今日の一言「どぅいとゆあせるふ」「正解するカド面白き」
そいで、土曜日は野暮な用事で殆ど着手できなかったが、今日は6時間ぐらいガリガリとプログラムを書いていた。要件まとめたり超簡易的な自分にだけ分かるような設計書を作ったり作業含む。
日曜大工もそうだけど、専門外の人がなんか作ることをDIY:Do It Yourselfというようだ。
何かつくるのって楽しいよね。
しかし、プログラムのDIYは、棚とか椅子とか家の修繕工事とは違って、あんまり形に見えにくいから、すごーいとか女の子にもてたりはしなさそうだ(残念)。
単純なミスでつまってしまって、時間をロスしてしまったが、SQLも何となく感覚で使えるようになってきた。まぁ仕事に役に立つかと言ったらまったく関係ない。関係ないから趣味なのである。
趣味とは何か。趣味とは、余暇に主体的に行うことである。余暇とは、24時間から、睡眠や勉強や仕事など必要時間を差し引いた、可用時間のことである。
仕事が趣味な人は、一日の過ごし方が、睡眠or仕事となる。本来効率が良いような感じもするが、しかし、消費活動がなければ経済は発展しない。では、消費活動が発展するには何が必要か。人口が多くなることである。しかし、日本では人口が減ってきている、そうすると、経済発展が望めない。しかし、世界規模では人口が増えている。海外市場はまだ望みがある。
結果、4000円ぐらい利益が出た。
何もしなくても、お金が生まれたということ。この感覚は、とても不思議である。
お金がお金を生むということ。これは不思議な感覚である。
考えてみれば、銀行にお金を預けていても、利子がつくのである。お金を預かってもらっているのに、プラスアルファでお金をもらえるなんて、素晴らしい! と思う人もいるかもしれない。しかしこれは考え方の誤りであり、銀行に、自分のお金を「貸している」のである。銀行に、貸しているのだ。国債を買う人は、国にお金を貸しているのだ。株をやっている人は、どっかの企業にお金を貸しているのだ。
貸す、というのはリスクである。戻ってこないかもしれない。ので、大事なのは、「信用」である。国という制度が必要なのは、その「信用」の担保である。年配の人だと、電子マネーを不思議に思う人がいるかもしれない。お金と言ったら、給料袋に入った現ナマなのだと。しかし、そんな紙切れを何故ありがたいと思うのか。その紙切れを使えば、美味しいものを食べられたり、女の子からちやほやされたりできるという「信用」(安心)があるからである。
であれば、「信用」を担保できるなら、むしろ現物である必要はない。……という発想から、ビットコインとか仮想通貨という概念も生まれたのだろう。
で、現実と、お金の価値(信用)との乖離が大きくなることをなんというか?
バブルである。
基本は、生産と消費の関係がある。
まず面白いのは、おっさんおばさんがメインキャラクターであることだ。レクリエイターもおっさんが出てくるが、メインは中学生? 高校生である。別に中高生が主人公でも悪くはないのだが、やっぱりちょっと考えるネタになりそうな、攻殻機動隊とかサイコパスとかもいいものである。正解するカドも面白いランキングインしそうだ。
いや別に、ちょっと小難しい作品を面白いと思える俺ってカッコいいとか、そんな高二病? 大二病的なわけではないが、善人が悪人を斃す、というストーリーにちょっとばかり飽きているというのはあるだろう。(とはいえ、自分では、剣と魔法と竜と神と、王道コテコテの作品を書きたいと思っているのだが)
面白いポイントその1。ネゴシエーター(哄笑人……もとい交渉人)という特殊な職業にスポットして、それをストーリーの軸にしていること。いや別に単なる官僚さんなのだが、数々の難しい折衝をこなしてきた敏腕が主人公であり、次なる交渉相手は、なんと宇宙外生命体であったと。これは冒頭かなり惹きつけられる。
面白いポイントその2。「俺たちは神じゃあない。だから、何が正解かを、ずっと考え続けていくしかないんだ」という台詞。シンドーさん……、俺はちょっと感動したよ。いや分かってる、分かってた。俺もそう思ってた。答えなんて分からない。その都度、最善最良と思われるものを、考え続けていくしかないんだと。しかし最近、考えることに疲れてしまっていた。いやまぁ、生きる意味を徹底して考える、ってのは、もはやライフワークというか、逃げることも許されない前提みたいなもんだから、それはやらざるえないんだけど、特に仕事の上で疲れていた。あっちを立てればこっちが立たない、よかれと思ったことが叩かれるということが続いて、もうどっちでもいーんじゃねーか、俺はもう知らねーよ。って気にもなってきた。
いや、駄目だな。win-winにならんでも、せめて、自分が判断した根拠ってのは、しっかりもっていきたい。失敗だろうが成功だろうが、どちらにせよ自分で決めていかねばならんだろう。
面白いポイントその3。政府関係者とか前向き。マスコミも足を引っ張らない。何か、会議とか、政府とかって、事なかれ主義的に、足を引っ張り合うとか(見てないけど、シンゴジラってそんな感じだったと噂ぎく)、時間だけを浪費していくとかが多いんだけど、みんな協力して、宇宙外生命体への対応を前向きに検討し、答えを出そうとしてる。決断スピードを上げるために能力をある人を抜擢したり、現場で判断を任せたり、官民協力したりとか、何かいいね。アメリカとかの大統領が陣頭指揮とるような映画っぽい(それって褒めてるのか?)。
面白いポイントその4。人は進歩できるのか? って問いがよい。皆がそう思っているかは分からないんだけど、……というか、最近公私他者と話をしていると、どうにも、僕の感じているもやもやしていることが、殆ど伝わりさえしないということが、哀しく感じている。
それを、実存的空虚感とか、生きがいの喪失とか、閉塞感とか、まぁいろんな表現はあるのだろうけれども、世界が、ますます良くなっていくとか素晴らしくなっていくとか、そんな感覚を抱けない状態。
もちろん、部分的幸福とか、豊かさってのはある。けれども、相も変わらず戦争やテロは起こって、医療介護の問題が山積みで、学校ではイジメがあって、会社では出世競争で、金融市場では貧者や格差が生まれと、あんまし希望がないイメージがある。
そういった暗いイメージってのは、もう何十年も続いていて、例えばその解決方法として提唱されたのが、エヴァンゲリオンだと、人類補完計画である。ATフィールドという個々人の境界(絶対領域)があるから争いや疎外が生まれるんだから、そんなの全部とっぱらって、みんな一つになればいいんだよ! と。ハルマゲドン的解決、と僕は読んでいる(今決めた)。GUN×SWORDとか、フルメタルパニックとか、その辺が同様。
それでもって、EDENもそうなんだけど、EDENの場合は、もういっそのこと●●しちゃおう(ネタバレをいまさら気にして伏せた)というものであり、僕はちょっとばかり、新しい希望をみた気がした。
サイコパスは、集合的統合意識によるシステムの徹底によって、社会システムを構築しようとするもの。ふむふむ、面白かった。
なんかそういった、世界に対して何らか言及するような作品が好き、というか必要としている。レクリエイターは、うーむ、確かに、アニメやゲームから出現したキャラクターが、世界の変質を望む、ということで、面白いことは面白いのだけれど、既存価値観(※)へのテーゼにもアンチテーゼにもなっていない点が惜しいところ。
そいで、今回の正解するカドは、なんと、宇宙外生命体様が、無限エネルギーを提供してくれるってもんだからどうしたもんか! なるほどすべての戦争は、経済的貧困から起こるものであるといっても過言ではない。宗教戦争などなかった。掲げるべき大義は別として、幸せになりたいという人の欲望によって争いは起こる。
何故欠乏が起こるのか。それは、世界の物資が、有限であるからだ。
では、果たして、「無限」という概念があったときに、国家は、世界は、人は、人類は、どういった世界を創ることができるのか?
