何が正しいかが見えなくなるのは、記憶力のなさが原因だろうか。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。
パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。
そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。
だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。
すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。
ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。
この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。
何も信じられないという人はまず考えが足りない。
何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。
これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。
だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。
何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。
これが第三の段階である。
この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。
魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。
現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。
パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。
そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。
だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。
すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。
ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。
この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。
何も信じられないという人はまず考えが足りない。
何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。
これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。
だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。
何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。
これが第三の段階である。
この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。
魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。
現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。
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今日は6時起床の40分活動開始。就寝は0030。
努力をやめろということではないが、テストとか赤点とかいうのはどうかと思う。
そういった学校教育だから、所詮決められた尺度の思考にとどまり、入試に役立つ程度のレベルでしか考えがおよばない。
とはいえ僕も学生時代は同じで、勉強しかしなかったわけだが、勉強の無意味さは強く感じ、興味と本質まで考えようとした、が、受験勉強にはてきさないし、社会の評価もその程度でしかはかれない。
と愚痴をいうなら、わたみのような社風の会社に入れということになる。しかしそれもまた違う。
合わないからやめる程度の信念しかなければ、所詮役立たずである。
社長になる気概と知恵がなければ結局どこの会社も必要とはしない。
まだ私もブレがある。生き方のレベル感が定まっていない。
覚悟の問題である。オルタナティブな人生など存在しない。天国と地上のエレベーター、途中階は存在しない。
口当たりのいいねいげんなど言いたくないが、それも能力である。
努力をやめろということではないが、テストとか赤点とかいうのはどうかと思う。
そういった学校教育だから、所詮決められた尺度の思考にとどまり、入試に役立つ程度のレベルでしか考えがおよばない。
とはいえ僕も学生時代は同じで、勉強しかしなかったわけだが、勉強の無意味さは強く感じ、興味と本質まで考えようとした、が、受験勉強にはてきさないし、社会の評価もその程度でしかはかれない。
と愚痴をいうなら、わたみのような社風の会社に入れということになる。しかしそれもまた違う。
合わないからやめる程度の信念しかなければ、所詮役立たずである。
社長になる気概と知恵がなければ結局どこの会社も必要とはしない。
まだ私もブレがある。生き方のレベル感が定まっていない。
覚悟の問題である。オルタナティブな人生など存在しない。天国と地上のエレベーター、途中階は存在しない。
口当たりのいいねいげんなど言いたくないが、それも能力である。
自分のせいなのかも、でも仕方がないからきれていた。
そしたら、キレる若者として扱ってくれそうだ。
人のオブラートの読み取りは瞬時にできる。気を使うのやら本音やら、先回りして言ってやった。
そして他者の思考の傾向は深く刻まれる。
そしたら、キレる若者として扱ってくれそうだ。
人のオブラートの読み取りは瞬時にできる。気を使うのやら本音やら、先回りして言ってやった。
そして他者の思考の傾向は深く刻まれる。
本来、携帯からの短文は、さほど意味をなさない。
ところが、これを「継続性」という観点からみれば、有用なのである。
ところで、意識の受動仮説、すなわち、「わたし」という意識も、脳という物質のつくりだす「幻想」のようなものであるという説に、私は共感を覚える。
これは、物質一元論である。心身は別であると考えることもできる。しかし、唯物論だとか唯心論だとか、心身を二分して考えるとか、そうしたことに興味をもっているのではない。
「自由意志」など存在しないという仮説が、有用なのか?
わたしはときに、「すべて、平等に、価値が無い」という。これは有用なのかといえば、まるで無気力にみえる。
同じことをいうのなら、「すべて、平等に、価値がある」でも構わないはずだ。しかし、そのことばは、まさに、となえてみればみるほどに、虚しさがこころを覆うのである。
価値の無いという宣言が、無気力ではなく、むしろポジティブであるということは、理解しにくい発想である。これは、凡人が陥りやすい、怠惰だとか、鬱といったものとも異なる。
むしろ積極的に価値を否定する姿勢……どこかで聞いたことが無いだろうか?
