今日の一言「グレーゾーンとしての生き方とは」「積極肯定には物語が必要不可欠」
ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。
例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。
では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?
考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。
この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。
自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。
答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。
まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。
そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。
そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。
そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。
だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。
そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)
今は、次の段階を目指している。
次の段階とは何か?
※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?
好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。
ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。
が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。
だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。
それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。
それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。
と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。
たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?
ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。
けれども、確信していることは一つある。
例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。
結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。
だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)
※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。
1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。
2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。
3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである
4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある
というものである。
「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」
と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。
・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。
ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。
今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。
いっぱいあるだろう。
しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。
だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。
だから、「考えている」のである。
ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
という批判は、まったく的外れなのである。
別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)
その先に何があるのか? ということを問うているのである。
んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。
それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。
ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。
注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。
そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。
そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
今年、2017年は整理の年である。
思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。
端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。
自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。
30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。
(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)
考えるということ
先日、仏教の唯識派の思想、八識について紹介した。僕らの心のはたらきについて、五感と、自己執着心である末那識(まなしき)、根源心である阿頼耶識(あらやしき)に分けて捉える考え方である。ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。
例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。
では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?
考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。
この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。
自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。
答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。
中二病からの成長過程について
話を少し身近なことに戻してみよう。まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。
そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。
そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。
そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。
だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。
そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)
今は、次の段階を目指している。
次の段階とは何か?
※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?
思考・生き方としての次の段階
様々な選択ができる状態である。好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。
ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。
が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。
だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。
それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。
それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。
と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。
たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?
ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。
けれども、確信していることは一つある。
例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。
結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。
だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)
※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。
思考することの意味について
この記事の結論は、もうお分かりのとおり、1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。
2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。
3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである
4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある
というものである。
「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」
と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。
・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。
ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。
今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。
いっぱいあるだろう。
しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。
だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。
だから、「考えている」のである。
ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
という批判は、まったく的外れなのである。
別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)
その先に何があるのか? ということを問うているのである。
んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。
それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。
まとめ
今回の記事は、抽象的になったので、あんまり面白くないと思う。ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。
注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。
そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。
そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
今年、2017年は整理の年である。
思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。
端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。
自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。
30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。
(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)
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今日の一言「つり革広告で生きる意味なんて読むと途端にうさん臭さを思う」「きっと初見の人には同じように思われているだろう」
※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。
『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。
ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。
識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。
2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)
このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。
この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。
阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。
阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。
生命とは何か?
という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。
「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。
唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。
ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。
ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。
無意味でもあり、有意味でもある。
無意味でなく、有意味である。
あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。
よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。
その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。
もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。
悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。
けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。
そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。
これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。
では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。
名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。
では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。
これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。
このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。
というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。
そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?
よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。
この感覚。
これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。
しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。
「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」
と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
と、同時に。
「だからなんだっつーんだ?」
という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。
いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。
僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。
好き、なんだろうなぁ。
ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。
もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。
とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。
(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)
※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。
阿頼耶識について
『空の境界』という小説がある。ここに登場するボス級の登場人物が「あらやそうげん」と言って、その名前に秘めたる根源の意味が物語のキーワードになっていたりする。『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。
ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。
識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。
八識
1.見ること(眼)2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)
このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。
この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。
末那識と阿頼耶識
末那識というのは、自我、執着心のことである。阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。
阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。
存在するということ
上の、八識という考えはとても面白いと思うが、唯識派の考えを理解する上でのポイントは、心理学や解剖学のように、人の心を分割していって定義づけしようとしているのではないということだ。生命とは何か?
という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。
「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。
唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。
ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。
ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。
無意味でもあり、有意味でもある。
無意味でなく、有意味である。
あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。
よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。
思考の先にあるもの
先日、明るい記事を書いたけれども、もっと明るい記事を書けば、僕は今、特に悩みなど無いのである。その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。
もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。
悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。
けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。
そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。
相対言語
けれども、その「幸せ」という語について思い考えるとき、僕らは同時に、「不幸」という状態を想定しているのである。これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。
概念理解
一方で、絶対的な言語というものも存在する。それは「概念」である。では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。
名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。
では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。
諸行無常・諸法無我
でも、名詞であっても、絶対的なモノ・コトというのは、存在しないと僕は思っている。これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。
このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。
というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。
そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?
よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。
この感覚。
これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。
しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。
「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」
と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
と、同時に。
「だからなんだっつーんだ?」
という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。
いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。
結論を急ぐ必要はない
この感覚をこじらせると、若者の自殺みたいになるんじゃあなかろうかと、勝手に思う。北村透谷さんとか、若きウェルテルくんとか、あ、そりゃ違うのかな。僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。
好き、なんだろうなぁ。
ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。
もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。
とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。
(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)
今日の一言「神々や巨人の戦いに関するべきではない」「卑屈になりゃいいってわけでもない」
そんなことはさておき、僕がすげーなーって思うある精神科医さんのブログに対して、これまたすげーなーって思う漫画家さんの人が自身のブログで記事コメントをしていて非常に面白かった。
お二方とも、それなりのご職業についているわけで、こんなインターネット界隈で論争してても、然程の経済的価値は生み出さないだろう。もちろん、知名度とか、アフィリエイト的な価値を無視するわけではないが、そういったことよりも、むしろ彼らは、「自身の主張」をすることに価値を重きしていることが、何となく伝わってくる。
僕も、同じ作品をみた「仲間」であるので、色々と思うところや言いたいことが生じるのであるが、もうそこらへんは、天上世界の戦いということで、楽しく拝見させて頂くのみである。
この感覚。
これを、先日僕が批判的に書いた、ボクシングとか野球とかの観戦に、自らが参加するでもなく熱中できる人たちの感覚であるのだと、そう表現して構わなければ、僕は先日の言葉を撤回する必要があるかもしれない。
(ただそれは、注釈で書いた通り、「自分がそのスポーツをする際の参考となるだろう意味において」と考えれば、敢えて撤回するほどのことでもない)
アラビアの夜の種族。
第一巻が届く。読み始める。想像していたもの、思っていたものとは違っていたが、面白そうである。一巻の半分ぐらい読んだあたりで、続巻を買うか決めよう。
話は唐突に変わる。
明るい記事を書こう。このブログを開始してから、一年ぐらい経つ。結果的に、書き続けてきて良かったなと思う。
素晴らしい人たちに出会えたことは、何より大切なものである。この出会えたというのは、初めて接触したという意味だけではなく、コメントなどを頂くことによって、その表現や思考に触れることができたこと、そのこと自体もさしている。
僕が求めていたコミュニケーションのカタチが、そこにあった。
他者にあわせて、同調するコミュニケーションは、ホモサピエンスの進化の源でもあり、否定されるものではない。けれども、単なる生きることや、楽しむことを目的としたコミュニケーションを、僕は求めていなかった。
と、書くと、僕の周りの人全員が、享楽的な考えしかもっていないような感じになるけれども、意図はそうではない。対面コミュニケーションの限界、である。いやもちろん、「本音を言い合える仲」の友人を、ちゃんとつくっていないということに批判は当然あるだろう。けれども、そういった仲の友人がいないというのが問題ではなく、「本音を、好きな時に好きなように言える」ということが僕が求めていたものであったのだ。
そんな、小学生じみた思いを抱き続けているなど、なんと惨めで矮小な人間であるのか。
それは致し方ないと思ってきている。僕は、意味を求めてしまった。求めるしかないような状態におかれてしまった。
まさに、僕が、こういったことを思い、書く、その過程そのものが、「生きるということの重荷の積み下ろし」な気もしてくる。
たぶん、僕なんかよりもコミュニケーション能力があって、できることも多くて、頭の回転も速いような人である。
しかし、そんな人でも、行き詰って、悩んだりするのである。いわんや、僕は。
・dotamaさんというラッパーについて
⇒PCと人間のバトル動画
・オルフェンズ2期8話「火星の王」におけるタカキくんの選択
・ ・・・
いざ書こうとすると思い出せない。そういうもんか。
ウォッチしているブログさんが30を超えた。こうなってくると、もっと精査してもよいかなという気になってくる。更新頻度とか、内容とか。
すごーい良いと思う記事を書いてくださるかたであっても、頻度が一年に一回であれば、ウォッチリスト(更新チェッカー)に入れておくのも微妙な気がしてくる。
かずうちゃあたる、じゃあないが、量はときどき、質を凌駕する場合があることを忘れてはならない。