……といった問いかけする部分まで見た。その先どうなるか分からない。というか、そういったテーマなのかもわからない。けれども、先がみたい、知りたいと、強く思わせてくれる作品であった。
※既存価値観なんていう抽象表現で逃げようとしているのが、まったくせこい奴である。なんというか、まず「僕フィルター」がかかるのは、「空虚感」「閉塞感」を前提にしているか、という点である。その辺の共有性、共感性がないと、僕は本気で手放しで面白い! 感動した! ってのはならない気がする(※※)。
※※いやしかし、それはちょっと別次元だな。クレヨンしんちゃんの映画とか、ふつーに感動するが、それって「既存価値観云々」とは全く別次元な気がする。進撃の巨人も、別にそんな方面で面白いとか思っているわけじゃなさそうである。アラビアの夜の種族も普通に面白いのである。まぁなんというか、「面白い」にも「感動」にもいろいろ種類があるのであって、一概にそのどの感情が優位だとか低位だとか、嘘だとかホントだとか、そんなことはあんまし関係ないのである。
ただ、しかしながら、アイアムアヒーローにがっかりしたのは、前者の「価値観」部分での期待が大きすぎたってのはある気がする。
キノの旅という小説があるけれども、あれのどっかの巻に、労働がなくなった国の話がのっていた。衣食住の生産その他すべて、ロボット・機械がやってくれている国。すばらしいユートピアじゃないか! と思いきや、退屈した人々は危険な娯楽に興じて……とかだっけ、オチは完全に忘れてしまった。
ただ、昨今の労働ってのは、見直されるべき段階であるようには思う。効率化する、成果をあげる。しかしだ、本当は、効率化したんだったら、ゆとりや休みが増えるのではなかろうか。違うのだ、拡大再生産である。効率化した業務によって生じた時間を、さらなる成果に結びつく業務にあてる。そしてさらにそれを効率化して……と繰り返す。
いや違うのだ。仕事というのは、実は、僕らの脳神経細胞の本能である、知りたい・仲間になりたいという欲求によって、会社という組織が必要とされ、拡大していったものなのだ。人はもともと、誰かと協力して何かを成し遂げたいと思う生き物なのである。いやいや俺はデイトレードで金をもうけられたらいいんだ、会社なんて組織に加わるもんか! って人も、ひろーく、資本主義という組織(システム)に参加して、成果を出そうとしているのである。
株なんて、あぶくぜにだ。やっぱり人は、労働によって金銭を得て生きるべきだ、という人も同様。地域ボランティアに参加する壮年期老年期の方々も同様。みんな何かに属して、何かを成し遂げたいのである。
という、欲求が皆にあるという前提で。すべての活動に必要な生産が、ロボットによってなされるようになったとしたら、どんな世界になるだろう、というのを考えるのも面白いと思う。なるほど、ロボットをメンテナンスしたり、その部品をつくる仕事は残るじゃないか? というのはあるかもしれない。けれども、もっと推し進めれば、それらも、ロボット自身でできるようにもなるだろう。本当に完全に、生産の必要性がなくなった世界。
人は、ただ消費をするだけの存在となる。
退屈しだした人は、危険な遊びを考えるようになるかもしれない。ロボットが野菜も生産してくれるが、やっぱり自分で家庭菜園をやりたいと思う人が出てくるかもしれない。文芸・芸術は栄えるだろうか? それとも刺激がなくなったことで衰えるのだろうか。
とかってことを考えていると、あっという間に休みがなくなってしまう。
特に目新しくもなく、みんな考えているようなことだろうけれど、近況のメモということで走り書き。
(土日ともども、猛烈に眠くなって床で倒れるように寝てしまっていたのが数時間ある。非常にもったいない気はするが、あの獰猛な眠気はもはや如何ともし難い。そして、そんな寝方をすると、夢をみるのである。何かもう忘れてしまったが、仕事している夢とか、過去のうんたらの夢とかで、何とも気分が優れないものである南無)
自サイト改修工事
パソコンの調子もあいかわらずよくないため、USBデバイスが激しくピコピコ接続したり認識外になったり繰り返し始めたりして、BIOS:Basic Input Output Systemをいじったり、WINDOWSのデバイスマネージャーでドライバを削除したりと色々試している。そいで、土曜日は野暮な用事で殆ど着手できなかったが、今日は6時間ぐらいガリガリとプログラムを書いていた。要件まとめたり超簡易的な自分にだけ分かるような設計書を作ったり作業含む。
日曜大工もそうだけど、専門外の人がなんか作ることをDIY:Do It Yourselfというようだ。
何かつくるのって楽しいよね。
しかし、プログラムのDIYは、棚とか椅子とか家の修繕工事とは違って、あんまり形に見えにくいから、すごーいとか女の子にもてたりはしなさそうだ(残念)。
単純なミスでつまってしまって、時間をロスしてしまったが、SQLも何となく感覚で使えるようになってきた。まぁ仕事に役に立つかと言ったらまったく関係ない。関係ないから趣味なのである。
趣味とは何か。趣味とは、余暇に主体的に行うことである。余暇とは、24時間から、睡眠や勉強や仕事など必要時間を差し引いた、可用時間のことである。
仕事が趣味な人は、一日の過ごし方が、睡眠or仕事となる。本来効率が良いような感じもするが、しかし、消費活動がなければ経済は発展しない。では、消費活動が発展するには何が必要か。人口が多くなることである。しかし、日本では人口が減ってきている、そうすると、経済発展が望めない。しかし、世界規模では人口が増えている。海外市場はまだ望みがある。
株のこと
先週株を始めた。初めて始めたときの感覚をメモしておきたかったけれども、あっという間に時間が過ぎてしまった。結果、4000円ぐらい利益が出た。
何もしなくても、お金が生まれたということ。この感覚は、とても不思議である。
お金がお金を生むということ。これは不思議な感覚である。
考えてみれば、銀行にお金を預けていても、利子がつくのである。お金を預かってもらっているのに、プラスアルファでお金をもらえるなんて、素晴らしい! と思う人もいるかもしれない。しかしこれは考え方の誤りであり、銀行に、自分のお金を「貸している」のである。銀行に、貸しているのだ。国債を買う人は、国にお金を貸しているのだ。株をやっている人は、どっかの企業にお金を貸しているのだ。
貸す、というのはリスクである。戻ってこないかもしれない。ので、大事なのは、「信用」である。国という制度が必要なのは、その「信用」の担保である。年配の人だと、電子マネーを不思議に思う人がいるかもしれない。お金と言ったら、給料袋に入った現ナマなのだと。しかし、そんな紙切れを何故ありがたいと思うのか。その紙切れを使えば、美味しいものを食べられたり、女の子からちやほやされたりできるという「信用」(安心)があるからである。
であれば、「信用」を担保できるなら、むしろ現物である必要はない。……という発想から、ビットコインとか仮想通貨という概念も生まれたのだろう。
で、現実と、お金の価値(信用)との乖離が大きくなることをなんというか?
バブルである。
基本は、生産と消費の関係がある。
正解するカドが面白い
話は華麗に変わる。ある方が、「正解するカド」という作品が面白いと書かれていて、見てみることにしたナニコレ面白い。まず面白いのは、おっさんおばさんがメインキャラクターであることだ。レクリエイターもおっさんが出てくるが、メインは中学生? 高校生である。別に中高生が主人公でも悪くはないのだが、やっぱりちょっと考えるネタになりそうな、攻殻機動隊とかサイコパスとかもいいものである。正解するカドも面白いランキングインしそうだ。
いや別に、ちょっと小難しい作品を面白いと思える俺ってカッコいいとか、そんな高二病? 大二病的なわけではないが、善人が悪人を斃す、というストーリーにちょっとばかり飽きているというのはあるだろう。(とはいえ、自分では、剣と魔法と竜と神と、王道コテコテの作品を書きたいと思っているのだが)
面白いポイントその1。ネゴシエーター(哄笑人……もとい交渉人)という特殊な職業にスポットして、それをストーリーの軸にしていること。いや別に単なる官僚さんなのだが、数々の難しい折衝をこなしてきた敏腕が主人公であり、次なる交渉相手は、なんと宇宙外生命体であったと。これは冒頭かなり惹きつけられる。
面白いポイントその2。「俺たちは神じゃあない。だから、何が正解かを、ずっと考え続けていくしかないんだ」という台詞。シンドーさん……、俺はちょっと感動したよ。いや分かってる、分かってた。俺もそう思ってた。答えなんて分からない。その都度、最善最良と思われるものを、考え続けていくしかないんだと。しかし最近、考えることに疲れてしまっていた。いやまぁ、生きる意味を徹底して考える、ってのは、もはやライフワークというか、逃げることも許されない前提みたいなもんだから、それはやらざるえないんだけど、特に仕事の上で疲れていた。あっちを立てればこっちが立たない、よかれと思ったことが叩かれるということが続いて、もうどっちでもいーんじゃねーか、俺はもう知らねーよ。って気にもなってきた。
いや、駄目だな。win-winにならんでも、せめて、自分が判断した根拠ってのは、しっかりもっていきたい。失敗だろうが成功だろうが、どちらにせよ自分で決めていかねばならんだろう。
面白いポイントその3。政府関係者とか前向き。マスコミも足を引っ張らない。何か、会議とか、政府とかって、事なかれ主義的に、足を引っ張り合うとか(見てないけど、シンゴジラってそんな感じだったと噂ぎく)、時間だけを浪費していくとかが多いんだけど、みんな協力して、宇宙外生命体への対応を前向きに検討し、答えを出そうとしてる。決断スピードを上げるために能力をある人を抜擢したり、現場で判断を任せたり、官民協力したりとか、何かいいね。アメリカとかの大統領が陣頭指揮とるような映画っぽい(それって褒めてるのか?)。
面白いポイントその4。人は進歩できるのか? って問いがよい。皆がそう思っているかは分からないんだけど、……というか、最近公私他者と話をしていると、どうにも、僕の感じているもやもやしていることが、殆ど伝わりさえしないということが、哀しく感じている。
それを、実存的空虚感とか、生きがいの喪失とか、閉塞感とか、まぁいろんな表現はあるのだろうけれども、世界が、ますます良くなっていくとか素晴らしくなっていくとか、そんな感覚を抱けない状態。
もちろん、部分的幸福とか、豊かさってのはある。けれども、相も変わらず戦争やテロは起こって、医療介護の問題が山積みで、学校ではイジメがあって、会社では出世競争で、金融市場では貧者や格差が生まれと、あんまし希望がないイメージがある。
そういった暗いイメージってのは、もう何十年も続いていて、例えばその解決方法として提唱されたのが、エヴァンゲリオンだと、人類補完計画である。ATフィールドという個々人の境界(絶対領域)があるから争いや疎外が生まれるんだから、そんなの全部とっぱらって、みんな一つになればいいんだよ! と。ハルマゲドン的解決、と僕は読んでいる(今決めた)。GUN×SWORDとか、フルメタルパニックとか、その辺が同様。
それでもって、EDENもそうなんだけど、EDENの場合は、もういっそのこと●●しちゃおう(ネタバレをいまさら気にして伏せた)というものであり、僕はちょっとばかり、新しい希望をみた気がした。
サイコパスは、集合的統合意識によるシステムの徹底によって、社会システムを構築しようとするもの。ふむふむ、面白かった。
なんかそういった、世界に対して何らか言及するような作品が好き、というか必要としている。レクリエイターは、うーむ、確かに、アニメやゲームから出現したキャラクターが、世界の変質を望む、ということで、面白いことは面白いのだけれど、既存価値観(※)へのテーゼにもアンチテーゼにもなっていない点が惜しいところ。
そいで、今回の正解するカドは、なんと、宇宙外生命体様が、無限エネルギーを提供してくれるってもんだからどうしたもんか! なるほどすべての戦争は、経済的貧困から起こるものであるといっても過言ではない。宗教戦争などなかった。掲げるべき大義は別として、幸せになりたいという人の欲望によって争いは起こる。
何故欠乏が起こるのか。それは、世界の物資が、有限であるからだ。
では、果たして、「無限」という概念があったときに、国家は、世界は、人は、人類は、どういった世界を創ることができるのか?
