今日の一言「目が覚めたら40歳だったらどうしよう」「ある意味、心が幼いまま30代に突入したのは同じぐらい悲劇」
めんどくせぇぇ……ってなって、何もできなくなることがよくある。もうすべて投げ出してしまいたい。自暴自棄と言われたっていい。そうだ、俺に、守るべきものなんて、そんな大層なものはもう持ち合わせていないんだ……。
そんな風に愚痴を唱えることに、残念ながら真摯に向き合えない性格特性である。僕は、そのような感情が生じたとき、すぐさま、その「愚痴状態」が良いものかどうかを総合的に考える(考えてしまう)。
はいはい、愚痴を言いたいのね。そうして、自己正当化をしたいわけね。いいよ、それで感情状態を平静に向かわせられるなら、どうぞやってください。できれば、私としては、それをする時間まで決めておいて頂けるとありがたいんですがね……まぁ、好きなようにおやりなさいよ。
お前誰だ!? みたいな、そんな奴がいるのである。
その、じゃあ、仮に「理性くん」と名付けたとして、そいつは、かなり昔から俺の中にいた。さかのぼれば、小学4年生ぐらいじゃあないかと、僕は思っている。何度かブログでも書いたけれども、ある友達とのエピソードで、僕は衝撃を受けた。そのとき、いや、最古の記憶、3歳~4歳ぐらいに、僕の誕生会を親戚をまじえてやってくれた、そのときから、理性くんはやってきたのだろうか。
なるほど、ブログとは、収益を目指すものから、何らか達成したいもの、得たいものを満たすために行われる。ブログである以上、それは他者の目を必ず意識するものである。誰かに読んでもらいたくないといって、ブログ媒体を選択する人は皆無である(少なくても論理性はない)。
で、あるならば、PV(ページビュー)という、すなわち、アクセス数、訪問者というものを意識しないわけにはいかない。
そのとき、どんな種類のPVを求めているのか、ということを、上の紹介記事では触れられているのである。
金貨、になると特殊な気がするのでこの場で特段記載はしないが、銅貨と、銀貨の違いというのはかなり大きいと思う。
銅貨は、即物的な答えを求めるそれである。銀貨は、一緒になって考えてくれる読者のとことである、と(敢えて抽出的に、恣意的な書き方をしてまとめるとそういうことになる)。
言うまでもなく、僕は、銀貨を求めている(もちろん、金貨であればもっといいが、銀貨と金貨の違いは僕はあまり感じない。その理由は、オフとオンの区別にさほど意味を求めていないことになるが、まぁこの辺は昔なんどか書いているので省略)。
もちろん、銅貨があったうえでの銀貨なのだろうけれど、得たいもしれない、アクセス数だけ増えても、逆に気味が悪いと思うだろう。それよか、コメントとかいただけたり、時折自身のブログのネタにしてもらったりしてくれる方が嬉しい。
そして、では、この上の知見を用いて、こういう分類って、何に役に立つの? という疑問が発生したときの感情と、論理性というものについて考えてみたい。
結局のところ、「目的」とは何か、を僕は常に問うている。(これは病的なまでに)
よく言われるところが、「結局、お金にならない活動は、社会に組み込まれていないのだから、役に立つものではない。お金がないと、生活できないのだから、お金に直結する活動を基盤にできていない人は、地に足がついていない浮浪者である」ということである。
日本が資本主義であることを、僕は認めないわけではない(まどろっこしい言い方をするな、「認めている」でいいだろうが)。
資本主義とは、生産と消費のサイクルによって人間の欲望を満たしながら成長していく社会システムのカタチである。
そこに用いられるのが、「お金」である。このお金という概念は、少々、僕らの若いころから、現在では意味が異なっていて、いわゆる「電子の」仮想通貨というものも含めて考える必要がある。というのは、ビットコインとか、スイカとかイコカといった電子マネーという意味だけでなく、証券や債券など金融資産といった有形無形のお金も含めて考える必要があるということだ。
決して、これまでも、これからも、お金の価値を否定するのではない。
何らかの行動をするには、……かなしきかな、何もしなくてもお金はかかる。
(賃貸アパートであれば言わずもがな、持ち家だったとしても固定資産税がかかってもってかれる)
お金は、あるにこしたことはない。不慮の事態……先日あった風邪ひいたとか、PCのクラッシュとかオートモービルの電子機器不良など、お金がかかる場面というのは事欠かない。
