現在性、現時点性という言葉で現在を表現していますが、これは、単に過去への恐れなのではないか、という疑念は、当然存在しています。
今日は、ふと、そうした過去に触れることになったわけですが、その「記憶」「データ」というものに対しての、やはり今の日記を書いてみたいと思います。
SNSかどこかに、「昔になど戻りたくない」という意味のことを書いたと思います。
人生をやり直せるならいつからやり直す? 的な質問自体、無意味だと言ったのかもしれません。
やりなおしを否定する理由は、やりなおしたとき、今の自分を否定することになるからです。
今の自分だけではなく、自分に関わるすべての否定であります。
(このように、「自己中心的」な話、という批判は、その批判の根拠ゆえに、今回ばかりは反転し、自己中心的な話という謗りを遠ざけてくれます。)
さて、過去。
例えば、やはり、昔の写真を見れば、「これが自分なのだ」と思いました。厳密に言えば、「これが自分だったものだ」という表現になります。
「今は違うんだ!」という思いを挿入したいゆえの表現の微妙な変化です。
――。
少し話がずれますが、客観視点というものは、主観が存在しなければ成り立たたず、基本的にあるのは、幻想客観――これは、客観が成り立っている、という強い信仰によるもの――になります。
客観は、第三者視点でありながら、そこに実感が含まれていなければ、いかに綿密に構築しても、幻想客観となります。
二つの折り重なるような主観を共に内在させるものが、初めて客観といえるのです。
人への望みを失った(あえて消し去ろうとする意思か、人という概念の変化か)今としては、人は、どこまでも信仰によるのだという、確固たる宗教となっています。
自分教……しかしながら、世界の客観性は、主観によって再構築可能である以上、巧みに利用されるパーツと成り果てるのです。
SNSで表現している自分は、まごうことなき自分でありますが、ただその存在も、「写真の中の自分」という意味をもつに過ぎなくなります。
SNSの中の役者たちは、その次元の中で最高のパフォーマンスを見せてくれますが、しかし、それが表現の一形態、と断じてしまう「彼」(第三者)がいるのです。
写真の中の自分が語ったところで、その汚臭が私に伝わってくるだけであり、逆に私の存在が、写真の中の彼にとっては、害悪でしかないのです。
おそろしいのは、この関係性が、いつまでもいつまでも終わりを見せないということなのです。
これは、たいていの人が陥るようなことではありません――なにせ、人は、基本的に、自分を自分として疑わないからです。
中学生の頃の自分を思い出しても分かります、その頃の彼は、「生きる意味とは何か?」「幸せとは何か?」について問い続けていました。そうした問いは、明らかに、自分を起点として考えているのです。
これは、若気のいたりとして笑い飛ばすことはできません、というのは、「中学生の自分」というのは、ある意味起点であり、そこから過去は存在していないのですから、自分を自分として見間違うことなどありえないのです。
今は、無限の情報の一形態、としてしか、存在を認識できません。
しかし――、しかし、仕方がありません、眠気には勝てません。
ただ、有用性のみ記しておこうと思います、幻想客観は混乱を招きますが、客観視点、思考というものは、――もっと具体的に記述すれば、時間軸を取り払って考えたとき、選択に誤りなどなく、ただただ、おそれるものなど皆無になるのです。
もちろん裏切りも存在しません。
ただ絶対神のごとく、ただ生じるその存在が、何者にも依拠せず存在することになるだけなのです。