今日の一言「音読で15時間ぐらいかな」「何時間かけたかは自慢にはならないが指標にはなる」
やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
一冊音読すること
サピエンス全史の上巻に引き続き、一冊全部音読を完了したのは二冊目になるだろう。やってみると、大変だったような、あっという間だったような。ただ、録音された時間を通算し、13時間ほど(※)であると目に見える数字になると、こんなに使っていたんだなぁと感慨がある。
その十数時間分、何か語れるか、というと、全然無理だ。覚えていることなど、ホンのわずかにすぎないだろう。これをどう活かすかというのは、これからの作業にかかっていると思っている。
読了までかかったのは、約1か月間である。平日の忙しさからすると、ほぼ、休日における積み上げである。十数時間は、24時間以内であるが、まぁ一日では決して達成することはできない。徹夜で根性詰めてやっても、……というよりも、その仮定がそもそも意味をなさないだろう。もし僕が空を飛べたらとか、瞬間移動を使えたら、という程度の、空想夢想に過ぎないであろう。
※諸事情で、1時間半程度分は失われてしまった。それを足すと、多分、15時間ぐらいになるだろう。
実存的空虚感への対処
本の感想は、後々、まとめの記事を書いていくとして、今回の記事としては、この読み終えた後の感慨などをメモしておきたいと思う。残念ながら、大いなる達成感なるものはあまりない。この理由は明らかで、何分高度で難解かつ詳細具体的であるが故に、完全に消化不良を起こしているからである。仕方がない、凡人能力しか持たない自分が、一回読んだだけで専門的な書物を理解できるなど、映画やアニメの主人公でもあるまいし、当たり前だ。
ただ、読んで、損をしたとか、時間を無駄にしたとか、そんなことは一切思えない。むしろ、一つ、僕の思考の準拠点にしてもよいだろうという感覚が生じている。
考えることそれ自体は、10年も、15年も前から続けていたといってよい。ただそれは、確かに、様々な本や、人、社会環境(現実)などに触れてきたとはいっても、それは、「がむしゃら」な体験であり、統一的体系的なものでは決してなかった。
よく言われてきたこととして、「取りあえずやってみろ」的な。僕自身、やってみなきゃわからない、というのは信じている面もあるため、真面目に、真剣に生きていけば、そのうち何か解決して、幸せな、美しい、充実した人生がまっているのではないかと、信じていた。
結論としては、それは、失敗だった、と言ってよい。これは、誰にでも当てはまるものではない。さらに言えば、僕のその、「がむしゃらに」というやり方が、実のところ、「一歩引いた」冷笑的で嘲笑的な立場であった可能性も、否定できない。つまり、卑近な説明をすれば、「本気で他者と向き合ってこなかった」という言い方も可能である。もっといえば、自分の殻を破ることはせずに、温室的な位置でぬくぬくとしていたのかもしれないのだ。
その理由について、「他者への恐怖」という表現によって説明することに、もはや価値はない。過去の解釈……トラウマ的な、フロイトの精神分析的な方法は、確かに、自分自身の人生に、意味を与えてくれる方法の一つであることは疑いえない。
しかし、その抑圧された無意識を、表層化させることだけでは、今日現代人が多く抱えているだろう「実存的空虚感」に有効な対処ではないのであると、フランクル氏は述べているのである。
精神分析から実存分析へ
一言でいうならば、V・E・フランクル著「人間とは何か」は、人間とは実存的存在であり、ひとり一人、生きる意味があるのだと、そう主張するのである。これだけであれば、よくある、道徳的書物の一つに過ぎない。これについては、受けがたい人の身をこの世に授かったのであれば、当たり前のことである。みんな、誰もに、生きる意味はあるのだと、疑う余地はない。
しかし、その程度のプラカードに掲げられた標語では、何の救いにもならない。少なくても、自分にとっては。心に響かない。前向きになれない。理由は、いくらでも挙げられるであろう。ブサイクのルサンチマンという表現や、凡人である劣等感であるという表現などによらず、「全てのことはいずれお終いになる」ということについて、何物も揺るがすことはできないのである。
全てのことはお終いになる、即ち、死は誰にでも平等に訪れるのだから、「だからこそ」積極的に、この世に意味を成していこう、という人がある一方、「全てが無意味である」というこれまた「真理」によって、押しつぶされてしまうような苦悩煩悶に陥る人もいるのである。
すぐさま、書いておかなければならないのは、僕は、これらの「すべて無意味だ」という表現において、同時に、「絶対的にポジティブにならざるをえないであろう」という、二律背反的な思いを抱いているのである。
これは、僕の中にある、最後の……というと、大げさな表現に過ぎなかろうが、ただ、決して今までなくならなかった信仰なのである。それらは、10年前、15年前には恐らく、なかったであろう。この変化が起こった理由については、解釈的な表現を重ねることも、恐らく可能であろうが、それは結局のところ、「精神分析的な」意味しかなく、これから目指すべき未来への志向には寄与しないであろう。
実存分析について
フランクルの著は、読んだ人に、生きる意味を与えてくれるものではない。これを読んだからと言って、前向きになり、明るくなり、明日に向かって充実した毎日を過ごせるようになるというものではない。
そうした、自己啓発本的な、処世術訓のようなものを求めているのであれば、肩透かしどころか、多分、序章を読んだ時点で放り投げてしまうであろう。
『人間とは何か』から、読み取れて、構築可能なことは、生きる意味を思考することへの肯定である。
ここで、誤解してはならないことは、その生きる意味というのは、決して、超越論的領域に及んではいないという点である。サルの例がある。サルに病気にならないよう注射をするとする(前著では血清をとるため、とある)。サルは、痛い思いをするのであるが、その意味について、サルは理解することはできない。サルの生活圏内(思考があるとすれば、サルの思考において)では、注射について意味を与えることはできない。ただ痛いだけである。それは、人間の意味圏内のものなのである。
サルが、その人間の意味圏内である注射を、例えば「愛」であると解することができるとすれば、それは「信仰」に基づくだけである。
人間も、同様である。この「世界」に対して、何の意味があるのか、という問いは、無意味であるというのは言い過ぎだが、少なくても、その人にとっては無意味だ。世界についての意味は、サルにとっての注射のように、人間ひとり一人において、理解できる範囲を超えているのである。
しかし。フランクルさんが言いたいのは、それでもなお、ひとり一人の生きる意味については、ある、ということなのだ。
その、ひとり一人の意味を問うこと、明らかにしようとすること、――これが、「実存分析」であるのだ。
(と、僕は一読して理解した。ロゴセラピー協会の人がみたら、違うというかもしれない。だが、ここで求めるのは、正確な意味ではない。あくまでも、実存――ここでは、僕自身の問題――である。)
5つ目の小見出し
さて。最後に何を書こうか。大体、最初に書き始めたときの目的は果たせた気がする。取りあえず、2月末までに、『人間とは何か』450ページほどを読了するという目標は達成できた。
これからの目標としては、上に書いたようなことがそもそも正しいのかということと、それが基づく箇所のピックアップ及び引用。
それができた上で、ようやく、僕自身の実存分析(僕の生きる意味を明らかにしていくこと)に入っていくことになるであろう。
ところで、体調不良に陥っている。
精神不良なのは仕方がないが、体調が崩れてしまうと、そもそも、生活圏の崩壊を意味するので、またしても劇的な問題解釈・対処が必要になってくる。
まずは、体調管理、身体が健康であることを、重要視する必要がある。
その一つに、住環境の整備である。整理整頓は進めているが、継続して、清掃掃除も必要であろう。水回り(浴室・トイレ・台所)の綺麗さは、精神状態へも無関係ではない。
次に仕事。取りあえず、物理的時間の確保が難しい状態である。これへの対処は、今のところ、朝時間の活用と、帰宅後のスピード就寝が挙げられる(最近計測したところ、帰宅後ルーチンを含めて布団に入るまでは、1時間は必要である)。
次に、人間関係。他の方のブログや、本を読みながら感じていたことだけれども、どうやら、最近、「人を好きになること」というのが、大変非常に希薄であることを感じている。これは、異性に対してはもちろんだが、ふつーの人たちに対してもそうだ。以前から、「人間ぎらい」という感情エラーを表現しているが、この傾向が強まっているように感じるのである。人は確かに、悪しき人も存在している。が同時に、美しい善なる人も大勢いるのである。ところが、この「病」にかかると、「どいつもこいつも!」という感情が高まるのである。これは良くない。この感覚を抑えながら、あるいは発散しつつ、より多くの人を好きになることが、今後の課題であるようにも思える。
課題、たくさんある。
そして、時間は有限である。
身体的限界性も考慮に入れねばならない。
一方で、鬱々として、行動ができなくなる時間も、比例して増えている気がする。
できる限り、「忙しい」という思いを逓減させていく必要がある。その上で、「充実している」という感覚に昇華していく必要がある。忙しいと充実とは、時間に対する感覚である。同じ時間を過ごすのであれば、どちらが望ましい感情であるかは、書くまでもない。
(やー。難儀な生き方やなーと他人事のように思ったりもする)
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今日の一言「わかるとは何をもってわかると言えるのか」「関連図書全部読む必要なんてないでしょ」
僕はどうにも、「可愛い後輩」的なキャラクターを演じることが苦手だったので、どうにも人間関係の軋轢は多かった。今もそうかもしれないが、まぁ、「大人」な人たちが相手なら、それほど問題にもならない。
ところで、その、「教える」という行為は、一体全体、誰に認められるものなのだろうか?
