今日の一言「連載といいつつ、まとめて書いてるよね」「ベースラインは整えておかないと忘れちゃうから……」
それでは、二つ目の方策を検討していく必要がある。
二つ目の方法とは、「その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。」ということだが、これは、どういう意味だろうか?
まずいきなり、壁にぶち当たるのだけれども、昨今の、感情等の希薄化問題がまとわりつく。
これについては、日々の仕事の忙しさや、ルーチンの実施によって、何とか乗り切っているが、それもジリ貧なのは目に見えている。ある意味幸運で、ある意味崖っぷちなのは、離婚という生活基盤の変化によって、とどまるところがなくなっているということである。
空虚な結婚という言葉があるかはわからないが、いかに問題があろうとも、その社会的制度がある場合においては、まずもって、その状態を修復することを試みるであろう。その意味で、独身生活は、明らかに便利(楽? といっていいのかわからないが、自由ではある)である。
ゼロから考えることはできない。
ブログタイトルを読み返してみよう。「離婚を突き付けられた30代男が、自己と仕事と家庭の総合から生きる意味を徹底して考えるブログ。」とある。
ふーん、そうなんだ。と、俺のことなんだな、何か、他人事感があるな。
うーむ……。
俺が、成し遂げたいこととは何だろうか。
と、書くと、先日コメント頂いたコメントが役に立ちそうに思える。
こちら、率直な意見を述べつつ、後段は肯定的に書いてくださっているあたり、大人と言うか、人格者に思える。こういう方、好きだ。
でまぁ、後段に浮かれて浸っていても良いが、結局賞味期限がある感傷に過ぎないのであれば、むしろ、前段についての注釈解釈が必要である。
「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」
ぐぬぬ……。
くっそー! それが分かってりゃ苦労しねーぜ!!(かっこ笑い) 的な、感じである。
いやはや、先日返信したように、全く図星をど突かれるとはこのことである。
まぁ、若いうちはよかったことにしよう。がむしゃらに、ゴールなんて考えずに、思いつくままに駆け巡るってのも「あり」だろう。
がしかし、もう、いい歳なのだ。アラサーになっても、少女系ファッションしてる痛い女性にはなりたくないのだ。40歳なっても、俺はミュージシャンになる! なんていって無職ヒモ生活しているような男性にはなりたくないのだ。
と、こうやって、「なりたくない自分」を挙げていって、消去法的に目指す「ゴール」を明らかにしていく、という手法も、あることは、ある。
ただ、この方法は、致命的な問題がある。世界は、広いのだ。攻殻の素子さんの言葉を借りれば、「ネットは広大だわ」みたいな。つまり、「消去!」「消去!」「消去!」と、デスノートばりに、ダメな自分像を消していったとしても、現実における選択肢は、中々に多様であるのである。
もう一つ、こちらの方が致命的かもしれないが、消去法では、結局のところ、残ったいくつかの自分の中から、「じゃあこれにしよう」と、妥結したに過ぎないという思いが残ってしまう可能性があるのである。
この「生きる意味」であるが、フランクルさんの本を読んだ直近の今として浮かぶのは、「創造的価値」「体験的価値」「態度的価値」の、三つの価値に思われる。
んで、すぐさま、僕のダメなところとしては、こういった三段論法的なものを出されると、すぐさま、「態度的価値」的なものが一番すごいんだ! 的に思うことである。そうじゃねーんだよ。「体験的価値」で挙げられている、音楽や芸術に触れて感動する、という、もうそれだけで、生きている意味があるってことである。優れた作品……何も劇団四季だとか、ミュージカルだとか、歌舞伎だとか落語だとか、伝統文化でなくてもよい、映画やアニメや漫画だって、ゲームだってよい。心打ちふるえる感動を、自らに引き入れることができたら、それだけで十分価値があることではあるまいか。
そこで感じたことが、たとえ、すぐに時間とともに薄れゆくものだとしても、その瞬間起こった凛とした煌めきは、無かったことになるだろうか? いや決してそんなことはあるまい。
仕事をして創造的価値を果たし、エンターテイメント作品に触れて感動を果たし、その繰り返しを積み重ねていくだけで、十分、人は、人として生きる意味があるのである。
これについては、追加のコメントにおいて、結論を出すということについては、「一次結論」と「二次結論」とに分類できるのではないかと触れた。二次結論とは、一次結論に対しての実践を指示・示唆する結論である。
……と、ここで時間切れである。
うーむ。今回、このテーマに切り込むのは、何ともかなり精神的に削られる作業である。
自分自身と向き合った文章を書くというのは、その表現がいかに拙くて、つまらなく、稚拙で、まどろっこしくても、疲れる作業だ。
傍から見ると、アホちゃう? 状態であるが、残念ながら、これは、必要に迫られてやっているに過ぎない。そういう意味だと、「仲間」が欲しいなぁ……。「彼女」が欲しい、というのは却下されてしまったが、仲間が欲しい、ってのは、自然的ですぐさま承認されそうな感覚だ。
なかまだなかま。ひらがなにすると間抜けにみえるな、ってそうじゃねえ。っと、恐ろしいこの、せっかくいいアイディアに思えたことが浮かんでも、「おめーさぁ、それって、仲間というより、自分を肯定してくれる「舎弟」みたいなの望んでるんじゃねーの? 教祖様になりたいんじゃないの?」みたいなことが同時に浮かびやがる! 何て奴だ! そうじゃねーんだよ、仲間だよ! 一緒になって、目的を果たそうと努力する仲間だよ!
「いやでもさ、結局、お前の言ってる「目的」ってのは、仏教的にいえば、「小乗」(個人の悟り)じゃねーか。例えば、お前のいう「仲間」ができて、一年ぐらい一緒に頑張って、結果、その「仲間」が先に「解脱」したら、お前、どう思うの?」
えー……、そ、そりゃ、おめでとうって……「本当か?」 ――いや、もしかしたら、正直、悔しいなって、思うかも……。
って、そんな、自己卑下、自虐しても意味無いじゃないか! もっと前向きにならなきゃだめだよ!
