今日の一言「音読で15時間ぐらいかな」「何時間かけたかは自慢にはならないが指標にはなる」
やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
一冊音読すること
サピエンス全史の上巻に引き続き、一冊全部音読を完了したのは二冊目になるだろう。やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
実存的空虚感への対処
本の感想は、後々、まとめの記事を書いていくとして、今回の記事としては、この読み終えた後の感慨などをメモしておきたいと思う。残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
精神分析から実存分析へ
一言でいうならば、V・E・フランクル著「人間とは何か」は、人間とは実存的存在であり、ひとり一人、生きる意味があるのだと、そう主張するのである。これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
実存分析について
フランクルの著は、読んだ人に、生きる意味を与えてくれるものではない。これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
5つ目の小見出し
さて。最後に何を書こうか。大体、最初に書き始めたときの目的は果たせた気がする。取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
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