……といった問いかけする部分まで見た。その先どうなるか分からない。というか、そういったテーマなのかもわからない。けれども、先がみたい、知りたいと、強く思わせてくれる作品であった。
※既存価値観なんていう抽象表現で逃げようとしているのが、まったくせこい奴である。なんというか、まず「僕フィルター」がかかるのは、「空虚感」「閉塞感」を前提にしているか、という点である。その辺の共有性、共感性がないと、僕は本気で手放しで面白い! 感動した! ってのはならない気がする(※※)。
※※いやしかし、それはちょっと別次元だな。クレヨンしんちゃんの映画とか、ふつーに感動するが、それって「既存価値観云々」とは全く別次元な気がする。進撃の巨人も、別にそんな方面で面白いとか思っているわけじゃなさそうである。アラビアの夜の種族も普通に面白いのである。まぁなんというか、「面白い」にも「感動」にもいろいろ種類があるのであって、一概にそのどの感情が優位だとか低位だとか、嘘だとかホントだとか、そんなことはあんまし関係ないのである。
ただ、しかしながら、アイアムアヒーローにがっかりしたのは、前者の「価値観」部分での期待が大きすぎたってのはある気がする。
ロボットが創る社会
そいで、株のところで書いた、生産と消費の関係についてなんだけど、宇宙外生命体とか、神様の啓示やらが示される可能性はちょっと低い気がするけれども、実現するかもしれないってのは、生産のオートメーション化だよね。キノの旅という小説があるけれども、あれのどっかの巻に、労働がなくなった国の話がのっていた。衣食住の生産その他すべて、ロボット・機械がやってくれている国。すばらしいユートピアじゃないか! と思いきや、退屈した人々は危険な娯楽に興じて……とかだっけ、オチは完全に忘れてしまった。
ただ、昨今の労働ってのは、見直されるべき段階であるようには思う。効率化する、成果をあげる。しかしだ、本当は、効率化したんだったら、ゆとりや休みが増えるのではなかろうか。違うのだ、拡大再生産である。効率化した業務によって生じた時間を、さらなる成果に結びつく業務にあてる。そしてさらにそれを効率化して……と繰り返す。
いや違うのだ。仕事というのは、実は、僕らの脳神経細胞の本能である、知りたい・仲間になりたいという欲求によって、会社という組織が必要とされ、拡大していったものなのだ。人はもともと、誰かと協力して何かを成し遂げたいと思う生き物なのである。いやいや俺はデイトレードで金をもうけられたらいいんだ、会社なんて組織に加わるもんか! って人も、ひろーく、資本主義という組織(システム)に参加して、成果を出そうとしているのである。
株なんて、あぶくぜにだ。やっぱり人は、労働によって金銭を得て生きるべきだ、という人も同様。地域ボランティアに参加する壮年期老年期の方々も同様。みんな何かに属して、何かを成し遂げたいのである。
という、欲求が皆にあるという前提で。すべての活動に必要な生産が、ロボットによってなされるようになったとしたら、どんな世界になるだろう、というのを考えるのも面白いと思う。なるほど、ロボットをメンテナンスしたり、その部品をつくる仕事は残るじゃないか? というのはあるかもしれない。けれども、もっと推し進めれば、それらも、ロボット自身でできるようにもなるだろう。本当に完全に、生産の必要性がなくなった世界。
人は、ただ消費をするだけの存在となる。
退屈しだした人は、危険な遊びを考えるようになるかもしれない。ロボットが野菜も生産してくれるが、やっぱり自分で家庭菜園をやりたいと思う人が出てくるかもしれない。文芸・芸術は栄えるだろうか? それとも刺激がなくなったことで衰えるのだろうか。
とかってことを考えていると、あっという間に休みがなくなってしまう。
特に目新しくもなく、みんな考えているようなことだろうけれど、近況のメモということで走り書き。
(土日ともども、猛烈に眠くなって床で倒れるように寝てしまっていたのが数時間ある。非常にもったいない気はするが、あの獰猛な眠気はもはや如何ともし難い。そして、そんな寝方をすると、夢をみるのである。何かもう忘れてしまったが、仕事している夢とか、過去のうんたらの夢とかで、何とも気分が優れないものである南無)
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今日の一言「良い人間になりたいと誰もが思うはずなのに、気づいたら悪いことをなしている」「誰かを喜ばせることをしたいけれども、その誰かも、それが何かも分からない」
I do. 好きな曲の一つ。
近況。
新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
仕事、帰宅時間、遅い。
まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。
あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。
とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。
多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。
しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。
そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。
……。
300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。
仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
……。うーむ……。
幻想ギネコクラシーが届く。
読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。
何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。
株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。
じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。
ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
何だか、上手く、いかないし。
俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。
複雑性。
地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。
恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。
遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。
地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。
むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。
悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。
先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。
ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。
英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。
自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。
そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。
僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。
その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。
僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。
迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。
空っぽ感。
実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。
ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。
その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。
だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。
ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。
けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。
そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。
まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。
じゃあ酒は? とか。
ゲームは?
なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?
いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。
なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。
もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。
そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。
それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。
ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。
(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)
I do. 好きな曲の一つ。
近況。
新しい本や漫画を買ったり。飲み会の予定を入れたり。
仕事、帰宅時間、遅い。
まー、どこの会社もこんなもんかもしれん。忙しいのう忙しいのう。
あー、ついつい、自分の考えとかを語ってしまうことをやってしまっている。あんまり良い傾向じゃない気がする。
しかし、本来。人は、自分の心に正直であるべきだ。マナーというのは、社交辞令というのは、自分の心に嘘をつくということではない。言語を使わなければコミュニケーションをとれないのと同じ程度の、共通様式である。
とかって、そんなどーでもいいわな。取り敢えずビール飲んで、アニメ見て寝る、とかでえーんじゃないか。
「RE:クリエイター」って、アマゾンプライムで何話か見たけれど、まぁまぁ面白い。いやふつーに面白いでいーんじゃないかよ、と思うのだけれど、実際、ゲームとかアニメのキャラが現実世界に現界して、なんやかんやを繰り広げるとか、設定的に面白いと思うし、作画動画としてもきれいでいいと思うのだけれども、なーんか、びびっとこないんだよな。
多分。作品自体がどうこうではなく、今の気分にあっていないんだろうと思う。これ大事。
しかし、ふと、過去の自分の作品を読んでみるが、ひじょーに面白くない。最後まで読もうとすら思えない。これは、読んでくださった少ない方々に非常に申し訳ないと思う(作者が自分の作品を面白いと思えないなんて悲劇じゃなかろうか)のだけれども、仕方がない、嘘を思っても仕方がない。