んでまー、その、内容的な精査をするにあたって、「同じことを繰り返し」書かれているブログさんは、整理対象になるだろう。
しかし、この「繰り返し」とは、決して、「結論」が同じという意味ではない。
上の、dotamaさんという方のことは、まさにいつも訪問させて頂いているブログさんで取り上げられていたから知った。ラップとか、ほとんど聞いたこともないし興味もなかったが、面白いと思った。
ブラックサンダーの動画とか、これ、いいなぁ。めっちゃ笑ったけど考えさせられた。いやなんかこれ、結局非リア負けてねぇか? と思いながら全4エピソードみて、最後のエピソードのエンディングがよくまとまっていると思った。是非続きがあったら見たい作品の一つとなったのであった……。
恋人に先立たれて苦しんでいる人、婚活で彼氏を見つけて愛をはぐくんでる人、いろいろいらっしゃる。その毎日に、劇的なイベントがあるわけではない。たいてい、僕らの人生の毎日など、似たようなことの繰り返しである。(※1)
様々な作品だって同じである。主人公たちの毎日を、事細かにピックアップしたって、面白い作品にはならない。筋トレ修行シーンを、365日流されても、なんじゃそりゃとなる。
大事なのはプロセスである、と先日書いたけれども、もう一つ、「表現」も重要である。
・ああ、つらい、つらい、もう人生やっていけない。死んだほうがましだ、俺なんてダメな奴だ
そんなネガティブな人を、僕は嫌いではない。(※2)
ネガティブな女の子とか可愛いと思う。本当の意味でのリア充、イケメンは、当然それだけで価値があるのだけれども、いわんや人は、強くもあり弱くもあるので、であるならば、「ネガティブ」の人の方が、他者の痛みや思いやりを分かっている、そんな風に思うのだ。(決して、ポジティブの人が思いやりがないというわけではない。(※4))
というわけで、ネガティブな記事が面白くないとか、駄目だとか、ブクマはずそうとか、そういう意味ではない。
ただ、その結論に至るまでの表現が、常に同じものであったときに、その価値は急速に失われていく。(壊れたレコード)
1.既存の問題を効率よく解決すること
2.成長すること
1.がビジネス的には役に立つことである。ここでいう「既存の問題」というのは、ディープラーニングのように、新しい概念を提示(医療・介護のプランを提示したりとか、ビッグデータからマーケティングの特徴を提示するとか)できる場合も含めて考えている。
2.の方が、僕が期待している部分だけれども、僕らの言ったことを「理解」し、それを「解釈」し、新しい「経験」としてインプットし、それをもとに新しい「アウトプット」を行うということ。これが、より「汎用的な」部分で可能になること。そんなことを期待している。
それって、じゃあ、何かに役に立つのか、というと、たぶん、エンターテイメント的な意味でしか役に立たなそうだけれども。
※1蛇足:だからこそ、僕は、少しでも違った風にしたくて、何か書きたくなるのかもしれないが)
※2:この表現について、ある方は、「そりゃあな、ネガティブとか、底辺の人間のブログとかに人気があるのは、そいつをみてると、落ち着くからだ。安心感があるからだ」と看破されている。非常に鋭い。けれども、この感覚(※3)をもってしまうというのは、それだけで人生つらい可能性がある。
※3:自分の感覚を、同時に客観視してしまうことは、必ずしも良いことではない
※4:ポジティブの人の思いやりは、その純粋性において価値があるけれども、それは天性の感覚のようでもある。ネガティブの人は、その「痛み」(=実感)があるがゆえに、それを避けようと考える場合がある。それはとても論理的な、人間的な行為に思えるのである。まぁもっとも、その痛みゆえに、他者に対して攻撃的になったり、自分自身を攻め続けて潰れてしまう場合だってあるわけなので、ネガティブも手放しで肯定することはできない。(長々書いているが、当たり前のことである。しかし、明確に表現しておくことに重要性がある)
上に書いてきたように、僕は、ネガティブだろうが、ポジティブだろうが、そんなことはどっちでもいいと思っているけれども、「変化」(ここでいう変化は、自己と、それを取り巻く環境の両面を含む)がなければ、面白いとは思えない。
すぐさま、書いておくべきは、その変化が、先日書いた「攻めの人生」と一致してはいないということである。
先日、「鉄血のオルフェンズでは、特に興味があるキャラクターがいなかった」と書いたけれども、それは撤回したい。妹を学校にいれてあげたいという思いから民間軍事会社に就職したタカキくんという男の子は、一期では「ふーん」ぐらいだったけれども、二期ではとてもかっこよかった(敵に利用され、その判断は、結果的に間違っていたわけだけれども)。
2期8話目で、彼は大きな決断をするわけだけれども、その決断が、他の仲間たちの方向性とも異なっていて、けれども、とても説得力もあってよかった。この辺りは、機会があれば改めて書いてみたいと思う。――この作品、僕はもう、この8話目が最終話でもいいんじゃないかと思うぐらい良かった(かっこわらい)。
話はずれたが、「変化」ってのは、どんな場面や生き方でもできるもんである。
「攻めの人生」というのは、先日の記事で便宜上表現しただけだが、じゃあ、「守りの人生」と呼ぶべきものがあったとして、それは、「変化」なくしてやってけるものなのか? ということだ。
守ったって、攻めたって、どっちみち変化は避けられないのである。(というのを、また宗教臭くなって嫌だと思う人も多いだろうが、「諸行無常」と言ったりする)
長くなったので、この辺にしておきたい。ダラダラとであれば、まだしばらく書き続けられそうだけれども、「変化」という意味で、もう少し今後は、まとまりのある文章を書きたいものである。
