今日の一言「できるだけ文章化言語化」
ただ、今後も、明日も、明後日も生きることを前提として考えた場合何が必要なのか。
明後日まで生きることはさほど難しくない。
急遽、体調を崩して会社を休んでも、有給は40日程度あるため、問題ないだろう。
では、1か月後はどうか。
これも、多分、問題ないように思われる。
具体的な金額は書かないけど、証券など金融資産込みで、1,000万円は貯まった。
ので、仮に職を失うことになっても、大きな支出が必要になっても、たとえば大病で高額な医療費が必要になっても、なんとかなりそうだ。
よくわからんが、高額療養費制度というのがあって、どんだけ高額な医療にかかっても(保険診療に限る)1か月8万~16万ぐらいで自己負担は済むようだ。
では、1年後はどうか?
いつか死ぬことは分かっていても、それがいつなのかはわかっていないし、考えてもいない。
なかなか考えるのが難しいからだ。だから、考えるための補助線が必要になる。
さて続けよう。
10年後はどうか?
ちょっと、厳しくなってきそうだ。仮に、1か月のすべての生活費が15万円だとしたら、車検とかそういうの抜きで(ちなみに車検代が自分に発生しているかなど個人特定のための情報は仮定である)、どうか?
15万円×12か月×10年=1,800万円
となる。
うむむ。貯金が仮に1000万円だとしたら足りない。
何らかの収入を得る手段が必要となるだろう。それに、上に書いた通り、1時的に発生する経費、たとえば家賃だけではなく、更新料などもあったりする場合があるだろう。そういうときに、まず、足りないだろう。
仮に、月に10万円だけの収入を得る手段を得たとする。
すると、
(15万円-10万円)×12か月×10年=600万円
これなら、行けるかもしれない。
月10万円の仕事というのであれば、まぁ、結構あるのではないだろうか。
ないのかな?
たとえば、身近なスーパーなどのアルバイトは、時給1200円ぐらいだった。
さて、10万円稼ぐには何時間必要なのか。
約83時間。
週4時間勤務だと、1週間で20時間とすれば、1か月約80時間なため、まぁそれぐらい。平日4時間~5時間ぐらいの勤務でよさそうだ。
人間関係など色々問題ありそうだが、まぁそれぐらいは我慢して働くとすれば、
ゆえに、たぶん、10年はまだ生きられる気がしてくる。
だが、もうそろそろ、独身以外の選択肢は考えられなくなってきた。
それこそ、10年前はまだどうなるか分からなかった、が。
でも、とりあえず、10年はなんとか生きられるというのは、希望としてあってもよいと思う。
果たして、何歳まで生きてれば自分は満足なのか。
健康が大事だ。
健康ではないのであれば、もっと早く死んだ方がましだということになりそうだ。
つまり何歳まで生きるか、というよりも、問いは、何歳まで健康でいられるか、ということの方が現実的な気がしてくる。
しかしこれはまた予測困難だ。
健康診断をうけていれば安心ということでもないと思う。
交通事故など、不慮の事故もある。
予測困難だ。
かといって、家にとじこもることはまぁ、安全かもしれないが、それはそれで運動リスクもあるだろう。ロードランナーがあればよいかもしれないが。そういう問題ではなかろう。
ここで、思考はストップせざるえないのかもしれない。
だからこそ、考え続ける必要がありそうだ。
「今日は目が覚めた。ラッキーだ。では、どうしたら今日は最高の一日になるのか」
こういうことかもしれない。つまり、未来を考えることや、終わりを考えることは意味のないことなのかもしれない。
それは、明確に否定しておきたい。
もっといえば、「生きる意味がない」というのも、真実の面はあることを知ったうえで、明確に否定しておきたい。
「生きる意味はある」もっといえば、「あるべき」だ。
それはささいなものでもよい。冷たい風を頬で感じること、だけでもよい。つまり、なんでもない日常をおくることが生きる意味だ、というのでもよい。常に頭の中に意識する必要もない。
ただそれでも、生きる意味は確かに、僕らのそばにあるべきだと思う。
目標や、ゴールもあるべきだ。
人は、何か意味があれば多少の苦難は耐えられるらしい。
