アンドロイドが登場する作品を書きたいと思ったのは、もうかなり前のことで、2005年ぐらいに一度プロットをつくったことがあった。けれども、強く書きたいというか、完成させたいという気持ちには中々なれなかった。
命の代償で願いを叶えてくれる話は、ここ最近、完結させてみようかと書き始めたのだった。で、一応最後まで書きあがって、じゃあ推敲していくかなーって時に、いつぞやのハードディスククラッシュによって、永遠に消え失せた。本当にあるんだこんなこと、なんて、どこか他人ごとのように思ってた。ホント、バックアップは重要だ。
そういう意味で、もちろんハードディスクにも保存しているが、ブログにアップしておくってのも、まぁいいのかもしれない。
以下、連載。
<続く>
命の代償で願いを叶えてくれる話は、ここ最近、完結させてみようかと書き始めたのだった。で、一応最後まで書きあがって、じゃあ推敲していくかなーって時に、いつぞやのハードディスククラッシュによって、永遠に消え失せた。本当にあるんだこんなこと、なんて、どこか他人ごとのように思ってた。ホント、バックアップは重要だ。
そういう意味で、もちろんハードディスクにも保存しているが、ブログにアップしておくってのも、まぁいいのかもしれない。
以下、連載。
汎用型支援ロボット009
苛ついた思いもあって、少し困らせてみようという気になってしまった。ロボットは、曖昧な返答に弱い。与えられたインプットについて、ある一定の法則で処理を行い、アウトプットする。だから、そのインプット情報が法則に基づかないものであった場合、上手く処理をできないのだ。
――好きにすればいい。
ロボットにとっては、自分で考えることなどできないのだから、判断するというのは非常に難解な問いなのだ。
「かしこまりました。それでは、ジュン様と御呼びいたしますね」
まぁ、何かを決めるというのは、人間でも難しいことなのだ。いくら高額のロボットだって、そこまでの要求は、「……えっ?」
なんて考えていたら、大きな瞳をきれいな曲線にして、「嬉しそうに」、ふつーに、返答されてしまった。
「ジュン様、ふつつかものですが、これからどうぞ宜しくお願いいたします」
さらには、お願いされてしまった。
低頭し三つ指をついた姿は、座礼というのだったか。西洋の女中服が完全に浮いてしまうほど、和装が似合う優雅さを帯びていた。何だよ、こんな動作まで、標準でインストールされているってのか?
僕は、苛ついた思いが一瞬なくなるほど、しばし、その背中に見とれていた。
<続く>
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アンドロイドとは、人造人間のことであるが、この語は、1886年にリラダンという人が、『未来のイブ』という小説で使ったことで広まったとされている。アンドロイドという語は、ギリシア語で「男性の」という語幹が含まれているということで、女性型の人造人間は、ガイノイドという場合もある。
ヒューマノイド、バイオロイドという語もある。ヒューマノイドは、アンドロイドと同義と考えてよい。バイオロイドは、有機物的な意味合いが強い人造人間である。クローン人間はバイオロイドに分類されそうだ。
以下、連載。
ヒューマノイド、バイオロイドという語もある。ヒューマノイドは、アンドロイドと同義と考えてよい。バイオロイドは、有機物的な意味合いが強い人造人間である。クローン人間はバイオロイドに分類されそうだ。
以下、連載。
人は、人の形をしたものを、人であると認識する。
じゃあ、人が、人であるために必要な条件は何なんだろう。
こいつは、人じゃあない。アンドロイド、ロボットだ。A.I.とは、アーティフィシャル・インテリジェンスの略――「造られた」知能。それが、あたかも、人のように、まさに人であるとしてふるまっている。このことが、何とも不気味に思った。
「あの……、如何されましたか? 何かお困りのように見受けられます」
首を僅かにかしげ、心配そうにこちらを見つめてくる。
ちっ。表情感応センサーも大したものだ。画像解析技術の進歩は、人やネコといった動物の識別から、人の表情の種類まで識別できるようになった。「苦笑」という表情は難易度が高かったようだが、目は笑っていて、口元が笑っていないなど、表情の全体を勘案して最終的な表情としての判断をくだすことも可能になっているという。その笑うという表情自体、個体差はあるわけだが、長らく一緒に生活していると、使用者の微細な表情筋の動きも、判別できるようになるという。
「なんでもない。呼び方なんて、好きにすればいい」
<続く>
今日の一言「論理的な納得であれ感情的な納得であれ」「重要なのは行動?」
これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!
