今日の一言「失くしたことを後悔しているうちに時間もなくしている」
大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)
高価な電化製品をなくした
最近、モノをなくすのは2度目である。一つは見つかってほっと一安心したが、今度は手がかりが全くない。いつ落としたかも不明。これは、ダメかも分らんね……。大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
逆説志向
あれを忘れた、これを忘れた、が繰り返されると、そもそも、いろんなことを忘れてしまっていることについて、強迫観念が生じてくることもある。でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
目標の達成状況
さて話を変えよう。2月末までの目標を立てたのが、1月末あたりだったと思う。気づけば、もう2月中旬が終わり、2月末に突入している。はえええええ! 驚くばかりだ。どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)
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今日の一言「分かりやすい表現を心がけましょう」「回りくどい表現は思考の迷い」
疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。

信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)
お金と時間と仕事と節約
いやぁ、今週も疲れたね。忙しかった。疲れたとか、忙しいとか、相対概念(対概念)じゃん? それを発することで、聴いた人にどんな反応を期待するの?
「大変だったね~。お疲れ様ー」「無理しないでね」「身体が一番大事だよ!」
と言ってもらいたいのかというと、そういう分けではない。重要なのは、自己認識である。自分で自分の状態を理解する、客観的に判断するというために、行為である。
自己を客観視? なにそれ? そんなこと可能なの? という哲学的命題はわきにおいておこう。
コメントを沢山頂き、返信したいものの、そもそも、今週は21時前に帰れた日がなかった気がする。一日3時間の残業とすると、今検討されている上限の60時間にちょうどいくかどうか、といったところだろう。
逆に、言えば、まぁ多くの会社はそれぐらいが普通なのだ、ということなのかもしれない。もっと残業が常態化しているところもあることだろう。
……と、この上の記事は、一体何を言いたいのだろう。何というか、分かりやすい文章なんてクソクラエ、じゃないが、仕事でも文章を取り扱うことが多いため、もう好き勝手書くことで、心を落ち着けたいのかもしれない。
そう、そもそも、日記というものは、他者に見せることを前提としていない。あくまで、自分との対話、である。ブログ、となると、不特定多数の他者が想定されることになる。やはりブログは、「何か伝えたいこと」がなければ、「良いブログ」とは言えないのだろう。
資産運用と株
株の取り引きをやってみようかという気持ちが、今のところは強まっている。確定拠出年金についても学んできた。節税効果を考えると、メリットはありそうである。問題は、60歳まで働き続けるか、60歳まで一切引き落としができなくても構わないのか、という点にありそうだ。
そうなってくると、「価値観」とか人生プランというのに課題が格上げされるので、いまいち、決断と行動までに繋がっていない。
それであれば、100万~300万程度の額から株でも遊びでやるという程度の気持ちでやる方が、よほど暇つぶしにはなりそうだ。
(確定拠出年金は、年額14万4千円となり、満期まで残り30年程度のため、432万円あればよい。その場合、節税効果は47万8千円となる。後は、元本保証型投資にするか、株にするかインデックスにするかで、損益がどれだけ発生するかによる。)
今、暇つぶし、という言葉が出たが、そもそも、暇などないのではなかったか?
そう、仕事が忙しくて暇がないのである。が、忙しいとはなんだ? 本当に、生産性をあげて、無駄な時間をカットして、人に任せて、断って減らして、などなど、対策をすればもっと時間をつくれるのではないか?
忙しいという漢字は、心をうしなうと書くなどと、もう耳にタコができるような表現があるけれども、これは言い当てているなぁと思う。自分の中で、心で、忙しいなぁと、余裕が無いなぁと思うから、そういう言葉が発せられるのだ。
時間の効率化
時間の効率化のための秘訣は、今費やしている時間のことを考えるよりも、まずは、「何に時間を費やすべきか」を考えることにある。整理整頓も、節約も、全く同じ原理だが、成功させるポイントは、「減らす」ということよりも、「何に使うか」を明確にすることである。
整理整頓は、いるものがはっきりすれば、自ずといらないものが明確になる。要らないものであれば、捨てることも容易である。整理されて必要なものが絞られれば、整頓(カテゴライズ、並べ替えなど、使いやすいようにすること)も容易になる。
お金の節約もそうだ。節約グッズとか、セミナーに参加するとか、節約のためにお金を使っては本末転倒である(一度や二度ぐらいならよいだろうが)。大事なのは、自分は、何にお金を使いたいのか、ということである。
ではその、お金と、時間という、100人に聞けば、100人が「大事だ」というものについて、何に使用するのか明確にするのは、何だろうか?
