今日の一言「良かった」
しかし、さぁ、何をかこう。
小説を、読もうかと思う。
インプットなくして、アウトプットなし。
インプットとアウトプットは、等価交換、エネルギー保存則は適用されないが、無関係ではない。
インプット + 自己思考 < アウトプット
という図式が成り立つ。
等号(=)ではなく、不等号(<)であることがポイントだ。
要は、インプットに対して、自己思考(単に何か思うこと)が発生することによって、インプット以上のアウトプットが生じるのである。
何かの記事で、「自己啓発本を読んだとき、「へー」って反応をしている奴はダメだ。「そうそう」って反応ができるようにならないと、本を読んだって何の意味もない」といったのを見かけた気がする。
要は、「へー」は、「すごいな、そんなことあるんだ」といった感動しているようだが、「他人事」なのである。自分で活かそうという気概がない。
一方、「そうそう」というのは、自分も似たようなことを考えつつ、それを「確認する」という作業をしているから、より自分に引き付けて思考できているからだ、ということだそうだ。
ま、それの真偽はともかく、
インプット = アウトプット
になっているようでは、パーソナルコンピュータに適うわけはない。外部ストレージに情報を保存するだけだ。
文字や、静止画だけではない。ビデオカメラの情報は大量だ。
いやもちろん、カメラの視点のあわせとか、どの被写体をとるのかといったことは重要だろうが、そういう意味ではない。単に、インプット情報を保存するだけならば、ビデオカメラで撮って保存したほうが正確で速いというだけだ。
人間がやろうとすれば、上の「等号(=)」すら成り立たない。
インプット > アウトプット
程度だ。僕が上で見た自己啓発本を役立てようというような記事も、僕のつたない記憶力にかかれば、上に書いた程度しか再生できないのだ。
しかし、これは僕の能力の多寡はともかくとして、誰しもそうだ。
インプットに対して、単純に情報を「丸暗記」しようとすれば、絶対に「インプット>アウトプット」になる。情報量によっては、せいぜい、等号になるかどうかだ。
んあー、長い前書きになったな。
上のことはどうでもいいんだ、要は、「自分の思考」部分が大事だということをメモしたかっただけに過ぎない。
ただ、それを文字起こし(ブログに書く)ということの意味は、ただの記録、という意味にとどまらない。
何故ならば――。
てなことを書いていたら、やっぱり、投稿するのを躊躇ってしまった。
躊躇って、しばらくして読み返したら、うーん、やっぱり、どうなん、これ、別にいっか……とか思い出す。
まてまて、落ち着け、年初の方針はどうなったのだ。
ここで怠けてしまうと、一年結局似たような感じで、「ま、いっか」とかいいつつ全然書かないことが始まる。
そうすると、10年後ぐらいに、「2019年ってどんな感じだったんだろ」と思って読み返したときに、「え、記事、たったの4つ……」とかなりかねん。
――という思考自体がすでに「興味深い」なのである。
何故ならば、おそらく、逆に10年前の自分に問うたら、「10年後の自分――」なんて、まちがっても書かなかったろうし、書いたとしたら非常に皮肉的な意味合いで書いたであろう。未来に対しての悲観的観測。
そうした転換期、転機ってのがあるはずなのだ。
どこかで、自分は変わっている。その変わっている「瞬間」なんてものはない。
1秒で変わることはない。
しかし、その、ある程度長い期間を範囲指定(スコープ)してみると、その「変化」的な奴が少し見えたりするのである。
とか言っても仕方がない。ノルマ的に課す。
構造的にだな、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
といった感じで、週1を目指していこう。曜日も決めよう。基本土曜日の夜――ダメなら日曜日の夜。
それ以外の単発で何か書くのは含めない。
こんな感じでいこう。
そうだな、期限も決めないとよくない。取り敢えず3月までやる。絶対。
何だかんだ、ブログ(か日記か、ログか)書いていないと、俺はやはり、自己コントロール感が抱けないようであるのだ。
だから、やる。
ただ、効果のほどはどうか分からないし、「続ける」ためにも、期限がないとよくない。3月まで。もっと具体的に書いた方がいい。
3月30日(土)まで。
よし。気持ちは少し前向きになった、気がする。(こうやってちゃんとカレンダー見ると、2月3週目と、3月の2週目は土曜日使えなそうだな……とか未来の休日の予定とかも考えないといけなかったりする。これはいいことだ)
え、あえ、……ああん、「良かった理由」書いてないじゃん。
あーそうだな、なんだろう、取りあえずそんな悪いことはなかった。仕事とかプライベートの予定とかが不確定的な状況でヤキモキしたりして気分悪くなったりしたりしたが、結果的には上手くいったし、出かけたのも楽しかったりしたから、よかったと、思いまーす(小学生並み感)。
