今日の一言「やる気は必要か」
ま、それで、先月の記事を読んでみると、なんだかクレーム対応して取り急ぎうまくいったようだ。よかったよかった。
――後日談で、同じ人から再度かかってきて、「やっぱりこういうケースは云々!」ってあって、「まぁそうだけどさぁ、こういう風に書いてあるよね」(もちろん全部敬語だ)的な感じの対応が1時間ぐらいあったことは、当時書いていて知る由もなかったのであった(物語風に)。
知る由はなかったが、「今回うまくいって、次もうまくいくか分からないし」とか、まぁ想定どおりではあり、別に驚くことでもない。
とかって、どうでもいいことを書いてしまうが、前書きだし、仕方がないか。
ほんっとどうでもいい。
マジやる気でねぇ。
って感じだった。いや過去形でもないが。
とりあえず、ブログ書くのは、ルーティーン(ルーチン・日課)的なやつだからまぁできるけれども、ほんっと「どうでもいい」って表現が、よく心を表現している気がする。
そして僕はふと思った。
僕が「したいこと」は、何もしない、ということなのではないかと。
――と、いうよりも、思うに、「人と関わりたくない」という気持ちが強い気がする。
ネットはどうなのか。
ネットは特殊であるといえる。メールもそうだが、「相手」の空間同一性がない。
電話も空間性はないが、「時間同一性」がある。
他者との時空の同一性がない点が、ネットの最大最高のメリットである。
面倒くさいからである。
あと、「俺がしたいこと」と違うからである。
俺がしたいこととは何か。それは、明確になっていない。しかし、なんか違うことは間違いなく分かるのである。
広く言えば、俺は、ものすごく面白い物語を創りたいのであり、ものすごく面白い物語に触れたいのである。
現実生きている人間に興味はない――というのは極論過ぎて頭おかしいが、少なくとも、周囲に面白い人間はいない――って書くと涼宮ハルヒのようであるが、まぁやさぐれているときの気分としては遠からずである。
何故イライラするか。仕事がめんどくせぇのもあるが、なんか10月も休日に予定があることに起因する気がする。
じゃあ、やめちまえ、ということになるのだが、……まぁ、大人の事情でなかなかそうもいかないのである。
――というかだな、「やめちまえ」の許可が出始めると、「俺は人間やめるぞ」状態になる気もする。「ケモノノヨウニヒキコモリタイ」。
そう2時間。2時間なんて、1日24時間なんだから、睡眠時間削るでもなんでも、すぐにねん出できそうなものだ。
だが、切り取られた2時間は、なんか、その、違う。
何もしたくないというのは、「すべて」と隔絶した時ということなのである。
時間制限付きの「何もしたくない」などは、邪道どころか愚弄である。
それが実現するかどうかは別として。
どういった状態が、僕に、最高の人生であると感じさせてくれるのか。
「全感覚の遮断」
――それは、死ではないか……とよぎるが、表現が稚拙すぎるので、もう少し真面目に考えたい。
何もしたくないとは、何なのか。
呼吸をやめたいということなのか。いや似た心境として、食事をしているとき、「食べるのも面倒くさい」と思うことは皆よくあることだろう(いや「よく」は、ないって)。
呼吸をやめたい、とは思ったことはない。
食事、と呼吸とは、大きな乖離があるのだ。食事には、主体的な意思がありそうだ。呼吸は無意識だからかもしれない。
そう、だから、呼吸をしたいとか、したくないとか、そういう次元ではないのである。
呼吸は無意識に、しているのだ。
だからこそ、武術などで、呼吸すらも支配することが重要であったりするのだという、たぶん。
眠ったあとに、頭がすっきりすることはある。
しかし、本当に精神的にまいっているときは、眠りにつくときも、眠っていても、眠りから覚めても、気分はまいっているのである。
そもそも、「何もしたくない」ということは、「何かをしている」ということなのか。
例えば、電車に乗って帰宅するとき、「ああ何もしたくない」と思う。
しかし、別に電車に乗っているだけだ。車掌さんに感謝こそし、自分は「何もしていない」のではなかろうか。
いや違う。「電車に乗っている」ことをしているのだ。また、「面倒くさいことを考えている」ことをしているのだ。
何もしたくないとは、意識を無にしたいということではなかろうか。
以上。
……おぉ……そうだったのか。
ちなみに、上の結論的なことは、当然、「前書き」書いていたあたりで、一切考えついてもいんかったことである。思考、面白きかな。
