
(かっこ書きである。むぅ。この記事も、投稿まで至らなかったが、一応投稿しておこう。とにかく、イライラは、文字にしないと、だめだ。要は言語化というやつで、別に、友人とか家族とかに話せる人ならこういう作業はいらない。ただ、そういう相手がいないというのがまぁ、自分の寂しいところであるが、ただ、仮にそういう存在がいたとして、上手く対面だと話せないのである。なんかやたら攻撃的になったり、逆に無口になったり、取り繕ったりしてしまう。だから、ブログの方がストレス解消にはもってこいなのだ)PR
今日の一言「謹賀新年」
それを、明日書くために、文字を考えよう。
文章。文字、創作。
何かを作るということ。
生きている意味があるのか。ないのか。
「どう生きるのか」という問いは、生きることを前提としている。「なぜ生きるのか」という問いとは根本的に違うように思われる。
帰宅中、5億年後で太陽光の強さが高まることにより海が蒸発するという記事と、6億年で、マントルに吸い込まれていくことにより海がなくなるという記事を読んだ。
また、1億年後に、逆に温暖化により、90%海に沈むと。地表がなくなると、いう記事も読んだ。
ルーチンって大事だよね。
筋トレも、柔軟体操も、ランニングも、日記も何であっても、続けるということが本当に難しい。
難しいことを、若いころはすっごく頑張ってたんだけど、頑張んなくてもできる人が優秀なんだろうな。
続けるということをやること自体に労力がかかってしまうというところが凡人なのだろう。
なぜかというと、まず、2024年がどんな年だったか、まったく思い出せないことにある。
唯一、日記を書いているときの記事をパラパラ読めば、「ああ、そんなことがあったな」と分からなくもない。
そんな程度の人生である。
昨年度の末は、友人がいないと嘆いていたがそれでもリアル側の友人と食事というか飲み会に行ってきたりもした。
特に、気を使ったりもしなかったから、そんなに悪いものにはならなかった。むしろ楽しかった。
そういうことも、リアルタイムに日記にはしたくないんだ。身バレが怖いのがある。
なんだろ、基本的に、もはや、リアルでいってることと、ここのブログに書いていることはほぼ一致しつつある。
そこに、もう、このブログの異質性がなくなったといえる。それでも、いやなもんは嫌なんだ。
なんというか、「自分」というリアルの存在とは別に、別の世界を楽しんでいるというのが近い。アバターという感じだ。アバターという映画あったな。このブログで、感想書いてたっけ? 確か、そういえば、ローカル日記のときにはあった気がするな。
そうだ、思い出した。ローカル日記なんてのも、大学生の時は書いてたな。懐かしい。
あれらは、ほんとに、分離して考えてた。自分と、ネットとを。
まえがき
何を書けばよいのか。それを、明日書くために、文字を考えよう。
文章。文字、創作。
何かを作るということ。
生きている意味があるのか。ないのか。
「どう生きるのか」という問いは、生きることを前提としている。「なぜ生きるのか」という問いとは根本的に違うように思われる。
帰宅中、5億年後で太陽光の強さが高まることにより海が蒸発するという記事と、6億年で、マントルに吸い込まれていくことにより海がなくなるという記事を読んだ。
また、1億年後に、逆に温暖化により、90%海に沈むと。地表がなくなると、いう記事も読んだ。
1か月に一つ日記を書こう
今年の目標は、そうさな、日記を書くことにしてもよいかもしれない。ルーチンって大事だよね。
筋トレも、柔軟体操も、ランニングも、日記も何であっても、続けるということが本当に難しい。
難しいことを、若いころはすっごく頑張ってたんだけど、頑張んなくてもできる人が優秀なんだろうな。
続けるということをやること自体に労力がかかってしまうというところが凡人なのだろう。
日記を書く意味とは
意味はあるかないか分からないが、ないよりはマシなことは確かだ。なぜかというと、まず、2024年がどんな年だったか、まったく思い出せないことにある。
唯一、日記を書いているときの記事をパラパラ読めば、「ああ、そんなことがあったな」と分からなくもない。
そんな程度の人生である。
昨年度の末は、友人がいないと嘆いていたがそれでもリアル側の友人と食事というか飲み会に行ってきたりもした。
特に、気を使ったりもしなかったから、そんなに悪いものにはならなかった。むしろ楽しかった。
そういうことも、リアルタイムに日記にはしたくないんだ。身バレが怖いのがある。
なんだろ、基本的に、もはや、リアルでいってることと、ここのブログに書いていることはほぼ一致しつつある。
そこに、もう、このブログの異質性がなくなったといえる。それでも、いやなもんは嫌なんだ。
別の世界が良い
自分が、ゲームするのも、「楽しいから」というよりも、現実世界と違う体験や生活をしたいから、というのが強い、ような気が最近する。なんというか、「自分」というリアルの存在とは別に、別の世界を楽しんでいるというのが近い。アバターという感じだ。アバターという映画あったな。このブログで、感想書いてたっけ? 確か、そういえば、ローカル日記のときにはあった気がするな。
そうだ、思い出した。ローカル日記なんてのも、大学生の時は書いてたな。懐かしい。
あれらは、ほんとに、分離して考えてた。自分と、ネットとを。
あとがき
(かっこ書きである。眠れない時には、書く、ことが大事、だけど。寝れるのかな。変なテンションになってしまった。何もしたくない。。酒をあおったけれども、あまり眠れない。酒飲むと大抵、すぐ眠くなるんだけどね)まえがき
先日「何を信じればいいのか」という記事を書いた。
ネットニュースにおける、某兵庫県知事をめちゃくちゃ叩いておいて、選挙になったら持ち上げて、ということが起こったので、何を信じればいいのか、となったということだった。
今度は公職選挙法違反という
それで、今度は、SNSでプロモ会社に委託したことが公職選挙法違反の疑いがあるのでは、ということだ。それで、例えばヤフーコメントなどでは、批判コメントが多くて、それにたいしての「イイネ」も多い状況。
なんだこりゃ……。
新しい問題が噴出したから、またネット民が手のひらを返した、ということだろうか?
