今日の一言「苛々と焦燥感と無気力感に負けるな!」「日々の生活の中に答えがあるのでは……?」
何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。
と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。
社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。
※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。
と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。
むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。
僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。
これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。
僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。
ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。
家族の誰々のせいだ。
社会のせいだ。
会社の上司のせいだ。
友人のせいだ。
彼氏のせいだ。
誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)
いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。
怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)
……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。
※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。
この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。
整理しよう。
まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。
羨ましいなぁ。
という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。
そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。
フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。
ここで、二つの道がある。
一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。
もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)
3月の目標を立てよう
目標を立てよう。ダメだこりゃ、毎週毎週が、サバイバル状態である。毎日毎日が、断絶状態である。もちろん、記憶障害もなければ、譫妄(せんもう:幻覚や錯覚)があるわけでもない。何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。
と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。
社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。
※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。
恥ずかしい表現ではなかろうか?
おーい、30代男性が、上のようなことを書くなんて、恥ずかしくない? 気持ち、悪いよ?と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。
むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。
僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。
最近求める面白い記事について
んで、最近思ったのは、他者のブログにおいて、面白いと思うのは、それが、ポジティブだとか、ネガティブだとか、そこがポイントなのではないことだ。愚痴でもいいんだけど、その向かう先が、外部になっている記事は、おもろーない。これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。
僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。
ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。
家族の誰々のせいだ。
社会のせいだ。
会社の上司のせいだ。
友人のせいだ。
彼氏のせいだ。
誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)
いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。
怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)
……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。
※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。
問題の提起
別に、今、苛々しているわけじゃあないんだが、とにかく、色々、このままではまずい。この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。
整理しよう。
まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。
羨ましいなぁ。
という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。
そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。
フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。
ここで、二つの道がある。
一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。
もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)
PR