今日の一言「月4回ルーチンとはどんなものか」
しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
前書き
なんだ、このやる気のないタイトルは。しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
先週の振り返り
えーっと、そうだな。まぁ、良かったんじゃなかろうか。――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
目的が違う
――というわけで、毎週の振り返り、ということをやってみたのは、別に今回が初めてではない。月単位だったりしたかもしれないが、試していたことはあったのだ。しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
良かった理由
まぁその、お正月、実家でのんびり過ごせたことが良かった、といった理由で、初回、今回は許していただこう(自分に)。なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
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今日の一言「明けましておめでとうございます」
まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
30分制限で書く
書初めって、本当は、1月2日にやるのがいいらしいと知る。まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
そんな近況必要なのか
上のような近況報告ティックなのは、必要なのだろうか。不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
言語の話しはおいておいて
この記事において、「閑話休題」といった言葉はつかえない。なぜならば、休題するべき閑話がないのである――むしろぜんぶ閑話であり、ぜんぶ主題だ。ゾンビランドサガ
アマゾンプライムで、「ゾンビランドサガ」みた。昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
シンゴジラ
シンゴジラが何故海外では流行らなかったのか、という記事は書いたっけ? それが非公開に埋もれてしまったやつだっけか。ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
二つの作品のつながり
というわけで、ゾンビランドサガと、シンゴジラの二つの作品を挙げたわけであるが、正直、あまり関係なかろう。たまたま、情報に触れた時間軸が近かっただけだ。それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
空気
なんで、僕が、人とのコミュニケーションを恐怖しているのかというと(※)、やっぱり、「他者に変に思われたくない」ということである。もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
被害妄想的な解釈
要するに、「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします~」的な雑談において、もうちっとばかり機知に富んだ何かができたんじゃないか、ということである。もちろん、上に書いた話だけではないけれども、要するに概念的にメモすればそういうことだ。そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
今日の一言「質より量、量より質、どちらでもない」
(異論反論多そうな記事になった)
そういったとき、「未設定」とか、「徒然」とか、「NOTITLE」でもいいけれども、せっかくだったら何か考えたいという思いが芽生える。
そういうとき、何かこう、連載とか、「月間更新」とか、ルールがあったら楽な気がする。
もしくは、後からタイトルを書くという方法。自分は、こっちをよく使ったりする。
まぁ、別にそれで事足りるから、特にルールとか必要ないだろう。しかし、わりとマジに誰かに読んでもらいたい、聞いてもらいたいとするならば、タイトルは重要だ。
……最近、自分はやっぱり「変」なんだろうと思わされることがあって、そもそも、「〇〇が嫌いだ」という主張が多いのは、拘りが多いということであって、拘りが多いというのは、「変」ということでもある。
しかし、まぁその、「嫌い」という言葉は、二分法的にわかりやすく表現しているのであって、そんな身の底から受け付けない、生理的に無理、とかそういったレベルではない。ないのだけれども、言葉として使う際には、どうしても「きつく」感じ取られてしまうから注意が必要だ。
まぁでも、とりあえず、コミュニケーションって言葉が嫌いだ。横文字だから嫌いというわけでもない。昔の自分の記事を読んでいると、やたらと「コミットする」という表現があったりする。今考えると恥ずかしいけれども、当時もそれを分かったうえで、なんとなく「コミット」という言葉が自分の中でしっくりきていたので使っていたのだ。
コミットという言葉の、自分の中での用法は、「情熱をもって対象に自分自身を注力する」といった意味であった。やはり今となってもなんとなく、日本語にするとしっくりこない。そういったときに、横文字表現を使うというのは悪いことではない。ないけれども、他者に読ませるといった意味においては注意が必要だろう。「エビデンス」や「ハードコピー」といった言葉も、仕事においてよくつかわれるけれども、別の会社の話を聞くと全然違う意味で使われていたりして、面白いなと思ったこともあったりする。
上の段落は脱線である。コミュニケーションという言葉についてがこの小見出しの主題だ。
こういうときに、「閑話休題」という言葉を使う。これも、最初に聞いたときは、逆の意味でとらえていたことがあったような気がする。言葉って難しいなぁ……閑話休題。
コミュニケーションというのは、情報伝達のことであって、それ以上の怪しい意味合いはない。
何故わざわざコミュニケーションという言葉を使うのか。横文字にすると、さも「スーパースキル」のように感じられてしまうではないか(僕だけかもしれない)。
そもそも、コミュニケーションが大事、なんてのは、先日の「生涯学習」についてコメントいただいた件ではないが、「当たり前」である。
というよりも、コミュニケーションをしないことなんて、ない。
こうしたブログですら、コミュニケーション・ツールである。
大したポイントでもないのに、あえて横文字にして、さも大事だと言わんばかりの主張が、嫌いなのである。
常識。
こういった言葉も嫌いなのであるが、コミュニケーションという言葉が嫌いな理由は、それとも関連する。
前にも書いたけれども、さまざまな解釈があることについて、自分の考えることが絶対的だと思っているような人が嫌いである。
――ここですぐさま書いておきたいのは、「その上で結論する」ということは大事なことだ。
関係ないかもしれないが、裁判の判決に従うのは、それが社会的なルールだからだ。そこで、「でも自分はそう思わない」といったところで、関係ないのである。決めることは大事だ。
しかし、飲み会はコミュニケーションに必要だ、とか、若いうちは無休で働けとか、そういった言説の様々が絶対的に正しいと信じるのはいかなるものか、と思う。ちなみに、自分は上の意見に、部分的に賛成であり、反対である。――というように、標語、スローガン的なのは、わかりにくいものや、複雑な部分や、あいまいな部分をとりあえず切り捨てて、方向性を示すためだけのものである。
それで、標語的なのは、シンプルで分かりやすいのがよい、と言われたりする。「ユーザーのニーズに応える」とか「お客様の笑顔をつくる」とか――しかし、実際の業務に役立つことはほとんどない。
スローガンをシンプルにしていけば、「当たり前」のことにしかならない。その当たり前のことを忘れてしまうから、実際に実行するのは難しいから、スローガンがあるってだけである。
――あああ、本当にくだらないことを書いている。どうでもいい。ほんっとうにどうでもいい。しかし僕はなぜ、こんなくだらなくて面白くなくてどうでもいいことを書いているのか。
そうだ、インプットが足りていないからだ。
いやしかしまて、何故僕は、上のようなことを面白くなくてくだらないと思うのか。
当たり前だからである。
スローガン的には、「WIN-WIN」があるべき姿だ。世界平和がすべてだ。それ以外に何があろうか。
しかし、さすがに「世界平和」をスローガンにする企業はない。あまりにも実態とかけ離れているからだ。だから、自分らの業務に関連して、できる限り普遍的なものをスローガンにする。スローガンって書いているが、社訓とか経営理念とかそのへんのやつだ。
しかし、世界平和の次の内容は、必ずしも利害対立を生み出す。何故ならば企業は利益追求のための組織だからだ。CSR(企業における社会貢献の責任)も重要だとされるけれども、利益(もうけ)ないCSRは形骸的である。
とある業界で、ある会社が躍進すれば、ある会社は零落する。シェア(需要)は有限だからだ。勝つか負けるか。命のやり取りはないとはいえ、そんな世界なのだ。
となると、共産主義・社会主義はどうか、となる。
失敗した!