よく分からない。
某知事が悲劇のヒーロー的に返り咲いたとき、そういうこともあるんだな、という感覚でいたが、同時に、なんかもはや怪しいな、信じられないな、という気持ちもあったが、こうなってくると、その感覚どおりだったなと思う。
身ぎれいな人間なんていないのか
まぁ自分も、車の運転をしてるときに、ふつうに走っていて、時速〇キロオーバーをしたことはある。交通ルールを守れない人間だ、ということになるだろう。ただ、〇キロ程度ではあまり問題にならない。でも、違反と言われたら違反だ。
敵というか、誰かをおとしめようと思ったら、いくらでも貶められる気がする。
誰かの恨みはかわないほうがよい。
できるだけ仲間が多い方がよい。
しかし、ほんと、そういうの面倒くさい。
もちろん、感情的な面で、誰かをひきづりおろしたいとか、復讐したいという気持ちはあまりない。
ただ、政治とか、金銭、または生命が絡んでくると、簡単ではないだろう。または宗教的にとか。
あとがき
(かっこ書きである。まぁほんと、やっぱり、もう政治的なこと……もちろん、別にこれまでも政治的なことを書いてきたわけではないが、より深く、もう書かないように気を付けよう。まぁでも、選挙には行った方がよいと思う。でも確か、選挙って、国民の義務ではないんだよな。権利ではあったはず。でもそれもどうなんだろう。選挙の率が高くなると、よりポピュリズムになりそうな気もするしなぁ。正直、理屈はよくわからないが、でも、選挙には行った方がよいと思う。そもそも、民主主義という国家形態をとってるわけだから、国民が政治家を選挙で選ぶというシステムなわけである。その「国民」という概念は、非常にあいまいな気がするが、でも、ここでいう国民は、自らの意思で選挙する概念という意味だと思うので、システムの条件として、国民は選挙にいった方がよいと思う。こういった理屈を学ぶのが政治学なんだろうな。専攻とかしたわけじゃないしよう分からんが。でも、衒学じゃ意味ないと思う。いくら概念的に正しくても、実践不可能な理論って意味がないと思う。というか、実践不可能とうことは、どこかしら破綻した条件設定ということだ。というか、大学の時学んだ気がするんだが、人文科学の「正しさ」って何なんだっけ……。科学とは、「再現性」のことだが、人文科学の場合、例えば心理学とか、何をもって再現性があるといえるんだろう。100人いたら、100人とも絶対あてはまる、という場合はない気がする。統計論になるんだっけっか。統計的に正しい、ということも、学んだ気がするけど、忘れてしまったや。でも、宝くじに当たる可能性は、ゼロではないわけだ。でも、宝くじに当たることを前提に人生設計する人はいない。でも、当たる可能性はある。どうしたらいいんだ。人生。ようわからん。ほんとによく分からない。こういう、わけわからない人生とは、ということを話せる飲み会なら参加したいが、正直、ふつうの人はそんなこと興味がないわけだ。つまらない。なんで生きてるんだ。家族のためか、恋人のためか、セックスのためか、おいしいものを食べるためか、映画とか見て感動するためか。人生は、楽しむためにあると思う。その楽しいというのが、刹那的な快楽というのには限らなくても、「苦しむために生きている」という言説には賛同しかねる。だって楽しい方がよいじゃん。崇高な、宇宙の真理を解き明かすために生きている可能性もある。しかしそれだって、それ自体が「面白い」ということじゃないと、到底続けられないと思う。痛みや苦しみを得ながら、もがきながら、真理を発見できるのだろうか? 天才といわれるアインシュタイン氏は、果たして、科学しているとき、苦しかったのか? いや苦しい場面もあったろうが、でも、「楽しい」という面もあったのではないか。わからんけど。まとにかく、生きてることに意味なんてそんなにないのである。10億年もしたら、海洋が消滅し、すべての現在地球上に存在する声明は消滅する。1万年でも、10億でも、138億年後、でもそこが問題じゃなくて、いずれ、生命も消滅する、ということだ。ここが非常に重要だと思う。つまり、永遠という概念は、ない。いや素粒子の存在は、永遠といえるのかもしれない。でも、反粒子とぶつかって消滅するんだってさ。ようわからんけど。それって永遠っていえるんか。よく分からないが、「永遠」という概念は、「ない」と思う。いずれみんななくなる。無だ。だからといって、無駄というわけではないと思う。永遠が有意義に必要条件というわけではないだろう。一瞬だって、そこに燃え上がるよな命をほとばしったら、それは意味があったといえるだろう。でも、ちっぽけだ。非常にちっぽけだ。意味があるとしたら、自分を中心に関係するその関係の中でしかないだろう。であれば、本当に、孤独というのは、人間としてあるべきではないのかもしれない。いますぐ結婚して、子供をもうけないといけないのかもしれない。それが、可能なことであるならば。僕には、その選択肢があったのかもしれない。でも、今現在、それを求めようとは思えない。10代ぐらいの時は、それを求めようと思えないのは、すっぱい葡萄理論だった可能性があったが、いまとなっては、もう現実的に相当厳しいだろうので、たぶん無理なんだろう。でも、1%ぐらいは可能性があるかもしれない。そこに、さっきの、宝くじ理論が登場する。宝くじに当たる可能性すなわち、結婚して子供が4人もできて幸せな家庭を築くという可能性もゼロではないが、でも、限りなく低い可能性のものは、排除していいはずなのだ。選択肢になし、としてもいいはずなのだ。だって、いろんな選択肢があったとしても選ぶことができるのは、1つだけなのだ。なぜか。時間軸は一つだけだからだ。タイムリープできるわけじゃないのだ。だから、1つ選ぶとは、それ以外を選ばなかった、ということになる。それでいい。それしかないのだ。いやそんなこといってないで、早く結婚相談所にいくべきなのかもしれない。そう思って、「結婚するのはやめました」という本を読んでみたが、まぁ、行かなくていいや、って思った、かっこ笑い)
今日の一言「ネットもテレビも怖いな」
2ch系の記事って、もう2chとは言わないんだろうか? 5ch?
よく分からないが、ネットの意見ってテレビとはズレてると、前々から言われていたけど、実際何が正しいのか。
というよりも、「正しい」ということは、自然科学ぐらいしかないのではとも思う。
世論に正しいも何もなく、ただそこに存在するだけ。学校生活における「空気」みたいなもんだろう。
共通する点は、どちらも不祥事を起こして、正式な手続き(選挙など)で退陣して、また選びなおされたということである。
民衆……何考えてたの……??
