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人間とは何か:はじめに(要約)
2017/02/17 12:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
人間とは何か P.3~19 要約

精神療法と医術と技術

 精神療法にとって、「健康とは何か?」という問いに明確に答えるのは難しい。
 精神療法は、医師の人格によるものと、技術(〇〇法といった法則の体系)によるもの、両方の極を交互に選択、し、計算に入れなければならない。
 これは、安易な折衷主義ではない。
精神療法はもはや排他的な要求をしてはならないということである。われわれは、一つの絶対的真理を直接理解することができない以上、相対的な真理を相互に修正することで満足しなければならないのである。それどころか、一面性への勇気を奮い起こさねばならない。――P.6
 上の引用について、少し解釈というか、感想を入れたい。

 この、一面性という語は、この後も何度もでてきて、「唯一性と一回性」という表現に変遷していくのだけれども、非常に大事な観点である。
 ここでの例として、ある交響曲のフルート奏者が持ち出される。フルート奏者は、オーケストラの一部、一面でしかないが、フルート奏者がそれを超えて他の楽器を演奏することはできないし、求められるものではない。ただし、複雑なタペストリー(織物)の一部が、無くてはならないように、一部であること、一面的であることは、決して恐れるものでも無駄でもないのである。

 遠藤浩紀さんの「EDEN」という作品で、主人公のエリヤくんが、「僕は世界の欠片に過ぎない。けれども、僕が死んだら、世界は、世界の一部を確実に失うんだ」なんて思いにふける。

 そうは言っても、やっぱり、一部だとか、欠片だとかいうのは、大そう心もとないものである。子どもの頃はみな、世界が自分を中心に回っていると思っていたり、大きな夢を抱いていたり、することだろう。それが、大人(※)へと向かっていくにつれて、段々「現実」なんてものに打ちひしがれていく。その中で、一部だとか欠片に過ぎない、という思いが助長されていくこともある。

 それでも、フランクルさんは、
「一面性への勇気を奮い起こさねばならない」
 と言うのである。


※「大人」という言葉も嫌いな言葉の一つである。昨今、「高齢者」という定義も見直されようとしている。成人=20歳というのはまだいいが、大人という言葉は甚だ曖昧であろう。モラトリアム期が30歳までとされる見解もあるという。じゃあ大人って何だろうね。ただし、大人という言葉を今後も使う必要性は感じないが、「責任」というキーワードは、重要になるように思われる。

実存的空虚感

 20世紀という時代から、精神医学会に新たな問題が立ち現れてきたという。
「私たちが今経験しているような危機の時代においては、意志はどうしても哲学に専心しなければなりません。私たちの時代の最大の病は、目標喪失、退屈、意味と目的の欠如なのであります」――P.9~10「あるアメリカの大学教授の講演」
 多くの患者たちは、自分の人生の意味を疑っているか、意味を見出すことについて絶望しているという。
 これを、「実存的空虚感」とフランクルさんは言う。
 そして、これが神経症の症状として現れることについて、精神因性神経症(noogene Neurose)というのである。

 ここで、素人はつまづくのであるが、「精神因性以外に、何があるの?」と思うのである。それは、「身体因性」「心因性」のことであるが、「身体因性」というのは、脳機能や内分泌機能の障害によるものとして理解できたとして、「心因性」というのが難しい。ひとまず現時点では、「精神因性」と「心因性」の区別としては、「心因性」については、ある原因(例えばトラウマ的な、直接的原因になるような事象が影響している場合)によるもの、としておこうと思う。
(逆に、「精神因性」は、特段直接的な原因が見いだせないものという理解をする、ということである)

 さて、その精神因性神経症に対して必要なのは、「意味と価値への人間の方向づけ」であるという。
 これについては、「患者に多大な負担を強いるのではないか」との批判など多く受けるだろうとフランクルさん自身は述べている。しかしそうはいっても、トランキライザー(抗不安剤)で病状を取り除いたり、心理学主義的に、意味とか価値を求める人間の心性というものを、「防衛機制ないしは二次的な合理化に過ぎない」などということはできないだろう、ということだ。少なくとも私はそんなことのために人生を賭けたくないと。

 さらに、実存的空虚感は、社会的な、集団的な影響も考えられる。
今日、人間は本能の乏しさに苦しんでいるだけでなく、伝統の喪失にも苦しんでいる。今ではもはや、本能は人間に何をしなければならないかを告げず、また伝統も人間に何をなすべきかを告げることがなくなっている。やがて人間は何をしたいのかもわからなくなり、ただ他の人々のするとおりにするだけになるであろう。つまり、画一主義(コンフォーミズム)に陥ってしまうのである。――P.12~13

実存分析とロゴセラピー

 と、いうわけで、新しい精神療法として、「実存分析」、「ロゴセラピー」が必要になっている。この「人間とは何か」においては、実存分析とロゴセラピーについての、解説がなされている、というわけである。

 ここまで、「はじめに」の要約だけれども、多分に僕の恣意的なまとめになっていることを、ここで書いておこう。最近書いていることであるけれども、あくまで、僕の目的の第一義は、僕自身の救済である。ただ、それは、まさしくこのロゴセラピー的な内容とも関連することになるが、「僕自身の救済」はそれだけで完結するものではなく、他者との連関から考えられねばならないということが問題を複雑かつ大きくさせているわけである。
 即ち、「僕自身の救済は、まさに、それが他者の救済へと繋がる時においてはじめてなされる」という点である。

 陽明学の知行合一とかプラグマティズムの実践主義とか、そんな考え方を持ち出すまでもなく、僕が成したことは何らかの「意味」が無ければならない。そしてその、意味を見出すための方策、方法論が、ロゴセラピーなのである(と、僕は思った、というに過ぎないが。はて、ロゴセラピー協会の人が読んだらどう思うのだろうか……。ただ、まだ300ページぐらいで、全部読み終わっていない状態なのでお許し願いたいところ)。


(本の内容に沿って書くというのは、大学時代を思い出すなぁ。最近、ほぼノンストップリアルタイム自動記述で書いていたから楽だったけれども、このまとめながら、自分の考えと本の内容を書き分けていく作業は結構苦痛である。ただ、一回音読しているためか、内容自体はパラパラ読んで思い出せる点はいい感じ。)

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