今日の一言「生兵法は大怪我のもと」「でも例えば肩こりは病院じゃ治らないでしょ?」
神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
こんな感じで分かれているという。
なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
神経症と精神病の違い
神経症とノイローゼは、同義語である。神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
認知症(血管性など):血管性及び詳細不明の認知症
認知症(アルツハイマー病):アルツハイマー病
統合失調症など:統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
うつ病など:気分[感情]障害(双極性障害を含む)
不安障害など:神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害
薬物・アルコール依存症など:精神作用物質使用による精神及び行動の障害
その他:そのほかの精神及び行動の障害
厚労省患者調査こんな感じで分かれているという。
離人症とか境界性パーソナリティ障害とか
一時期、どうにも、やる気が起きなかったり、無気力感に襲われてどうにもならない時期があった。なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
内因性の問題と自助努力
まぁ、心理カウンセリングでも、精神療法でもどちらでも良いが、問題は、結局それは、薬や手術によって解決するものではなく、患者自身の取り組みが必要になる点である。肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
問題解決と治療
病気、とは、健常の対義語である。つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
生きがいの治療
生きる意味どこにあるのよ症候群の治療に対しては、人間とは何か、自分とは何か、生きるとは何か、ということを、自ら追い求め見つけていく必要がある。これが、実存分析とロゴセラピーということである(※)。まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
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私も自分を理解しようという試みは長いことやってきた。でも、未だに自分を理解できない。これはどういうことなんだろうか?
自分がどういう人間で、何を求めているのか、何のために生きているのか、さっぱり分からない。
今、この記事を読んで少し考えてみたんだけど実は結構簡単な事なんじゃないかと思った。
理解できないのは当然で、自分の大部分が大きく変化するが故に解釈・定義するのが困難なんですよ。変わらない部分もあるけど、それが自分を自分たらしめているほど決定的な要素かといわれると(少なくとも私の場合は)、そうではない。その変わっていない部分についても、自分を定義するにはなんとも頼りないおぼろげなものに思えるんですよね。
だから、「自分は変化し続ける」ために自分について理解できないと感じるのだと思いました。