まぁ、兵庫県知事の場合は、直接選挙で不信任になったわけではないから、事情が違うわけだが、民衆の味方代議士(議員)が決めた内容が覆ったということである。
民意とは……?

その点が分からなくなってすごく怖いなと思った。
例えば、死刑制度とか、憲法改正とか、この前とりあげたLGBTQの問題とか。
色々あるわけだが、そのどれもが、なんか「正義」とは程遠い部分で議論されている気がする。
なんというか、僕は、いわゆる「正義」があればそれでいいと思っている。
重視するポイントは、「公平」性である。
公平というと、なんでも平等にすべきとか、そういう考え方の人もいるが、そもそも、人間は生まれながらにして「不平等」である。機会の均等性はあるべきだ。だが、そもそもイケメンとブサメンで、どちらも整形して「フツメン」になるべきとか、そんなSFは嫌だろう。
もう一つ大事と思ってるポイントは、「平和」である。世界平和。みんな仲良くした方がよいと思ってる、本気で。
うだうだ言ってないで、早く憲法改正しないと他国から攻められて属国にされてしまうのかもしれない。それを防ぐためにスパイが暗躍して憲法改正の動きを止めようとしているのかもしれない。でも正直分からない。憲法改正することと、防衛力高めることとに関連性があるのか? 上にあげた話題はどれも、自分が本気で大事に思ってることではないので、無知をさらけ出してしまうが、正直、このレベルの思考しかしてない人は日本社会にいっぱいいると思う。というか、自分なんかより偉い人や、頭の良い人たちすごくじっくり考えてても、意見に相違があるということは、所詮は「絶対に正しい」ということはどっちを取ったとしてもないのだろう。
しかしそれよりも大事なことがある。
自分自身だ。
いくら世界平和のためだからといって、今すぐ死ねと言われたら抵抗したい。
仮に、自分が死ぬことが本当に漫画の世界みたいに、自分は症状が悪化しないウイルスで、人に感染したら致死するというのに感染したからといって、自分が死ぬことで世界平和になるとしたって、「いやだ死にたくない!」と言いたい。
まぁでもそんな状況になったら、殺されるんだろうなぁ哀しいことに。
10代のころは、早く死にたいというか、死んでもかまわないと思っていた気がするが、それでも、陰謀とか巻き込まれて、無実の罪を着せられて死ぬのは嫌だと思ってた。そういうのは嫌だよね。憎たらしい奴と刺し違えてやるとかは思ってた気がする。
今は、もはや、その憎たらしい奴の顔はいまでも思い浮かぶものの、殺すほどの気概もなくなった。どうでもいい……。
だから、「殺人を犯す」ほど人を憎いというのが、いじめられたりとか、ひどい環境にあれば分からなくもないものの、人を殺すというのは、中々ハードルが高いものだと思っていた。
しかし、最近闇バイトとかいう事件なども見ていると、「あれぇ……人の命、軽いの?」という気持ちにもなる。
同じ人間と思えないんだが、まぁでも、匿名系のネット記事のコメントとか読んでると、「あー、こんな人間もいるんだな。怖いな人間」って思ってたから、まぁでもそうなんだろうな。いろんな人間がいる。できるだけ人と関わりたくないな。
いくら「真実」があったとしても、その真実が真実であることを確かめるすべがないのだ。
どう判断するか、考えるかは、個々人で決めなければいけない。
嘘を嘘と見抜ける人じゃないと生きていけない、とかいうけども、ただ、それって無理じゃないかという気がしてくる。情報がたくさんあったからといって、正しい決断ができるわけじゃないのだ。
とりあえず、正しいこととは何か。
お金を銀行に100万円預けるとしよう。
そのお金は、10年後でも、同じ、100万円として引き出すことができる、ということだ。
しかし、10年後は、ジュースが1本200円だったのが、1万円になってるかもしれない。
100万円の価値は、50分の1になってしまったということだ。
はたして、100万円を10年後のために、銀行に預けたことが正しかったのだろうか?
100万円使って、1か月ぐらい、高級料理を食べ歩いて豪遊した方がよかったのではないか?
いや、10年後の100万円があったから、のどか湧いたときに、ジュースを飲むことができた。よかった、幸せだ、と思うかもしれない。
ぜんぜん、未来が分からない。
そういうとき、人生を共に生きていく伴侶がいると、確かに精神面が安定するかもしれない。
するかもしれないし、しないかもしれない(かっこ笑い)。
これも全く分からないことである。男はすぐ死ぬから、結婚した方がよい、と聞く言説がある。
うわぁ、やばい、どうしよう……と、20年ぐらい前なら思ったかもしれない。
いまは、なんか、全部の言説に「なるほど、そういう場合もあるかもしれませんね」としか思わない。
全部が嘘、とは思わない。ただ、「絶対にそうなる」ということはこの世にもはや存在しないということが、逆説的に「絶対だ」。
絶対ということがないということがないなんてことは絶対にないのである。意味不明であるが、「絶対ということがないなんて絶対にない」という二重否定。「絶対ない」なら、絶対があることになるからである。
そういう意味で、自分で選ぶしかない。
ちなみに、結婚も良いことがあると思うが、先日下のWEB漫画読んでて、結婚したくないなと思った。(笑)
https://chinakichi.nbblog.jp/
信じるんじゃなくて、決めるしかない。
決めるときに、100%正しく決めることはできない。
最大の情報を集めて、最大に考えて判断するしかない。
その最大というのは、物理的な最大という意味ではなくて、自分がその時に取りうる最大という意味である。
もっと時間をかけたら、もっと他の方法なら取りえた「ベター」があったとしても、その時に知りえなかったのであれば仕方がない、と考えるべきである。
でも、じゃあその「ベター」かどうかの判断はどこでするのか。
「納得」
でしかない。自分が、「ああ、あのときはそこまでで精一杯だったな」と思えたらそれでよしとすべきだ。
後悔したところで仕方がない。
でもそうやっていったら、どんどん自分に都合よくならないか? 自分に甘くなる一方ではないか? 独善的にならないか?
なるだろう。
だから、そうならない努力を最大にすべきである。
まえがき
一般論って何なのか。2ch系の記事って、もう2chとは言わないんだろうか? 5ch?