(かっこ書きである。かっこ書きが一番落ち着く気がする気がするが、気のせいかな。自分、友人少ない自負がある。俺が友人と思っていて、相手がどう思っているか知らない人も更に多いから、双方友人認識のは本当に少ない気がするのだ。ただ、別に困ったって思ったことは特にない。友人や知り合いが多くて、週末いつも誰かと出かけたりしている人もいるし、いたけれども、特に羨ましいとも思わない(ただ、「彼女」という存在は、きっととても素晴らしいものなんだろうなぁと、二次元的エフェクトによって、法界悋気だった)。なのである故、その、友人というか知り合いから、お出かけ的なお誘いを受けたとき、取り敢えず躊躇するのが分かった。いやその、行けば楽しかったりするのであるが、何か、休日はゆっくりしたかったりするのである。そりゃあさおめー、毎週一週間が4日仕事で3日休日だったりしたら、じゃあ一日くらいはお出かけしよーって気にもなるが。たまの三連休とかそういうんじゃない。毎週がそうだったら、少しは考える。映画見たり動画見たり漫画見たり小説読んだりサイト更新したり、寝たり、寝たり、寝たり――俺も色々忙しいんじゃい!(先週は外食に出かけた――おいしかった――が、今週は寝てばっかだったなぁ)――というプライベート的な誘いで、今週は「あーどっすっかなー」と、脳内リソースが結構消費された。平日の飲み会とかも、まぁその、他部署の人とか、上司とか先輩とのコミュニケーションも大事だし、そもそも「マジめんどくせぇ」人とは行かないから、行けば、知らないことも聞けたり、仕事の愚痴的なのも言えたりするから、まぁ楽しかったりするのである。が、早く帰れるなら、さっさと家に帰りたいのである。帰って、ぼーっとニュースやらアニメやら見て、好き勝手過ごす時間が楽しいのである。でもそれって、「現実的に」よくないことである。だから、倫理的思考(自己理想というか、理性)によって、「えーほら、そんな一人で家でこもってないで、友人やら先輩やらとちゃんと会って話したりしなさいよ」と言われ、一方で「えーでも、今日はゲームしたいんだけどなぁ……」とか思ったりするのである――ダメ人間だッ!! ……という人は、別に僕だけじゃなくて、少なからずいると思うから、それはまぁどうでもいいのだけれども、要するに、その「リソース消費」を減らしたいのである――あああ、全然書き足りないぞ! 全然説明足りてないぞ! もっと書かせろ! しかし、時間切れだ。あーこの、本文書いているときの「やる気のなさ」と、このテキトーかっこ書きのモチベーション(勢い)とのギャップは、どうにも、文字には表現しきれない。仕切れないけれども、もったいないから、何とか表現したい。こういう、「カオス的」なものを、記号化するのが言語であり、数学や物理はそれを「数値」や「数式」で表そうとする。数学や物理は、公式を暗記すれば解けるかもしれないが、しかし、「自然ってカオス!」という感覚がないと、絶対面白くないと思う。自由落下の法則も、中学生? 高校生で習って、速度を「v=gt」で表せるって、「へー」となるかもしれないが、そんな簡単なことでも、カオスな自然に法則があるって知るってのは、面白いことだと思うのである――って何の話だ)
前書き
小見出しが「前書き」固定だと、書き始めは至極スムーズだということが分かった。しかし、さぁ、何をかこう。
小説を、読もうかと思う。
インプットなくして、アウトプットなし。
インプットとアウトプットは、等価交換、エネルギー保存則は適用されないが、無関係ではない。
インプット + 自己思考 < アウトプット
という図式が成り立つ。
等号(=)ではなく、不等号(<)であることがポイントだ。
要は、インプットに対して、自己思考(単に何か思うこと)が発生することによって、インプット以上のアウトプットが生じるのである。
何かの記事で、「自己啓発本を読んだとき、「へー」って反応をしている奴はダメだ。「そうそう」って反応ができるようにならないと、本を読んだって何の意味もない」といったのを見かけた気がする。
要は、「へー」は、「すごいな、そんなことあるんだ」といった感動しているようだが、「他人事」なのである。自分で活かそうという気概がない。
一方、「そうそう」というのは、自分も似たようなことを考えつつ、それを「確認する」という作業をしているから、より自分に引き付けて思考できているからだ、ということだそうだ。
ま、それの真偽はともかく、
インプット = アウトプット
になっているようでは、パーソナルコンピュータに適うわけはない。外部ストレージに情報を保存するだけだ。
文字や、静止画だけではない。ビデオカメラの情報は大量だ。
いやもちろん、カメラの視点のあわせとか、どの被写体をとるのかといったことは重要だろうが、そういう意味ではない。単に、インプット情報を保存するだけならば、ビデオカメラで撮って保存したほうが正確で速いというだけだ。
人間がやろうとすれば、上の「等号(=)」すら成り立たない。
インプット > アウトプット
程度だ。僕が上で見た自己啓発本を役立てようというような記事も、僕のつたない記憶力にかかれば、上に書いた程度しか再生できないのだ。
しかし、これは僕の能力の多寡はともかくとして、誰しもそうだ。
インプットに対して、単純に情報を「丸暗記」しようとすれば、絶対に「インプット>アウトプット」になる。情報量によっては、せいぜい、等号になるかどうかだ。
んあー、長い前書きになったな。
上のことはどうでもいいんだ、要は、「自分の思考」部分が大事だということをメモしたかっただけに過ぎない。
自分の思考