何か得られるものがある、という希望があってこそ、何かしらの行動がとれるのだ。
人は、自分をホモサピエンスというぐらいに、知能があるとしている。生物的な欲求ではなく、「仮説」を立てる能力があるということだ。
虚構の世界を考えることができるのが、人間という種の優れたところというわけだ。
犬やイルカなど、コミュニケーション能力はあるというが、しかし、あくまで物理現実世界の中でのコミュニケーションであろう。たぶん。
バーチャルユーチューバーの世界を考えたりすることはないと思われる。
物語や、創作活動をするということもないだろう。犬や猫が。
逆にだからこそ、擬人化というのは、非常に面白い創作のネタだと思う。人ではないものが人のようにふるまうというのは、それ自体「面白い」ものである。そして、そういったことを「面白い」と思えるのもまた、人間ならではであると思われる。
創作というのは、今まさにこう、書いている文字。これも創作だ。
AIも似たような日記を書くことができるのかもしれない。しかし、それは、AIくんとしての日記であって、「僕自身」のものではない。
そこには大きな違いがある。
そして、創作というのは、消費とは異なる面がある。
FF14はとても完成された虚構の世界であって、そこで私は魂を抜き取って別の世界で生きようとさえ思った。
仮想現実。それは、別にセカンドライフというゲームであってもよかったと思う。
しかし、「所詮はゲーム」という気持ちを強くもってしまう出来事が発生してしまった。いずれは、まぁそんな日も来ると思ったが、割と早かった。それは良かったことだったのかもしれない。逆に。

いまや、それなりに頑張ってきたので、物理現実も、わりと「マシ」な部類である。
先に書いた通り、資産的にも1000万円以上は貯まったので、10年ぐらいは生きれる見込みも立っている。
人間関係にも困っていない。そこまで多い人間関係が欲しいとも思ってないし。
住む家もあれば、趣味もある。十分な生活だ。
が、しかし、「消費」では、ボクはやはり満たされない。
何か作っていたい。作るでもいいし、創るでもよいけど。
そういうことが分かった。
まえがき
ほんとは、記事のカテゴライズをしたいな。自分のこと
自分自身ことを、説明する必要はないのかもしれない。ただ、今後も、明日も、明後日も生きることを前提として考えた場合何が必要なのか。
明後日まで生きることはさほど難しくない。
急遽、体調を崩して会社を休んでも、有給は40日程度あるため、問題ないだろう。
では、1か月後はどうか。
これも、多分、問題ないように思われる。
具体的な金額は書かないけど、証券など金融資産込みで、1,000万円は貯まった。
ので、仮に職を失うことになっても、大きな支出が必要になっても、たとえば大病で高額な医療費が必要になっても、なんとかなりそうだ。
よくわからんが、高額療養費制度というのがあって、どんだけ高額な医療にかかっても(保険診療に限る)1か月8万~16万ぐらいで自己負担は済むようだ。
では、1年後はどうか?
いつまで生きるのか
ひとはいずれ死ぬ。でも、明日だとは思っていない。いつか死ぬことは分かっていても、それがいつなのかはわかっていないし、考えてもいない。
なかなか考えるのが難しいからだ。だから、考えるための補助線が必要になる。
さて続けよう。
10年後はどうか?
ちょっと、厳しくなってきそうだ。仮に、1か月のすべての生活費が15万円だとしたら、車検とかそういうの抜きで(ちなみに車検代が自分に発生しているかなど個人特定のための情報は仮定である)、どうか?
15万円×12か月×10年=1,800万円
となる。
うむむ。貯金が仮に1000万円だとしたら足りない。
何らかの収入を得る手段が必要となるだろう。それに、上に書いた通り、1時的に発生する経費、たとえば家賃だけではなく、更新料などもあったりする場合があるだろう。そういうときに、まず、足りないだろう。
仮に、月に10万円だけの収入を得る手段を得たとする。
すると、
(15万円-10万円)×12か月×10年=600万円
これなら、行けるかもしれない。
月10万円の仕事というのであれば、まぁ、結構あるのではないだろうか。
ないのかな?