よく分からないが、ネットの意見ってテレビとはズレてると、前々から言われていたけど、実際何が正しいのか。
というよりも、「正しい」ということは、自然科学ぐらいしかないのではとも思う。
世論に正しいも何もなく、ただそこに存在するだけ。学校生活における「空気」みたいなもんだろう。
アメリカ大統領とか兵庫県知事とか
現代で戦争を起こした大国についても驚いたが、アメリカ大統領選で某氏がかったこととか、兵庫県知事がかったこととか、すごく驚いた。共通する点は、どちらも不祥事を起こして、正式な手続き(選挙など)で退陣して、また選びなおされたということである。
民衆……何考えてたの……??
まぁ、兵庫県知事の場合は、直接選挙で不信任になったわけではないから、事情が違うわけだが、民衆の味方代議士(議員)が決めた内容が覆ったということである。
民意とは……?
自分にはあまり関係ないからよいが
上の事例は、すぐさま、直接的に自分にとって問題が降りかかってくるわけではないから、まぁ「驚いたなぁ」ぐらいで済むんだけど、実際、自分も関係するような政策とか決めないといけない、判断しないといけない、といったときに、どうやって情報収集したらいいんだろうか。その点が分からなくなってすごく怖いなと思った。
例えば、死刑制度とか、憲法改正とか、この前とりあげたLGBTQの問題とか。
色々あるわけだが、そのどれもが、なんか「正義」とは程遠い部分で議論されている気がする。
なんというか、僕は、いわゆる「正義」があればそれでいいと思っている。
重視するポイントは、「公平」性である。
公平というと、なんでも平等にすべきとか、そういう考え方の人もいるが、そもそも、人間は生まれながらにして「不平等」である。機会の均等性はあるべきだ。だが、そもそもイケメンとブサメンで、どちらも整形して「フツメン」になるべきとか、そんなSFは嫌だろう。
もう一つ大事と思ってるポイントは、「平和」である。世界平和。みんな仲良くした方がよいと思ってる、本気で。
うだうだ言ってないで、早く憲法改正しないと他国から攻められて属国にされてしまうのかもしれない。それを防ぐためにスパイが暗躍して憲法改正の動きを止めようとしているのかもしれない。でも正直分からない。憲法改正することと、防衛力高めることとに関連性があるのか? 上にあげた話題はどれも、自分が本気で大事に思ってることではないので、無知をさらけ出してしまうが、正直、このレベルの思考しかしてない人は日本社会にいっぱいいると思う。というか、自分なんかより偉い人や、頭の良い人たちすごくじっくり考えてても、意見に相違があるということは、所詮は「絶対に正しい」ということはどっちを取ったとしてもないのだろう。
しかしそれよりも大事なことがある。
自分自身だ。
いくら世界平和のためだからといって、今すぐ死ねと言われたら抵抗したい。
仮に、自分が死ぬことが本当に漫画の世界みたいに、自分は症状が悪化しないウイルスで、人に感染したら致死するというのに感染したからといって、自分が死ぬことで世界平和になるとしたって、「いやだ死にたくない!」と言いたい。
まぁでもそんな状況になったら、殺されるんだろうなぁ哀しいことに。
10代のころは、早く死にたいというか、死んでもかまわないと思っていた気がするが、それでも、陰謀とか巻き込まれて、無実の罪を着せられて死ぬのは嫌だと思ってた。そういうのは嫌だよね。憎たらしい奴と刺し違えてやるとかは思ってた気がする。
今は、もはや、その憎たらしい奴の顔はいまでも思い浮かぶものの、殺すほどの気概もなくなった。どうでもいい……。
だから、「殺人を犯す」ほど人を憎いというのが、いじめられたりとか、ひどい環境にあれば分からなくもないものの、人を殺すというのは、中々ハードルが高いものだと思っていた。
しかし、最近闇バイトとかいう事件なども見ていると、「あれぇ……人の命、軽いの?」という気持ちにもなる。
同じ人間と思えないんだが、まぁでも、匿名系のネット記事のコメントとか読んでると、「あー、こんな人間もいるんだな。怖いな人間」って思ってたから、まぁでもそうなんだろうな。いろんな人間がいる。できるだけ人と関わりたくないな。
真実を知ったところで
問題は、仮に真実を知ったところで、行動できることとしては、なんかそういう「デモ」に参加するか、結局、選挙にいって一票を投じるぐらいしかないのである。いくら「真実」があったとしても、その真実が真実であることを確かめるすべがないのだ。
どう判断するか、考えるかは、個々人で決めなければいけない。
嘘を嘘と見抜ける人じゃないと生きていけない、とかいうけども、ただ、それって無理じゃないかという気がしてくる。情報がたくさんあったからといって、正しい決断ができるわけじゃないのだ。
とりあえず、正しいこととは何か。
お金を銀行に100万円預けるとしよう。
そのお金は、10年後でも、同じ、100万円として引き出すことができる、ということだ。
しかし、10年後は、ジュースが1本200円だったのが、1万円になってるかもしれない。
100万円の価値は、50分の1になってしまったということだ。
はたして、100万円を10年後のために、銀行に預けたことが正しかったのだろうか?
100万円使って、1か月ぐらい、高級料理を食べ歩いて豪遊した方がよかったのではないか?
いや、10年後の100万円があったから、のどか湧いたときに、ジュースを飲むことができた。よかった、幸せだ、と思うかもしれない。
ぜんぜん、未来が分からない。
結婚のメリット
めちゃくちゃ、不透明な時代である。VUCAとか言われたりする。そういうとき、人生を共に生きていく伴侶がいると、確かに精神面が安定するかもしれない。
するかもしれないし、しないかもしれない(かっこ笑い)。
これも全く分からないことである。男はすぐ死ぬから、結婚した方がよい、と聞く言説がある。
うわぁ、やばい、どうしよう……と、20年ぐらい前なら思ったかもしれない。
いまは、なんか、全部の言説に「なるほど、そういう場合もあるかもしれませんね」としか思わない。
全部が嘘、とは思わない。ただ、「絶対にそうなる」ということはこの世にもはや存在しないということが、逆説的に「絶対だ」。
絶対ということがないということがないなんてことは絶対にないのである。意味不明であるが、「絶対ということがないなんて絶対にない」という二重否定。「絶対ない」なら、絶対があることになるからである。
そういう意味で、自分で選ぶしかない。
ちなみに、結婚も良いことがあると思うが、先日下のWEB漫画読んでて、結婚したくないなと思った。(笑)
https://chinakichi.nbblog.jp/
タイトルに戻ると
何を信じればよいのか。信じるんじゃなくて、決めるしかない。
決めるときに、100%正しく決めることはできない。
最大の情報を集めて、最大に考えて判断するしかない。
その最大というのは、物理的な最大という意味ではなくて、自分がその時に取りうる最大という意味である。
もっと時間をかけたら、もっと他の方法なら取りえた「ベター」があったとしても、その時に知りえなかったのであれば仕方がない、と考えるべきである。
でも、じゃあその「ベター」かどうかの判断はどこでするのか。
「納得」
でしかない。自分が、「ああ、あのときはそこまでで精一杯だったな」と思えたらそれでよしとすべきだ。
後悔したところで仕方がない。
でもそうやっていったら、どんどん自分に都合よくならないか? 自分に甘くなる一方ではないか? 独善的にならないか?
