今日の一言「いろいろ!」「借金しない程度の金で解決できる失敗はいろいろした方が良かろう」
原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
お金が吹っ飛んだ
詳しくは書いている時間がないから、結論だけ書こう! お金が、数万円、無意味に消失した!原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
まどかマギカは仏教的作品である
そして、そのイライラのせいか知らないが、じっくり見ていこうと思っていた魔法少女まどか☆マギカを、一気に12話まで見てしまった。これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
あとはもういろいろ
なんだか、あと三つぐらいは、書いておこうと思ったことがあった気がしてならない。が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
面白い記事とは
そんでは、せっかくなので、この記事の序盤の内容と絡めてみよう。ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
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今日の一言「面白い物語欲しいようがー」「感動する曲がききたいようがー」
と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
キャッシュ
面白い物語に触れたい! と同時に書きたい! と思って、ちまちまと書き進める。しかし、面白いのか自分で分からない、というか、これ、説明多すぎやろ! 物語性ないやろ! うがーダメダダメダダメだ!!と思って布団で転がり続けていると、書棚に小林泰三さんの「海を見る人」の小説が目に入る。
「そういやー、量子テレポーテイション関連で、門ってエピソード読んで、面白かったなーと思ってそのままだったな。その他のエピソードも読んでいたけど、まだ読んでない奴があった気がする」
手に取ってぱらぱらしてみる。
「キャッシュ」という話を、まだ読んでいなかったことが分かる。
ふむふむ。星間航海が何百年とかかるから、コールドスリープの技術を開発したと。でもコールドスリープで、身体の保存はできても、何十年も経っちゃうと記憶とか人格の保持は難しいことが分かると。
んじゃー、眠ってる間も、仮想空間で思考させときゃいいんじゃね?
ということで、コールドスリープ中も頭の中だけで生活できる「世界」がつくられる。そこでの生活は、あんまり単調だと飽きちゃうので、魔力ポイントみたいなもので、魔法を使えるようにしたり、その世界の維持管理をするコンピュータのリソースを枯渇させないため、「キャッシュ」という疑似現象作用(※)を開発したりと、工夫がこらされる。
そんなこんなで、みんな楽しい星間航海をしていたが、何十年かして、ある日、仮想世界を維持しているコンピュータのリソースが枯渇して、世界に綻びが生じ始めていることが発覚する。
※バタフライ効果のように、僕らの世界は複雑系である。例えば、ガラスを割ったら、当然音が出て、破片が飛び散って、周りの人にも音が聞こえて、と、連綿と状況が反映されていかなければならない。それらを、コンピュータで計算し、逐一再現するのはいくら高性能のコンピュータがいくらあっても足らない。かといって、現実世界に近づけた現象がないと、仮想世界にリアリティがなくなって飽きてしまうのも早いだろう。ということで、取りあえず身の回りに起こる現象ってのは、取りあえずその人だけに感じられる程度の現象として生じさせるようにした。その機能を「キャッシュ」というそうだ。
これ、オンラインゲーム(MMORPG)とかで、ネットワークリソースを枯渇させないために、ローカル側で環境情報やエフェクトなどをDLしておき、重い処理はクライアント側のPCで処理させるっていう方法とも似てるし、PCのCPUにおけるキャッシュメモリの考え方にも似てるし、設定自体すげー面白いなぁ。
まどかマギカ
魔法少女まどかマギカの、オープニングテーマは好きで、曲は知っていた。けれども、絵柄が少女漫画ちっくで、作品自体はあまり興味はなかった。昨今、ストーリーを虚淵玄さんという、Fate/Zeroとか手掛けた方が携わっているということと、何だか絵柄と合わない鬱ちっくな展開であるということを耳にし、みてみたいなぁと思っていた。
そんなところ、なんと、アマゾンプライムさんで見れるじゃないか! 最近買い物あんまりしてないから微妙に思っていたが、ダテに高い年会費はらってるわけじゃないな。やるじゃんアマゾンプライム!