価値観だ。
価値観とは?
価値観とは何か、先日図をかいてみたので復習してみよう。信仰と、論理的納得というキーワードが出てきた。今回、これについては特段触れないが、実感という、信仰と論理的納得を包括する概念は思い出してみよう。
自分は、何があったら嫌なのか、何をしたら嬉しいのか、誰となら一緒にいたいのか、どういう人は倦厭するのか、自分の感覚、気持ちを思い起こしてみよう。
そのときどきの条件や、状態によって自分の中に生じる判断のようなものが、価値観の正体である。
創作は力なり
それで、多分、僕は、きっと……と、歯切れが悪いが、何か創ることが好きなんだと思う。先日、あるアマチュアの人のつくった曲を聴いて、あー、すごい良いなと思って、僕もまた作曲をしたくなった。
よく僕の中で生じる悪い癖は、オンラインゲーム症候群と勝手に読んでいるやつで、つまりすごい人(ハイジンさんたち)が多すぎると、やる気が損なわれていくのである。けれども、いくら拙いものでも、誰からもみてもらえなくても、それでも、何か創り出すという、その行為自体がとっても大事なんだって、そう思う。
(自己満足だとか、もっと時間の有効活用しなとか、リアルな交友関係を広げなとか、批判はたくさん可能だが)
といったところで、今回の記事は終わり。最近予約投稿ばかりであるが、平日に書けないから仕方がない。ただ、暇な帰り道に自分の記事を読むのは何かよい。自分の記事だから、その時の気分によって合わなかったりもするけれども、それでも何らか興味がある話題だったりするから面白いし、数日間でも経過してしまうと、もはや書いているときの気分が殆ど分からないので、ほぼ他人の記事みたいである。そうすると、「あー分かる分かる! あはは、こんな奴もいるんだな~」みたいな疑似共感体験みたいな状態になるのだ! やばい、こんなこと書いていて、かなり危険な奴な気がしてきたぞ! しかし、このブログは100%裏表の無い関ペきな自己表現であるべきだ! でなければ意味がない、取り繕った言葉なんてフツーのブログでやってろ! バーカバーカ!
そして、上のような変態的なことを書いていて思いだすのは、先日頂いたコメントの中の、主観と客観に関連するものである。
今、「100%裏表無い自己」という表現を使ったが、果たして、そんなこと「事実として」できているのか、いやそんなこと可能なのか? という問いが発生する。
アイデンティティとエポケー
まず一つ。俺は、俺のことを、100%理解できているのか?二つ。文章表現の限界という問題は置いておいて、100%語る俺自身の言葉について、他者がそれを100%理解できるのか? という理解可能性の問題。
結論は、まぁ無理だろう、となる。
ただ、ここで、無理だからといって、取り繕ったり、自己を飾って理想的なものを演じる、というのは、断じて拒絶する。
その理由は今後書いてみよう。いや、簡単に今書いてしまえば、自己同一性の崩壊につながるからだ。自己(自我)が欲求する自分自身について、理性(超自我)によるコントロールが強くなればなるほど、「俺じゃない感」「ここじゃない感」が強まってしまうのである。それはよくない。神経症や精神病になる可能性がある。
だから、大事なのは、「100%の俺自身だぜ」と自分自身で思うそのレベルを維持するということである。そして、やや強引に関連付けて長期記憶にしようと画策すれば、これが「現象学」的な考え方だ。
つまり、100%の自分(=客観)、なんてものは存在しないが(というよりも、だからこそ「エポケー」(判断停止)をして)、100%の自分という認識を成り立たせている条件を考え、感じることである(=本質直観)。
キリッ!(決まったぜ!) みたいに、書いたところで、これも僕の悪い癖だけれども、「いやいや、難しい哲学的概念を自分の思考体系と結び付けられて、それが何だっての? 何に役に立ったの? 何となく気分よかったってだけ?」と思うのだけれども、いや、その思うのは「実感」だから無視はできないけれども、一つ、無理やりだけど意味を書いてみよう。
そうさな……ええと、そうやって、誰かが考えた思考体系(哲学)と同じである、と主張することによって、より多くの人への共感可能性(≒理解可能性)に繋げることができる。それによって、もっと、深い思考になったり、本当に役に立つ方針や方策や行動に結び付く可能性だってあることだろう。たぶん。
近況メモ
ここからは消化試合みたいな感じ。◇ルーチンについて。
ルーチンは、何回か中断してしまっている。しかし、これは、自分自身を褒めてあげたいというか、今までの失敗をよく反映できていると感心したことだが、「免除規定」
これは、非常に有用であった。
言い換えると、「言い訳」なのだけれども、実際問題、日課ができない日があっても、免除規定に合致していれば、「継続」が認められるのである。そうなると、モチベーションが維持できる。これは習慣づけが中々上手くできなくて困っている人にもお勧めできそうだ。
120日を超え、約4か月というわけである。おー、あっというまだなぁ。地味に、ブログにカウントアップツールを加えたのも良かったかもしれない。PC版でないと表示されないけど。
◇けもフレについて。