(中国は共産主義なのか? その場合、成功した、といえるのか? などという政治学的な話は勘弁していただきたい。よくわからないし、あまり興味をもてない。とにかく、当初興ったマルクス主義的な共産主義とは実態はかけはなれているだろうことは間違いなかろう)
どうやら、人間は怠ける生き物のようだ。
競争という概念がないと、まともな発展はできないのだ。
(生活保護はなんなのか、という政治学的な話は勘弁――以下略。しかし、だ。生活保護制度も、生活保護を受けていない人たちが、それ以上(以上、という言葉をつかえば、「イコール」も含むということだが、まぁそれでよかろう)の生活ができている、という基盤に立っているからのことだと思う。それが明確に崩れたら、制度として成り立たないだろう。「生活保護を受けるのは権利だ! 恥ずかしいことじゃないんだ!」そういった主張、その通りだと思う。しかし、現実問題、生活保護が貴族のノブリス・オブリージュで成り立っているのではなくて、税金財源なんだから、みんなが生活保護を受けるようになったら制度として成り立たないだろう)
要するに、バランスで成り立つようになってしまったのだ。
イデオロギーとかいう言葉は流行らなくなったのだ。
漸近的になんとかだましだましやってくしかないのだ。
「うるせー! そんなんやってられっか! 俺は苦しいんだ! バーカバーカ!」
というのが増えると、急進的な保護主義とか、異民族排他とかが発生する。
歴史は繰り返す。
繰り返させちゃいけないのだけれども、高名な学者様たちも、いまだ全世界共通普遍システムの構築には至れていない。
修正資本主義でしかない。
このままじゃあ、政治制度こそA.I.に任せちゃおうぜという意見が多数派になるかもしれない。アニメーション作品『サイコパス』の世界は近いのかもしれない。
要するに、利害調整的な仕事がウンザリである。
30数年生きてきて最近思うのは、やはり僕は、何か作る又は創ることが好きなのである。
ここの部署はこうだからあーして、あっちの部署にはこう根回しして……とか、ほんっとうに面倒くさい。どうでもいい。
いやすぐさま書いておかなければいけないのは、要望とか、何か作るにあたって必要な要件を収集するということは大切だし、むしろ積極的にやりたいぐらいである。僕が「きらい」といっているのは、ある案件について、どっちの部署がやるだとか、それは俺の仕事じゃないだとか、関係ないだとか、そういうことが面倒くさいということである。
そして、そういうのを「マネジメント」というのなら、管理職に魅力なんてない。昨今の若者は出世願望がないとかいわれるが、そういう問題じゃないと思っている。
給料が高ければ、それだけでいいって人も中にはいるだろうけれども、仕事の中身自体が魅力的でないならば、やりたいと思う人が多数派になるはずはないのだ。
(同時に、「自発的であれ!」「仕事は自分でとるものだ」「自分で考えろ」ということも言われたりする。ばかばかしい。「自発的」すなわち内発的動機を重要視するならば、余計に魅力的な仕事内容でなければ不可能だろう)
同時に書いておきたいのは、管理職だからこそ、「つくる」ということも可能だろう。それは、より「間接的」になるかもしれない。実際に自分が手を動かしてつくることは少なくなってしまうかもしれない。けれども、その分より大きな、自分がつくりたいと思ったものを、つくることも可能になるかもしれないのだ。そういう魅力をもっと語ってほしいものである。
大変だー大変だー忙しいー疲れたー、とかいいつつ、出世しろ、管理職を目指せ、なんてのは、ばかばかしいこと限りない。――限りないと思うだろう、思うのだけれども、皆さんもそういう人を見かけることは少なくないのではなかろうか。
しかし、これはいつものことである。
書いているうちに方向性が変わるってことはよくあることだ。
しかし、どうしたもんか。
人は様々である。
年上もいれば、年下もいる。上司もいれば同僚・部下もいる。男もいれば女もいる。受託もあれば委託もある。そんな中で、「楽しい」を仕事に介在させるというのは夢幻のことなのか。
しかし、大事なことは二つあると思っていて、
・貢献心
・成長心
である。
所属する組織に対して、自分が役に立てることを探すということ。
自分ができることを増やしていくということ。
これは、どんな組織にいても普遍的に大切なことだと思う。
当たり前のことである。
会社に害をなそうとして毎日仕事している人はいまい。いたら埋伏の毒というかスパイというか。
どんどん劣化していきたいと思うことだってなかろう。いつも男は筋トレに励み、いつも女は美容に励んでいるではないか(くだらない例え話である)。
会社に限った話でもない。
家族という組織(集団)であっても、同様に貢献と成長は必要だろう。家にはサラリーを入れてるから家事は全くしなくてよいのだ、という夫や妻がいる家庭は、よほどの事情がなければ上手くいかないだろう。また、ゴミの分別や曜日がいつになっても覚えられないという成長がない夫や妻がいるというのも、片方への苛々が醸成される原因になるだろう。
そんとき、何を大事にするか、というのが「価値観」である。
で、この価値観は色々あってしかるべき、という風潮になっている。多様性である。――という話しになると、先日の「多様性について」の記事を参照すればよいだろうか。
価値観は色々あってよいんだけれども、それがぶつかったときどうしようか、というのが「ルール」である。
しかし、会社における価値観ってのは、とある部署の主張だけ通せばいいってもんじゃないと思うんだが、まぁこれも脱線か。
家族という集団は、分離するという手段もとれる。会社もまぁ、辞めるという手段や異動するという手段もあるだろう。
しかし根本的に、対立という芽は至る所にある。
それというのもそもそも、「世界平和」と「WIN-WIN」を成り立たせる普遍ルールが、実のところ世界には存在していないからだ。
(かっこ書きである。「普遍ルール」と書いたけれども、ルールで人を縛れるのか、というのもある。暴力装置は必要なのか。文明があっても、シビリアンコントロールでも、「いざ」ってときに強制的に黙らせられる力がないと、人はルールに価値を持てないのではないか、と僕は思う。この部分も、いろんな価値観があるものだと思う。世界平和のために兵器も軍隊も排除すべきだ、という主張もみかけることがあるだろう。核兵器廃絶という理念は僕は賛成するが、現実的に可能なのか疑問だ。ロストテクノロジーって、人為的に可能なのだろうか。ロケット技術と原子力発電所の技術があれば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)に核爆弾のっけられるってのを何かで見た気がする。いやそんな、世界征服を企む悪の組織が勃興するというのもあまり思えないのだけれども、「人の対立」という概念がなくならない限り、強制力・強制装置は必須だというのが僕の考えである。でも、繰り返すが、僕は世界平和が大事だと思うし、目指すべきだと思う。いじめだって、ブラック企業だってなくなればいいと思う。しかし、僕は指導だと思って言ったことも、「遠藤さんって時折厳しいこと(ひどいこと)言いますよね」とか言われたこともあったりするし、まぁ難しい問題である。しかしこういうのは、真摯に反省すべきである。「自分はどうか」という視点がない人が多いせいで、パワハラとか飲酒運転とか減らないのである。もしかしたら、明日は迎えられないかもしれない。それどころか、数時間後には死ぬかもしれない。常にそう思っていたら病気だけれども、そういう気持ちで生きる(生活する)ことも時に必要である。――といいつつ、今日は疲れたからビール飲んでゲームして遊ぶ(おい))