と思って視聴。あー、なるほど、まだ3話までしか見ていないけれども、ちょっとこれは面白そうだ。最後までみれる気がする。
エンターテイメント
そもそもエンタテインメントというものは「人生の意味を問いかける」純文学とは違って、「人生は生きるに値する」という前提から出発します。哲学や芸術を追求するのならばエンタメに手を出してはいけません。ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界です。目的はただ一つ、時間を忘れて楽しんでもらうこと。エンタメとは、不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在であることをけして忘れないでください。自分の主張や意見をただ発表してもしょうがないんです。読者に心の底から愉しんでもらえないと意味がないんです。http://www.0874296.com/skillup/processという講座を読んだ。
「エンターテイメントは楽しくなきゃだめだ!」と、僕も以前の記事で書いた気がするので、全体的に賛成だ。
しかし、エンタメだから、哲学や芸術を追究しちゃあかん、というのは如何だろうか。まぁ、結論が「楽しくない」「不気味なもの」ものになる可能性があるから、よろしゅうない、という意味ではそうなんだろう。
でも、「不条理な人生を生きる人たち、弱っていたり傷ついている人たちを支え、癒し、応援するために求められる存在」というのは、どうなんだろ。いや、そうあることを否定するのではない、無いんだけど、「それが前提」とされている物語を、どうにも手放しでオモシレー! って言えない感覚が、俺にはある気がしてならない。
色々書きたいことがある気がするが、取りあえず一つ書き残せば、「すげー面白かった!」作品を見た後の、ものすごい憂鬱な感覚を皆さんは感じたことがないだろうか。
最近思い起こせば、「君の名は。」とか「ソードアートオンライン」とか見て、確かに面白かったし、ハッピーエンドだった。が、その後、帰宅の路についた僕は、何とも言いようなく、侘寂を重く感じていた。
心の底から愉しんでもらう。この結論は賛成だ。しかし、物語の紡ぎ手自身が、最初からそのハッピーエンドを求めて、言わば読者に迎合するような形でストーリーを紡ぐというのでは、本当に良い作品が生まれるのだろうか。
いや、生まれるんだろうな。でも、それって、結局、最初に否定している哲学や芸術の「ここは徹底的に技術だけが支配する職人の世界」というのと、同じようなテクニーク的な話しにならないだろうか。作者さんが、「はいはい、どうせこんな展開にすると萌えブタ読者は悦ぶんでしょ」的につくった作品が、もえーっと喜ばれる。消費財的な作品ってのはそんなもんだ。
ただ、なんつーか、その、狂気的な作品が読みたい。シグルイという刀剣バトル漫画は、ぶっちゃけ、あれ、ハッピーエンドなんかじゃあなかった気がする。(というより、解説サイトを見なけりゃエンディングが何のこっちゃか全然わからんかった)
でも、面白かった。取りあえずこの先ずっと忘れない気がする。
時たま例で取り上げる遠藤浩紀さんのEDENって漫画も、あれ、ハッピーエンドだったんだろうか。「この先の未来も、人類は子を生み育て生きていくのだろう」的なパターンである。正直あんまり問題は解決していない。でも、面白かった。
消費的なエンタメと生産的なエンタメ
思うに、「うひゃひゃ! おもろかった! さーて、明日から仕事かー」的な作品と、触れた後、しばらく茫然自失して、己の魂魄や信念が揺さぶられるような、そんな生産的(再構築的)な作品と、二種類ある気がする。後者は、あんまし、需要がないのかもしれない。
そんな重苦しいのに触れるぐらいだったら、現実の大きな問題や課題に立ち向かった方が、よほど達成感なんてのも味わえるかもしれない。
それは否定せん。が、特に今の僕にとっては、後者が非常に重要に思える。
だったら、シェイクスピアとかドストエフスキーとか、古典的文学を読んだ方がいいのかもしれない。
だが、消費的なエンタメも、生産的なエンタメも、共通して、重要なことが一つあるのだ。
面白くなきゃダメだ!!