(思い出した、そういえば、「定義する」ということ、それ自体について書こうと思ったんだった。まぁとにかくオルフェンズは最後まで見よう)
知識人のバトルは面白い
商業的な意味におけるテレビ討論なんて、何ら価値がないと思っている。もちろん、「何ら」なんてのは修辞表現に過ぎず、「商業的」に意味があるんだから、価値が全くないはずもない。そんなことはさておき、僕がすげーなーって思うある精神科医さんのブログに対して、これまたすげーなーって思う漫画家さんの人が自身のブログで記事コメントをしていて非常に面白かった。
お二方とも、それなりのご職業についているわけで、こんなインターネット界隈で論争してても、然程の経済的価値は生み出さないだろう。もちろん、知名度とか、アフィリエイト的な価値を無視するわけではないが、そういったことよりも、むしろ彼らは、「自身の主張」をすることに価値を重きしていることが、何となく伝わってくる。
僕も、同じ作品をみた「仲間」であるので、色々と思うところや言いたいことが生じるのであるが、もうそこらへんは、天上世界の戦いということで、楽しく拝見させて頂くのみである。
この感覚。
これを、先日僕が批判的に書いた、ボクシングとか野球とかの観戦に、自らが参加するでもなく熱中できる人たちの感覚であるのだと、そう表現して構わなければ、僕は先日の言葉を撤回する必要があるかもしれない。
(ただそれは、注釈で書いた通り、「自分がそのスポーツをする際の参考となるだろう意味において」と考えれば、敢えて撤回するほどのことでもない)
本音のコミュニケーション
話は唐突に変わる。アラビアの夜の種族。
第一巻が届く。読み始める。想像していたもの、思っていたものとは違っていたが、面白そうである。一巻の半分ぐらい読んだあたりで、続巻を買うか決めよう。
話は唐突に変わる。
明るい記事を書こう。このブログを開始してから、一年ぐらい経つ。結果的に、書き続けてきて良かったなと思う。
素晴らしい人たちに出会えたことは、何より大切なものである。この出会えたというのは、初めて接触したという意味だけではなく、コメントなどを頂くことによって、その表現や思考に触れることができたこと、そのこと自体もさしている。
僕が求めていたコミュニケーションのカタチが、そこにあった。
他者にあわせて、同調するコミュニケーションは、ホモサピエンスの進化の源でもあり、否定されるものではない。けれども、単なる生きることや、楽しむことを目的としたコミュニケーションを、僕は求めていなかった。
と、書くと、僕の周りの人全員が、享楽的な考えしかもっていないような感じになるけれども、意図はそうではない。対面コミュニケーションの限界、である。いやもちろん、「本音を言い合える仲」の友人を、ちゃんとつくっていないということに批判は当然あるだろう。けれども、そういった仲の友人がいないというのが問題ではなく、「本音を、好きな時に好きなように言える」ということが僕が求めていたものであったのだ。
そんな、小学生じみた思いを抱き続けているなど、なんと惨めで矮小な人間であるのか。
それは致し方ないと思ってきている。僕は、意味を求めてしまった。求めるしかないような状態におかれてしまった。
まさに、僕が、こういったことを思い、書く、その過程そのものが、「生きるということの重荷の積み下ろし」な気もしてくる。
労働と人生について
ある方が、自身の生き方に関するブログ記事を書き始めている。データが消失するなど、困難にも直面しつつ、少しずつ書き進めているようだ。たぶん、僕なんかよりもコミュニケーション能力があって、できることも多くて、頭の回転も速いような人である。
しかし、そんな人でも、行き詰って、悩んだりするのである。いわんや、僕は。
数日経って
いろいろと書きたいことが発生す。・dotamaさんというラッパーについて
⇒PCと人間のバトル動画
・オルフェンズ2期8話「火星の王」におけるタカキくんの選択
・ ・・・
いざ書こうとすると思い出せない。そういうもんか。
ウォッチしているブログさんが30を超えた。こうなってくると、もっと精査してもよいかなという気になってくる。更新頻度とか、内容とか。
すごーい良いと思う記事を書いてくださるかたであっても、頻度が一年に一回であれば、ウォッチリスト(更新チェッカー)に入れておくのも微妙な気がしてくる。
かずうちゃあたる、じゃあないが、量はときどき、質を凌駕する場合があることを忘れてはならない。
んでまー、その、内容的な精査をするにあたって、「同じことを繰り返し」書かれているブログさんは、整理対象になるだろう。
しかし、この「繰り返し」とは、決して、「結論」が同じという意味ではない。
上の、dotamaさんという方のことは、まさにいつも訪問させて頂いているブログさんで取り上げられていたから知った。ラップとか、ほとんど聞いたこともないし興味もなかったが、面白いと思った。
ブラックサンダーの動画とか、これ、いいなぁ。めっちゃ笑ったけど考えさせられた。いやなんかこれ、結局非リア負けてねぇか? と思いながら全4エピソードみて、最後のエピソードのエンディングがよくまとまっていると思った。是非続きがあったら見たい作品の一つとなったのであった……。
結論ではなくその表現(プロセス)の重要性
話がずれた、そう、結論は特に気にならない。恋人に先立たれて苦しんでいる人、婚活で彼氏を見つけて愛をはぐくんでる人、いろいろいらっしゃる。その毎日に、劇的なイベントがあるわけではない。たいてい、僕らの人生の毎日など、似たようなことの繰り返しである。(※1)
様々な作品だって同じである。主人公たちの毎日を、事細かにピックアップしたって、面白い作品にはならない。筋トレ修行シーンを、365日流されても、なんじゃそりゃとなる。