止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?
それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。
定理1:思考を止めるためには納得することである
しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。
定理2:実感を得ることが重要である
ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?
これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。
心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。
(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)
納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。
一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?
何らかの経験をする必要がある。
それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。
行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。
ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。
その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。
そりゃそうだ。
うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。
しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。
つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。
これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、
といったものだろう。
ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。
その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。
よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!
だが、何を?
なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!
分かった! ありがとう!!
茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。
同時に、僕も分かっている。
生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。
そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。
だが、「実感」ではない。
どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。
このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。
つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。
生きている意味がない。
面白くない、死にたい。
むかつく、いらつく。
そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)
だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。
そのズレってのは、生きることの自明視である。
ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。
気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。
いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)
とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。
と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。
といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。
結論。特に、意味は無い。
いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。
ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。
さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。
セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。
ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。
セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)
※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?
(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)
自分の血肉にするには
私は、頭が悪い。これを証明することについては、枚挙にいとまがない。知識、推論力、身体的能力、様々な分野における欠乏。そして何より、頭の良い人は、昨日のような長い文章は書かない!
止めどなく溢れ出る思考や感情といったものを抑え込むにはどうしたらよいのだろうか?
それは、納得することである。ああ、僕は書ききった。すべて完全に証明できた。そんな風に思えたとき、思考は取り敢えずの休息を取るのである。
定理1:思考を止めるためには納得することである
しかし、最近の方針、すなわち生きる意味を考える(=自分を知る)ことで大事なのは、思考を排して、自己の感覚感情を素直に感じることである(=実感)。
定理2:実感を得ることが重要である
ここで、定理1と定理2が真(正しい)としてみる。
条件を抽出してみれば、「思考を止める」ことと、「実感を得ること」が同時に成り立たなければいけない。これは、成り立ちそうだ。
しかし、定理1の二つ目の条件、「納得すること」と「実感を得ること」はどうだろうか?
これも……成り立ちそうだ。しかし、違和感がここから生じる。納得することと、実感を得ることというのは、同値なのだろうか? この違和感は、「納得」という語に、僕は、どうやら、「妥協」という形容を含ませている可能性に起因しそうである。
心底、本当に、疑いなく完全に納得すること。これは、実感といってよいだろう。
しかし、「納得」という言葉を用いたとき、僕は、所与の条件下においては正しい、という意味で用いている気がする。
論理的な推論によって、疑いえないもの、それが「納得」である。
対して、「実感」とは、根拠は明確にできないが、とにかく疑い得ないものである。
実感を得るには
思考を止めるという目的を果たすためには、「納得」と「実感」が重要であることが分かった。(納得と実感の違いはともかく、その両者が成り立てば、思考は不要になるからだ)
納得するには、現在おかれている状況(所与の条件)を明らかにしていけばよい。そのうえでの判断をすれば、納得ができる。
一方、実感を得るにはどうしたらよいのだろうか?