ただ、昔から今も変わらない僕の価値観として、「お金のために生きるのではない」というものもある。
だが、何故ほしいのか? それは、単なる「安心」の購入である。
何に使うか分からない、けれども、いつなんどき、いくら必要になるかが分からない、だから取り敢えず「貯蓄」する。
この貯蓄という概念をもう少し広げると、僕は、投資であっても同様であると考えている(こんな頭でっかちなことを思ってるから、中々株をやろうと思えない)。つまり、いつまでに、いくら必要かという明確な目標がないゆえに、ただ、「安心」するがゆえに、お金のためにお金を稼ぐことをするために……それが、僕の目的にならんあいということだ。
分かりやすく書くと、「お金を貯める&稼ぐ」ということについての目標・目的がないのである。
よく、書店などで、「お金に困らない生き方をしよう!」とかいって、お金を稼ぐためのアプローチを延々述べられている書籍を見かける。
ずれたアプローチだと僕は思う。(いや、それが万人普遍に間違っているといいたいのではない)
ある意味、僕は、貧困であえぐ昨今増えているといわれている大多数の方に申し訳ないが、お金には全然困っていない(いまのところは。会社の状態もあまり芳しくないので、今後どうなるかも不明だ)。
お金に困っていない=お金がたくさんある、というわけではないことは重要な点だ。
つまり、まわりくどく書いてきたが、結局僕がいつも言っていることに巻き戻るのだけれど、大事なのは「欲望」ってことである。
欲望なのか、欲求なのか、欲動なのか、そこらへんの違いは、本記事では不問である。とにかく、「何かしたい!」という思いの大きさに応じて、お金の必要量がかかわってくる。
ここで、本当は、二つのアプローチがあるのである。一つは、お金を稼ぐこと、もう一つは、欲望を調整することだ。
資本主義社会とは、どうにも、前者のアプローチを肯定しすぎているように僕は思っている。そういう延長で、「努力したら必ず報われる!」的な標語が生じてくるのだと思っている。
結局は、「努力は(身の丈に合った)結果を与えてくれる」ということである。これはペシミスティックな、後ろ向きな発言ではない。ある意味、努力したら報われているのだ、必ず。だが、見落としてはならないところは、そのご本人が、如何なる「欲望」(目的)を抱いていたかという点だ。
同じ結果があるとする。テストで70点だったと。それは、客観的な指標だ。同じ問題を、同じ時間に、同じ条件で解いたのだ。だが、その70点という結果は、ある人にとっては悲観的なものであろうし、ある人にとっては僥倖であったりする。
閑話休題。
他者がどう思おうが、それはそれ。
ようは、俺は、いったい、どんな欲望をもっているのか、その点だ。これは最近ある方が、「感覚を研ぎ澄ませることが何より重要なのですよ。理屈ではない、感覚なのですよ」といっているのと、同じことだと思っている。
僕の言葉で言うと、「実感」。
実感のあるがままに生きる。これが本来、人間として正しい生き方ではなかろうか。
と思ったところで、冒頭に書いたように、「夢」とはなんとも暴力的である。
ある意味、幸せな夢であった。(後半、クレーマーとの言い合い合戦になったりして不快感マックスであったが)
幼いころの、家族に見守られ、ただ「子ども」として生きていたころの夢。
(こんな画像集をみるとなおさらダメージが大きくなるタイミングである)
なんだっけ……。ここ5日間ぐらいのことで、どうしても整理しておきたかったことがあったけど、いろいろすっ飛んでしまった。
俺は、……なんというか、嫌だ、苦しい、つらい、哀しいなどなど、もろもろ「不快」と呼ばれる感情が発生したとき、その理由を求めて、その解決に思考をめぐらすわけだが……そうじゃない人って本当に多いんだなって思ったりした。
ネガティブを、ただ、ネガティブとしてそれで甘んじて受けようとする人たち。
まぁいい、それだけであれば。そのネガティブを内部にもって、鬱屈としている人たちは儚く可愛らしい。
が。そういう人たちに限って(これは単に強調語に過ぎず一般的なことを言ってるのではない)、そのネガティブ性を愚痴として、他者への批判としてぶつけるのである。組織や社会が好んで使う言葉で表現すれば、「責任」を放棄しようとするのである。
自分の人生だろ? 自分で責任をとるしかないだろ。いつまで、親が守ってくれる子供でいるつもりなんだ?
