人間とは何か P.3~19 要約
精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
これは、安易な折衷主義ではない。
この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。
遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。
そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。
それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
と言うのである。
※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。
これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。
ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)
さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。
さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。
陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。
(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)
精神療法と医術と技術
精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。
この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。
遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。
そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。
それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
と言うのである。
※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。
実存的空虚感
20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。
ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)
さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。
さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13
実存分析とロゴセラピー
と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。
陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。
(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)
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今日の一言「91days見終わった」「何だか安心して見れるヤクザ・マフィア映画って感じ」
結局明かされずに終わる。
いやぁ、まぁ多分、撃ったんだろうなぁ。(発砲した、という意味ではなくて、殺害したという意味)
何で捕らえてから、中々殺さなかったかというと、きっと、復讐を果たして抜け殻のようになってしまったアヴィリオを、その状態で殺しても、殺された仲間が浮かばれない、とか思ったのかもしれない。
だから、ある程度生きがいとか、何かを与えて、少し、「生きること」の希望が芽生えさせた段階で、殺してやろうと思ったのかもしれない。ちょっと陰湿な気もしなくもないが、それが、仲間想いのネロの「けじめ」だったのだろう。
とはいえ、砂浜のシーンで、足跡がどうなったか分からないままである。
きっと、「帰る」足跡が、一人分しかないことによって、殺したのだということを示唆するエンディングなのかなぁと思ったけれども、何と、帰りの足跡の描写が一切なかったのだ!
二度見直したから間違いない! 行きの二人分しか足跡がないのである! これは何故か?
帰りはちょうど硬い土を踏んでいったから足跡がつかなかったのか?
忍者がやるような、戻り足で帰ったのか? いやそんなことをする必要が分からない。
謎だ……。
じゃあタイトルの約3か月間というのは何なのか?
禁酒法時代のマフィアの話だということなので、そういえば禁酒法って結構短い期間で廃法になったんだっけ、と思って、もしかして3か月だけの法律だったのか? と思ったら、大馬鹿恥さらしであり、1920年~1933年までの期間であった。
うーむ、じゃあやっぱり何だかわからないなぁ、と、そのサブタイトルに触れられた方の記事を読んだときは思ったのだけれど、見終わってみて、ああ、もしかして、この話自体が、禁酒法が解禁になる大体3か月前のお話、ってことなんだろうか、と思った。
話の中でもしきりに、「そろそろ禁酒法も終わるらしいぜ」「政府のお偉いさんからの情報だ」みたいな話が流れるのである。
そうすると、12dayで話は終わるけれども、残り、20日ぐらいで禁酒法が廃止、ということなのだろうか。
もしくは、アヴィリオが復讐に、ローレス街に戻ってきて、復讐を果たすまでが大体3か月と言われていたので、この作品自体が3か月ぐらいの期間を扱ってますよ、という意味で「91days」というわけなのだろうか。
でもそうすると、1day、2day、……というサブタイトルは何なのか? やっぱりあまり意味がないのかもしれない。
復讐のためだけに生きて、親友をも手にかけてしまうアヴィリオさんだけど、結局復讐を果たして、抜け殻みたいになってしまう。
すべてを失ったマフィアのドン、ネロ。彼が仲間も家族も失って言う台詞が「生きてることに理由なんてもんはいらねえ。ただ、生きるだけだ」、と。
すべての元凶の復讐の相手であるネロの父親が、倒れる前に言う台詞が「すべてはむだごと」、と。
まーでも、ホントそうですわなぁ。
ただ、生きるだけであって、そして、すべてはむだごとですわ。そんなもんですわ。そんな中、それでも、事象事物に一喜一憂して生きてくんですわ~。
ってな!
