今日の一言「頭痛がするときはチョコレート」「長時間同じことをするのは堪えるね」
この結論を書こうと思って、前回の記事のようになった。頭のおかしな人間である。
もう少し、掘り下げてみると、「理想の生活をしよう」ということになる。
理想、とか、また抽象的な言葉が出てきやがった。本当に大丈夫か? この記事は、ちゃんと解決、成果に結びつくのか? そんな疑問を同時に抱きながら書き進めていこう。
あるエッセイストを取り上げたこちらのブログ記事が面白かった。随筆とエッセイについて、端的に区分けすれば、随筆が少し文学よりで、エッセイはより洒落乙なのだそうだ。
なるほど、じゃあ、僕のブログは分類としてエッセイなんだな、とか思ったら、「エッセイって、気取らない文体がゆえに、エッセイストは面白くするために頭をかきむしって本気で悩んでいるのである。それでいて、読む人に体力を使わせない」とか書かれていて、うわぁ、そりゃそうだよなと思った。
僕は基本的に、このブログにおいて書く際には、あまり考えていない。考えて紡ぎだした言葉は、それはそれで重要だけれども、それはどこか、「実感」から離れてしまっているように思える場合があるからだ。
考え抜いて、「ああ、この言葉こそ僕を本当に示す表現なのだ!」というのに辿り着くこともあるだろうが、しかし、僕は同時に、厳密な言葉というものにも、信頼性をおけていない。
といったことについて、こちらのブログ記事が面白かった。――哲学の科学「人間はなぜ哲学をするのか」
上の方の記事のいくつかを読んだけれども、面白い。僕が言いたいこととか、考えていたこととか、表現したかったことの大半が含まれているんじゃなかろうか。だからといって、じゃあ、僕として表現することが完全に無意味かというと、そうではない。そうではないんだけれども、やっぱり、無力感を思ったりはする。
長期休み……といっても、5連休であるが、ゴールデンウィークが迫ってきた。これはとても喜ばしいことである。わーい。
しかし、特に予定がない。
予定とは何か。仕事をしたり、旅をしたり、友人と遊んだり、趣味にいそしんだり、その他何かすることである。
そういった予定が、何もない。
僕はこれまで、「暇だ」という言葉を使ったことがなかった(少し大げさな書き方である)。
独りで過ごすのも嫌いじゃあなかったし、何かしらすることがあった。実際、特に予定などなくても、時間はあっという間に過ぎていった。暇だ、なんて言葉を発する時間などなかった。
しかし、たぶん、今度の休みは、とっても「暇」な気がする。仕事の予定もない。
とはいえ、まぁ、無理やりでも予定をいれたら、簡単に時間を消費することは可能だろう。
学生時代の夏休みのようである。
しかし。なんといっても、「今が一番若いし、充実している」のである。
だから、無為に過ごすのは、本当にもったいない。何かしなければ、何か充実させなければと、強く思う。
何か人に語れるような何かが必要なのだろうか? 僕は今日目が覚めて思った。うん、そうだ、何もしないことだって、大事なんだ。
問題は、何もしないとちゃんと自分で決めたことなのかどうか、である。
ただ単に、漫然と時間を使ってしまったのであれば、後悔に他ならなかろう。
GWとか、長期休みとなると、海外旅行とか、キャンプとか、何だかそんなアクティブなことをしなきゃならんとか、そんな風潮がある(気がする)。
それはそれでいい。長い休みじゃあないとできないことってのはあるだろう。
でも、それが、本当に自分がやりたいことなのか、否か。
僕は思った。大事なのは、「いま、自分が一番やりたいことをやろう」ということだ。
それって何か、を考えたとき、「理想の生活をする」という言葉が浮かんだ。
いい音楽を聴く。いい作品に出会う。物語をかく。思考をめぐらす。筋トレする。坐禅する。ランニングする。朝起きて夜眠る。おいしいものを食べる。
いい感じに引きこもりであるが、とても楽しそうである。
これは、誰かに語れるような過ごし方ではないだろうが、しかし、老後を考える上でも重要に思える。
仕事が定年を迎え、年金生活になったとき、どんな風に生活するのが楽しいだろうか。
僕はその時も、ブログを書いているのだろうか。音楽を聴くことができているだろうか。小説を書くことができているだろうか。ランニングできているだろうか。思考するだけの知性が残っている(ボケていない)だろうか。
その場に、伴侶とか友人といった存在を想定できていないところに、僕の頭がおかしい理由や根拠を求められそうであるが、それはまた別のお話である(ただ、このことも非常に重要な問題の一つである)。
矛盾するように聞こえるけれども、何もしないための目標が必要になる。
ということで、一つ、小説を読もうと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら、ぜひ、コメント欄等でおすすめの作品を教えていただきたい。(というかむしろ、どういった過ごし方をするのか参考に教えていただきたい)
もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
もう一つ、ブログを書こうと思う。
もう一つ、カラオケに行こうと思う。
もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
もう一つ、……いやいや、まてまて、なんかいろいろやってんじゃねーか!