ニヒリズムである。
ニヒリズムは、価値を否定する思想である。リオタールのとなえる、「大きな物語の終焉」は、現代版ニヒリズムとも呼ばれる。
内部被爆したとしても、「ただちに健康に被害は無い」とする、これは、まさしく自暴自棄を引き起こすはずであるが、ところが、事態は、「仕方が無いのだ」という諦めにはいる。
現代人は、怒ることを忘れてしまったのか。あの、共産主義に燃えた人々は、どこにいったのか。
否、この考え方も間違っている。なにせ、電車で足を踏まれれば、我を失ったかのように怒りだす人は多数である。
むしろこの事態は、想像力の欠如と言い換えることも可能なのではないか。
ところが、これを「継続性」という観点からみれば、有用なのである。
ところで、意識の受動仮説、すなわち、「わたし」という意識も、脳という物質のつくりだす「幻想」のようなものであるという説に、私は共感を覚える。
これは、物質一元論である。心身は別であると考えることもできる。しかし、唯物論だとか唯心論だとか、心身を二分して考えるとか、そうしたことに興味をもっているのではない。
「自由意志」など存在しないという仮説が、有用なのか?
わたしはときに、「すべて、平等に、価値が無い」という。これは有用なのかといえば、まるで無気力にみえる。
同じことをいうのなら、「すべて、平等に、価値がある」でも構わないはずだ。しかし、そのことばは、まさに、となえてみればみるほどに、虚しさがこころを覆うのである。
価値の無いという宣言が、無気力ではなく、むしろポジティブであるということは、理解しにくい発想である。これは、凡人が陥りやすい、怠惰だとか、鬱といったものとも異なる。
むしろ積極的に価値を否定する姿勢……どこかで聞いたことが無いだろうか?
ニヒリズムである。
ニヒリズムは、価値を否定する思想である。リオタールのとなえる、「大きな物語の終焉」は、現代版ニヒリズムとも呼ばれる。
内部被爆したとしても、「ただちに健康に被害は無い」とする、これは、まさしく自暴自棄を引き起こすはずであるが、ところが、事態は、「仕方が無いのだ」という諦めにはいる。
現代人は、怒ることを忘れてしまったのか。あの、共産主義に燃えた人々は、どこにいったのか。
否、この考え方も間違っている。なにせ、電車で足を踏まれれば、我を失ったかのように怒りだす人は多数である。
むしろこの事態は、想像力の欠如と言い換えることも可能なのではないか。
図書館で雑誌を読んだ。
法学セミナーという雑誌で、サンデル教授の白熱教室について、「正義」について。
もう一つは都市政策に関する雑誌で、道徳教育について。内田樹氏の文章が面白かった。
ジャック・ラカンさんによれば、教卓の向こう側とこちら側、それに別れていれば教師として成り立つ、みたいな。
「知の非対象性」――十五少年漂流記では、ゴードンさんとか年長の人が、教員免許をもった先生でもないのに、「学校」をつくり、学習させる。
つまり、知ってる人と知らない人の関係があれば、「教師」「生徒」の関係は成り立つのだ。
けれども、今、教育は、「消費者マインド」となっている。
どういうことかといえば、教育における市場価値というのは、「いい大学に入る」とか「いい企業に就職する」といったもの。そういった目的があるから、「この先生の授業は、大学に入るために有用か?」といった視点に生徒もなる。
そうすると、「道徳」なんて無価値だよね、となる。
前提として、公教育とは何だろうか?
良識ある市民を育てることだという。
そもそも、社会が成り立つためには、7%の良識ある市民(すなわち、公的な意識、個の利益のみならず全体のことを考えられる人)がいれば、社会はなんとかまわっていくらしい。
7%の根拠は分からないけれど、妙に納得させられた、というのは、まぁ、やっぱり、人間は個人主義――この言い方は微妙で、「自分が一番大事」というニュアンス、ただこれもちょっと明確ではない(言いたいことを言い表せていない)。
100%良識ある市民だったら、それはよいだろう素晴らしいだろう。ただ、そんな高レベルを要求する社会、そんなシステムは長続きしないということだ。その通りだと思う。
パレートの法則なんてのもある。8:2の法則。
ただ、今の学校教育が、そのような市民を生み出すように機能しているとは思えない。
受験勉強よりも、思いやりとか協調性が大事です! といったことを挙げたとして、それは単に、「受験勉強」が、就職に役立たなくなって、もっと全人的な能力(例えば「コミュニケーション」とか)が要求されるようになったから、ともいえる。
もちろん、そういった理念をもった教師も大勢いることだろうが、「システム」上そうなっていないと思う。というより、社会全体が、消費者マインドにつつまれている気がする。