そんなことぐだぐだ書いても仕方がなかろうと、とにかく面白い1シーンを書こうと、ワードファイルに向かう。
……。
300字ぐらい書く。うーむ、何だか気分が乗らない。
仕方がない、それじゃあ、面白い作品に触れてみよう。
……。うーむ……。
幻想ギネコクラシーが届く。
読む。うーむ、面白い。遠藤浩輝先生と似ているような似ていないような、なんかエログロナンセンスな雰囲気を感じさせる。しかし、心に刺さってこない。
もはや二次元を飛び出すべきか
まーそもそも、22時過ぎに帰ってきて、風呂入ってなんなりしていると簡単に日付変更になるので、平日に何かクリエイティブなことを、または、消費を愉しむってことは難しいのかもしれない。何か書くにしても、気分がのってきた段階で、寝る時間で中断せなあかん場合もあるし。
株の勉強もしたい、が、いやー帰ってきてからやる気が起きない申し訳ない、師匠。
じゃあ電車の中はどうか、と思うが、有価証券報告書とか、僕の小さなスマホで見るのは完全に酔ってしまうだろう。エクセルとか使わないとちゃんと分析できないだろうし。
じゃあ、早く帰ればいいじゃん。……おお、それは確かに。
ただ、まぁ、そうその……うまくいかないよな。
じゃあ朝早く行けば、何か解決するかっていうと、そうじゃないし。
何だか、上手く、いかないし。
そして次の日
上まで書いてつまらなくてやめた。俺は思うに、人の役に立つことが大事だと思う。
人は、多くの人との関係の中で生きている。こんなことは、小学生でも学び考えることではあるが、しかし、大人になるにつれてますますこの社会の、人との関係の、世界の複雑さに頭を悩ますようになっていく。
複雑性。
地獄少女というアニメを数話だけ、飛ばし飛ばしでみた。なるほど、シンプルなストーリーで分かりやすくてオムニバスでいい感じだ。が、正直な感想は、面白くなかった、となる。
恨みの晴らし方も何だか、すっきりしない。人を呪えば穴二つということで、自分も死後地獄に堕ちることが約束される。伝えたいことがよく分からない。啓蒙にもならないし、すっきりもできないとは、中途半端に思う。が、続編が続々決まっているらしい。人気はあるんだなぁ。
遠藤浩輝氏の短編集に掲載されている、ある死刑囚の物語。何人の女性も強姦して殺している凶悪犯に、命からがら助かった被害者女性が、罪の意識は感じる? と問う。凶悪犯は、あー、まったく分からんわ。いっぺんピストル使って人殺してみたかったわー、とか言っちゃう。それぐらいキまってた奴の方が面白い(この表現は如何か)。
地獄少女の敵役(悪者)は、なんか、単に人間の邪悪な部分の表出でしかない。若い男と不倫する女が近所の奥さんに罪を擦り付けて、いじめるとか。花形高校野球ピッチャーが、気まぐれで部員をバットで殴って死なせちゃうが、他の部員に罪を擦り付けるとか。
なんというか、「現世の楽しさ」を思い、欣うという理由での「罪」(恨み)である。
そこに、信念も執着も何もない。ただの軽率な行為。敵役としてもあまりにもお粗末。が、まぁそれって人間っぽいなとか思うけれども、面白い作品かと言われたらつまんねーっとなる。
むちゃくちゃ、「悪」って物語に大事だと思う。
悪が魅力的じゃない物語は面白くない。
だが、僕がここでいう「悪」とは、正義の反対などではない。むしろ、悪は悪としての「正義」なのだ。
悪の正義とか、矛盾だろうか。そうではない。正義とは、その信念の論理的な構築なのである。
先日、ある方からお話し頂いたのは、政治的意見や良心ってのは、ちゃんと話し合えばみんな納得できるのだから、自らの利益を追求して政治誘導するような輩ばかりじゃないということである。
なるほどきっとそうだ。本当に、個人的な利益のために政治家になろうとする人は少ないに違いない。
僕が違和感を覚えるのは、その部分ではなくて、その政治家たちの目指すカタチ(正義)というのが、普遍的なものには成り難いという点である。本当に突き抜けた正義を主張するとき、例えば、「真面目に働くことが大事だ! 一億がんばれ社会!」とかいうのは、ある意味で正義だけれども、その価値観に反する弱者というのは必ず存在するということを忘れてしまう可能性がある。
ので、別に、個人的な利益誘導のための政治というのが、必ず悪いということではない。(馬鹿らしいことで敢えて言わないつもりだったが、政治資金横領とか、そういうレベルの話をしているのではない) その個人的に「正しい」「良いことだ」と思うことを突き抜けて主張することは、それに賛同する人にとっては、とても英雄的にうつることだろう。
英雄と言えばナポレオン。フランス市民から熱狂的に支持される。しかし彼に踏みにじられたエジプト、オーストリア・ロシアはいかんと思うことか。
良い人間になりたい
正しい人になりたい。誰かの役に立つ人間になりたい。良い人間になりたい、と、その考えに反対する人は少ないだろう。自らの欲望に忠実で、周りを顧みず疎まれて生きることを望む人は少ないだろう。いまや、多くの物語にあふれる社会である。いわゆる「迷惑な人」、悪という存在に対しての認識形成は幅広く機会に恵まれていると言える。
そんな当たり前のことを僕はいつも問題にしているわけではない。
僕が疑問で、常に考え続けなければならなくなるのは、その「良い人」という存在についてである。
その「良い」という概念自体が、相対的なものである。ある人にとって良い人は、ある人にとって迷惑であるということは、よくよくあることだ。そんなことない、誰からも愛される人はいる! と主張する人はそれでよい。幸せな人である。うらやましいが、だが、そういう人間性豊かな人と関わっている暇は僕にはない。
僕は正義を愛し、幸せを希い、正しく良い人間であることを望む。――同時に、それらの価値観の無価値性に驚愕する。そして、自分自身の「空っぽ感」に戦慄する。
迸る熱い信念や情熱をもった人間であれば、どんだけよかったか。
そしたら、きっとたくさん、らくに、楽しく、物語をつむいでいけたような気がする。
空っぽ感。
実存的空虚感とある精神科医さんは言うが、僕自身の、存在に関する根拠、目的、理由、レーゾンデートル……、それを、簡単な言葉で僕は生きる意味と表現しているが、だれが何と言っても、やっぱり僕は、そいつがないと、この先ずっと苦しみ続ける気がする。
仕事が忙しい、プライベートが忙しい
忙しい、いやなことがある、そんな状態が続くと、どうにも、精神的にすり減ってくるわけであるが、そのときに、何か大きな目標とか、「たのしいこと」ってのがあれば、きっと人は生きていけるんだと思う。ライブに行くのが好きな人は、好きなアーティストのライブに、それが北海道から九州まで、どこにでもどんなに忙しくても高価でも飛んでいく。そして、狂ったように声を上げ身体をたぎらせ、そして終わった後は死んだように倒れこむ。
その人からライブという趣味をとったら、お金や時間は非常に多く生み出されるだろう。その時間とお金によって、新しい資格をとって給料アップしたり、友人や家族との時間を有意義に過ごせるかもしれない。
だが、その人にとって、その選択肢は、死んだも同然なのである。
ある人はパチンコかもしれない。パチンコは僕は嫌いだが、なので、まぁ、パチンコ屋を全部廃止するのはかわいそうな気もする……が、やっぱりなくなっていいと思う(笑)。煙草も好きではない。
けどまぁ、そういうのは仕方がないとも思う。俺が嫌いでも、好きな人にとっては好きなのだから、それがないと生きていけないのだとしたら、仕方がないだろう。
そういうのもあるから、大上段の正義ってのが、本当にいつも正しいかってのも疑問だけど。
煙草は健康に悪いから、みんな禁煙しましょう! といったって、煙草をつくる会社に勤める人だって、家族はいるかもしれない。子どもは学校で、「お前のとうちゃん、ひとの体を害するものつくってんだってな! やーい人殺しの息子~!」とかいじめられるかもしれない。
まぁそれとは別に、その、小さな子たちには、できるだけそういう意識をもたせて、今後タバコ人口が減っていくのが良いような気がするが。
じゃあ酒は? とか。
ゲームは?
なんでもかんでも、「健全なもの」ばっかり求めることが本当によいことなんだろうか?
人の残虐性は二次元のせいか?
話がすげーどうでもいいというか、変わっていくが、表現の規制に関する政策については、僕は基本断固反対する。(政治的主張だ!)いや確かに、残虐だったり、エログロだったり、有害指定とされるようなものはあるかもしれない。
でもそれって、結局、それを指定しようとするひとの主義主張……とか大したもんじゃなくて、単に生理的嫌悪だったりする。
僕がタバコが嫌いだから今すぐ全部廃止しやがれ! とかパチンコ全部潰せ! とかいうようなもんである。
なんの表現が有害か、なんて、どこの神様が決めれるの? ってのが反対理由の一つ。
もう一つは、そもそも、二次元の作品ってもんが、人に与える影響ってなんだよ、ということである。
いや殺人をとにかく肯定する作品があったとしよう。それは確かに生理的嫌悪だ、有害だ、気持ち悪いだろう。が、ちょっとまて、英雄譚とか、エスニッククレンジングみたいなこと平気でやってるぞ。戦争はいくない! とか言いながら、たいてい少年漫画では戦ってるぜ(人が死ぬのはまぁあんまないだろうが)。
そいでもって、そういう作品みたから、じゃあ人を殺してみたいとか考えるようになる人が本当にいるのか? ってのが一つ。
それって、作品のせいだけじゃなくて、他の原因も絶対大きいわけである。
そして、遠藤浩輝氏の上で挙げた作品の凶悪犯のように、別に大した理由もなく快楽殺人を犯すような人だって存在するのである。サイコパスとかいるのである。そういうのが、作品のせいなのか? というと違うだろうと、僕は思う。
ファラリスの雄牛という、古代ギリシアの拷問処刑器具のことを知ってる方は多いと思うが、古代ギリシアの時代は、テレビも無ければ漫画もアニメもなかったろう。にもかかわらず、あんな残虐な処刑方法を思いつく人もいるのである。
はっはっは、じゃあお前、はいって試してみろ。ぎょ、御意にございます……って熱い! うああああやめてください、まさか本当に火をつけるなんてぎゃあああああ!! とか、ギャグか!! と。
(うーむ、何だか気がのらない。面白い物語欠乏症状が発症している。それは、面白い物語がないとか、手元にないとかいうよりかは、そういうのに触れる時間がない)
今日の一言「体調と住環境が良くない」「整える気力が起きない」
先日飲み会に出席し、飲みすぎたのか分からないが、頭の痛さが生じ、帰宅後も結局何もできなかった。飲み会での交流の内容はともかく、結果、家に帰ってからの行動に影響が生じてしまったのは間違いなくデメリットであった。しかし、初対面の人も多いような会だと、気分を乗っけるために少々いつも以上に飲んでしまう。
僕は、いやな気分や、面倒な状態に置かれることを避けたいのだ。初対面の人と「上手く」会話をすることに気をもむなんて、面倒なこと他ならない。合わない人とは仕方がないし、ある程度の次元で上手く付き合えればそれでいいのだ。そう、それは学校生活のように……とか思ったかは分からないが、その性かも分からないが、学校の修学旅行みたいなのに参加して何か戦闘に巻き込まれるような夢をみた。
そして、まだ、今も、気分が優れない。体調もすぐれない。
ああ、しかし、先日、普段とは違う電車に乗って、郊外の流れゆく景色を車窓から見ているとき、そしてその視界のわきには、楽しそうなカップルや、はしゃぐ子供をなだめる若い父親の姿が見えていた。
僕は一人、氷の入ったコーヒーを飲んでいた。
体調も、透き通ったように軽かった。
寒くもなく、熱くもなかった。
ウォークマンの、静かなBGMが耳の奥を撫でていく。
僕は、こんな時間がずっと続いてもいいかもしれない、と思った。何をするでもない、ただ悠久の時間。
NISAの方がいいとか、こっちの証券会社の方がいいとか、いろいろ考えていたが、結局判断ができなかったから、もう思い切って、まずは購入することから始めてみた。じゃあ、少額でいいじゃないかというところだが、単元が1000株だったので30万円強となった。
一つ、書いておけば、株って、普通の買い物と違う感覚だと思った。買い物は、お金を使って物を手に入れるものだが、株の場合は、いったい全体、何を買っているのか感覚がよく分からない。このよく分からない感覚を言語化しておきたいと思うのだけれども、いってみれば、何か減っている感覚ではないということだ。