そして、教えた結果、「わかりました! ありがとうございます!」となるのは、どういった条件に基づくのだろうか?
と、僕が一言で説明するならそういうだろう。ちなみに、僕は、ヤスパースもハイデッガーも、サルトルも読んでいない。さらに上の言葉は、特段何かを参照したわけではない。完全オリジナリティな言葉だ。
そして、上の説明だけで、「わかりました!」となる人はいるかというと、多分いないだろう。概念を教えるということの、非常に難しい点である。
ヤフー知恵袋とか、その他のサイトや、教科書、書籍など、色々参照すると、だんだん「あーこんなもんなのかな」ってわかってくる。そして、テストなんかを解いていて、正解したり間違ったりしているうちに、その間違った理由を考えているうちに、その概念がシェイプアップされて、洗練されていくのである。本当は、その流れが、「わかった」ということなのだ。
が、そんな面倒な手順をしていると、結局、いつ時点で「わかった!」が起こるのか分からない。いつの間にやら、「あー、多分、こういうことなんやろうなぁ」って、気持ちにはなるかもしれない。しかし、完全に「これはこうだ!」と言い切れるようになるのは、非常に長い時間を要するのである。
しかしそこで、「本を読んだ」というのは、どういうことだろう。大抵の人は黙読をする。目で文字を追う。ぺらぺらめくる。ふむふむ、なるほどなぁってなる。で、最後まで読み切る。あー面白かったなぁ、なのか、つまらなかったのか分からないが、取りあえずそこまでを、「読んだ」ということが多いだろう。
「○○って本を読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、それはねー」
となって、どのくらいの時間、その本について語ることができたら、「読んだ」と言えるのだろう?
最近読んだ、サピエンス全史という本があって、上下巻結構なページ数なのだけど、
「サピエンス全史って本読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、歴史の本なんだけどね、単なる事実の羅列じゃあなくて、人間とその社会が成長していく様をみているようで、とっても面白かったよ」
と言えたとして、それ、読んだっていえるのか?
確かに、「認知革命」の章はどうだった? とか、そんな風に聞いてくれる人がいれば、「やっぱ、抽象的な言語を使えるようになったことが、他の動物との差異化がはかられた、とか、納得したし、考えの視点が面白いなぁと思ったよ」とか、話題を広げていくことはできるけれども、全く読んだことのない人に対して、じゃあ、どんな風に、何を伝えたら、「読んだ」っていえるのか。
たぶん、それって、言ったもん勝ちだと思う。
ぶっちゃけ、目次だけ読んで、何となくこんなこと書いてるんだろうなぁと、ペラペラやっただけでも、読んだって言うことは可能だろう。まして昨今、「速読できるんです!」なんていったら、「すげー!」ってなることもあるだろう。
本当に頭のいいとか、教え方が上手い人は、他者に、「教えてあげたんだよ」と思わせない。なんか、自分で答えを見つけたような、そんな気にさせてくれる人が、本当のテクニシャンだ。
どうも、僕は、「ページング」があんまりできていない気がする。
ページングとは、相手のペースにあわせることだ。話し方も、話すスピードも、抑揚も、タイミング(間)も、相手に合わせて話す。相手は理解しやすいし、納得しやすいし、興味も持ってもらいやすいし、安心してもらいやすいし、いいことづくめだ。だが、これが結構、実際意識してやると難しい。
ほら、よく、バトル漫画とかであるじゃん。「相手の呼吸を見極めろ!」的な奴。あれだよあれ。野球漫画とかであるじゃん、バッティングボックスで、「落ち着け、ピッチャーの呼吸に合わせろ!」的な奴。あれよあれ。
と、てきとーに、卑近なことで関連付けたりすると、記憶しやすかったりする。これが記憶術の一つだ。さぁみんなもやってみよう! とかね、お仕着せがましかったりすると、うぜーってなったりする。それに、そんなこと知ってるし、と言う人も、ネット社会では大勢いる。
皆さま、ご存知のことと思いますが……とか、まくらことば(いいわけ言葉)(クッション言葉)(自己エクスキューズ)を、常においておくぐらいでいいかもしれない。
そもそも、最近、他者のブログを読む気力があんまりなくなってきている。20ブログぐらい、更新チェッカーで集めているけれども、何かクリックして開く気があんまり起きなくなっている(※)。というのは、毎日更新してくれる人が少なくなってきたからだ。そして、あんまし、目新しいことが無いのだ(うわあああ、やめろおおお、傲慢すぎる、謙虚さどうした、落ち着け、やばいってその感情! 感情エラーだ! この自己愛性パーソナリティ障害のボケカス野郎!!)。
なんつーか、面白い記事を書いて欲しいのだ。で僕は、ここで決して、その面白いが漫談をやれとか、そんなことじゃない。
そこでふと思う。俺が今求めている、面白い記事とはいったい何なのか。
※もちろん、更新があるたび、欠かさず拝見させて頂いている方のブログもある。それらは正直面白い。よくもまぁ、そんな更新頻度で、面白い記事を連発させられるもんだなぁと、文章力の高さ、構成の良さ、テーマの着想などなど、感心ひとしきりである。
(たぶん、何を読んでも面白いと思わないような状態なのかもしれない)
若干、比較的、まぁ、いいかなぁ、と思ったのは、
書類整理より頭の整理をしたい
という記事だった。7000字ぐらいらしく、長いんだけどね。でも逆に、これぐらい長くないと、なんか面白くない。短い言葉で、何か、気持ちが変わるってのは、可能性が低いだろう。
>いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。
とか言っても、ほへーっと、あんまり頭に入ってこないだろう。
実存主義ってのはねぇ……、あ、貴方は、ヘーゲルさんって知ってる? エヴァ好きなら知ってると思うけど、テーゼって言葉があるよね。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ! っと、あるものと、その否定が合わさると、新しいものになるって奴だよ。それを弁証法って言うんだけど、そのヘーゲルさんはね、僕らの歴史も、弁証法のように、よりよく進化していくんだって言ってたんだよ。それが世界史だってね。
でもね、それって、何だか僕ら一人一人は、その大きな「世界史」みたいなのの、一つの歯車みたいなイメージじゃないかな? 必死にがんばろうが何しようが、僕らはテーゼ(正)かアンチテーゼ(反)のどちらかで、いずれかはジンテーゼ(合)! って、世界はある方向へ向かっていくってわけだよ。
まぁいいさ、確かに分かりやすい考えな気がするし、そうやって世界が進化していくっていうなら、それはそれでいい。でも、そんなことよりも、今、ここにいる、僕、自分自身はどうしてくれるってんだ?
「今この瞬間に、僕は、苦しんだり、悩んだりしてるんだよ! そんな、世界のことなんて、どうだっていいよ!」
とか思う人も、中にはいるんじゃあないかな?