……で、その責任論になると、責任のとれる範囲というのが、結局なんだと思う? お金、だ。
だから、お金があった方がいいって……そうなるんだけど、俺はどうにもそういった生き方というか価値観というか考え方というか、そんなもんが面白くねぇと思ってしまう。
俺も今、こうやって書いているのは愚痴にしか過ぎないわけだけれども、それでも、何とかしたいとは思ってるんだろう。
うーむ、駄目だ、感情が先走って、頭の整理がうまくいかない。
本来、読み返して、修正していく作業に入るべきだが、これはこれで、いったん投稿することにしよう。そのうえで、再度時間をあけて書いていこう。
(PVの種類を明確に分類するとか、そういうのは価値ある作業に思える。しかし、「実存」問題を考える際には、常に明確な分類の適応は難しい。ああ、そうだ、「実存」と政治について書こうと思ったんだったっけ)
夢は潜在意識の顕在化なのか
色々と、やるべきこと、やった方がいいことが積み重なっている。めんどくせぇぇ……ってなって、何もできなくなることがよくある。もうすべて投げ出してしまいたい。自暴自棄と言われたっていい。そうだ、俺に、守るべきものなんて、そんな大層なものはもう持ち合わせていないんだ……。
そんな風に愚痴を唱えることに、残念ながら真摯に向き合えない性格特性である。僕は、そのような感情が生じたとき、すぐさま、その「愚痴状態」が良いものかどうかを総合的に考える(考えてしまう)。
はいはい、愚痴を言いたいのね。そうして、自己正当化をしたいわけね。いいよ、それで感情状態を平静に向かわせられるなら、どうぞやってください。できれば、私としては、それをする時間まで決めておいて頂けるとありがたいんですがね……まぁ、好きなようにおやりなさいよ。
お前誰だ!? みたいな、そんな奴がいるのである。
その、じゃあ、仮に「理性くん」と名付けたとして、そいつは、かなり昔から俺の中にいた。さかのぼれば、小学4年生ぐらいじゃあないかと、僕は思っている。何度かブログでも書いたけれども、ある友達とのエピソードで、僕は衝撃を受けた。そのとき、いや、最古の記憶、3歳~4歳ぐらいに、僕の誕生会を親戚をまじえてやってくれた、そのときから、理性くんはやってきたのだろうか。
PVの銀貨
話は少し変わる。ある友人が、こんな記事(シロクマの屑籠)を紹介してくれた。なるほど、ブログとは、収益を目指すものから、何らか達成したいもの、得たいものを満たすために行われる。ブログである以上、それは他者の目を必ず意識するものである。誰かに読んでもらいたくないといって、ブログ媒体を選択する人は皆無である(少なくても論理性はない)。
で、あるならば、PV(ページビュー)という、すなわち、アクセス数、訪問者というものを意識しないわけにはいかない。
そのとき、どんな種類のPVを求めているのか、ということを、上の紹介記事では触れられているのである。
金貨、になると特殊な気がするのでこの場で特段記載はしないが、銅貨と、銀貨の違いというのはかなり大きいと思う。
銅貨は、即物的な答えを求めるそれである。銀貨は、一緒になって考えてくれる読者のとことである、と(敢えて抽出的に、恣意的な書き方をしてまとめるとそういうことになる)。
言うまでもなく、僕は、銀貨を求めている(もちろん、金貨であればもっといいが、銀貨と金貨の違いは僕はあまり感じない。その理由は、オフとオンの区別にさほど意味を求めていないことになるが、まぁこの辺は昔なんどか書いているので省略)。
もちろん、銅貨があったうえでの銀貨なのだろうけれど、得たいもしれない、アクセス数だけ増えても、逆に気味が悪いと思うだろう。それよか、コメントとかいただけたり、時折自身のブログのネタにしてもらったりしてくれる方が嬉しい。
そして、では、この上の知見を用いて、こういう分類って、何に役に立つの? という疑問が発生したときの感情と、論理性というものについて考えてみたい。
収益を出すことが必ずしも必要なのか
仕事論になりそうな気がするが、それほど肩肘はるものでもない。結局のところ、「目的」とは何か、を僕は常に問うている。(これは病的なまでに)
よく言われるところが、「結局、お金にならない活動は、社会に組み込まれていないのだから、役に立つものではない。お金がないと、生活できないのだから、お金に直結する活動を基盤にできていない人は、地に足がついていない浮浪者である」ということである。
日本が資本主義であることを、僕は認めないわけではない(まどろっこしい言い方をするな、「認めている」でいいだろうが)。
資本主義とは、生産と消費のサイクルによって人間の欲望を満たしながら成長していく社会システムのカタチである。
そこに用いられるのが、「お金」である。このお金という概念は、少々、僕らの若いころから、現在では意味が異なっていて、いわゆる「電子の」仮想通貨というものも含めて考える必要がある。というのは、ビットコインとか、スイカとかイコカといった電子マネーという意味だけでなく、証券や債券など金融資産といった有形無形のお金も含めて考える必要があるということだ。