なるだろう。
だから、そうならない努力を最大にすべきである。
あとがき
(かっこ書きである。生きることはかくのごとき難しい。ただ、「後悔」がないようにすべきだと思って生きてきた。そしてそれは間違いではなかったと経験上は思う。後悔した方がよかったなぁと後悔したことはない(かっこ笑い)。歴史の勉強は好きだった。歴史を学ぶほどに、「現代ってましだな」って思ってた。当時の人たちって、ほんと地獄のような人生ばかり送ってたんだろうな、って思ってた。しかし、実際どうなんだろう。今この現代が、未来で振り返った時に、未来人は、「当時の人間たちは、よくそんな社会で生きてたんだなぁ」としみじみするんだろうか。まぁそうあって欲しいなとほんと思うよ。未来人たちが、2000年代はほんと素晴らしい時代だったんだなと涙するような未来は哀しいと思う。けど、そういう1000年単位程度の話ならそうだが、10億年で地球は生命が住めない世界になるという。50億年もすると、太陽にのみこまれそうになるということだが、その前に10億年ぐらいで、そもそも灼熱の星になるということだ。1000年後ぐらいはまだ、人類が生きてるかもしれない。1万年後は謎だ。ホモ・サピエンスが生まれたのが1万年前ぐらいだったっけ。もっと前だった気もするが。数万年経って、人類の今が、最高潮の時で、あとは零落していくだけなのかもしれない。社会について考えれば考えるほど明るい話題がないなぁと思うこの頃である)
今日の一言「メモしないと確実に忘れると思った方がよい」
最近パソコンに詳しくなった、電源周りをいじる経験ができた、と書いた気がする。ハードウェアは、物理的に破壊してしまう可能性があるから、怖いね。
どこからを友人と呼ぶのか、みたいな、そんなことを研究したいと思ったこともあったような気がする。結局そこまで興味をもてずにやめた。
でも、人間関係ということには、すごく興味をもった気がする。「集団」というもの。社会学という学問に興味をもった理由がそこらへんにあった気がする。
どっちかというと、今は宇宙とか物理とかに興味があるけどね。
で、友人という表現をするとき、ボクは、リアルもネットも特に区別していない。
どちらかというと、ネットで知り合った友人の方に、すごく影響を受けてきたと思う。
というか、リアルの友人は、「影響を受けたくない」と思っていた気がする。
アイデンティティが不確かな多感な時代……思春期的な時は、集団に埋まってしまう恐怖のようなものもあった気がする。目立ちたいというのとは違うし、どちらかというと誰にも見られたくないという「プライベート」を守りたいという気持ちが強かった気がする。
今はこんなブログを書くように、どんどん自己開示したいという気持ちもあるような気がする。
ただ、その気持ちを、リアルに発信したいか、というと、別にそうじゃない気がする。
まぁでも大事なことでもある。来歴というのがないと、その文章というのはなんか感情移入というか、面白く読めないのだ。
自分のブログも、事実ベースで書いたとりあえず言いたいことばっかり書いている記事は面白くなかったりする。
でもたまに、面白い文章というのもある。
それは果たして、他者が読んでも面白いのだろうか? そこらへん分からないから、たまにコメントくださる方とかいるととても感謝している。
別に、誤読してもらうこととか、そんな目くじら立てたりしない。そう感じたんだな、そう感じるような文章内容・構成だったんだな、と思うし、それはそれで面白い。
やっぱり、自分の文章だから、そこに書いている裏の意図的なのが読み取れたりするから、そういう場合は面白い。裏の意図がない文章は面白くないと感じるのだろうか。
過去に、戻りたいという時間は、正直無い。
こう言える人は幸せなのだろうと思う。
だから、僕は幸せなのだ。
幸せなのだ、と書くと、なんか不幸を引き寄せる気がして怖いけれども(かっこ笑い)。
しかし、人生というのは、命というのは、いずれ、終わりは迎えるのである。これは絶対。
かりに、コールドスリープが実用化したとしても、地球は、10億年後? 1億年後? とりあえず海がなくなる。水がなくなる。微生物すら死滅する死の星となる。
これはまぁ、わからないけど、きっと確かなんだろう。2億5千万年前のペルム紀の大量絶滅が本当にあったことなのだから、今後の未来、地球環境が大きく変わることはそんなに疑わしいことではないと思う。
だから、宇宙を知ることは大事なんだと思う。いずれ、地球は脱出しなければ人類は滅亡するのだ。
1億とか、10億とかは、地球環境的な「絶対」であって、そもそも、いまだに戦争や紛争をなくせない人類が、1000年後も無事かは全くわからない。
下手したら100年も怪しいかもしれないわけだ。
でも、なんか漫画であったけど、ぎりぎり追い詰められて、最後の最後にならないと、呉越同舟なんてありえないのである。極端な例だけど、わりと追い詰められないと、敵と手を取り合うというのは難しいのである。だから、そういう物語は逆に面白いけれど、説得力がある描き方しないとしらける。
Youtubeで特殊清掃の動画をみたんだ。いわゆるごみ屋敷とか、孤独死とか、そういったドキュメンタリー。
ごみ屋敷=男性というイメージがあったが、女性でも多いらしい。
結構ほんとか、電子機器とかいろんなものに囲まれているので、捨てたい。
もしくは、もっと広い家に引っ越したい。けど、一人暮らししている分には、20m2ぐらいの大きさで十分なのではないかと思う。
自分の生活で、まず大事なのは、パソコンがあれば、こうして文章を書いて頭の整理もできるので、大丈夫。
パソコンといっても、スピーカーと、ディスプレイも必要。それだけでも場所をとる。
椅子も必要。デスクも当然必要。
つまり、パソコン、という環境を維持(もちろんノートPCという選択もあるが、そうではないとしたとき)するにも多くの物品が必要なのである。
冷蔵庫もあったほうがいいし、洗濯も自分でやった方がいい。電子レンジも必要だなー。最近冷凍食品がうまいと思う。
食器類はもっと減らしてもいい気がする。ガスコンロは、最近、T-falの電子ポッドを買ったので、別にコンロなくてもお湯が沸かせるからいらない気がする。ほんとにまったく使わないなら、ガスコンロの上に足つき台をおいて物置にするという手もある。
健康と住環境はできる限り維持したい。
健康診断で体重はかったら、4kgぐらい増えてた。これは大変だと思って、食生活に気を付けたら、△3kgぐらいにはなった。でも、筋力が落ちて、太りやすい体質に変わっているのだろう。
孤独はよくないかららしい。
なるほどやばいな……と思わなくもないが、でも、ちょっとやっぱり腑に落ちないというか納得できないのは、「助け合う」という点である。
なんか、自分のメリットのために結婚とか、コミュニティに属した方がよい、というけれども、いやちょっとまった。
それ違うと思う。
「助け合う」
というのは、自分も与える、ということである。当たり前だ。
結婚したらリスクを軽減できるというのは、それはそうだが、それによるリスクも上がる。
結婚して1か月後にその相手がリストラされて、介護が必要になったとなったとき、自分が支える必要がある。
逆の場合はラッキー、って思う?