……そう! それだよ! それこそが「実存主義」って奴。すごーく雑な書き方すれば、「うっせー! 世界なんてどうだっていいよ! この俺の問題を何とかしやがれ!!」といって、その個人の問題に焦点を当てていくのが、実存主義ってわけなんだ。


(喪男の哲学史、だった)
まぁ、何だっけ、この記事の主旨は? 完全に迷子だな。
うーむ。この記事は、数日後の俺にとって、面白いと思ってくれるのだろうか?
そして、数少ない訪問してくださった方の一人にでも、なーんとなく、面白いなぁと思ってもらえる可能性はあるのだろうか?
最近、フランクルさんの実存分析、ロゴセラピー的な、生きる意味的なことしか書いていないから、正直どうなんだろうと思っている。前から分かっていることだけれど、この「生きる意味」ってのは、考えること自体をエラーとする人もいるし、そもそもこの考え自体が一切浮かばない人もいるということなのである。そういう人にとって、「生きる意味とはー」「実存とはー」とか、そんな記事は、全くもって面白くないだろう。完全に偏見だが、女子高生なんて、絶対哲学なんて面白いと思わないだろうな(偏見である)。
まぁ、んじゃー、いったい、何が面白いのかな、というのが難しいところだ。
ただ、一つ言えることは、自分が興味のないことを、アクセスアップだかSEOだかよく分からんが、そんなことのために書いていたって、面白いはずがないのだ。それは、読んだ他者へもそうだろうし、そもそも、自分で自分の書いたことを、面白いとなど思えないだろう。
だったら、まぁ、面白いかどうか何て無視して、とにかく、書いたらいいんじゃないかと、僕は思う。
人気ブロガーの人とか、批判コメとかも多いんだろうし、変なこと書いたら炎上とかつるし上げとかされるのも怖いんだろうし、大変なんだろうとは思う。でも、そんなのつまんないよね。
言いたいことを、思ったことを、頭の中を整理したいことを、ちゃんとある程度まとまった文章で書いて公開するってのは、大事なことだと思うし、それって結構面白かったり楽しかったりすることだと、僕は思うけどな。
(自己弁護乙!)
せんぱーい分からないから教えてくださ~い
可愛い後輩から頼られたら、先輩諸氏は気分よく、「あーそれはだな」と教えてあげるだろう。僕はどうにも、「可愛い後輩」的なキャラクターを演じることが苦手だったので、どうにも人間関係の軋轢は多かった。今もそうかもしれないが、まぁ、「大人」な人たちが相手なら、それほど問題にもならない。
ところで、その、「教える」という行為は、一体全体、誰に認められるものなのだろうか?
そして、教えた結果、「わかりました! ありがとうございます!」となるのは、どういった条件に基づくのだろうか?
実存主義とは何か?
いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。と、僕が一言で説明するならそういうだろう。ちなみに、僕は、ヤスパースもハイデッガーも、サルトルも読んでいない。さらに上の言葉は、特段何かを参照したわけではない。完全オリジナリティな言葉だ。
そして、上の説明だけで、「わかりました!」となる人はいるかというと、多分いないだろう。概念を教えるということの、非常に難しい点である。
ヤフー知恵袋とか、その他のサイトや、教科書、書籍など、色々参照すると、だんだん「あーこんなもんなのかな」ってわかってくる。そして、テストなんかを解いていて、正解したり間違ったりしているうちに、その間違った理由を考えているうちに、その概念がシェイプアップされて、洗練されていくのである。本当は、その流れが、「わかった」ということなのだ。
が、そんな面倒な手順をしていると、結局、いつ時点で「わかった!」が起こるのか分からない。いつの間にやら、「あー、多分、こういうことなんやろうなぁ」って、気持ちにはなるかもしれない。しかし、完全に「これはこうだ!」と言い切れるようになるのは、非常に長い時間を要するのである。
本を読むこと
いっぱい本を読んでいる人はすごい人である。しかしそこで、「本を読んだ」というのは、どういうことだろう。大抵の人は黙読をする。目で文字を追う。ぺらぺらめくる。ふむふむ、なるほどなぁってなる。で、最後まで読み切る。あー面白かったなぁ、なのか、つまらなかったのか分からないが、取りあえずそこまでを、「読んだ」ということが多いだろう。
「○○って本を読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、それはねー」
となって、どのくらいの時間、その本について語ることができたら、「読んだ」と言えるのだろう?
最近読んだ、サピエンス全史という本があって、上下巻結構なページ数なのだけど、
「サピエンス全史って本読んだよ~」
「へーそうなんだ。どんな本だったの?」
「えっと、歴史の本なんだけどね、単なる事実の羅列じゃあなくて、人間とその社会が成長していく様をみているようで、とっても面白かったよ」
と言えたとして、それ、読んだっていえるのか?
確かに、「認知革命」の章はどうだった? とか、そんな風に聞いてくれる人がいれば、「やっぱ、抽象的な言語を使えるようになったことが、他の動物との差異化がはかられた、とか、納得したし、考えの視点が面白いなぁと思ったよ」とか、話題を広げていくことはできるけれども、全く読んだことのない人に対して、じゃあ、どんな風に、何を伝えたら、「読んだ」っていえるのか。
たぶん、それって、言ったもん勝ちだと思う。
ぶっちゃけ、目次だけ読んで、何となくこんなこと書いてるんだろうなぁと、ペラペラやっただけでも、読んだって言うことは可能だろう。まして昨今、「速読できるんです!」なんていったら、「すげー!」ってなることもあるだろう。
謙虚な気持ち
多読なのはすごいことだと思うと、最初に書いたことはその通りである。ただし、その、「多読」のことそのことを人に話したり、自慢したりする人は、胡散臭いと思う。本当に頭のいいとか、教え方が上手い人は、他者に、「教えてあげたんだよ」と思わせない。なんか、自分で答えを見つけたような、そんな気にさせてくれる人が、本当のテクニシャンだ。
どうも、僕は、「ページング」があんまりできていない気がする。
ページングとは、相手のペースにあわせることだ。話し方も、話すスピードも、抑揚も、タイミング(間)も、相手に合わせて話す。相手は理解しやすいし、納得しやすいし、興味も持ってもらいやすいし、安心してもらいやすいし、いいことづくめだ。だが、これが結構、実際意識してやると難しい。
ほら、よく、バトル漫画とかであるじゃん。「相手の呼吸を見極めろ!」的な奴。あれだよあれ。野球漫画とかであるじゃん、バッティングボックスで、「落ち着け、ピッチャーの呼吸に合わせろ!」的な奴。あれよあれ。
と、てきとーに、卑近なことで関連付けたりすると、記憶しやすかったりする。これが記憶術の一つだ。さぁみんなもやってみよう! とかね、お仕着せがましかったりすると、うぜーってなったりする。それに、そんなこと知ってるし、と言う人も、ネット社会では大勢いる。
皆さま、ご存知のことと思いますが……とか、まくらことば(いいわけ言葉)(クッション言葉)(自己エクスキューズ)を、常においておくぐらいでいいかもしれない。
面白い記事とは何か?