そして、全部ひとりで可能なことであるという(かっこわらい)。
何でだろう。
学生時代は、なんやかんや、友人に誘われたりして遊びに行っていた。
恋人がいた時代は、一緒に過ごしていた。
会社の先輩たちから誘われて旅行にいったりしていた。
でも、よくよく考えると、俺、自分から誰かを誘ったことって、あったろうか……。
主体的に、俺が、誰かと一緒に何かしたいって思ったことって、あったんだろうか。
(完全に蛇足だけど、モテる人って、イケメンなのも一つの要素だけれど、「誰かと一緒に何かする」ことが上手い人なんじゃあないかと思ったりした)
なんだ、ほんと、独身の人って、ふつう何して過ごしているんだろう。
こうして、「特になんもすっことねぇなぁ」って人が、寂しさを覚えて、婚活とか友人誘ったりするんだろうが、どうも、あんまりそんな気が起きないんだよな。これは、僻みとか、単にチャレンジに臆病なだけとも解釈できるけれども、今の自分の中ではそんなに悲壮感がない。というより、なんだか、これ、むちゃくちゃ幸せなんじゃなかろうか。
仕事から解放され、自由に使える時間と、お金がある。これほど恵まれたことはないのではなかろうか。
次のゴールデンウィークが、僕の人生で、もっとも幸せな時間なんじゃあなかろうか。
(とか書いていると、マジで死亡フラグみたいで笑える、いや笑ってる場合じゃない!)
・ネットサーフィン
である。まとめ系のサイトとかニコニコ動画とかって、ついついリンクたどってみてしまう。けれども、たいてい、何も残らない。刹那な感情の起伏のみだ。現に、今週も2~3時間費やしたような気がするが、まったく何をみたのかすら覚えていない。
(世界の奇人変人のニコ動は面白かった)
パソコンを起動することや、ネット検索をすることは避けられないだろうが、余計サイトは一切みないことは徹底しよう。
・惰眠
これは、致し方ない場合がある。創作活動とか、作業をしていると、どうしても、頭痛というか、眠気が襲ってくる場合がある。朝も活動にうつるまで、時間がかかる場合がある。
これを防ぐには、強靭な意思力が必要だが、事前に、作業計画をインプットしておく必要がある。あとは、効率的に限定的な昼寝を組み入れるなど、対策が必要だろう。
・漫画
漫画自体は駄目じゃあないんだけれど、これ、いつでも(精神力がないときでも、体力がないときでも、時間がないときでも)見れるので、敢えてやる必要がない。(そういや、先週は、ワンパンマンのリメイクがWEBで読めてしまって、ついつい最新話まで読んで夜更かししてしまった。)
これは、それほど、やらないことにパワーは必要ないけれども、事前に取り決めしておかないと、気づいたら読みふけっていたという事態に陥ることは目に見えている。
・ゲーム
これもダメじゃあないけれど、時間を決めてやろう。具合悪くなって、面白くはなくなったんだけれども、何となくやめられない状態に陥るのが、このゲームというジャンルはよくある。
って。こうやって書いていると、小学生の夏休みの目標みたいだぞ! おい、いいのかこれで30代ッ!!
(もうちょっと休みが近くなってきたら、やること・やらないことをまとめて、紙に書き出しておこう)
長期休みの予定
よし、何もしないことをしよう。この結論を書こうと思って、前回の記事のようになった。頭のおかしな人間である。
もう少し、掘り下げてみると、「理想の生活をしよう」ということになる。
理想、とか、また抽象的な言葉が出てきやがった。本当に大丈夫か? この記事は、ちゃんと解決、成果に結びつくのか? そんな疑問を同時に抱きながら書き進めていこう。
随筆とエッセイの違い
「書き進めていこう」(キリッ)とか書いておいて、いきなり脱線する。あるエッセイストを取り上げたこちらのブログ記事が面白かった。随筆とエッセイについて、端的に区分けすれば、随筆が少し文学よりで、エッセイはより洒落乙なのだそうだ。
なるほど、じゃあ、僕のブログは分類としてエッセイなんだな、とか思ったら、「エッセイって、気取らない文体がゆえに、エッセイストは面白くするために頭をかきむしって本気で悩んでいるのである。それでいて、読む人に体力を使わせない」とか書かれていて、うわぁ、そりゃそうだよなと思った。
僕は基本的に、このブログにおいて書く際には、あまり考えていない。考えて紡ぎだした言葉は、それはそれで重要だけれども、それはどこか、「実感」から離れてしまっているように思える場合があるからだ。
考え抜いて、「ああ、この言葉こそ僕を本当に示す表現なのだ!」というのに辿り着くこともあるだろうが、しかし、僕は同時に、厳密な言葉というものにも、信頼性をおけていない。
といったことについて、こちらのブログ記事が面白かった。――哲学の科学「人間はなぜ哲学をするのか」
上の方の記事のいくつかを読んだけれども、面白い。僕が言いたいこととか、考えていたこととか、表現したかったことの大半が含まれているんじゃなかろうか。だからといって、じゃあ、僕として表現することが完全に無意味かというと、そうではない。そうではないんだけれども、やっぱり、無力感を思ったりはする。
理想の生活について
さて、2017年。長期休み……といっても、5連休であるが、ゴールデンウィークが迫ってきた。これはとても喜ばしいことである。わーい。
しかし、特に予定がない。
予定とは何か。仕事をしたり、旅をしたり、友人と遊んだり、趣味にいそしんだり、その他何かすることである。
そういった予定が、何もない。
僕はこれまで、「暇だ」という言葉を使ったことがなかった(少し大げさな書き方である)。
独りで過ごすのも嫌いじゃあなかったし、何かしらすることがあった。実際、特に予定などなくても、時間はあっという間に過ぎていった。暇だ、なんて言葉を発する時間などなかった。
しかし、たぶん、今度の休みは、とっても「暇」な気がする。仕事の予定もない。
とはいえ、まぁ、無理やりでも予定をいれたら、簡単に時間を消費することは可能だろう。
学生時代の夏休みのようである。
しかし。なんといっても、「今が一番若いし、充実している」のである。
だから、無為に過ごすのは、本当にもったいない。何かしなければ、何か充実させなければと、強く思う。
旅行とかイベントが重要なのか?