けものフレンズ観て、ちょっとこれ、面白かった。ニコニコ動画では1話しかみれないけれど。ある精神科医さんもオススメしていたから気になっていたら、他の方のブログ読んでいて、やっぱり「けもふれ」の話題がでていて、最初つまんねーと思ったけど、何だか底知れない面白さが見えてきた、みたいな感想が書かれていて、より一層気になり始めたのである。
うん、それで、いいね、なんか、絵柄はそんなに好みでもないけれども、紙飛行機を作って敵の目をそらして危機を救った、かばんちゃんに対して、
「すごーい!」
を連発してたサーバルちゃんが良かった。
「へーきへーき! フレンズによって得意なこと違うから」なんてのも、何かいいなぁ。
(でも心疲れた僕(かっこ笑い)がこれを面白いと思うのは仕方がないとして、この作品がめちゃヒットしているというのは、大丈夫ですか皆さん、お疲れではないですか?)
人間とは何か P.3~19 要約
精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
これは、安易な折衷主義ではない。
この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。
遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。
そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。
それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
と言うのである。
※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。
これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。
ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)
さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。
さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。
陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。
(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)
精神療法と医術と技術
精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。
この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。
遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。
そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。
それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
と言うのである。
※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。
実存的空虚感
20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。
ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)
さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。
さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13
実存分析とロゴセラピー
と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。
陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。
(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)
今日の一言「91days見終わった」「何だか安心して見れるヤクザ・マフィア映画って感じ」
結局明かされずに終わる。
いやぁ、まぁ多分、撃ったんだろうなぁ。(発砲した、という意味ではなくて、殺害したという意味)
何で捕らえてから、中々殺さなかったかというと、きっと、復讐を果たして抜け殻のようになってしまったアヴィリオを、その状態で殺しても、殺された仲間が浮かばれない、とか思ったのかもしれない。
だから、ある程度生きがいとか、何かを与えて、少し、「生きること」の希望が芽生えさせた段階で、殺してやろうと思ったのかもしれない。ちょっと陰湿な気もしなくもないが、それが、仲間想いのネロの「けじめ」だったのだろう。
とはいえ、砂浜のシーンで、足跡がどうなったか分からないままである。
きっと、「帰る」足跡が、一人分しかないことによって、殺したのだということを示唆するエンディングなのかなぁと思ったけれども、何と、帰りの足跡の描写が一切なかったのだ!
二度見直したから間違いない! 行きの二人分しか足跡がないのである! これは何故か?
帰りはちょうど硬い土を踏んでいったから足跡がつかなかったのか?