決して、これまでも、これからも、お金の価値を否定するのではない。
何らかの行動をするには、……かなしきかな、何もしなくてもお金はかかる。
(賃貸アパートであれば言わずもがな、持ち家だったとしても固定資産税がかかってもってかれる)
お金は、あるにこしたことはない。不慮の事態……先日あった風邪ひいたとか、PCのクラッシュとかオートモービルの電子機器不良など、お金がかかる場面というのは事欠かない。
ただ、昔から今も変わらない僕の価値観として、「お金のために生きるのではない」というものもある。
欲望を満たす道具
お金が欲しいか? と問われたら、欲しいです、と答える。だが、何故ほしいのか? それは、単なる「安心」の購入である。
何に使うか分からない、けれども、いつなんどき、いくら必要になるかが分からない、だから取り敢えず「貯蓄」する。
この貯蓄という概念をもう少し広げると、僕は、投資であっても同様であると考えている(こんな頭でっかちなことを思ってるから、中々株をやろうと思えない)。つまり、いつまでに、いくら必要かという明確な目標がないゆえに、ただ、「安心」するがゆえに、お金のためにお金を稼ぐことをするために……それが、僕の目的にならんあいということだ。
分かりやすく書くと、「お金を貯める&稼ぐ」ということについての目標・目的がないのである。
よく、書店などで、「お金に困らない生き方をしよう!」とかいって、お金を稼ぐためのアプローチを延々述べられている書籍を見かける。
ずれたアプローチだと僕は思う。(いや、それが万人普遍に間違っているといいたいのではない)
ある意味、僕は、貧困であえぐ昨今増えているといわれている大多数の方に申し訳ないが、お金には全然困っていない(いまのところは。会社の状態もあまり芳しくないので、今後どうなるかも不明だ)。
お金に困っていない=お金がたくさんある、というわけではないことは重要な点だ。
つまり、まわりくどく書いてきたが、結局僕がいつも言っていることに巻き戻るのだけれど、大事なのは「欲望」ってことである。
欲望なのか、欲求なのか、欲動なのか、そこらへんの違いは、本記事では不問である。とにかく、「何かしたい!」という思いの大きさに応じて、お金の必要量がかかわってくる。
ここで、本当は、二つのアプローチがあるのである。一つは、お金を稼ぐこと、もう一つは、欲望を調整することだ。
資本主義社会とは、どうにも、前者のアプローチを肯定しすぎているように僕は思っている。そういう延長で、「努力したら必ず報われる!」的な標語が生じてくるのだと思っている。
結局は、「努力は(身の丈に合った)結果を与えてくれる」ということである。これはペシミスティックな、後ろ向きな発言ではない。ある意味、努力したら報われているのだ、必ず。だが、見落としてはならないところは、そのご本人が、如何なる「欲望」(目的)を抱いていたかという点だ。
同じ結果があるとする。テストで70点だったと。それは、客観的な指標だ。同じ問題を、同じ時間に、同じ条件で解いたのだ。だが、その70点という結果は、ある人にとっては悲観的なものであろうし、ある人にとっては僥倖であったりする。
閑話休題。
だから俺の欲望は何なのか
何だか延々と続きそうだったから強制中断。上のようなことは正直どうでもいいのだ。他者がどう思おうが、それはそれ。
ようは、俺は、いったい、どんな欲望をもっているのか、その点だ。これは最近ある方が、「感覚を研ぎ澄ませることが何より重要なのですよ。理屈ではない、感覚なのですよ」といっているのと、同じことだと思っている。
僕の言葉で言うと、「実感」。
実感のあるがままに生きる。これが本来、人間として正しい生き方ではなかろうか。
と思ったところで、冒頭に書いたように、「夢」とはなんとも暴力的である。
ある意味、幸せな夢であった。(後半、クレーマーとの言い合い合戦になったりして不快感マックスであったが)
幼いころの、家族に見守られ、ただ「子ども」として生きていたころの夢。
(こんな画像集をみるとなおさらダメージが大きくなるタイミングである)
なんだっけ……。ここ5日間ぐらいのことで、どうしても整理しておきたかったことがあったけど、いろいろすっ飛んでしまった。
俺は、……なんというか、嫌だ、苦しい、つらい、哀しいなどなど、もろもろ「不快」と呼ばれる感情が発生したとき、その理由を求めて、その解決に思考をめぐらすわけだが……そうじゃない人って本当に多いんだなって思ったりした。
ネガティブを、ただ、ネガティブとしてそれで甘んじて受けようとする人たち。
まぁいい、それだけであれば。そのネガティブを内部にもって、鬱屈としている人たちは儚く可愛らしい。
が。そういう人たちに限って(これは単に強調語に過ぎず一般的なことを言ってるのではない)、そのネガティブ性を愚痴として、他者への批判としてぶつけるのである。組織や社会が好んで使う言葉で表現すれば、「責任」を放棄しようとするのである。
自分の人生だろ? 自分で責任をとるしかないだろ。いつまで、親が守ってくれる子供でいるつもりなんだ?
