今日の一言「連載の二つ目」
上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
ということを書いた。
さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。
本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。
ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。
そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。
話がそれた。動機主義である。
動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。
せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。
欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。
お金が欲しい。
美味しいものを食べたい。
女(男)が欲しい。
車が欲しい。
家が欲しい。
称賛が欲しい。
名誉が欲しい。
楽をしたい。
煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。
企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。
CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。
いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。
書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。
というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。
んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。
ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。
一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?
そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。
さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。
ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。
そうなのかもしれない。
でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。
次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。
(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)
前回のあらすじ
――生きる意味を徹底して考える(1)上のとおり、
・生きる意味はあろうがなかろうが、そこが問題じゃない
・考えなければ生きていけない
・人生の意味には、役割ベース、モチベーションベース、インスピレーションベースの3つがある
・役割ベースの生き方はつまらない
ということを書いた。
さて、役割ベースの生き方を取り敢えず否定したわけだが、今度は、「モチベーションベース」の生き方について書いていく。
モチベーションベースの生き方
モチベーションベース。動機に基づいた生き方ってことである。本来的に、みんなモチベーションベースの生き方をしているとは思う。ただ、忙しさにかまけて、周りが見えなくなっている場合にのみ、「役割ベース」の生き方になっている場合があるのである。
ちなみに、役割ベース……別に絶対だめだといってるわけじゃない。というより、昔……それは、昭和とかそれだけじゃなくて、封建時代とか神権政治時代とか、歴史的にみたら往々にしてそういった時代ばっかりだったわけである。
士農工商なんて小学生並みの例を挙げるのは恥ずかしいが、それぞれ身分があった時代は、「自分らしい生き方」なんて考えられる土台がそもそもなかったのである。
そう考えると、19世紀の実存主義の興りというのは、とても大事なことだったといえる。
脱線するが、それは西洋からしてのことであり、古代インド・紀元前5世紀ぐらいではそもそも、ゴウタマ・シッダールタさんが、「人生ってそもそも苦しみじゃない?」とか言い出していたのである。