悟った風に思ってたこともあったし、いや今もこの作品みてそんな風にも思ったけど、まさにその意味において、逆に、それらの台詞に「否」といってやりたい。
すべてはむだごとで、生きる理由なんてなくただ生きるだけ、であるがゆえに、意味を求めてやろうじゃねえかと。いやそれでもダメなら、意味を創り上げていくか、逆に求められる意味に気づいていくかしてやろうじゃないか。
(ただのアニメ鑑賞に意味を求めるのは如何なものか)
ラストシーンはどうなったのか
敢えてネタバレサイトとかは見ていないけれども、果たして、すべてを失ったネロ(マフィアのドン)は、仲間だったと思っていたアヴィリオに裏切られ、海岸で、最後、どうしたのだろうか?結局明かされずに終わる。
いやぁ、まぁ多分、撃ったんだろうなぁ。(発砲した、という意味ではなくて、殺害したという意味)
何で捕らえてから、中々殺さなかったかというと、きっと、復讐を果たして抜け殻のようになってしまったアヴィリオを、その状態で殺しても、殺された仲間が浮かばれない、とか思ったのかもしれない。
だから、ある程度生きがいとか、何かを与えて、少し、「生きること」の希望が芽生えさせた段階で、殺してやろうと思ったのかもしれない。ちょっと陰湿な気もしなくもないが、それが、仲間想いのネロの「けじめ」だったのだろう。
とはいえ、砂浜のシーンで、足跡がどうなったか分からないままである。
きっと、「帰る」足跡が、一人分しかないことによって、殺したのだということを示唆するエンディングなのかなぁと思ったけれども、何と、帰りの足跡の描写が一切なかったのだ!
二度見直したから間違いない! 行きの二人分しか足跡がないのである! これは何故か?
帰りはちょうど硬い土を踏んでいったから足跡がつかなかったのか?
忍者がやるような、戻り足で帰ったのか? いやそんなことをする必要が分からない。
謎だ……。
91daysというタイトルの意味は?
この作品を見ましたーと書いてくださった方の記事を読まなければ気付かなかったろうが、1day、2dayと、各話ごとに話が進んでいくのである。なるほど、じゃあ、91話分放送するのか?! という突っ込みは中々面白かったけれども、そんなことはなくて、12話で完結なのである。じゃあタイトルの約3か月間というのは何なのか?
禁酒法時代のマフィアの話だということなので、そういえば禁酒法って結構短い期間で廃法になったんだっけ、と思って、もしかして3か月だけの法律だったのか? と思ったら、大馬鹿恥さらしであり、1920年~1933年までの期間であった。
うーむ、じゃあやっぱり何だかわからないなぁ、と、そのサブタイトルに触れられた方の記事を読んだときは思ったのだけれど、見終わってみて、ああ、もしかして、この話自体が、禁酒法が解禁になる大体3か月前のお話、ってことなんだろうか、と思った。
話の中でもしきりに、「そろそろ禁酒法も終わるらしいぜ」「政府のお偉いさんからの情報だ」みたいな話が流れるのである。
そうすると、12dayで話は終わるけれども、残り、20日ぐらいで禁酒法が廃止、ということなのだろうか。
もしくは、アヴィリオが復讐に、ローレス街に戻ってきて、復讐を果たすまでが大体3か月と言われていたので、この作品自体が3か月ぐらいの期間を扱ってますよ、という意味で「91days」というわけなのだろうか。
でもそうすると、1day、2day、……というサブタイトルは何なのか? やっぱりあまり意味がないのかもしれない。
すべてはむだごと
作品の内容はともかく、無常観がある作品だなぁ。復讐のためだけに生きて、親友をも手にかけてしまうアヴィリオさんだけど、結局復讐を果たして、抜け殻みたいになってしまう。
すべてを失ったマフィアのドン、ネロ。彼が仲間も家族も失って言う台詞が「生きてることに理由なんてもんはいらねえ。ただ、生きるだけだ」、と。
すべての元凶の復讐の相手であるネロの父親が、倒れる前に言う台詞が「すべてはむだごと」、と。
まーでも、ホントそうですわなぁ。
ただ、生きるだけであって、そして、すべてはむだごとですわ。そんなもんですわ。そんな中、それでも、事象事物に一喜一憂して生きてくんですわ~。
ってな!