何らかの経験をする必要がある。
それは、アニメーションを見る、人と関わる、本を読む、仕事をする、遊ぶ、運動をする、など。何か行動をする必要がある。
行動の結果のフィードバック、それが「実感」である。
ということは、僕が非常に恐れている結論が迫っていることに気づく。
思考を止めるには
実感が大事。その結論から導けることは、すなわち、思考を挟むまでなく、継続して経験(体験)をすること、つまり、行動をし続けることである。
そりゃそうだ。
うだうだ考えている時間があったら、何からの行動をした方がよい。当たり前、真理だ。
しかし、ここでは、もう少し実践的に、踏み込んで、その行動や思考というものを考えていきたい。
つまり、……これは先日どこかで書いたことだと思うが、思考がゼロということはあり得ないのである。
「深く考えていない」という事態はあるかもしれない。しかし、まったく無心の状態で何らかの行動ができるだろうか。朝起きて歯を磨くとか、そうした自動的な行動は、ここでは除外してもよい。ある程度、高度な行動をするとき、それは勉強でも仕事でも、友人との会話・おしゃべりでもいいけれども、そうした行動をとるときに、思考が何もないというのはあり得るだろうか。
これゆえに、僕は、「うだうだ考えているよりは、行動しなよ!」というアドバイスをズタズタに切り裂いて唾棄したい。おめーらさ、「行動」って何だか具体性を考えてから言えよ。所詮、先日僕が挙げたような、
・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる
(生きる意味を徹底して考える2017/5/3)といったものだろう。
ユウチューバーはともかく、それらのいくつかにかかる行動はしているのである。何もせずにうじうじしているわけではない。というよりも、そんな、何もせずにうじうじできる人などそうそういない。引きこもりの人だって、ネットで怨念を吐き散らしているかもしれない。それだって十分行動である。
良い行動
しかし、「行動しなよ!」とアドバイスする人も、そんな思考が足りないわけでもないだろう。もちろん、その「行動」という言葉には、「良い行動」という含意がある。その人にとって有意義な、役に立つ、意味のある、そんな行動を想定しているのである。
よし、じゃあ、いっちょ行動してやりますか!
だが、何を?
なんだろう、それは、君が良いと思うことを、好きだと思うことを精一杯やったらいいんだよ!
分かった! ありがとう!!
茶番だ。つまり、その正しい、良い行動というのは、個々その人それぞれにおいて選び取っていくものである。
そしてそれは、もう最後まで書く必要もなかろうが、結局「思考」の必要性に巻き戻っているのである。
同時に、僕も分かっている。
生きているから生きているんだ。だから何? 意味? なんでそんなこと考えるの? と。
そう言い切れる人が強い。正しい。これは「納得」している。
だが、「実感」ではない。
どうにも、こうにも、そう言い切れないのである。
このズレ。この感覚のズレが、それは僅かで、殆ど意識もされないことであるのだけれども、他者とのコミュニケーションの際に、少しずつ澱のように積み重なっていき、関係が深まるにつれて決定的な裂け目となるのである。
このことは、あまり口にも出さないし、書かないように、無意識に制御してきた気がする。
しかし、最近、(現実方面の)身の回りのコミュニケーションにおいて、親しい人が増えてきたため、注意喚起を含めて書いておきたかった。
つまり、仲良くなればなるほど、僕は嬉しくなってしまうのだ。
そうすると、僕は、相手に、分かってくれているという幻想を抱く。いやそれが、幻想でなければ全然問題ないのであるが、ここは、特にここ1年ほど前に強く実感したのであるが、マイナス思考やネガティブ思考な人も、僕のトートロジーになれない実感を、理解できているわけではないということだ。
愚痴を言う人の本音
ああ、つまらない。生きている意味がない。
面白くない、死にたい。
むかつく、いらつく。
そういった、いわゆる愚痴というやつ。僕は、ネガティブな人を嫌いではない。(同時に、何度も書いているように、僕自身は、実のところ非常に(反転した)ポジティブ思考なのだけれども)
だから、そういう感情への共感性も高いから、数は多くはないけれど、そういう人と仲良くなることはある。
でも、仲良くなって深まっていくにつれて、「ズレ」があることに気づく、こともあれば、ついつい嬉しくなって気づかないこともある。
そのズレってのは、生きることの自明視である。
ネガティブなことを言う人だからと言って、――いやむしろ、そんな人はよりその傾向が強そうだが――たぶん、僕の書いてきた記事を読むと、圧倒されて、言葉を失い、僕のことを気持ち悪いと思うだろう。