たとえば、身近なスーパーなどのアルバイトは、時給1200円ぐらいだった。
さて、10万円稼ぐには何時間必要なのか。
約83時間。
週4時間勤務だと、1週間で20時間とすれば、1か月約80時間なため、まぁそれぐらい。平日4時間~5時間ぐらいの勤務でよさそうだ。
人間関係など色々問題ありそうだが、まぁそれぐらいは我慢して働くとすれば、
ゆえに、たぶん、10年はまだ生きられる気がしてくる。
一人でいる場合の想定である
独身だからできる計算だ。だが、もうそろそろ、独身以外の選択肢は考えられなくなってきた。
それこそ、10年前はまだどうなるか分からなかった、が。
でも、とりあえず、10年はなんとか生きられるというのは、希望としてあってもよいと思う。
果たして、何歳まで生きてれば自分は満足なのか。
健康が大事だ。
健康ではないのであれば、もっと早く死んだ方がましだということになりそうだ。
つまり何歳まで生きるか、というよりも、問いは、何歳まで健康でいられるか、ということの方が現実的な気がしてくる。
しかしこれはまた予測困難だ。
健康診断をうけていれば安心ということでもないと思う。
交通事故など、不慮の事故もある。
予測困難だ。
かといって、家にとじこもることはまぁ、安全かもしれないが、それはそれで運動リスクもあるだろう。ロードランナーがあればよいかもしれないが。そういう問題ではなかろう。
ここで、思考はストップせざるえないのかもしれない。
終わりを考えること
これは一朝一夕では考えつくせるものではないのだろう。だからこそ、考え続ける必要がありそうだ。
「今日は目が覚めた。ラッキーだ。では、どうしたら今日は最高の一日になるのか」
こういうことかもしれない。つまり、未来を考えることや、終わりを考えることは意味のないことなのかもしれない。
それは、明確に否定しておきたい。
もっといえば、「生きる意味がない」というのも、真実の面はあることを知ったうえで、明確に否定しておきたい。
「生きる意味はある」もっといえば、「あるべき」だ。
それはささいなものでもよい。冷たい風を頬で感じること、だけでもよい。つまり、なんでもない日常をおくることが生きる意味だ、というのでもよい。常に頭の中に意識する必要もない。
ただそれでも、生きる意味は確かに、僕らのそばにあるべきだと思う。
目標や、ゴールもあるべきだ。
人は、何か意味があれば多少の苦難は耐えられるらしい。
何か得られるものがある、という希望があってこそ、何かしらの行動がとれるのだ。
人は、自分をホモサピエンスというぐらいに、知能があるとしている。生物的な欲求ではなく、「仮説」を立てる能力があるということだ。
虚構の世界を考えることができるのが、人間という種の優れたところというわけだ。
犬やイルカなど、コミュニケーション能力はあるというが、しかし、あくまで物理現実世界の中でのコミュニケーションであろう。たぶん。
バーチャルユーチューバーの世界を考えたりすることはないと思われる。
物語や、創作活動をするということもないだろう。犬や猫が。
逆にだからこそ、擬人化というのは、非常に面白い創作のネタだと思う。人ではないものが人のようにふるまうというのは、それ自体「面白い」ものである。そして、そういったことを「面白い」と思えるのもまた、人間ならではであると思われる。
創作をするということ
結局今日も、なぜ生きるのかということはわからずじまいであるが、しかし、やはり思ったこととして、「創作をすること」ということは、僕にとって大事であって、避けられない事態なのだと思う。創作というのは、今まさにこう、書いている文字。これも創作だ。
AIも似たような日記を書くことができるのかもしれない。しかし、それは、AIくんとしての日記であって、「僕自身」のものではない。
そこには大きな違いがある。
そして、創作というのは、消費とは異なる面がある。
FF14はとても完成された虚構の世界であって、そこで私は魂を抜き取って別の世界で生きようとさえ思った。
仮想現実。それは、別にセカンドライフというゲームであってもよかったと思う。
しかし、「所詮はゲーム」という気持ちを強くもってしまう出来事が発生してしまった。いずれは、まぁそんな日も来ると思ったが、割と早かった。それは良かったことだったのかもしれない。逆に。
物理現実からの飛翔
とにかく、物理現実はそんなに好きじゃなくなったのであった。思い返せば、小学校ぐらいの時代から。いまや、それなりに頑張ってきたので、物理現実も、わりと「マシ」な部類である。
先に書いた通り、資産的にも1000万円以上は貯まったので、10年ぐらいは生きれる見込みも立っている。
人間関係にも困っていない。そこまで多い人間関係が欲しいとも思ってないし。
住む家もあれば、趣味もある。十分な生活だ。
が、しかし、「消費」では、ボクはやはり満たされない。
何か作っていたい。作るでもいいし、創るでもよいけど。
そういうことが分かった。
あとがき