悟った風に思ってたこともあったし、いや今もこの作品みてそんな風にも思ったけど、まさにその意味において、逆に、それらの台詞に「否」といってやりたい。
すべてはむだごとで、生きる理由なんてなくただ生きるだけ、であるがゆえに、意味を求めてやろうじゃねえかと。いやそれでもダメなら、意味を創り上げていくか、逆に求められる意味に気づいていくかしてやろうじゃないか。
(ただのアニメ鑑賞に意味を求めるのは如何なものか)
今日の一言「生兵法は大怪我のもと」「でも例えば肩こりは病院じゃ治らないでしょ?」
神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
こんな感じで分かれているという。
なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
神経症と精神病の違い
神経症とノイローゼは、同義語である。神経症が重くなったものが精神病である。という認識で大体間違っていない。その特徴は、神経症は他者からみて「理解可能」であり、精神病は統合失調症の譫妄のように「理解不可能」である。
神経症・ノイローゼ・精神病の違い:心の病入門
ただ、現在では、あまり「神経症」という語は使われなくなっているという。
国際的な疾病の分類表だと、
認知症(血管性など):血管性及び詳細不明の認知症
認知症(アルツハイマー病):アルツハイマー病
統合失調症など:統合失調症、統合失調症型障害及び妄想性障害
うつ病など:気分[感情]障害(双極性障害を含む)
不安障害など:神経症性障害、ストレス関連障害及び身体表現性障害
薬物・アルコール依存症など:精神作用物質使用による精神及び行動の障害
その他:そのほかの精神及び行動の障害
厚労省患者調査こんな感じで分かれているという。
離人症とか境界性パーソナリティ障害とか
一時期、どうにも、やる気が起きなかったり、無気力感に襲われてどうにもならない時期があった。なんだか、現実に、現実感が、感じられないのだ。どこか、自分の思考と、体とが不一致になっているような感覚。そんなときに読んだのが、解離性障害に関する本で、「あーそうそう、こんな感じ!」と思ったこともあるし、境界性パーソナリティ障害とか対人恐怖症とかの本読んで、「あー、なんか違うけど、こんな、感じかなぁ」と思ったこともある。
ただ、結局、神経症的な症状(あれ、今日、ガスの元栓しめたっけ? ってのはさすがに無いにしても、あれ、今日、会社行く前カギしめたっけ? とか)って、ふつーの人でもあるわけだ。それが、持続しているかどうか、という点がポイントになる(らしい)。
んでまぁ、精神病と一口にいっても、その原因はさまざまあるわけである。
電気ショックとか、薬物療法的に対処が必要となる、「内因性」と言われるものがある。これは脳機能とか身体機能に問題が生じたものである。これはもう、病院にかからなければならないだろう。
ただ、精神療法として対処される、認知療法とか、それは、就職の際に利用するカウンセラーみたいなものになるだろう。
(※注意、僕は素人で分かっていないだけなのだろうけれども、正直、心理カウンセラーの行う面談と、この精神療法との違いがよく分からない。心理学と精神医学の違いは、医療行為に当たるか否か、という点なのか。難しいところ)
内因性の問題と自助努力
まぁ、心理カウンセリングでも、精神療法でもどちらでも良いが、問題は、結局それは、薬や手術によって解決するものではなく、患者自身の取り組みが必要になる点である。肩こりで悩んで整形外科に通ったとしても、湿布薬をもらって終わりだろう。
根本的な解決には、インナーマッスルを鍛えるとか、ストレッチをするとか、長時間椅子に座っていないようにするとか、そういった「努力」が必要になるのである。
前回書いた記事において、「問題」としたのは、薬や手術で解決するとは思えないのである。
さらに前回書いた記事において、セミナー的なのに参加する気があんまりもてない、と思ったのも、今しばらくしてから思うと、この「病状」の回復について、自分自身で取り組まなければならないからである。
精神科医もそうだろうが、自分が健康でなければ、病気の人たちの治療はできないだろう。
問題解決と治療
病気、とは、健常の対義語である。つまり、正しい状態、恒常性が保たれている状態、が想定されているのだ。
ので、最初の例において書いた、「持続するかどうか」というのが一つポイントになるわけである。
そういう意味であれば、もう僕の場合は、相当な年数を問題として重ねているわけであるので、かなり重篤な慢性的な「病気」であるといえる(かっこわらい)。
「とある魔術の」という作品自体は見たこと無いけれども、sister's noiseという曲は好きである。その曲の中で、
「自分らしく生きること 何よりも伝えたくて」
というフレーズがある。
自分らしく!
