実際に起こってほしくないことは望まない。
しかし結局、一般的な破滅に陥るのは珍しくない。ポジティブシンキングが上手くいかないのは、そのテクニックの表層をなぞるからだ。
例えば恋愛のテクニック。飲み会で何も言わずレモンを唐揚げにかける女はダメだとか、遠慮ぎみに服をつかむとキュンとくるとか、挙げればきりがない。
基本的にそういったテクニックは間違ってない場合が多いが、用いた人のたいはんは失敗する。
これは実は矛盾などではない。
テクニックを、その骨子を知らず用いるのが生兵法なのだ。
モテテクから優しくしたり、笑顔を向けられても嬉しくないどころか、不信ばかりつもるだろう。
しかしながら、結局、骨子とは人間性である。
今のは単なる例だけれど、ポジティブシンキングも同じである。
つまり煎じ詰めると、モテることや、明るくなることなど、「不可能」なのだ。
一般人の怖さについて述べたことがあるが、人の「自然さ」を感じ取る能力は凄まじい(もっとも表現できるわけではない)。
これは他者にだけではない。
「自分」に対しても、だ。
つまり、自分を騙すことはできないが、自分を騙していることに徹底して自覚的であれば、それは自然的である。
騙すなど卑屈な言葉でなく肯定的な言葉を用いたとしても同様である。
ようやく比較思考の話しに入れる。
板挟みは、立場上で発生するのがたいていだが、身近なレベルでも実は発生している。
仲良し3人組!から既に発生は見て取れるが、これはやや難しい。
だが、存在認識を一度してしまえばあとは容易だ。
否、問題なのは、その調整である。
大好きな2人が実は仲が悪かったら?
陰で悪口を言っていたら…。珍しいことではない。
あなたは、どちらの味方をするか迫られるかもしれない。
戦国時代であればその選択が人生どころか命の存否を決める。戦国時代じゃなくとも、競争が激しい会社の出世争いでも同様だろう。
さぁどうする?
ここでようやく「自己」が必要になる。
逆にいえば、それまで自己などくだらないどころか邪魔である。
いやいや!
そんな邪険にし続けた自己が、今更役に立つのか?
途中
しかし結局、一般的な破滅に陥るのは珍しくない。ポジティブシンキングが上手くいかないのは、そのテクニックの表層をなぞるからだ。
例えば恋愛のテクニック。飲み会で何も言わずレモンを唐揚げにかける女はダメだとか、遠慮ぎみに服をつかむとキュンとくるとか、挙げればきりがない。
基本的にそういったテクニックは間違ってない場合が多いが、用いた人のたいはんは失敗する。
これは実は矛盾などではない。
テクニックを、その骨子を知らず用いるのが生兵法なのだ。
モテテクから優しくしたり、笑顔を向けられても嬉しくないどころか、不信ばかりつもるだろう。
しかしながら、結局、骨子とは人間性である。
今のは単なる例だけれど、ポジティブシンキングも同じである。
つまり煎じ詰めると、モテることや、明るくなることなど、「不可能」なのだ。
一般人の怖さについて述べたことがあるが、人の「自然さ」を感じ取る能力は凄まじい(もっとも表現できるわけではない)。
これは他者にだけではない。
「自分」に対しても、だ。
つまり、自分を騙すことはできないが、自分を騙していることに徹底して自覚的であれば、それは自然的である。
騙すなど卑屈な言葉でなく肯定的な言葉を用いたとしても同様である。
ようやく比較思考の話しに入れる。
板挟みは、立場上で発生するのがたいていだが、身近なレベルでも実は発生している。
仲良し3人組!から既に発生は見て取れるが、これはやや難しい。
だが、存在認識を一度してしまえばあとは容易だ。
否、問題なのは、その調整である。
大好きな2人が実は仲が悪かったら?
陰で悪口を言っていたら…。珍しいことではない。
あなたは、どちらの味方をするか迫られるかもしれない。
戦国時代であればその選択が人生どころか命の存否を決める。戦国時代じゃなくとも、競争が激しい会社の出世争いでも同様だろう。
さぁどうする?
ここでようやく「自己」が必要になる。
逆にいえば、それまで自己などくだらないどころか邪魔である。
いやいや!
そんな邪険にし続けた自己が、今更役に立つのか?
途中
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不愉快になることはよくある。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。
例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。
交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。
んじゃどっちが悪いの? という話。
今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。
けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。
「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?
自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。
もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。
例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。
交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。
んじゃどっちが悪いの? という話。
今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。
けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。
「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?