ここで記事を終わっても良かったが、どうにも面白くない記事にしか思えなかったから、追記していこう。そもそも、最近、他者のブログを読む気力があんまりなくなってきている。20ブログぐらい、更新チェッカーで集めているけれども、何かクリックして開く気があんまり起きなくなっている(※)。というのは、毎日更新してくれる人が少なくなってきたからだ。そして、あんまし、目新しいことが無いのだ(うわあああ、やめろおおお、傲慢すぎる、謙虚さどうした、落ち着け、やばいってその感情! 感情エラーだ! この自己愛性パーソナリティ障害のボケカス野郎!!)。
なんつーか、面白い記事を書いて欲しいのだ。で僕は、ここで決して、その面白いが漫談をやれとか、そんなことじゃない。
そこでふと思う。俺が今求めている、面白い記事とはいったい何なのか。
※もちろん、更新があるたび、欠かさず拝見させて頂いている方のブログもある。それらは正直面白い。よくもまぁ、そんな更新頻度で、面白い記事を連発させられるもんだなぁと、文章力の高さ、構成の良さ、テーマの着想などなど、感心ひとしきりである。
実存主義とは何か?2
しばらく、パラパラと記事をめくってみて、読んでみた。うーむ、なんやかんや、今の気持ちで読むと、俺のブログ、ほとんど面白くねええ!(たぶん、何を読んでも面白いと思わないような状態なのかもしれない)
若干、比較的、まぁ、いいかなぁ、と思ったのは、
書類整理より頭の整理をしたい
という記事だった。7000字ぐらいらしく、長いんだけどね。でも逆に、これぐらい長くないと、なんか面白くない。短い言葉で、何か、気持ちが変わるってのは、可能性が低いだろう。
>いま・ここにいる自分を中心に、主体的な真理を追い求める考え方である。
とか言っても、ほへーっと、あんまり頭に入ってこないだろう。
実存主義ってのはねぇ……、あ、貴方は、ヘーゲルさんって知ってる? エヴァ好きなら知ってると思うけど、テーゼって言葉があるよね。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ! っと、あるものと、その否定が合わさると、新しいものになるって奴だよ。それを弁証法って言うんだけど、そのヘーゲルさんはね、僕らの歴史も、弁証法のように、よりよく進化していくんだって言ってたんだよ。それが世界史だってね。
でもね、それって、何だか僕ら一人一人は、その大きな「世界史」みたいなのの、一つの歯車みたいなイメージじゃないかな? 必死にがんばろうが何しようが、僕らはテーゼ(正)かアンチテーゼ(反)のどちらかで、いずれかはジンテーゼ(合)! って、世界はある方向へ向かっていくってわけだよ。
まぁいいさ、確かに分かりやすい考えな気がするし、そうやって世界が進化していくっていうなら、それはそれでいい。でも、そんなことよりも、今、ここにいる、僕、自分自身はどうしてくれるってんだ?
「今この瞬間に、僕は、苦しんだり、悩んだりしてるんだよ! そんな、世界のことなんて、どうだっていいよ!」
とか思う人も、中にはいるんじゃあないかな?
……そう! それだよ! それこそが「実存主義」って奴。すごーく雑な書き方すれば、「うっせー! 世界なんてどうだっていいよ! この俺の問題を何とかしやがれ!!」といって、その個人の問題に焦点を当てていくのが、実存主義ってわけなんだ。
キモイ系哲学
本田透さんは、そんな実存主義を、キモイ系哲学とか言っていて、それはもう面白かった。喪男の哲学、だっけか。あー、もうその本かったのも、10年ぐらい前なんだなぁ。(喪男の哲学史、だった)
まぁ、何だっけ、この記事の主旨は? 完全に迷子だな。
うーむ。この記事は、数日後の俺にとって、面白いと思ってくれるのだろうか?
そして、数少ない訪問してくださった方の一人にでも、なーんとなく、面白いなぁと思ってもらえる可能性はあるのだろうか?
最近、フランクルさんの実存分析、ロゴセラピー的な、生きる意味的なことしか書いていないから、正直どうなんだろうと思っている。前から分かっていることだけれど、この「生きる意味」ってのは、考えること自体をエラーとする人もいるし、そもそもこの考え自体が一切浮かばない人もいるということなのである。そういう人にとって、「生きる意味とはー」「実存とはー」とか、そんな記事は、全くもって面白くないだろう。完全に偏見だが、女子高生なんて、絶対哲学なんて面白いと思わないだろうな(偏見である)。
まぁ、んじゃー、いったい、何が面白いのかな、というのが難しいところだ。
ただ、一つ言えることは、自分が興味のないことを、アクセスアップだかSEOだかよく分からんが、そんなことのために書いていたって、面白いはずがないのだ。それは、読んだ他者へもそうだろうし、そもそも、自分で自分の書いたことを、面白いとなど思えないだろう。
だったら、まぁ、面白いかどうか何て無視して、とにかく、書いたらいいんじゃないかと、僕は思う。
人気ブロガーの人とか、批判コメとかも多いんだろうし、変なこと書いたら炎上とかつるし上げとかされるのも怖いんだろうし、大変なんだろうとは思う。でも、そんなのつまんないよね。
言いたいことを、思ったことを、頭の中を整理したいことを、ちゃんとある程度まとまった文章で書いて公開するってのは、大事なことだと思うし、それって結構面白かったり楽しかったりすることだと、僕は思うけどな。
(自己弁護乙!)
今日の一言「酒うめぇ」
他、ニーサ口座の開設を調べなきゃと思いつつ、高価な失くしたものを探さないとと思いつつ、頭がまわらないなぁと思いながら、取りあえず、30分限定で書こう。
帰宅は23時半である。風呂入ってもろもろしていると、24時を過ぎる。
取りあえずルーチンしなきゃ、ほへー。
某障碍者施設の事件の犯人が、自己愛性パーソナリティ障害であったと、ある精神科医のブログさんで書かれていた。更に、現代においては、自己愛の健常な取り扱いができない人が多いのではないかという見立てもなされていた。僕も、自己愛偏執自分大好き人間なのだろうか。コメント返信しないまま記事を書くなんて、ダメなやつじゃあないだろうか(※)。
いやー、でもほんと、気持ちを落ち着けるために書くってのは、大事なんだ。
ある経営者さんなどは、坐禅や瞑想したり、精神を統一する時間を大切にしているというけれども、僕にとってこの書くというのは、精神統一の一つの方法なんじゃあないかと思うわけだ。
※コメントする内容のメモなどは電車の中で紙に書いたりしているのだ。最近、文章ではなくて、図示が簡単に素早くできる能力を身に着けようと思ってる。
という表現からしてもう、頭がおかしい人間である。
やってみたい? 経験したい? アホかと。そういうもんじゃないだろうと。「好きだ! やりたい!」という強いパトス(情熱)があってこそ、そういうもん(異性関係など)は発生するんじゃあないか、と。
前も書いた気がするけれども、最近、帰宅途中、もう誰とも話したくなくなるんだよな。メールとかラインとかコメントとかは良いんだけど、対人的なのは、ほんとノーサンキュー状態になる。
多分、死んだゾンビのような目をしている気がする。
そんな状態で、恋人と同棲生活とか、絶対無理だと思う。他者に時間や気持ちを割けないと思う。
……という表現からしてダメダメだ! その、「他者に時間を割く」という感覚がもう、「自己愛性パーソナリティー障害」みたいなもんだ。いや、空間と時間論的には間違っていない。24時間が一日なのであり、他者と触れ合う時間は、そのうち幾ばくかを使用する必要があるのである。
とはいえ。
その、「今日は〇〇さんに1時間費やした」とか、そんなこと言われたら、マジムカぷんぷん状態である。おめー何様なんだよ。そんなんだったら、別に付き合ってもらわなくていいよ。一生ひとりでやってろ! と怒られるだろう。
ということを、よーく分かった上で、ほんと、もう誰とも話したくも会いたくもなくなるのである。
だいたい、彼女が欲しいというのは、これも危険な感情なのである。「彼女」というのが、特定の誰かを想定されているならばいい。それは正常な「恋」といえるだろう。
ところが、「彼女」という不特定多数を想定しているのであれば、それは、「彼女がいる自分」という、自分のステータス強化のための一要素として考えているということである。
彼女のために色々してあげたいんだ!