(異論反論多そうな記事になった)
徒然に書きたいときのタイトル
特に脈絡なく、徒然思うがままに書きたいと思うときに、タイトルというのはいささか考えるのが面倒なものである。そういったとき、「未設定」とか、「徒然」とか、「NOTITLE」でもいいけれども、せっかくだったら何か考えたいという思いが芽生える。
そういうとき、何かこう、連載とか、「月間更新」とか、ルールがあったら楽な気がする。
もしくは、後からタイトルを書くという方法。自分は、こっちをよく使ったりする。
まぁ、別にそれで事足りるから、特にルールとか必要ないだろう。しかし、わりとマジに誰かに読んでもらいたい、聞いてもらいたいとするならば、タイトルは重要だ。
コミュニケーション力
コミュニケーションが大事、とか言われるが、そういう言葉が嫌いだ。……最近、自分はやっぱり「変」なんだろうと思わされることがあって、そもそも、「〇〇が嫌いだ」という主張が多いのは、拘りが多いということであって、拘りが多いというのは、「変」ということでもある。
しかし、まぁその、「嫌い」という言葉は、二分法的にわかりやすく表現しているのであって、そんな身の底から受け付けない、生理的に無理、とかそういったレベルではない。ないのだけれども、言葉として使う際には、どうしても「きつく」感じ取られてしまうから注意が必要だ。
まぁでも、とりあえず、コミュニケーションって言葉が嫌いだ。横文字だから嫌いというわけでもない。昔の自分の記事を読んでいると、やたらと「コミットする」という表現があったりする。今考えると恥ずかしいけれども、当時もそれを分かったうえで、なんとなく「コミット」という言葉が自分の中でしっくりきていたので使っていたのだ。
コミットという言葉の、自分の中での用法は、「情熱をもって対象に自分自身を注力する」といった意味であった。やはり今となってもなんとなく、日本語にするとしっくりこない。そういったときに、横文字表現を使うというのは悪いことではない。ないけれども、他者に読ませるといった意味においては注意が必要だろう。「エビデンス」や「ハードコピー」といった言葉も、仕事においてよくつかわれるけれども、別の会社の話を聞くと全然違う意味で使われていたりして、面白いなと思ったこともあったりする。
上の段落は脱線である。コミュニケーションという言葉についてがこの小見出しの主題だ。
こういうときに、「閑話休題」という言葉を使う。これも、最初に聞いたときは、逆の意味でとらえていたことがあったような気がする。言葉って難しいなぁ……閑話休題。
コミュニケーションというのは、情報伝達のことであって、それ以上の怪しい意味合いはない。
何故わざわざコミュニケーションという言葉を使うのか。横文字にすると、さも「スーパースキル」のように感じられてしまうではないか(僕だけかもしれない)。
そもそも、コミュニケーションが大事、なんてのは、先日の「生涯学習」についてコメントいただいた件ではないが、「当たり前」である。
というよりも、コミュニケーションをしないことなんて、ない。
こうしたブログですら、コミュニケーション・ツールである。
大したポイントでもないのに、あえて横文字にして、さも大事だと言わんばかりの主張が、嫌いなのである。
礼儀作法や心理学のことではない
マナー。常識。
こういった言葉も嫌いなのであるが、コミュニケーションという言葉が嫌いな理由は、それとも関連する。
前にも書いたけれども、さまざまな解釈があることについて、自分の考えることが絶対的だと思っているような人が嫌いである。
――ここですぐさま書いておきたいのは、「その上で結論する」ということは大事なことだ。
関係ないかもしれないが、裁判の判決に従うのは、それが社会的なルールだからだ。そこで、「でも自分はそう思わない」といったところで、関係ないのである。決めることは大事だ。
しかし、飲み会はコミュニケーションに必要だ、とか、若いうちは無休で働けとか、そういった言説の様々が絶対的に正しいと信じるのはいかなるものか、と思う。ちなみに、自分は上の意見に、部分的に賛成であり、反対である。――というように、標語、スローガン的なのは、わかりにくいものや、複雑な部分や、あいまいな部分をとりあえず切り捨てて、方向性を示すためだけのものである。
それで、標語的なのは、シンプルで分かりやすいのがよい、と言われたりする。「ユーザーのニーズに応える」とか「お客様の笑顔をつくる」とか――しかし、実際の業務に役立つことはほとんどない。
スローガンをシンプルにしていけば、「当たり前」のことにしかならない。その当たり前のことを忘れてしまうから、実際に実行するのは難しいから、スローガンがあるってだけである。
――あああ、本当にくだらないことを書いている。どうでもいい。ほんっとうにどうでもいい。しかし僕はなぜ、こんなくだらなくて面白くなくてどうでもいいことを書いているのか。
そうだ、インプットが足りていないからだ。
いやしかしまて、何故僕は、上のようなことを面白くなくてくだらないと思うのか。
当たり前だからである。
スローガン的には、「WIN-WIN」があるべき姿だ。世界平和がすべてだ。それ以外に何があろうか。
しかし、さすがに「世界平和」をスローガンにする企業はない。あまりにも実態とかけ離れているからだ。だから、自分らの業務に関連して、できる限り普遍的なものをスローガンにする。スローガンって書いているが、社訓とか経営理念とかそのへんのやつだ。
しかし、世界平和の次の内容は、必ずしも利害対立を生み出す。何故ならば企業は利益追求のための組織だからだ。CSR(企業における社会貢献の責任)も重要だとされるけれども、利益(もうけ)ないCSRは形骸的である。
とある業界で、ある会社が躍進すれば、ある会社は零落する。シェア(需要)は有限だからだ。勝つか負けるか。命のやり取りはないとはいえ、そんな世界なのだ。
共産主義というか社会システム
そんな殺伐としたのは嫌だ!となると、共産主義・社会主義はどうか、となる。
失敗した!