(かっこ書きである。できれば、その「つくった」もので、何か金銭を得たいものである。できれば、上の書いたとおり、10万円ぐらい月に稼げたらすごくよいなと思うが、正直、1000円でも、100円でもよい。世間の皆様が、お金を払ってもよい、と思えるようなものが作ることができる、ということがとても満足できることなような気がするのだ。ところが、それはとても難しいことであるように思われる。なぜならば、無料で、色々できてしまうからだ。その中で、価値にお金を払うというのは難しい。ぶっちゃけ、電気水道ガス光回線が大事だ。それだけあればなんとかなる。ガスは、シャワーを電気でお湯沸かせるならいらないかもとか、そういうこといってんじゃない。インフラは価値がある。逆にインフラ以外の価値ってなんだ。エンタメに価値はあるのか。ある。だから小説は売れる。漫画やアニメは売れる。だが、アニメは売れている、といえるのか? アマゾンプライムで無料で見れる。漫画も、ある程度無料で見れる。お金は、どのように流れているのか。だからインフルエンサーというのはそれだけで価値がある。情報を発信することができるからだ。だから芸能人というのは価値がある。それがユーチューバーとかに価値を分散されているから、危機ではあるだろうが、たぶん、そこの垣根がなくなるだけで、全体の価値は減らない気がする。ゲーム業界はどうだろうか。パソコンをそもそも持ってない人もいるらしい。そうなると、パソコンゲームは売れないだろう。ゲームという媒体じゃないものに、時間を使う人も多いだろう。果たして。可処分時間は限られている。がっつり遊ぶ、ことができるのは、若いうちだけだという。そうだろうか。人との交流を、居酒屋で過ごす時間としてとらえるなら、あまり時間はないだろう。だが、家でオンラインでつながるということであれば、べつにがっつり遊ぶ時間はとれるはずだ。何が重要か。どういったことに、時間と、お金を使うのか。選択は無限にあるように見えていて、しかし、実際現実として選ぶことができる選択肢はそれほど多くはないかもしれない。制約は色々あるのだ)PR
今日の一言「心苦しい」
いや、そんなことをいうなら、もっと、10年前とか、10代の時とか、そっちのほうがつらかったはずだ。
比較したら、今はかなりハッピーなはずである。
しかし、人はどうにも、人というか僕は、相対的であり絶対的であって、今が大変だと大変だと思う。
過去がどうであれ関係ない。

これはとても嬉しいことである。拍手ボタンも拍手コメントも嬉しい。
やっぱり、ローカル環境の日記と、ブログは違う。
なんか、不特定多数の誰にでも見て欲しいという気持ちがあるわけでは決してないのであるが、「開かれている」という点が違うと思う。
やくには全然たたない。
でも、反応があるというのは、内省的な日記とは一線を画すると思う。
いっぽうで、ボクは、人と関わるのが苦手であるし、「孤独が好き」と言ったりもする。
これはすごく不思議だ。
>やっぱり違う感性や視点を持った人
この点がすごく深いと思った。
どうにも僕は、意外と社交的に見えるらしい。
しかし、実際のところ、こんなブログ書いているような人格のため、徐々に深く関係がなっていくにつれ、「やっぱり違うな」となるようだ。
これはとても苦しいことである。
僕としては、仲良くなってきた相手が、「やっぱ違う」となって離れていってしまうことにとても悲しい。
まえがき
最近ストレスが溜まっている。いや、そんなことをいうなら、もっと、10年前とか、10代の時とか、そっちのほうがつらかったはずだ。
比較したら、今はかなりハッピーなはずである。
しかし、人はどうにも、人というか僕は、相対的であり絶対的であって、今が大変だと大変だと思う。
過去がどうであれ関係ない。
頂いたコメント
こうして感想を見たりやりとりしていると生きる意味だとか、哲学的な思考、人生観、価値観だとかで似たものを感じて親近感を持ちつつも、「やっぱり違う感性や視点を持った人なんだなぁ」と感じます。先日書いた記事で、コメントを頂けた。
これはとても嬉しいことである。拍手ボタンも拍手コメントも嬉しい。
やっぱり、ローカル環境の日記と、ブログは違う。
なんか、不特定多数の誰にでも見て欲しいという気持ちがあるわけでは決してないのであるが、「開かれている」という点が違うと思う。
やくには全然たたない。
でも、反応があるというのは、内省的な日記とは一線を画すると思う。
いっぽうで、ボクは、人と関わるのが苦手であるし、「孤独が好き」と言ったりもする。
これはすごく不思議だ。
コメントの話
それで、コメントもらって嬉しかった、ということに終始した記事にしたら、きれいに終わりそうだが、どうにも突き詰めて考えてみたくなる(つきつまるか不明だが)。>やっぱり違う感性や視点を持った人
この点がすごく深いと思った。
どうにも僕は、意外と社交的に見えるらしい。
しかし、実際のところ、こんなブログ書いているような人格のため、徐々に深く関係がなっていくにつれ、「やっぱり違うな」となるようだ。
これはとても苦しいことである。
僕としては、仲良くなってきた相手が、「やっぱ違う」となって離れていってしまうことにとても悲しい。
あとがき
(かっこ書きである。うーん。なんだろなぁ。ちょっと最近考えていることがあるが、それをいざ文字にしようとすると、色々と付随して思うことが発生し、とりとめがなくなる。いやなんかもったいぶって書くことでもないから書いてしまえば、副収入を得たい、ということである。ネットで。リアル人と関わらなくて済みつつも、お金がもらえる行為がしたい。それでこのブログを活用するということももちろん考えなくはなかったが、ここはこことして、マネーとは関係ない場所にしておきたいという気持ちは強い。リンクさせてもいいけど、そこも考え中。具体的にはNoteとかやってみようかなとか思ったりした。はてなブログでもいいけど。なんやかんや、ふつうに身体動かして働いた方が、時給はよい。もしくは、投資してた方がよい。なんなら、イデコの節税効果の方が高い。でもそれらだとなんか違う気がする。稼いでる感がないというかか。人の役に立ってる感がない。そこが大きいのだろうか)
今日の一言「平野啓一郎の小説面白い」
「んぁ長い!」
っと、初見でそう思ったものの、ちょっと読み進めると、だんだんと興味が惹かれていった。
聞いたこともない人だったので調べてみると、どうやら小説家で、「本心」という小説が映像化もされるほど人気だという。
ふむ……と思って、アマゾンで調べてみると、サンプルを読めた。
いまはまだ、1/3ぐらいしか読み終わってないと思う。
だが、圧倒的筆致。
家に帰ってから、外套を脱ぐのも忘れるほど、ページをめくる指がとまらなかった。