しかし。ふと思う。何か人に語れるような何かが必要なのだろうか? 僕は今日目が覚めて思った。うん、そうだ、何もしないことだって、大事なんだ。
問題は、何もしないとちゃんと自分で決めたことなのかどうか、である。
ただ単に、漫然と時間を使ってしまったのであれば、後悔に他ならなかろう。
GWとか、長期休みとなると、海外旅行とか、キャンプとか、何だかそんなアクティブなことをしなきゃならんとか、そんな風潮がある(気がする)。
それはそれでいい。長い休みじゃあないとできないことってのはあるだろう。
でも、それが、本当に自分がやりたいことなのか、否か。
僕は思った。大事なのは、「いま、自分が一番やりたいことをやろう」ということだ。
それって何か、を考えたとき、「理想の生活をする」という言葉が浮かんだ。
いい音楽を聴く。いい作品に出会う。物語をかく。思考をめぐらす。筋トレする。坐禅する。ランニングする。朝起きて夜眠る。おいしいものを食べる。
いい感じに引きこもりであるが、とても楽しそうである。
これは、誰かに語れるような過ごし方ではないだろうが、しかし、老後を考える上でも重要に思える。
仕事が定年を迎え、年金生活になったとき、どんな風に生活するのが楽しいだろうか。
僕はその時も、ブログを書いているのだろうか。音楽を聴くことができているだろうか。小説を書くことができているだろうか。ランニングできているだろうか。思考するだけの知性が残っている(ボケていない)だろうか。
その場に、伴侶とか友人といった存在を想定できていないところに、僕の頭がおかしい理由や根拠を求められそうであるが、それはまた別のお話である(ただ、このことも非常に重要な問題の一つである)。
何もしないためにすること
さて、これにて、5連休は何もしないことに決定したわけであるが、これは、龍樹の四句否定ではないが、「何もしないために何かする必要がある」。矛盾するように聞こえるけれども、何もしないための目標が必要になる。
ということで、一つ、小説を読もうと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら、ぜひ、コメント欄等でおすすめの作品を教えていただきたい。(というかむしろ、どういった過ごし方をするのか参考に教えていただきたい)
もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
もう一つ、ブログを書こうと思う。
もう一つ、カラオケに行こうと思う。
もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
もう一つ、……いやいや、まてまて、なんかいろいろやってんじゃねーか!
そして、全部ひとりで可能なことであるという(かっこわらい)。
やりたいこと
なんだろう。何故か、何かやりたいことを考えると、「誰かと一緒に」という発想がでてこない。何でだろう。
学生時代は、なんやかんや、友人に誘われたりして遊びに行っていた。
恋人がいた時代は、一緒に過ごしていた。
会社の先輩たちから誘われて旅行にいったりしていた。
でも、よくよく考えると、俺、自分から誰かを誘ったことって、あったろうか……。
主体的に、俺が、誰かと一緒に何かしたいって思ったことって、あったんだろうか。
(完全に蛇足だけど、モテる人って、イケメンなのも一つの要素だけれど、「誰かと一緒に何かする」ことが上手い人なんじゃあないかと思ったりした)
なんだ、ほんと、独身の人って、ふつう何して過ごしているんだろう。
こうして、「特になんもすっことねぇなぁ」って人が、寂しさを覚えて、婚活とか友人誘ったりするんだろうが、どうも、あんまりそんな気が起きないんだよな。これは、僻みとか、単にチャレンジに臆病なだけとも解釈できるけれども、今の自分の中ではそんなに悲壮感がない。というより、なんだか、これ、むちゃくちゃ幸せなんじゃなかろうか。
仕事から解放され、自由に使える時間と、お金がある。これほど恵まれたことはないのではなかろうか。
次のゴールデンウィークが、僕の人生で、もっとも幸せな時間なんじゃあなかろうか。
(とか書いていると、マジで死亡フラグみたいで笑える、いや笑ってる場合じゃない!)