話がそれた。動機主義である。
動機とは何か。正しい説明を知りたい方は、「人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること」こっちを見てもらうとして、僕的解釈をすれば、「欲望」である。
せっかちに、先回りして書いてしまうと、この後の話の流れとして、「欲望はまた苦しみの源泉である」ということに触れようとは思うのだけれども、まずは、「欲望をもつことが重要だ」という主張をする。
欲望と聞くと、たびたび、よくないものだという認識が生じる。煩悩という言葉に置き換えてもよいかもしれない。
お金が欲しい。
美味しいものを食べたい。
女(男)が欲しい。
車が欲しい。
家が欲しい。
称賛が欲しい。
名誉が欲しい。
楽をしたい。
煩悩まみれの人間なんて、かっこ悪いと思われがちだ。
でもそんなことはない。欲望こそが、人の行動の源泉である。
企業の営利活動とは何だろうか。人の欲求を満たすものである。
もう一方、「面倒なことを解消する」ことである。
CSRとかいって、環境とか社会活動に貢献することも重要視されたりもするのだろうが、結局、第一優先は、資本主義社会・競争社会において、その企業が生き残ることである。生き残って利益を生むことができるから、その利益を社会貢献に使えるのである。そしてその行為が、投資家や消費者に対しての付加価値になるのである、だから社会貢献するのである。
いやいや、人の「倫理観」を根こそぎ否定するのではない。しかしだ、これは僕が勝手に思っているだけなのだが、人は根源的に利己的な存在であると思っている。この「利己的」というのは、「他人のために為すこと」も含めて考えている。他人のために為すために、自分が存在して、その他人が喜ぶ姿を見て「利己的に」喜ぶのである。――といった解釈を書いたり言ったりすると、まずもって友人や恋人はできないから注意するように(誰に言っている)。
書いておかねばならないのは、別にそのことが、悪いことでも、偽善だとして断罪しようというのでもない。それはそれで素敵なことだ。自分の食欲を満たすのではなく、他者にパンを与えるという行為。それが己の倫理観に従ったものであるというのは、人間という存在の崇高さを物語っているではあるまいか。
というわけで、すべての人間の行為は、欲望からなっていると言ってよい。悪いことをしてしまうのもまた欲望のせいだとしても、良いことをなしたいと思うのも、それはまた欲望であるのだ。
んでもって、その欲望に従って生きるということ、「自分がやりたい!」と思うことと、現実とを一致させていくということ。それがモチベーションベースの生き方である。
動機ベースの生き方の欠点
確かに、このモチベーションベース(タイプするのが大変だから、以後「動機ベース」と統一する)の生き方には、役割ベースの生き方の焦燥感、強制感に比べたら、人間礼賛・個人賛美の美しさがある。ところが、この動機ベースの生き方も万能ではない。
一つは、上に書いたけれども、「現実と、自分の動機との整合性」をとる必要があることだ。前の記事で書いたが、「現実と理想との乖離を少なくすること」が幸せを感じるためにも必要であるというのと関連する。
いっくら熱い情熱を燃やしていても、我々の世界は魔法あふれるファンタジー世界ではないのだから、無理なことは無理なのだ。「すぐ入れますよ、お安くしときますよ」とか言っていい店だったことがないのと同じだ……いやそれは違うか。
もう一つは、その動機も、必ずしも長続きするとは限らないということである。
前回の記事のカッコ書きあたりで書いた気がするが、「楽しくゲームするために生きるんだ!」という情熱を燃やして、頑張って勉強して良い高校に入ったかもしれないが、そんな動機で長続きするわけないのである。何故かというと、人生の困難・障害ってのは、なっかなか激しいものだからだ。
確かに、一時的な快楽を得る方法はたくさんあるだろう。しかし、それらが、今後も続くであろう人生の艱難辛苦とシーソーゲームを繰り返すとしたら、十分に希望を見出すことができるのだろうか?
そして、いま僕が立っているのが、ここでもある。
なんだか、いろいろ、実感がわかない。意欲がわかない。
さぁどうするか。そこで颯爽と登場するのが、「インスピレーションベースの生き方」である。
インスピレーションベースの生き方
ただ、このインスピレーションベースの生き方というのは、横文字がなんだか定着しない感があるのはそのとおり、明確に「これだ!」という定義があるわけではないのだ。そもそも、インスピレーションとは、「突発的に降ってきたアイディア」的な意味である。(アイディアとは、よくよく考えた結果であることが多い)。霊的な……という意味も入ってくると、どうにもうさん臭さを感じたりもする。ただ、この三つの生き方を提示している本というか、その記事において言わんとすることは、何となく分かる。それは、「ライフワーク」に関する部分である。以下に少し引用する。