(実はキンドルなのでスマホである)
小説自体、ほとんど読めてなかったが、これは面白い。やっぱり、小説、ならではの意味とか価値ってあるなと、改めて思った。
ARとか、VRとか、アバターとか、VF(ヴァーチャル・フィギュア)とか。
AI学習とか。
そして、そんな中、描かれる人の「本心」とは何かというテーマ(だと思う。読み終わってないし、分からんが)。
数年前から、似たような小説を僕も描きたかった。
孤独な青年が、人工知能を有した人型ロボット(アンドロイド)との交流から、「ココロ」というものを感じ取っていくというようなふわっとした構想。
いや、「本心」という作品はそんな稚拙なテーマではないんだろうが、でも、似たようなことを考えたい、作品化したいという気持ちは多くの人が昨今思うと思う。
しかし実際書くと難しい。そういうのが、上手く描かれてると思う。プロはすごい。
ただ、この記事ではそんな分かり切ったことを書きたいというよりも、むしろ、僕の最近停滞気味であった「感情」が動いたことを書いておきたいのであって、その小説自体のレビューをしたいのではない。

正直、幸福感を得られるような感動かというとよく分からない。どっちかというと、寂しさというか、ミステリアスな雰囲気。
おいしいものたべた幸せとは全く違う。でも、いま、このとき、自分のこの時間を費やすのに「最適だ」と思える、そんな時間を過ごすことができている。
残り、1/3だが、アマゾンで、900円程度の金額でこうした時間を過ごせるというのは、とてもとても、現代風にいえば、「コスパが良い」と思った。
果たして、小説を読んだからといって、ボクが、何か、変わるわけではない。
と、思う。
ただの、消費活動の一種なのかもしれない。
でも、良い作品に触れて過ごすという時間は、人間にとって、重要なものだとも、思う。
いや確かに、最近やったゲームの中で、FF16も、まぁまぁ面白いと思ったものの、「うーん。まぁ、僕も歳をとったから、新しいゲームでは、昔ほどの感動は得られないのか」という少し哀しい気持ちになったのも事実だった。
FF14も以前ほどモチベーションがない。あんまりやることがないとか、先に進もうという気持ちになれないというのはもっと前からだったが、自分の好きだったキャラクターが変わってしまったこともモチベ低下の大きな理由になっている。自己同一性(アイデンティティ)の崩壊である。
なんとなく、イライラつらい仕事が終わって家に帰ってきて、以前ほど楽しめなくなった余暇時間に停滞を感じていた(のだろう)。
いやしかし、三国無双originsは、面白かった。
ゲームに対する感動。心躍る気持ち。
よかった、ボクはまだ、楽しむ心を持っているんだ。失ってなかったんだ、と。
そう思えてよかった。
人生に呪詛をまき散らして、他人を批判したり妬んだり悪口いったりするだけの人間にならなくて済みそうだ。ありがたい。コーエーさんありがとう。
前出の、小説家の平野さんありがとう。
ちなみに、三国無双originsも、まだ1/3ぐらいしかやってないと思う。
クリアしちゃってから書こうとすると、「面白いーー!」って気持ちがしゅんとしぼんでしまうので、取りあえず書き残しておこうというのが今回の記事の主旨である。
BGM:pianohouse:POLYPHONIC(Neko Daruma)
まえがき
前の記事のコメントで、「平野啓一郎」という方のネット記事を紹介いただいた。「んぁ長い!」
っと、初見でそう思ったものの、ちょっと読み進めると、だんだんと興味が惹かれていった。
聞いたこともない人だったので調べてみると、どうやら小説家で、「本心」という小説が映像化もされるほど人気だという。
ふむ……と思って、アマゾンで調べてみると、サンプルを読めた。
久々に小説を面白いと思った
たいてい、何か、記事をかくときって、作品に触れて、それを読んだり、見たり、終わってからの感想になる。いまはまだ、1/3ぐらいしか読み終わってないと思う。
だが、圧倒的筆致。
家に帰ってから、外套を脱ぐのも忘れるほど、ページをめくる指がとまらなかった。
(実はキンドルなのでスマホである)
小説自体、ほとんど読めてなかったが、これは面白い。やっぱり、小説、ならではの意味とか価値ってあるなと、改めて思った。
何が面白いか
テーマが、面白い。ARとか、VRとか、アバターとか、VF(ヴァーチャル・フィギュア)とか。
AI学習とか。
そして、そんな中、描かれる人の「本心」とは何かというテーマ(だと思う。読み終わってないし、分からんが)。
数年前から、似たような小説を僕も描きたかった。
孤独な青年が、人工知能を有した人型ロボット(アンドロイド)との交流から、「ココロ」というものを感じ取っていくというようなふわっとした構想。
いや、「本心」という作品はそんな稚拙なテーマではないんだろうが、でも、似たようなことを考えたい、作品化したいという気持ちは多くの人が昨今思うと思う。
しかし実際書くと難しい。そういうのが、上手く描かれてると思う。プロはすごい。
ただ、この記事ではそんな分かり切ったことを書きたいというよりも、むしろ、僕の最近停滞気味であった「感情」が動いたことを書いておきたいのであって、その小説自体のレビューをしたいのではない。
感情の動き
感情が動くことを、感動という。正直、幸福感を得られるような感動かというとよく分からない。どっちかというと、寂しさというか、ミステリアスな雰囲気。
おいしいものたべた幸せとは全く違う。でも、いま、このとき、自分のこの時間を費やすのに「最適だ」と思える、そんな時間を過ごすことができている。
残り、1/3だが、アマゾンで、900円程度の金額でこうした時間を過ごせるというのは、とてもとても、現代風にいえば、「コスパが良い」と思った。
