カテゴリが、思索ではなく、「ログ」となっているのは、思考途中を表すものではなく、既に終了したもの、「記録」であるからです。発生した事象を、ただ俯瞰視点からのみ記述する、ただそれだけの文章となります。
さて、では、私は何に敗北したのか、それは、私が「畏れ」ていたものが、まさに、そう畏れる対象であったという事実からということになります。
最近の私の状態を描写すると、それはそれは、とても穏やかで「幸せ」な毎日を過ごしていました。
それは私に、何か、「違和感」を生じさせていました。私が、私でないような、そんな感覚、それは、現時点性に還元すれば、間違いなく「幸せ」という言葉で表現できるものでありながら、時間平面上では、即ちここでは未来の想定上、不審感を与えていたのです。
そしてその心配が、現象化する事態を、私は確かに知っていました。いえ、改めて記述するまでもなく、人は誰しも、自分が耐えられないその状況を知っているのです。ただそれが、あまりに現実状況と乖離している場合、違和としてすら認識されないのです。
私が崩壊する条件、前日の記事から引用すれば、必然期待が裏切られる状態――というのは、その性質からして無限に存在するものであって、それらすべてが「不安」と認識されることはありえません。この不安が相対的に大きいのが、「子ども」という状態であります。子ども、大人という概念はそもそも、相対的に存在するだけのものであり、単独で「自分は子どもだ」と認識することは不可能です。あくまで、一般的にこの次元は「大人」とされるもの、そうした基準との比較の上で、子どもが認識されることになります。当たり前のことを述べているだけで、大して意味はありません、ただの確認です。
ところで、私がそれを行った理由は、そう、今思えば、理由なきものでありました。
ただ、今の平穏、幸せの、地盤となっているもの、その強度というものを試してみたいという、そう、ただのスリルでありました。
私が敗北を宣言せざるをえないのは、その強度が、まさにその程度であったということに対してです。
過去の記録を読み返してみれば、不思議な感覚が襲います、というのは、書いてあるそれが、何ら行動として、意味づけとして、現在と相違ないものだからです。
ところが、大きな違和があります。不協和音を奏でています。その理由、それこそが、現時点性という一つの概念と、環境依存という避けられない状態なのです。
ここに私は、認めざるを得ないことに涙しながら、敗北宣言をします。
私は今、現時点において、私ではどうしようもできない、限界状態にぶち当たってしまったのだと、そう、実感の上で、その実感があるがゆえに、私は、負けを認めなければならないのです。
一つ救いであるのは、私が、私を壊すために必要だと、いえ、きっと壊れてしまうだろうという切り札が、まさに切り札として成立したのだという、崩れ行く中の負け犬の遠吠え――しかしそれが、私の唯一の救済となっているのです。
さて――。
この屈辱的な敗北の中、私は更なる戦いに身を投じることになるでしょう。
ここまで決定的に敗北したというのに、なお、私が戦うのは、自己そのものなのです。これではさすがに呆れた口がふさがらず、その頑迷固陋な考えに閉口してしまうことでしょう。
なれど、この表現――そう、過去の記述との表現の差異が全くなしに、それでもなお、ただ変化するだけであったその状態の相互連関を考えれば、この言葉、表現に過誤は存在しないのです。
奇妙な敗北宣言のように思われますが、ただ、その敗北宣言という言葉の意味を考えてみれば、よくよく合致したことだと分かります。
敗北宣言は、ただの敗北とは異なっているのです。