やるべきでないこと
逆に、やるべきでないことも書いておこう。まずすぐさま浮かぶのは、・ネットサーフィン
である。まとめ系のサイトとかニコニコ動画とかって、ついついリンクたどってみてしまう。けれども、たいてい、何も残らない。刹那な感情の起伏のみだ。現に、今週も2~3時間費やしたような気がするが、まったく何をみたのかすら覚えていない。
(世界の奇人変人のニコ動は面白かった)
パソコンを起動することや、ネット検索をすることは避けられないだろうが、余計サイトは一切みないことは徹底しよう。
・惰眠
これは、致し方ない場合がある。創作活動とか、作業をしていると、どうしても、頭痛というか、眠気が襲ってくる場合がある。朝も活動にうつるまで、時間がかかる場合がある。
これを防ぐには、強靭な意思力が必要だが、事前に、作業計画をインプットしておく必要がある。あとは、効率的に限定的な昼寝を組み入れるなど、対策が必要だろう。
・漫画
漫画自体は駄目じゃあないんだけれど、これ、いつでも(精神力がないときでも、体力がないときでも、時間がないときでも)見れるので、敢えてやる必要がない。(そういや、先週は、ワンパンマンのリメイクがWEBで読めてしまって、ついつい最新話まで読んで夜更かししてしまった。)
これは、それほど、やらないことにパワーは必要ないけれども、事前に取り決めしておかないと、気づいたら読みふけっていたという事態に陥ることは目に見えている。
・ゲーム
これもダメじゃあないけれど、時間を決めてやろう。具合悪くなって、面白くはなくなったんだけれども、何となくやめられない状態に陥るのが、このゲームというジャンルはよくある。
って。こうやって書いていると、小学生の夏休みの目標みたいだぞ! おい、いいのかこれで30代ッ!!
(もうちょっと休みが近くなってきたら、やること・やらないことをまとめて、紙に書き出しておこう)
PR
今日の一言「なんだか久々な気がする」「過去の記事を読むと最近のことのようだ」
自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。
最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)
本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)
実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。
※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。
※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。
・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット
殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。
ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。
・映画フィギュアなあなた
18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。
この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。
音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
(筋肉の名称)
正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。
ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。
……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。
後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。
聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。
どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。
ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。
読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける
地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。
僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。
こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。
(続く)
敢えて何もしない日をつくる
何かを求めて、何かをしなければと焦燥にかられる毎日である。休日であっても、何かを充実させなければならないという強迫観念が生じる。やめよう。自由とは何か、責任とは何か。お金を稼ぐとは何か、生きるとは何か。そういった問いはわきに置いておこう。完全に捨て去るのではない、ちょっとばかり、保留にするのである。
最近ふと思うのだけれども、「冒頭」が大事だと思う。面白い物語というのは、これからどういった展開がまっているのか、最初に期待させてくれるものだ。もちろん、優れた作者・創作者の作品は、序盤がふつーでも、これまでの経験から後半にきっと楽しませてくれるだろうという信仰があるがゆえに、読み進めることができる。(しかし、村上春樹さんの1Q84は、50ページぐらいで投げ出した。前編後編まとめて新品で買ったのに、そのまま中古本屋いきとなった珍しいパターンだ。その後、レビューとかあらすじとか紹介しているのを見ると、後半は結構面白そうな気もしたけれども、また買って読もうとは思えない)
本当に心の底までしみ込んでくるような作品というのは、小説媒体が多いと思う。しかし、小説というのは、頭を使うし、その、「読む」という行為を行うだけの環境整備が必要になる。ページをめくる腕や指は、その読むという作業に特化する必要がある。簡単な言葉で表現するなら、小説媒体はコストがかかるのだ。
一方で、映像作品(映画・アニメ)は、食事中でも見ることができる。視聴コストが低いのである。(漫画は、その中間か)
オルフェンズ
ガンダムシリーズは、初代の総集編映画を見てから、二作目となるが、鉄血のオルフェンズをみている。これは、あるエンターテイナーが面白いレビューというか感想を書かれているから興味をもったわけであるが、多分、そうした紹介を目にしなければ、一生見ることはなかったように思える。多分、対面コミュニケーションで、友人から薦められても、食指が動かなかったろうと思う。実際、序盤、1話~5話? あたりは、そんなに引き込まれてはいなかった。ただ、中盤以降に描かれるという主人公のダークさ、「ま、いっか、こいつは殺してもいい奴だから」という台詞のシーン(※)みたさに、流しで見ていった。