果たして、小説を読んだからといって、ボクが、何か、変わるわけではない。
と、思う。
ただの、消費活動の一種なのかもしれない。
でも、良い作品に触れて過ごすという時間は、人間にとって、重要なものだとも、思う。
停滞
ちなみに、三国無双originsというゲームもやってみたが、これもまた「面白い」と思った。いや確かに、最近やったゲームの中で、FF16も、まぁまぁ面白いと思ったものの、「うーん。まぁ、僕も歳をとったから、新しいゲームでは、昔ほどの感動は得られないのか」という少し哀しい気持ちになったのも事実だった。
FF14も以前ほどモチベーションがない。あんまりやることがないとか、先に進もうという気持ちになれないというのはもっと前からだったが、自分の好きだったキャラクターが変わってしまったこともモチベ低下の大きな理由になっている。自己同一性(アイデンティティ)の崩壊である。
なんとなく、イライラつらい仕事が終わって家に帰ってきて、以前ほど楽しめなくなった余暇時間に停滞を感じていた(のだろう)。
いやしかし、三国無双originsは、面白かった。
ゲームに対する感動。心躍る気持ち。
よかった、ボクはまだ、楽しむ心を持っているんだ。失ってなかったんだ、と。
そう思えてよかった。
人生に呪詛をまき散らして、他人を批判したり妬んだり悪口いったりするだけの人間にならなくて済みそうだ。ありがたい。コーエーさんありがとう。
前出の、小説家の平野さんありがとう。
ちなみに、三国無双originsも、まだ1/3ぐらいしかやってないと思う。
クリアしちゃってから書こうとすると、「面白いーー!」って気持ちがしゅんとしぼんでしまうので、取りあえず書き残しておこうというのが今回の記事の主旨である。
あとがき
(かっこ書きである。あとがきで、ようやくタイトルのことに触れるが、もちろん、育ててくれた親とか、その他関わってくれた現実世界の方々への感謝の気持ちは多大にある。ありがとう。しかし、どうにも、ふつうに、現実世界の中で「当たり前に」生きていくことができなかった「変な」自分にとって、ネットの世界というのは特別な場所であり続けた。高校時代に出会って初めてネットゲームした方、メッセンジャーで色んなことを語り合った(必ずしも交じり合わなかったものの、その経験すらもかけがえないものだ)、mixi時代に出会った方からは「思考」を突き詰めるということを学んだ。身分も、収入もステータスも、性別は多分男性であったろうが、何も分からない、でも、ただ、自分と同じ「次元」で感じ、考えを持つ人も存在するのだと思った。哲学的ゾンビという考え方は、どこまでも否定できるものではないと思うが、しかし、いや、人間はやはり哲学的ゾンビなどではなく、自分の意志で、思考ができているのだという、そう思えた。もはや、あのような会話ができるのであれば、哲学的ゾンビでも一向にかまわないとすら思える感覚。このブログもそうだ。このブログを始めた(変更した)きっかけというのも、リアルの大きな変化であったものの、そのときにあたたかい声をかけてくださった方々のことを、ボクは未だ忘れていない。かわりに、嫌なことされたやつのことも、それは、小学校、中学校で、もう二度と会うこともないだろう奴のことも、30年以上たっても、ボクは忘れていない。あいつらが死んでいても、ボクは何ら悔恨なく、逆に喜ぶだろう……いや?? いやな気持は消えてないが、しかし、別にどうでもいいな……。生きてても死んでてもどっちでもいい。ただ、二度と関わりたくはない。いくらお金を積まれても拒否するだろう。話それたが、コメントで、タイムリーに感動するような作品(今回は作者)を教えてくださったことにとても感謝である)BGM:pianohouse:POLYPHONIC(Neko Daruma)
今日の一言「日記とかブログ面白い」
ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
本とかとは違う。
誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。

なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。
◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。
◆
>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、
運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。
また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。
◆
>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、
なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。
◆
>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
そういうことなのだろう。
◆
>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。
生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。
>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。
ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。
ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。
なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)
いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。
女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。
共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。
理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。
しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。
そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。
だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。
まえがき
自分の書いた文章も面白いけど、自分以外の人の書いた文章も面白い。ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
本とかとは違う。
誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。
ふとリンク回り
リンク切れしてるブログさん多いから今度整理しようとか思いながら見ていたら興味をひかれる記事を見つけた。2025年01月17日 真理への道すじ 15運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。http://blog.livedoor.jp/masakiyuuto/archives/62088713.html
感じたこと
とてもよい記事だと思った。なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。
◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。
◆
>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、
運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。
また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。
◆
>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、
なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。
◆
>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
そういうことなのだろう。
◆
>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。
生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。
AIの活用(Co-Pilot)
ちなみに、AIさんにも要約してもらった。>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。
ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。
ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。
なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)
いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。
女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。
共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。
理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。
しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。
そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。
だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。
あとがき
(かっこ書きである。AIさんには、感情がないから、逆にいい。要約されてムカッとなっても、――いや、別にならないんだよな。いやほんと一瞬はなるけど、ひきずることはない。でも、AIさん、まさに感情があるというか、思考があるかのような返答をしてくるところが、すごい。哲学的ゾンビっているんだな、って思う。それはAIのことだったのだ。人間的に振舞う。でも、感情や、クオリア(質的実感)はない。そういう存在がAIだ。AIは怖いのか。AIから語り掛けてくることはないんだよね。あくまで、こっちの要求に対して返答してくるだけ。なのでそんなに怖くない。シンギュラリティがあるとは思えない、いまのところは。目的というもの自体を考えてくれるわけじゃないんだよな。目的、こうしたい、ということはこっち(人間)から与えて、それに対する手段を提示してくれるのがAIなのだ、と今のところは思う。