今日の一言「闘え」「この記事明るくないかもなぁ」
病気だ、と、断じてしまうのは簡単だ。確かに、病的な状態だろう。しかし、ここしばらく、1年、2年か分からないが、「健康」な状態など、何だかよく分からなくなってきている。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、人が死ぬべき存在であるということを忘れ、ただ日々を過ごすにかまけている人々を、ダス・マン(ただの人)と呼んだ。だがむしろ、そんな啓蒙を必要としない人こそが、「健康」なのである。確かに、大病を患い、いよいよ死期を悟った際に、これまでを後悔し、「ああ、俺は何と無駄に人生を過ごしてきたのだろう」と煩悶したとして、それが死ぬ1日前であれば幸せである。何故ならば、その人は、強烈ではあろうが、ただ1日に過ぎない苦悩により、生から解放されたのだ。
一方で、メメント・モリと、死を思い、人生の意味を問い、実存的空虚感に苛まれて何十年も過ごした人が、ついに自らの生きる意味を見つけ、これまでの人生に光をもたらしたとして、それが死ぬ一日前だとしたら、その人生の大半は苦悶で終わったのだ。
まさに。真理とはいかなる救いにもならない。終わりよければすべてよし、という諧謔があるとして、それを、人は何となく真理のように思うけれども、本当にそうか? 「結果じゃないよ、プロセス、過程が大事なんだよ」という教訓めいたものも、耳にしたことは無いだろうか?
ご都合主義だ。いや、これは、アイロニーではありながら、別に否定をしようというわけではない。絶対的真理など存在しないのであれば、相対的な真理をその都度選択していくほかはないのである。
二つ目の問題は、相対的な生き方は、それが処世術として正しくありながら、生きることそれ自体の意味喪失を生じさせることである。人は無意識的に、日々の生活がますます良いものになっていくだろうことを信じている。いやそんなことはないよと、ネガティブなことしか口にできない人もいるだろうよ、と、そういった反論は当然ある。しかし、ますます一日一日を過ごすにあたり、どんどん悪い方向にしかいかないとしたら、人は積極的に自死を選び取るはずだ。「ますます良いものに」という表現では、お金がたまったり、女の子にもてたり、人から頼られたりと、そういった一般的な「良いこと」が想定されるけれども、そうではない。ふつーの暮らし、ご飯食べて寝て人と話して遊んでといった繰り返し、その繰り返しこそに、意義を、意味を感じ強固にしていくのが通常なのである(それが「ますます良いものに」という無意識的な感覚である)。
それが、相対的な真理しか無いという実感が生じてしまったときには、その毎日の繰り返しは、もはや、単なる機械的な運動に貶められるのである。
書くからには、読む人に、何か意味を伝えなければならない。共感が得られなくても構わない。ただ、その文章の、日本語としての意味は理解してもらわなければならない。そのための配慮は欠かしてはならない。
しかしながら、そこにとらわれてしまうと、本来の、自己の表現という面が蔑ろにされかねないのである。
半年前か、一年前か分からないが、そのころはもっと、他者にどう思われようが、自分の感覚を余すことなく、率直に忌憚なく躊躇なく書き続けようとしていた。おかげで、今読んで何を書いているのかよく分からなかったり、短すぎて理解不能のものも多くある。そういうのは躊躇わずにどんどん削除していこう。
それはそうと、僕は、いったい、何を……。
眠い。また、24時をあっというまに過ぎる。
寝ても覚めても仕事のことばかり。
終わりが見えない。頑張っても評価されるどころか、面倒なことを持ち込みやがってみたいなことになる。こういうときは適当にきりを付ける、しかし、結局あとになってもっと問題が大きくなって襲ってくるし、そもそも性格上、中途半端はあまり好きではないときたもんだ。
俺とはなんだ?