前書き
PCでマイブログ見ると、サイドバーに、「〇前の記事」的なリンクがある。これはブログのプラグインではなく、自作の簡易プログラム(javascript)だ。ま、それで、先月の記事を読んでみると、なんだかクレーム対応して取り急ぎうまくいったようだ。よかったよかった。
――後日談で、同じ人から再度かかってきて、「やっぱりこういうケースは云々!」ってあって、「まぁそうだけどさぁ、こういう風に書いてあるよね」(もちろん全部敬語だ)的な感じの対応が1時間ぐらいあったことは、当時書いていて知る由もなかったのであった(物語風に)。
知る由はなかったが、「今回うまくいって、次もうまくいくか分からないし」とか、まぁ想定どおりではあり、別に驚くことでもない。
とかって、どうでもいいことを書いてしまうが、前書きだし、仕方がないか。
何もしたくない
モチベーション、やる気、目標、将来、意味。ほんっとどうでもいい。
マジやる気でねぇ。
って感じだった。いや過去形でもないが。
とりあえず、ブログ書くのは、ルーティーン(ルーチン・日課)的なやつだからまぁできるけれども、ほんっと「どうでもいい」って表現が、よく心を表現している気がする。
そして僕はふと思った。
僕が「したいこと」は、何もしない、ということなのではないかと。
――と、いうよりも、思うに、「人と関わりたくない」という気持ちが強い気がする。
ネットはどうなのか。
ネットは特殊であるといえる。メールもそうだが、「相手」の空間同一性がない。
電話も空間性はないが、「時間同一性」がある。
他者との時空の同一性がない点が、ネットの最大最高のメリットである。
何故何もしたくないのか
なぜなのか。何故人とかかわりたくないのか
なぜなのか。面倒くさいからである。
あと、「俺がしたいこと」と違うからである。
俺がしたいこととは何か。それは、明確になっていない。しかし、なんか違うことは間違いなく分かるのである。
広く言えば、俺は、ものすごく面白い物語を創りたいのであり、ものすごく面白い物語に触れたいのである。
他者の人生ほど面白いものはないのではないか
え、それはマジでいってんのか。現実生きている人間に興味はない――というのは極論過ぎて頭おかしいが、少なくとも、周囲に面白い人間はいない――って書くと涼宮ハルヒのようであるが、まぁやさぐれているときの気分としては遠からずである。
何もしたくない(2回目)
この記事は、カテゴリも「イライラ対処」だから、とにかくイライラを表現することが目標である。何故イライラするか。仕事がめんどくせぇのもあるが、なんか10月も休日に予定があることに起因する気がする。
じゃあ、やめちまえ、ということになるのだが、……まぁ、大人の事情でなかなかそうもいかないのである。
――というかだな、「やめちまえ」の許可が出始めると、「俺は人間やめるぞ」状態になる気もする。「ケモノノヨウニヒキコモリタイ」。
何もしたくないとは何か
俺に、今ここに、2時間ぐらい時間があるとする。そう2時間。2時間なんて、1日24時間なんだから、睡眠時間削るでもなんでも、すぐにねん出できそうなものだ。
だが、切り取られた2時間は、なんか、その、違う。
何もしたくないというのは、「すべて」と隔絶した時ということなのである。
時間制限付きの「何もしたくない」などは、邪道どころか愚弄である。
何もしたくないことを表現する
最高の状態を考えたい。それが実現するかどうかは別として。
どういった状態が、僕に、最高の人生であると感じさせてくれるのか。
「全感覚の遮断」
――それは、死ではないか……とよぎるが、表現が稚拙すぎるので、もう少し真面目に考えたい。
何もしたくないとは、何なのか。
呼吸をやめたいということなのか。いや似た心境として、食事をしているとき、「食べるのも面倒くさい」と思うことは皆よくあることだろう(いや「よく」は、ないって)。
呼吸をやめたい、とは思ったことはない。
食事、と呼吸とは、大きな乖離があるのだ。食事には、主体的な意思がありそうだ。呼吸は無意識だからかもしれない。
そう、だから、呼吸をしたいとか、したくないとか、そういう次元ではないのである。
呼吸は無意識に、しているのだ。
だからこそ、武術などで、呼吸すらも支配することが重要であったりするのだという、たぶん。
眠いとは違うのか
何もしたくないというのは、眠りたい、というのとは違うのか。違う。眠ったあとに、頭がすっきりすることはある。