そうこうしているうちに、だんだん引き込まれていった。主人公の一団が、テイワーズというマフィア的な企業と提携することになり、義兄弟の契りを結ぶシーンとか、楽しかった。
現在、オープニングテーマが変わる話数まで視聴完了したが、一期については、最後までみようという意思が強くなっている。
※噂で聞くのと、実際に自分で見るのとは、やはり印象が異なっている。まさか、こんなにもさらっと描かれる(OP前の)シーンだったとは。前知識なく自分一人で観ていたら、気にもとめないシーンだったかもしれない。けれども確かに、主人公の葛藤を描く重要なシーンの一つであることは疑い得ない。
それ以外にも、ヒロインの唇をあまり深く考えず奪ったあたりで手が震えていたり、農園をひらきたいと夢を語るところとか、文字の勉強をするところとか、幼馴染のオルガくんと、同じ「我」という文字があるところにちょっと嬉しそうにしたりとか、子どもらしい可愛いところがある。それと反して、敵は容赦なく殺しちゃうところが、こうして思い返すと、ダーク系主人公としていい感じだなぁ。
しかし、序盤、あまりのめり込めなかった理由は、ヒロインの二人に魅力が感じられなかったところだ。なんだろう、10年前ぐらいだったら、ときめいていた気もするが……。話しが段々それていくが、マクロスFの二人のヒロインも、どちらにも魅力が殆ど感じられなかったので、途中でほおりだしてしまった。
うーむ、そういう意味だと、オルフェンズも、誰か応援したいような、強い感情移入というか、憧れ的なキャラクターはいないなぁ。強いてあげれば、タービンズの名瀬さんとか、ギャラルホルンという軍事組織の尉官であったクランクさんはかっこよかった。超序盤で某少年兵に惨殺され物語の舞台から退場してしまうが……。
そういえば、初代ガンダムの、ランバ・ラル大尉もかっこよかった。逆に、それ以外、あまり魅力的なキャラクターがいなかった気がする。ガンダムシリーズって、群像劇(小説で言えば、第三者視点)なわけなので、魅力的なキャラクターが仰山いるか、ストーリーが目まぐるしく面白いかしないと、継続してみようという気になれないのである(※※)。
※※とか、熱烈なファンが多いガンダムシリーズについて批判的なことを書くと、ファンの方々から石を投げられるだろう。しかしこれは単に、今現在、自分にとっては合わない、というレベルに過ぎず、大した問題ではない。僕はエヴァとか攻殻が好きだけれども、それを面白くないという人もいるわけだ。僕も、そういう人には、面白い点を是非知ってもらいたいと思って色々話したくなってしまうだろうけれども、合わないもんはしょうがない。それこそ多様性だ、価値観だ。
最近みた作品
・外見至上主義・鉄血のオルフェンズ
・攻殻機動隊実写版(ゴーストインザシェル)
・映画リセット
殴り書きしたメモが残っていなかったら、「リセット」とか、見たことすら忘れていた。
この映画は、不完全燃焼だった。なるほど、アマゾンレビューにあるように、キリスト教の原罪と天地創造(ノアの大洪水後の再生のような)をテーマにしているようなことは、神への冒涜を口走るごとに危険が発生するような描写から感じ取ることができた。
しかし、この記事の冒頭で書いたように、その「冒頭」において、そもそも、これが何を描いた作品なのかが、全く分からず、非常に退屈だったといえる。結局、「闇」とは何だったのかも明確に明かされることもない。深い意味はともかく、ドンパチアクションで楽しませる作品もあるけれども、取りあえず人がどんどん闇に飲み込まれていくというパニックが描写されるだけで、よく分からない。
ああ、その、よく分からなさでいくと、もう一つ思い出した。
・映画フィギュアなあなた
18禁作品だが、ふとアマゾンプライムであったので見てみた。女の人の裸体をみることが目的であればよかろうが、これもストーリーがひどかった。
序盤の、主人公が会社において、損失を出した失敗を上司から一人に押し付けられて、左遷させられるシーンとか、まぁ掴みとしてはいいと思う。主人公の怒りというか、苛立ちというか、憎しみというか、哀しみというか、自暴自棄になっていく様がよく表現されていたように思う。しかし、肝心な、等身大フィギュアを拾った後のストーリーがどうにもこうにも冗長で、早送りなしには見ることができなかった。
この残念さ加減。これが、小説媒体で、無理して最後まで読み続けて、結局やっぱり駄目だった、となると、もうこの時間を無駄にした感じが多大なものになる。だらだらと、昼まで寝てしまったときの方が、まだマシに思えてしまうから不思議である。
ルーチン(筋トレと音読)
この記事の右にあるブログパーツ、カウントアップを観れば、180日を超えている。半年を継続することができたということである。これは結構頑張ったといえるだろう。音読、の成果は分からないが、筋トレは、正直、大したことをやっていないのだけれども、身体の見た目に分かる程効果はあった。始める前に写真とっておけばよかったけれども、僧帽筋、上腕二頭筋が太くなり、腹筋のしわが深くなった。
(筋肉の名称)
正しい筋トレの仕方とか、健康器具とか、健康サプリとか、まぁ色々あるけれども、とにかく、継続することができなければ、成果には結びつかない。だからこそ、「何を」継続するかについて、非常に重要なのである。だから、目標とか、目的をしっかりもちなさいと、僕はいつも自分に言っている、のであるが、残念ながら迷走中である。
ゴールデンウィークと夏休みの予定(を立てたかった)
さて。ようやく、ここから、書こうと思ったことに取り掛かれる。
……のだけれども、どうにも長くなってしまったのでいったん打ち切ろう。
後編へ続く、的な。この記事は、最近みた作品についてのコメントのみで終わってしまったようだ。一つ、書いておくべきは、作品への批判が目的ではないということだ。あくまでも、「自分はこう思った」ということへのメモである。
聖書くらいしか物語がなかった中世以前とは異なり、今や、小説、映画、漫画、ドラマ、演劇、落語、オペラ、数々の物語と、その表現技法に溢れているのが現代である。
どんなに頭が良くて、時間の使い方が上手い人でも、そのすべてに触れることは不可能である。
であるからにして、自分はどういった作品を求めているのか、これまでどういったものを観たとき、どういった感覚を抱いたのか、それを表現しておくことは、非常に重要なのである。
ということを書いてみて、もう一つ、最近取りあげようと思ったものを思い出した。
読者と作者のための地雷作品回避法三種
――限界まで耐える、途中で打ち切る、読まずに避ける
地雷作品の回避、と銘打っているが、実際は、面白い作品に効率的に出会う方法とも読み替えることが可能だろう。
僕も、無意識的に、ここで挙げられている三種の方法を実践していたわけだけれども、こうして、理論的というか、緻密に表現されているのを読んで、直観的に「長い!」と思ったけれども、それ以上に唯々すごいなぁと思った。