いや、それはそれで申し訳ないだろう……。
というわけで、孤独を防げるから結婚がよいというのは、まったく意味が分からないのである。
それよりは、養子もらった方がよいんじゃないだろうか。でも、生物学的なつながりがない子供を養うというのは、それはなんだろう……そうとう高尚な精神をもった人じゃないとできないんじゃないだろうか。
ゆえに、結婚しようという気は今のところ全く起きないのである。
もちろん、自分のすべてをなげうってでも守りたいという相手ができたら別だが……。
しかし、上の、「すべてをなげうって守りたい」という気持ちというのは、男性特有のものらしい。男女の気質というのは、別にそこにすべて帰結されるわけでもないのだろうけれども。女性はむしろ守られたいという気持ちがある、ということを言いたいわけでもないが。
まぁでも、ちっちゃくてかわいいものを守りたい、という気持ちは、別に男女関係なく普遍的にあってもよい気はするし、そういう相手に出会える可能性もゼロではなかろう。
一人でいてもぜんぜん苦痛ではない。むしろ、人といると疲れる……。
いや、疲れないことが、多くなった間違いなく大人になった成長した、そう思える。が。
それでも、一人の時間が欲しい時が多い。
割合的な問題だろう。9:1ぐらいで、一人でいてもよい(かっこ笑い)。
なので、さすがに、10:0になったら、孤立というやつで、やばいのかもしれない。精神的にもおかしくなるのかもしれない。
でも、仕事している以上は、一日の大半を人と過ごしているので、まぁ、一人で仕事している時間もあるから、5:5ぐらいの割合な気がする。
だから休日とかの一人の時間が大事、って思うのかもね。
これが仕事やめたらどうなるのか。
仕事も定年を迎えたとする。定年が65歳になったようだから、まだまだ先な気がするが。
ゲームや、本は好きだ。
何が好きかというと、物語が好きだからだ。
でも、物語が好きというのは、人が好きなのではなかろうか?
でも、圧倒的存在が人類を滅ぼす作品も嫌いではない。でも、最終的なハッピーエンドは人類の勝利だ。やっぱり人が好きなのか。
好きなのに、孤独というのは大丈夫なのか?
65歳でゲームやれるのか?
物語を楽しめるのか?
幸いにして、勉強も好きだ。勉強というか、科学?
宇宙とか良いよね。
それは何なのか。自分という些末な存在を、偉大な存在(宇宙)に位置付けるという作業、といえるかもしれない。抽象化。

なんかコメントでお題いただいたら作ってみたいと思うのでお願いします(笑)。
画像生成AIも、自分で触ってみると、できることと、難しい部分とが分かってきて、そういうの楽しいね。なんかこうやって手を動かしていろいろやるのがやっぱり自分は好きな気がする。
評論家も楽しいんだろうけど、モノ創りというのがやっぱり楽しい性格気質なんだと思う。
高校や、大学で知り合った友人と会うことももはやないだろう。
近所づきあいもしているとは全く思えない。
どこに住んでるのかも分からない。災害が少ない場所がいいけれども、そういう場所の住宅価値があがってしまっていて、危険な場所に住んでいるかもしれない。
でも、現金じゃなくても、資産は保持できるわけだから、身一つあればなんとかなるかもしれない。
75歳かぁ……。
今、30代だが、20年後とか30年後を考えたとき……。
たとえば、15歳の自分は、今の自分の状況を想像できていただろうか。
まったくできてなかったねー。
いやはや……いま考えてもよく頑張ってたと思う。えらい。若いころの自分。
とあるプロ野球選手が、大学時代寮で厳しい練習だったということで、5億積まれても戻りたいとは思えない、といっていた。
同じ気持ちだ。
5億……ならうーん……ちょっと考えるけど(笑)。
1億あげるから、10代のころに戻って1年過ごしてこい、と言われたら、正直いやだな。
いまの経験や思考や、能力をそのままもって、体力などは当時に戻ったとしても、いやだ。
冒頭に書いたが、どこの時代にも戻りたくない。
昨日は昨日で、仕事で23時ぐらいまでかかったし。
解決したが、解決しない可能性もあったことが非常にストレスだった。そういうことを、もう一度味わいたくない。
ああ、いやだ、いやだ……。
いやなことを思い出してしまった。
一方で、未来が明るいか、と思うと、それこそ、75歳になったら、もう色々衰えているだろうから、それはどうなの、って気もする。
75歳でしょう……? うーーーん。想像できぬ。
でも、75歳の人たち、生きてるから、きっと何とかはなるんだろうな。
今の75歳の人たちの話を聞きたい気もするが、ただ、それって、正直、参考になるかならないかわからないぐらいでしかない。
ボクが15歳のときの30歳の人の話と、ボクが今思っていることと、まったく違うと思うから。
結論なってみないとわからん。
先のことを心配しても、仕方がない。今を大事にしよう。
何をしようが、時間は過ぎる。不可逆に。タイムリープとかワープものの物語には憧れるが、残念ながら、今生としては体験できることはなかろう。
今日、こうして、文章を書いている、その選択は、間違いではなかったと、未来の自分が思ってくれればそれでよいと思う。
まえがき
途中まで書いてたのを誤操作で消してしまった。最近パソコンに詳しくなった、電源周りをいじる経験ができた、と書いた気がする。ハードウェアは、物理的に破壊してしまう可能性があるから、怖いね。
物質的世界を生きる
ある友人が……と書くと、リアルの友人のことを想像するが、基本的に、あんまりリアルの友人がいない……と書くと、なんか、その見栄はっている気すらする、あんまりどころか、いないんじゃないか。どこからを友人と呼ぶのか、みたいな、そんなことを研究したいと思ったこともあったような気がする。結局そこまで興味をもてずにやめた。
でも、人間関係ということには、すごく興味をもった気がする。「集団」というもの。社会学という学問に興味をもった理由がそこらへんにあった気がする。