大事なのはプロセスである、と先日書いたけれども、もう一つ、「表現」も重要である。
・ああ、つらい、つらい、もう人生やっていけない。死んだほうがましだ、俺なんてダメな奴だ
そんなネガティブな人を、僕は嫌いではない。(※2)
ネガティブな女の子とか可愛いと思う。本当の意味でのリア充、イケメンは、当然それだけで価値があるのだけれども、いわんや人は、強くもあり弱くもあるので、であるならば、「ネガティブ」の人の方が、他者の痛みや思いやりを分かっている、そんな風に思うのだ。(決して、ポジティブの人が思いやりがないというわけではない。(※4))
というわけで、ネガティブな記事が面白くないとか、駄目だとか、ブクマはずそうとか、そういう意味ではない。
ただ、その結論に至るまでの表現が、常に同じものであったときに、その価値は急速に失われていく。(壊れたレコード)
少し脱線(AIについて)
人工知能に期待している面もあるが、それがビジネスに役立てる意味に向いているうちは、十分な興味をもてない。というのは、人工知能とは、以下の二つの解釈ができるからである。1.既存の問題を効率よく解決すること
2.成長すること
1.がビジネス的には役に立つことである。ここでいう「既存の問題」というのは、ディープラーニングのように、新しい概念を提示(医療・介護のプランを提示したりとか、ビッグデータからマーケティングの特徴を提示するとか)できる場合も含めて考えている。
2.の方が、僕が期待している部分だけれども、僕らの言ったことを「理解」し、それを「解釈」し、新しい「経験」としてインプットし、それをもとに新しい「アウトプット」を行うということ。これが、より「汎用的な」部分で可能になること。そんなことを期待している。
それって、じゃあ、何かに役に立つのか、というと、たぶん、エンターテイメント的な意味でしか役に立たなそうだけれども。
※1蛇足:だからこそ、僕は、少しでも違った風にしたくて、何か書きたくなるのかもしれないが)
※2:この表現について、ある方は、「そりゃあな、ネガティブとか、底辺の人間のブログとかに人気があるのは、そいつをみてると、落ち着くからだ。安心感があるからだ」と看破されている。非常に鋭い。けれども、この感覚(※3)をもってしまうというのは、それだけで人生つらい可能性がある。
※3:自分の感覚を、同時に客観視してしまうことは、必ずしも良いことではない
※4:ポジティブの人の思いやりは、その純粋性において価値があるけれども、それは天性の感覚のようでもある。ネガティブの人は、その「痛み」(=実感)があるがゆえに、それを避けようと考える場合がある。それはとても論理的な、人間的な行為に思えるのである。まぁもっとも、その痛みゆえに、他者に対して攻撃的になったり、自分自身を攻め続けて潰れてしまう場合だってあるわけなので、ネガティブも手放しで肯定することはできない。(長々書いているが、当たり前のことである。しかし、明確に表現しておくことに重要性がある)
同じことしか表現されないのはAIにも劣る
ちょっと辛辣な表現を敢えてすれば、「ある事象」に対して、繰り返し同じ感情を抱き(ここまでは良い)、同じアウトプット(愚痴だとか、実質的暴力だとか)しかできないのは、動物と同じである。知能がある、とは言い難い。上に書いてきたように、僕は、ネガティブだろうが、ポジティブだろうが、そんなことはどっちでもいいと思っているけれども、「変化」(ここでいう変化は、自己と、それを取り巻く環境の両面を含む)がなければ、面白いとは思えない。
すぐさま、書いておくべきは、その変化が、先日書いた「攻めの人生」と一致してはいないということである。
先日、「鉄血のオルフェンズでは、特に興味があるキャラクターがいなかった」と書いたけれども、それは撤回したい。妹を学校にいれてあげたいという思いから民間軍事会社に就職したタカキくんという男の子は、一期では「ふーん」ぐらいだったけれども、二期ではとてもかっこよかった(敵に利用され、その判断は、結果的に間違っていたわけだけれども)。
2期8話目で、彼は大きな決断をするわけだけれども、その決断が、他の仲間たちの方向性とも異なっていて、けれども、とても説得力もあってよかった。この辺りは、機会があれば改めて書いてみたいと思う。――この作品、僕はもう、この8話目が最終話でもいいんじゃないかと思うぐらい良かった(かっこわらい)。
話はずれたが、「変化」ってのは、どんな場面や生き方でもできるもんである。
「攻めの人生」というのは、先日の記事で便宜上表現しただけだが、じゃあ、「守りの人生」と呼ぶべきものがあったとして、それは、「変化」なくしてやってけるものなのか? ということだ。
守ったって、攻めたって、どっちみち変化は避けられないのである。(というのを、また宗教臭くなって嫌だと思う人も多いだろうが、「諸行無常」と言ったりする)
長くなったので、この辺にしておきたい。ダラダラとであれば、まだしばらく書き続けられそうだけれども、「変化」という意味で、もう少し今後は、まとまりのある文章を書きたいものである。
(思い出した、そういえば、「定義する」ということ、それ自体について書こうと思ったんだった。まぁとにかくオルフェンズは最後まで見よう)
今日の一言「他者からの認知が自己の存在規定である」「孤独な生き方は否定されるべきか」
弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。
僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。
これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?