しかし、本当に精神的にまいっているときは、眠りにつくときも、眠っていても、眠りから覚めても、気分はまいっているのである。
そもそも、「何もしたくない」ということは、「何かをしている」ということなのか。
例えば、電車に乗って帰宅するとき、「ああ何もしたくない」と思う。
しかし、別に電車に乗っているだけだ。車掌さんに感謝こそし、自分は「何もしていない」のではなかろうか。
いや違う。「電車に乗っている」ことをしているのだ。また、「面倒くさいことを考えている」ことをしているのだ。
何もしたくないとは、意識を無にしたいということではなかろうか。
坐禅しよう
つまり、最高の状態とは、坐禅である。以上。
……おぉ……そうだったのか。
ちなみに、上の結論的なことは、当然、「前書き」書いていたあたりで、一切考えついてもいんかったことである。思考、面白きかな。
あとがき
(かっこ書きである。寝るのと、坐禅とは違うのか。睡眠時間の方が大切ではないか。ゴウタマ氏や道元氏が聞いたら卒倒しそうであるが、改めて違う、と言っておいたほうがよいだろう。記事本文で書いた通り、寝たところで、思考が滅入っているときは、眠りは有効な解決手段ではないのである。――とりいれてみよう、と思いつつ、今週は野暮用のせいで、できない日が複数ありそうである。だが、坐禅(と書くと、宗教じみて気持ち悪いと思われそうだから、「瞑想」でも、表現はどうでもいいのだが)を日課に取り入れてみることは、検討余地ありそうだ。心が、得体のしれないイライラ、もやもやで、乱れている。「自分」が乱れているときに、「他者」の働きかけは無意味である。これは、他者が悪いのではない(といっても、だれにもつたわらない)。「自分」という存在が崩れかけているときに、他者が立て直してくれるというのは人間存在の冒涜である。他者の働きかけが有効なのは、「自分」の核(コア)がしっかりと形成されている状態が故である。今すぐにでも自殺しそうな緊急性を除いて、他者は役に立たない。話は変わるが、「可能性」という呪いがある以上、自殺は論理的にできない。一方で、「理解」(または「自我の確立」)というのは、可能性をつぶしていく作業である。というわけで、瞑想を検討する。その取り組みと結果を来週書くことにする)PR
今日の一言「推測や抽象的思考力が人間たる証」
>グラフが使えなくなったことでもあるし、しばらく、というか9月30日まで、アギュギテムノルマはお休みにする。俺はヘヴンスマイルどもを殺(ト)ることに専念する
簡単に書けば、ファッキンなガレリアハイパフォーマンスゲーミングPCにはデフォルトでオフィスが入っていないために、自分が作成しとある方へ(というよりも公開しているが)提供した創作進捗グラフツールなるものも使えなくなったのであった。
当たり前過ぎる!!
1.PHP(WEBサイト)で実装できないか
→できる。レーダーチャート的なグラフのライブラリは既に使ったことあるし、棒グラフの方が簡単そう
2.でも入力データとかどうするの?
→難題。割とマジでやるなら新規データベースが必要そう。
→いや、クッキー(ブラウザ側に保存する方法)ではどうか。
→いいかも。取り敢えず一週間分で試作してみるか。
3.文字数の差分はどうやって求めるの?
→前述クッキーで、差分文字数と、前日文字数(トータル)を管理して、当日分の文字数を入力することで求める仕組みはどうか。
→いいかも。ただ、とりあえず作ってみないと課題のイメージわかない。
4.グラフの保存はどうするの?
→こればっかしはブラウザに表示させて、右クリックで保存してもらうしかないな。
そして、とりあえずベータ版できた!
(以下アクセスコード)
https://www.fya.jp/~sousakupower/mojigraph.php
1 アクセスする
「作品名」
「昨日までの文字数」
「今日までの文字数」を入力。
ここで入力する文字数は、総トータルの文字数。
2 登録ボタンを押す
登録しましたメッセージが出たら多分成功。
「グラフ表示」ボタンを押す。
3 グラフが表示される
一日分だけだと不格好だけど、ちょっとまって。文字数登録ボタンを押してみる。
4 文字数登録の下の方のデータ修正をする
修正する日付と、文字数を入力。
ここでの文字数は、グラフに表示させたい文字数(差分)。
入力したら「修正」ボタンを押す。
5 グラフが追加される
以上、こんな感じ。
え、過去のデータ!!!??