当たり前かもしれない。あくまで投資は、利益を出すことが目的なので、損しようと思って買うことはない。30万の買い物とは大きいが、――そもそも、買い付け余力として100万円証券会社に振り込んだわけだが――かなり、適当な気持ちで買っている。
よく調べもしないで知識もないまま始めるのはまったくもって危険で、愚かな行為だろう。
ただ、そういう意味では、1年~3年前から、株を始めてみようとは思っていたわけであり、証券会社に口座を開いたのももう一年以上前になるが、その間、いろいろ理由を付けてやっていなかったわけだが、取り敢えず始めてみなければ何も始まらない。0を1にした、と、そんなイメージ。
NISA口座の申し込みも、同時に行った、今日この頃である。
USB機器の取り外しなんてのは、PCトラブルでもっとも初めに試してみるべきことであり、当然僕も何度もそんなことは試しているわけだけれども、それでも動かず、CMOS初期化や放電やら、いろいろ試してみたわけである。
なんとも、症状は同じく、ASUSのロゴから先に進めずフリーズするというものだが、その解決策が、バラバラで、再現性がない。困ったものだ。
ということで、買い替えを本格的に検討し始める。それにあたって、これまでのPCのスペックについて調べてみることにした。
基本、高額になるのは、
・グラフィックボード
・CPU
・メモリ
・マザーボード
・電源
この種類である。後はケースとか、HDD・SSDとか。
この色々調べるのにあたって、
・Winキー+Rでファイル名を指定して実行を起動し、「shell:startup」と打って、開いたフォルダ内に、起動しておきたいアプリケーション(エクセルとかメモ帳)のショートカットを入れると、Windows起動時に起動できる(win10になってからやり方が不明だった)
・メモリのDDR3という規格から、DDR4への進化は性能も2倍ぐらい上がっていること
・i7-2600(5年前)からi7-6700で、性能は上がっているが、通常の使用用途としてはそれほど体感できるほどの性能向上はないこと。(それよか、SSDとかアクセスするストレージ装置やメモリの進化が大きいこと
・マザーボード(MB)を変更すると、アプリケーションによっては、MBにライセンス情報を組み込ませたりしているため、再認証が必要になる可能性があること
・オフィスは、OEM(original equipment manifacture、スペル適当。PC自体に組み込まれている)ため、他のPCで使ってはならないこと。パッケージ版(インストール先のPCを問わない)ものは、アマゾンで2ライセンスセットで3万5千円ぐらいで販売されていた(パワーポイント込みのビジネス・ホームエデション。ワードとエクセルだけのパーソナルは5千円ぐらい安い)。
OEM版は、2万4千円ぐらいだった。
がわかった。
現行スペック(上記表)を満たすものを揃えようとすると、(HDDやその他機器は除いて)15万ぐらい必要であることが分かった。当時現在のPCを購入したときの値段は、約28万円だった(税込み・送料とかもろもろ込み)。
グラボを現在品で代用すると、6万円引きぐらいで、10万切った金額で作れそうである。自作の方が安くて高性能のPCを作れるというのは嘘ではないのだろう。
オフィスどうするか問題もある。今後もPCの買い替えを考えるなら、永続ライセンス版の方がいい気がする。2台で3万5千円であれば、一台当たり1万7千円ぐらいで、どう考えても安い。しかし、ノートPCを買う予定はない。いっそのこと、ノートPCとデスクトップ、二台とも買おうか、という案も生じる。
などと、検討していたら、有に5時間ぐらい過ぎている気がする。
最近始めた新しい某趣味は、知人の勧められるままに道具をそろえたため、あまり検討はしていなかった。というか、新しい趣味なのであれば、そもそも、道具に何がいいかもよく分からない。実際、使ってみなければ、検討材料がないのだ。スペック(性能指標値)的な良さと、自分が使ってみての体感とは大きく違う。
道具(パーツ)への拘りというのは、ある程度知識や実体験がなければ、あまり意味がない。
というわけで、基本的に、よくよく、よーく考えてから物を購入するため(ここでは、食料品や生活雑貨的なものは除く)、衝動買いというものに無縁である。ので、基本的にお金を貯めることに苦労したことはない。お金に苦労したことがない、と書くと非難轟轟な気がするが、まぁ実際、さほど収入が高いわけではないが、生活レベルが低いので問題ないのである。
ケチか? と問われたら、そうかもしれないが、そういうわけでもない。別に後輩に飲み会や食事をおごってやることに抵抗があるわけでもない。女性とデートにいったときに、女性がお手洗いに立った間に支払いを済ませておくというのも別に構わない。
けれども、それらは、「交際費」という費用として勘案しているものであって、いちおう、これぐらいならいいか、と思っているということである。どうでもいいが、女性が接待してくれるお店も交際費ぐらいに思っている。さらにどうでもいいが、この交際費とは、コミュニケーション能力の向上のため、とも思っている。興味のない女性におごるなんてとんでもない! といった記事をみたが、しかし、何かしら勉強させて頂いていると思っている。思うようにしているというよりも、思っているのだ。よくある、女性が接待してくれるお店で器量がよくない人に当たって後悔したとかいうのもあるけれども、それはそれで面白く興味深い経験をさせてもらったということで、特に落ち込んだりもしない。
何の話かというと、パソコン購入の話だけれども、今も、取り敢えず動いている。一度起動すると、何ら問題なく動いてくれるのである。
んじゃまぁ、このまま使い続けてもいいかなぁとも思ってくる。
しかし、きっと、明日は明日で、起動するとフリーズして、メモリやら何やらを取り外したりなんだりして……というのを毎回毎回やるとなると、このストレスは、多少お金かけてでも解決した方がいいだろうという気になってくる。


届くのおせえ、というのはさておき、読み始める。
ふむふむ、共感できる内容である。しかし、解決策が何とも心もとない、という印象。まだしっかり読んでないけれども、原因とか、駄目な思考パターンとかの分析は良いと思う。けれど、じゃあどうやって解決すればいいのかという策が示されていないような気がする、もう少しちゃんと読まなきゃだけど。
例えば、時間外労働の件とか、管理職がユーティリティプレーヤーになっちゃあかん、とか、そうだそうだ、と思う。
実務と管理は分けるべきだ、というのが解決策の一つだと書かれている。
事務職とかコストダウンで切り離すけれども、それは一時的な経費としては削減できても、結局効率悪いとか、そうかもしれんのだけど、僕はそのレベルじゃなくて、もう少し深い話がほしいと思っている。
業務の複雑化である。
そう、アウトソーシングできる部分はして、コアコンピタンス(核となる事業や業務)に力を注ぐ方がいいのだ。ただ、具体的業務になってくると、当然先の見通しも難しいし、やるべき業務というのも明確に決まっていない場合がある。
そういった場合に、「自分で考えて行動して解決する」ことが求められるわけだけど、そういうことを、うまい具合に「権限移譲」するってのは、結局のところ、その業務についての知識が必要になってくるわけで、その知識を身に着けた管理者ってのは、……まとめると。
まとめると、本来は、その業務を熟知した叩き上げの人が、管理者になれば、具体的にその業務に必要な時間やコストというのが、実感的に分かるわけだから、人の配置やスケジューリングもより具体性をもってできるわけだ。
けれども、複雑化した業務の場合は、「実務者と管理者」が共同的に取り組まなければならなくなる。実務者からの報告によって管理者が管理するという形態が望ましいが、複雑化した業務の場合、その報告の形態が非常に難しい。管理者は、形骸化した報告を聞いて、形骸化した管理を行う……。
まぁ、僕の上のようなことに答えている書籍もあるのだろう。が、結局、その業務内容を熟知する必要があるという点は変わらないと思う。これは、僕が、「生きる意味を考えるのは、結局自分自身でなければならない。人から優れた知見が与えられたとしても、それを判断し、実感に落とし込めるのは他ならない自分だけなのだから」と言っているように、思っているように、仕事の解決法ってのは、ここ具体的でなければ、実効性はないと思うのである。
いや、だからといって、本全般が無意味とは思わない。思考において、足りない部分の補足はどうしても必要だろう。しかし、昨今、自己啓発本を恐らく結構な数を読んだ僕としては、新しい知見なんて、全然見つからんわけである。というのは、傲慢な書き方だけれども、その「表現方法」の違いによって、確かに、胸にストンと落ち込むようなものは、まだまだあるだろう。けれども、核となる部分で、「あ、これは新しい!」「パラダイムシフトが始動する……ずごごご」とかいうのは殆どないのである。
テクニック的な部分はあると思うよ? けれども、「思考」「思想」レベルでは中々ないという意味である。時間管理のライフハック術とかは、結構新しいのはあるかもしれない。
なんか、長くなってまとまりがなくなってきて、ブラウザの反応が、僕のタイピング速度よりも遅くなってきたので、強制終了。
(そう、物語だ! 書こうと思って、ワードを開いて画面を見つめるが、……何も浮かばない! 何も書けない! そう本当に、一文字も書けなかった。ショックだった)
まずは手を動かそう
どうにも、やる気が起きないときというのがあるだろう。先日飲み会に出席し、飲みすぎたのか分からないが、頭の痛さが生じ、帰宅後も結局何もできなかった。飲み会での交流の内容はともかく、結果、家に帰ってからの行動に影響が生じてしまったのは間違いなくデメリットであった。しかし、初対面の人も多いような会だと、気分を乗っけるために少々いつも以上に飲んでしまう。
僕は、いやな気分や、面倒な状態に置かれることを避けたいのだ。初対面の人と「上手く」会話をすることに気をもむなんて、面倒なこと他ならない。合わない人とは仕方がないし、ある程度の次元で上手く付き合えればそれでいいのだ。そう、それは学校生活のように……とか思ったかは分からないが、その性かも分からないが、学校の修学旅行みたいなのに参加して何か戦闘に巻き込まれるような夢をみた。
そして、まだ、今も、気分が優れない。体調もすぐれない。
ああ、しかし、先日、普段とは違う電車に乗って、郊外の流れゆく景色を車窓から見ているとき、そしてその視界のわきには、楽しそうなカップルや、はしゃぐ子供をなだめる若い父親の姿が見えていた。
僕は一人、氷の入ったコーヒーを飲んでいた。
体調も、透き通ったように軽かった。
寒くもなく、熱くもなかった。
ウォークマンの、静かなBGMが耳の奥を撫でていく。
僕は、こんな時間がずっと続いてもいいかもしれない、と思った。何をするでもない、ただ悠久の時間。
株を購入
指値していだけれども、とある銘柄を初めて注文してみた。NISAの方がいいとか、こっちの証券会社の方がいいとか、いろいろ考えていたが、結局判断ができなかったから、もう思い切って、まずは購入することから始めてみた。じゃあ、少額でいいじゃないかというところだが、単元が1000株だったので30万円強となった。
一つ、書いておけば、株って、普通の買い物と違う感覚だと思った。買い物は、お金を使って物を手に入れるものだが、株の場合は、いったい全体、何を買っているのか感覚がよく分からない。このよく分からない感覚を言語化しておきたいと思うのだけれども、いってみれば、何か減っている感覚ではないということだ。
当たり前かもしれない。あくまで投資は、利益を出すことが目的なので、損しようと思って買うことはない。30万の買い物とは大きいが、――そもそも、買い付け余力として100万円証券会社に振り込んだわけだが――かなり、適当な気持ちで買っている。
よく調べもしないで知識もないまま始めるのはまったくもって危険で、愚かな行為だろう。