(といったところで強制終了。上の叫びは、虚しく響き渡るのであった)
まずは求める生活から
ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。一つ目の、現実へのアプローチについては、「専門性の取得」と、「彼女をつくる」という目標に具体化して、検討を加えた。結果的に、そこに至るには、「がむしゃらな行動(体験・経験)」が必要であり、思考的な納得をするには、未だ検討が不十分であることが分かった。
それでは、二つ目の方策を検討していく必要がある。
二つ目の方法とは、「その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。」ということだが、これは、どういう意味だろうか?
まずいきなり、壁にぶち当たるのだけれども、昨今の、感情等の希薄化問題がまとわりつく。
これについては、日々の仕事の忙しさや、ルーチンの実施によって、何とか乗り切っているが、それもジリ貧なのは目に見えている。ある意味幸運で、ある意味崖っぷちなのは、離婚という生活基盤の変化によって、とどまるところがなくなっているということである。
空虚な結婚という言葉があるかはわからないが、いかに問題があろうとも、その社会的制度がある場合においては、まずもって、その状態を修復することを試みるであろう。その意味で、独身生活は、明らかに便利(楽? といっていいのかわからないが、自由ではある)である。
ゼロから考えることはできない。
ブログタイトルを読み返してみよう。「離婚を突き付けられた30代男が、自己と仕事と家庭の総合から生きる意味を徹底して考えるブログ。」とある。
ふーん、そうなんだ。と、俺のことなんだな、何か、他人事感があるな。
俺は誰だ?
ここじゃない感。と表現すればよかろうか。うーむ……。
俺が、成し遂げたいこととは何だろうか。
と、書くと、先日コメント頂いたコメントが役に立ちそうに思える。
【その一】
今回の例で言うと、「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」という部分自体が曖昧で、「とりあえず見えてきたゴールに、周りの人たち同様インすることはできる」としつつも「自分の思うゴールはこれとは何か違うんだよなぁ……」と、「一旦ゴールすることもなく、違うゴールを探しに別のルートに行ってしまう」といった印象で、逃げるというよりは、わざわざ険しい方に、遠回りするように、向きを変えて延々とゴールを探し求めて走り続けているような印象と言いますか。私からすれば卑屈だなんて思う以前に、「自分から進んで走る距離を伸ばして凄いなぁ」ぐらいの感覚ですよ。
こちら、率直な意見を述べつつ、後段は肯定的に書いてくださっているあたり、大人と言うか、人格者に思える。こういう方、好きだ。
でまぁ、後段に浮かれて浸っていても良いが、結局賞味期限がある感傷に過ぎないのであれば、むしろ、前段についての注釈解釈が必要である。
「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」
ぐぬぬ……。
くっそー! それが分かってりゃ苦労しねーぜ!!(かっこ笑い) 的な、感じである。
いやはや、先日返信したように、全く図星をど突かれるとはこのことである。
まぁ、若いうちはよかったことにしよう。がむしゃらに、ゴールなんて考えずに、思いつくままに駆け巡るってのも「あり」だろう。
がしかし、もう、いい歳なのだ。アラサーになっても、少女系ファッションしてる痛い女性にはなりたくないのだ。40歳なっても、俺はミュージシャンになる! なんていって無職ヒモ生活しているような男性にはなりたくないのだ。
と、こうやって、「なりたくない自分」を挙げていって、消去法的に目指す「ゴール」を明らかにしていく、という手法も、あることは、ある。
ただ、この方法は、致命的な問題がある。世界は、広いのだ。攻殻の素子さんの言葉を借りれば、「ネットは広大だわ」みたいな。つまり、「消去!」「消去!」「消去!」と、デスノートばりに、ダメな自分像を消していったとしても、現実における選択肢は、中々に多様であるのである。
もう一つ、こちらの方が致命的かもしれないが、消去法では、結局のところ、残ったいくつかの自分の中から、「じゃあこれにしよう」と、妥結したに過ぎないという思いが残ってしまう可能性があるのである。
【コメントその2】
遠藤さんは考えることが目的なんでしょうね。的を選ていると思います。これは私にも当てはまるんですが、結論を出さない議論を繰り替えしているんですよね。科学者と哲学者の違いは「思考が結論を求めるか、求めないか」だと思っています。だとすれば我々は哲学者っていうことですね。
この提案も、素晴らしいツールとなった。頭がいい人なんだろうなぁと思った。それでいて押し付けがましくもなく、スマートである。こういう方、好きだ。ちょっと思ったんですが、「生きる意味」について考える前に生きる意味とは何を指すのかについて定義してはどうでしょうか「生きる意味」と言われても結構漠然としてて何かイメージできない。・死ぬまでに成し遂げたいこと・この世の中で果たす自分の役割(世界平和のためとかそういうの)・神様が自分を生産した理由ある程度具体的に定義しないと議論出来ないのでは?と今更ながら思ったんだ。別に正解なんて無いと思うし、いくつか定義してみてそれぞれについて考えてみてはどうでしょうか
この「生きる意味」であるが、フランクルさんの本を読んだ直近の今として浮かぶのは、「創造的価値」「体験的価値」「態度的価値」の、三つの価値に思われる。
んで、すぐさま、僕のダメなところとしては、こういった三段論法的なものを出されると、すぐさま、「態度的価値」的なものが一番すごいんだ! 的に思うことである。そうじゃねーんだよ。「体験的価値」で挙げられている、音楽や芸術に触れて感動する、という、もうそれだけで、生きている意味があるってことである。優れた作品……何も劇団四季だとか、ミュージカルだとか、歌舞伎だとか落語だとか、伝統文化でなくてもよい、映画やアニメや漫画だって、ゲームだってよい。心打ちふるえる感動を、自らに引き入れることができたら、それだけで十分価値があることではあるまいか。
そこで感じたことが、たとえ、すぐに時間とともに薄れゆくものだとしても、その瞬間起こった凛とした煌めきは、無かったことになるだろうか? いや決してそんなことはあるまい。
仕事をして創造的価値を果たし、エンターテイメント作品に触れて感動を果たし、その繰り返しを積み重ねていくだけで、十分、人は、人として生きる意味があるのである。
創造的価値及び体験的価値に生きること
上の、その2のコメントで重要なのは、もう一つある。「考えることそれ自体が目的であり、結論を求めていないのではないか?」ということである。これについては、追加のコメントにおいて、結論を出すということについては、「一次結論」と「二次結論」とに分類できるのではないかと触れた。二次結論とは、一次結論に対しての実践を指示・示唆する結論である。
……と、ここで時間切れである。
うーむ。今回、このテーマに切り込むのは、何ともかなり精神的に削られる作業である。
自分自身と向き合った文章を書くというのは、その表現がいかに拙くて、つまらなく、稚拙で、まどろっこしくても、疲れる作業だ。
傍から見ると、アホちゃう? 状態であるが、残念ながら、これは、必要に迫られてやっているに過ぎない。そういう意味だと、「仲間」が欲しいなぁ……。「彼女」が欲しい、というのは却下されてしまったが、仲間が欲しい、ってのは、自然的ですぐさま承認されそうな感覚だ。
仲間をつくろう
時間切れ、といいつつ、書き続けているが、一言だけでも、ベースラインを作りたい。なかまだなかま。ひらがなにすると間抜けにみえるな、ってそうじゃねえ。っと、恐ろしいこの、せっかくいいアイディアに思えたことが浮かんでも、「おめーさぁ、それって、仲間というより、自分を肯定してくれる「舎弟」みたいなの望んでるんじゃねーの? 教祖様になりたいんじゃないの?」みたいなことが同時に浮かびやがる! 何て奴だ! そうじゃねーんだよ、仲間だよ! 一緒になって、目的を果たそうと努力する仲間だよ!