……。
……。
……。
エクセル買いましょう!!!(遠い目)
(かっこ書きである。ともかく、仕様検討含む目標8時間を達成できて満足。今日分は大丈夫だけれども、しばらく使ってみて大丈夫か確認要だな。問題なさそうだったら、ホムペにも創作支援ってことでリンク掲載紹介しようかなとも思う。いやあしかし、集中したな。コーヒー飲むのとトイレ以外は余計な事せずキーを叩いてたな。――なんか、疲労はあるけれども、仕事よりは間違いなく楽しいな……ああ、明日からまた仕事か……)
前書き
はは、自分の思考力のなさに呆れるものである。>グラフが使えなくなったことでもあるし、しばらく、というか9月30日まで、アギュギテムノルマはお休みにする。俺はヘヴンスマイルどもを殺(ト)ることに専念する
簡単に書けば、ファッキンなガレリアハイパフォーマンスゲーミングPCにはデフォルトでオフィスが入っていないために、自分が作成しとある方へ(というよりも公開しているが)提供した創作進捗グラフツールなるものも使えなくなったのであった。
当たり前過ぎる!!
仕様検討
反省した僕は少し仕様検討に入るのであった。1.PHP(WEBサイト)で実装できないか
→できる。レーダーチャート的なグラフのライブラリは既に使ったことあるし、棒グラフの方が簡単そう
2.でも入力データとかどうするの?
→難題。割とマジでやるなら新規データベースが必要そう。
→いや、クッキー(ブラウザ側に保存する方法)ではどうか。
→いいかも。取り敢えず一週間分で試作してみるか。
3.文字数の差分はどうやって求めるの?
→前述クッキーで、差分文字数と、前日文字数(トータル)を管理して、当日分の文字数を入力することで求める仕組みはどうか。
→いいかも。ただ、とりあえず作ってみないと課題のイメージわかない。
4.グラフの保存はどうするの?
→こればっかしはブラウザに表示させて、右クリックで保存してもらうしかないな。
あとがき
(かっこ書きである。おまえ、そんなことしている暇あったらシロガネ感想――まぁ待ちたまえ、上のようなのは割と楽しいのである。日曜大工的な奴だ。DIYだ。こういうのは好きなんだ。そして割と本気でやれば1日ぐらいでできそうな見込みがある。同じ「考える」のでも、ブログ書くのと、感想書くのと、こういう作業的な「考える」とは違うのである。だから、しばし、そうさな……8時間ぐらい使うことをお許し願いたい)追記
(約7時間後……)そして、とりあえずベータ版できた!
(以下アクセスコード)
https://www.fya.jp/~sousakupower/mojigraph.php
1 アクセスする
「作品名」
「昨日までの文字数」
「今日までの文字数」を入力。
ここで入力する文字数は、総トータルの文字数。
2 登録ボタンを押す
登録しましたメッセージが出たら多分成功。
「グラフ表示」ボタンを押す。
3 グラフが表示される
一日分だけだと不格好だけど、ちょっとまって。文字数登録ボタンを押してみる。
4 文字数登録の下の方のデータ修正をする
修正する日付と、文字数を入力。
ここでの文字数は、グラフに表示させたい文字数(差分)。
入力したら「修正」ボタンを押す。
5 グラフが追加される
以上、こんな感じ。
え、過去のデータ!!!??
……。
……。
……。
エクセル買いましょう!!!(遠い目)
(かっこ書きである。ともかく、仕様検討含む目標8時間を達成できて満足。今日分は大丈夫だけれども、しばらく使ってみて大丈夫か確認要だな。問題なさそうだったら、ホムペにも創作支援ってことでリンク掲載紹介しようかなとも思う。いやあしかし、集中したな。コーヒー飲むのとトイレ以外は余計な事せずキーを叩いてたな。――なんか、疲労はあるけれども、仕事よりは間違いなく楽しいな……ああ、明日からまた仕事か……)
今日の一言「落ち着かないので複数の記事をまとめよう」「風が強い日」
人間の皮が剥げそうだ
一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
そう、「ひきこもりたい」という気持ち。
もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。
要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。
よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。
むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。
家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。
他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。
――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。
今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。
それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。
シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。
こっちの方がよほど問題であることを最近思う。
いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。
どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。
幸福について
これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。
僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。
ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。
それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。
――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。
それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。
あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。
そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。
いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。
うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
孤立したら仕事も進みにくいしな。
っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。
――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。
前書き
この記事では、いつも大事にしている「僕の考え」というのは、あまり踏み込めない気がする。とりあえず、ばたばたした日常の中で、スマホでながら見して「おっ」とか「むっ」とか思った記事を抜粋しておくことにとどめよう。そう決めると、あまり「書く」ことに積極的な気持ちになれない――というか、なんもする気が起きないときにも、何かができる、そんな気がする。人の皮
シロクマさんの記事。人間の皮が剥げそうだ
一言感想。「分かる」。特に、
「げだもののようにひきこもりたい」
という点が面白く「よーわかるなー」っと思った。
そう、「ひきこもりたい」という気持ち。
もう一つ、「人と会うと疲れる」というルポライター氏の記事。
生きづらくても生きていく。
要は、先日いただいたコメントにもあったが、「人はそれしかできない」という点も関係しそうだ。
しかし、そうは言っても、他者も同じように感じているかどうか、という点は、あまり考慮する必要もない。要するに疲れるものは疲れるのだ。
何故疲れるのか
これは、上の記事で触れられているように、「楽しい」「楽しくない」は関係ない。よく言われるところの、「素直にさらけ出していけばいいじゃない」というのも、全く当たらない。そういう次元の話ではないのである。
むしろ、重要な点は、「自分をさらけ出せば」「今すぐに帰りたい」となることである(かっこ笑い)。
家族や、彼女と、家でゆっくり過ごすのは悪くない、よいことである。しかしそれはむしろ、「一人」の延長である。
家族等と、その他他人とを一緒にできるわけはなかろう。
先の無責任なアドバイス氏における、「自分をさらけ出せばいいじゃない」は、他者を他者と思わなくてもいい、という支離滅裂さがある。
他者は他者だから、相応の刺激があるのであり、重要なのだ。家族の安定性や、居心地の良さとは別である。
治療されるべきか
一方で、人は生きていくのに、多くの人の繋がりが必要だ。このブログを書くための電気も、発電所ではある程度オートメーションされているのかもしれないし、特に電線を伝ってくる電気に人の意思があるわけではないが、それでも、維持運用してくれている人のおかげだ。――ということと、「人と会うと疲れる」とか、「仕事めんどくせぇ」とか、「あと何年生きるんだろう」とかいう「空虚感」というのは、別問題である。
今を生きることに必死にならなければいけない、紛争地帯とか飢餓とか、パワハラ上司とか幼児虐待とか、ひっでぇ事象と比べて、「ああ、自分はましなんだなぁ」とかって思考停止は、もうやめようじゃないか、ということを、僕は、カクヨムでの投稿の、1話目で書きたかったのである。たぶん。
それはそうと、人等との繋がりは断ち切れない。
そうしたときに、こうした気質性質は、治療されるべきか。皆がパーティーピーポーになるべきかのか。
シロクマ先生でさえも、「あああひきこもりてええ」ってなるのだから、別に治療されるべきではないのではないか。――しかし、ある程度社会的地位がある人たちは、自由が許される。ホリエモン氏らが、「好きなように生きてそれを仕事にできなきゃクソ以下だぜ」と好き勝手言っても、誰しもそう振舞えるほどのステータスも財力も環境もない。「うぜぇ、そういって言い訳してばっかいるからクズのままなんだ」って言われるだろうが、たぶん、平行線になる部分である。
好きなこととは何か
と、いうよりも、問題にすべきなのは、その「好きなこと」である。こっちの方がよほど問題であることを最近思う。
いや、自分の記事を丁寧に読み返せば、数年前からちゃんとそのあたりに気づいてはいるように思う。思うが、明確に、何度も、「問題だ!」と主張していなかったから、今回は主張したい。