……で、その責任論になると、責任のとれる範囲というのが、結局なんだと思う? お金、だ。
だから、お金があった方がいいって……そうなるんだけど、俺はどうにもそういった生き方というか価値観というか考え方というか、そんなもんが面白くねぇと思ってしまう。
俺も今、こうやって書いているのは愚痴にしか過ぎないわけだけれども、それでも、何とかしたいとは思ってるんだろう。
うーむ、駄目だ、感情が先走って、頭の整理がうまくいかない。
本来、読み返して、修正していく作業に入るべきだが、これはこれで、いったん投稿することにしよう。そのうえで、再度時間をあけて書いていこう。
(PVの種類を明確に分類するとか、そういうのは価値ある作業に思える。しかし、「実存」問題を考える際には、常に明確な分類の適応は難しい。ああ、そうだ、「実存」と政治について書こうと思ったんだったっけ)
PR
今日の一言「タイトルが胡散臭いね」「疑いにきりがあると思ってはならない」
その面倒なことを一つずつ書いていこうかとも思ったが、それ自体が面倒な作業になるだろうから、やはり、いつもどおり思いつくままに書いていこう。
まず、体調がよくない。おそらく、風邪だろう。体調が悪いながらも、仕事はまってくれずに、次から次へと舞い込んだ一週間だった。それでも、何とか乗り越えることができた(いやもちろん、来週や後ろに回しただけではないかということも言えるけれども、それでも、一週間は終わったのだ)。
次に、所有しているオートモービルの電子機器の調子が良くない。かれこれ、もう5年以上も使っているので、そろそろ交換の時期かもしれないのだが、出費に頭を悩ます。
所用ででかけるも、諸事情で引き返すはめになり、二度手間になる。
会社での仕事内容プラス人間関係における難儀な事態にも頭を悩ます。どうにも、難しい、この「難しい」ということは、後ほど触れる可能性がある。
さらに、パソコンの調子が悪くなった。これが決定的に僕を落ち込ませた。何せ、この土日は、手がけるサイトの改築工事及び、寄せられたコメントへの返信、小説の書き進めなど、色々とやろうと思っていたのだ。金曜日、遅い時間に帰宅しつつ、さぁ、少しでも作業を進めるぜ! とPCのスイッチを入れる。「ASUS」(マザーボードのロゴ)が表示されてから、一向に進まない。
前にSSDクラッシュにより修理に出したばっかりで、また故障か、と思う。
取り敢えず、ファンの誇りを取り除き、簡易的に清掃をする、駄目。
電源プラグを抜いて放電を試したり、グラフィックボードを抜いて、オンボードで動くか試し、駄目。
友人が、マザーボードのロゴもでないなら、HDDのせいじゃなくて、メモリとかのせいじゃない? とアドバイスをくれる。
メモリの接触不良ということもあるので、一度抜いてから差し込む。ビープ音が鳴り響く。「ビービー、ビービー」。びっくりする。どうやら、メモリがちゃんとはまっていなかった模様。メモリを指さない状態で電源スイッチ押すと、激しいことになることが分かる。(メリット1)
HDDも全部抜いてみる。駄目。HDDを抜いても、マザーボードのロゴ(ASUS)までは表示されることが分かった。(メリット2)
もうこりゃ駄目だ、買い替えだな、と諦めたところ、友人がいってた、メモリとかのせいじゃないか、ということを思い出し、ダメもとで、CMOS電池を外してから、しばらく(90秒)放置し、再度つけてみる。……動いた!!(メリット3)
※CMOS電池とは上の画像の赤丸部分。コンセントからの電源がなくても、マザーボードに電気を供給して、時刻同期とか保っている。縦置きのまま外したらカシャっと落ちて、電源ユニットの中に入って焦ったのは内緒。
※参考になったサイト「BIOS初期化」
しかし、さすが素人、Dドライブだけ抜き取って、ケーブルを取っておくのを忘れていた。電気屋に走る。SATA(シリアル・ATA)ケーブルを購入する。600円ぐらいだった。
上の図の青い線がSATAケーブル。上の赤丸がマザーボード側のSATAの接続端子。下の赤楕円の方に、内臓HDDのスロットがあり、接続されている。