(中国は共産主義なのか? その場合、成功した、といえるのか? などという政治学的な話は勘弁していただきたい。よくわからないし、あまり興味をもてない。とにかく、当初興ったマルクス主義的な共産主義とは実態はかけはなれているだろうことは間違いなかろう)
どうやら、人間は怠ける生き物のようだ。
競争という概念がないと、まともな発展はできないのだ。
(生活保護はなんなのか、という政治学的な話は勘弁――以下略。しかし、だ。生活保護制度も、生活保護を受けていない人たちが、それ以上(以上、という言葉をつかえば、「イコール」も含むということだが、まぁそれでよかろう)の生活ができている、という基盤に立っているからのことだと思う。それが明確に崩れたら、制度として成り立たないだろう。「生活保護を受けるのは権利だ! 恥ずかしいことじゃないんだ!」そういった主張、その通りだと思う。しかし、現実問題、生活保護が貴族のノブリス・オブリージュで成り立っているのではなくて、税金財源なんだから、みんなが生活保護を受けるようになったら制度として成り立たないだろう)
要するに、バランスで成り立つようになってしまったのだ。
イデオロギーとかいう言葉は流行らなくなったのだ。
漸近的になんとかだましだましやってくしかないのだ。
「うるせー! そんなんやってられっか! 俺は苦しいんだ! バーカバーカ!」
というのが増えると、急進的な保護主義とか、異民族排他とかが発生する。
歴史は繰り返す。
繰り返させちゃいけないのだけれども、高名な学者様たちも、いまだ全世界共通普遍システムの構築には至れていない。
修正資本主義でしかない。
このままじゃあ、政治制度こそA.I.に任せちゃおうぜという意見が多数派になるかもしれない。アニメーション作品『サイコパス』の世界は近いのかもしれない。
政治的な話がきらい
ここでいう政治的というのは、国レベルではなくて、会社レベルでもそうだし、家族レベルでもそうだ。要するに、利害調整的な仕事がウンザリである。
30数年生きてきて最近思うのは、やはり僕は、何か作る又は創ることが好きなのである。
ここの部署はこうだからあーして、あっちの部署にはこう根回しして……とか、ほんっとうに面倒くさい。どうでもいい。
いやすぐさま書いておかなければいけないのは、要望とか、何か作るにあたって必要な要件を収集するということは大切だし、むしろ積極的にやりたいぐらいである。僕が「きらい」といっているのは、ある案件について、どっちの部署がやるだとか、それは俺の仕事じゃないだとか、関係ないだとか、そういうことが面倒くさいということである。
そして、そういうのを「マネジメント」というのなら、管理職に魅力なんてない。昨今の若者は出世願望がないとかいわれるが、そういう問題じゃないと思っている。
給料が高ければ、それだけでいいって人も中にはいるだろうけれども、仕事の中身自体が魅力的でないならば、やりたいと思う人が多数派になるはずはないのだ。
(同時に、「自発的であれ!」「仕事は自分でとるものだ」「自分で考えろ」ということも言われたりする。ばかばかしい。「自発的」すなわち内発的動機を重要視するならば、余計に魅力的な仕事内容でなければ不可能だろう)
同時に書いておきたいのは、管理職だからこそ、「つくる」ということも可能だろう。それは、より「間接的」になるかもしれない。実際に自分が手を動かしてつくることは少なくなってしまうかもしれない。けれども、その分より大きな、自分がつくりたいと思ったものを、つくることも可能になるかもしれないのだ。そういう魅力をもっと語ってほしいものである。
大変だー大変だー忙しいー疲れたー、とかいいつつ、出世しろ、管理職を目指せ、なんてのは、ばかばかしいこと限りない。――限りないと思うだろう、思うのだけれども、皆さんもそういう人を見かけることは少なくないのではなかろうか。
楽しいとか面白いとか
うーむ、なんだか、当初書こうと思っていた内容から随分はずれてしまった気がする。しかし、これはいつものことである。
書いているうちに方向性が変わるってことはよくあることだ。
しかし、どうしたもんか。
人は様々である。
年上もいれば、年下もいる。上司もいれば同僚・部下もいる。男もいれば女もいる。受託もあれば委託もある。そんな中で、「楽しい」を仕事に介在させるというのは夢幻のことなのか。
しかし、大事なことは二つあると思っていて、
・貢献心
・成長心
である。
所属する組織に対して、自分が役に立てることを探すということ。
自分ができることを増やしていくということ。
これは、どんな組織にいても普遍的に大切なことだと思う。
当たり前のことである。
会社に害をなそうとして毎日仕事している人はいまい。いたら埋伏の毒というかスパイというか。
どんどん劣化していきたいと思うことだってなかろう。いつも男は筋トレに励み、いつも女は美容に励んでいるではないか(くだらない例え話である)。
会社に限った話でもない。
家族という組織(集団)であっても、同様に貢献と成長は必要だろう。家にはサラリーを入れてるから家事は全くしなくてよいのだ、という夫や妻がいる家庭は、よほどの事情がなければ上手くいかないだろう。また、ゴミの分別や曜日がいつになっても覚えられないという成長がない夫や妻がいるというのも、片方への苛々が醸成される原因になるだろう。
そんとき、何を大事にするか、というのが「価値観」である。
で、この価値観は色々あってしかるべき、という風潮になっている。多様性である。――という話しになると、先日の「多様性について」の記事を参照すればよいだろうか。
価値観は色々あってよいんだけれども、それがぶつかったときどうしようか、というのが「ルール」である。
しかし、会社における価値観ってのは、とある部署の主張だけ通せばいいってもんじゃないと思うんだが、まぁこれも脱線か。
家族という集団は、分離するという手段もとれる。会社もまぁ、辞めるという手段や異動するという手段もあるだろう。
しかし根本的に、対立という芽は至る所にある。
それというのもそもそも、「世界平和」と「WIN-WIN」を成り立たせる普遍ルールが、実のところ世界には存在していないからだ。