気づくべきは、愚痴を言う人は、「愚痴を言ってすっきりしたい」のである。
いやもちろん、僕も、「イライラ対処」とか言って、完全愚痴を書き連ねている場合がある。
でも、それはどっちかというと、一時的な対処であって、本来の目的は、(僕自身の)生きる意味を徹底して明らかにすることである。(キリッ)
とかって言うと、ものすごく引かれる可能性が高いので、気を付けようという記事であった。
EDENのセシィの死
唐突に話が変わる。僕が高校ぐらいかなぁ、に、友人に紹介されて衝撃を受けた作品、遠藤浩輝さんの「EDEN~It's an endless world!~」という作品があるのだけれども、マヌエラさんはヘロインさえ絡まなければセシィをまっとうに愛していたようにしか読めないのだが、なぜ肘パカ刃物女を使う必要があったのかさっぱりなのだ。亡命するために娘を囮に使った、まではわかる。だが、それならそれだけで良かったはずである。肘パカなぞ雇う必要はまったくなかったように思える。そのまま娘は放置して亡命すれば良かったのではないか。なぜそこでセシィを積極的に害する必要があったのか、コレガワカラナイ。
と、感想を書いて頂いた方がいらっしゃったので、少し考えてみたい。
といっても、「何故セシィが死ぬ必要があったのか」ということは、特に何も考えていなかった。
確かに、非常にショッキングなシーンであったけれども、まさか、彼女がここで死んでしまうなんて思ってもみなかったけれども、でも、単なる事故死みたいなもんだろうとしか思わなかった。
結論。特に、意味は無い。
いや駄目だ、彼の方は、「確かに、現実は無常で無意味な死なんて仰山ある。だが、物語とは、そうであってはならない。主要な人物については、外連味でもいい、強い意味をもたせなければならない」と仰っている。のであれば、そんな、無意味で片づけることはできないだろう。
ただ、やはり、セシィが死んでしまったのは、肘パカサイボーグが彼女を殺したのは、特に然程の意味はなかろう。肘パカサイボーグは、殺しを愉しむ残忍な奴だという設定はあったし、マヌエラを連れ出す際に警備員や治療施設の患者などを殺害する手口について、「これは外部の犯行だ(マヌエラの彼氏のペドロの手口ではない)」と言われていたほどである。
さらに、マヌエラは、確かに表面的には子供をまっとうに愛しているようにも見えなくもなかった。治療施設で楽しそうにセシィとテニス(バトミントン?)を行う姿はほほえましい。だが、マヌエラは、過去に、薬欲しさに子供(セシィとは別)を売り飛ばすような前歴もある。そして、実の子のセシィもまた、母が自分のことをそれほど愛していないということに薄々気づいている。
セシィをさらって、どうするつもりだったのか?
という疑問については、大方、スナッフムービー専門の人さらいにでも売り飛ばしたのではなかろうか。もしくは、肘パカさんの報酬の一部だったとか。
ただし。セシィの死自体に意味はなくても、物語としては、その死は必然だったようにも思える。
主人公のエリヤくんは、最終的に、黒幕のペドロさんの弟と、マヌエラさんとを狙撃し殺害する。愛した弟と彼女(マヌエラ)を失ったペドロは絶望し自殺を図るわけだが、果たして、エリヤは、セシィの死を聞かなかったら、マヌエラの頭を撃ちぬいただろうか?
おそらく、マヌエラまで殺すことはなかったろう。例え、本当に娘を愛していなかったとしても、セシィにとって、マヌエラは唯一の肉親、母親なのである。エリヤの目的は、内務省の思惑のため、ペドロの弟の機密情報の流出阻止(及びペドロにツケを支払わせる)ことだったので、マヌエラまで殺す必要はなかった。だが、結果的に、愛しい女と弟を殺し、絶望のうちに自殺させるという、(虚しい)復讐を果たしたのである。
セシィの死には意味は無かった。しかし、物語の進展には、大きく影響した出来事であったのだ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれども、この作品、その「無意味な死」というのがテーマそのものであるようにも、僕は勝手に思っている。
作者自身(※)、「連載を続けている途中で、何が書きたいか分からなくなったときもあった」と仰っていることもあったので、実際どうなのかは分からないけれども、個体としての死は無意味でも、大きな物語としては意味があったりする……でもそんなの詭弁だ! 俺は(私は)死ぬのなんてまっぴらだ! と。
じゃあどうすりゃいいんだ、と。そんな風に物語は進んでいく気がする。たぶん。そして、一応、前にどっかで書いた気がするけれども、「それでも人は生きていく」的なエンディングではあるのだけれども、その「無意味な死」というのに対して、ある程度の「回答」は描かれているので、この作品は、僕の書棚に今も置いてあるのである。(アイアムアヒーロー、お前は、次の整理対象だ!!)