「いやでもさ、結局、お前の言ってる「目的」ってのは、仏教的にいえば、「小乗」(個人の悟り)じゃねーか。例えば、お前のいう「仲間」ができて、一年ぐらい一緒に頑張って、結果、その「仲間」が先に「解脱」したら、お前、どう思うの?」
えー……、そ、そりゃ、おめでとうって……「本当か?」 ――いや、もしかしたら、正直、悔しいなって、思うかも……。
って、そんな、自己卑下、自虐しても意味無いじゃないか! もっと前向きにならなきゃだめだよ!
(といったところで強制終了。上の叫びは、虚しく響き渡るのであった)
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今日の一言「連載記事とか難しいね」「何らかの結論が出るといいんだけど……」
まず、先日の記事において提起された問題を確認する。
上の問題においては、「一途さ」「充実さ」「彼女」「特異な能力」がピックアップできる。
次に、カテゴライズ(分類)を試みる。「一途さ」「充実さ」については、内面の達成すべき目標である。「彼女」と「特異な能力」は、外面(現実)において具現化させるべき目標である。
「一途さ」と「充実さ」については、非常に曖昧であり、それらは、ある物事・事象に対しての情動(感覚)であるが故、これ自体での達成は困難なことから、いったん除外(わきにおいておく)ことにする。
では、「彼女」と「特異な能力」はどうか。
「これだけは誰にも負けない!」
といったものや、
「この分野は最前線で戦える!」
とかそういったものだ。
これは、もうこの時点で、非常に困難な目標であるといっていい。70億人もいて、インターネットで繋がっている世の中においては、ローカルなコミュニティを維持するのは難しいから、その中でトップや最前線である、なんて大変なことだ。
(オンラインゲームの中だってそうだろうし、お金がかかる分野であればなおさらである)
しかし、だからといって、「自分はダメだ」と諦めてしまうのは、あまりにも短絡的であり、堕落的である。
一日、二日、ばかいってんじゃない。1か月? 一年? アホか。10年20年続けて、ようやっとスタートラインに立てるぐらいの、そんな気構えを持てずして、何が専門性だ。笑わせてくれる。
そういった思いをもってあたることができれば、専門性は、決して、得られないようなものではない。
ただし、ここで立ちふさがるのが、「じゃあ、自分は、何を求めればいいのだろうか?」という思いである。
ここで、この問題は、これ以上進められない。未だ解決への道筋が見えないからである。
そして、いきなり頓挫する。出会いがねぇ!!(笑) というのは、まぁ大した問題ではない。
もう少し主体的に動けば、例えば出会い系のサイトや、街コンやパーティーや、友人知人の紹介やら、ジムやらサークルへの参加へやら、方法はある。
それへの動機の希薄さは否定できないが、しかしながら、それよりも先に解決すべきは、「そもそも目的と結果が逆転してないか?」ということである。
それは、より自然なことであるのだけれども、そもそも、「好きな人」がいるから、彼女にしたいと思うし、結婚して、子供を授かりたいと思うんじゃあなかろうか。上のような問題提起の仕方では、結局、「ステータスとしての彼女」を求めているに過ぎないのではなかろうか。
いやいや、それは単なる童貞的思考だよ、と。そもそも、出会いがあるような場に身を置くことで、誰かを好きになる、みたいなことが起こるのだよと。待っていては何も起こらないよ、と。
あー、まー、そうなんだろう。火のない所に煙は立たぬからな! 女の子がいない場にいても、女の子を好きになるなんてことはないわな! 男の子を好きになっちゃうわな!(かっこわらい)
では、問題を次に進めよう。彼女がいて、どんな生活をしたいの?
いやいや、いきなり何いっちゃってんの? というのはそうだが、大事なことである。もっといえば、これがはっきりしていないと、そもそも、「どんな彼女」が欲しいか分からない。
可愛い彼女。
と言ってしまえば簡単だが、じゃあ、それって何よ。性的魅力があることが重要なの? 外見至上主義? 化粧はあり? 整形は?
いやいや、外見じゃないよ、やっぱり中身が大事だよ。
おーおー、よくある話の流れだ。中身、ね。その通り、中身が大事だよ。そんなこと分かってんだよ、じゃあ、お前の言う中身って何だよ?