どんな高尚なエッセンスが詰まっていても、面白くなきゃあダメだ、心が揺さぶられない、感動できない。
感動しないと、インプットできない。インプットできないと、思考や行動に反映できない。
というわけで、今日も俺は面白い作品を探して夜な夜な徘徊する。承認欲求や所属欲求、そして面白い作品に飢え彷徨うゾンビのように。
(しかし、面白いという感情、これまた難解である)
ブログで連載って、読み返すときに非常に不便なんだよな。順番が逆だから。ので一応カテゴリーは別に作成して、一話目のカテゴリ分類リンクを各話に貼っておくことにしようか。「次のページ」をクリックしていけば、順番に読める的な。うん? カテゴリ分類のリンクってどうやって作るんだ? カテゴリーの一覧は作れるけど、これだと、最新記事からになってしまう。カテゴリー一覧の中で、一番古い記事へのリンクが作りたいんだよ! ……分からない。
ワードプレスならそういったカスタマイズもできるんだろうな。ただ、そこまでやるなら、自前のサイトでやっても同じだしな。
毎回毎回、次の話へ、前の話へ、みたいなリンクをつくってたら、まず面倒になって更新はしなくなるだろう、間違いない。まぁ、そういった拘りをするのが目的じゃあなくて、とかく、「創作から離れる時間を少なくする」という初志を忘れないようにしよう。
以下、続き。
ワードプレスならそういったカスタマイズもできるんだろうな。ただ、そこまでやるなら、自前のサイトでやっても同じだしな。
毎回毎回、次の話へ、前の話へ、みたいなリンクをつくってたら、まず面倒になって更新はしなくなるだろう、間違いない。まぁ、そういった拘りをするのが目的じゃあなくて、とかく、「創作から離れる時間を少なくする」という初志を忘れないようにしよう。
以下、続き。
今日の一言「通常記事は久しぶり」「おバカな記事だって難しいよ」
そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。
ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!
と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。
問題は、……
今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★
[自撮り写真]
とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。
結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。
その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。
だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!
ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。
で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
あんまり、ない。
あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。
よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。
直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!
けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、
ライオンだ!
といったら、なんのこっちゃ、となる。
小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。
だからなんだ。
取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
あー、長いようで、短いような。
そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。
1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。
そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。
こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。
例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。
俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。
苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。
言語、とは、記号である。
無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。
だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。
ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。
おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。
と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。
んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。
いーんじゃないか、と思う。
ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。
え、ひとごと? お前は?
俺は……よく分からん。
何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。
前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。
で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。
物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。
問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。
ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。
日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。
ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。
自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。
ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。
この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。
適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。
とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。
あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。
俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。
(あー、何か、面白いこと書きたい)
芸能人のブログ
芸能人とか、歌手とか、有名な人、知識人とか、とにかくテレビとかに出てる人たち。そんな方々がよく利用しているアメーバブログというメディア。
ぶっちゃけた、正直ベースな感想とすると、中身が薄い!!!
と、思うのだけれども、でも、適度な改行だったり、写真の貼り方だったり、絵文字とか顔文字とか記号の使い方だったり、歯切れの良い短文だったり、いざ真似すると難しかったりする。
問題は、……
今日はお仕事がんばったぞ♪
久佐嘉さん(仮名)にも褒められたし!
よーし、明日も私ふぁいとぉ~★
[自撮り写真]
とか、僕はとくに目指したいと思わないということ、および、そもそも誰もそんなの求めてない!
……のだけれども、じゃあ、僕の「イライラ対処」記事とか、それって、結局、何ら変わらないんじゃないかなぁとも思ったりする。
結局、アメブロとか、副収入目当てなのかもしれないけれども、大勢が見てくれるということ、承認欲求とか、目立ちたいとか、ちやほやされたいというそういった欲求を満たすための媒体の一躍も担っているのではないかと思う。
その点、僕も、やっぱり、認められたリ、共感してもらえるってのは、すごく嬉しいことだと思う。
だから、芸能人、その他の有名人の人のブログも、いわゆるダメブロ界の人たちのブログも、同じブログというメディアを使っている仲間なんだ!!
人との繋がり
あー、その、何を言いたいんだろう。よく分からないんだなぁ、最近……いや、別に最近でもなく、ここずっと、何年もそんな感じかもしれない。ただ、一日、一日を、大切に生きたいとは思う。特に最近は、「ああ、生きていて良かったなぁ」って思ったりする。本気で思っているのか分からないけれども、取りあえず、ひとりでいるときは、例えば朝起きたときとか、口に出して言うようにしている、というよりも、自然にそんな言葉が発せられる。
で、まぁ、その、「寂しい」って感情。
あんまり、ない。
あんまり、というと、やっぱりあるのかもしれないが、そこら辺は、よく分からない。
よく分からないけれども、最近、本をぱらぱらと読めるようになってきた。
やっぱり、本は、面白いと思う。読んだあとに、特段、語れることがあんまりないんだけど、直喩と隠喩について、とか。直喩の方が、「●●のようだ」という説明的で、隠喩の方が一見、ウィットがきいているというか、ハッとさせられるような表現である、とみなされがちだ。
直喩例)彼の勇敢さはライオンのようだ。
隠喩例)彼はライオンだ!