私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。
これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。
逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。
その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。
ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。
三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。
ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。
印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。
しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)
言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)
そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。
んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。
しかし、何か足りなかった。
うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。
なんの話や。
また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。
よしじゃあやってみよう。
最近、絶好調である。
特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。
お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
とても充実している毎日である。
帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。
ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。
身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。
とてもとても、充実している毎日である。
ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。
こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。
というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?
じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。
そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。
果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。
そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。
結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?
そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。
僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。
んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。
でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。
だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。
でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。
が。
なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。
これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。
むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。
いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。
決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。
そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。
んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。
(やはり是非2期も見てみよう)
興味をもつということ
一言で、万人に、興味をもたせることはできない。弁論術という、政治家やリーダーが身に着けると、より多くの大衆をひきつけることのできるテクニックは存在するだろう。
しかし、すでに、この記事の冒頭によって、もしくは、そもそもタイトルによって、読者の関心度合は変わってくるのである。
僕らは、誰からも好かれたいとか、単にモテたいという言葉を用いることがあるけれども、しかし、それは話のタネや話題作りにすらならない、譫妄による言に過ぎない。無駄、である。
せいぜい可能なのは、自分が所属する集団、組織において、その内の幾人かに、価値ある人間であると認識して頂くことに過ぎないのである。
これは、否定的な、ネガティブな言であろうか?
私はむしろ、これは福音であるように思えるが、果たして、この世界認識が本当に役に立つかどうかについて、自信をもてない。なぜならば、上に書いたことが反転した論証となるからだ。つまり、万人に役立つ「言葉」など存在しない。
これは、「ありのままでいいんだよ」とか、「自分を許してあげましょう」とか、自己啓発やセラピー的な表現と同様である。これを、便宜的に「スローライフ」と呼んでみよう。