自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。
もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。
余裕は無いが大した問題ではないのは、想定外ではないからだ。
大変なのは自分の能力の問題で、であるなら尺度は身体性に帰属するのだから、思考は意味をなさない。
日付変更前に帰れるなら余裕だとしていたので、早く帰れてよかったと思う。
思った以上に周囲がつらそうだが、であればどこまでも明るくいる元気がでる。
というよりむしろ切り替えが不要どころか害になる。身体的影響がなければ気持ちの切り替えは容易だが、敢えて維持すべきだ…と言い切れば、やや結果が気になるものの、余裕はないということにしておこう。
甘えた気持ちが残っているのが残念だ。仕事としても人間としても尊敬できるなら、全力でトレースする。
大変なのは自分の能力の問題で、であるなら尺度は身体性に帰属するのだから、思考は意味をなさない。
日付変更前に帰れるなら余裕だとしていたので、早く帰れてよかったと思う。
思った以上に周囲がつらそうだが、であればどこまでも明るくいる元気がでる。
というよりむしろ切り替えが不要どころか害になる。身体的影響がなければ気持ちの切り替えは容易だが、敢えて維持すべきだ…と言い切れば、やや結果が気になるものの、余裕はないということにしておこう。
甘えた気持ちが残っているのが残念だ。仕事としても人間としても尊敬できるなら、全力でトレースする。
だいたい世界は思い通りになる。
ただし、それを自分で望んだかどうかは知りえない。
「まぁ大丈夫だろう」
と思うと大丈夫じゃないし、
「いける!」
と思うとダメだったりする。
マイナスの思念など、普通はコントロール不能だ。「死にたい」という気持ちが生の希求であるように。
同様に、絶望的感覚が、美しく世界を彩ることもある。
果たして、再びのこの配置換えを如何に捉えるか、瞬間的に7つぐらいの感覚や感情、思考を取り出すことは容易である。
縦と横、それぞれの繋がり、そして縦横無尽的な繋がり。
駅ではキスをしているカップル、自分の歩行スピードでは顔すらまともに見えない、女性同士だったのかもしれない。
例えば、満員電車に乗るとき、向ける体や場所とうで、人の感情や行動を変化させることができる。
本当だろうか。
因みに重要なことだが、努力の多寡など自分で決めることではない。
帰属させる意識は、絶対に自分にしてはならないのも同様だ。
行動の利他性を感じとる能力は、誰しも高いといってよい。
これを「一般人の怖さ」ともいう。
まぁ単に、睡眠時間が心配なだけだったりする。
最近の現象も、こうした結果を引き寄せる一要因だったのだろう。
ただし、それを自分で望んだかどうかは知りえない。
「まぁ大丈夫だろう」
と思うと大丈夫じゃないし、
「いける!」
と思うとダメだったりする。
マイナスの思念など、普通はコントロール不能だ。「死にたい」という気持ちが生の希求であるように。
同様に、絶望的感覚が、美しく世界を彩ることもある。
果たして、再びのこの配置換えを如何に捉えるか、瞬間的に7つぐらいの感覚や感情、思考を取り出すことは容易である。
縦と横、それぞれの繋がり、そして縦横無尽的な繋がり。
駅ではキスをしているカップル、自分の歩行スピードでは顔すらまともに見えない、女性同士だったのかもしれない。
例えば、満員電車に乗るとき、向ける体や場所とうで、人の感情や行動を変化させることができる。
本当だろうか。
因みに重要なことだが、努力の多寡など自分で決めることではない。
帰属させる意識は、絶対に自分にしてはならないのも同様だ。
行動の利他性を感じとる能力は、誰しも高いといってよい。
これを「一般人の怖さ」ともいう。
まぁ単に、睡眠時間が心配なだけだったりする。
最近の現象も、こうした結果を引き寄せる一要因だったのだろう。
失敗した、それは大した問題ではないかもしれないが、あとあと響いてくるかもしれない。
まぁそれはいい。どうにもならなくなれば、覚悟を決めるだけだ。
ゆえに、問題は、現状認識と客観視の乖離にある。感覚のことだ。理性的な理解は、ときになんら役に立たない。
手遅れだ。
いやむしろ、運命は既に決まっている。
自分の自由意志など、どれほど信じられるのか。
それでも仕方がない。
たとえ待ち受けるのがジゴクであっても、もはやなせるすべは何も無い。
そうであるならば、焦燥や不安といった感情に、一体なんの意味があるのか。
思考のための道具でしかないとすれば、意味のないことだ。
敢えてその感覚を味わうのも手だ。であればむしろ足りない。もっと多くの意味を喪失しなければいけない。
さてと、不適合、不適当であれば捨て去ろう。笑い事であって、そんなこと不可能だろう。だからこそこの視野狭窄が有効なのだ。
意味記憶の喪失にはあまりにも足りない、楽な経験、体験だ。
まぁそれはいい。どうにもならなくなれば、覚悟を決めるだけだ。
ゆえに、問題は、現状認識と客観視の乖離にある。感覚のことだ。理性的な理解は、ときになんら役に立たない。
手遅れだ。
いやむしろ、運命は既に決まっている。
自分の自由意志など、どれほど信じられるのか。
それでも仕方がない。
たとえ待ち受けるのがジゴクであっても、もはやなせるすべは何も無い。
そうであるならば、焦燥や不安といった感情に、一体なんの意味があるのか。
思考のための道具でしかないとすれば、意味のないことだ。
敢えてその感覚を味わうのも手だ。であればむしろ足りない。もっと多くの意味を喪失しなければいけない。
さてと、不適合、不適当であれば捨て去ろう。笑い事であって、そんなこと不可能だろう。だからこそこの視野狭窄が有効なのだ。
意味記憶の喪失にはあまりにも足りない、楽な経験、体験だ。