俺は思う。その「自分」ってものを、みんな、ちゃんと理解しているというか、認識できているのだろう。すげぇなと。
「わたしぃ、こういうキャラじゃないんでぇー」
とかいう奴!
すげー! 自分のキャラを分かってるんだ! 空気よめるんだ! すげーぜ!
ちゃかして書いているが、まぁ、割かし本気で思っている節はあり、青い鳥症候群やらステューデントアパシーやら、モラトリアム人間やらのようではあるが、自分って何だか俺はよく分からん。
分からんから、ずっといろいろ、(日記とかで)表現を繰り返してきた。けれども、結局よく分からん。(これについては、最近、コメントにおいて、「あなたはこういう人間に見えますね」と頂けたことで、ようやく少しわかってきた気がする)
しかし、その「健常」とか「自分(らしく)」という状態の規定がはっきりしなければ、問題解決も、治療も一気にその意味を失うのである。
病気の治療というのも、目的的行為である。健常という状態に向けて、必要な処置を行うことである。
その健常というのは、医学的に規定されていて明らかである。統合失調症や、重度のうつ病など精神病もまた、健常状態が分かりやすいだろう。
ただし、神経症的症状だったり、無気力・無感動(アパシー)という状態についての健常とは、いったいなんだろうか?
「生き生きと、ポジティブに、嬉しく楽しく、明るく、充実して、心穏やかに、笑顔で、……」
怪しげなアップ系ドラッグでも使ってんじゃねーの? となるだろう。
生きがいの治療
生きる意味どこにあるのよ症候群の治療に対しては、人間とは何か、自分とは何か、生きるとは何か、ということを、自ら追い求め見つけていく必要がある。これが、実存分析とロゴセラピーということである(※)。まー、30代になってこんなこと言ってるって、超恥ずかしくてモテないことなんだろうとは、そりゃあ思うけれども、まぁしゃあねぇわな。分からないものは分からない。きくは一時の恥、きかぬは一生の恥ともいうだろう。
分からないのに、分かった風にしているのが一番実害が大きいのである。
さぁ勇気を出して言おう! せーの、生きてる意味が分かりません! とかアホか!
(まぁただ、「ユーモア」というのはこういうもんでもある。トレンディエンジェルのサイトーさんは、ハゲをネタにしている。本当は惨めで哀しくて辛いものだが、それを笑いに変えるというのは非常に有効な方法だと思う)
※:「人間とは何か」において、実存分析とロゴセラピーについて、用語の使い分けがなされているが、その意味の違いがまだよく分かっていない。恐らく、実存分析といった場合は、その人の生き方の状態を明らかにすること……即ち、創造価値・体験価値・態度価値のそれぞれどの段階にあるのかという判断をする段階のこと。ロゴセラピーについては、それに対して、特にロゴ=意味を見つけ出すことを手助けする段階のことを示しているのではなかろうか。
今日の一言「知識ひけらかしたい欲求との闘い」「承認欲求と所属欲求の違いを理解した方が良いね」
いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
天網恢恢疎にして漏らさず
てんもうかいかい、そにしてもらさず。天(神様)は粗いようだけどちゃんと見てて、悪事は見逃さないんだよ!という意味である(注:遠藤意訳)。確か、EDENという漫画のある節話の、サブタイトルになっていた気がする。そのとき、確か高校生ぐらいだったか覚えていないが、「え、これ何て読むん? 意味は?」と思って調べたことがあったような。いや、漫画も勉強になることはなるのである、という主張なわけではなくて。
老子の言葉ということだけれども、これが実は誤訳で、
天網恢恢疎にして失わず
というのが、正しい訳なのではないかと、そういう記事を読んだ。
⇒法に知性と心が閉じ込められてはならない
その意味するところは、
「天の網は広大に拡がっていて、その網目が粗いからこそ、人(の心)を失わない」なのだという。
おぉ、なるほど……、確かに、老子の思想を考えると、そちらの方がしっくりくる気がする。
日記を書くこと
