今日の一言「明けましておめでとうございます」
まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
30分制限で書く
書初めって、本当は、1月2日にやるのがいいらしいと知る。まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
そんな近況必要なのか
上のような近況報告ティックなのは、必要なのだろうか。不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
言語の話しはおいておいて
この記事において、「閑話休題」といった言葉はつかえない。なぜならば、休題するべき閑話がないのである――むしろぜんぶ閑話であり、ぜんぶ主題だ。ゾンビランドサガ
アマゾンプライムで、「ゾンビランドサガ」みた。昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
シンゴジラ
シンゴジラが何故海外では流行らなかったのか、という記事は書いたっけ? それが非公開に埋もれてしまったやつだっけか。ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
二つの作品のつながり
というわけで、ゾンビランドサガと、シンゴジラの二つの作品を挙げたわけであるが、正直、あまり関係なかろう。たまたま、情報に触れた時間軸が近かっただけだ。それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
空気
なんで、僕が、人とのコミュニケーションを恐怖しているのかというと(※)、やっぱり、「他者に変に思われたくない」ということである。もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
被害妄想的な解釈
要するに、「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします~」的な雑談において、もうちっとばかり機知に富んだ何かができたんじゃないか、ということである。もちろん、上に書いた話だけではないけれども、要するに概念的にメモすればそういうことだ。そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
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コメント
●バールさん
はいっ! 頑張ります!
その、ええと、2018年の記事の数、49個であって、こんなに少なかったのかと驚いたのもあります。いやぁそれにしても、バールさんが毎日更新されているのは本当にすごいと思っております。
>小説をいいかんじにアレする的なこと
うぐぐぎぎぎ、そんなこと、確かに言ってましたね。ほんとこう、ブログに書くって「こういう意味(※言動が残る)」で大事ですよね……。下手なこと書くとまた首がしまりますが、――はい、こちらも、頑張ります!!!
●イミフさん
明けましておめでとうございます!
昨年はいつも考えさせられるコメントなどありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。
はいっ! 頑張ります!
その、ええと、2018年の記事の数、49個であって、こんなに少なかったのかと驚いたのもあります。いやぁそれにしても、バールさんが毎日更新されているのは本当にすごいと思っております。
>小説をいいかんじにアレする的なこと
うぐぐぎぎぎ、そんなこと、確かに言ってましたね。ほんとこう、ブログに書くって「こういう意味(※言動が残る)」で大事ですよね……。下手なこと書くとまた首がしまりますが、――はい、こちらも、頑張ります!!!
●イミフさん
明けましておめでとうございます!
昨年はいつも考えさせられるコメントなどありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。
posted by 遠藤at 2019/01/06 21:39 [ コメントを修正する ]
ところでいつか2018年中に小説をいいかんじにアレする的なことを言われていたことをアタクシ忘れておりませんことよ?(口の端に逆チョップ当てながら)