結果、問題なく認識された。しかし、何故かフォーマットが要求されてしまい、中身のデータは取り出せなかった。(実は、内臓HDDを外付HDDとしてUSB接続できる機器(いわゆるHDDケース)を使って、接続も試みたが、どうにもフォーマットされていないディスクということで、読み込めなかった。win7で作ったDドライブだから、win10では駄目だったのか、そこらへんはよくわからなかった。一方、現状のPCのDドライブを、一度外してから再度接続したら、それはちゃんと読み込めた。よくわからん)
というわけで、メモリ交換、グラボ接続ぐらいしかPCの中身はいじくれなかったけれども、内臓HDD交換(接続)というスキルも手に入れたッ! レベルアップだ!(しょぼい)
もう壊れたと思ってダメもとで色々いじくったけれども、意外と壊れないときは壊れないもんだな、パソコンさんよ。静電気で駄目になるとかよく聞くけど、もう素手でべたべたいろんなとこ触ってたよ。(まぁ端子部分はさすがに気を使ったが……)
まぁ、なんというか、いろいろと面倒だとかイライラしたこととかを書きたいと思っているのだけれども、取り敢えずここまでにしておこう。なににせよ体調が完全ではないし、何分疲れた……。
(そして本来やろうと思っていたことは何一つできていないのである)
面倒なことのオンパレード
最近面倒な出来事が続いている。ひとまず、少しだけ落ち着いたのはこの時間だ(22時)。その面倒なことを一つずつ書いていこうかとも思ったが、それ自体が面倒な作業になるだろうから、やはり、いつもどおり思いつくままに書いていこう。
まず、体調がよくない。おそらく、風邪だろう。体調が悪いながらも、仕事はまってくれずに、次から次へと舞い込んだ一週間だった。それでも、何とか乗り越えることができた(いやもちろん、来週や後ろに回しただけではないかということも言えるけれども、それでも、一週間は終わったのだ)。
次に、所有しているオートモービルの電子機器の調子が良くない。かれこれ、もう5年以上も使っているので、そろそろ交換の時期かもしれないのだが、出費に頭を悩ます。
所用ででかけるも、諸事情で引き返すはめになり、二度手間になる。
会社での仕事内容プラス人間関係における難儀な事態にも頭を悩ます。どうにも、難しい、この「難しい」ということは、後ほど触れる可能性がある。
さらに、パソコンの調子が悪くなった。これが決定的に僕を落ち込ませた。何せ、この土日は、手がけるサイトの改築工事及び、寄せられたコメントへの返信、小説の書き進めなど、色々とやろうと思っていたのだ。金曜日、遅い時間に帰宅しつつ、さぁ、少しでも作業を進めるぜ! とPCのスイッチを入れる。「ASUS」(マザーボードのロゴ)が表示されてから、一向に進まない。
前にSSDクラッシュにより修理に出したばっかりで、また故障か、と思う。
取り敢えず、ファンの誇りを取り除き、簡易的に清掃をする、駄目。
電源プラグを抜いて放電を試したり、グラフィックボードを抜いて、オンボードで動くか試し、駄目。
友人が、マザーボードのロゴもでないなら、HDDのせいじゃなくて、メモリとかのせいじゃない? とアドバイスをくれる。
メモリの接触不良ということもあるので、一度抜いてから差し込む。ビープ音が鳴り響く。「ビービー、ビービー」。びっくりする。どうやら、メモリがちゃんとはまっていなかった模様。メモリを指さない状態で電源スイッチ押すと、激しいことになることが分かる。(メリット1)
HDDも全部抜いてみる。駄目。HDDを抜いても、マザーボードのロゴ(ASUS)までは表示されることが分かった。(メリット2)
もうこりゃ駄目だ、買い替えだな、と諦めたところ、友人がいってた、メモリとかのせいじゃないか、ということを思い出し、ダメもとで、CMOS電池を外してから、しばらく(90秒)放置し、再度つけてみる。……動いた!!(メリット3)
※CMOS電池とは上の画像の赤丸部分。コンセントからの電源がなくても、マザーボードに電気を供給して、時刻同期とか保っている。縦置きのまま外したらカシャっと落ちて、電源ユニットの中に入って焦ったのは内緒。
※参考になったサイト「BIOS初期化」
SATAケーブルで内臓HDD追加