まぁ、上のようなことを見かけたとして、「え、当たり前じゃね?」と思う人が大半だろう。ただ、それを文字起こし(ブログに書く)ということの意味は、ただの記録、という意味にとどまらない。
何故ならば――。
てなことを書いていたら、やっぱり、投稿するのを躊躇ってしまった。
躊躇って、しばらくして読み返したら、うーん、やっぱり、どうなん、これ、別にいっか……とか思い出す。
まてまて、落ち着け、年初の方針はどうなったのだ。
ここで怠けてしまうと、一年結局似たような感じで、「ま、いっか」とかいいつつ全然書かないことが始まる。
そうすると、10年後ぐらいに、「2019年ってどんな感じだったんだろ」と思って読み返したときに、「え、記事、たったの4つ……」とかなりかねん。
――という思考自体がすでに「興味深い」なのである。
何故ならば、おそらく、逆に10年前の自分に問うたら、「10年後の自分――」なんて、まちがっても書かなかったろうし、書いたとしたら非常に皮肉的な意味合いで書いたであろう。未来に対しての悲観的観測。
そうした転換期、転機ってのがあるはずなのだ。
どこかで、自分は変わっている。その変わっている「瞬間」なんてものはない。
1秒で変わることはない。
しかし、その、ある程度長い期間を範囲指定(スコープ)してみると、その「変化」的な奴が少し見えたりするのである。
良かった理由
ああ、ええと、だから、今回はとにかく投稿する。支離滅裂で恥ずかしいけれども、まぁこれはいつものことだ――しかし、いつもはそれほど恥ずかしくない、何故なら、「勢い任せ」だからだ。勢いがないと、つらいなぁ……。とか言っても仕方がない。ノルマ的に課す。
構造的にだな、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
といった感じで、週1を目指していこう。曜日も決めよう。基本土曜日の夜――ダメなら日曜日の夜。
それ以外の単発で何か書くのは含めない。
こんな感じでいこう。
そうだな、期限も決めないとよくない。取り敢えず3月までやる。絶対。
何だかんだ、ブログ(か日記か、ログか)書いていないと、俺はやはり、自己コントロール感が抱けないようであるのだ。
だから、やる。
ただ、効果のほどはどうか分からないし、「続ける」ためにも、期限がないとよくない。3月まで。もっと具体的に書いた方がいい。
3月30日(土)まで。
よし。気持ちは少し前向きになった、気がする。(こうやってちゃんとカレンダー見ると、2月3週目と、3月の2週目は土曜日使えなそうだな……とか未来の休日の予定とかも考えないといけなかったりする。これはいいことだ)
え、あえ、……ああん、「良かった理由」書いてないじゃん。
あーそうだな、なんだろう、取りあえずそんな悪いことはなかった。仕事とかプライベートの予定とかが不確定的な状況でヤキモキしたりして気分悪くなったりしたりしたが、結果的には上手くいったし、出かけたのも楽しかったりしたから、よかったと、思いまーす(小学生並み感)。
(かっこ書きである。かっこ書きが一番落ち着く気がする気がするが、気のせいかな。自分、友人少ない自負がある。俺が友人と思っていて、相手がどう思っているか知らない人も更に多いから、双方友人認識のは本当に少ない気がするのだ。ただ、別に困ったって思ったことは特にない。友人や知り合いが多くて、週末いつも誰かと出かけたりしている人もいるし、いたけれども、特に羨ましいとも思わない(ただ、「彼女」という存在は、きっととても素晴らしいものなんだろうなぁと、二次元的エフェクトによって、法界悋気だった)。なのである故、その、友人というか知り合いから、お出かけ的なお誘いを受けたとき、取り敢えず躊躇するのが分かった。いやその、行けば楽しかったりするのであるが、何か、休日はゆっくりしたかったりするのである。そりゃあさおめー、毎週一週間が4日仕事で3日休日だったりしたら、じゃあ一日くらいはお出かけしよーって気にもなるが。たまの三連休とかそういうんじゃない。毎週がそうだったら、少しは考える。映画見たり動画見たり漫画見たり小説読んだりサイト更新したり、寝たり、寝たり、寝たり――俺も色々忙しいんじゃい!(先週は外食に出かけた――おいしかった――が、今週は寝てばっかだったなぁ)――というプライベート的な誘いで、今週は「あーどっすっかなー」と、脳内リソースが結構消費された。平日の飲み会とかも、まぁその、他部署の人とか、上司とか先輩とのコミュニケーションも大事だし、そもそも「マジめんどくせぇ」人とは行かないから、行けば、知らないことも聞けたり、仕事の愚痴的なのも言えたりするから、まぁ楽しかったりするのである。が、早く帰れるなら、さっさと家に帰りたいのである。帰って、ぼーっとニュースやらアニメやら見て、好き勝手過ごす時間が楽しいのである。でもそれって、「現実的に」よくないことである。だから、倫理的思考(自己理想というか、理性)によって、「えーほら、そんな一人で家でこもってないで、友人やら先輩やらとちゃんと会って話したりしなさいよ」と言われ、一方で「えーでも、今日はゲームしたいんだけどなぁ……」とか思ったりするのである――ダメ人間だッ!! ……という人は、別に僕だけじゃなくて、少なからずいると思うから、それはまぁどうでもいいのだけれども、要するに、その「リソース消費」を減らしたいのである――あああ、全然書き足りないぞ! 