どういう状態が望ましいのか。好きなのか、幸せなのか。
幸せについて
で、この、幸せ、については、僕の古い記事を一度参照しておくべきだろう。幸福について
これは、2010年の記事であるが、まぁ未だに、僕が「ああ、そうだな」と思って違いはない。
僕の言葉で、「相対概念」といってるものがあるが、要するに、長い短いとかのことだが、幸福もまた、相対概念である。
なんか、そう、最近の記事でも、自分自身でもそういった傾向で書いてきた気がするが、なんというか、別に「幸福」を僕は求めているわけではない――というのはまた違うのだけれども、「幸福」という概念自体に執着しようというのではないのだ。
ああ、そうそう、最近では、「満足」という言葉を使っていたか。
満足、もまた、相対概念である。求めても、得られるものではないのである。
それが、僕の中には、アカシックレコードばりに底流にあるわけだが、そう、最初の「人といて疲れる」的な意味における「人」(他者)に、そこまでの価値観の共有を求めるのは不可能だし、失礼だろう。
そして、僕自身も別に理解してもらおうと思ってるわけではないから、理解してもらうための努力をするつもりもない、する必要もないと思う。
――というか、こういった問題は、誰かと会話をしていく中で見いだされるものでもなく、解決するものでもない。これらには、書物は有効だと思う。――しかしながら、書物でさえも、所詮は「他人」である。「ああ、この表現は使えるかな」ぐらいの役にしかたたない。
それほど難しい問題を、このブログでは取り扱っているのだ――と書くと気どり過ぎなわけだが、そういった面倒くさい問題に立ち向かう必要がある人を、僕は無条件で応援する。
他者に興味はあるか
もう一つ。この記事に関して、どこで読んだか思い出せないのであるが、――確かBooks APPさんだったような気がするが、見つけられない。あ、たぶんコレ(しんざき氏の記事)だ。
そうそう。他者に興味ないんだよな、俺。
いや、ある。ある人はいる。たくさんいるぞ! ――いるけれども、現実には少ない。ってか、「仕事」というコミュニティにおいて、他者に興味はない。
うーん……なんかちょっと違うような。興味はなくはなくはない……というか。
孤立したら仕事も進みにくいしな。
っでもなー、そういった気を遣うことができる人が出世するとか、管理職に向いている、という傾向があるんだとしたら、俺は全然向いてないと思う。
――いや、そんなこともない、というか、「人に役に立つことはしたい」と思うわけだが、……うーむ、このあたりを上手く表現できないな。このあたりをうまく表現しないと転職はできないな(笑)。
あとがき
(かっこ書きである。でも、だな。今回の記事は、いくつかの記事を切り張りしたリンク集みたいなもんであるが、全部関連しているともいえる。人間社会で生きていくにおいて、幸福的であるには、他者に興味をもつべきである、という前提に縛られていると思う。先日、「君は、様々なものに縛られすぎのように見えるよ」というコメントを頂いたわけであるが、その自縛の一つが「他者性」であるのではなかろうか。いやぁしかし、それは俺も、切って破いて捨てたいよ(かっこわらい)。捨てたいけれども、捨てたら、それって「死ぬ」のと同義にならないか、ということで慎重に検討しているのである。いやいつも極端に思われることを書いてしまうが、例えば次に、「ようし、俺は好き勝手自分の生きたいように生きるぞ!」というのを「正解」としたとしても、今回の記事で触れた、「好きなことって何よ」という問題にぶちあたるのである。要は、袋小路のように陥っている。ええい面倒くせえやつめ、じゃあもう考えること自体やめちまえ、という意見もごもっともである。しかし、これは、休日に何もしたくないとずっと布団の中でうずくまっていても、睡眠薬を服用してずっと寝続けたとしても、思考が不要になるということにはならないのである)
今日の一言「久しぶりの学習カテゴリ」「創作ネタとして……」
ある程度類似の問題を複数解くことで、「正解」を導くことはできるようになっても、「理解」した気持ちになれない。
理解とは、正しく分類できることであるので、問題が解ければ、理解したと言えるかもしれない。しかし、その根拠が自分の中でしっくりくる……この表現も曖昧なわけだが、あやふやな状態では理解したとはいえないだろう。
そんな事柄は多くあるわけだが、その一つの「クロスサイトスクリプティング」というクラッキング手法について解説を試みることで、「理解」に近づくことを目的とする。
クロスサイトスクリプティング(以下「XSS」)とは、クラッキングである、という理解はまず簡単にできる。
問題は、その中身だ。いろんなネットワークを通じた攻撃手法(DoSとかセッションハイジャックとかSQLインジェクション)というものがある中で、XSS特有の「手がかり」は何かを理解する必要がある。
WEBサイトの理解をまず確かめよう。このブログもWEBサイトである。昔はホームページという言葉の方がよく用いられていたと思う。「ホーム」でもなくなってきたから、WEBという表現が主流になったのだとか聞いたことがあったような。
で、脆弱性のあるWEBサイト、ということだが、基本、単にブラウザ(WEBサイト閲覧に使われるアプリ)に表示するだけのサイトは、基本問題にならない。
もっと分解して表現すると、端末(クライアント)とサーバという概念がある。
要はパソコンが端末。サーバはネットワークの先にあるすごい機械だ(かっこわらい)。