忍者がやるような、戻り足で帰ったのか? いやそんなことをする必要が分からない。
謎だ……。
じゃあタイトルの約3か月間というのは何なのか?
禁酒法時代のマフィアの話だということなので、そういえば禁酒法って結構短い期間で廃法になったんだっけ、と思って、もしかして3か月だけの法律だったのか? と思ったら、大馬鹿恥さらしであり、1920年~1933年までの期間であった。
うーむ、じゃあやっぱり何だかわからないなぁ、と、そのサブタイトルに触れられた方の記事を読んだときは思ったのだけれど、見終わってみて、ああ、もしかして、この話自体が、禁酒法が解禁になる大体3か月前のお話、ってことなんだろうか、と思った。
話の中でもしきりに、「そろそろ禁酒法も終わるらしいぜ」「政府のお偉いさんからの情報だ」みたいな話が流れるのである。
そうすると、12dayで話は終わるけれども、残り、20日ぐらいで禁酒法が廃止、ということなのだろうか。
もしくは、アヴィリオが復讐に、ローレス街に戻ってきて、復讐を果たすまでが大体3か月と言われていたので、この作品自体が3か月ぐらいの期間を扱ってますよ、という意味で「91days」というわけなのだろうか。
でもそうすると、1day、2day、……というサブタイトルは何なのか? やっぱりあまり意味がないのかもしれない。
復讐のためだけに生きて、親友をも手にかけてしまうアヴィリオさんだけど、結局復讐を果たして、抜け殻みたいになってしまう。
すべてを失ったマフィアのドン、ネロ。彼が仲間も家族も失って言う台詞が「生きてることに理由なんてもんはいらねえ。ただ、生きるだけだ」、と。
すべての元凶の復讐の相手であるネロの父親が、倒れる前に言う台詞が「すべてはむだごと」、と。
まーでも、ホントそうですわなぁ。
ただ、生きるだけであって、そして、すべてはむだごとですわ。そんなもんですわ。そんな中、それでも、事象事物に一喜一憂して生きてくんですわ~。
ってな!
悟った風に思ってたこともあったし、いや今もこの作品みてそんな風にも思ったけど、まさにその意味において、逆に、それらの台詞に「否」といってやりたい。
すべてはむだごとで、生きる理由なんてなくただ生きるだけ、であるがゆえに、意味を求めてやろうじゃねえかと。いやそれでもダメなら、意味を創り上げていくか、逆に求められる意味に気づいていくかしてやろうじゃないか。
(ただのアニメ鑑賞に意味を求めるのは如何なものか)
ラストシーンはどうなったのか
敢えてネタバレサイトとかは見ていないけれども、果たして、すべてを失ったネロ(マフィアのドン)は、仲間だったと思っていたアヴィリオに裏切られ、海岸で、最後、どうしたのだろうか?結局明かされずに終わる。
いやぁ、まぁ多分、撃ったんだろうなぁ。(発砲した、という意味ではなくて、殺害したという意味)
何で捕らえてから、中々殺さなかったかというと、きっと、復讐を果たして抜け殻のようになってしまったアヴィリオを、その状態で殺しても、殺された仲間が浮かばれない、とか思ったのかもしれない。
だから、ある程度生きがいとか、何かを与えて、少し、「生きること」の希望が芽生えさせた段階で、殺してやろうと思ったのかもしれない。ちょっと陰湿な気もしなくもないが、それが、仲間想いのネロの「けじめ」だったのだろう。
とはいえ、砂浜のシーンで、足跡がどうなったか分からないままである。
きっと、「帰る」足跡が、一人分しかないことによって、殺したのだということを示唆するエンディングなのかなぁと思ったけれども、何と、帰りの足跡の描写が一切なかったのだ!
二度見直したから間違いない! 行きの二人分しか足跡がないのである! これは何故か?
帰りはちょうど硬い土を踏んでいったから足跡がつかなかったのか?
忍者がやるような、戻り足で帰ったのか? いやそんなことをする必要が分からない。
謎だ……。
91daysというタイトルの意味は?