神経症、ノイローゼの人と健康な人との違いの一つに、明証感情がある。明証……何かを、正しいと感じる心だ。例えば、潔癖症で手を洗っても洗っても汚れていると手の皮が擦り剝けるまで洗い続ける人がいたとして、その人は、「綺麗になった」という感情を抱けないのだ。だから、いつまでたっても、汚れている、汚いとして、むしろ皮膚が破けて血が出て逆に衛生的じゃなくなっても、やめることができないのである。
神経症や精神病は病気で、健常な人からすれば理解に苦しむ場合があるが、ただ、現実はどうであるとして、後ろから誰かがついてきているという感覚が本当に自分の中であるように思われるならば、そりゃーやっぱりパニックになったり、落ち着けなくなることだろう。その人に、口で単純に、「いや誰もいないよ」「もう十分きれいになったよ」といったところで、「いやだってホントに誰かいるんだもん!」と「実感」していたら、恐怖は取り除けないだろう。
だから、俺の病気、……何だかもう、何に対してもやる気がでない、モチベーションがあがらない状況において、「頑張れ頑張れ!」とか、「十分やったよ! ゆっくりやすみな!」といったところで、あまり意味はなさないのである。
ので、僕は、闘う。
その方法は、ルーチンをこなすこと。
もう一つは、書くこと。
くっそ、めちゃくちゃ、わかりやすい文章を書いてやりたい。俺のこの、どうしようもなく疲れて、不安で、やる気の出ない、くそみたいな感覚を、「えー童貞? キモーイ! 童貞なんて小学生までだよね!」とか言ってるキャピキャピの女子高生にも分かるぐらい簡潔に表現したい。
……。
ほーら、きたぞきたぞ! 分かりやすいって何? 面白いって何? ポジティブって何? 笑うって何? 感情って何? 自分って何? 生きる意味って何? 何、何? 何??
これを、ほわいほわい病という。
これに罹患すると、何故何故という感情に思考の大半を奪われ、現実的行動方策が取れなくなり、結果的に無気力状態になっていく。
(治療方法は確立されていないが、日課をこなしたり身体を動かしたり何か思考をあまり必要としない単純作業を行ったり、いっそ逆説志向にして、何故と生じることを余すことなく全部書き出してやると、快方に向かうことがまれにある)
気が狂いそうになる
半年前ほどは、とにかく、心を落ち着けるために書いていた。止めどなく生じる思考と感情。そして問い。何故? 何故? 何故? と、強迫観念のように襲ってくる。病気だ、と、断じてしまうのは簡単だ。確かに、病的な状態だろう。しかし、ここしばらく、1年、2年か分からないが、「健康」な状態など、何だかよく分からなくなってきている。
ドイツの哲学者ハイデッガーは、人が死ぬべき存在であるということを忘れ、ただ日々を過ごすにかまけている人々を、ダス・マン(ただの人)と呼んだ。だがむしろ、そんな啓蒙を必要としない人こそが、「健康」なのである。確かに、大病を患い、いよいよ死期を悟った際に、これまでを後悔し、「ああ、俺は何と無駄に人生を過ごしてきたのだろう」と煩悶したとして、それが死ぬ1日前であれば幸せである。何故ならば、その人は、強烈ではあろうが、ただ1日に過ぎない苦悩により、生から解放されたのだ。
一方で、メメント・モリと、死を思い、人生の意味を問い、実存的空虚感に苛まれて何十年も過ごした人が、ついに自らの生きる意味を見つけ、これまでの人生に光をもたらしたとして、それが死ぬ一日前だとしたら、その人生の大半は苦悶で終わったのだ。
まさに。真理とはいかなる救いにもならない。終わりよければすべてよし、という諧謔があるとして、それを、人は何となく真理のように思うけれども、本当にそうか? 「結果じゃないよ、プロセス、過程が大事なんだよ」という教訓めいたものも、耳にしたことは無いだろうか?