……な、なんでしょうね。
ということになるのだ、「愛」って何かが分かっていないと。
こんな問題は、リア充には起こらない。ここでいうリア充とは、いわゆる、自然環境において、女性関係が発生する人たちのことである。イケメンでも、雰囲気イケメンでも、優しそうな人でも、塩顔でも何でもいいが(全部外見のことを挙げたが、もちろん、人は顔だけじゃない、そんなことが問題なのではない)、普段の生活において、「好き」あるいは「好かれた」が発生する状況がある人たちである。
自然環境において、いわゆる「恋」が発生するのであれば、それは、その相手について、その相手の人格(または顔や身体かもしれないが)について、好ましく思う感情が生じているのである。
ところが、恋活とか、婚活とか言われる作業(※)では、その「自然さ」がない。
「うっせーよ童貞根暗野郎。そんな自然とか、ガキっぽいこといってんじゃねーよ。お前いくつだよ? ああん? もっとビジネスライクに考えろよ。相手が求めることと、自分が求めることのすり合わせができればいいんだよ。それが婚活なんだよ、結婚なんだよ、ロマンなんてねーんだよ」
というのは簡単だが、本当に、そこまで言っちゃっていいんだろうな?
※「作業」とは甚だ否定的な意味を含んでいるが、他によい表現が浮かばなかった。お金もかかるし、時間もかかるし、完全に作業じゃね?
という方策に、僕は懐疑的である。
まずもって、僕は多分、この思考を手放すことができない気がしてならない。
もしも、それができるとしたら、只管打座、坐禅をして仏道に向かわねばなるまい。
逆に。
であるがしたら、そもそも、「彼女を作ろう!」という目標が、迷子である。
話がズレてしまったが、「愛」なき婚活は、結局、失敗を想起させるということである。
まずもって、婚活婚活簡単に書いているが、そんな簡単なもんじゃないことは分かっている。
婚活とは、営業活動である。自分という商品を、どれだけ価値あるものだと説明し、納得させ、消費者(女の子)に売り込むのである。
そのためには、もちろん、自分自身の長所短所も知っていなきゃならないし、自分が求める生活を思い描けなければならない。
生きている意味が分かりません
なーんて、頼りない男なんて、どんなイケメンでもノーサンキューである(※)。
というわけで、第一の道、「専門性を獲得する」「彼女をGETする」という目標については、現時点で保留(却下)とする。
次に、第二の道「求めるものの解釈・再構築」について検討する。
(この連載テーマ、ドッと疲れる……。ダラダラ仕事してた方がよほど楽な気がするほどだ。まぁ、しかし、このテーマを進めるために、ここ数か月書き続けてきたといっていい。これに着手するのが、2月の目標達成と、二つの映画によるショック(ダメージ)という契機というのは、何とも恥ずかしいが……)
※いや、きっと、イケメンなら、「守ってあげたい!」「そんなギャップが素敵!」みたいになりそうだ!(ルサンチマンである。かっこ笑い)
現実への試み
ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。一つ目の、まずは、現実へのアプローチについて検討しよう。
まず、先日の記事において提起された問題を確認する。
羨ましいなぁ。 という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。 そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。時間と空間を除いて考えることは不可能である。故に、現時点性において、達成できうるものだけを抽出する必要がある。
上の問題においては、「一途さ」「充実さ」「彼女」「特異な能力」がピックアップできる。
次に、カテゴライズ(分類)を試みる。「一途さ」「充実さ」については、内面の達成すべき目標である。「彼女」と「特異な能力」は、外面(現実)において具現化させるべき目標である。
「一途さ」と「充実さ」については、非常に曖昧であり、それらは、ある物事・事象に対しての情動(感覚)であるが故、これ自体での達成は困難なことから、いったん除外(わきにおいておく)ことにする。
では、「彼女」と「特異な能力」はどうか。
特異な能力
先日の記事でこうやって表現したから、そのまま使ってきたが、まず、これは、「専門性」と換言してもよいだろう。「これだけは誰にも負けない!」
といったものや、
「この分野は最前線で戦える!」
とかそういったものだ。
これは、もうこの時点で、非常に困難な目標であるといっていい。70億人もいて、インターネットで繋がっている世の中においては、ローカルなコミュニティを維持するのは難しいから、その中でトップや最前線である、なんて大変なことだ。
(オンラインゲームの中だってそうだろうし、お金がかかる分野であればなおさらである)
しかし、だからといって、「自分はダメだ」と諦めてしまうのは、あまりにも短絡的であり、堕落的である。
一日、二日、ばかいってんじゃない。1か月? 一年? アホか。10年20年続けて、ようやっとスタートラインに立てるぐらいの、そんな気構えを持てずして、何が専門性だ。笑わせてくれる。
そういった思いをもってあたることができれば、専門性は、決して、得られないようなものではない。
専門性の絞りこみ
故に、専門性(特異な能力)を得られないという、諦念は抱いてはならないということが分かった。そりゃあ確かに、エンタメの主人公のように、先天的な、あるいは啓示的な力の付与によって覚醒するという方がカッコいいけれども、そんな魔法少女に憧れる童じゃああるまいし、そんなものを求めるわけがない。ただし、ここで立ちふさがるのが、「じゃあ、自分は、何を求めればいいのだろうか?」という思いである。
ここで、この問題は、これ以上進められない。未だ解決への道筋が見えないからである。
彼女について
専門性の獲得についての方策が頓挫してしまった。では次に、「彼女」をつくることについて検討してみよう。そして、いきなり頓挫する。出会いがねぇ!!(笑) というのは、まぁ大した問題ではない。
もう少し主体的に動けば、例えば出会い系のサイトや、街コンやパーティーや、友人知人の紹介やら、ジムやらサークルへの参加へやら、方法はある。
それへの動機の希薄さは否定できないが、しかしながら、それよりも先に解決すべきは、「そもそも目的と結果が逆転してないか?」ということである。
それは、より自然なことであるのだけれども、そもそも、「好きな人」がいるから、彼女にしたいと思うし、結婚して、子供を授かりたいと思うんじゃあなかろうか。上のような問題提起の仕方では、結局、「ステータスとしての彼女」を求めているに過ぎないのではなかろうか。
いやいや、それは単なる童貞的思考だよ、と。そもそも、出会いがあるような場に身を置くことで、誰かを好きになる、みたいなことが起こるのだよと。待っていては何も起こらないよ、と。
あー、まー、そうなんだろう。火のない所に煙は立たぬからな! 女の子がいない場にいても、女の子を好きになるなんてことはないわな! 男の子を好きになっちゃうわな!(かっこわらい)
では、問題を次に進めよう。彼女がいて、どんな生活をしたいの?
