今日の一言「一人の時間を確保しないと書けない」「目の前にいる人を大事にしたい」
僕は器用ではないので、そもそも、他の人と話しているときにスマホ操作なんて気が回らない。会話の内容も頭に入ってこないし、スマホで行う作業も頭に入ってこないだろう。
ので、メールとかラインなどで連絡があっても、即レスとかそんなことは基本ない。基本的に、人は一日の中で、何か作業をしているはずだ。その作業を中断してまで連絡を見るべきかどうか、――人それぞれその人次第だろうが、僕には何らかの作業単位があって、その単位を中断することは望ましくないと思っているのだろう。
最近の若者は電話が苦手だ、と言われるらしい。その傾向はあるのかもしれないが、逆に、メールで済ませられるものは、そうすべきだと思っている。
本当に必要な時しか電話をかけるべきではないと思う。ただ、簡単なメールで済むことでも、いちいち反応が薄い人が相手だと、大変だろう(つまり俺だ)。そういう人には、電話をしなければならなくなる。でも、反応が遅い人ってのは、つまり、作業単位を持っている人である可能性が高くて、電話を嫌っているかもしれない、矛盾だ、大変だ。
今年のブログ記事の数を数えてみた。164件。
後半はペースダウンしているが、365日が一年なので、約1/2日のペースである。
そのうちの殆ど、書いているときは、「こんなん、書いていて何か意味があるんだろうか」と思っていた気がするが、しかし、今こうして概括すると、よかったと思う。
164件。そのうち、エピソード的に集約すれば、新しいことなど殆どないかもしれない。それでも、自分の思考、感情の流れを、今年は特に記せた気がする。
来年は、再来年は……分からないが、今年ほど書けない気もする。書くことがよいことかどうかは置いておいて。そう考えれば考えるほど、とても貴重だった。
創作をするということと、生きる意味を徹底して考えること、この二軸を感じられた、考えられただけでも、意味はあったと思うし、……「思うし」と書いて、もう一つぐらい「意義」を書こうと思ったけど、思いつかなかった(かっこ笑い)。
とにかく、来年の目標的なのを書けば、その二軸を深めるというのと、もっと具体的に書けば、このブログを何とか続けたいと思う。
しかし、それも理由があるのだ。あんまり、個々具体的なことを書いても面白くないのである。この面白さというのは、未来の自分や、他者、読んでくれる人にとって。どこどこのカフェが雰囲気が良かったとか、そんなのは、それ用の生活の知恵的ブログさんや情報サイトを参照した方がよほど良質な情報がある。
なんといっても、このブログは「思考」を扱うのであって、具体的なことを書く場ではないと思っているのだ。この、具体性と抽象性については、ある友人から、「君は普段はあまり考えてなさそうだけど、ブログは抽象的だよね」と言われて、このあたりもネタとして、ちゃんと書きたいと思っているが、その抽象的になりがちな理由は上のとおりである。
で、まぁそれは置いておいて、彼女ができた。――しかし、彼女とは何かよく分からない。ただ、身体で触れ合うことができるのは彼女といっていいと思う。しかし、セックスフレンドという言葉も存在するし、非常に曖昧な気がする。なので、どういう存在なのか、というのは分からない。
以前書いたけれど、二人きりでたびたび食事に行く女性もできたりした。そちらは、彼女とは言わないのだろう。しかしプラトニックな関係というのもあるのだろうし、分からない。
で、思考ブログと書きながら、何故こんなことを書いたのかといえば、これはもう大学生ぐらいまで遡る。
ルサンチマンという言葉が大好きで、それでいて非常に嫌悪するからだ。
ああ、しかし、これ以上書くと、人格を疑われそうであるが、「素直に」書かなければ、成長もないので書く。
つまり、本当の絶望たるものは、「不足」状態では発生するものではない、ということだ。
勉強ができない、彼女ができない、スポーツもできない……何もできない、と。そんな自分が生きるのは何故なのか、と。
その問いは、生きる意味の問いとしては不十分であると、今は思う。
世界と自分とが存在していて、その世界に対して望むものがあって、自分がそこに到達できていなくて、その原因について悩むのなら、それよりもすぐさま、その原因を取り除くための「努力」をするべきだ、と思う。
もちろん、物理的限界はある。しかし、それ以外の可能性は、いくらでも開けているのだ。
それへの憂慮、失敗への恐怖、努力のめんどくささ、――つまり言い訳や諦めのために「生きる意味」を用いるのは滑稽である。
僕は、そう思ったから、少ないリソースでいろいろ克服してきた。
イケメンじゃないけど、彼女もつくったし、結婚もした(離婚もしたけど)。
頭もよくないけど、大学に入ったし就職もした。同期で合格しない人もいる中、昇任試験も受かった。
――けれども、それらは、しかし、全部、ルサンチマンへの否定だったのかもしれない。
そして、気づいたら、僕は、「なりたい自分」ってのが、さっぱり分からなくなっていた。
