真に愛している者は、愛について語らない。
ある愛している男がいる。彼は自らの彼女に、自分は如何に貴方を愛しているのかと雄弁に語るのである。
彼女はそれを聞き、夢見心地にうっとりとその言葉の流れに身を任せるだろう。
その当人たちを包む愛という形は、見まごうことない真実の愛である。
だがしかしながら、一つ間を置いてそれを見る者の目には、欺瞞しか写らない。
愛は、語るものなどではなく、現にそこにあるものだからだ。
愛に説明など必要ない。愛は、愛であるがゆえに、愛であるのだ。
実のところ、愛を熱烈に語る者は、その者自身、愛していないのである。
敬虔なキリスト者は、神の存在を疑わない。
ある牧師が神について何らかの証明をしようとしたとき、牧師の信仰は欺瞞に包まれる。
即ち、真実はそこにただあるがゆえに真実なのであって、真実を認識しようとした瞬間に、真実は消えてなくなるのである。
呪われたものは、真実の消えた虚無の世界に貶められる。
デーモンの仕業か、否、信仰をなくした哀れなるものへの神の怒りか。
ある愛している男がいる。彼は自らの彼女に、自分は如何に貴方を愛しているのかと雄弁に語るのである。
彼女はそれを聞き、夢見心地にうっとりとその言葉の流れに身を任せるだろう。
その当人たちを包む愛という形は、見まごうことない真実の愛である。
だがしかしながら、一つ間を置いてそれを見る者の目には、欺瞞しか写らない。
愛は、語るものなどではなく、現にそこにあるものだからだ。
愛に説明など必要ない。愛は、愛であるがゆえに、愛であるのだ。
実のところ、愛を熱烈に語る者は、その者自身、愛していないのである。
敬虔なキリスト者は、神の存在を疑わない。
ある牧師が神について何らかの証明をしようとしたとき、牧師の信仰は欺瞞に包まれる。
即ち、真実はそこにただあるがゆえに真実なのであって、真実を認識しようとした瞬間に、真実は消えてなくなるのである。
呪われたものは、真実の消えた虚無の世界に貶められる。
デーモンの仕業か、否、信仰をなくした哀れなるものへの神の怒りか。
PR
気付いたら、本心・本音・「本当の自分」なんてものを失っていた。
多元解釈の呪い、それは、既に自分自身にも及んでしまったのだった。
彼は、彼という存在を信じられない。
感情――それが、効率よく他者と協力するための機能であることを知ったとき、彼は、その機能の欠陥を思った。
しかしながら、彼に対して、強烈な楔を打ち込むことも可能である。
貴方の考える理解というものは、貴方の幻想に過ぎないのですよ、と。
彼の狂気に満ちたその言動は、彼の目に映る魑魅魍魎がゆえに。
しかしそれは、誰の目にも映ることはありえないのである。
彼は、呪われた自分を呪った。
しかしその時彼は、まだ本心というものをもっていた。
彼が、自己を失ってしまったのは、自己を縛る呪いすら相対化してしまったからだ。
ここで彼は、劇的に変化を遂げる。
彼の世界には、主観も、客観も生じなくなる。
ただ、その時、そのものすべてが世界なのであって、即ちそれが自分自身なのである。
世界は傍若無人な絶対者から転じ彼自身になった――否、彼が、世界の一部に溶け込んだのか。
解説
「胸毛すっきりしたい!」
彼は思い立った。
果たして、胸毛をすっきりさせて、自信をもって女の子に告白をする。女の子は、二つ返事で喜んでくれた。自分も、天にものぼる幸せをかみ締める。
しかし同時に彼を襲う思考がある。
(俺は、胸毛をすっきりさせて彼女をGETできた。しかし、本当の俺は、胸毛がボーボーだ。俺の彼女は、「俺自身」を好きになったのではない……)
彼は、我慢ならず、胸毛を元に戻した。否、前にもましてひどいボーボーである。即ち彼は、最低の行為をしたのだ。彼女を、試したのだった。
しかし彼女の反応は、驚くべきものであった。
「ケイくん、そんなこと気にしてたんだ。バカだねー。わたし、毛、こゆい人、好きだよ」
口元に手を当てて上品に、などということは全くなくて、彼女は、本当にふきだしていた。
その、女性としては少しはしたない姿を見て、彼は安心したのだった。
ところが、既に、彼は手遅れだったのである。
彼は、彼女を、胸毛ボーボーの自分でも愛してくれる存在、としてしか思えなくなったのである。即ちこういうことだ。彼は、変化する自分自身に気付いてしまったのだ。同時に彼は、自分の多面性にも気付いてしまう。
あろうことか、ついに彼は、彼女すら疑ってしまう。
心を穏やかにしてくれる彼女の笑顔。――それが、張り付いた冷酷な嘲笑である可能性を、彼は否定できなくなった。
彼女といくら身体を重ねあっても、いくら千の愛の言葉を交わそうとも、彼は彼女を――否、流転する自己そのものを、到底に信じられなくなったのであった。
本文は、その後のお話です。誰の? ケイくんの、です。
現在性、現時点性という言葉で現在を表現していますが、これは、単に過去への恐れなのではないか、という疑念は、当然存在しています。
今日は、ふと、そうした過去に触れることになったわけですが、その「記憶」「データ」というものに対しての、やはり今の日記を書いてみたいと思います。
書かねばなるまい、そうした、強い強迫観念のようなものに突き動かされて書く文章ほど面白い。
しかし、それが独善に陥っている、と感じられてはならない。
――独善? 自分は「善」だと思うこと、もしそうであれば、独善など畏れるに足りない。
おそろしいのは、根源となる、足場となるものが何もないとする思考である。
カテゴリが、思索ではなく、「ログ」となっているのは、思考途中を表すものではなく、既に終了したもの、「記録」であるからです。発生した事象を、ただ俯瞰視点からのみ記述する、ただそれだけの文章となります。
さて、では、私は何に敗北したのか、それは、私が「畏れ」ていたものが、まさに、そう畏れる対象であったという事実からということになります。