という思いは、美しいかもしれない。しかし、そもそも、何をしてもらって嬉しいかどうか、というのは、人それぞれだ。価値多様化社会といって、前面切って否定できる人は少ないだろう。みんなそれぞれ好きなことや嫌いなことは違っている。それなのに、まだ具体化されていない、一般概念である「彼女」に対して、何か献身的になりたいというのは、単なる、その「彼女に対して献身的でいるという自分に価値を覚えている」自己愛に過ぎないのだ。
何が言いたいかと言うと、「好き」って感情が、もうよくわかんねーってことだ。
そしてここで、忙しすぎてそもそも「好き」を感じられるだけの状況をつくれていない、ということなのかもしれない、というわけだ。
あー、眠い。って、座ったまま寝ていた。
自失状態になっていた。30分過ぎていた。終わり。
(ひでー記事だ。しかし、ゲーム買ってもやる時間ないのは哀しい。相州戦神館學園とか剣の街の異邦人とか面白そうでやってみたいんだが……)
色々と頭が回らなくなっている
コメント頂いていて、まだ返信ができていない。三国志13のパワーアップキットが発売されていて、更に期間限定10%引きでDL版がアマゾンで売っていたので衝動買いしてしまったが、何もできていない。他、ニーサ口座の開設を調べなきゃと思いつつ、高価な失くしたものを探さないとと思いつつ、頭がまわらないなぁと思いながら、取りあえず、30分限定で書こう。
帰宅は23時半である。風呂入ってもろもろしていると、24時を過ぎる。
取りあえずルーチンしなきゃ、ほへー。
言い訳野郎が!
あー。そうだよなぁ、言い訳というか、忙しいアピールうぜーって感じだよなぁ。某障碍者施設の事件の犯人が、自己愛性パーソナリティ障害であったと、ある精神科医のブログさんで書かれていた。更に、現代においては、自己愛の健常な取り扱いができない人が多いのではないかという見立てもなされていた。僕も、自己愛偏執自分大好き人間なのだろうか。コメント返信しないまま記事を書くなんて、ダメなやつじゃあないだろうか(※)。
いやー、でもほんと、気持ちを落ち着けるために書くってのは、大事なんだ。
ある経営者さんなどは、坐禅や瞑想したり、精神を統一する時間を大切にしているというけれども、僕にとってこの書くというのは、精神統一の一つの方法なんじゃあないかと思うわけだ。
※コメントする内容のメモなどは電車の中で紙に書いたりしているのだ。最近、文章ではなくて、図示が簡単に素早くできる能力を身に着けようと思ってる。
人を好きになること
本当は、婚活とか、子どもを育てることとか、やってみたいと思っている。という表現からしてもう、頭がおかしい人間である。
やってみたい? 経験したい? アホかと。そういうもんじゃないだろうと。「好きだ! やりたい!」という強いパトス(情熱)があってこそ、そういうもん(異性関係など)は発生するんじゃあないか、と。
前も書いた気がするけれども、最近、帰宅途中、もう誰とも話したくなくなるんだよな。メールとかラインとかコメントとかは良いんだけど、対人的なのは、ほんとノーサンキュー状態になる。
多分、死んだゾンビのような目をしている気がする。
そんな状態で、恋人と同棲生活とか、絶対無理だと思う。他者に時間や気持ちを割けないと思う。
……という表現からしてダメダメだ! その、「他者に時間を割く」という感覚がもう、「自己愛性パーソナリティー障害」みたいなもんだ。いや、空間と時間論的には間違っていない。24時間が一日なのであり、他者と触れ合う時間は、そのうち幾ばくかを使用する必要があるのである。
とはいえ。
その、「今日は〇〇さんに1時間費やした」とか、そんなこと言われたら、マジムカぷんぷん状態である。おめー何様なんだよ。そんなんだったら、別に付き合ってもらわなくていいよ。一生ひとりでやってろ! と怒られるだろう。
ということを、よーく分かった上で、ほんと、もう誰とも話したくも会いたくもなくなるのである。
彼女が欲しいというのは誤った感情
まー、こうなってくると、もう、原因と結果が反転することに(コロンブスの卵のように)なる。忙しいから彼女ができないのか、彼女ができないから忙しいのか。だいたい、彼女が欲しいというのは、これも危険な感情なのである。「彼女」というのが、特定の誰かを想定されているならばいい。それは正常な「恋」といえるだろう。
ところが、「彼女」という不特定多数を想定しているのであれば、それは、「彼女がいる自分」という、自分のステータス強化のための一要素として考えているということである。
彼女のために色々してあげたいんだ!
という思いは、美しいかもしれない。しかし、そもそも、何をしてもらって嬉しいかどうか、というのは、人それぞれだ。価値多様化社会といって、前面切って否定できる人は少ないだろう。みんなそれぞれ好きなことや嫌いなことは違っている。それなのに、まだ具体化されていない、一般概念である「彼女」に対して、何か献身的になりたいというのは、単なる、その「彼女に対して献身的でいるという自分に価値を覚えている」自己愛に過ぎないのだ。
何が言いたいかと言うと、「好き」って感情が、もうよくわかんねーってことだ。
そしてここで、忙しすぎてそもそも「好き」を感じられるだけの状況をつくれていない、ということなのかもしれない、というわけだ。
あー、眠い。って、座ったまま寝ていた。
自失状態になっていた。30分過ぎていた。終わり。
(ひでー記事だ。しかし、ゲーム買ってもやる時間ないのは哀しい。相州戦神館學園とか剣の街の異邦人とか面白そうでやってみたいんだが……)
今日の一言「闘え」「この記事明るくないかもなぁ」
病気だ、と、断じてしまうのは簡単だ。確かに、病的な状態だろう。しかし、ここしばらく、1年、2年か分からないが、「健康」な状態など、何だかよく分からなくなってきている。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、人が死ぬべき存在であるということを忘れ、ただ日々を過ごすにかまけている人々を、ダス・マン(ただの人)と呼んだ。だがむしろ、そんな啓蒙を必要としない人こそが、「健康」なのである。確かに、大病を患い、いよいよ死期を悟った際に、これまでを後悔し、「ああ、俺は何と無駄に人生を過ごしてきたのだろう」と煩悶したとして、それが死ぬ1日前であれば幸せである。何故ならば、その人は、強烈ではあろうが、ただ1日に過ぎない苦悩により、生から解放されたのだ。
一方で、メメント・モリと、死を思い、人生の意味を問い、実存的空虚感に苛まれて何十年も過ごした人が、ついに自らの生きる意味を見つけ、これまでの人生に光をもたらしたとして、それが死ぬ一日前だとしたら、その人生の大半は苦悶で終わったのだ。
まさに。真理とはいかなる救いにもならない。終わりよければすべてよし、という諧謔があるとして、それを、人は何となく真理のように思うけれども、本当にそうか? 「結果じゃないよ、プロセス、過程が大事なんだよ」という教訓めいたものも、耳にしたことは無いだろうか?
ご都合主義だ。いや、これは、アイロニーではありながら、別に否定をしようというわけではない。絶対的真理など存在しないのであれば、相対的な真理をその都度選択していくほかはないのである。
二つ目の問題は、相対的な生き方は、それが処世術として正しくありながら、生きることそれ自体の意味喪失を生じさせることである。人は無意識的に、日々の生活がますます良いものになっていくだろうことを信じている。いやそんなことはないよと、ネガティブなことしか口にできない人もいるだろうよ、と、そういった反論は当然ある。しかし、ますます一日一日を過ごすにあたり、どんどん悪い方向にしかいかないとしたら、人は積極的に自死を選び取るはずだ。「ますます良いものに」という表現では、お金がたまったり、女の子にもてたり、人から頼られたりと、そういった一般的な「良いこと」が想定されるけれども、そうではない。ふつーの暮らし、ご飯食べて寝て人と話して遊んでといった繰り返し、その繰り返しこそに、意義を、意味を感じ強固にしていくのが通常なのである(それが「ますます良いものに」という無意識的な感覚である)。
それが、相対的な真理しか無いという実感が生じてしまったときには、その毎日の繰り返しは、もはや、単なる機械的な運動に貶められるのである。
書くからには、読む人に、何か意味を伝えなければならない。共感が得られなくても構わない。ただ、その文章の、日本語としての意味は理解してもらわなければならない。そのための配慮は欠かしてはならない。
しかしながら、そこにとらわれてしまうと、本来の、自己の表現という面が蔑ろにされかねないのである。
半年前か、一年前か分からないが、そのころはもっと、他者にどう思われようが、自分の感覚を余すことなく、率直に忌憚なく躊躇なく書き続けようとしていた。おかげで、今読んで何を書いているのかよく分からなかったり、短すぎて理解不能のものも多くある。そういうのは躊躇わずにどんどん削除していこう。
それはそうと、僕は、いったい、何を……。
眠い。また、24時をあっというまに過ぎる。
寝ても覚めても仕事のことばかり。
終わりが見えない。頑張っても評価されるどころか、面倒なことを持ち込みやがってみたいなことになる。こういうときは適当にきりを付ける、しかし、結局あとになってもっと問題が大きくなって襲ってくるし、そもそも性格上、中途半端はあまり好きではないときたもんだ。
俺とはなんだ?