逆に、鉄血のオルフェンズの鉄華団の面々の「俺たちは、戻るとこなんてねーんだ。ただ、進み続けるしかねーんだ」という価値観については、「どこまでも価値を増大させていく、その過程そのものの肯定」であって、これを便宜的に「攻める人生」と呼んでみよう。
その中間でもがき続けるのが一般大衆であるが、本来的に、人生に答えを求めるのであれば、「スローライフ」または「攻める人生」の、どちらかを、意識的にもしくは非選択的に選び取って邁進する必要がある。
オルフェンズ
話をわき道にそらす。ガンダムシリーズ、鉄血のオルフェンズ、第一期を視聴完了した。
三日月くんとマッキーがかっこよかった。以上。
ん、感想が特に出てこない。自分にとっていつものことだが、後半は、一気に見てしまう傾向がある故、印象が飛び飛びになってしまいがちだ。
印象的なシーンは、ネットでも話題になっていたようだが、「正々堂々! 決闘を申し込む! セッティングなどに30分の猶予をやろう!」と高貴な申し出をする敵方に対して、言い終わるや否や奇襲をかけて惨殺する三日月主人公。やー、悪役も真っ青なはじけっぷりである。味方からも、「うわっグロっ」とか言われる始末。
しかしまぁ、生い立ちとか、直前に戦友を殺されていた状況からも考えて、それほど違和感はなかった。下手な正義感とか建前とかない分、好感やリアリティを感じた。んーまぁ、それを言うてしまうと、戦闘中に、外部スピーカーだか共通周波数でやってるのか分からないが、「おめーはよぅ、人殺しを楽しんでるんだ!」とか言い合いながら殴り合い殺しあうってのが、いまいち僕はよぅ分からん。ロボットものをあまり見ないというか、好んでいないのは、そんなシーンが原因かもしれない。
(そういう意味では、とある投稿サイトにて読める、万物に宿る魔素に対しての意思力=魔力を用いて騎兵をかりだす作品は面白い。最近更新がされない。まだかなぁ。)
言葉って、それが罵りであっても呪詛であっても、それだけで「コミュニケーション」なのである。「死ねぇぇぇ!」とか言いながら襲い掛かってくる敵役が存在する作品は、どこかそれだけでコミカルな印象を抱いてしまう。(もちろん、そうでもしなければ、物語として描きにくいのは確かであるのだが)
そういう意味で、凶悪三日月とか評価されたりしているようだが、作品全般的な印象として、ダークさをあまり感じなかった。いやこれは、いい意味で、物語として楽しめた、ということなのであるけれども、何となく、雰囲気が「軽い」ように思ってしまった。ゆえに、主要キャラの一人であり、結構好きだったポッチャリした軍師的立ち位置の団員が戦死してしまったシーンも、何となく、そんなに泣けなかったのである。
んーなんだ。無意味な批判ばっかしてしまったな。なんというか、面白かったか面白くなかったか、といわれると、面白かったと答える。何せ、投げ出さずちゃんと最後まで見たのだから間違いない。そして、第二期も見てみようと思ったことからも、良い作品だったことは疑いえない。
しかし、何か足りなかった。
うーむ。ヒロインが好みじゃなかったからなのかなぁ。しかし、よく考えてみると、どんなヒロインが好みなんだ俺? なんか、結構これについては、好みがここ数年、変わってきている気がしてならないが……最近の作品で考えると、進撃の巨人のミカサとかハンジさんは結構好きである(変な人が好きになったのか?)。
他は……うーん、昔は、最終兵器彼女のちせちゃんが好きだった気がするが、今はもうそんなん無いなぁ。
なんの話や。
明るい記事について
拍手コメにて、明るい話を所望されてから暫く経った。また、ある方のコメントにて、「敢えてしないことをする」のも大事なんじゃないかと頂いた。
よしじゃあやってみよう。
最近、絶好調である。
特に、仕事で後輩ができて、色々仕事を教えているが、「先輩! ここ、教えてもらっていいですか?」「さすがですね、よくそれほど深いところまでご存知ですね」「(仕事のスピードが)早いですね……」と、よく慕ってついてきてくれている。正直、やってること自体は、もはや自分においては当たり前のレベルに思い、むしろ、もっと強烈な先輩とかできる人たちを見てきているので、決して自分が優れているなどとは思えない。思えない、のだけれど、それでも、「すごいです!」「教えて頂いてありがとうございます!」とか言われると、悪い気はしない。
(うまくのせられているとか、お世辞に過ぎないだろうとか、僕は瞬時に同時に思うのだけれども、これは、「明るい記事」なので、そんなことは書かない(書いてるじゃねーか))
上司からも頼りにされている。職制以上に活躍してもらってありがとうと、褒められもして、評定では実際高い評価も頂いた。
お客さんから厳しいことを言われることもあるけれども、「話が分かりやすい」とか「面倒なことも親身に対応してくれてありがとう」とか感謝もされた。
とても充実している毎日である。
帰りが遅いこともあるけれども、ある程度時間のコントロールを自分でもできるので、調整して早く帰ることもできる。帰りには、美味しいお寿司屋さんによったり、お酒を嗜んだりもできる。
ゴールデンウィークは何の予定もなくて暇だなぁと思っていたら、転勤により中々会えなくなった親しい友人から、会おうというお誘いもいただいた。
身体も健康そのものである。時折腹痛で悩まされることもあるが、フルーツ食べたりビタミンCを多くとるようにしているからか、身体の調子もよい。筋トレの成果も、思いがけず出ていることも嬉しい。楽しくなって、筋トレメニューを一つ増やしたりもしている。
とてもとても、充実している毎日である。
ああ、生きていてよかった。本当に、人生幸せである。
明るいというか自慢じゃね?
明るい記事……これ、面白いんだろうか?こんなの、よく考えると、まったく書いたことなかったので、新鮮ではある。
というよりも、これは明るいというより、単なる自慢なんじゃなかろうか?
しかし、明るいのと自慢との違いもよく分からない。そもそも、だれに僕は自慢しようというのだろうか。というか、上のようなことが、自慢なんだろうか? 他者に認められるということ、認知されるということが自慢なんだろうか? 何か「できること」があるということが、自慢なんだろうか?
じゃあ、自慢と、誇りとは何が違うのか。そんなの、修辞(レトリック)に過ぎないのではないか。実際、受け手(読者)が、どう感じるか――気持ち良ければ「尊敬」とか「誇り」であり、不快であれば「自慢」とうつるだけではなかろうか。
そもそも、僕は先日の「不安の概念」の記事だって、反転したポジティブ(明るい)記事だと思っている。そもそも、明るいも、暗いも、そんなの、誰が決めるねん。読んだ人っしょや。書き手が、「明るい」も「暗い」も、意識して書くなんて、そりゃどだい難しいことである。それを成し遂げるのであれば、もはやそれは創作のテクニック的な問題になるだろう。
果たして、オルフェンズは、「ダークな」表現を意図したものだったのだろうか?