そもそも、「幸せ」になりたいと思っていたのかどうかも分からない。
でも、最近思うのは、先日のグラフにおける、「ゼロ地点」なるものに、ようやくたどり着いたのかな、と思うのだ。
何かこう、ルサンチマン……というと大げさだけど、「不足」がたくさんあって、それを埋め合わせるようにやってきた、と。
その甲斐があって、「ゼロ地点」には達することはできたと。
けれども、今までは、「不足」に対する衝動レベルの欲求によって、「無理やり努力」をしてきたようなもので、その努力自体が自発的なものではなかった、のかもしれない。いやそもそも、「無理やり努力」をしたのは自分の意志といえなくもないし、自発性なんて概念も疑わしいと思う。
ただ、イメージとしては大体今の実感と近しいとは思えている。
ある方が、「好奇心を失うとつらい」と述べられていたが、まぁそのとおりだなと思う。
睡眠不足や、仕事のイライラなんかが募ると、落ち着いた気分になれないけれども、少し時間をつくって書くことができると、何かよい。
心地よい時間というのは、あまり何も考えない時間なのかとも思った。
一方で、こうやって、何か得体のしれない思考に身を任せるのもまた面白い。
忙しかった。しかし、仕事納めが終わった。また数日後に仕事ではあるけれども、まぁゆっくりできそうだ。
忙しいというのは、自分の思考を使えていない、のではなくて、創作と、生きる意味について使えていないからだと思う。
彼女もできたので、少しそのことについて考えてみた。これから結婚するか。子供をつくるか。子供にもし障害があったら。家をどうするか。お金のことはどうするか。親の介護はどうするか。
あまり、楽しい思考ではなかった。少し憂鬱にもなった。けれども、「忙しい」という気持ちにはならなかった。
それらの様々な選択が、自分なのだと思うし、それは、僕の目的である生きる意味を考えるという点にもつながっているから、「やりがいがある」と思えたのだと思う。
(かっこ書きである。まとまらねーなぁ)
メールとかラインとか見ない
人と会っているときに、片時もスマホを手放さない人もいるという。僕は器用ではないので、そもそも、他の人と話しているときにスマホ操作なんて気が回らない。会話の内容も頭に入ってこないし、スマホで行う作業も頭に入ってこないだろう。
ので、メールとかラインなどで連絡があっても、即レスとかそんなことは基本ない。基本的に、人は一日の中で、何か作業をしているはずだ。その作業を中断してまで連絡を見るべきかどうか、――人それぞれその人次第だろうが、僕には何らかの作業単位があって、その単位を中断することは望ましくないと思っているのだろう。
最近の若者は電話が苦手だ、と言われるらしい。その傾向はあるのかもしれないが、逆に、メールで済ませられるものは、そうすべきだと思っている。
本当に必要な時しか電話をかけるべきではないと思う。ただ、簡単なメールで済むことでも、いちいち反応が薄い人が相手だと、大変だろう(つまり俺だ)。そういう人には、電話をしなければならなくなる。でも、反応が遅い人ってのは、つまり、作業単位を持っている人である可能性が高くて、電話を嫌っているかもしれない、矛盾だ、大変だ。
ブログを書く時間は貴重である
2017年も、もうすぐ終わりである。はえーなぁ。今年のブログ記事の数を数えてみた。164件。
後半はペースダウンしているが、365日が一年なので、約1/2日のペースである。
そのうちの殆ど、書いているときは、「こんなん、書いていて何か意味があるんだろうか」と思っていた気がするが、しかし、今こうして概括すると、よかったと思う。
164件。そのうち、エピソード的に集約すれば、新しいことなど殆どないかもしれない。それでも、自分の思考、感情の流れを、今年は特に記せた気がする。
来年は、再来年は……分からないが、今年ほど書けない気もする。書くことがよいことかどうかは置いておいて。そう考えれば考えるほど、とても貴重だった。
創作をするということと、生きる意味を徹底して考えること、この二軸を感じられた、考えられただけでも、意味はあったと思うし、……「思うし」と書いて、もう一つぐらい「意義」を書こうと思ったけど、思いつかなかった(かっこ笑い)。
とにかく、来年の目標的なのを書けば、その二軸を深めるというのと、もっと具体的に書けば、このブログを何とか続けたいと思う。
要点を「素直に」書く方針を徹底したい
ええと、回りくどく書いてしまうのは、俺のダメなところである。しかし、それも理由があるのだ。あんまり、個々具体的なことを書いても面白くないのである。この面白さというのは、未来の自分や、他者、読んでくれる人にとって。どこどこのカフェが雰囲気が良かったとか、そんなのは、それ用の生活の知恵的ブログさんや情報サイトを参照した方がよほど良質な情報がある。