※そうそう、実は、コミック表紙の裏の折り返し部分には、毎回、作者のコラムが載っていて、それが非常に面白いのである。僕のブログのべらんめぇ調は、結構それに影響を受けている気もする。キンドル版では、そのコラムは読めるのだろうか……?
(なんか、まだ書き足りない。しかし、でかける予定があるのでここまで。来週もまた、平日は殆ど時間が取れなそうだ。気が重い。やはり平日のどっかしらで整理する時間がないと、気がめいっていく気がする)
今日の一言「少し直近のことを整理しよう」「書かなければ落ち着けないという哀しい性哉」
とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
政治について
(この章は、先日メモしたものである)とある国々で、大統領選挙が迫っているという。
このブログでは、政治・宗教に関する主張は一切行われない。どういった政党や政策が良いだとか、どの宗教が正しいだとか、そういうことは一切書いたことはないし、これからも書かれないだろう。
理由は、無意味だからである。政治や宗教は、「信仰」の問題である。または、「ゲーム」である。議論の様相を見せることがあっても、議論にならない。ある「正しいこと」について、他者をどれだけ多く巻き込めるか、その点だけが重要なのである。
しかし、これらの問題は、「自己」という、極めて個人的な問題を考えるにおいても、無視することはできない。何故ならば、自己もまた、単一で成り立つ独立した存在ではなく、他者を始めとるする関係性の中で存在するものだからである。
この感覚については、納得のいかない人も多いだろう。「自分は自分だぜ!」と思う人もいるだろう。このことも、ある意味宗教的な……というと語弊があるが、「信仰」に過ぎないものである。「どの次元での成立(存在)を前提としているか」によって、自己と環境との関係性に係る実感は変わってくる。
先に、このブログでは「政治宗教は扱わない」と書いたが、この意味は、「信仰全般」を扱わないという意味である。もっと厳密に書けば、「誰かが正しいと思っていることについて、それを否定するつもりはない」ということだ。
このことを前提として、それでも、「政治問題」「国際情勢」については、考えたり、情報収集しておく必要はある。
ただそれは、「みなさん、ちゃんと選挙には行きましょうね」という主張なのではなく(※)、どういった仕組みで法律が、政策が決まっていくのかという仕組みを理解することが先決である。と、同時に、どういった社会(政治)が、自分にとって望ましいのか、何が「幸せ」なのかということについて、考えておくことが必要であるということだ。
医療、老後(年金)、子ども、教育、外交(防衛)、経済。
様々な問題がある。それらを、一発で解決できる法律も存在しなければ、政策も存在しない。ちなみに、どんな政策も、基本的に「法律」に拠っていることについて、覚えておいてよいだろう。政治とは極論、法律をつくる仕事だ。僕らの生活は、基本的に、法律のもとに成り立っているのである。役所に行けば、住民登録されているのが分かるけれども、それだって、住民基本台帳法という法律で、どんなことを書かなければいけないかなど決まっている。それは社会保障など、明らかに政治に関係しそうなことだけでなく、経済活動だってそうだ。消費者向けの法律は製造物責任法が有名だろうが、会社法など、僕らの所属する組織だって法律で定められたことに則っている。
※でも、路上のデモ活動とか、ヒップホップで政治批判とか、飲み屋の愚痴でも何でもいいけど、そういったことを言ったりしたりする人たちは、当然、選挙には行っているんだよね? とは思う。国会で通過した法案について、「やめろ! 廃案だ!」とか言ってるのは、手遅れである。もちろん、まったく無意味とは言わないが、それよか、議員の方々に嘆願書を送ったほうがよい。もっといえば、そんな法案を通過させてしまうような議員を選んでしまったことが問題なのである。
ただし、この問題は、そう単純でもない。何せ、どの議員が、どんな政治信条をもっているかなんて中々分からないし、それが、さらに事細かな政策について(例えば、漫画やアニメの表現の自由についてとか)にまでどんな感覚をもっているのかだって、分からないのである。Aという政策に共感したからα議員に投票したけど、その人は実はBという政策も主張する人だったとして、Bという政策はほんっとうに許せないと思ったとしても、後の祭りである。であれば、できることはデモくらいになる。