どっちかというと、今は宇宙とか物理とかに興味があるけどね。
で、友人という表現をするとき、ボクは、リアルもネットも特に区別していない。
どちらかというと、ネットで知り合った友人の方に、すごく影響を受けてきたと思う。
というか、リアルの友人は、「影響を受けたくない」と思っていた気がする。
アイデンティティが不確かな多感な時代……思春期的な時は、集団に埋まってしまう恐怖のようなものもあった気がする。目立ちたいというのとは違うし、どちらかというと誰にも見られたくないという「プライベート」を守りたいという気持ちが強かった気がする。
今はこんなブログを書くように、どんどん自己開示したいという気持ちもあるような気がする。
ただ、その気持ちを、リアルに発信したいか、というと、別にそうじゃない気がする。
筆をとってみると色々書いてしまう
なんだ、そんなことを書こうと思ったんじゃなかった気がする。まぁでも大事なことでもある。来歴というのがないと、その文章というのはなんか感情移入というか、面白く読めないのだ。
自分のブログも、事実ベースで書いたとりあえず言いたいことばっかり書いている記事は面白くなかったりする。
でもたまに、面白い文章というのもある。
それは果たして、他者が読んでも面白いのだろうか? そこらへん分からないから、たまにコメントくださる方とかいるととても感謝している。
別に、誤読してもらうこととか、そんな目くじら立てたりしない。そう感じたんだな、そう感じるような文章内容・構成だったんだな、と思うし、それはそれで面白い。
やっぱり、自分の文章だから、そこに書いている裏の意図的なのが読み取れたりするから、そういう場合は面白い。裏の意図がない文章は面白くないと感じるのだろうか。
50代になったとき
最近、特に書いておくべきだろうと思って書いているが、今は特に不満はない。過去に、戻りたいという時間は、正直無い。
こう言える人は幸せなのだろうと思う。
だから、僕は幸せなのだ。
幸せなのだ、と書くと、なんか不幸を引き寄せる気がして怖いけれども(かっこ笑い)。
しかし、人生というのは、命というのは、いずれ、終わりは迎えるのである。これは絶対。
かりに、コールドスリープが実用化したとしても、地球は、10億年後? 1億年後? とりあえず海がなくなる。水がなくなる。微生物すら死滅する死の星となる。
これはまぁ、わからないけど、きっと確かなんだろう。2億5千万年前のペルム紀の大量絶滅が本当にあったことなのだから、今後の未来、地球環境が大きく変わることはそんなに疑わしいことではないと思う。
だから、宇宙を知ることは大事なんだと思う。いずれ、地球は脱出しなければ人類は滅亡するのだ。
1億とか、10億とかは、地球環境的な「絶対」であって、そもそも、いまだに戦争や紛争をなくせない人類が、1000年後も無事かは全くわからない。
下手したら100年も怪しいかもしれないわけだ。
でも、なんか漫画であったけど、ぎりぎり追い詰められて、最後の最後にならないと、呉越同舟なんてありえないのである。極端な例だけど、わりと追い詰められないと、敵と手を取り合うというのは難しいのである。だから、そういう物語は逆に面白いけれど、説得力がある描き方しないとしらける。
好きなことをして生きる
まず、天涯孤独になることを考えてみる……ということで思考をおよぼしたとき、そうだ、最初に書こうと思ったこと思い出したや。Youtubeで特殊清掃の動画をみたんだ。いわゆるごみ屋敷とか、孤独死とか、そういったドキュメンタリー。
ごみ屋敷=男性というイメージがあったが、女性でも多いらしい。
結構ほんとか、電子機器とかいろんなものに囲まれているので、捨てたい。
もしくは、もっと広い家に引っ越したい。けど、一人暮らししている分には、20m2ぐらいの大きさで十分なのではないかと思う。
自分の生活で、まず大事なのは、パソコンがあれば、こうして文章を書いて頭の整理もできるので、大丈夫。
パソコンといっても、スピーカーと、ディスプレイも必要。それだけでも場所をとる。
椅子も必要。デスクも当然必要。
つまり、パソコン、という環境を維持(もちろんノートPCという選択もあるが、そうではないとしたとき)するにも多くの物品が必要なのである。
冷蔵庫もあったほうがいいし、洗濯も自分でやった方がいい。電子レンジも必要だなー。最近冷凍食品がうまいと思う。
食器類はもっと減らしてもいい気がする。ガスコンロは、最近、T-falの電子ポッドを買ったので、別にコンロなくてもお湯が沸かせるからいらない気がする。ほんとにまったく使わないなら、ガスコンロの上に足つき台をおいて物置にするという手もある。
健康と住環境はできる限り維持したい。
健康診断で体重はかったら、4kgぐらい増えてた。これは大変だと思って、食生活に気を付けたら、△3kgぐらいにはなった。でも、筋力が落ちて、太りやすい体質に変わっているのだろう。
孤独に生きる
孤立はだめだが、孤独はよいとか、言葉遊びみたいなことをやりたいのではない。40代の生き方みたいな本を読んだが、結婚してない人はいますぐ結婚すべき、ということらしい。孤独はよくないかららしい。
なるほどやばいな……と思わなくもないが、でも、ちょっとやっぱり腑に落ちないというか納得できないのは、「助け合う」という点である。
なんか、自分のメリットのために結婚とか、コミュニティに属した方がよい、というけれども、いやちょっとまった。
それ違うと思う。
「助け合う」
というのは、自分も与える、ということである。当たり前だ。
結婚したらリスクを軽減できるというのは、それはそうだが、それによるリスクも上がる。
結婚して1か月後にその相手がリストラされて、介護が必要になったとなったとき、自分が支える必要がある。
逆の場合はラッキー、って思う?