(かっこ書きである。「普遍ルール」と書いたけれども、ルールで人を縛れるのか、というのもある。暴力装置は必要なのか。文明があっても、シビリアンコントロールでも、「いざ」ってときに強制的に黙らせられる力がないと、人はルールに価値を持てないのではないか、と僕は思う。この部分も、いろんな価値観があるものだと思う。世界平和のために兵器も軍隊も排除すべきだ、という主張もみかけることがあるだろう。核兵器廃絶という理念は僕は賛成するが、現実的に可能なのか疑問だ。ロストテクノロジーって、人為的に可能なのだろうか。ロケット技術と原子力発電所の技術があれば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)に核爆弾のっけられるってのを何かで見た気がする。いやそんな、世界征服を企む悪の組織が勃興するというのもあまり思えないのだけれども、「人の対立」という概念がなくならない限り、強制力・強制装置は必須だというのが僕の考えである。でも、繰り返すが、僕は世界平和が大事だと思うし、目指すべきだと思う。いじめだって、ブラック企業だってなくなればいいと思う。しかし、僕は指導だと思って言ったことも、「遠藤さんって時折厳しいこと(ひどいこと)言いますよね」とか言われたこともあったりするし、まぁ難しい問題である。しかしこういうのは、真摯に反省すべきである。「自分はどうか」という視点がない人が多いせいで、パワハラとか飲酒運転とか減らないのである。もしかしたら、明日は迎えられないかもしれない。それどころか、数時間後には死ぬかもしれない。常にそう思っていたら病気だけれども、そういう気持ちで生きる(生活する)ことも時に必要である。――といいつつ、今日は疲れたからビール飲んでゲームして遊ぶ(おい))
今日の一言「毎年来年の目標を考えるわけだが」「月単位で目標があるのもよさそう」
・CSSの勉強
・SQLの勉強
・VBAの勉強
みんなパソコン関係だな。
ニンジャスレイヤーについて、ある方がブログで触れられていたので、名前ぐらいは知っていたのだけれども、アニメーションもあることを知ってみてみた。ある方のブログで、「ギャグなのか? シリアスなのか?」と思っていたが、大真面目だった。
「どーも。ニンジャスレイヤーです」「どーも。ニンジャスレイヤー・サン。〇〇です」
が面白すぎた。
挨拶、大事だ。大変失礼だ。
さて年末である。
師走というと12月からであるが、気持ちは年末である。
先般、サイト更新(作品整理)を11月中に行うと宣言し、実行できた。おそらく、宣言をしなければ、「いつでもできる=いつまでもできない」状態になって、実施できなかったのではなかろうと思う。
あと、年内に一つ連載を完結させるという目標も宣言している。これの進捗は落ちてきている。やらねばならぬ。
2018年のブログ記事は50記事ぐらいである。2017年は150記事を超えている。
文字数の違いはあるかもしれないが、間違いなく2017年の方が文字を書いたことだろう。
じゃあ、2018年の方が活動的でなかったのかというと、そういうわけではなかろう。むしろ、書いている時間が他の何か作業に使われていたのであれば、活動的であったといえるかもしれないわけだ。
ちなみに、この記事の着地点はない。
なんとなく、年末に関しての所見をだらだらと書いて終わることだろう、そんな気がする。
そんなことに使用する時間は必要なのか。必要である。
コーヒーを飲みながら書くという時間は自分にとって貴重である。
コーヒーには、「お茶」だったり、「ビール」だったりするかもしれないが、とにかく、飲み物と書くという時間は必要なのだ。
先日、少々トラブルに巻き込まれて困ったが、そういう時のほうが、「イライラ感」によって落ち着ているのではなかろうかとふと思った。
逆説的だが、「怒っている」とか、感情が一定方向であると、他の混在した感覚にならないため、安定した状態ともいえる。
……久しぶりに書くと、何を書いていいのかよく分からなくなる。
何個かは、書いておきたいこともあったのだ。しかし、時間経過によって、感情が抜け落ちる。
すぐに「どうでもいいこと」の仲間入りだ。
そうならないように、書く、ということは、定期的、……いやもっと、日常的に行いたいのだ。
何も参照しないで書くことができなくなってきた。これは、インプット不足である。
仕方がないので、2017年12月最後の記事を読んでみる。
なるほど、2017年は「整理」の年だった。
そして、2018年、つまり今年は、「生きる意味」「創作」の2軸の追求が目標であったのだ。知っていたか? 忘れていた。正直。……自分に呆れる。
いやまぁ、明確に目標にしていたんだ、ということは忘れていたけれども、思考ベースでは忘れていなかった。でなければ、サイト更新やそれに関連する勉強などもするまい。
……やや脱線するが、「勉強」という言葉があまり適切でない気がする。しかし、知識や経験を増やす作業は、僕は「勉強」と呼称する以外に知らない。仕事=お金を稼ぐ行為と直結しないすべては「趣味」なのか? 違うと思う。
趣味は、二種類ある。いや、人間の行動は二種類しかない。生産か、消費か、だ。仕事は生産かというとそうでもない場面は実際に働いたことがある人はよくわかるだろう。ただ、仕事がどうこうだけでなく、趣味といった面でも、生産か、消費か、どちらかだ。
さらに、別ベクトルで、インプットとアウトプットに分けられる。そして、インプットを、僕は勉強と呼んでいる。
趣味の世界におけるアウトプットの場が広がったのが、現代社会の良いところだと思う。
それによるセキュリティやイジメといった問題もあるのだろうけれども、この辺りは、現代社会に拍手して良いと思う。
テレビやニュースなどで、政治や経済やら外交やら、いつも批判的な内容ばかりである。たまに良いニュース的なのは、動物ほんわかとか、紅葉がきれいですとかそんなものである。いや動物かわいいし、紅葉もきれいだけども、そうではなくて、もっとこんな良いことがありましたってニュースがあってもよいではないか。大本営発表みたいで嘘くさい? まぁそうかもしれない。要はバランスである。
「当たり前度」が高まることは悪くはない。それが民度であったり、常識だったりマナーだったり、社会レベルを向上させる。
ただ、当たり前は、当たり前であって当たり前ではない。トートロジーだが、要するに、当たり前を当たり前にするためにも努力やコストは必要だということだ。
全然よくわかっていないが、電車が毎日安全に動いているのも、様々な安全のための「努力」(それは人が汗かいているわけではないかもしれない)がなされているのであろう。
当たり前を当たり前だと思ってはいけない。その当たり前が成り立っている条件をよく考えなければいけない。
しかし、全部が全部を考えることなど、到底できないほど複雑化しているのが現代社会である。そうしたときに、できるだけ幅広い知識見識を広めていくという努力はあってしかるべきだが、果たして、そうした方向性だけで十分なのか、ということは、僕はずっと疑問である。この疑問は、こうした表現をしたことはなかったろうが、例えば、「生涯学習」という言葉に嫌悪を覚えるのと同じ構造だと思う。