(ライフワークとは)必ずしもそれは職業で表されるわけではありません。あなたがそれをやっているだけでワクワクできたり、楽しくなったりするような活動です。それが、ライフワークだと考えてください。ライフワークとは、あなたがそれをやっているだけで深い満足感を得たり、自由な感じがしたりする活動です。自由に自分の才能を分かち合えたら、それだけでやめられないような楽しい感覚を持つことになります。――ライフワークを始めようそう。これである。僕が今、一番重要視していること、探さなければいけないと思っているのはこの、ライフワークなるものである。
先日僕は、「生きる意味がないなら、結婚して子どもをつくって育てればよいのだ」という意見を聞いた。
「やっぱり……そうなのかなぁ、究極、人間だって生物なのだから、子孫繁栄が第一命題なのかなぁ」と思った。
そうなのかもしれない。
でも、僕の、ワクワクして、それをやってるだけで満足感がえられて、自由な感じがする活動ってのは、本当にそれなのだろうか。
次回、ライフワークを探すために今後していくべきことについて考えるとする。
(かっこ書きである。いつも普段の記事は、ゼロ秒思考で……それって思考っていうの? というほどに、指が自動筆記している。今回の連載記事は、非常に考えている。ものすごい時間を要している。その割に推敲の時間はほとんどないのであるが……。)
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コメント
白銀さんこんにちは! コメントありがとうございます。
>人間は明確に思考というものを手に入れ、かつそれを他者に伝える術、表現し内から外へ発信する術を持って、コミュニケーションによる文明と社会を発展させてしまいました
「しまいました」という表現、私、好きですよ(笑)。発声による情報伝達は人間以外の生き物も持っているわけですが、抽象的な概念を表現すること――思考をもってしまったことが、人間であることの特殊性なんでしょうね。それが他の生物と比較し良い悪い、優れている劣っているとかそういう次元じゃなくて、そうでしかありえないのだと、そう思っておりますです。
>自分が納得できる生き方をいかにして見い出すか、飲み込むか。「他者があれこれ言ったところで、最終的には本人次第」、と言ってしまえば突き放すように聞こえますが、逆を言えば「他者の意見に左右される必要もなく、自分なりの解釈判断で十分」とも言えるわけで。
そうなんですよね~。生まれたとき・死ぬときは一人とかそういった次元だけじゃなくて、白銀さんの書いてくださった意味でも、人は孤独な生き物だなぁと思うこともありますです。
それでいて、どこまでいっても人は「社会的」でもあらねばならない。なんとも因果で業の深い生き物だなぁと思いますです。
>そう考えれば、悩み続ける生き方も、悩みを避ける生き方も、どんな生き方だろうと否定する必要もないかななんて思ったりもします。(犯罪に至るような生き方とか過度に他者を害する生き方は糾弾されてしかるべきだとは思いますが)
ありがとうございますありがとうございます。社会的な生き物である以上、人との関りはなくせませんので、迷惑をかけてしまうことも避けられないと思いますが、「過度な害」は及ばしてはならないと思いますね。話しが若干それますが、最近、通勤途中で歩きたばこをしやがる奴らがおりまして、非常に迷惑しております。それってのは僕にとっては大分「害」なわけですけれども、本人たちにとってはきっと「え、それぐらいで?」と思うことかもしれません。歩きスマホ(こっちが注意してよけりゃあよい)なんかより、よほどたちが悪い(煙からは逃れられない)と思うのですけれど。つまり、その「過度の害」のレベルってのがその時、その時代、周りの環境や人などによって変わったりする……それが結構な速度で変化するというのが、どうにも面倒な世の中だなぁと思ったりしたり。
>そういえば(自分のことは棚にあげて)AIロボットの話の続きも気になってまーす。
ゴフッ(水でむせる音)。
読んでくださっていたとは! ありがとうございますありがとうございます。最近別の作品を書いていたせいか、そっちの投稿が全然できておりませんでした。既存投稿分の倍ぐらいはストックしているのですが、その先のストーリーというか結末が思い浮かばず止まってしまっている状況でした。しかしありがとうございます、ちょっとまたやる気が復活しました!(笑)
>自ブログでの今の連載がそろそろ終わりを迎えそうなんですが、次の連載、アレにしちゃってもいいですか?