全然説明足りてないぞ! もっと書かせろ! しかし、時間切れだ。あーこの、本文書いているときの「やる気のなさ」と、このテキトーかっこ書きのモチベーション(勢い)とのギャップは、どうにも、文字には表現しきれない。仕切れないけれども、もったいないから、何とか表現したい。こういう、「カオス的」なものを、記号化するのが言語であり、数学や物理はそれを「数値」や「数式」で表そうとする。数学や物理は、公式を暗記すれば解けるかもしれないが、しかし、「自然ってカオス!」という感覚がないと、絶対面白くないと思う。自由落下の法則も、中学生? 高校生で習って、速度を「v=gt」で表せるって、「へー」となるかもしれないが、そんな簡単なことでも、カオスな自然に法則があるって知るってのは、面白いことだと思うのである――って何の話だ)
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今日の一言「今日も20分だ」
そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
前書き
最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
メインストリーム思考
モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
主流が発生する場
で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
自分の開示は最小限であるべきか
まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
今日の一言「例によって20分で書く」
もう面倒なので、「前書き」と固定にする。
さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。
その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。
さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。
で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。
これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。
そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。
国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。
いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。
前置きはこんなもんでいいだろうか。
別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。
そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。
その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。
そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。
問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。
要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。
つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。
それでいいのか?
という価値観の問題だ。
ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。
あ、もう20分だ。
(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)
前書き
最初の小見出しが結構悩むのである。もう面倒なので、「前書き」と固定にする。
さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。
その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。
多様性を認めない議員は糾弾されるべきだ
政治的な主張をしたいわけでもないし、LGBTについて批判的な意見をもっているわけではない。これについては、この記事においても、誤解が生じないように繰り返し何度も書かなければならないだろう。さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。
で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。
これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。
そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。