僕の記事も長さでは時おり負けてはいないと思うけれども、話しがあっちらこっちら飛んでいったり、理論的ではなく感覚的に「こう思う」と断じてしまっていたりと、似ても似つかない構成である。
上のブログの方は、頭が良くて実直な方なんだなぁと思う。
こういう方の記事を読んでいると、いやぁ俺ってダメな奴だなぁと思ってしまうのだけれども、まぁ僕のように、こんなテキトーに記事を書くというのも、時おり面白かったり、大事だったりするんだよ、ということを、どこかの誰かにちょっとでも伝えられたらいいなぁと、そんな淡い期待を抱きつつ。
(続く)
「初めまして、ご主人様。ええと、何と御呼びしたらよろしいでしょうか?」
そんなことを考えながら、しばらく向き合って目を合わせると、そいつは、明るくあどけない声でそう話しかけてきた。
それはいわゆる、ロボットの合成音声のようなものではなく、流暢に話す10代の少女のものだった。
だが――。
そのとき僕に、何故だか理由は分からないけれども、言葉に表せない不快感が生じた。
「え……なんだよ。そんなの、最初に登録してあるんじゃないの」
次の瞬間には、つっけんどんに言ってしまっていた。
向こうから話しかけてくるとは思っておらず、驚いたのもあったのかもしれない。
しかし、この感覚は、どちらかというと、怖さに似たような感覚だった。
デフォルメされたヒト型は愛くるしいが、それをリアルに近づけるにつれ、ある段階で奇妙さが生まれるとは聞く。――とはいえ、目の前にいるのは、どう見ても艶やかで美しい銀髪の少女。それがどうして、こんな不安にも似た怖さを生じさせたのか、僕自身分からなかった。
そんなことを考えながら、しばらく向き合って目を合わせると、そいつは、明るくあどけない声でそう話しかけてきた。
それはいわゆる、ロボットの合成音声のようなものではなく、流暢に話す10代の少女のものだった。
だが――。
そのとき僕に、何故だか理由は分からないけれども、言葉に表せない不快感が生じた。
「え……なんだよ。そんなの、最初に登録してあるんじゃないの」
次の瞬間には、つっけんどんに言ってしまっていた。
向こうから話しかけてくるとは思っておらず、驚いたのもあったのかもしれない。
しかし、この感覚は、どちらかというと、怖さに似たような感覚だった。
デフォルメされたヒト型は愛くるしいが、それをリアルに近づけるにつれ、ある段階で奇妙さが生まれるとは聞く。――とはいえ、目の前にいるのは、どう見ても艶やかで美しい銀髪の少女。それがどうして、こんな不安にも似た怖さを生じさせたのか、僕自身分からなかった。
今日の一言「神と人との契約の物語」「信仰は失われるためにあるのかな」
エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。
エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。
アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。
その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。
――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)
さて、
生めよ、増えよ、満ちよ。
と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。
だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。
イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。
その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
思考の根源……そして、科学的態度である。
それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。
でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。
だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。
この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!
でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。
それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。
それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。
その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。
そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。
それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。
でもそんなこたー無理である。
「無理」
なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。
たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。
その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。
もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。
だから。
悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。
(ここまでが序文)
まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)
次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。
だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。
上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。
むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。
生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。
それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。
と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。
お金がすべてだ!
というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。
1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。
矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。
ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。
言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。
今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】
だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。
「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。
と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。
そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。
(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)
旧約聖書
神が光あれ、と仰られ昼と夜ができて、土からアダムを造り、その他動物たちを造った。そしてアダムに協力して地を耕すため、アダムのあばら骨からエヴァを造った。エヴァは蛇にそそのかされ、アダムと一緒に知恵の実を食べた。それによって、地は呪われ、女は子を生む苦しみを与えられた。
エデンは、智天使ケルビムの炎の剣によって閉ざされた。アダムとエヴァは、エデンの東の地で新たな生活を始めた。
アダムとエヴァはカインとアベルを生んだ。カインはアベルが神に優遇されるのに嫉妬し、アベルを殺す。カインは神の怒りをかうが許される。
その後何世紀か経って、ノアという人がいた。ノアの住む町の人たちは堕落していた。神は大洪水を起こして世界を滅ぼした。ノアは信心深かったので、家族と番の動物たちと箱舟を作って難を逃れた。
――この後も、人は堕落したり、信仰をなくしたりして、神が怒って罰を与えたり滅ぼしたりする。その都度、選ばれた人(預言者)が神の教えをもって人々を導いていく、旧約聖書はそんな物語である。(最終的にイエス・キリストの誕生までが描かれる)
良い生活とは何かが不明
ユダヤ教とか、キリスト教において、イスラエルの人々が、アダム・エヴァの直系子孫ということであるが、そもそも、6日と1日の天地創造から考えると、僕らみんなアダム・エヴァの子孫だと思う。それが、バベルの塔の時代の神の怒りによって、言語がばらばらになって、各地にわかれていったという。さて、
生めよ、増えよ、満ちよ。
と神様はいうが、その「そもそもの意味」を語ることは無い。それを考えることはそもそも不遜である。神によってつくられた僕ら。それだけで意味である。僕らの生きること、そのことに懐疑するのは、すなわち信仰の不足、神への反駁に他ならない。
だから、信仰に生きなさい。祈りなさい。
信仰をなくした人は、殺しても構わない。大洪水はもうやらないと契約(人と約束)したが、イスラエル人を虐げるエジプトのファラオの幼子は全員殺しちゃうよ。
イエス・キリストを人としたとき、素晴らしい方だったと思う。多くの人の迷える魂(大衆の悩み苦しみや生き方について)を救ってくださったのだろう。
その価値について疑いようはないが、しかし、「神」という存在を規定(大前提)にすることで、一つ、重大なことが抜け落ちる原因になっている。
思考の根源……そして、科学的態度である。
無批判な信仰は破滅をもたらす
キリスト教にとどまらず、各々の宗教には、「悪」という概念がある。悪魔とか超上存在も描かれる。それらは、人の心の闇の具現化である。神様を信じられなくなったとき、その表現が、「悪魔にそそのかされた」ということだ。
でも、その感情は、逆に言えば、人間の率直な感想なのだ。神様を基礎にした物語は壮大で確かに盤石なものなのであるけれども、智の体系だろうと、眉唾な物語だろうと、科学だろうと何だろうと、すべての「体系」(システム)を単一の個体(人として)理解し、その理解を維持し続けることは身体的・物理的限界により不可能である。
だから、ときに、理不尽なことがおこると、絶対神に対してだって、疑いの心が発生するのだ。そして時に、誤りを犯す。それを、教会に行って懺悔する。そして、神によって「許される」。
この人間の心の構造は、まさに、旧約聖書によって描かれる、堕落と信仰と許しの流れを、よく表現していると思う。やっぱすげーぜキリスト教!
でも、僕は、その、「絶対なるもの」を信じられない。
それは、運命だったり、お金だったり、友情だったり、愛だったり、科学だったり、神様だったり、資本主義だったり、出世だったり、もろもろ、正しいとか真実だとか言われること全般。
それらは、すべて、「ある条件」によって成り立つものだという感覚が、僕の実感である。
その条件が積み重なって、普遍的な「体系」になることがある。それは、巨大なシステムとして、一個の人間としては、到底理解が及ばないことになる場合がある。
そうしたとき、人は、僕らは、それらを「絶対なるもの」……「神」として呼びたくなる。
それらは、時に理不尽であったり、妬みの神であったりする。必ずしも、僕らの都合の良いものではない。それでも、神が言うのだから、正しいのだ、許されるのだ、と。
世界平和の実現性
僕は、世界平和を望む。誰もが争うことなく、協力しあって、お互い切磋琢磨し、許し合って、生んで、増えて、満ちていくのを望む。でもそんなこたー無理である。
「無理」
なのは、人が多様性をもっているからである。価値観が異なるからである。良いと思うこと、悪いと思うことが異なるからである。