アレとは「遠藤→白銀さん」に送った奴でしょうか? 「白銀さん→遠藤」に頂いた奴でしょうか? 後者は今の連載されている奴だと思うのですが……もし前者のことだったら、是非とも私も読んでみたいのでお願いします!(違う件でしたらお恥ずかしいですが、そっとメール等で教えてください(笑))
……と、いいますか、今の連載終わってしまうんですか?! もっと二人(?)の活躍が読みたかったのですが……。
>人間は明確に思考というものを手に入れ、かつそれを他者に伝える術、表現し内から外へ発信する術を持って、コミュニケーションによる文明と社会を発展させてしまいました
「しまいました」という表現、私、好きですよ(笑)。発声による情報伝達は人間以外の生き物も持っているわけですが、抽象的な概念を表現すること――思考をもってしまったことが、人間であることの特殊性なんでしょうね。それが他の生物と比較し良い悪い、優れている劣っているとかそういう次元じゃなくて、そうでしかありえないのだと、そう思っておりますです。
>自分が納得できる生き方をいかにして見い出すか、飲み込むか。「他者があれこれ言ったところで、最終的には本人次第」、と言ってしまえば突き放すように聞こえますが、逆を言えば「他者の意見に左右される必要もなく、自分なりの解釈判断で十分」とも言えるわけで。
そうなんですよね~。生まれたとき・死ぬときは一人とかそういった次元だけじゃなくて、白銀さんの書いてくださった意味でも、人は孤独な生き物だなぁと思うこともありますです。
それでいて、どこまでいっても人は「社会的」でもあらねばならない。なんとも因果で業の深い生き物だなぁと思いますです。
>そう考えれば、悩み続ける生き方も、悩みを避ける生き方も、どんな生き方だろうと否定する必要もないかななんて思ったりもします。(犯罪に至るような生き方とか過度に他者を害する生き方は糾弾されてしかるべきだとは思いますが)
ありがとうございますありがとうございます。社会的な生き物である以上、人との関りはなくせませんので、迷惑をかけてしまうことも避けられないと思いますが、「過度な害」は及ばしてはならないと思いますね。話しが若干それますが、最近、通勤途中で歩きたばこをしやがる奴らがおりまして、非常に迷惑しております。それってのは僕にとっては大分「害」なわけですけれども、本人たちにとってはきっと「え、それぐらいで?」と思うことかもしれません。歩きスマホ(こっちが注意してよけりゃあよい)なんかより、よほどたちが悪い(煙からは逃れられない)と思うのですけれど。つまり、その「過度の害」のレベルってのがその時、その時代、周りの環境や人などによって変わったりする……それが結構な速度で変化するというのが、どうにも面倒な世の中だなぁと思ったりしたり。
>そういえば(自分のことは棚にあげて)AIロボットの話の続きも気になってまーす。
ゴフッ(水でむせる音)。
読んでくださっていたとは! ありがとうございますありがとうございます。最近別の作品を書いていたせいか、そっちの投稿が全然できておりませんでした。既存投稿分の倍ぐらいはストックしているのですが、その先のストーリーというか結末が思い浮かばず止まってしまっている状況でした。しかしありがとうございます、ちょっとまたやる気が復活しました!(笑)
>自ブログでの今の連載がそろそろ終わりを迎えそうなんですが、次の連載、アレにしちゃってもいいですか?
アレとは「遠藤→白銀さん」に送った奴でしょうか? 「白銀さん→遠藤」に頂いた奴でしょうか? 後者は今の連載されている奴だと思うのですが……もし前者のことだったら、是非とも私も読んでみたいのでお願いします!(違う件でしたらお恥ずかしいですが、そっとメール等で教えてください(笑))
……と、いいますか、今の連載終わってしまうんですか?! もっと二人(?)の活躍が読みたかったのですが……。
posted by endoat 2017/09/28 00:36 [ コメントを修正する ]
自分が納得できる生き方をいかにして見い出すか、飲み込むか。「他者があれこれ言ったところで、最終的には本人次第」、と言ってしまえば突き放すように聞こえますが、逆を言えば「他者の意見に左右される必要もなく、自分なりの解釈判断で十分」とも言えるわけで。
そう考えれば、悩み続ける生き方も、悩みを避ける生き方も、どんな生き方だろうと否定する必要もないかななんて思ったりもします。(犯罪に至るような生き方とか過度に他者を害する生き方は糾弾されてしかるべきだとは思いますが)
そういえば(自分のことは棚にあげて)AIロボットの話の続きも気になってまーす。
こんなところで何ですが、追伸。
自ブログでの今の連載がそろそろ終わりを迎えそうなんですが、次の連載、アレにしちゃってもいいですか?
(果たしてこれだけで伝わるだろうか……:汗)