余すことなく主義主張と思考を書く
なんでこんな、政治に関するリスキーなことを書いたかというと、そろそろ、「自己」に関することについて、大体全部書ききったような気がしているからだ。2016年5月の記事において、以下のキーワードを挙げていた。
「生きる意味」「肯定感」「潜在意識」「ポジティブ」「ネガティブ」「対人関係」「コミュニケーション」「苦悩」「苛々」「ロジック」「整理」「感情処理」「空(仏教)」「宗教」「科学」「記憶」「アイデンティティ」「ストレス」「小説」「エンターテイメント」「創作」「凡人」「仕事」「価値観」「ルーチン」「学習」「計画」「目標」「目的」「死」「理想自己」「幸せ」「自己実現」「真実」「永続性」「アウトプット」「インプット」
多分、それぞれのキーワードについて、僕がどういった感覚(実感)をもっているのかは、大体全部書き終わっていることだろう。
もちろん、具体的な方策だとか、その記載内容を深めたり、表現の見直しなどは必要だろうと思う。ただ、例えば「幸せ」「死」なんていうキーワードで記事を書いたところで、これ以上はあまり変化は見られないだろう。
であれば、もうちょっとそういったキーワードを体系的に整理するか、もしくは、違った視点から書いていく必要があると思うわけである。
生きる意味とは自分を知ることである
ある方からコメントを頂き、うんうん、なるほどと首肯した。しかし、同時に、何か、違和感があるのである。
それが何か、はっきりと表現できない。彼の方が真理に到達し、自分が到達できていないことへの焦りや瞋恚があるのだろうか?
恐らく、だが、「自分」への拘りについての危険を思っているのだろう。
僕は昔(いや、今もだろうが)、自分の内面をとことん探っていった。しかし、現在の結論としては、「自分」というものは、世界(物理的かつ精神的な全てを含む概念として用いる)を、他者と分けて考えたものであるということだ。
故に、自分を知るというのは、自己の内面の深淵に到達するという行為では成しえないものだと思っている。何故ならば、自分と他者との境界というのは、非常に曖昧であると考えられるからだ。
ということは、自分を知るというのは、その他者との境界線を引いていくという作業を指すことになるが、明確なラインを引けたところで、その根拠は覚束ないものに他ならない。その瞬間、その環境では「自分」の定義ができたところで、次の条件では変わってしまうことがどうしても起こるだろう。
そんな風に感じるようになってから、僕は、「自分」というものに拘ることができなくなっていった。
こんな表現をすると、いやそもそも、お前はお前に過ぎないだろう? と思われるだろう。
そのとおりであり、物理的身体としての自分というものは、否定できるものではない。
僕は、僕として存在する。そのことについて否定したところで、何ら意味は無いだろう。
しかし、否定はしないけれども、積極的に肯定することもできない。
自分を否定して生きる意味を考えることはできない
自分、を、前提に置かずして、そもそも文章は成り立つのだろうか?先日、「頭がいい人はすごいなぁ」と取り上げた文章の一つに、「文章は所詮、一人称になってしまう」というものがあった。思考には論理性、事実には再現性が重要であるという、あれだ。
しかし、世界の真理がどうであれ、個人として、自分として、世界に対してどう生きるのかということを問うときに、その問いを放つ主体、それを「自分」というわけであるが、その自分を考えないで、そもそも生きる意味など考えることなどできないに違いない。
1.生きる意味を考える ならば 自分が存在しなければならない
2.自分が存在する ならば 生きる意味を考えなければならない
ここで、2.は矛盾である。しかし、
3.私は遠藤である
4.遠藤である ならば 生きる意味を考えなければならない
というのは、今のところ、真である。
では、
5.幸せである ならば 生きる意味を見つけられている
6.生きる意味がなければ幸せではない
というのは成り立つだろうか?