僕は何についても劣等感の塊みたいな奴であるが(――しかし、こういったことを自分で言う奴書く奴は、大抵自分自身でそう思っていないやっかいな類型である。プライドだけ高くて、いざ批判や否定をされると顔を真っ赤にして怒り始める。めんどくせーやっつだ)、考えること、特に自省ということに関しては、経験を積み重ねてきた。ここですぐさま書かなければならないのは、その経験が、一般的に、社会に、人に、誰かに役に立つかというと、そんなことはない。結局、同語反復で、自己への無限遡及となって、ぐるぐると螺旋階段を上り下りしているようなものであったに違いない。
唯一、誰かに役立ててもらおうとするならば、「日記を書くのはいいことだよ!」としたり顔ですすめてくる人には用心せよ、ということか。「日記」といっても、これは結構奥深い。書き方も、考え方も色々ある。この記事のように、リアルタイムアウトプット(口語表現)のものもあれば、思考にインターセプトして文語化しつつ書くのもあるし、箇条書きにする場合もある。
書く前に時間や、天気、そのときの気分を書き入れる場合もあれば、「家計簿」の体をとる場合もある。
書く頻度も重要だ。毎日書くのか、文量はどうするのか。自己ルールはどうするか。一週間に一回は必ず書くようにするのか、一年スパンでみるのか。
内容、テーマはどうするか。例えばスポーツ選手がトレーニング記録を日記にしていたりするが、日常のふと思ったことまで書き留めるのかどうか。
媒体も当然重要だ。紙なのか、電子なのか。
そして、誰かに見せるのか、自分だけで、ある意味黒歴史として、墓場までもっていくのか。
こうした色んな諸条件を整理しないまま、取りあえず「日記を始めてみよう!」と思い立って、三日程度で辞めてしまう人がなんと多いことか。しかしこれは当たり前でもある。日記を始めることの目標がぶれているのである。
ただ、思い立つのは悪いことではない。取りあえず初めて見て、しっくりきたら続けるというのもありだ。特に若いうちは。若者はよいのぉ、と懐古するわけではないが、これは、単純に物理時間が多いということに過ぎない。若者だからといって、暇だというわけでは決してない。むしろ、年取った人の方が暇の可能性がある。……とこれは蛇足だった。
メタ自分を考えること
僕が書き始めた理由は、「問題」解決のためであった。その問題とは、このブログのタイトルにも集約している。実際に書き始めたのは、中学、高校あたりからだったと思うけれども、そもそも「人は何故生きるのか?」という疑念からであった。これは黒歴史といってよくて、そもそも、「人は」という一般的対象について考えようとしていたところにまずもって中二病である。ただ、そこはすぐさま、「自分」について目が向いていったことである(※1)。まぁそれを、現実における「困難」(※2)が契機であった、と分析したところで、それは、離人症の病因を、副腎皮質の機能障害であると診断するのと同じように表層的である(※3)。
V.E.フランクルさんの「実存的精神療法」においても提唱されていることであるが、ユーモアは、一つ神経症や精神病を和らげる方法であるという。ユーモアというのは、例えば、不眠症で、中々眠れなくて困っている人に対して、「できるだけ長く起きているようにしましょう」というものである。
これは、「自己距離化」ということで、自己に対して、より上位の考え方を与えるものである。
まさに症状の距離化と客観化の役割は、自己をいわば不安感と「同列に」あるいはその「「上位に」置くことを患者に可能にすることにある。ユーモア以上に距離をもたらすことに適しているものは他にない。ジョハリの窓、という考え方があって、自分ってのは、他者との関係をして4つの層があるという。自分で知っていて他者も知っている部分、自分で知っていて他者は知らない部分、自分で知らずに他者が知っている部分、自分も他者も知らない部分、と。
――「人間とは何か」P.274
他者がいれば、「客観的」に見てもらえる場合があるけれども、そもそも、他者も知らない部分だってあるわけであり、そういったときは、自分自身で、メタ自分的な、より上位の思考を要求される。
この、自己自身を見つめること、によって、「何故生きるのか」「そもそも僕は何を悩み苦しんでいるのか」ということを明らかにし、解決しようという目的が、日記を書くという一つの目標であったというわけである。
果たしてこれが、本当に役に立ったのかどうか、それは、まだ判断することができない。