同時に、繰り返しになるが、学ぶこと、勉強、成長といった概念自体は重要だと思うし、嫌いでもない。
では本題的な奴だが、来年の目標も、同じでいいと思う。
「創作」「生きる意味」
――これはある意味、画期的だ。僕史上初かもしれない。
毎年の目標というと、いつも違うものを考えていた、無意識に。
しかし、今(まぁその、12月末までにまた変わるかもしれないが。……ぐらいの感覚で目標というのは構わない)は、同じでよいだろうと素直に思った。
よく考えると、いつも違う目標を掲げてしまうのは、「こうじゃない」「本当の僕はこれじゃない」的な感覚があるからではなかろうか。もしくは、「もっと高みを目指さないといけない」とかいった、高圧的というか、焦燥感的な奴のせいではなかろうか。
根の張ったものであれば、目標は別に変える必要はないのだ。
――が、しかし。落ち着いて考えれば、「変えなくていい」=「達成できていない」ということかもしれない。
なるほど確かに。
しかし、孔子さん曰く、「生きる意味が分かったら夕方死んでもいいぐらいだわww」(朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)ということらしいので、そんなこんなすぐに達成できるものではなかろう。
要するに、「選択」の問題なのだ。
それは、時間が有限であるという事実から発する問題である。しかし、この問題は、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
選択するということは、未来を選ぶということである。まだ起こっていない先に対して、自分の意志を決定するのだ。同時に、その決定が「責任」という概念でもある。責任を取りなさいと言われるが、その意味するところは、自分の意志である。
犯罪を犯したときに、懲役刑に服するのが責任なのではない。事象の原因が自分に関係することを認めるというのが責任なのである。刑罰は、単なる社会契約の一つに過ぎない。罪を償うことはできない。社会契約上の責任は果たされても、何かを行ったことが事実であれば、それに対する責任は消えることはない。
消えることのない概念は、社会を形成、運営するのに不都合なので、法律という取り決めによって、事象に対しての結果(従うべきこと)が明文化されているのである。
多くの人は、犯罪に手を染めることはないだろう。
しかし、犯罪と無縁であっても、責任は常に発生している。それは幼子であってもそうだ。保護者や、少年法というものがあっても、赤ん坊がベランダを乗り越えて地面に落下し死亡したのは、赤ん坊の責任なのだ――というと、非難轟轟になるから言わないけれども、赤ん坊が「悪い」ということを言うのではない。悪くはない、不可抗力だ。だが、死亡という結果に対しての責任は赤ん坊自身にある。いやまて、他殺はどうか。道を歩いていたら暴漢に襲われ刺されて死んだ、これは、自分の責任なのだろうか。自然災害はどうか。地震で建物が崩れて圧死した、自分の責任なのか。
いったん、全部自分の責任だと考えた方がよい。
こういうと、大災害を天罰だとかいって糾弾された何某かが思い出されるが、それとは別の話である。社会的な責任という概念と、本来的な責任という概念は、分けて考えるべきだ。
生きる意味を考えるというのは、責任を考えることでもある。
身に降りかかるすべての事象を、自分の選び取ったものだとして考え、感じることである。
それができなければ、一生、運命論的な不確実性や、リスク(発生するかもしれない危険)に囚われ続けることになる。
失敗はする。間違いを犯す。後悔もする。
だって人間だもの。
プログラムはミスをしない。機械は故障するかもしれない。想定外の動作をするかもしれない。しかしそれは、プログラムに従った結果なのだ。
そもそも、プログラムで世界事象を再現させることなどできない。――できないが、できるようになればシンギュラリティである。
人間はミスをする。
それは、動作的なものもそうだが、思考エラーも起こす。
人間は、飽きる性質もある。
プログラムは繰り返しが得意だ。決まったことを何億何兆回と繰り返すことができる。人間はできない。
人間はミスをする。ミスをしたとき、その原因をどこに帰するのか。全責任が自分にあると思う必要はない。しかし、自分が介在する余地は、本当にゼロだったのか。
失敗したとき、すべて環境等、自分以外のものに責任をとらせようとしたら、人生はつまらないものになる。自分の意思が介在する余地がなくなる。
抽象論ばかりになってしまったが、一つ思い出した。
ある人を怒らせてしまって、メールでお詫びのメッセージを入れた。もちろん電話でも謝った後に、だ。しかし、一旦電話で謝って少し怒りを収めてくれていたにもかかわらず、自分が送ったお詫びメッセージによって、さらに怒りを増幅させてしまったのだ。
これは、僕のミスだったろう。結果からしたら間違いなく失敗だ。
また、僕は、メールを送るという行為と、送らないということ、両方を選択することができた。メールを送るという選択をした。相手を怒らせた。
だが。送らないという選択が仮に正しかったとして、僕はそれを知ることはできなかった。
時間は過去から未来へと進む。不可逆だ。
長くなったので中断。
(かっこ書きである。……と、この記事に書いたことも、30代おじさんの戯言に過ぎない、かもしれない。来年には一笑に付しているかもしれない。だからこそ、選択なのである。書くのも自由。書かないのも自由。だが俺は選択した。それで十分なのだ。筋トレや音読を続けたところで、誰かに褒められるものでもない。成果が数字にあらわれるものでもない。だが行う。それでいいのだ。――そして、ずっと内心みとめたくなかったことで、これからもそうかもしれないが、やっぱり、過去に比べたら今がよほど楽である。10代ぐらいのときから、今ぐらいの心持でいられたら、もしかしたらそんなに性格がひんまがらなかったかもしれない。だが、それもまた然り。自己の責任の下でなされてきたことに過ぎない。――そして、何故ラクなのかといえば、やはり、「自由」の幅が広がったからだと思う)
近況メモ
・サイト更新・CSSの勉強
・SQLの勉強
・VBAの勉強
みんなパソコン関係だな。
ニンジャスレイヤーについて、ある方がブログで触れられていたので、名前ぐらいは知っていたのだけれども、アニメーションもあることを知ってみてみた。ある方のブログで、「ギャグなのか? シリアスなのか?」と思っていたが、大真面目だった。
「どーも。ニンジャスレイヤーです」「どーも。ニンジャスレイヤー・サン。〇〇です」