で、それとなくパソコンのオーバーホールになったので、以前のデスクトップPCから抜き取っておいたDドライブに使ってたHDDもくっつけてみようと思った。しかし、さすが素人、Dドライブだけ抜き取って、ケーブルを取っておくのを忘れていた。電気屋に走る。SATA(シリアル・ATA)ケーブルを購入する。600円ぐらいだった。
上の図の青い線がSATAケーブル。上の赤丸がマザーボード側のSATAの接続端子。下の赤楕円の方に、内臓HDDのスロットがあり、接続されている。
結果、問題なく認識された。しかし、何故かフォーマットが要求されてしまい、中身のデータは取り出せなかった。(実は、内臓HDDを外付HDDとしてUSB接続できる機器(いわゆるHDDケース)を使って、接続も試みたが、どうにもフォーマットされていないディスクということで、読み込めなかった。win7で作ったDドライブだから、win10では駄目だったのか、そこらへんはよくわからなかった。一方、現状のPCのDドライブを、一度外してから再度接続したら、それはちゃんと読み込めた。よくわからん)
というわけで、メモリ交換、グラボ接続ぐらいしかPCの中身はいじくれなかったけれども、内臓HDD交換(接続)というスキルも手に入れたッ! レベルアップだ!(しょぼい)
もう壊れたと思ってダメもとで色々いじくったけれども、意外と壊れないときは壊れないもんだな、パソコンさんよ。静電気で駄目になるとかよく聞くけど、もう素手でべたべたいろんなとこ触ってたよ。(まぁ端子部分はさすがに気を使ったが……)
まぁ、なんというか、いろいろと面倒だとかイライラしたこととかを書きたいと思っているのだけれども、取り敢えずここまでにしておこう。なににせよ体調が完全ではないし、何分疲れた……。
(そして本来やろうと思っていたことは何一つできていないのである)
アンドロイドが登場する作品を書きたいと思ったのは、もうかなり前のことで、2005年ぐらいに一度プロットをつくったことがあった。けれども、強く書きたいというか、完成させたいという気持ちには中々なれなかった。
命の代償で願いを叶えてくれる話は、ここ最近、完結させてみようかと書き始めたのだった。で、一応最後まで書きあがって、じゃあ推敲していくかなーって時に、いつぞやのハードディスククラッシュによって、永遠に消え失せた。本当にあるんだこんなこと、なんて、どこか他人ごとのように思ってた。ホント、バックアップは重要だ。
そういう意味で、もちろんハードディスクにも保存しているが、ブログにアップしておくってのも、まぁいいのかもしれない。
以下、連載。
<続く>
命の代償で願いを叶えてくれる話は、ここ最近、完結させてみようかと書き始めたのだった。で、一応最後まで書きあがって、じゃあ推敲していくかなーって時に、いつぞやのハードディスククラッシュによって、永遠に消え失せた。本当にあるんだこんなこと、なんて、どこか他人ごとのように思ってた。ホント、バックアップは重要だ。
そういう意味で、もちろんハードディスクにも保存しているが、ブログにアップしておくってのも、まぁいいのかもしれない。
以下、連載。
汎用型支援ロボット009
苛ついた思いもあって、少し困らせてみようという気になってしまった。ロボットは、曖昧な返答に弱い。与えられたインプットについて、ある一定の法則で処理を行い、アウトプットする。だから、そのインプット情報が法則に基づかないものであった場合、上手く処理をできないのだ。
――好きにすればいい。
ロボットにとっては、自分で考えることなどできないのだから、判断するというのは非常に難解な問いなのだ。
「かしこまりました。それでは、ジュン様と御呼びいたしますね」
まぁ、何かを決めるというのは、人間でも難しいことなのだ。いくら高額のロボットだって、そこまでの要求は、「……えっ?」
なんて考えていたら、大きな瞳をきれいな曲線にして、「嬉しそうに」、ふつーに、返答されてしまった。
「ジュン様、ふつつかものですが、これからどうぞ宜しくお願いいたします」
さらには、お願いされてしまった。
低頭し三つ指をついた姿は、座礼というのだったか。西洋の女中服が完全に浮いてしまうほど、和装が似合う優雅さを帯びていた。何だよ、こんな動作まで、標準でインストールされているってのか?