求める生活について
生活、も、そうだけど、まず、「愛」って何かをしっかり分かっているか、ということだ。いやいや、いきなり何いっちゃってんの? というのはそうだが、大事なことである。もっといえば、これがはっきりしていないと、そもそも、「どんな彼女」が欲しいか分からない。
可愛い彼女。
と言ってしまえば簡単だが、じゃあ、それって何よ。性的魅力があることが重要なの? 外見至上主義? 化粧はあり? 整形は?
いやいや、外見じゃないよ、やっぱり中身が大事だよ。
おーおー、よくある話の流れだ。中身、ね。その通り、中身が大事だよ。そんなこと分かってんだよ、じゃあ、お前の言う中身って何だよ?
……な、なんでしょうね。
ということになるのだ、「愛」って何かが分かっていないと。
こんな問題は、リア充には起こらない。ここでいうリア充とは、いわゆる、自然環境において、女性関係が発生する人たちのことである。イケメンでも、雰囲気イケメンでも、優しそうな人でも、塩顔でも何でもいいが(全部外見のことを挙げたが、もちろん、人は顔だけじゃない、そんなことが問題なのではない)、普段の生活において、「好き」あるいは「好かれた」が発生する状況がある人たちである。
自然環境において、いわゆる「恋」が発生するのであれば、それは、その相手について、その相手の人格(または顔や身体かもしれないが)について、好ましく思う感情が生じているのである。
ところが、恋活とか、婚活とか言われる作業(※)では、その「自然さ」がない。
「うっせーよ童貞根暗野郎。そんな自然とか、ガキっぽいこといってんじゃねーよ。お前いくつだよ? ああん? もっとビジネスライクに考えろよ。相手が求めることと、自分が求めることのすり合わせができればいいんだよ。それが婚活なんだよ、結婚なんだよ、ロマンなんてねーんだよ」
というのは簡単だが、本当に、そこまで言っちゃっていいんだろうな?
※「作業」とは甚だ否定的な意味を含んでいるが、他によい表現が浮かばなかった。お金もかかるし、時間もかかるし、完全に作業じゃね?
モチベーションの低下
うだうだ言ってるんじゃない。まずは行動だ!という方策に、僕は懐疑的である。
まずもって、僕は多分、この思考を手放すことができない気がしてならない。
もしも、それができるとしたら、只管打座、坐禅をして仏道に向かわねばなるまい。
逆に。
であるがしたら、そもそも、「彼女を作ろう!」という目標が、迷子である。
話がズレてしまったが、「愛」なき婚活は、結局、失敗を想起させるということである。
まずもって、婚活婚活簡単に書いているが、そんな簡単なもんじゃないことは分かっている。
婚活とは、営業活動である。自分という商品を、どれだけ価値あるものだと説明し、納得させ、消費者(女の子)に売り込むのである。
そのためには、もちろん、自分自身の長所短所も知っていなきゃならないし、自分が求める生活を思い描けなければならない。
生きている意味が分かりません
なーんて、頼りない男なんて、どんなイケメンでもノーサンキューである(※)。
というわけで、第一の道、「専門性を獲得する」「彼女をGETする」という目標については、現時点で保留(却下)とする。
次に、第二の道「求めるものの解釈・再構築」について検討する。
(この連載テーマ、ドッと疲れる……。ダラダラ仕事してた方がよほど楽な気がするほどだ。まぁ、しかし、このテーマを進めるために、ここ数か月書き続けてきたといっていい。これに着手するのが、2月の目標達成と、二つの映画によるショック(ダメージ)という契機というのは、何とも恥ずかしいが……)
※いや、きっと、イケメンなら、「守ってあげたい!」「そんなギャップが素敵!」みたいになりそうだ!(ルサンチマンである。かっこ笑い)
今日の一言「苛々と焦燥感と無気力感に負けるな!」「日々の生活の中に答えがあるのでは……?」
何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。
と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。
社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。
※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。
と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。
むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。
僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。
これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。
僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。
ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。
家族の誰々のせいだ。
社会のせいだ。
会社の上司のせいだ。
友人のせいだ。
彼氏のせいだ。
誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)
いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。
怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)
……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。
※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。
この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。
整理しよう。
まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。
羨ましいなぁ。
という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。
そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。
フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。
ここで、二つの道がある。
一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。
もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)
3月の目標を立てよう
目標を立てよう。ダメだこりゃ、毎週毎週が、サバイバル状態である。毎日毎日が、断絶状態である。もちろん、記憶障害もなければ、譫妄(せんもう:幻覚や錯覚)があるわけでもない。何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。
と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。
社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。
※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。
恥ずかしい表現ではなかろうか?
おーい、30代男性が、上のようなことを書くなんて、恥ずかしくない? 気持ち、悪いよ?と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。
むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。
僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。
最近求める面白い記事について
んで、最近思ったのは、他者のブログにおいて、面白いと思うのは、それが、ポジティブだとか、ネガティブだとか、そこがポイントなのではないことだ。愚痴でもいいんだけど、その向かう先が、外部になっている記事は、おもろーない。これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。
僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。
ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。
家族の誰々のせいだ。
社会のせいだ。
会社の上司のせいだ。
友人のせいだ。
彼氏のせいだ。
誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)
いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。
怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)
……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。
※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。
問題の提起
別に、今、苛々しているわけじゃあないんだが、とにかく、色々、このままではまずい。この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。
整理しよう。
まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。
羨ましいなぁ。
という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。
そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。
フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。
ここで、二つの道がある。
一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。
もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)
今日の一言「貢献心が満たされないとつらいんじゃないか」「認められたいという思いへの飢えかもね」


いつもブログを楽しく拝見させて頂いているため、少しでも恩返しになればという思いもあるが、昨今抱えている「実存的空虚感」への、一つの処方になればという思いもある。
そもそも、マズローの五段階欲求説の、所属欲求と承認欲求の違いが自分としてはピンときていなかったが、「今の人たちにとって、所属欲求と承認欲求はある意味同時に起こっているんですよ」という前説からも、おーなるほどな~さすがやな~と思ったのもある。
(けっして、表紙の絵がかわいかったとか、そんな理由じゃないぞ!)