神経症、ノイローゼの人と健康な人との違いの一つに、明証感情がある。明証……何かを、正しいと感じる心だ。例えば、潔癖症で手を洗っても洗っても汚れていると手の皮が擦り剝けるまで洗い続ける人がいたとして、その人は、「綺麗になった」という感情を抱けないのだ。だから、いつまでたっても、汚れている、汚いとして、むしろ皮膚が破けて血が出て逆に衛生的じゃなくなっても、やめることができないのである。
神経症や精神病は病気で、健常な人からすれば理解に苦しむ場合があるが、ただ、現実はどうであるとして、後ろから誰かがついてきているという感覚が本当に自分の中であるように思われるならば、そりゃーやっぱりパニックになったり、落ち着けなくなることだろう。その人に、口で単純に、「いや誰もいないよ」「もう十分きれいになったよ」といったところで、「いやだってホントに誰かいるんだもん!」と「実感」していたら、恐怖は取り除けないだろう。
だから、俺の病気、……何だかもう、何に対してもやる気がでない、モチベーションがあがらない状況において、「頑張れ頑張れ!」とか、「十分やったよ! ゆっくりやすみな!」といったところで、あまり意味はなさないのである。
ので、僕は、闘う。
その方法は、ルーチンをこなすこと。
もう一つは、書くこと。
くっそ、めちゃくちゃ、わかりやすい文章を書いてやりたい。俺のこの、どうしようもなく疲れて、不安で、やる気の出ない、くそみたいな感覚を、「えー童貞? キモーイ! 童貞なんて小学生までだよね!」とか言ってるキャピキャピの女子高生にも分かるぐらい簡潔に表現したい。
……。
ほーら、きたぞきたぞ! 分かりやすいって何? 面白いって何? ポジティブって何? 笑うって何? 感情って何? 自分って何? 生きる意味って何? 何、何? 何??
これを、ほわいほわい病という。
これに罹患すると、何故何故という感情に思考の大半を奪われ、現実的行動方策が取れなくなり、結果的に無気力状態になっていく。
(治療方法は確立されていないが、日課をこなしたり身体を動かしたり何か思考をあまり必要としない単純作業を行ったり、いっそ逆説志向にして、何故と生じることを余すことなく全部書き出してやると、快方に向かうことがまれにある)
気が狂いそうになる
半年前ほどは、とにかく、心を落ち着けるために書いていた。止めどなく生じる思考と感情。そして問い。何故? 何故? 何故? と、強迫観念のように襲ってくる。病気だ、と、断じてしまうのは簡単だ。確かに、病的な状態だろう。しかし、ここしばらく、1年、2年か分からないが、「健康」な状態など、何だかよく分からなくなってきている。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、人が死ぬべき存在であるということを忘れ、ただ日々を過ごすにかまけている人々を、ダス・マン(ただの人)と呼んだ。だがむしろ、そんな啓蒙を必要としない人こそが、「健康」なのである。確かに、大病を患い、いよいよ死期を悟った際に、これまでを後悔し、「ああ、俺は何と無駄に人生を過ごしてきたのだろう」と煩悶したとして、それが死ぬ1日前であれば幸せである。何故ならば、その人は、強烈ではあろうが、ただ1日に過ぎない苦悩により、生から解放されたのだ。
一方で、メメント・モリと、死を思い、人生の意味を問い、実存的空虚感に苛まれて何十年も過ごした人が、ついに自らの生きる意味を見つけ、これまでの人生に光をもたらしたとして、それが死ぬ一日前だとしたら、その人生の大半は苦悶で終わったのだ。
まさに。真理とはいかなる救いにもならない。終わりよければすべてよし、という諧謔があるとして、それを、人は何となく真理のように思うけれども、本当にそうか? 「結果じゃないよ、プロセス、過程が大事なんだよ」という教訓めいたものも、耳にしたことは無いだろうか?
ご都合主義だ。いや、これは、アイロニーではありながら、別に否定をしようというわけではない。絶対的真理など存在しないのであれば、相対的な真理をその都度選択していくほかはないのである。
仕事と思考と言葉
相対的な真理で満足していくというのは、日々の生活に実践と思考を繰り返し試しながら、感情と現実のフィードバックを調整していくことに他ならない。まわりくどく書いたが、「ふつーに生きる」ことである。しかしその、「フツー」について、「努力」という行為が要されることになったとき、様相は異なっていく。それが問題の一つ目。二つ目の問題は、相対的な生き方は、それが処世術として正しくありながら、生きることそれ自体の意味喪失を生じさせることである。人は無意識的に、日々の生活がますます良いものになっていくだろうことを信じている。いやそんなことはないよと、ネガティブなことしか口にできない人もいるだろうよ、と、そういった反論は当然ある。しかし、ますます一日一日を過ごすにあたり、どんどん悪い方向にしかいかないとしたら、人は積極的に自死を選び取るはずだ。「ますます良いものに」という表現では、お金がたまったり、女の子にもてたり、人から頼られたりと、そういった一般的な「良いこと」が想定されるけれども、そうではない。ふつーの暮らし、ご飯食べて寝て人と話して遊んでといった繰り返し、その繰り返しこそに、意義を、意味を感じ強固にしていくのが通常なのである(それが「ますます良いものに」という無意識的な感覚である)。
それが、相対的な真理しか無いという実感が生じてしまったときには、その毎日の繰り返しは、もはや、単なる機械的な運動に貶められるのである。
明るい記事にしようという強迫
さてここで記事が終わってしまったとき、読んだ人に、いったいどのような感慨を与えるのか、僕はそれを最近気にしてしまっている。これが、ブログとか、公開する日記におけるデメリットである。書くからには、読む人に、何か意味を伝えなければならない。共感が得られなくても構わない。ただ、その文章の、日本語としての意味は理解してもらわなければならない。そのための配慮は欠かしてはならない。
しかしながら、そこにとらわれてしまうと、本来の、自己の表現という面が蔑ろにされかねないのである。
半年前か、一年前か分からないが、そのころはもっと、他者にどう思われようが、自分の感覚を余すことなく、率直に忌憚なく躊躇なく書き続けようとしていた。おかげで、今読んで何を書いているのかよく分からなかったり、短すぎて理解不能のものも多くある。そういうのは躊躇わずにどんどん削除していこう。
それはそうと、僕は、いったい、何を……。
眠い。また、24時をあっというまに過ぎる。
寝ても覚めても仕事のことばかり。
終わりが見えない。頑張っても評価されるどころか、面倒なことを持ち込みやがってみたいなことになる。こういうときは適当にきりを付ける、しかし、結局あとになってもっと問題が大きくなって襲ってくるし、そもそも性格上、中途半端はあまり好きではないときたもんだ。
消えていきそうな感覚
君の名は。じゃないが、誰か俺の名前を呼んでくれ。俺は誰だ? 俺は何をしている? 俺はどこにいる?俺とはなんだ?