たまたま、その何かが一致して、愛し合って生きていくツガイ、カップルは多いことだろう。
それでも、そんな幸せな二人の間にあっても、軋轢が生じないことは無い。
その関係性が、70億人になったとき、統一的な「良いこと」というのが想像し得るだろうか。旧約聖書の、神様でさえも成しえなかったことである。人は、知恵の実を口にしたときから、智慧……価値観と多様性を身に着けてしまったのだ。
もし、世界平和が実現するとしたら、それは、人が再び、単一体としての存在に統合されるしかなかろう。
だから。
悲喜こもごも、妬みや憎しみ、怒りや苦しみ、欠乏や餓えや、哀しみや嘆きがある中で、そんな一瞬の僅かな黄昏時にでも、「しあわせ」という状態が生じることが、貴重で、価値があって、美しいのである。
(ここまでが序文)
僕の価値観をまとめると
上に書いてきたようなことは、もう何度も繰り返し表現してきた。まず、僕は、「絶対」なるものを信じることが難しい。(このことの派生によって、何か押し付けがましい「指導」という名を借りた強制を求める人を苦手とする)
次に、共通の平和や幸せといったものを信じることが難しい。それが実現した世界は、きっと何もない世界だ。
だから、いろんな感情や争いがあることが、そもそも、人間の世界だということを、認めなければならない、と。
上の価値観については、同意してくれる人もいれば、共感してくれる人もいることだろう。
ただし、このことについて、真剣に問題視している人は、あまり多くないように思える。いわば、上のようなことは、「当たり前」なのであり、さして、各々の人生や生活において、重要な意味をもたないのである。
むしろ、僕の上のような価値観について、「それは違う、絶対に神は存在する!」として、考えを揺さぶれるような人がいたら、それは貴重に思うけれども、多分、それは不可能に近いだろう。僕はきっと、魔術や魔法や、奇跡を目の当たりにしても、「絶対的存在」を信じることはできないだろう。奇跡を起こせたから神? そんな単純なものじゃあないはずだ。それこそ、神に対しての冒涜だろう。仮に神がいたからといって、神を信じることで、「幸せ」になれると説かれたとして、僕は、その「幸せ」とは何かが分からない。
生めよ、増えよ、満ちよ。これが幸せなのか? その行為による「快感」は否定するものではない。では、「幸せ」の状態とは、常態として永遠に「快感」を得続けるものだというのか? 快感の権化が幸せなのか? それはそれで、ちょっと気持ち悪い。
無常憑み難し
なので、「絶対なるものを認めない」(=空(くう)とか無常とか言われたりするもの)を反転して信じる者というのが、一言で僕と言う人間をあらわす表現であると思う。そういう意味では、僕は昔からずっと仏教者なのかもしれない。ただ、高校一年生ぐらいに仏教を教科書で読んだとき共感したのは、単に、「人生とは苦しみである」という一文だけであった。それは単に、その当時に色々と苦しんでいたからであった。それって、仏教でもなんでもない。けれども、他の宗教や思想では、何やかんや「幸せ」を求めるのに対して、「人生の本質って苦しみですから」といきなり言い切っちゃうところに感銘をうけたのは確かだ。他の人とは違うことを言ってのける! そこに痺れる、憧れるウ! と、中二的感覚だったのだろう。
と、まぁ、宗教を信じている、というのは、現代日本人には、「気持ち悪い」と見られるので、公言はしない。ただ、「ポリシー」とか、「座右の銘」的なやつと、僕はなんら変わらないと思う。
お金がすべてだ!
というカイジ的なことを信じている人もいるんだろうし、それらと、次元的には同じことだと思う。
ただ、仏教の無常観というのは、普通の「信じる」ということとは異なることに注意されたし。
それは、四句否定(テトラレンマ)というカタチで表現される。
四句否定
大乗仏教の中心思想となる、空(くう)の思想をまとめたナーガールジュナ(龍樹)という2~3世紀に活躍された方の「中論」という書において、以下の節がある。1.すべてのものは真実である。
2.いかなるものも真実ではない。
3.あるものは真実で、あるものは非実である。
4.いかなるものも真実ではなく、いかなるものも非実ではない。
矛盾や詭弁に感じることだろう。いや僕もそう思う。そもそも、1.と2.において、成り立ってねーじゃねーか。
ただこれは、無限遡及的な次元の否定なのだと僕は解釈というか、思っている。
言い換えれば、最初の方で書いたように、「すべてのものは、ある条件によって成り立っている」という僕の価値観の肯定として思っている、ということだ。
今この瞬間、僕と言う存在は「ある」。【1.】
けれども、突き詰めて、僕とは何か、僕の本質は何なのかを考えていけば、そんなものは「ない」と思ってくる。【2.】
でも、そんな無限遡及(どこまでも自分と言う最小単位を探し求めること)をやめて、もう一度ふとした瞬間に立ち戻れば、「僕」はやっぱり「ある」。【3.】
と、言うことは、「僕」と言うのは、存在する(ある)ともいえるし、存在しない(ない)ともいえる――逆の言い方をすれば、「あるわけでもなく、ないわけでもない」。【4.】
だから、いかなるものにも、執着してはならない。その執着こそが「苦しみ」なのだ、というのが仏教の教えである。
――だが、このことを勘違いしている人は少なくない。
「だから、執着はよくない、仏教はありがたい」と思う人がいるだろう。そうではない、その、「仏教はすごい」的な感覚にも、執着してはならないのである。
と、いうことは! じゃあ、僕らの生きているのは、そもそも何なのか。
むしろ、「実存的空虚感」に苛まれるそのことが、生きることそのものなのではなかろうか。
そうして今日も、とめどない思考によって自動筆記により記事をつづる。
(コメント頂いて、めっちゃ明るい記事を書こうと思ってたら旧約聖書関連の本を読んじゃってこうなった! どうしてこうなった、どうしてこうなった!!)