けれども、それはあくまで、直喩と、隠喩を対比してみるから、「隠喩いいね!」となるだけであって、いきなり、
ライオンだ!
といったら、なんのこっちゃ、となる。
小説とかで有効なのは、そのシーンにおいて、決してサバンナにいるわけでも、動物園にいるわけでもなく、ごくごく日常生活のなかで、「俺、ちょっと店長にかけあってみますよ」とかバイトくんが言ったときに、「かっこいい! ライオンだ!」みたいに使うと、あー、隠喩なんだなぁ、って分かるということだ。
だからなんだ。
連載
取りあえず、最近始めた連載活動、10話分ぐらいまで書き進めた。取りあえず、週刊更新を予定している。何曜日か決めようか、どうしようか、まだブレている。取りあえず、10回分と考えると、2か月半後ぐらい分である。そうすると、6月ぐらいだ。今が3月で、6月。
あー、長いようで、短いような。
そう考えると、ほんっと、人生短いっすなぁ。取りあえず目標の半年間を達成するには、9月ぐらいまで続けることになる。そこまでに完結させられるだろうか。きっと、10万字も到達しないだろう。ちなみに、文庫本程度は10万字ぐらいであるということである。
1年に、一作品つくっていくにしても、40歳までに10個いけるかどうか。
80歳で死ぬとして、40作品つくれるかどうか。
そう考えると、もう既に、何作品も完結した作品をつくられている方々って、すげーなーと思う。
ちょっと上から目線と言うか、小ばかにするような表現をこれからすることになるが、最近は本気で、中学生レベルの文章表現力しかなくても、ちゃんとストーリーつくって完結した作品を書ける人ってすごいなと思う。
何というか、表現力は、後から身に着けてもいいと思う……し、やっぱり、ストーリーメイキングできる能力ってのは、ある意味才能なのかなぁとも思う。
どんなに素晴らしい作品に触れて摂取しても、それを、自分の物語として再構成して、表現するってのは、やっぱりどこか、違うことだと思う。よくない例えしか今思い浮かばないが、人を殺したいと思うのは誰でもあるが、実際に殺すのとは大きな乖離があるように。
夢いっぱい!
タイトルはあんまり意味がある分けではないけれども、何だか色々人に触れていて、ぼーぜんとした「すげーなー」って思いが生じた。こう、その、「冷めた観方」みたいなのがかっこいいと思っているわけでは、決してないのだが、どっかしらその、ベルトコンベアーに乗り損ねた商品みたいな気分になるのはどうしてなのか。
例えば、ある精神科医の先生の「認められたい」という承認・所属欲求が、僕に足りない、という診断があったとして。ヴィクトールさんの人間は創造・体験・態度の三つの価値を追究していかねばならないと発破をかけられたとして。
俺は、何か、うまーく表現できないのだが、その「いきづらさ」か何か、表現できたとして、概念化できたとして、じゃあ、それで問題が解決するのかどうか、と思う。
苦しい理由、というものを、言語化できたとして、それが解決するかどうか。もちろん、発達障害やら学習障害やらADHDやら、その診断がついたことにより、「ああ、やっぱり、そうだったんだ」という安心感のようなものが得られる人もいることだろう。ただ、結局、問題はそこからの人生であることには違いない。ようやくスタートラインにたったようなものではなかろうか。
言語、とは、記号である。
無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。
だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。
これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。
ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
……という面からも、他者との完全理解というのは不可能である、という僕は立場というか、考え方をもっているわけだけれども、この考え方が役に立つかと言うと、気休め程度の役にもたちゃあしない! だからなんだって、話。いやぁ、だからこそ、ちょっとでも、「分かり合えた!」「共感した!」という感覚が重要だし、大切なんだよ、という教訓にはなるかもしれない。分かり合えるというのは難しいことなんだから、ちゃんとコミュニケーションとらなきゃならんのだよ、という教訓にはなるかもしれない、ただ、その程度だ。
幸せいっぱい!