ただ、そういう意味では、1年~3年前から、株を始めてみようとは思っていたわけであり、証券会社に口座を開いたのももう一年以上前になるが、その間、いろいろ理由を付けてやっていなかったわけだが、取り敢えず始めてみなければ何も始まらない。0を1にした、と、そんなイメージ。
NISA口座の申し込みも、同時に行った、今日この頃である。
PC買い替えの検討
で、パソコンの方は、相変わらず調子が悪いが、基盤をいろいろいじっていると、時折起動するので、だましだまし使っている。今回は、USB機器を全部取り外して、1回、2回ぐらい再起動したら繋がった。USB機器の取り外しなんてのは、PCトラブルでもっとも初めに試してみるべきことであり、当然僕も何度もそんなことは試しているわけだけれども、それでも動かず、CMOS初期化や放電やら、いろいろ試してみたわけである。
なんとも、症状は同じく、ASUSのロゴから先に進めずフリーズするというものだが、その解決策が、バラバラで、再現性がない。困ったものだ。
ということで、買い替えを本格的に検討し始める。それにあたって、これまでのPCのスペックについて調べてみることにした。
基本、高額になるのは、
・グラフィックボード
・CPU
・メモリ
・マザーボード
・電源
この種類である。後はケースとか、HDD・SSDとか。
この色々調べるのにあたって、
・Winキー+Rでファイル名を指定して実行を起動し、「shell:startup」と打って、開いたフォルダ内に、起動しておきたいアプリケーション(エクセルとかメモ帳)のショートカットを入れると、Windows起動時に起動できる(win10になってからやり方が不明だった)
・メモリのDDR3という規格から、DDR4への進化は性能も2倍ぐらい上がっていること
・i7-2600(5年前)からi7-6700で、性能は上がっているが、通常の使用用途としてはそれほど体感できるほどの性能向上はないこと。(それよか、SSDとかアクセスするストレージ装置やメモリの進化が大きいこと
・マザーボード(MB)を変更すると、アプリケーションによっては、MBにライセンス情報を組み込ませたりしているため、再認証が必要になる可能性があること
・オフィスは、OEM(original equipment manifacture、スペル適当。PC自体に組み込まれている)ため、他のPCで使ってはならないこと。パッケージ版(インストール先のPCを問わない)ものは、アマゾンで2ライセンスセットで3万5千円ぐらいで販売されていた(パワーポイント込みのビジネス・ホームエデション。ワードとエクセルだけのパーソナルは5千円ぐらい安い)。
OEM版は、2万4千円ぐらいだった。
がわかった。
現行スペック(上記表)を満たすものを揃えようとすると、(HDDやその他機器は除いて)15万ぐらい必要であることが分かった。当時現在のPCを購入したときの値段は、約28万円だった(税込み・送料とかもろもろ込み)。
グラボを現在品で代用すると、6万円引きぐらいで、10万切った金額で作れそうである。自作の方が安くて高性能のPCを作れるというのは嘘ではないのだろう。
オフィスどうするか問題もある。今後もPCの買い替えを考えるなら、永続ライセンス版の方がいい気がする。2台で3万5千円であれば、一台当たり1万7千円ぐらいで、どう考えても安い。しかし、ノートPCを買う予定はない。いっそのこと、ノートPCとデスクトップ、二台とも買おうか、という案も生じる。
などと、検討していたら、有に5時間ぐらい過ぎている気がする。
買い物について
株の話を書いたけれども、基本的に僕は、買い物するときはとことん検討する。最近始めた新しい某趣味は、知人の勧められるままに道具をそろえたため、あまり検討はしていなかった。というか、新しい趣味なのであれば、そもそも、道具に何がいいかもよく分からない。実際、使ってみなければ、検討材料がないのだ。スペック(性能指標値)的な良さと、自分が使ってみての体感とは大きく違う。
道具(パーツ)への拘りというのは、ある程度知識や実体験がなければ、あまり意味がない。
というわけで、基本的に、よくよく、よーく考えてから物を購入するため(ここでは、食料品や生活雑貨的なものは除く)、衝動買いというものに無縁である。ので、基本的にお金を貯めることに苦労したことはない。お金に苦労したことがない、と書くと非難轟轟な気がするが、まぁ実際、さほど収入が高いわけではないが、生活レベルが低いので問題ないのである。
ケチか? と問われたら、そうかもしれないが、そういうわけでもない。別に後輩に飲み会や食事をおごってやることに抵抗があるわけでもない。女性とデートにいったときに、女性がお手洗いに立った間に支払いを済ませておくというのも別に構わない。
けれども、それらは、「交際費」という費用として勘案しているものであって、いちおう、これぐらいならいいか、と思っているということである。どうでもいいが、女性が接待してくれるお店も交際費ぐらいに思っている。さらにどうでもいいが、この交際費とは、コミュニケーション能力の向上のため、とも思っている。興味のない女性におごるなんてとんでもない! といった記事をみたが、しかし、何かしら勉強させて頂いていると思っている。思うようにしているというよりも、思っているのだ。よくある、女性が接待してくれるお店で器量がよくない人に当たって後悔したとかいうのもあるけれども、それはそれで面白く興味深い経験をさせてもらったということで、特に落ち込んだりもしない。
何の話かというと、パソコン購入の話だけれども、今も、取り敢えず動いている。一度起動すると、何ら問題なく動いてくれるのである。
んじゃまぁ、このまま使い続けてもいいかなぁとも思ってくる。
しかし、きっと、明日は明日で、起動するとフリーズして、メモリやら何やらを取り外したりなんだりして……というのを毎回毎回やるとなると、このストレスは、多少お金かけてでも解決した方がいいだろうという気になってくる。
ゆとりの法則を読む
アマゾンで注文したら届いた。届くのおせえ、というのはさておき、読み始める。
ふむふむ、共感できる内容である。しかし、解決策が何とも心もとない、という印象。まだしっかり読んでないけれども、原因とか、駄目な思考パターンとかの分析は良いと思う。けれど、じゃあどうやって解決すればいいのかという策が示されていないような気がする、もう少しちゃんと読まなきゃだけど。
例えば、時間外労働の件とか、管理職がユーティリティプレーヤーになっちゃあかん、とか、そうだそうだ、と思う。
実務と管理は分けるべきだ、というのが解決策の一つだと書かれている。
事務職とかコストダウンで切り離すけれども、それは一時的な経費としては削減できても、結局効率悪いとか、そうかもしれんのだけど、僕はそのレベルじゃなくて、もう少し深い話がほしいと思っている。
業務の複雑化である。
そう、アウトソーシングできる部分はして、コアコンピタンス(核となる事業や業務)に力を注ぐ方がいいのだ。ただ、具体的業務になってくると、当然先の見通しも難しいし、やるべき業務というのも明確に決まっていない場合がある。
そういった場合に、「自分で考えて行動して解決する」ことが求められるわけだけど、そういうことを、うまい具合に「権限移譲」するってのは、結局のところ、その業務についての知識が必要になってくるわけで、その知識を身に着けた管理者ってのは、……まとめると。
まとめると、本来は、その業務を熟知した叩き上げの人が、管理者になれば、具体的にその業務に必要な時間やコストというのが、実感的に分かるわけだから、人の配置やスケジューリングもより具体性をもってできるわけだ。
けれども、複雑化した業務の場合は、「実務者と管理者」が共同的に取り組まなければならなくなる。実務者からの報告によって管理者が管理するという形態が望ましいが、複雑化した業務の場合、その報告の形態が非常に難しい。管理者は、形骸化した報告を聞いて、形骸化した管理を行う……。
まぁ、僕の上のようなことに答えている書籍もあるのだろう。が、結局、その業務内容を熟知する必要があるという点は変わらないと思う。これは、僕が、「生きる意味を考えるのは、結局自分自身でなければならない。人から優れた知見が与えられたとしても、それを判断し、実感に落とし込めるのは他ならない自分だけなのだから」と言っているように、思っているように、仕事の解決法ってのは、ここ具体的でなければ、実効性はないと思うのである。
いや、だからといって、本全般が無意味とは思わない。思考において、足りない部分の補足はどうしても必要だろう。しかし、昨今、自己啓発本を恐らく結構な数を読んだ僕としては、新しい知見なんて、全然見つからんわけである。というのは、傲慢な書き方だけれども、その「表現方法」の違いによって、確かに、胸にストンと落ち込むようなものは、まだまだあるだろう。けれども、核となる部分で、「あ、これは新しい!」「パラダイムシフトが始動する……ずごごご」とかいうのは殆どないのである。
テクニック的な部分はあると思うよ? けれども、「思考」「思想」レベルでは中々ないという意味である。時間管理のライフハック術とかは、結構新しいのはあるかもしれない。
なんか、長くなってまとまりがなくなってきて、ブラウザの反応が、僕のタイピング速度よりも遅くなってきたので、強制終了。
(そう、物語だ! 書こうと思って、ワードを開いて画面を見つめるが、……何も浮かばない! 何も書けない! そう本当に、一文字も書けなかった。ショックだった)
人型で、自律して動けば、アンドロイドということが分かった。じゃあ、動かない人型のものは何というか?
人形だ。
ちなみに、フランケンシュタインに出てくるのは、人造人間であり、ここまでの定義で行くとアンドロイドと言ってもよいが、フランケンシュタインは、ちょっとマイナスイメージというか、ホラーイメージが強すぎて、アンドロイドとは言いづらい気がする。というか、死体を切りばりして造ったんだっけか? だとしたら、有機体ということで、バイオロイドということになるのかな。
ちなみに、フランケンシュタインは、人造人間(怪物)を造った博士の名前で、人造人間(怪物)の名前ではない。
以下、連載。
人形だ。
ちなみに、フランケンシュタインに出てくるのは、人造人間であり、ここまでの定義で行くとアンドロイドと言ってもよいが、フランケンシュタインは、ちょっとマイナスイメージというか、ホラーイメージが強すぎて、アンドロイドとは言いづらい気がする。というか、死体を切りばりして造ったんだっけか? だとしたら、有機体ということで、バイオロイドということになるのかな。
ちなみに、フランケンシュタインは、人造人間(怪物)を造った博士の名前で、人造人間(怪物)の名前ではない。
以下、連載。
今日の一言「やっぱり楽しいこと探さなきゃ」「PCの不具合は契機か」
こういう記事を書ける人は、やっぱり、非常にとっても貴重に思う。僕がこの方を知ったのは、この頃だったか。ちょうど一年前で、わんさかプライベートで揉めていた頃である。いやー早いもんですなー。
僕はかなり頑固である。自分では柔軟性がある人間だ、とか思っているが、他者からの評価はよく言えば信念をもっているといわれ、悪く言えば頑固である、といわれる。
しかし、僕にしてみれば、心外ではある。頑固なのではなく、僕をちゃんと納得させられるだけの価値観(や論理)を示してほしいだけである。
もっぱら、ターニングポイントという言葉や「結節点」という言葉を主に使っていたが、最近、ある方からパラダイムシフトという言葉を教えて頂いた。直観的にインプットされた。素直に自分の瑕疵が認められた。心底、そういった提示ができる方を尊敬した。
そんな尊敬できる方の一人が、上の精神科医さんのブログである。
全部が全部の記事を万歳三唱して心服する信者ではないが(ワイン好きの方のようだが、僕はあまり好きではない)、それでも、その多くには共感を覚える。
僕は、あんまり、心底尊敬できる人というのに、出会ってこなかった。いやもちろん、ある分野で優れる人や、先達先人には敬意をもっているし、エポケー状態でSUGEEEと思うことは数多い。けれども、前にこれも書いた気がするが、「価値観レベル」ですごい、と思うことがあんまりなかった。
そういった、尊敬できる人を、いっぱいもてることは幸せなのだろうか? 尊敬できる人が少ないというのは、不幸なことなのだろうか?
