今日の一言「未定」
ルールと共通価値とは違う
ルールと、共通価値とは、違う。もちろん、個人価値とも全く違う。
ルールは、あくまでも、異種間で対立が起きないように、または起きた時に円滑に解決できるような事前の取り決めである。事前というのが大事だ。明文化されているかどうかは別として、前々から決められていた、という「建前」が大事である。
一方で、価値というのは、思考も、感情も、信念もすべてひっくるめた、人自身である。
それがある程度類似の方向性があれば、共通価値になるし、そうでなくても、個人価値は誰しも持っている。
それとルールは別問題なのは、徐々に見えてくるだろう。
だから、ルールに違和感をもつことは悪いことではない。
共通価値に違和感をもつことは悪いことではない。
あなたが、「生きづらい」と感じることは悪いことではないのだ。
孤独、を思うかもしれない。
誰も自分を理解してくれないと思うかもしれない。
しかし、原理的に、人は孤独なのだ。
何故ならば、人は、多様性をもつ生き物なのだ。
(かっこ書きである。未定)
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今日の一言「未定」
対立には排除なのか
昔の人たちがそれに気づいていなかったわけではなかったろう。
古代ギリシアでは、都市国家が乱立していたが、同じギリシア人はヘレネス、周辺の蛮族はバルバロイといって区別していたという。
自分たちと異質な、しかし姿かたちは似ている存在は認識できていたはずだ。
しかし、戦争といった、排除するという行動しか取れなかったのは、「理解可能性」まで思慮する時間も認識もなかったからだ。
とはいえ、時代が進むにつれて、殺し殺し合いを続けていることは、非効率であることには気づき始めた。自国内でも問題が発生したとき、上手く統治する必要があった。
だから、「ルール」を開発した。
ものではないが、発明といってもいいだろう。
火や文字の使用や、農耕の開始、印刷機の開発、インターネットなどが文化的な刷新といわれるが、そもそも、「ルール」というのも偉大な発明だ。
しかし、ルールに関しては、「慣習」といったものもあるので、あえて発明とはあまり思われない。自然に、人が生じたときからあったような気がする。
そうはいっても、意識的・無意識的にかかわらず、人は「ルール」の中に生きている。
ルールといえば、「学校の廊下は走っちゃいけません!」的なのや、道徳的な、車内マナーみたいなものも想像されるが、ありとあらゆるところにルールがある。
ルールはもはや、「共通価値」と似たような意味をもつときもある。
ルールがあるから、人はそれに従うべきだと、妄信的に考える人も、少なくない。厳格に、きまりを守ることが大事だと考える人は多い。コンプライアンス、それは当たり前なことだろうか。
(かっこ書きである。未定)
今日の一言「昨日の連載記事の一言とかっこ書きが書けなかった」
成長するという言葉が嫌いであった。
10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。
そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)
学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。
身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。
社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。
「俺が思うスピードで成長しろ」
だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。
これは、しんどい。
それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。
しかし、それだけではない。
ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)
ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。
人生は、どうしてそうではないのか?
それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。
今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。
逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。
人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。
その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。
自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。
しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。
俺は、俺、である。
外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)
だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)
世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。
日和見的だと思う。平和ボケだと思う。
だが、仕方がない。
自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。
人は誰しも、幸福を目指すべきだ。
(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)
閑話休題
連載の予約投稿中であったが、一つ、書いておこうと思ったので、書く。成長するという言葉が嫌いであった。
10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。
そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)
学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。
成長しない人間などいない
しかし、今思うに、成長は、時間に対して、不可逆に起こっている。身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。
社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。
「俺が思うスピードで成長しろ」
だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。
これは、しんどい。
自発的成長
ゲームが何故面白いか。それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。
しかし、それだけではない。
ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)
ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。
人生は、どうしてそうではないのか?
それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。
成長はしたい
と、思った、と、それだけの記事。今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。
逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。
人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。
その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。
自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。
成長とは状態の変化である
そりゃあ、隕石が地球に衝突したら、恐竜は滅びる。しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。
俺は、俺、である。
外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)
だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)
世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。
終わり
といったことを、思った。日和見的だと思う。平和ボケだと思う。
だが、仕方がない。
自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。
人は誰しも、幸福を目指すべきだ。
(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)
今日の一言「未定」
目的の重要性と多様性の不可避
矛盾したことを書いている。
僕は、目的を持つのは大事だと書いている。思っている、素直に。
一方で、多くの人が普遍的に抱ける目的なんて存在しないと書いている。思っている。真剣に。
相反する意見である。
対立したとき、どのように調整するのかというと、「次元」調整である。
アリストテレスのアクラシアの話を思い出してもらいたい。
(エピクロスの「アタラクシア」といっつも混在したキーワードが浮かんでしまうのは、僕の凡人たる所以なのだが、ここでは全く関係ない)
わかっちゃいるけど、やめられない。
アリストテレスは「真理」という概念を示したが、実際に紀元前から「駄目だと分かっていてもやってしまう」ということを人はやってしまっており、これは矛盾ではないか、と。
しかし、ある様相においてはOKであって、他のその高次の様相ではNG、という風に考えればいいんじゃないか、と、社会学者の大澤真幸氏が書かれていた。
下手な引用したせいで逆に分かりづらくなった気がするが、要は、「目的」にも次元があるということだ。
個人の、集団の、組織の、社会の、世界の。
当たり前といえば当たり前である。
が、強調したいのは、より高次の目的に「合わせる」ことが必ずしも重要ではなかろう、ということである。
何故ならば、原理的に無理だからだ。
人は多様な存在であったのだ。
忠義や忠節が大事だと思われてきた。神への信仰が大事だと思われてきた。
実は、人間はそんなもんじゃなかった。カオス、混沌がその真性だったのだ。
(かっこ書きである。未定)
今日の一言「比較している暇があったら代案を示せ」
共通価値の普遍化
すぐに思いつくのは、共通価値を普遍化、つまり、誰もが同様の価値を抱けるようになれば、争いはなくなるのではないか、ということだ。
これは、世界宗教といわれる思想や思考が試している。
もしくは、資本主義や社会主義といったイデオロギーが試していた。
結果、改善に寄与したことは認められるだろうが、根本解決には至らなかったといってよいと思う。
原理的に。人間の本質として、難しいと思う。
徹底した思想統制や、教育によってなせるものではないと思う。
過去の歴史的な人たちと、現代人とをくらべて、過去の人たちは「アホだった」と思ってはいないだろうか。そんなことはない。過去の人たちも、必死に、努力したに違いない。その与えられた環境下で最大限頑張ってきたのだ。それでも、ダメだった。
(古代エジプトかなんちゃらで、「昨今の若者はダメダメだ」とか描かれていたとかなんとやら。同時に、「老害うぜええ」というのもきっとあったに違いない)
何か一つのものを目指そうとしても、そこに到達できないことはある。ついてこれない人もいる。そもそも、その目的そのものに価値を見出せない人もいる。
人とは、どうしようもなく多様なのである。
多様にもかかわらず、個々人は、どうしようもなく「個人価値」を信じてしまうのだ。
こんなこと書いているけれども、僕自身も例外ではない。
ここに書いてあることは、歴史学でも、心理学でも、生物学でもない。その「科学的」なアプローチを踏めていない。だから、これらのことは結局、「個人価値」とみなされてしまうことなのだ。
(かっこ書きである。今回、「人の多様性について」という記事タイトルに近い話がふれられた。共通価値というのは、ひらたく言えば常識的なやつのことだと、先日の記事で書かれたところ。ただ、「常識」というと先入観的なみたいな奴が混じりこむため、あえて「共通価値」という表現にしてみた、と書かれていた。しかし今回、その共通価値ってのは、普遍化は難しいんじゃないのかね、というのが本記事の主題と思われる。俺もそう思う。んじゃあ、だったら、おまえ、その、カオスで混沌で無秩序ででたらめな猖獗極める社会が蔓延るってのか、というのが疑問に思う。その可能性もあれど、それを容認すれば、後世(が残るかは別として)の人たちに、「あー、20世紀から21世紀の人類って、ほんとアホやったんだなぁ」って思われるに違いない。それは、なんか、不満に思わなかろうか。確かに、カリスマ的な統一的な普遍的な何かに、僕らは一つになることは難しいかもしれない。しかし一方、そうはいっても、「何か」には、秩序だって平和を目指せる何かがあるんじゃないかって、そう思いたいわけであるが、そういう方向にこの記事は進むのだろうか。わからない。次は、2、3日後だ)
(かっこ書きである。今回、「人の多様性について」という記事タイトルに近い話がふれられた。共通価値というのは、ひらたく言えば常識的なやつのことだと、先日の記事で書かれたところ。ただ、「常識」というと先入観的なみたいな奴が混じりこむため、あえて「共通価値」という表現にしてみた、と書かれていた。しかし今回、その共通価値ってのは、普遍化は難しいんじゃないのかね、というのが本記事の主題と思われる。俺もそう思う。んじゃあ、だったら、おまえ、その、カオスで混沌で無秩序ででたらめな猖獗極める社会が蔓延るってのか、というのが疑問に思う。その可能性もあれど、それを容認すれば、後世(が残るかは別として)の人たちに、「あー、20世紀から21世紀の人類って、ほんとアホやったんだなぁ」って思われるに違いない。それは、なんか、不満に思わなかろうか。確かに、カリスマ的な統一的な普遍的な何かに、僕らは一つになることは難しいかもしれない。しかし一方、そうはいっても、「何か」には、秩序だって平和を目指せる何かがあるんじゃないかって、そう思いたいわけであるが、そういう方向にこの記事は進むのだろうか。わからない。次は、2、3日後だ)