ご都合主義だ。いや、これは、アイロニーではありながら、別に否定をしようというわけではない。絶対的真理など存在しないのであれば、相対的な真理をその都度選択していくほかはないのである。
仕事と思考と言葉
相対的な真理で満足していくというのは、日々の生活に実践と思考を繰り返し試しながら、感情と現実のフィードバックを調整していくことに他ならない。まわりくどく書いたが、「ふつーに生きる」ことである。しかしその、「フツー」について、「努力」という行為が要されることになったとき、様相は異なっていく。それが問題の一つ目。二つ目の問題は、相対的な生き方は、それが処世術として正しくありながら、生きることそれ自体の意味喪失を生じさせることである。人は無意識的に、日々の生活がますます良いものになっていくだろうことを信じている。いやそんなことはないよと、ネガティブなことしか口にできない人もいるだろうよ、と、そういった反論は当然ある。しかし、ますます一日一日を過ごすにあたり、どんどん悪い方向にしかいかないとしたら、人は積極的に自死を選び取るはずだ。「ますます良いものに」という表現では、お金がたまったり、女の子にもてたり、人から頼られたりと、そういった一般的な「良いこと」が想定されるけれども、そうではない。ふつーの暮らし、ご飯食べて寝て人と話して遊んでといった繰り返し、その繰り返しこそに、意義を、意味を感じ強固にしていくのが通常なのである(それが「ますます良いものに」という無意識的な感覚である)。
それが、相対的な真理しか無いという実感が生じてしまったときには、その毎日の繰り返しは、もはや、単なる機械的な運動に貶められるのである。
明るい記事にしようという強迫
さてここで記事が終わってしまったとき、読んだ人に、いったいどのような感慨を与えるのか、僕はそれを最近気にしてしまっている。これが、ブログとか、公開する日記におけるデメリットである。書くからには、読む人に、何か意味を伝えなければならない。共感が得られなくても構わない。ただ、その文章の、日本語としての意味は理解してもらわなければならない。そのための配慮は欠かしてはならない。
しかしながら、そこにとらわれてしまうと、本来の、自己の表現という面が蔑ろにされかねないのである。
半年前か、一年前か分からないが、そのころはもっと、他者にどう思われようが、自分の感覚を余すことなく、率直に忌憚なく躊躇なく書き続けようとしていた。おかげで、今読んで何を書いているのかよく分からなかったり、短すぎて理解不能のものも多くある。そういうのは躊躇わずにどんどん削除していこう。
それはそうと、僕は、いったい、何を……。
眠い。また、24時をあっというまに過ぎる。
寝ても覚めても仕事のことばかり。
終わりが見えない。頑張っても評価されるどころか、面倒なことを持ち込みやがってみたいなことになる。こういうときは適当にきりを付ける、しかし、結局あとになってもっと問題が大きくなって襲ってくるし、そもそも性格上、中途半端はあまり好きではないときたもんだ。
消えていきそうな感覚
君の名は。じゃないが、誰か俺の名前を呼んでくれ。俺は誰だ? 俺は何をしている? 俺はどこにいる?俺とはなんだ?
神経症、ノイローゼの人と健康な人との違いの一つに、明証感情がある。明証……何かを、正しいと感じる心だ。例えば、潔癖症で手を洗っても洗っても汚れていると手の皮が擦り剝けるまで洗い続ける人がいたとして、その人は、「綺麗になった」という感情を抱けないのだ。だから、いつまでたっても、汚れている、汚いとして、むしろ皮膚が破けて血が出て逆に衛生的じゃなくなっても、やめることができないのである。
神経症や精神病は病気で、健常な人からすれば理解に苦しむ場合があるが、ただ、現実はどうであるとして、後ろから誰かがついてきているという感覚が本当に自分の中であるように思われるならば、そりゃーやっぱりパニックになったり、落ち着けなくなることだろう。その人に、口で単純に、「いや誰もいないよ」「もう十分きれいになったよ」といったところで、「いやだってホントに誰かいるんだもん!」と「実感」していたら、恐怖は取り除けないだろう。
だから、俺の病気、……何だかもう、何に対してもやる気がでない、モチベーションがあがらない状況において、「頑張れ頑張れ!」とか、「十分やったよ! ゆっくりやすみな!」といったところで、あまり意味はなさないのである。
ので、僕は、闘う。
自分との闘い
人生と闘う。無意味感と闘う。自分と闘う。その方法は、ルーチンをこなすこと。
もう一つは、書くこと。
くっそ、めちゃくちゃ、わかりやすい文章を書いてやりたい。俺のこの、どうしようもなく疲れて、不安で、やる気の出ない、くそみたいな感覚を、「えー童貞? キモーイ! 童貞なんて小学生までだよね!」とか言ってるキャピキャピの女子高生にも分かるぐらい簡潔に表現したい。
……。
ほーら、きたぞきたぞ! 分かりやすいって何? 面白いって何? ポジティブって何? 笑うって何? 感情って何? 自分って何? 生きる意味って何? 何、何? 何??
これを、ほわいほわい病という。
これに罹患すると、何故何故という感情に思考の大半を奪われ、現実的行動方策が取れなくなり、結果的に無気力状態になっていく。
(治療方法は確立されていないが、日課をこなしたり身体を動かしたり何か思考をあまり必要としない単純作業を行ったり、いっそ逆説志向にして、何故と生じることを余すことなく全部書き出してやると、快方に向かうことがまれにある)
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