まぁ、そんな「思う」レベルの話しを書いても、「へー」で終わってしまうし、「いや『私は』そう思わない」といわれたらそれまでのものだ。よく他の人の日記やブログを読んでいると(そもそも日記とブログって何だろう? 日記はもともと、他者に読まれる前提で書かれはしない)、「思う」レベルのことを「至上」としている人がいる。もしくは、いやこれがもっとやっかいなのだけれども、「規則」「ルール」「マナー」「道徳」「法律」といったものを普遍に通用すると思っている人もいる。そういう人の文章は、どこかしら「面白くない」――そう、結局そのレベルの戯言だから聞き流して欲しい。
例えば、最初に挙げた法学セミナーの方の、正義についての話だけれども、リベラリズムとリバタリアニズムの違い、後者の方がより一層、政府の介入をよしとしない、今でいう新自由主義路線のようなものらしいが、そもそも何が正義(正しいのか)といったことも、突き詰めれば普遍ではないということだ。
であるから、私は前々から、「信仰」の重要性を思っている。
宗教を信じろ、というのではないけれども、宗教はやはり、歴史的に、社会的に、民族的に、重要な意味をもってきた、そして今でももっていると思っている。
まぁ逆に、そういうこと書いてしまうということで、問題は明らかに、私の「信仰のなさ」であるのだけれども。
まぁ、戯言の結論を無理やりだせば、当初の目的、タイトルの通り、雑誌も面白いな、ということだけだ。
法学セミナーという雑誌で、サンデル教授の白熱教室について、「正義」について。
もう一つは都市政策に関する雑誌で、道徳教育について。内田樹氏の文章が面白かった。
ジャック・ラカンさんによれば、教卓の向こう側とこちら側、それに別れていれば教師として成り立つ、みたいな。
「知の非対象性」――十五少年漂流記では、ゴードンさんとか年長の人が、教員免許をもった先生でもないのに、「学校」をつくり、学習させる。
つまり、知ってる人と知らない人の関係があれば、「教師」「生徒」の関係は成り立つのだ。
けれども、今、教育は、「消費者マインド」となっている。
どういうことかといえば、教育における市場価値というのは、「いい大学に入る」とか「いい企業に就職する」といったもの。そういった目的があるから、「この先生の授業は、大学に入るために有用か?」といった視点に生徒もなる。
そうすると、「道徳」なんて無価値だよね、となる。
前提として、公教育とは何だろうか?
良識ある市民を育てることだという。
そもそも、社会が成り立つためには、7%の良識ある市民(すなわち、公的な意識、個の利益のみならず全体のことを考えられる人)がいれば、社会はなんとかまわっていくらしい。
7%の根拠は分からないけれど、妙に納得させられた、というのは、まぁ、やっぱり、人間は個人主義――この言い方は微妙で、「自分が一番大事」というニュアンス、ただこれもちょっと明確ではない(言いたいことを言い表せていない)。
100%良識ある市民だったら、それはよいだろう素晴らしいだろう。ただ、そんな高レベルを要求する社会、そんなシステムは長続きしないということだ。その通りだと思う。
パレートの法則なんてのもある。8:2の法則。
ただ、今の学校教育が、そのような市民を生み出すように機能しているとは思えない。
受験勉強よりも、思いやりとか協調性が大事です! といったことを挙げたとして、それは単に、「受験勉強」が、就職に役立たなくなって、もっと全人的な能力(例えば「コミュニケーション」とか)が要求されるようになったから、ともいえる。
もちろん、そういった理念をもった教師も大勢いることだろうが、「システム」上そうなっていないと思う。というより、社会全体が、消費者マインドにつつまれている気がする。
まぁ、そんな「思う」レベルの話しを書いても、「へー」で終わってしまうし、「いや『私は』そう思わない」といわれたらそれまでのものだ。よく他の人の日記やブログを読んでいると(そもそも日記とブログって何だろう? 日記はもともと、他者に読まれる前提で書かれはしない)、「思う」レベルのことを「至上」としている人がいる。もしくは、いやこれがもっとやっかいなのだけれども、「規則」「ルール」「マナー」「道徳」「法律」といったものを普遍に通用すると思っている人もいる。そういう人の文章は、どこかしら「面白くない」――そう、結局そのレベルの戯言だから聞き流して欲しい。
例えば、最初に挙げた法学セミナーの方の、正義についての話だけれども、リベラリズムとリバタリアニズムの違い、後者の方がより一層、政府の介入をよしとしない、今でいう新自由主義路線のようなものらしいが、そもそも何が正義(正しいのか)といったことも、突き詰めれば普遍ではないということだ。
であるから、私は前々から、「信仰」の重要性を思っている。
宗教を信じろ、というのではないけれども、宗教はやはり、歴史的に、社会的に、民族的に、重要な意味をもってきた、そして今でももっていると思っている。
まぁ逆に、そういうこと書いてしまうということで、問題は明らかに、私の「信仰のなさ」であるのだけれども。
まぁ、戯言の結論を無理やりだせば、当初の目的、タイトルの通り、雑誌も面白いな、ということだけだ。