とかやってしまったが、あんまり、興味のある疑問ではなかった。なんというか、「僕は、イケメンとして生まれて来た方が良かったのだろうか?」とか、そんな低次元の疑問に過ぎない気がする。
そう。僕は、結構強固にもっている価値観として、「他者と比べても意味ないっしょや」というのがある。(そうなんだけど、ついつい比べてしまう、という現実問題は別として)
だから、尊敬できる人が多かろうが少なかろうと、そもそも、多い少ないを何に比して考えるのかってこったである。
なので、考えるべきは、「心底たのっしいぃぃぃ!(白目)」になるようなことである。
ここ数週間、ずっと考えていたことではある。ただ、直近でよくないことが重なってきているため、余計、その必要性を強く思っているところである。
余談:PCがやはり起動しない。メモリの抜き差しを繰り返すも、今日は駄目だった。舌打ちをしながら、今度は、グラボを外して、オンボード接続にしたら起動した。なんだそりゃ。原因が余計不明である。いっちばん初めに試したときは駄目やったやーん。
やっぱり、一度、たった一度きりの人生なんだから、一つでもいい。誰にも評価されなくてもいい。短くてもいい……いや、ある程度の長さは欲しいが、とにかく、心の深淵から、可能であればパラダイムシフトやターニングポイントとなるような、心底面白いって思えるような作品を創ろうではないか、と、思った。
プロ作家は、商業的に成功する必要がある。
が、そんな必要はない。とにかく、妥協もせずに、本気でおもしれーって、すげえって、感動できるような、そんな作品を創ろう。
それって、でも、自分でできるんだろうか。
取り敢えず、自画自賛という言葉があるけれども、むちゃくちゃ面白いと自分で思える作品って、自分自身でつくることは論理的に可能なのだろうか?
世の中の(僕にとっての)駄作たち(単に感性が合わないという意味でもある)。しかしそれは、それぞれの作者にとっては、最高傑作のそれなのだろうか?
その作者の頭の中には、素晴らしい物語が流れているけれども、それを言語という媒体に落とし込む過程において、表現問題と他者との解釈問題によって、その珠玉の輝きが失われているだけなのだろうか?
最近、非常に面白い作品を描ける方が、「自分で自分の作品が面白いか分からねえぇぇこれは笑えるのか? どうなんだ、ぁぁあああ」と仰っているのを見て、うーむ、確かに自分の作品の良し悪しってのは、自分で分かるのは難しいってのがある。なので、「面白いか分からないですが投稿してみました!」とかいう作者コメントは、「何? おめー作品なめてんのか?」と思う人もいるのだろうが、でも、気持ちは何となくわかる。
問題はもう一つ。そもそも、作品に触れるタイミングの問題。やっぱり、現実環境ってのは重要だったりする。どんなに素晴らしい恋愛作品だったとしても、失恋直後だったら面白いと思えないこともあるかもしれない。
あとは、作者自身の問題。作品自体は面白いけど、作者の人となりが好きじゃないと、何となく作品に入り込めなかったり。そういう意味では、クレヨンしんちゃんの臼井さんという作者さんは、「漫画家ってのは感動を売る仕事なので、顔出しはしない」というポリシーを貫いた方だったそうだ。ただ、WEB小説とかだと、読者からの感想への作者コメント自体が面白くて、何となく読者を手放さないとかいった場合もある。まぁ色々だ。
小説は、表現と、ストーリーが面白さを決める。
(キャラクターとか、声優の演技とか、漢字の当て字とか、レトリックとか技法とかいろいろあるだろうが、やっぱりストーリーは大事だと思う)
しかし、何だ、その心底面白い物語ってのは。
ちょっと真面目に考えてみよう。恥ずかしいとかそんなの考えずに、正直に挙げてみよう。
一発目で思いついたのは、Fateだった。(まぁ、面白さは順不同である。あと、連載中とか、完結していない作品は敢えて外そう)
Fate/zeroも良かったけれど、stay night、こいつは本当に感動した。ヘタレな選択肢を選ぼうものなら挽肉にされるという鬼畜ストーリーというかゲーム性もさることながら、やっぱりシロウくんの「正義感」が心を打った。「正義」って言葉、あんまり好きじゃあないんだけどね、ああいう熱い在り方っていいなと思った。
最近取り上げているEDEN~It's an endless world!~も面白かった。理由は省略。


Gunslinger Girlもよかった。理由はこれも何となく書いた気がするから省略。


映画で言えば、クレヨンしんちゃんの、戦国大合戦も面白かった。ストーリーの起伏、場面転換など、構成がほんとソツがないと思う。
君が望む永遠。最終兵器彼女は何となくパラダイムシフト(?)のせいで面白く感じられなくなったけれども、君望の、主人公のヘタレっぷりというかウラヤマけしからんというか、あの鬱具合が何とも良い。メインキャラのエンディングは全部みたなぁ。
小説だと、キャッチャーインザライ。村上春樹訳。これも、ある方から紹介してもらった作品。その方とは音信不通になってしまったが、そのころやってた僕のSNSの記事を読んで、なんか色々コメントくれたり、褒めてくれたりしてくださった。ほんといま思い出したけれども、その方にコメントもらったおかげで、まぁ、僕のこんな役に立たないとしか思えなかった記事も、ちょっとは書いてもいいんだなって、思わせてくれたような気がする。そのころ僕はまだ20代で、その方は30代ぐらいだったか。あぁ、今の僕は、あのときのあの方と同じぐらいの歳になったんだなぁ……。そんなこと思うと、なんかセンチメンタルである。って、面白い作品のことだったな。


死に至る病とかも、物語として(とか書くと怒られるが)ふつーに面白いのだけれども、それは別か。
あとは、そう、ヘルマンヘッセのシッダールタ。これは感想記事も書いた気がするけれども、読み終わってから、しばらく茫然自失するような作品って、あんまりないよね。


無職転生。何を隠そう、小説系の自サイトを復興させようと思わせてくれたのはこの作品のおかげといって過言ではない(それだけではなかったけれど)。なんというか、こう、一人称の作品だが、主人公と一緒に旅しているような、成長していくような、そんな感覚を与えてくれる作品というのも出会えないものだろう。今でも思い出すけれど、本当の敵の正体にせまったときの、あの緊張感というか、まるでホラー映画でモンスターが突然現れるかのようなゾクッとする感覚とか、女の子の可愛さにデレデレするのとか、感情移入できるという点でとてもよかった(ので逆に主人公に共感できないと何が面白いか全然分からないだろう)。


(WEBでも読める)
夜天を引き裂く。面白い小説ってのは、絶対感情移入できるものじゃないとだめだ、とかいう固定観念は完全崩壊、いやぁもうぶっ飛んだ主人公である。そしてその獰猛な主人公に平伏さない重厚なストーリーである。これも以前取り上げたことがあった気がするし、ストーリー等で書くべきことは書ききった気がするからもう書けないが、敢えてもう一つ書き足すとすれば、説明と表現(描写)は違うってことを実力を示されている作品にも思える。随所で、脳神経細胞に直接ぶちこんでくるような、鮮明な映像を浮かび上がらせてくれる。長いから、何分割かで読み切ろうと思っていたのは甘い考えで、よく覚えていないが、2分割か3分割ぐらいで一気に読んでしまったほどである。
僕は勉強ができない。山田詠美の作品。ターニングポイントというほどではないが、それでも、「真面目に生きる」という生き方以外を知ったという意味では大きかったかもしれない。僕が、イケメンはイケメンとして価値がある、とか時折いってるのは、これも今思いついたが、この作品の影響が少なからずあるかもしれない。


他にもなんかある気がするけれども、取り敢えずパッと思いつかないからここまでにしておこう。
で、だーな、土日の予定もそこそこ入っていると、何だか気分も乗らないのかもしれない。
あーしかし、そうだな、自分の中での傑作を創りたいという気持ちは強くなってきた。
今書いている作品の完結も当然目指したいけれども、非公開前提でもいいから、本気の奴も書き始めたいな。「本気」というと、それ以外の奴が手抜きなのかというような表現になってしまうから修正すれば、本気で面白いと思える奴、ということなんだけど、……それって同じか。
うーむしかし、面白いと言っても、種類もいろいろあるしなぁ。バトル的な熱い作品で面白いというのもあれば、郷愁的頽廃的な面白さというのもある。
それら総合して面白いというのもあるだろう。
王道的に快感的に面白いというのもあるだろう。
非常にやっかいだ。そもそも、「こういう作品を描きたい」というのが先にあってから、通常はじゃあこんなエピソードかな、的に創っていくのが普通だろう。そもそも、スタートが、「面白い作品を創りたい」というのは、天地ひっくり返ってる考え方じゃあなかろうか。
いやいややめろ、そうじゃあない。ブレーンストーミング大事。批判からはいっちゃいかん。
取り敢えず、そんな創りたいという思いが生じたということを潰しちゃあいけない。それをどうやってふくらませるか、芽吹かせるか。
(眠くなってきた、強制終了。そして明日もPCの修理から必要になるのだろう)
生きていくのに必要な能力
ある精神科医さんの記事は、僕にとってタイムリーであった。こういう記事を書ける人は、やっぱり、非常にとっても貴重に思う。僕がこの方を知ったのは、この頃だったか。ちょうど一年前で、わんさかプライベートで揉めていた頃である。いやー早いもんですなー。
僕はかなり頑固である。自分では柔軟性がある人間だ、とか思っているが、他者からの評価はよく言えば信念をもっているといわれ、悪く言えば頑固である、といわれる。
しかし、僕にしてみれば、心外ではある。頑固なのではなく、僕をちゃんと納得させられるだけの価値観(や論理)を示してほしいだけである。
もっぱら、ターニングポイントという言葉や「結節点」という言葉を主に使っていたが、最近、ある方からパラダイムシフトという言葉を教えて頂いた。直観的にインプットされた。素直に自分の瑕疵が認められた。心底、そういった提示ができる方を尊敬した。
そんな尊敬できる方の一人が、上の精神科医さんのブログである。
全部が全部の記事を万歳三唱して心服する信者ではないが(ワイン好きの方のようだが、僕はあまり好きではない)、それでも、その多くには共感を覚える。
僕は、あんまり、心底尊敬できる人というのに、出会ってこなかった。いやもちろん、ある分野で優れる人や、先達先人には敬意をもっているし、エポケー状態でSUGEEEと思うことは数多い。けれども、前にこれも書いた気がするが、「価値観レベル」ですごい、と思うことがあんまりなかった。
そういった、尊敬できる人を、いっぱいもてることは幸せなのだろうか? 尊敬できる人が少ないというのは、不幸なことなのだろうか?