なんといっても、このブログは「思考」を扱うのであって、具体的なことを書く場ではないと思っているのだ。この、具体性と抽象性については、ある友人から、「君は普段はあまり考えてなさそうだけど、ブログは抽象的だよね」と言われて、このあたりもネタとして、ちゃんと書きたいと思っているが、その抽象的になりがちな理由は上のとおりである。
で、まぁそれは置いておいて、彼女ができた。――しかし、彼女とは何かよく分からない。ただ、身体で触れ合うことができるのは彼女といっていいと思う。しかし、セックスフレンドという言葉も存在するし、非常に曖昧な気がする。なので、どういう存在なのか、というのは分からない。
以前書いたけれど、二人きりでたびたび食事に行く女性もできたりした。そちらは、彼女とは言わないのだろう。しかしプラトニックな関係というのもあるのだろうし、分からない。
で、思考ブログと書きながら、何故こんなことを書いたのかといえば、これはもう大学生ぐらいまで遡る。
ルサンチマンという言葉が大好きで、それでいて非常に嫌悪するからだ。
ああ、しかし、これ以上書くと、人格を疑われそうであるが、「素直に」書かなければ、成長もないので書く。
つまり、本当の絶望たるものは、「不足」状態では発生するものではない、ということだ。
生きる意味を考える資格的な
大学生……いやもっと前から、僕は「生きる意味」を考えていたはずだが――先日「自由ネコ」さんが、「自分は他の人たちが合コンとかいろいろしている中、ずっと生きる意味を考え続けていた」と書かれていたが、いや僕もそうだ、と思ったわけだが――それは、どこかしら「劣等感」的な原因だった気がする。勉強ができない、彼女ができない、スポーツもできない……何もできない、と。そんな自分が生きるのは何故なのか、と。
その問いは、生きる意味の問いとしては不十分であると、今は思う。
世界と自分とが存在していて、その世界に対して望むものがあって、自分がそこに到達できていなくて、その原因について悩むのなら、それよりもすぐさま、その原因を取り除くための「努力」をするべきだ、と思う。
もちろん、物理的限界はある。しかし、それ以外の可能性は、いくらでも開けているのだ。
それへの憂慮、失敗への恐怖、努力のめんどくささ、――つまり言い訳や諦めのために「生きる意味」を用いるのは滑稽である。
僕は、そう思ったから、少ないリソースでいろいろ克服してきた。
イケメンじゃないけど、彼女もつくったし、結婚もした(離婚もしたけど)。
頭もよくないけど、大学に入ったし就職もした。同期で合格しない人もいる中、昇任試験も受かった。
――けれども、それらは、しかし、全部、ルサンチマンへの否定だったのかもしれない。
本当に欲しいもの
結局、「なりたい自分」になれなければ、どこまでいっても「不幸せ」に過ぎない。そして、気づいたら、僕は、「なりたい自分」ってのが、さっぱり分からなくなっていた。
そもそも、「幸せ」になりたいと思っていたのかどうかも分からない。
でも、最近思うのは、先日のグラフにおける、「ゼロ地点」なるものに、ようやくたどり着いたのかな、と思うのだ。
何かこう、ルサンチマン……というと大げさだけど、「不足」がたくさんあって、それを埋め合わせるようにやってきた、と。
その甲斐があって、「ゼロ地点」には達することはできたと。
けれども、今までは、「不足」に対する衝動レベルの欲求によって、「無理やり努力」をしてきたようなもので、その努力自体が自発的なものではなかった、のかもしれない。いやそもそも、「無理やり努力」をしたのは自分の意志といえなくもないし、自発性なんて概念も疑わしいと思う。
ただ、イメージとしては大体今の実感と近しいとは思えている。
ある方が、「好奇心を失うとつらい」と述べられていたが、まぁそのとおりだなと思う。
最近の幸せ
部屋を片づけて、掃除をして、自分でカフェオレ作って、創作やブログを自分のペースで書いているのが楽しい。睡眠不足や、仕事のイライラなんかが募ると、落ち着いた気分になれないけれども、少し時間をつくって書くことができると、何かよい。
心地よい時間というのは、あまり何も考えない時間なのかとも思った。
一方で、こうやって、何か得体のしれない思考に身を任せるのもまた面白い。
忙しかった。しかし、仕事納めが終わった。また数日後に仕事ではあるけれども、まぁゆっくりできそうだ。
忙しいというのは、自分の思考を使えていない、のではなくて、創作と、生きる意味について使えていないからだと思う。
彼女もできたので、少しそのことについて考えてみた。これから結婚するか。子供をつくるか。子供にもし障害があったら。家をどうするか。お金のことはどうするか。親の介護はどうするか。
あまり、楽しい思考ではなかった。少し憂鬱にもなった。けれども、「忙しい」という気持ちにはならなかった。
それらの様々な選択が、自分なのだと思うし、それは、僕の目的である生きる意味を考えるという点にもつながっているから、「やりがいがある」と思えたのだと思う。
(かっこ書きである。まとまらねーなぁ)
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