僕は、その点については感じられなかったが、むしろある程度の「軽さ」によって、安心(世界観崩壊が起こらないだろうという期待をもって)してみることができた。
そういう意味では、少し論理飛躍であるが、結局、僕自身が、明るい暗いと思ったところで、それは他者にとって意味あるものではない。「反転したポジティブ」なんて、そんなこと、ほとんどの人は理解できない――というよりも、理解する必要がそもそもない。対面コミュニケーションにおいては、表裏なく、明るければそれでいい。
どんどんダークになっていく
よし、今日は、これぐらいで打ち切っておこう。さもなければ、いつものように、段々とダークに偏っていってしまうだろう(かっこわらい)。結局さ、物語も、そして人生も、「ポジティブ」なんて求められていないんじゃないか?
そりゃ、最終的なハッピーエンドは、みんな求めてるわけじゃん?
でもさ、ハッピーエンドがあるってことは、そのプロセスは、山あり谷あり激しい起伏があるわけじゃん。
僕があんまり好きじゃない言葉で、「若いうちは苦労しろ」的なのがあんじゃん?
あれって、結局、苦労した分だけ、成功したときの嬉しさとか達成感とか、その人自身の価値を高めてくれるから、って理由なわけじゃん。
んじゃーさ。やっぱり、「人は苦しむために生まれてきた」という表現って、正しいってことだよね。もちろん、「苦しみ」ってのも相対概念に過ぎなくて、上の表現も、「人は幸せになるために生まれてきた」と換言することも容易なわけじゃん。
でもそもそも、その「幸せ」ってのが、対義の「苦しみ」が前提とされているわけだよね。
だから、幸せな、明るい人生を送りたいって人は、たくさん苦労しなきゃならんわけだ。その分だけ、リターンがあるかもしれんわけだ。それが、「攻める人生」だ。
でもさ、どこまで攻め続けるの? 死ぬまで? 株価みたいに、ジグザグ(悩み苦しみ、幸せや成果を掴みを繰り返し)しながら、それでも段々上昇していって、そして、死ぬっての?
OK。それもまた、とっても人間っぽい。かっこいい。そういう人がきっとモテる。きっと、大半、大勢の人の価値観って、そっちの方なんだと思う。
が。
なんつーか、俺は、なんかそれ、「変」だと思ってる。
これまで、表立って言ってこなかったけれども、やっぱり、そういう価値観が絶対ってのは、おかしい気がする。
むしろ、いつまでたっても人は争い続けて、いじめだってなくならないし、傷つけ、傷ついているその理由の一つが、「攻める人生」の人ばっかだからなんじゃあないかと思う。
いやさ、非常に、書き損じていること、書き洩らしていることが多いことを思って、恥ずかしい思いでいっぱいな状況ではあるんだけれども、それでも、一度、「変」だと思うことは書き残しておこう。
スローライフ推奨ではない
いやさ、その「攻める」というのが、自己の内面に向かっていくのであればいいよ。自分の成長を第一義に考えるってことだ。今日の俺は、昨日の俺には絶対勝ってやる! という感覚。それは何かかっこいいと思う。「ストイック」という生き方も、僕はかっこいいと思う。決して、「スローライフ」といって、頑張らないことを美徳にしたい、とか、そんなことではないのだ。
ただ、「我」をぶつけあって、それで、「俺たちは後ろには下がれない。戦い続けるしかないんだ」とかいって、自分たちの生きざまがとことん正しいとしてやっていくということに、僕はなんつーか、違和感というか、――いや、むしろ、嫌悪的なのを感じる。
そういうところに、オルフェンズへの物足りなさがあったんかなぁ。
三日月くんもカッコいいんだけど、「オルガ(幼馴染・親友)が言うなら、俺はついてくよ」とか、信頼がとても美しく心をうつのだけれども、今この文脈でよく考えると、なんか肯定できんのだよな。
んー。というような感想をもつことができたということで、反転してオルフェンズは傑作だったといえるだろう。
(やはり是非2期も見てみよう)
今日の一言「実体のある言葉と修辞的な言葉の違いに注意」「言葉で表現される世界と実感の世界との違いにも注意」
さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)
不安の概念
この記事においては、そもそも、不安(≒焦燥)とは何かを定義し、それに対しての対応策について述べることとする。さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
実感の表現
上の小見出し(節)において、不安と焦燥の、表層的な定義については明らかにできた。不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
不安を何故避けようと思うのか
僕らは、何故、不安を忌避するのだろうか。安心を求めるのだろうか?それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
恐れの根源への旅
もう一つ具体的な事例で考えてみよう。「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
不安への対処
ここまで書いてくると、不安への対処がだんだんとわかってくる。その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
思考次元
僕らの思考は、単一のものに向いていると思いきや、実は何層もの次元が生じている場合がある。しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
漠然とした不安
今日は、この辺で締めくくろうと思うが、最後に、話をもう一度「不安」に戻そう。ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)