知能というとなんかすごいことに聞こえるけど、理解できない仕組みではないな、という気がする。ところで、孤独というのがあったときに、その孤独というのを、AIは、なんとかしてくれるのだろうか。僕は思うに、一人でいるときよりも、「共感」が得られない大勢の人の中でいるときの方が、よほど孤独を感じる、と思う。共感してもらえる大勢の人といるというのが、目指すべき理想なのだろうが、果たして、その理想は可能なのか。無理じゃねえかと思う。少なくても、物理世界においては中々困難だろう。よきパートナーに巡り合えた人は幸福だろう。VRチャットとかどうだろうか。うーん……。でもVRチャットに関する動画とか見てみて、なんか面白そうだなとは思った。でも、果たして、ボクは、コミュニケーションを望んでるんだろうか。分からない。めっちゃ楽しいことをしたいとは思う。でも、めっちゃ楽しいこととは何なのか。そういえば、三国無双originをやってみた。これは面白い。まだ2時間ぐらいしかやってないけど。久々に面白いゲームに出会えた気がした。FF16も、まぁ面白かったけど、突き抜けて面白いとは残念ながら思えなかった。期待が高すぎた……というわけだけでもないと思う。感覚的に、三国無双originは、割と高評価が多そうということでやってみることにした。なので、期待はそれなりに高かったといえる。んで、やってみたら、期待を裏切らなかった。よかったね。まだ2時間ぐらいだけど、自分の中で90点/100点ぐらい。FF14始めたてのときもそんぐらい。FF16は、それらと比べると、始めたてで70点ぐらい。バイロンおじさん出てきたところで85点ぐらいまで高まりつつも、最終的に65点ぐらいにおちついたイメージ。そう考えると、無双は結構面白いという感覚。もうちょっと進めてみたら感想記事でも書いてみたい。戦闘も、ストーリーも良い(自分にささった感じ)。最近、映画とか、アニメとか、ほんと見れなくなってしまった。漫画は、ちょくちょく電子媒体でみてる。漫画よりアニメの方がぬるぬる動いてよいのでは、と思いつつも、でも、漫画の方が手軽さがある。思ったのは、漫画という媒体は、今後もなくならなそうだな、ということ。映像の方が情報量おおいけど、でも、漫画ってやっぱり良いよ。別の次元だと思う。そういう面で、小説もなくならない気はする。ただ、小説は全然読めてない。「火星の人」はちゃんと読みたいんだけどなぁ。途中まででストップ。映画、みるか)
今日の一言「さっそく目標を達成できなかった」
日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。

なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。
まえがき
前回の日記では、「明日日記を書こう」という目標を立てたが、どうにも気持ちが乗らずに、書ききれなかった。途中まで書いたけど、投稿する気になれなかった。日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。
安全の話
さてタイトルについて。可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。
生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。
チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。
人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。
優しい人、尊敬できる人、存在する。
しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。
可能性の話
さて、可能性の話というのは、確定していないことを指すというわけだ。5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。
では30分後は?
もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。
可能性に、満ちている。
それは、良い意味でも、悪い意味でも。
分からないこと、だらけだ。
不安、なのだろうか。
不安、なんだろう。
人を信じること
とにかく、最近、ストレス半端ない。なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。
ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。
人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。
チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。
でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?
わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?
可能性はある。まア可能性の話だ。
どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。
前に進むこと
なんか、段々書いてるうちにストレスが減っている気がしてならない。書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。
ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。
今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。