そもそも、問いが矛盾なのだろうか?
いや、問いをすること自体に、正も偽も存在しない。問いの内容が正しいか、矛盾かどうかである。
その、文章のことを、論理学では「命題変項」という。真偽というのを、「命題定項」という。
生きる意味があることの証明
証明、なんて仰々しい言葉を用いたが、ただの言葉遊びである。ただ、自分は、生きる意味があることの証明をしてみようと思う。
1.意味とは価値のことである
2.価値は、相互関係(影響)により生じる
3.私は生きている
4.生きているならば相互関係が生じる
5.私は生きていて(3)、相互関係を生じさせているから(4)、価値がある(2)
6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
7.6を簡略化すると、私には生きている意味があることを導ける
[以上証明完了]
なんてつまらない証明だろうか!
しかし、僕は普段から、「ああ、僕なんて、生きている意味があるんだろうか……」なんていっているが、しかし、上の証明の次元においては、生きる意味があることを、ちっとも疑っていないのである。
しかし、上の証明が、多くの、自殺を企図する人たちに、何ら救いにならないことは明らかである。
では、何が足りないのか?
……。一見、矛盾は見当たらない。しかし、不思議と、上の証明は嫌悪される。何故か? どこに綻びがあるのか?
それは、いっちばん最初からである。つまり、意味とか、価値の定義がよろしくないのである。
意味とは
いや、定義自体は間違っていない。ただ、「生きる意味とは何だろうか?」と問うときの言語表現には、言外の意味が込められているのである。それは、「生きる【良い】意味とは何だろうか?」ということだ。
良い。
このカッコ内の言葉は、良いでも、充実したでも、幸せでも、何でもかんでも構わない。
ここで分かることは、「意味」という言葉を用いたとき、僕らは、非常に「恣意的な」意味を内包させているということである。
例えば、「無駄な意味」という表現は成り立つのだろうか?
僕は、成り立つ、と思う。ただし、意味という語に、「価値」という同義語をあてるならば、成り立たなくなるだろう。
価値とは何か? それは、「良い」とか「役に立つ」性質や程度のことである。無駄、というのは、役に立つという語の反義語である。ということは、無駄な価値というのは、形容矛盾である。
しかし、広義にとらえるならば、無駄な価値(反価値)を含めて、「価値」という語で表現することも構わないだろう。
ただし、こういった言葉の用い方は、言葉遊びに過ぎないだろう。言語は、文脈において意味を放つ。「価値がある!」といったときに、「無駄だ!」という意味を込めて叫ぶ人はいない。
価値という語自体には、反価値という意味が込められていようが、文脈においては明らかに「役に立つ性質」という意味で用いられるのである。
話を戻す。
生きる意味とは何か。
さっきの証明からもう一度引用しよう。
>1.意味とは価値のことである
>2.価値は、相互関係(影響)により生じる
2.の、相互関係を生じさせるもの、ということだが、ここに、「良い」という意味を含ませてみる。
そうすると、中間的な表現はすっ飛ばして、
>6.私が生きていること(3)は価値がある(2)ことだから、意味がある(1)
という部分に、
「6.私が生きていること(3)は【良い意味での】価値がある(2)ことだから、意味がある(1)」
という「良い性質」を加えてみて、もう一度考えてみる。
さぁ、遠藤くん、君は、良い相互関係(影響)を生み出しているのだろうか?
良い影響
生きる意味を考えることは意味がある または 生きる意味を考えることは無意味だ上の論理式は、真(正しい)ものである。
意味があるかは不明であるが、論理的には正しい。
何故ならば、悪魔の証明のように、どちらの文章(命題変項)も、100%証明することは不可能だからである。
生きる意味が完全に無意味だということを、証明できる人はいるだろうか?