この作品を見ましたーと書いてくださった方の記事を読まなければ気付かなかったろうが、1day、2dayと、各話ごとに話が進んでいくのである。なるほど、じゃあ、91話分放送するのか?! という突っ込みは中々面白かったけれども、そんなことはなくて、12話で完結なのである。じゃあタイトルの約3か月間というのは何なのか?
禁酒法時代のマフィアの話だということなので、そういえば禁酒法って結構短い期間で廃法になったんだっけ、と思って、もしかして3か月だけの法律だったのか? と思ったら、大馬鹿恥さらしであり、1920年~1933年までの期間であった。
うーむ、じゃあやっぱり何だかわからないなぁ、と、そのサブタイトルに触れられた方の記事を読んだときは思ったのだけれど、見終わってみて、ああ、もしかして、この話自体が、禁酒法が解禁になる大体3か月前のお話、ってことなんだろうか、と思った。
話の中でもしきりに、「そろそろ禁酒法も終わるらしいぜ」「政府のお偉いさんからの情報だ」みたいな話が流れるのである。
そうすると、12dayで話は終わるけれども、残り、20日ぐらいで禁酒法が廃止、ということなのだろうか。
もしくは、アヴィリオが復讐に、ローレス街に戻ってきて、復讐を果たすまでが大体3か月と言われていたので、この作品自体が3か月ぐらいの期間を扱ってますよ、という意味で「91days」というわけなのだろうか。
でもそうすると、1day、2day、……というサブタイトルは何なのか? やっぱりあまり意味がないのかもしれない。
すべてはむだごと
作品の内容はともかく、無常観がある作品だなぁ。復讐のためだけに生きて、親友をも手にかけてしまうアヴィリオさんだけど、結局復讐を果たして、抜け殻みたいになってしまう。
すべてを失ったマフィアのドン、ネロ。彼が仲間も家族も失って言う台詞が「生きてることに理由なんてもんはいらねえ。ただ、生きるだけだ」、と。
すべての元凶の復讐の相手であるネロの父親が、倒れる前に言う台詞が「すべてはむだごと」、と。
まーでも、ホントそうですわなぁ。
ただ、生きるだけであって、そして、すべてはむだごとですわ。そんなもんですわ。そんな中、それでも、事象事物に一喜一憂して生きてくんですわ~。
ってな!
悟った風に思ってたこともあったし、いや今もこの作品みてそんな風にも思ったけど、まさにその意味において、逆に、それらの台詞に「否」といってやりたい。
すべてはむだごとで、生きる理由なんてなくただ生きるだけ、であるがゆえに、意味を求めてやろうじゃねえかと。いやそれでもダメなら、意味を創り上げていくか、逆に求められる意味に気づいていくかしてやろうじゃないか。
(ただのアニメ鑑賞に意味を求めるのは如何なものか)
今日の一言「生兵法は大怪我のもと」「でも例えば肩こりは病院じゃ治らないでしょ?」
神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
こんな感じで分かれているという。
なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
神経症と精神病の違い
神経症とノイローゼは、同義語である。神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
認知症(血管性など):血管性及び詳細不明の認知症
認知症(アルツハイマー病):アルツハイマー病
統合失調症など:統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
うつ病など:気分[感情]障害(双極性障害を含む)
不安障害など:神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害
薬物・アルコール依存症など:精神作用物質使用による精神及び行動の障害
その他:そのほかの精神及び行動の障害
厚労省患者調査こんな感じで分かれているという。
離人症とか境界性パーソナリティ障害とか
一時期、どうにも、やる気が起きなかったり、無気力感に襲われてどうにもならない時期があった。なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
内因性の問題と自助努力
まぁ、心理カウンセリングでも、精神療法でもどちらでも良いが、問題は、結局それは、薬や手術によって解決するものではなく、患者自身の取り組みが必要になる点である。肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
問題解決と治療
病気、とは、健常の対義語である。つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
生きがいの治療
生きる意味どこにあるのよ症候群の治療に対しては、人間とは何か、自分とは何か、生きるとは何か、ということを、自ら追い求め見つけていく必要がある。これが、実存分析とロゴセラピーということである(※)。まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