国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。
いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。
前置きはこんなもんでいいだろうか。
子供が生まれないと国は亡ぶ
ただ、実際問題、子供が生まれないと、国は亡ぶし、人類は滅ぶ。別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。
そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。
その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。
そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。
問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。
要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。
つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。
それでいいのか?
という価値観の問題だ。
ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。
あ、もう20分だ。
(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)
今日の一言「月4回ルーチンとはどんなものか」
しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
前書き
なんだ、このやる気のないタイトルは。しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
先週の振り返り
えーっと、そうだな。まぁ、良かったんじゃなかろうか。――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
目的が違う
――というわけで、毎週の振り返り、ということをやってみたのは、別に今回が初めてではない。月単位だったりしたかもしれないが、試していたことはあったのだ。しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
良かった理由
まぁその、お正月、実家でのんびり過ごせたことが良かった、といった理由で、初回、今回は許していただこう(自分に)。なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
今日の一言「明けましておめでとうございます」
まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
30分制限で書く
書初めって、本当は、1月2日にやるのがいいらしいと知る。まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
そんな近況必要なのか
上のような近況報告ティックなのは、必要なのだろうか。不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
言語の話しはおいておいて
この記事において、「閑話休題」といった言葉はつかえない。なぜならば、休題するべき閑話がないのである――むしろぜんぶ閑話であり、ぜんぶ主題だ。ゾンビランドサガ
アマゾンプライムで、「ゾンビランドサガ」みた。昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
シンゴジラ
シンゴジラが何故海外では流行らなかったのか、という記事は書いたっけ? それが非公開に埋もれてしまったやつだっけか。ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
二つの作品のつながり
というわけで、ゾンビランドサガと、シンゴジラの二つの作品を挙げたわけであるが、正直、あまり関係なかろう。たまたま、情報に触れた時間軸が近かっただけだ。それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
空気
なんで、僕が、人とのコミュニケーションを恐怖しているのかというと(※)、やっぱり、「他者に変に思われたくない」ということである。もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
被害妄想的な解釈
要するに、「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします~」的な雑談において、もうちっとばかり機知に富んだ何かができたんじゃないか、ということである。もちろん、上に書いた話だけではないけれども、要するに概念的にメモすればそういうことだ。そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)