僕は、苛ついた思いが一瞬なくなるほど、しばし、その背中に見とれていた。
<続く>
アンドロイドとは、人造人間のことであるが、この語は、1886年にリラダンという人が、『未来のイブ』という小説で使ったことで広まったとされている。アンドロイドという語は、ギリシア語で「男性の」という語幹が含まれているということで、女性型の人造人間は、ガイノイドという場合もある。
ヒューマノイド、バイオロイドという語もある。ヒューマノイドは、アンドロイドと同義と考えてよい。バイオロイドは、有機物的な意味合いが強い人造人間である。クローン人間はバイオロイドに分類されそうだ。
以下、連載。
ヒューマノイド、バイオロイドという語もある。ヒューマノイドは、アンドロイドと同義と考えてよい。バイオロイドは、有機物的な意味合いが強い人造人間である。クローン人間はバイオロイドに分類されそうだ。
以下、連載。
人は、人の形をしたものを、人であると認識する。
じゃあ、人が、人であるために必要な条件は何なんだろう。
こいつは、人じゃあない。アンドロイド、ロボットだ。A.I.とは、アーティフィシャル・インテリジェンスの略――「造られた」知能。それが、あたかも、人のように、まさに人であるとしてふるまっている。このことが、何とも不気味に思った。
「あの……、如何されましたか? 何かお困りのように見受けられます」
首を僅かにかしげ、心配そうにこちらを見つめてくる。
ちっ。表情感応センサーも大したものだ。画像解析技術の進歩は、人やネコといった動物の識別から、人の表情の種類まで識別できるようになった。「苦笑」という表情は難易度が高かったようだが、目は笑っていて、口元が笑っていないなど、表情の全体を勘案して最終的な表情としての判断をくだすことも可能になっているという。その笑うという表情自体、個体差はあるわけだが、長らく一緒に生活していると、使用者の微細な表情筋の動きも、判別できるようになるという。
「なんでもない。呼び方なんて、好きにすればいい」
<続く>
今日の一言「論理的な納得であれ感情的な納得であれ」「重要なのは行動?」
これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!
止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?
それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。
定理1:思考を止めるためには納得することである
しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。
定理2:実感を得ることが重要である
ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?
これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。
心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。
(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)
納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。
一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?
何らかの経験をする必要がある。
それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。
行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。
ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。
その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。
そりゃそうだ。
うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。
しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。
つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。
これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、
といったものだろう。
ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。
その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。
よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!
だが、何を?
なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!
分かった! ありがとう!!
茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。
同時に、僕も分かっている。
生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。
そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。
だが、「実感」ではない。
どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。
このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。
つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。
生きている意味がない。
面白くない、死にたい。
むかつく、いらつく。
そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)
だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。
そのズレってのは、生きることの自明視である。
ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。
気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。
いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)
とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。
と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。
といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。
結論。特に、意味は無い。
いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。
ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。
さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。
セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。
ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。
セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)
※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?
(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)
自分の血肉にするには
私は、頭が悪い。これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!
止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?
それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。
定理1:思考を止めるためには納得することである
しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。
定理2:実感を得ることが重要である
ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?
これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。
心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。
実感を得るには
思考を止めるという目的を果たすためには、「納得」と「実感」が重要であることが分かった。(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)
納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。
一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?
何らかの経験をする必要がある。
それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。
行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。
ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。
思考を止めるには
実感が大事。その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。
そりゃそうだ。
うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。
しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。
つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。
これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、
・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
(生きる意味を徹底して考える2017/5/3)といったものだろう。
ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。
良い行動
しかし、「行動しなよ!」とアドバイスする人も、そんな思考が足りないわけでもないだろう。もちろん、その「行動」という言葉には、「良い行動」という含意がある。その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。
よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!
だが、何を?
なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!
分かった! ありがとう!!
茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。
同時に、僕も分かっている。
生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。
そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。
だが、「実感」ではない。
どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。
このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。
つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。
愚痴を言う人の本音
ああ、つまらない。生きている意味がない。
面白くない、死にたい。
むかつく、いらつく。
そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)
だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。
そのズレってのは、生きることの自明視である。
ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。
気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。
いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)
とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。
EDENのセシィの死
唐突に話が変わる。僕が高校ぐらいかなぁ、に、友人に紹介されて衝撃を受けた作品、遠藤浩輝さんの「EDEN~It's an endless world!~」という作品があるのだけれども、マヌエラさんはヘロインさえ絡まなければセシィをまっとうに愛していたようにしか読めないのだが、なぜ肘パカ刃物女を使う必要があったのかさっぱりなのだ。亡命するために娘を囮に使った、まではわかる。だが、それならそれだけで良かったはずである。肘パカなぞ雇う必要はまったくなかったように思える。そのまま娘は放置して亡命すれば良かったのではないか。なぜそこでセシィを積極的に害する必要があったのか、コレガワカラナイ。
と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。
といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。
結論。特に、意味は無い。
いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。
ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。
さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。
セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。
ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。
セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)
※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?
(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)