と同時に、創作系の本も5000円分ぐらい購入。さらに、科学技術系(というかA.I.とかロボットとか)の本も購入。ヴィクトール・エミール・フランクルさんの本も購入。大盤振る舞いである。
昨今、映画とか娯楽に費やしても、どうにも気分が昂揚しないと書いた。
その理由は、現状として、「消費」を求めていない心性にあると書いた。
本をたくさん買うことは消費であり、それを読んだとしても、消費なのではないだろうか? 言ってることとやってることが違うのではないだろうか。
いや、「インプット」は、消費ではない。
人の思考行為は、消費と生産の二つに分けられる。更に、別の軸として、インプットとアウトプットにも分けられる。
映画を見るのは、消費であり、インプットである。そこに、生産の要素と、アウトプットの要素はあまりない。
ブログや小説を書くことは、生産であり、アウトプットである。
ゲームをするのはどうか。消費であり、アウトプットである。
ただ、分けられるといっても、明確に二分できるという意味ではなく、その配分が調整されるという意味である。
図にしてみて尚のこと分かったけれども、全ての思考、行為について、明確にインプットだとか、消費だとか分けることは難しそうだと思った。例えば「料理」とか「ドライブ」とかはどこに入るんだろ。仕事がインプット×消費だけど、生産なんじゃなかろうか、とか。
ひとりでやる作業ですら色々混ざっているし、「消費」という概念に、「時間」という要素を含めてしまえば、全行為消費に分類される。
この時点で、論文であれば、ボツ原稿となるけれども、せっかくなのでもう少し続けてみよう。
ここでいうアウトプットとは、「他者へ伝える」という意味はもちろんだが、「整理」という意味も含めている。
頭の中だけで、ぐちゃぐちゃーっとなっている思考を、解きほぐして、整理していくという作業自体を、アウトプットと呼んでいる。結果として、整理されて分かりやすくなれば、他者へも伝えられる状態になるということである。
では、思考における整理とは何か。
これは中々に厄介である。精神病、例えば統合失調症で幻覚妄想、譫妄があるとしたら、それを取り除く必要がある。あり得ない妄想を取り除き、「現実」なるものを直視させることもまた、整理といえる。
ある人が考えていることを、他者も理解できるような言語表現に分解再構築すること、それもまた整理といえる。
この、「分かった」という感覚もまた厄介である。これが希薄になっていくと、強迫神経症的な状態になりかねない。「明証感情」というようだが、「これは正しい」「もう大丈夫だ」という感覚が薄れてしまうと、何度も何度も同じことを繰り返しても、「わかった」「これでよし」とすることができなくなってしまう。
単純な意味として、知識の記憶という意味もある。ジャガイモの芽は毒がある、という知識は、料理のときにしか役に立たない。仕事上の専門知識の多くも、一般的な意味をもたない。〇〇さんは何が好きで何が嫌いというのも単純なインプットである(いや、これは違うかもしれない)。
先日、娯楽について記事を書いたけれども、何だか、何やってもイマイチぴんとこないんだよな。
娯楽ってのは、そもそも、睡眠や家事や学業や仕事といった、義務や責務から、余った時間に行うことである。
好きなことを仕事にする、って人もいるだろうが、そうなると、娯楽の部分がなくなっちゃうわけで、それはそれで大変だ。
要はバランスだろ、という、どーでもいい結論になると、本当にこの記事は無価値に過ぎない。
ここはもう少し、先日コメントくださった方の、「無駄であってもいいじゃない」という言葉を灯台の一筋の光として、進めていこう。
(だが、時間切れである)
本の大量買い
ある精神科医さんが、新しく本を出版されるということで、予約してきた。いつもブログを楽しく拝見させて頂いているため、少しでも恩返しになればという思いもあるが、昨今抱えている「実存的空虚感」への、一つの処方になればという思いもある。
そもそも、マズローの五段階欲求説の、所属欲求と承認欲求の違いが自分としてはピンときていなかったが、「今の人たちにとって、所属欲求と承認欲求はある意味同時に起こっているんですよ」という前説からも、おーなるほどな~さすがやな~と思ったのもある。
(けっして、表紙の絵がかわいかったとか、そんな理由じゃないぞ!)