が面白すぎた。
挨拶、大事だ。大変失礼だ。
さて年末である。
師走というと12月からであるが、気持ちは年末である。
先般、サイト更新(作品整理)を11月中に行うと宣言し、実行できた。おそらく、宣言をしなければ、「いつでもできる=いつまでもできない」状態になって、実施できなかったのではなかろうと思う。
あと、年内に一つ連載を完結させるという目標も宣言している。これの進捗は落ちてきている。やらねばならぬ。
モチベーション
振り返ってみる。2018年のブログ記事は50記事ぐらいである。2017年は150記事を超えている。
文字数の違いはあるかもしれないが、間違いなく2017年の方が文字を書いたことだろう。
じゃあ、2018年の方が活動的でなかったのかというと、そういうわけではなかろう。むしろ、書いている時間が他の何か作業に使われていたのであれば、活動的であったといえるかもしれないわけだ。
ちなみに、この記事の着地点はない。
なんとなく、年末に関しての所見をだらだらと書いて終わることだろう、そんな気がする。
そんなことに使用する時間は必要なのか。必要である。
コーヒーを飲みながら書くという時間は自分にとって貴重である。
コーヒーには、「お茶」だったり、「ビール」だったりするかもしれないが、とにかく、飲み物と書くという時間は必要なのだ。
先日、少々トラブルに巻き込まれて困ったが、そういう時のほうが、「イライラ感」によって落ち着ているのではなかろうかとふと思った。
逆説的だが、「怒っている」とか、感情が一定方向であると、他の混在した感覚にならないため、安定した状態ともいえる。
……久しぶりに書くと、何を書いていいのかよく分からなくなる。
何個かは、書いておきたいこともあったのだ。しかし、時間経過によって、感情が抜け落ちる。
すぐに「どうでもいいこと」の仲間入りだ。
そうならないように、書く、ということは、定期的、……いやもっと、日常的に行いたいのだ。
目標
さて。何も参照しないで書くことができなくなってきた。これは、インプット不足である。
仕方がないので、2017年12月最後の記事を読んでみる。
なるほど、2017年は「整理」の年だった。
そして、2018年、つまり今年は、「生きる意味」「創作」の2軸の追求が目標であったのだ。知っていたか? 忘れていた。正直。……自分に呆れる。
いやまぁ、明確に目標にしていたんだ、ということは忘れていたけれども、思考ベースでは忘れていなかった。でなければ、サイト更新やそれに関連する勉強などもするまい。
……やや脱線するが、「勉強」という言葉があまり適切でない気がする。しかし、知識や経験を増やす作業は、僕は「勉強」と呼称する以外に知らない。仕事=お金を稼ぐ行為と直結しないすべては「趣味」なのか? 違うと思う。
趣味は、二種類ある。いや、人間の行動は二種類しかない。生産か、消費か、だ。仕事は生産かというとそうでもない場面は実際に働いたことがある人はよくわかるだろう。ただ、仕事がどうこうだけでなく、趣味といった面でも、生産か、消費か、どちらかだ。
さらに、別ベクトルで、インプットとアウトプットに分けられる。そして、インプットを、僕は勉強と呼んでいる。
趣味の世界におけるアウトプットの場が広がったのが、現代社会の良いところだと思う。
それによるセキュリティやイジメといった問題もあるのだろうけれども、この辺りは、現代社会に拍手して良いと思う。
テレビやニュースなどで、政治や経済やら外交やら、いつも批判的な内容ばかりである。たまに良いニュース的なのは、動物ほんわかとか、紅葉がきれいですとかそんなものである。いや動物かわいいし、紅葉もきれいだけども、そうではなくて、もっとこんな良いことがありましたってニュースがあってもよいではないか。大本営発表みたいで嘘くさい? まぁそうかもしれない。要はバランスである。
「当たり前度」が高まることは悪くはない。それが民度であったり、常識だったりマナーだったり、社会レベルを向上させる。
ただ、当たり前は、当たり前であって当たり前ではない。トートロジーだが、要するに、当たり前を当たり前にするためにも努力やコストは必要だということだ。
全然よくわかっていないが、電車が毎日安全に動いているのも、様々な安全のための「努力」(それは人が汗かいているわけではないかもしれない)がなされているのであろう。
当たり前を当たり前だと思ってはいけない。その当たり前が成り立っている条件をよく考えなければいけない。
しかし、全部が全部を考えることなど、到底できないほど複雑化しているのが現代社会である。そうしたときに、できるだけ幅広い知識見識を広めていくという努力はあってしかるべきだが、果たして、そうした方向性だけで十分なのか、ということは、僕はずっと疑問である。この疑問は、こうした表現をしたことはなかったろうが、例えば、「生涯学習」という言葉に嫌悪を覚えるのと同じ構造だと思う。
同時に、繰り返しになるが、学ぶこと、勉強、成長といった概念自体は重要だと思うし、嫌いでもない。
来年の目標
脱線したけれども、いつもの書いている感覚を思い出してきた。ここまで30分ぐらいか。では本題的な奴だが、来年の目標も、同じでいいと思う。
「創作」「生きる意味」
――これはある意味、画期的だ。僕史上初かもしれない。
毎年の目標というと、いつも違うものを考えていた、無意識に。
しかし、今(まぁその、12月末までにまた変わるかもしれないが。……ぐらいの感覚で目標というのは構わない)は、同じでよいだろうと素直に思った。
よく考えると、いつも違う目標を掲げてしまうのは、「こうじゃない」「本当の僕はこれじゃない」的な感覚があるからではなかろうか。もしくは、「もっと高みを目指さないといけない」とかいった、高圧的というか、焦燥感的な奴のせいではなかろうか。
根の張ったものであれば、目標は別に変える必要はないのだ。
――が、しかし。落ち着いて考えれば、「変えなくていい」=「達成できていない」ということかもしれない。
なるほど確かに。
しかし、孔子さん曰く、「生きる意味が分かったら夕方死んでもいいぐらいだわww」(朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)ということらしいので、そんなこんなすぐに達成できるものではなかろう。
生きる意味を考えるとは
もう少し、具体化する必要があるだろう。要するに、「選択」の問題なのだ。
それは、時間が有限であるという事実から発する問題である。しかし、この問題は、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