で、表示だけするサイトとは、クライアントからサーバに「見せて」って要求して、サーバから「はいどうぞ」ってやりとりがあって、それだけである。
で、その「見せて」ってのは、URL(アドレス)で示される。もっといえば、URLは、IPアドレス+ファイルの場所を示す情報である。その文字列を数値(IPアドレス)に変換してくれるのが「DNSサーバ」である。――わきみちにそれた。
要は、「見せて」→「どうぞ」だけのやりとりのサイトは、脆弱性もない(と言い切ってしまうのは危険なんだろうが)。
問題になるのは、端末とサーバで、双方向なやり取りがあるサイトである。
もちろん、単なる読者、閲覧者にとっては、基本一方向であるが、コメントとか投稿できる。そして筆者も、端末で書いた記事を、ネットワークを通じてサーバに送り込んでいる。
これらの双方向な情報のやりとりのためには、「フォーム」が使われる。要は「入力欄」。
このフォームに、データベースを操作する言語のSQLを入力して、データを破壊したり抽出したりするのが「SQLインジェクション」だ。
これは分かりやすいと思う。
では本題の、XSSとは、どういったものなのか。
あれ、そうすると、僕は、「一方向のサイトは大丈夫」と書いたが、URLに埋め込みができるのなら、どんなサイトも危ないってことになりはしないか。
また、国家試験問題(H25秋応用情報)で、こんな問題↓がある。
あれ、やっぱり、そうすると、僕が書いてきた、「フォーム」(入力欄)=入力フィールドに悪意あるスクリプトを埋め込む、という「理解」が正しい気がしてくる。
https://www.shadan-kun.com/blog/measure/1052/
上の記事を参照するに、やはり、フォームを使ってスクリプトを埋め込む手法が紹介されている。しかし、納得がいかなかったのでさらに調べると、以下サイトで少し分かった気がした。
とほほのWWW入門
http://www.tohoho-web.com/ex/xss.html
――ってか、懐かしい!(笑)
僕がWEBサイトの基礎を学び始めた十数年前によく参照させて頂いていた。
コピーライトが2019年になっていて、まだ運営されていたんだなぁとしみじみ。(個人運営だと思ってたけど、どうなんだろ)
――要するに、両方の手法があるということだ。
URL埋め込み型(反射型)と、掲示板埋め込み型(格納型)があるということだ。
なるほど。ここまで調べてようやく分かってきた(理解してきた)気がする。
ちなみに、問題を解くことに関しては間違えはなかった、という点が、本記事の裏の主旨である。
複数の問題を解くことはできても、なんとなく分からなかったXSSという概念。要は僕の言葉で理解すれば、以下のようになる。
「簡易プログラム(スクリプト)を利用した攻撃手法。正規のWEBサイトにスクリプトを仕掛けることに特徴がある」
前書き
何度勉強しても、「分かった」という気持ちになれない事柄というのがある。ある程度類似の問題を複数解くことで、「正解」を導くことはできるようになっても、「理解」した気持ちになれない。
理解とは、正しく分類できることであるので、問題が解ければ、理解したと言えるかもしれない。しかし、その根拠が自分の中でしっくりくる……この表現も曖昧なわけだが、あやふやな状態では理解したとはいえないだろう。
そんな事柄は多くあるわけだが、その一つの「クロスサイトスクリプティング」というクラッキング手法について解説を試みることで、「理解」に近づくことを目的とする。
クロスサイトスクリプティング
とりあえず、辞書的に引用。クロスサイトスクリプティングとは、ネットワークを通じた攻撃手法の一つで、保安上の弱点(脆弱性)のあるWebサイトを踏み台に、悪意のあるプログラムをそのサイトの訪問者に送り込む手法。また、そのような攻撃に利用される脆弱性のこと(XSS脆弱性)。
IT用語辞典e-words
クロスサイトスクリプティング(以下「XSS」)とは、クラッキングである、という理解はまず簡単にできる。
問題は、その中身だ。いろんなネットワークを通じた攻撃手法(DoSとかセッションハイジャックとかSQLインジェクション)というものがある中で、XSS特有の「手がかり」は何かを理解する必要がある。
WEBサイトの基本
ポイントとなる要素として、「WEBサイトを踏み台に」という点だ。WEBサイトの理解をまず確かめよう。このブログもWEBサイトである。昔はホームページという言葉の方がよく用いられていたと思う。「ホーム」でもなくなってきたから、WEBという表現が主流になったのだとか聞いたことがあったような。
で、脆弱性のあるWEBサイト、ということだが、基本、単にブラウザ(WEBサイト閲覧に使われるアプリ)に表示するだけのサイトは、基本問題にならない。
もっと分解して表現すると、端末(クライアント)とサーバという概念がある。
要はパソコンが端末。サーバはネットワークの先にあるすごい機械だ(かっこわらい)。
で、表示だけするサイトとは、クライアントからサーバに「見せて」って要求して、サーバから「はいどうぞ」ってやりとりがあって、それだけである。
で、その「見せて」ってのは、URL(アドレス)で示される。もっといえば、URLは、IPアドレス+ファイルの場所を示す情報である。その文字列を数値(IPアドレス)に変換してくれるのが「DNSサーバ」である。――わきみちにそれた。
要は、「見せて」→「どうぞ」だけのやりとりのサイトは、脆弱性もない(と言い切ってしまうのは危険なんだろうが)。