「俺は、そんな難しいこと考えることは、絶対に無意味だと思うね!」
という人がいたとしよう。しかしそれは結局、一人称の文章である。論理的ではない。再現性もない。
そう、君がそう思うならそうなんだろうね。と言われるレベルである。
しかし、逆もしかり。
生きる意味を考えることは絶対に正しい! と言い切ることもできない。
そうなってくると、だ。
結局、最初に取り上げた、彼の方の仰る通り、「信じられるのは、己の感覚のみ」みたいなことになってくる。
思考によってこねくりまわされた論理や言葉には、感情がこもっていない。実感がない。それらは、ふぅと息を吹きかけるだけで飛んで壊れてしまうような、幻影に過ぎないのではなかろうか。
そうするとやっぱり、自分とは何かってのを、とことん突き詰めていくしかないってことなのか。
きっとそれは正しいのだ。
にもかかわらず、僕は、まだ、違和感を覚えている。何故か?
それは、良いという感覚自体もまた、盤石なものとは思えないからなのだ。(最初に書いた違和感のように、自分と他者との境界線が曖昧である以上、自分の感覚というものが絶対的な拠り所であると思えないという事態に起因しそうだ)
であれば僕は何がしたいのか?
僕は何なのか?
僕は誰なのか?
(続く……のか? 例えば、「良い」というのが良く分からないと書いたけれども、先日の「ぐちゃー」っとした記事について、書いているときは本当に消そう消そうと思っていたし、次の日にも消そうと思っていたのだけれども、拍手ボタンが2回という表示になっていたため、ああ、じゃあ消さなくてもいいかなって思い始めてしまった。ということは、僕自身の「良い」という感覚は、他者の評価によって簡単に翻ってしまうものなのだろうか。だがこのことも、人間としてはさほど不思議ではない。例えば、良いのか悪いのか分からないような作品ができあがったときに、自分の尊敬する方が、「おお、これは面白いじゃないか」と言ってくださったら、そりゃあもう傑作を生みだしたような気持になるのではなかろうか。そして、そんなときの評価ってのが、実は嘘や欺瞞だったとき、「裏切られた」という心性は高ぶるのではなかろうか。でもそれって、勝手な感情に思える。結局、芯をもって、自分を信じられていれば、他者の流動的な評価になど惑わされずに済むのだから。)
汎用型支援ロボット(007)
ただ、そんなことを思ってもどうせ、見た目がいくら精巧でも、所詮は機械に過ぎない。オンラインゲームの、NPCに話しかけるような、そんなものだ。僕のこの、得体のしれない不快感だって、こいつは分かるはずがないのだ。
「……ん?」
しかしそいつは、僕の言葉に、目を大きく見開き、口を小さく開けて眉尻を下げた。「驚いている」そういった表情だった。紛れもなく。
「申し訳ございません。伊吹純也(いぶき じゅんや)様。29歳。男性。既にそのようにセットアップされております。私が申し上げたかったのは、お名前をどのようにお呼びしたらよいかということです。愛称などで呼ばれたいという方も多いと理解しております」
理解、ね。
テキストベースの、人工知能が発明されたのは、1960年代だったという。それは、人が適当に書き込んだ言葉に、簡単な反応をすることができたらしい。「疲れた」といえば、「どうして疲れているのですか?」とか、反応する。当時はそれでもすごいと話題になったみたいだが、そのうち、結局ランダムで言葉を並べているだけで、「人工無能」なんて呼ばれて、すぐに飽きられたとのことだ。
結局、今のこいつの言葉も、プログラミングされ組み込まれた、ただの音声に過ぎないだろう。こいつが、自分で考えて、納得し、知識として獲得したなんてことはないのだ。
そんなことを思うと、何だか、急激に気持ちが冷めてきた。新しい電子製品、例えば、スマートホンだとか、パソコンだとか買ったときは、どんなことができるのか、使い勝手はどうなんだろうと、とてもワクワクした気持ちが生じてくるものだ。しかし、これは、何か、違う。物ではない。
(続く)