神経症、ノイローゼの人と健康な人との違いの一つに、明証感情がある。明証……何かを、正しいと感じる心だ。例えば、潔癖症で手を洗っても洗っても汚れていると手の皮が擦り剝けるまで洗い続ける人がいたとして、その人は、「綺麗になった」という感情を抱けないのだ。だから、いつまでたっても、汚れている、汚いとして、むしろ皮膚が破けて血が出て逆に衛生的じゃなくなっても、やめることができないのである。
神経症や精神病は病気で、健常な人からすれば理解に苦しむ場合があるが、ただ、現実はどうであるとして、後ろから誰かがついてきているという感覚が本当に自分の中であるように思われるならば、そりゃーやっぱりパニックになったり、落ち着けなくなることだろう。その人に、口で単純に、「いや誰もいないよ」「もう十分きれいになったよ」といったところで、「いやだってホントに誰かいるんだもん!」と「実感」していたら、恐怖は取り除けないだろう。
だから、俺の病気、……何だかもう、何に対してもやる気がでない、モチベーションがあがらない状況において、「頑張れ頑張れ!」とか、「十分やったよ! ゆっくりやすみな!」といったところで、あまり意味はなさないのである。
ので、僕は、闘う。
自分との闘い
人生と闘う。無意味感と闘う。自分と闘う。その方法は、ルーチンをこなすこと。
もう一つは、書くこと。
くっそ、めちゃくちゃ、わかりやすい文章を書いてやりたい。俺のこの、どうしようもなく疲れて、不安で、やる気の出ない、くそみたいな感覚を、「えー童貞? キモーイ! 童貞なんて小学生までだよね!」とか言ってるキャピキャピの女子高生にも分かるぐらい簡潔に表現したい。
……。
ほーら、きたぞきたぞ! 分かりやすいって何? 面白いって何? ポジティブって何? 笑うって何? 感情って何? 自分って何? 生きる意味って何? 何、何? 何??
これを、ほわいほわい病という。
これに罹患すると、何故何故という感情に思考の大半を奪われ、現実的行動方策が取れなくなり、結果的に無気力状態になっていく。
(治療方法は確立されていないが、日課をこなしたり身体を動かしたり何か思考をあまり必要としない単純作業を行ったり、いっそ逆説志向にして、何故と生じることを余すことなく全部書き出してやると、快方に向かうことがまれにある)
今日の一言「小説で泣いたことあったっけ」
を視聴。全然予定に無かったし、そもそも、第5話の最終回からみ始めた。
第5話で、ストーリーも何も分からないのに、泣いてしまった。
自分は、この、ロボットとか、アンドロイドとか、人工知能とか、それ系の話に弱いんだなぁ。
音楽も良かった。
クラナドは名作と聞いているが、絵柄が好みじゃなくて、keyというアニメーション(? ゲーム会社?)会社が手掛けているということで、絵柄が好みじゃないか、と思ったけれど、そんなことはなかった。
絵柄が好みじゃなくて敬遠していたので、すっかりハマってしまったのは、ジョジョとか、他にも確かあった気がする。(段々それが良くなってくる)
同じロボット(アンドロイド)のジャンルとして、「イヴの時間」も結構面白かった気がする。また見直してみようかな。
アイボもそうだが、ペッパーくんとかも、個人で買えるらしい。
プログラミングされたロボットと、人工知能(AI:アーティフィシャル・インテリジェンス)との違いを、簡単に表現してみよう。
まず、人型をしているかどうか、というのは関係ない。アンドロイド、というと、既にケータイ端末のOS(プラットフォーム)の意味で使われることが多くなってしまったが、人型のロボットが、アンドロイドと呼ばれる。プラネタリアンのプラネタリウム案内ロボットゆめみさんも、アンドロイドと言ってもよいわけだ。
広い意味(包括する意味)では、ロボットといってしまえば、人工知能も含まれることになる。ロボットとは、人の代わりに作業を行う、自律した機械の総称である。その機械をどのように動かすか、という方法が、プログラムなのか、人工知能なのかの違いとなる。
では、プログラムと人工知能の違いは何か? 広い意味(包括する意味)では、プログラムといってしまえば、人工知能も含まれることになるだろう。
結局どういうことだ? 図にしてみた。
制御装置(プログラム)において、ノイマン型と、新しい言葉を使ってしまったけれども、いわゆる普通のコンピュータの制御方式である。
人工知能の特徴は、人間の脳と同様の仕組み、ニューラルネットワークにある。
ニューラルネットワークとは、複数のインプットが同時多発的に関係することでアウトプットを成す仕組みである。それによって、複雑な、思考のようなものをロボットにもできるようにしようという試みである。
もう一つ人工知能の特徴は、自己学習である。この学習機能の進化、深化が、まさに今後、アンドロイドから、感情を得られるようになるかどうかが肝になってくると、僕は思っている。
(※上の図を含めて、特に何か参照して作成しているわけではなく、単に僕の頭の中のアウトプットに過ぎない点に注意願います。いないと思いますが、万が一にも何かに引用するのは危険なのでやめた方がいいと思います。逆に、何か決定的な認識違いがあったらご指摘ください。精緻さというよりは、概念的な誤りは速やかに訂正すべきといつも思っております。)
ただし、その外見上の問題が解決されたとしても、なお、ロボットと人間とは、決定的な隔たりがある。
確かに、今、音声認識システムの精緻さはすげーなと思う。シリさんは使ったこと無いけれど、グーグル検索においても、人目をはばからなければ大抵の検索ワードは、音声でひろってくれる。
ただ、LINEで有名な、女子高生AI「りんな」も、「ルーチン感」が大きい。
人間とロボットの違いは、その「不確実性」にある。同じ言葉を発しても、受け取り方が全く違ったり、そのときの気分によって、レスポンスが異なることもあるだろう。
当たり前だ、所詮は、プログラムされたことしか行えない、話せないのだ。
しかし、その「所詮プログラム」を超えて、そのロボットの行動が、「感情」として認識できたとき、それはもはや、人間が与える感動よりもより巨大な感動を与えるのである。
それは、純粋性という理由である。
すぐさま言うべきは、その、「自分の利益」(ここでいう利益は、非常に広い概念でのものであり、決して金銭的なものだけを指すのではない)が、悪いことではないのである。ボランティアなんて偽善だぜ、とかいって、家でテレビみてるよりは、災害現場などに足を運び活動するということは、非常に尊いことである(※)。
しかし、敢えて、サイコパス的なことを書けば、「純粋な自己犠牲」など、存在しない、と僕は思っている。
親が子を守るために身を犠牲にするという事実が無いということではない。恋人をかばってトラックにひかれることが、漫画の世界以外に起こらないということではない。
だが、その行為は、包括的な自分の意志だと思うのだ。自己中心的だと思うのだ、思ってしまうのだ。自分の命を、純粋に天秤にかけているのではない。自分の命と、「守りたい人」+「自己実現(守りたいと思う自分の気持ち)」との比較なのだと思うのだ。
この考えに取りつかれていることは、「病気」と言っていいだろう。治療するべきだと思う。だからこそ、敢えて表現している。
上の比較においての、「自己実現」というのは、例えば、「守りたい対象」を失った先の自分の人生が想像できない、とか、そういうのも含まれる。
献身とか、奉仕とか、自己犠牲とかが、時に美しく語られ、感動を思わせるのは、逆にそういった状況や行為がレアケースだからの現れともいえる。
繰り返すが、何らかの行為に、自己実現や自分の利益というのが含まれるのは、ダメなことではない。
これを否定し始めると、自分を捨てて他者に尽くすことが正義であるといった、某全体主義国家みたいになっていくだろう。他者と協力することや、仲良くすること、尊重すること、助け合うことは大事だ、間違いない、ただ、その行為の前提に、「自分」があることについて、否定してはならないのではないか、ということを言いたいだけだ。
※邪魔になったり、求められていないことをしたり、いらないものを送りつけたり、そういったマイナスなことになる場合もあるから、本当に何をすべきは熟慮するべきであるが、それでも、何か行動を起こそうとすることは重要なことだし、賞賛すべきことである。
しかし、ロボットの行為には、その「自分」にあたるものが感じさせられない、いわば、純粋な行為そのものである。
だから、この時点においては、ロボットは、「モノ」と同様である。
話を進める順番が間違っているけれども、僕はさらに、ロボットに「感情」は、無い、と思っている。ここで、その「感情」とは何か、ということについて、これまで記事を書いてこなかったことに少しばかり後悔がある。
しかし、長くなってしまったので、今回はここまで。