問題になるのは、端末とサーバで、双方向なやり取りがあるサイトである。
双方向なサイト
双方向なサイトとは、このブログのようなものである。もちろん、単なる読者、閲覧者にとっては、基本一方向であるが、コメントとか投稿できる。そして筆者も、端末で書いた記事を、ネットワークを通じてサーバに送り込んでいる。
これらの双方向な情報のやりとりのためには、「フォーム」が使われる。要は「入力欄」。
このフォームに、データベースを操作する言語のSQLを入力して、データを破壊したり抽出したりするのが「SQLインジェクション」だ。
これは分かりやすいと思う。
では本題の、XSSとは、どういったものなのか。
XSSの手法
先ほどの辞書の続きを引用。典型的なXSS攻撃では、攻撃者はターゲットとなる脆弱なサイトへのリンクを設置した罠サイトを設け、閲覧者がリンクをクリックするよう仕向ける。その際、リンクのURLのパラメータ部分にスクリプト(JavaScriptコード)やHTMLタグの断片を埋め込み、閲覧者が脆弱なサイトを開くとページ内に自動的にそれらの悪質なスクリプトが埋め込まれ、即座に閲覧者のWebブラウザで実行される。
あれ、そうすると、僕は、「一方向のサイトは大丈夫」と書いたが、URLに埋め込みができるのなら、どんなサイトも危ないってことになりはしないか。
また、国家試験問題(H25秋応用情報)で、こんな問題↓がある。
クロスサイトスクリプティングの手口はどれか。
正解:WEBアプリケーションに用意された入力フィールドに、悪意あるJavaScriptコードを含んだデータを入力する
あれ、やっぱり、そうすると、僕が書いてきた、「フォーム」(入力欄)=入力フィールドに悪意あるスクリプトを埋め込む、という「理解」が正しい気がしてくる。
要するに
クロスサイトスクリプティング(XSS)のセキュリティ対策とは?https://www.shadan-kun.com/blog/measure/1052/
上の記事を参照するに、やはり、フォームを使ってスクリプトを埋め込む手法が紹介されている。しかし、納得がいかなかったのでさらに調べると、以下サイトで少し分かった気がした。
とほほのWWW入門
http://www.tohoho-web.com/ex/xss.html
――ってか、懐かしい!(笑)
僕がWEBサイトの基礎を学び始めた十数年前によく参照させて頂いていた。
コピーライトが2019年になっていて、まだ運営されていたんだなぁとしみじみ。(個人運営だと思ってたけど、どうなんだろ)
――要するに、両方の手法があるということだ。
URL埋め込み型(反射型)と、掲示板埋め込み型(格納型)があるということだ。
なるほど。ここまで調べてようやく分かってきた(理解してきた)気がする。
ちなみに、問題を解くことに関しては間違えはなかった、という点が、本記事の裏の主旨である。
複数の問題を解くことはできても、なんとなく分からなかったXSSという概念。要は僕の言葉で理解すれば、以下のようになる。
「簡易プログラム(スクリプト)を利用した攻撃手法。正規のWEBサイトにスクリプトを仕掛けることに特徴がある」
あとがき
(かっこ書きである。XSSについて、他書籍とかの説明で、「(スクリプトを使って)別のWEBサイトを表示し……」とかって説明しているから分けわからなくなったのである。ひどい。まぁその、人によって(知識とか頭の回転とか語彙力とか)分かりやすさは異なるから、上の僕の説明が分かりやすいかというと一概ではないだろうが、少なくても僕にとっては分かりやすい。先日の人類普遍の6原則(他者を傷つけない、報復できる、善行には返礼、強者は弱者に配慮、約束守る、嘘つかない)も、とりあえず暗記して~自分の言葉で表現して~を繰り返さないと覚えられない。ちなみに、教養とは、「概念知識」の多さだと思ってる。概念ってのは抽象のことだ。その抽象的な表現ができる事柄が多い人を、教養がある人という。モノ・コトの知識がたくさんあっても、教養があるとは言わない。かといって、具体的なことが不要なわけはない。大事だ。だから別に教養が大事だというわけでもない。ただ、創作する上では、たくさんあった方がいいだろう)
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」
今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
前書き
今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。
●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ペルソナ
ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
自分と他者とのずれ
「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
自分という語を用いるときの注意
一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
今しかできないことをするべきな理由
話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
素直になるとは
IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)