※1:どっかの誰かの書いたとか、言ったことによって、人は誰でも「何で俺、生きてんだろ?」みたいに思うことがある、と聞いて、「あーそういうもんなんだ、みんなそうなんだなぁ」と思ったが、実は、この疑問が浮かぶ人とそうでない人ではっきり分かれるらしい。
※2:いじめ、失恋、挫折、などなど。いくら現象的な契機を挙げて、「心理学的に」原因を追求したとしても、実存的問題は解決するとは限らない。もっとも、例えば発達障害などの診断がなされることによって、「安心」して社会生活に適応していく例もあることは知っている。
※3:V.E.フランクル「人間とは何か」P.273において、不安神経症の生理学的基礎として、内分泌系の調節障害があるとされている。右は引用:「離人症状ないし心的筋無気力症候群の背後には副腎皮質機能不全が隠れている」。
今日の一言「講義出席1回約3万円」「お金がかかると投資対効果を思ってしまう悪しき心なりけり」
それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
ロゴセラピストなる資格
V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、270ページまで読み進める。ふう。これで、何とか、目標は達成できそうだ。それで、納得できない部分は大いにせよ、中々良い本だというのは変わらなそうなので、ちょっと、理解の助けになるかなぁと、「ロゴセラピー」とか「実存分析」というキーワードでネット検索を試みてみた。
すると、おお、何やら、ロゴセラピー協会なるものがあるではないか。やっぱり、かなりけっこう主流な考え方なんだなぁ。どれどれ。
「ロゴセラピーとは、ヴィクトール・エミール・フランクルの提唱する、『人生の意味を問うのではない。』『人生が自分に何を求めているのかを知る必要がある』『人生に求められる責任を果たせ』という精神療法である」
うーむ……、多分、この紹介文では、僕は一切興味を惹かれなかった。そのA~Cのライセンス認定とかあって、お医者様とか、看護師さんとか、カウンセラーとか、コンサルタントさんとか、そうそうたる職業の人たちが、「ロゴセラピーは素晴らしいです」と意見をしているのだが、多分、最初に僕はこれを見ていたら、よくあるスピリチュアル系なうんたらと同じだと思って、感情的に倦厭していただろう。
だから、「出会い」って重要だと思う。
僕は、「巨匠を老害と呼ぶために」この方のこの記事に最初に出会っていたから、ロゴセラピーというかフランクルさんについて、なんだなんだ、すげー面白そうだぞ! と思った。
(まぁ上の記事の方は批判記事なわけだが。でも、実際に「人間とは何か」を読み進めてみて、上の方の分析というか読解が相当綿密であることが分かった。その上で、「自分はここが問題点、足りない点だと思う」というのは、非常に良い批評文である。見習いたい)
良書の要約はダメである
確か、有名な人が、そんなことを言っていた気がする。ただ、やっぱり、「とっかかり」というのは大事だと思う。レビューを読んで、面白そうだなと漫画とか映画とか小説とかみることもあるだろう。
特に、難しい内容とかだと、一度大筋をおさえることは重要である。便利なのは、wikiとかだが、それよりも、信頼できる人の書いたレビューの方が、よほど分かりやすかったり、役に立ったりする。
上に挙げた方の他の記事も結構面白くて、機会があれば読んでみたいと思っている。
こんな良質な情報を、インターネットでは取得できて、学ぶこともできる。に対して、対面的なセミナーが、絶対的に必要なんだろうか? と、僕はふと思ってしまう。いやぁ、確かに、そういう場にいけば、出会いなどもあって、人脈も広がって、そうやって人は生活しているのかもしれない。
けれども、今、昨今特に、僕は、休日はゆっくりさせてくれ! と思っている。
誰とも話したくない症候群
いやー、ダメな傾向やねんなぁ。まぁ、もともとこの傾向はあったもんだ。ただ、「ダメなこと」ということで、積極的に封じ込めていた感情というか、行動であった。ので、飲み会も、友人からのお誘いも、積極的に参加したりしていた。――今は、積極的に断っている。何をしているかと言えば、本を読んでいる。筋トレストレッチしている。音読をしている。部屋の片づけ、思考の整理をしている。ダメな大人だ!!