選択するということは、未来を選ぶということである。まだ起こっていない先に対して、自分の意志を決定するのだ。同時に、その決定が「責任」という概念でもある。責任を取りなさいと言われるが、その意味するところは、自分の意志である。
犯罪を犯したときに、懲役刑に服するのが責任なのではない。事象の原因が自分に関係することを認めるというのが責任なのである。刑罰は、単なる社会契約の一つに過ぎない。罪を償うことはできない。社会契約上の責任は果たされても、何かを行ったことが事実であれば、それに対する責任は消えることはない。
消えることのない概念は、社会を形成、運営するのに不都合なので、法律という取り決めによって、事象に対しての結果(従うべきこと)が明文化されているのである。
多くの人は、犯罪に手を染めることはないだろう。
しかし、犯罪と無縁であっても、責任は常に発生している。それは幼子であってもそうだ。保護者や、少年法というものがあっても、赤ん坊がベランダを乗り越えて地面に落下し死亡したのは、赤ん坊の責任なのだ――というと、非難轟轟になるから言わないけれども、赤ん坊が「悪い」ということを言うのではない。悪くはない、不可抗力だ。だが、死亡という結果に対しての責任は赤ん坊自身にある。いやまて、他殺はどうか。道を歩いていたら暴漢に襲われ刺されて死んだ、これは、自分の責任なのだろうか。自然災害はどうか。地震で建物が崩れて圧死した、自分の責任なのか。
いったん、全部自分の責任だと考えた方がよい。
こういうと、大災害を天罰だとかいって糾弾された何某かが思い出されるが、それとは別の話である。社会的な責任という概念と、本来的な責任という概念は、分けて考えるべきだ。
生きる意味を考えるというのは、責任を考えることでもある。
身に降りかかるすべての事象を、自分の選び取ったものだとして考え、感じることである。
それができなければ、一生、運命論的な不確実性や、リスク(発生するかもしれない危険)に囚われ続けることになる。
責任と失敗
これは、ミスをゼロにするということではない。失敗はする。間違いを犯す。後悔もする。
だって人間だもの。
プログラムはミスをしない。機械は故障するかもしれない。想定外の動作をするかもしれない。しかしそれは、プログラムに従った結果なのだ。
そもそも、プログラムで世界事象を再現させることなどできない。――できないが、できるようになればシンギュラリティである。
人間はミスをする。
それは、動作的なものもそうだが、思考エラーも起こす。
人間は、飽きる性質もある。
プログラムは繰り返しが得意だ。決まったことを何億何兆回と繰り返すことができる。人間はできない。
人間はミスをする。ミスをしたとき、その原因をどこに帰するのか。全責任が自分にあると思う必要はない。しかし、自分が介在する余地は、本当にゼロだったのか。
失敗したとき、すべて環境等、自分以外のものに責任をとらせようとしたら、人生はつまらないものになる。自分の意思が介在する余地がなくなる。
抽象論ばかりになってしまったが、一つ思い出した。
ある人を怒らせてしまって、メールでお詫びのメッセージを入れた。もちろん電話でも謝った後に、だ。しかし、一旦電話で謝って少し怒りを収めてくれていたにもかかわらず、自分が送ったお詫びメッセージによって、さらに怒りを増幅させてしまったのだ。
これは、僕のミスだったろう。結果からしたら間違いなく失敗だ。
また、僕は、メールを送るという行為と、送らないということ、両方を選択することができた。メールを送るという選択をした。相手を怒らせた。
だが。送らないという選択が仮に正しかったとして、僕はそれを知ることはできなかった。
時間は過去から未来へと進む。不可逆だ。
長くなったので中断。
(かっこ書きである。……と、この記事に書いたことも、30代おじさんの戯言に過ぎない、かもしれない。来年には一笑に付しているかもしれない。だからこそ、選択なのである。書くのも自由。書かないのも自由。だが俺は選択した。それで十分なのだ。筋トレや音読を続けたところで、誰かに褒められるものでもない。成果が数字にあらわれるものでもない。だが行う。それでいいのだ。――そして、ずっと内心みとめたくなかったことで、これからもそうかもしれないが、やっぱり、過去に比べたら今がよほど楽である。10代ぐらいのときから、今ぐらいの心持でいられたら、もしかしたらそんなに性格がひんまがらなかったかもしれない。だが、それもまた然り。自己の責任の下でなされてきたことに過ぎない。――そして、何故ラクなのかといえば、やはり、「自由」の幅が広がったからだと思う)
今日の一言「未定」
社会悪を多様性はどう考えるべきか
この一連の記事の最後に、いつものごとく、極端な例を考えてみよう。
人を殺すことが、命を奪うまでに残虐な拷問を加え、苦しむ姿を見ることが大好きでやめられない人がいたとする。
排除すべき悪であることは間違いないが、「多様性」の考え方は、これに対してどう回答すべきか。
前提として、ルールも、共通価値も、否定されるものではない、ということだ。
上に書いた通り、ルールも、人の偉大な発明の一つだ。
だから、人に害をなす存在は排除する、というルールはあって然るべきだろう。
しかしそれでは、ルール>共通価値>多様性(個人価値)という図式とならないだろうか、なってしまいがち、であろう。
だから、ルールは可変であるべき、ということについては、共通価値として、「教育」されなければならないと思う。逆に言えば、ルールと教育はセットでもある。だからゆえに、特定の国や価値観を排除する反教育は、全くもって下劣で理に反しているといえる。
教育は、「仕組み」を教えるにとどまるべきであって、思想の埋め込みであってはならないのだ。
いや、過去にそれが共通価値として正しい時代もあったので、過去永劫間違いであるという意味ではない。
ただ、ここまで書いてきた通り、何か一つの目的や価値に全人類を合わせる、というのは、根源的に不可能である、と思われる、ということである。
それが可能であると思う人も多いのだろうが、歴史を学んでもう少し考えて欲しいと思う。歴史が嫌いな人は、身の回りの組織や、集団(家族や、友人たちとのことだっていい。いろんな人がいなかったろうか)のことを考えて、少し敷衍できる能力があれば分かるだろう。
ここで、個人的な価値レベルと、宗教とか、資本主義とかそのレベルの大きな目的や内容であれば、共通性をもたせられると考える人もいるかもしれないが、それが、こののち数万年単位で普遍であると、どこまで信じられるかが問題である。
(かっこ書きである。未定)