いや、それはそれで申し訳ないだろう……。
というわけで、孤独を防げるから結婚がよいというのは、まったく意味が分からないのである。
それよりは、養子もらった方がよいんじゃないだろうか。でも、生物学的なつながりがない子供を養うというのは、それはなんだろう……そうとう高尚な精神をもった人じゃないとできないんじゃないだろうか。
ゆえに、結婚しようという気は今のところ全く起きないのである。
もちろん、自分のすべてをなげうってでも守りたいという相手ができたら別だが……。
しかし、上の、「すべてをなげうって守りたい」という気持ちというのは、男性特有のものらしい。男女の気質というのは、別にそこにすべて帰結されるわけでもないのだろうけれども。女性はむしろ守られたいという気持ちがある、ということを言いたいわけでもないが。
まぁでも、ちっちゃくてかわいいものを守りたい、という気持ちは、別に男女関係なく普遍的にあってもよい気はするし、そういう相手に出会える可能性もゼロではなかろう。
一人がきらいじゃないのである
ところが、自分のことを考えてみると、正直言って、孤独耐性がやっぱり高いのである。一人でいてもぜんぜん苦痛ではない。むしろ、人といると疲れる……。
いや、疲れないことが、多くなった間違いなく大人になった成長した、そう思える。が。
それでも、一人の時間が欲しい時が多い。
割合的な問題だろう。9:1ぐらいで、一人でいてもよい(かっこ笑い)。
なので、さすがに、10:0になったら、孤立というやつで、やばいのかもしれない。精神的にもおかしくなるのかもしれない。
でも、仕事している以上は、一日の大半を人と過ごしているので、まぁ、一人で仕事している時間もあるから、5:5ぐらいの割合な気がする。
だから休日とかの一人の時間が大事、って思うのかもね。
これが仕事やめたらどうなるのか。
定年後を考える
両親や親せきもいなくなったと考える。仕事も定年を迎えたとする。定年が65歳になったようだから、まだまだ先な気がするが。
ゲームや、本は好きだ。
何が好きかというと、物語が好きだからだ。
でも、物語が好きというのは、人が好きなのではなかろうか?
でも、圧倒的存在が人類を滅ぼす作品も嫌いではない。でも、最終的なハッピーエンドは人類の勝利だ。やっぱり人が好きなのか。
好きなのに、孤独というのは大丈夫なのか?
65歳でゲームやれるのか?
物語を楽しめるのか?
幸いにして、勉強も好きだ。勉強というか、科学?
宇宙とか良いよね。
それは何なのか。自分という些末な存在を、偉大な存在(宇宙)に位置付けるという作業、といえるかもしれない。抽象化。
Stable Diffusion
ステーブルディフュージョンという画像生成AIもここ最近(といっても数年前?)からはじめて、面白い。パソコンの性能があがったこともあって、XLモデルという新しいモデルで生成をためしてみた。レザージャケット・パンツの女の子。おへそは見せて、みたいなプロンプト。結構いい感じである。なんかコメントでお題いただいたら作ってみたいと思うのでお願いします(笑)。
画像生成AIも、自分で触ってみると、できることと、難しい部分とが分かってきて、そういうの楽しいね。なんかこうやって手を動かしていろいろやるのがやっぱり自分は好きな気がする。
評論家も楽しいんだろうけど、モノ創りというのがやっぱり楽しい性格気質なんだと思う。
生きる意味を考える
75歳になったとき、家族に囲まれて楽しい老後を過ごしている未来は、正直、ボクにはもうない。高校や、大学で知り合った友人と会うことももはやないだろう。
近所づきあいもしているとは全く思えない。
どこに住んでるのかも分からない。災害が少ない場所がいいけれども、そういう場所の住宅価値があがってしまっていて、危険な場所に住んでいるかもしれない。
でも、現金じゃなくても、資産は保持できるわけだから、身一つあればなんとかなるかもしれない。
75歳かぁ……。
今、30代だが、20年後とか30年後を考えたとき……。
たとえば、15歳の自分は、今の自分の状況を想像できていただろうか。
まったくできてなかったねー。
いやはや……いま考えてもよく頑張ってたと思う。えらい。若いころの自分。
とあるプロ野球選手が、大学時代寮で厳しい練習だったということで、5億積まれても戻りたいとは思えない、といっていた。
同じ気持ちだ。
5億……ならうーん……ちょっと考えるけど(笑)。
1億あげるから、10代のころに戻って1年過ごしてこい、と言われたら、正直いやだな。
いまの経験や思考や、能力をそのままもって、体力などは当時に戻ったとしても、いやだ。
冒頭に書いたが、どこの時代にも戻りたくない。
昨日は昨日で、仕事で23時ぐらいまでかかったし。
解決したが、解決しない可能性もあったことが非常にストレスだった。そういうことを、もう一度味わいたくない。
ああ、いやだ、いやだ……。
いやなことを思い出してしまった。
一方で、未来が明るいか、と思うと、それこそ、75歳になったら、もう色々衰えているだろうから、それはどうなの、って気もする。
75歳でしょう……? うーーーん。想像できぬ。
でも、75歳の人たち、生きてるから、きっと何とかはなるんだろうな。
今の75歳の人たちの話を聞きたい気もするが、ただ、それって、正直、参考になるかならないかわからないぐらいでしかない。
ボクが15歳のときの30歳の人の話と、ボクが今思っていることと、まったく違うと思うから。
結論なってみないとわからん。
先のことを心配しても、仕方がない。今を大事にしよう。
今を大事に
今日が、自分の中で一番若い日だ。何をしようが、時間は過ぎる。不可逆に。タイムリープとかワープものの物語には憧れるが、残念ながら、今生としては体験できることはなかろう。
今日、こうして、文章を書いている、その選択は、間違いではなかったと、未来の自分が思ってくれればそれでよいと思う。