どうでもいい疑問
なのだろうか?(キリッ)とかやってしまったが、あんまり、興味のある疑問ではなかった。なんというか、「僕は、イケメンとして生まれて来た方が良かったのだろうか?」とか、そんな低次元の疑問に過ぎない気がする。
そう。僕は、結構強固にもっている価値観として、「他者と比べても意味ないっしょや」というのがある。(そうなんだけど、ついつい比べてしまう、という現実問題は別として)
だから、尊敬できる人が多かろうが少なかろうと、そもそも、多い少ないを何に比して考えるのかってこったである。
なので、考えるべきは、「心底たのっしいぃぃぃ!(白目)」になるようなことである。
ここ数週間、ずっと考えていたことではある。ただ、直近でよくないことが重なってきているため、余計、その必要性を強く思っているところである。
余談:PCがやはり起動しない。メモリの抜き差しを繰り返すも、今日は駄目だった。舌打ちをしながら、今度は、グラボを外して、オンボード接続にしたら起動した。なんだそりゃ。原因が余計不明である。いっちばん初めに試したときは駄目やったやーん。
そうだ物語を創ろう
そして思った。やっぱり、一度、たった一度きりの人生なんだから、一つでもいい。誰にも評価されなくてもいい。短くてもいい……いや、ある程度の長さは欲しいが、とにかく、心の深淵から、可能であればパラダイムシフトやターニングポイントとなるような、心底面白いって思えるような作品を創ろうではないか、と、思った。
プロ作家は、商業的に成功する必要がある。
が、そんな必要はない。とにかく、妥協もせずに、本気でおもしれーって、すげえって、感動できるような、そんな作品を創ろう。
それって、でも、自分でできるんだろうか。
取り敢えず、自画自賛という言葉があるけれども、むちゃくちゃ面白いと自分で思える作品って、自分自身でつくることは論理的に可能なのだろうか?
世の中の(僕にとっての)駄作たち(単に感性が合わないという意味でもある)。しかしそれは、それぞれの作者にとっては、最高傑作のそれなのだろうか?
その作者の頭の中には、素晴らしい物語が流れているけれども、それを言語という媒体に落とし込む過程において、表現問題と他者との解釈問題によって、その珠玉の輝きが失われているだけなのだろうか?
最近、非常に面白い作品を描ける方が、「自分で自分の作品が面白いか分からねえぇぇこれは笑えるのか? どうなんだ、ぁぁあああ」と仰っているのを見て、うーむ、確かに自分の作品の良し悪しってのは、自分で分かるのは難しいってのがある。なので、「面白いか分からないですが投稿してみました!」とかいう作者コメントは、「何? おめー作品なめてんのか?」と思う人もいるのだろうが、でも、気持ちは何となくわかる。
問題はもう一つ。そもそも、作品に触れるタイミングの問題。やっぱり、現実環境ってのは重要だったりする。どんなに素晴らしい恋愛作品だったとしても、失恋直後だったら面白いと思えないこともあるかもしれない。
あとは、作者自身の問題。作品自体は面白いけど、作者の人となりが好きじゃないと、何となく作品に入り込めなかったり。そういう意味では、クレヨンしんちゃんの臼井さんという作者さんは、「漫画家ってのは感動を売る仕事なので、顔出しはしない」というポリシーを貫いた方だったそうだ。ただ、WEB小説とかだと、読者からの感想への作者コメント自体が面白くて、何となく読者を手放さないとかいった場合もある。まぁ色々だ。
面白い物語とは
漫画やアニメは、絵と、ストーリーが面白さを決める。小説は、表現と、ストーリーが面白さを決める。
(キャラクターとか、声優の演技とか、漢字の当て字とか、レトリックとか技法とかいろいろあるだろうが、やっぱりストーリーは大事だと思う)
しかし、何だ、その心底面白い物語ってのは。
ちょっと真面目に考えてみよう。恥ずかしいとかそんなの考えずに、正直に挙げてみよう。
一発目で思いついたのは、Fateだった。(まぁ、面白さは順不同である。あと、連載中とか、完結していない作品は敢えて外そう)
Fate/zeroも良かったけれど、stay night、こいつは本当に感動した。ヘタレな選択肢を選ぼうものなら挽肉にされるという鬼畜ストーリーというかゲーム性もさることながら、やっぱりシロウくんの「正義感」が心を打った。「正義」って言葉、あんまり好きじゃあないんだけどね、ああいう熱い在り方っていいなと思った。
最近取り上げているEDEN~It's an endless world!~も面白かった。理由は省略。
Gunslinger Girlもよかった。理由はこれも何となく書いた気がするから省略。
映画で言えば、クレヨンしんちゃんの、戦国大合戦も面白かった。ストーリーの起伏、場面転換など、構成がほんとソツがないと思う。
君が望む永遠。最終兵器彼女は何となくパラダイムシフト(?)のせいで面白く感じられなくなったけれども、君望の、主人公のヘタレっぷりというかウラヤマけしからんというか、あの鬱具合が何とも良い。メインキャラのエンディングは全部みたなぁ。
小説だと、キャッチャーインザライ。村上春樹訳。これも、ある方から紹介してもらった作品。その方とは音信不通になってしまったが、そのころやってた僕のSNSの記事を読んで、なんか色々コメントくれたり、褒めてくれたりしてくださった。ほんといま思い出したけれども、その方にコメントもらったおかげで、まぁ、僕のこんな役に立たないとしか思えなかった記事も、ちょっとは書いてもいいんだなって、思わせてくれたような気がする。そのころ僕はまだ20代で、その方は30代ぐらいだったか。あぁ、今の僕は、あのときのあの方と同じぐらいの歳になったんだなぁ……。そんなこと思うと、なんかセンチメンタルである。って、面白い作品のことだったな。
死に至る病とかも、物語として(とか書くと怒られるが)ふつーに面白いのだけれども、それは別か。
あとは、そう、ヘルマンヘッセのシッダールタ。これは感想記事も書いた気がするけれども、読み終わってから、しばらく茫然自失するような作品って、あんまりないよね。
無職転生。何を隠そう、小説系の自サイトを復興させようと思わせてくれたのはこの作品のおかげといって過言ではない(それだけではなかったけれど)。なんというか、こう、一人称の作品だが、主人公と一緒に旅しているような、成長していくような、そんな感覚を与えてくれる作品というのも出会えないものだろう。今でも思い出すけれど、本当の敵の正体にせまったときの、あの緊張感というか、まるでホラー映画でモンスターが突然現れるかのようなゾクッとする感覚とか、女の子の可愛さにデレデレするのとか、感情移入できるという点でとてもよかった(ので逆に主人公に共感できないと何が面白いか全然分からないだろう)。
(WEBでも読める)
夜天を引き裂く。面白い小説ってのは、絶対感情移入できるものじゃないとだめだ、とかいう固定観念は完全崩壊、いやぁもうぶっ飛んだ主人公である。そしてその獰猛な主人公に平伏さない重厚なストーリーである。これも以前取り上げたことがあった気がするし、ストーリー等で書くべきことは書ききった気がするからもう書けないが、敢えてもう一つ書き足すとすれば、説明と表現(描写)は違うってことを実力を示されている作品にも思える。随所で、脳神経細胞に直接ぶちこんでくるような、鮮明な映像を浮かび上がらせてくれる。長いから、何分割かで読み切ろうと思っていたのは甘い考えで、よく覚えていないが、2分割か3分割ぐらいで一気に読んでしまったほどである。
僕は勉強ができない。山田詠美の作品。ターニングポイントというほどではないが、それでも、「真面目に生きる」という生き方以外を知ったという意味では大きかったかもしれない。僕が、イケメンはイケメンとして価値がある、とか時折いってるのは、これも今思いついたが、この作品の影響が少なからずあるかもしれない。
他にもなんかある気がするけれども、取り敢えずパッと思いつかないからここまでにしておこう。
色々調べてたら時間が過ぎる
おぉ……もうこんな時間か。やっぱり、平日に何か活動的なことをしようというのは体力的精神的に厳しいのかもしれない、が、平日を上手く活用しないと、上手く時間を捻出できない。で、だーな、土日の予定もそこそこ入っていると、何だか気分も乗らないのかもしれない。
あーしかし、そうだな、自分の中での傑作を創りたいという気持ちは強くなってきた。
今書いている作品の完結も当然目指したいけれども、非公開前提でもいいから、本気の奴も書き始めたいな。「本気」というと、それ以外の奴が手抜きなのかというような表現になってしまうから修正すれば、本気で面白いと思える奴、ということなんだけど、……それって同じか。
うーむしかし、面白いと言っても、種類もいろいろあるしなぁ。バトル的な熱い作品で面白いというのもあれば、郷愁的頽廃的な面白さというのもある。
それら総合して面白いというのもあるだろう。
王道的に快感的に面白いというのもあるだろう。
非常にやっかいだ。そもそも、「こういう作品を描きたい」というのが先にあってから、通常はじゃあこんなエピソードかな、的に創っていくのが普通だろう。そもそも、スタートが、「面白い作品を創りたい」というのは、天地ひっくり返ってる考え方じゃあなかろうか。
いやいややめろ、そうじゃあない。ブレーンストーミング大事。批判からはいっちゃいかん。
取り敢えず、そんな創りたいという思いが生じたということを潰しちゃあいけない。それをどうやってふくらませるか、芽吹かせるか。
(眠くなってきた、強制終了。そして明日もPCの修理から必要になるのだろう)