と同時に、創作系の本も5000円分ぐらい購入。さらに、科学技術系(というかA.I.とかロボットとか)の本も購入。ヴィクトール・エミール・フランクルさんの本も購入。大盤振る舞いである。
昨今、映画とか娯楽に費やしても、どうにも気分が昂揚しないと書いた。
その理由は、現状として、「消費」を求めていない心性にあると書いた。
本をたくさん買うことは消費であり、それを読んだとしても、消費なのではないだろうか? 言ってることとやってることが違うのではないだろうか。
いや、「インプット」は、消費ではない。
インプットとアウトプット
消費の対義語は生産である。人の思考行為は、消費と生産の二つに分けられる。更に、別の軸として、インプットとアウトプットにも分けられる。
映画を見るのは、消費であり、インプットである。そこに、生産の要素と、アウトプットの要素はあまりない。
ブログや小説を書くことは、生産であり、アウトプットである。
ゲームをするのはどうか。消費であり、アウトプットである。
ただ、分けられるといっても、明確に二分できるという意味ではなく、その配分が調整されるという意味である。
図にしてみて尚のこと分かったけれども、全ての思考、行為について、明確にインプットだとか、消費だとか分けることは難しそうだと思った。例えば「料理」とか「ドライブ」とかはどこに入るんだろ。仕事がインプット×消費だけど、生産なんじゃなかろうか、とか。
ひとりでやる作業ですら色々混ざっているし、「消費」という概念に、「時間」という要素を含めてしまえば、全行為消費に分類される。
この時点で、論文であれば、ボツ原稿となるけれども、せっかくなのでもう少し続けてみよう。
アウトプットとは何か
まず、横文字を使った時点でダメだったのかもしれない。ここでいうアウトプットとは、「他者へ伝える」という意味はもちろんだが、「整理」という意味も含めている。
頭の中だけで、ぐちゃぐちゃーっとなっている思考を、解きほぐして、整理していくという作業自体を、アウトプットと呼んでいる。結果として、整理されて分かりやすくなれば、他者へも伝えられる状態になるということである。
では、思考における整理とは何か。
これは中々に厄介である。精神病、例えば統合失調症で幻覚妄想、譫妄があるとしたら、それを取り除く必要がある。あり得ない妄想を取り除き、「現実」なるものを直視させることもまた、整理といえる。
ある人が考えていることを、他者も理解できるような言語表現に分解再構築すること、それもまた整理といえる。
インプットとは何か
一方で、インプットとは、自分の中で、「わかった!」という感覚になることである。先日、V・E・フランクルの「人間とは何か」を読了したが、どうにも「わかった!」という達成感はあまりなかった、と書いた。この、「分かった」という感覚もまた厄介である。これが希薄になっていくと、強迫神経症的な状態になりかねない。「明証感情」というようだが、「これは正しい」「もう大丈夫だ」という感覚が薄れてしまうと、何度も何度も同じことを繰り返しても、「わかった」「これでよし」とすることができなくなってしまう。
単純な意味として、知識の記憶という意味もある。ジャガイモの芽は毒がある、という知識は、料理のときにしか役に立たない。仕事上の専門知識の多くも、一般的な意味をもたない。〇〇さんは何が好きで何が嫌いというのも単純なインプットである(いや、これは違うかもしれない)。
で、だからどうした?
うん、それでだ、特にだから何の役に立つという訳でもないが、こうやって考えを整理したりまとめたり、進めたり戻ったり、覚えたり伝えたり、インプットしたりアウトプットしたりすること、それが、何となく、今一番大事なことのような気がする。先日、娯楽について記事を書いたけれども、何だか、何やってもイマイチぴんとこないんだよな。
娯楽ってのは、そもそも、睡眠や家事や学業や仕事といった、義務や責務から、余った時間に行うことである。
好きなことを仕事にする、って人もいるだろうが、そうなると、娯楽の部分がなくなっちゃうわけで、それはそれで大変だ。
要はバランスだろ、という、どーでもいい結論になると、本当にこの記事は無価値に過ぎない。
ここはもう少し、先日コメントくださった方の、「無駄であってもいいじゃない」という言葉を灯台の一筋の光として、進めていこう。
(だが、時間切れである)
今日の一言「近況を書いてみよう」
感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。
※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。
※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。
※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?
※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。
うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。
SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。
取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。
あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。
最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。
※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。
そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))
いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)
ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。
映画。
小説。
漫画。
ゲーム。
アニメーション。
音楽。
スポーツ。
他、娯楽って何かあるんだろうか?
料理、手芸とか?
何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。
モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)
精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。
いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。
上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。
……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。
(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)
SAOオーディナル・スケールを視聴
ソードアートオンライン劇場版、オーディナリースケールを映画館で視聴。きっかけは、先日、「君の名は。」を見に行った時に宣伝を目にしたから、が一つ。もう一つは、どうやら、かなりの鬱アニメっぽいという噂を聞いた(※1)からだ。マゾっ子としては見ないわけにはいくまい!(※2)感想としては、いやぁ、最近のアニメーションは、ほんと綺麗だなぁ。けもフレを、ある評論家の方がやれ構図がだめやらパースがだめやら声優演技がダメやら、批判をしていたけれども、何かアニメって一言で言っても、もはや語る次元がちゃうねんなぁと思う。ひだまりスケッチと、サイコパスと比べても仕方がないし、何というかその、生命の進化の樹形図みたいなんあるやん? 霊長類っていっても、ボノボとかゴリラとかチンパンジーとか人間とか、いっぱいおるやん、その中で、属に分かれて、種に分かれて細分化されていくじゃん。何かそんな感じ! いやその、大人(※3)向けのアニメと、子供向けのアニメ(※4)とがあるみたいな、そんなもんかな。
※1:いや、かなりリア充的要素が多量に含まれているという見た方のレビューと言うかコメントを読んだだけである。
※2:俺ってマゾだったんや?! というつまらない自己突っ込みはさておき、「いやだなぁ」と感じるその中に、逆転した欲求なんてものがあったりするのであるからにして、何とも希薄な感情に飢えているならば、敢えて進もう茨の道。
※3:大人って言葉が微妙である、と先日書いた通りだけれども、まぁこういうときは便利なんだよな。例えば、中高生が結構見に来ていたけれども、彼らは、子ども、何だろうか?