かなり表現エラーが多い記事になってしまった。しかし、一回書いておかないと、修正作業もできないほど、この問題は根深い。自分の感覚や思考を、できる限り齟齬の無いように表現するというのは、やっぱりかなり難しいなと思わざるをえない。
(そもそも、人間の行為すべて「打算」みたいな表現になってしまった時点で、上手く表現できていない。そういうことが言いたいんじゃないんだけど……これらの問題については、これまでの蓄積が足りな過ぎて、上手く表現できない。)
プラネタリアン
planetarian~ちいさなほしのゆめ~を視聴。全然予定に無かったし、そもそも、第5話の最終回からみ始めた。
第5話で、ストーリーも何も分からないのに、泣いてしまった。
自分は、この、ロボットとか、アンドロイドとか、人工知能とか、それ系の話に弱いんだなぁ。
音楽も良かった。
クラナドは名作と聞いているが、絵柄が好みじゃなくて、keyというアニメーション(? ゲーム会社?)会社が手掛けているということで、絵柄が好みじゃないか、と思ったけれど、そんなことはなかった。
絵柄が好みじゃなくて敬遠していたので、すっかりハマってしまったのは、ジョジョとか、他にも確かあった気がする。(段々それが良くなってくる)
同じロボット(アンドロイド)のジャンルとして、「イヴの時間」も結構面白かった気がする。また見直してみようかな。
感情もどきとはいえ受け取るのは人間である
いやー、VRとか、流行っているそうな。VR彼女とか、ヴァーチャルリアリティ世界の女の子とイチャイチャできるのである(たぶん)。アイボもそうだが、ペッパーくんとかも、個人で買えるらしい。
プログラミングされたロボットと、人工知能(AI:アーティフィシャル・インテリジェンス)との違いを、簡単に表現してみよう。
まず、人型をしているかどうか、というのは関係ない。アンドロイド、というと、既にケータイ端末のOS(プラットフォーム)の意味で使われることが多くなってしまったが、人型のロボットが、アンドロイドと呼ばれる。プラネタリアンのプラネタリウム案内ロボットゆめみさんも、アンドロイドと言ってもよいわけだ。
広い意味(包括する意味)では、ロボットといってしまえば、人工知能も含まれることになる。ロボットとは、人の代わりに作業を行う、自律した機械の総称である。その機械をどのように動かすか、という方法が、プログラムなのか、人工知能なのかの違いとなる。
では、プログラムと人工知能の違いは何か? 広い意味(包括する意味)では、プログラムといってしまえば、人工知能も含まれることになるだろう。
結局どういうことだ? 図にしてみた。
制御装置(プログラム)において、ノイマン型と、新しい言葉を使ってしまったけれども、いわゆる普通のコンピュータの制御方式である。
人工知能との違い
ノイマン型のコンピュータと、人工知能の違いについては、その構築原理の違いである。人工知能の特徴は、人間の脳と同様の仕組み、ニューラルネットワークにある。
ニューラルネットワークとは、複数のインプットが同時多発的に関係することでアウトプットを成す仕組みである。それによって、複雑な、思考のようなものをロボットにもできるようにしようという試みである。
もう一つ人工知能の特徴は、自己学習である。この学習機能の進化、深化が、まさに今後、アンドロイドから、感情を得られるようになるかどうかが肝になってくると、僕は思っている。
(※上の図を含めて、特に何か参照して作成しているわけではなく、単に僕の頭の中のアウトプットに過ぎない点に注意願います。いないと思いますが、万が一にも何かに引用するのは危険なのでやめた方がいいと思います。逆に、何か決定的な認識違いがあったらご指摘ください。精緻さというよりは、概念的な誤りは速やかに訂正すべきといつも思っております。)
ロボットで何故感動するのか?
介護施設などで、人型をしたロボットが導入されることがあるという。恐らく、近い将来、見かけ上は、人間と区別がつかないような精密なロボット(アンドロイド)がつくられるだろうと思う。(ここで「不気味の谷」という話は必ず出てくるが、表情の動きといった面からも、これは乗り越えることができると思う。)ただし、その外見上の問題が解決されたとしても、なお、ロボットと人間とは、決定的な隔たりがある。
確かに、今、音声認識システムの精緻さはすげーなと思う。シリさんは使ったこと無いけれど、グーグル検索においても、人目をはばからなければ大抵の検索ワードは、音声でひろってくれる。
ただ、LINEで有名な、女子高生AI「りんな」も、「ルーチン感」が大きい。
人間とロボットの違いは、その「不確実性」にある。同じ言葉を発しても、受け取り方が全く違ったり、そのときの気分によって、レスポンスが異なることもあるだろう。
当たり前だ、所詮は、プログラムされたことしか行えない、話せないのだ。
しかし、その「所詮プログラム」を超えて、そのロボットの行動が、「感情」として認識できたとき、それはもはや、人間が与える感動よりもより巨大な感動を与えるのである。
それは、純粋性という理由である。
感情の純粋性
偽りの感情があるというわけではないが、しかし、尊きボランティア活動であっても、そこに「自己実現」だとか、「打算」的な思いが発生していることは、否定できないことである。すぐさま言うべきは、その、「自分の利益」(ここでいう利益は、非常に広い概念でのものであり、決して金銭的なものだけを指すのではない)が、悪いことではないのである。ボランティアなんて偽善だぜ、とかいって、家でテレビみてるよりは、災害現場などに足を運び活動するということは、非常に尊いことである(※)。
しかし、敢えて、サイコパス的なことを書けば、「純粋な自己犠牲」など、存在しない、と僕は思っている。
親が子を守るために身を犠牲にするという事実が無いということではない。恋人をかばってトラックにひかれることが、漫画の世界以外に起こらないということではない。
だが、その行為は、包括的な自分の意志だと思うのだ。自己中心的だと思うのだ、思ってしまうのだ。自分の命を、純粋に天秤にかけているのではない。自分の命と、「守りたい人」+「自己実現(守りたいと思う自分の気持ち)」との比較なのだと思うのだ。
この考えに取りつかれていることは、「病気」と言っていいだろう。治療するべきだと思う。だからこそ、敢えて表現している。
上の比較においての、「自己実現」というのは、例えば、「守りたい対象」を失った先の自分の人生が想像できない、とか、そういうのも含まれる。
献身とか、奉仕とか、自己犠牲とかが、時に美しく語られ、感動を思わせるのは、逆にそういった状況や行為がレアケースだからの現れともいえる。
繰り返すが、何らかの行為に、自己実現や自分の利益というのが含まれるのは、ダメなことではない。
これを否定し始めると、自分を捨てて他者に尽くすことが正義であるといった、某全体主義国家みたいになっていくだろう。他者と協力することや、仲良くすること、尊重すること、助け合うことは大事だ、間違いない、ただ、その行為の前提に、「自分」があることについて、否定してはならないのではないか、ということを言いたいだけだ。
※邪魔になったり、求められていないことをしたり、いらないものを送りつけたり、そういったマイナスなことになる場合もあるから、本当に何をすべきは熟慮するべきであるが、それでも、何か行動を起こそうとすることは重要なことだし、賞賛すべきことである。
ロボットの感情とは
人間の行為には、必ず、「自分」というものが介在することについて、ここまで表現したつもりである。(当たり前のことである、行為の主体はあくまでも自分自身でしかありえない。もっとも、洗脳されたり強制された自己犠牲というものは、ある意味「自分」が存在しない純粋な行為といえるかもしれないが、そんなもの言うに及ばない邪悪である)しかし、ロボットの行為には、その「自分」にあたるものが感じさせられない、いわば、純粋な行為そのものである。
だから、この時点においては、ロボットは、「モノ」と同様である。
話を進める順番が間違っているけれども、僕はさらに、ロボットに「感情」は、無い、と思っている。ここで、その「感情」とは何か、ということについて、これまで記事を書いてこなかったことに少しばかり後悔がある。
しかし、長くなってしまったので、今回はここまで。
かなり表現エラーが多い記事になってしまった。しかし、一回書いておかないと、修正作業もできないほど、この問題は根深い。自分の感覚や思考を、できる限り齟齬の無いように表現するというのは、やっぱりかなり難しいなと思わざるをえない。
(そもそも、人間の行為すべて「打算」みたいな表現になってしまった時点で、上手く表現できていない。そういうことが言いたいんじゃないんだけど……これらの問題については、これまでの蓄積が足りな過ぎて、上手く表現できない。)