タイトルに意味はない。ただ、表現に限りが無いのであれば、やっぱり、「絶対ポジティブ思考」であるべきだと、僕は思う。
満たされているなぁ、幸せだなぁ、感謝でいっぱいだなぁ、嬉しいなぁ。
おぅ、どうした? アップ系の薬でもやったんか? と思うようだが、それでもやっぱり、楽天・楽観的であることが、大切な気がする。
と、わざわざ書く時点で、僕は、そういう性格ではないのだろう。本当の楽天的な人は、そんなこと自体考えないのではあるまいか。
んー、でも、いーんじゃないか、と思う(何が?)。その、色んな人がいていーんじゃないの、と思う。毎日のように、愚痴をSNSやらブログに書き散らしているような人もいる。何年も、「あー、俺はダメな奴なんだ、死んだ方がいいんだ」と書きながら、取りあえず生きている人もいる。「孤独でもいーんすよ」という人もいる。「働きたくないでござる」と言い続けている人もいる。
いーんじゃないか、と思う。
ただ、みんな、取りあえず、幸せになったらいいんじゃないか、と思う。
え、ひとごと? お前は?
俺は……よく分からん。
何だろ、幸せっちゃあ幸せだろうし、「リア充爆発しろ!」と思えば不幸な気もする。ただ、どっちでもいい気がしている。
前も書いた気がするけれども、そもそも、「幸せ」とか「ポジティブ」という言語表現にとらわれている時点で、既に罠にはまっている。
幸せ、ポジティブなんてのは、相対的な概念であり、その言葉に意味を注入できるとすれば、それは、「実感」に他ならんわけだ。
で、逆に書けば、「実感」があれば、別に「あー幸せだなぁ~」なんてしみじみ言う必要なんてないわけだ。
などと30代おっさんが述べております
物語つくれる人ってすごいなぁ(唐突)。物語って、新学力とかエンプロイアビリティなんてビジネス的な表現すれば、問題解決能力だと思う。
問題。課題。困難。ハードル。軋轢。葛藤。
ひっくるめていろーんな問題があって、それにどう対処していくのか、というのが、すべての物語の基本ストーリーである。
日常ほのぼの系作品にそんなもんないのでは? という指摘もありそうだが、いや、そんなことぁーない。日常の、ほのぼのとした課題などが描かれているはずだ、よく観察してみるといい。
ここでいう問題は、社会問題だとか、異性問題だとか、その問題の大小を言うのではない。
自分で設定した問題について、逃げずに立ち向かって何らかの答えを出していくという作業、それが「物語」なのである。
ドラゴンクエストでは、悪い魔王が街を荒らしている、このままでは世界が滅びてしまう、戦え勇者たちよ! 的な問題解決である。
ライトノベル的な異世界転生や転移でも、人生やり直すぞ!とか、元の世界に帰らなきゃ!的な問題解決である。
学園ものでもそうだ。いじめられたり、モテなかったり、勉強できなかったり、スクールカーストの底辺でもがく……問題解決である。
この、問題解決能力が、生きていく上で、大切なことだと思う。イデオロギーも、宗教も希薄化した現代においては、特にそうなんじゃなかろうか。
そして、もう少し踏み込んで考えると、この問題解決能力とは、「解決力」が重要ではなく、「問題設定力」が重要なんじゃなかろうか。
適切な問題を設定して、それを解決していくという人生の繰り返しが、即ち、充実感だとか幸福感だとかに繋がるんじゃなかろうか。
とかって、こうやって考えている最中は結構楽しかったりするのだが、考えれば考えるほど、その結論的なものが、どうにも、矮小だったり脆弱だったり、くだらないもののように思えてくるというこの病気について、是非命名したい。
あー、やっぱり、中二病とか、高二病とか大二病的なのになるんかな。
俺って、「ふつーの人」とちょっと違うことを考えられますよ(キリッ)的なやつをあざ笑う、その様をさらに思って自嘲して……という、無限ループ的な。
(あー、何か、面白いこと書きたい)