※4:最近やってるらしいモンハンのアニメとか、NHKでやっているようなアニメとか。そういう意味で、クレヨンしんちゃんのアニメは、先日、モーレツ大人帝国を見たけれども、あれはどっちかっていうと、大人向けなんじゃなかろうか。「郷愁」って表現が上手い具合にできている。おかげで、「大人は泣いて、子どもは笑える」というキャッチコピーの、ロボとーちゃんを借りてしまった。今度観よう。
オーディナル・スケールの感想というか
感想、……感想、だと?うーん、「リア充爆発しろ!」? みたいな(※)。これ以後も、ネタバレ記事は書かないでおこう。というか、ネタバレって、誰に対しての配慮なんだろう。というか、そんなに中身に書きたいようなことは特になさそうである。
SAOについて自分は、一期と二期の途中しか見ていなかったから、ライフル使う女の子のことは殆ど知らなかった。ただ、基本的に、今回は一期の初めのゲーム「ソードアートオンライン」のアインクラッドの世界が、カギになっているので、一期しかみたことない人でも十分ついていけると思う。
取って付けたように、物語の最初に、キリトくんとアスナさんのアインクラッドでの「約束」が描写されるので、一応、初めて今作見る人へも配慮されているんだろうなぁとは思った。けれどもやっぱり、少なくても、一期は見てから見た方が楽しめると思う。
あ、感想ね、感想。そうだな、「リア充爆発しろ」(これももう古いスラングなんだろうなぁ)以外としたら、VRとARとの違いが分かって良かったと思う。
VRのVは、ヴァーチャル。SAO内では、「フルダイブ」というワードで、いわゆる催眠状態でゲームプレイするスタイルである。
ARのAは、「Augmented」(オーギュメント)で、「拡張された」ということだ。
今作は、主にARのゲームが舞台となる。即ち、ほぼ生身で戦ったり、プレイするということだ。VRでは無敵だったキリトくんも、ARとなると、日ごろの運動不足からか上手く戦えなかったりする。
最近は、SONYが発売したVRのゲームが流行りだしたようである。ちなみに、SONYとLAWSONが、これみよがしにスポンサーであることがアニメの中でもすぐ分かった(からあげくんとか液晶とかSONYのロゴがばっちり!)、逆に面白かった。
話しの流れとしては、ARが爆発的に流行っているけれども、VRもいいよね、みたいな感じであった。SONYの圧力か! とは思わなかったけれども、このARとVRの対比というのは面白いなぁと思った。
※映画館に来てたの、ほとんど男の子だったぞ。「君の名は。」のときはカップルも多かったけれども、これはどういうことだ。
.hackとSAOの比較
ゲームの世界がリアルに及ぶ、というのは、ソードアートオンライン(SAO)が初めてではなくて、多分、僕が知る限りは、.hackという作品がある。自分は、.hack//signをみたことがあるぐらいで、ゲームも何もやったことなかったけれど、先日、ある方がブログで、.hackシリーズの解決をされていて、非常に分かりやすかった(なるほど、黄昏の腕輪はまた時系列が後なのか)。そんな自分が上の小見出しのようなことを書けるはずもないけれども、取りあえず思ったこととしては、SAO(一期)が面白かったのは、その「デスゲーム具合」のリアリティであった。いやー、ゲームで死んだら現実でも死にますって、そんな中二病的な発想構想、よく描けたなぁって、これは皮肉でなくてよくできた作品だと思った。
そして、プラス要素として、主人公の俺TUEEE具合と、ヒロインの可愛さが良かった。いやー、オンラインゲーマーの欲望を余すことなく具現化したような作品だと思った。それゆえに、ちょっと一歩引いてみないと、色々とまずい。例えば、「ユニークスキル」なんてありゃせんし、課金しないで効率的にレベリングなんてありゃせんし、システムに組み込まれていない設定とか効果なんてありゃせんし、ゲームで知り合って結婚とかそんなもんありゃせんがな!(最後のは単に僻みである(笑))
娯楽への意欲
けなしてるのか、褒めてるのかよく分からなくなってきた。いやー、まぁ、面白かったよ? ただねぇ、やっぱり、最初に一期を見たときの「何だこれ面白そうだな!」というワクワク感はなかった。当たり前だけどね。
今作も、「いやー、ARは何かしっくりこないなぁ」とか言ってるキリトくんも、いきなりバシバシ強くなっちゃって、上位ランカーの人も倒しちゃう(もちろん理由付けはしっかりしている。妹の技の伝授とか、チート装置を見破ったとか。)のも何だかなぁって気になった。まぁそういうこまけーことに拘る作品じゃあないってことだ。
けものフレンズの、絶妙のおかしいコマ割り(演出)とか、敵(=セルリアン)のとってつけたような存在感とか、そんなのどうでもいいんだ。何かその、「すごーい!」って言ってりゃいいんだよ!!(1話しか見ていない。続きみたい)
ゲーム、好きなんだけど、最近あんまりできんのだよなぁ。
時間がない、っというのもあるけれども、何だかやる気が起きない。ある方がクロノトリガーのレビューとか書いていて、久々にやりたいなぁと思うのは結構一瞬に過ぎない。むしろ感想とかレビューとか読んでいた方がいいと思ってしまう。
ただこれは、ゲームに限ったことではなくて、生活全般に及んでいることの、一現象に過ぎないとは思う。
映画。
小説。
漫画。
ゲーム。
アニメーション。
音楽。
スポーツ。
他、娯楽って何かあるんだろうか?
料理、手芸とか?
何でこんなこと書いているかを考えてみると、「君の名は。」に引き続き映画みたわけだけど、なんつーかその、晴れ晴れとした気持ちになれていないということがある。
いやいや、だから、鬱アニメだって前評判を知っていったわけだろ? というのはその通りであり、うん、その意味で、行った意味はあったな。
言の葉の庭
そうそう、忘れていた。この記事は、近況の記事だった。最近、新海誠さんの、「言の葉の庭」も視聴した。50分弱の短いアニメーション作品。これもまた、鬱アニメだった。どうした俺、そんなに自虐したいのか?!モーレツ大人帝国(=郷愁と家族愛)
⇒ 言の葉の庭(=10代と20代の恋愛)
⇒ SAOオーディナル・スケール(=リア充)
精神を痛めつけようとしているとしか思えない(かっこ笑い)。
いやいや、かっこ笑いとかいって、笑いごっちゃねえぜ。
上に、娯楽を挙げたけれども、どうにもピンとこない。これは何故なんだぜ? 何故なんだ、と書きながら、原因は分かっている。今は、「消費」を求めていないということだ。
……小見出し5つ目だし、長くなりそうだからここまでにしよう。
(何ともこの記事はダメ記事の見本だ。タイトルと後半が全然マッチしていない。でも人との会話ってこんな感じだったりする。脳は常に論理的な会話を好むわけではない、とか言い訳乙!)