平日、特に感じるのだが、仕事が終わって帰るとき、もうほんと、「ああ、誰とももう話さなくていいんだ……」と非常に解放感になる。
家に帰ると、あたたかな家庭が……恋人が……、子どもが、両親兄弟が……、と、一切望んでいない。
兎に角、一人でいられることに「幸せ」を覚える。(ただ、このブログに関係する関係においては、まったく枷になっていない。時おり落ち込むこともあるけれど、むしろそこから得られる刺激は非常に嬉しいものであり、充実したものに思える)
ゲーム的思考
ただし、この、孤独を求める心性を、手放しで肯定しようとは思わない。そう、そもそも僕は限りなく「ポジティブ思考」なのである! いやまぁそれはどうでもいいが、つまり、「100%一人でいること」を求めているわけでは、決してないことを確認しておく必要がある。まずもって、このブログが一つの証左である。100%孤独状態を欲するならば、何故書く? 何故コメントに返信をする? 何故サイトを運営する? おかしいだろう、一人ただ、ご飯を食べて、寝て、遊べばいい。ただ、その「遊ぶ」とは何ぞや? ゲーム? なるほど、黒い砂漠というゲームをやっているのか、それは楽しかろう、それは何というジャンルか? MMORPG? なるほど、RPGということは、「人と関わる」ゲームというわけだな。ということは、そもそも、人と関わることを、完全に拒絶しているわけではないのだな?
これは、恋愛シミュレーションゲームに嵌るオタクを想像してもよい。二次元最高! といって、現実の三次元女はクソ、と断罪する気持ちは分からなくもない、というか、それはある面で真理だろう(例えば、顔も収入も性格もよくない男が、美少女を娶ることを欲しても、それは激しい絶望しか生まないだろう)。
ただし、本当に、そこで、「諦める」ことを、「正」としてよいのか?
それについては、十分に検討する必要がある。その上での結論であればよい。ただし、その「美少女ゲーム」において求める審美や耽美といったものを、実現させることを求めないでいてもよいのか、ということである。
自分自身を引き受けること
これは、「一般論」などではない。単に、「価値観」レベルの話しだ。誰にでも当てはまるものではない。ただ、「俺はぶさいくだから彼女も友人もできないんだ」「俺は低収入だから結婚できないんだ」ということを言うときに、その反例もまたいくらでも挙げられる(不細工でも彼女ができる人はいるし、低収入でも結婚している人はいる)し、それにもまして、もう一つ、そういった「諦め」をする人たちが、見落としていることがある。
それは、不細工だとか低収入だとかいう個々の要素について、それが永続的で、絶対的な理由になるということを、何故確信しているのか、ということである。
繰り返しになるが、これは一般論などではない。
「俺は、モテなかったけれど、彼女できたぜ」と友人に言われたとして、彼女が一度もできたことのない人が、「じゃあ自分も!」と思えるかどうか、これはもう、運命的偶発的なものに過ぎない。そのような人たちは、他者の成功が、自分自身の成功に結び付くとは、一切思えないのである。
で、あるにも関わらず、自らの人生を、自分のものとして引き受けるということを、何故可能になるのか?(イケメンを除く)
つらく、苦しい状態であっても、充実した人生を送れるようになることを、何故信じることができるのだろうか?(イケメンを除く)
そういった状態においてもなお、「生きる意味はあるのだ」「人生それ自体が意味を、他ならない貴方に求めているのだ」という言葉を、僕に、どのように届けてくれるのか。フランクルさんには期待しているところである。
(というかそもそもそのセミナー、みんなフランクルの本を少なくても2冊以上は読んだことがある人ばかりらしい! 結局もって、ある程度インプットがないと、他者の言葉など頭に入ってこないのである。だから、自分で勉強できない人が、他者から何か学ぶ、ということをあまり僕は信じていない)
