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信頼と信用を利用という観点から考える
2011/11/30 07:39 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
政治は信頼である
電車やパソコンは信用である


現代は、すべてのメカニズムを知らなくても利用ができる。

政治とは何かをいったとき、安全にご飯が食べられることであり、プラスアルファはそれぞれの国で憲法や法律で定められる。
でも、すべての法律の運用までを一般人は知ることができない。
だから、国会議員を選び、その人に政治を任せるのである。
そのとき、判断は、その人の信頼性である。

電車やパソコンは、信頼する必要はなく、信用する、即ちその動きと結果を信じればいいのである。信頼のように、動機を考える必要はない(思考するロボットは、唯一例外になりえる可能性であり、興味深い)。


では問題。仕事はどちらか?



信頼である、と、日本人の20代の若者は判断している。
それは科学的合理的なものではなく、価値観の問題と思う。価値観=考え方や感じ方の総体。




以上の思考を軸に、いわば規範として、行動をあてはめていく。



しかしながら、この規範(ルール)を、常に使おうとするのは愚かである。

ルールと運用は別である。
いかに厳格なルールでも、例外はあるし、なにより、憲法や法律がそもそもある種理念(価値観を抽象化し精査したもの)ということに立ち返れば、ルールの適用は判断(ぶれがある)にならざるをえないからだ。

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久しぶりの文章
2011/10/02 18:48 | Comments(0) | 当ブログについて
公開するという、ブログに書くべきではないのかもしれない。
ただ、思考というよりも、単に感情的なものを、文字として打ち込む。
それは、鉛筆を握って紙に書きなぐるのとは違うだろう。そして、この、キーボードにとめどなく流れる感情というものを打ち込むということを、僕はずっとやってきたことだった。

それが、絶えた。

言葉の意味、責任、そんなものを知ったからではなく、自分の矮小さ……と書けばかっこはいいかもしれないが、単に、自分というものに、少し詳しくなったということなのだった。


忙しさや、イベントをただこなすだけで、時間は感覚をこえて早くなった。
「自分」というものを、振り返るということはなく、ただ、「行動」、それだけを目標とした。

おそらく、大学時代に書いた……、2007年と更新年はなっている、自分の文章を読んだ。

非常に共感できるものだった、しかしながら、もう今の自分は、彼の気持ちをくみとってやることができなくなっていた。
すなわち、「彼」を、彼の言葉であえていうならば、「エンターテイメント」としているのだった。


すなわち、大きな要因は複数あるとしても、いえることは、「自分」というものへの執着が、僕を拘束していたのだった……と、過去形にかくことができるほどに、自分が成長したなどと思っては「いけない」。


僕は、大切な人にこういって、不快に、というより、怒らせたことがある。「すべては環境に起因する」と。


「自分の行動」
というものに強くコミットしている人にとって、「なるようになる」という考えは、容認しがたいものに思える。
すべてのものは因果をもって、「自らの意志」というものも、存在しないのである、唯物的な思考……それが無気力主義だということは、よく分かることなのだ。



僕は、文章を書かなくなった。

これは、書く必要がなくなったということと、同義ではないと思う、思いたい。

これが、「逃避」なのだと、自分からの声に耳をかたむけることも必要だと思うのだ。



おそろしいことに、対人的なコミュニケーションにおいて、自らの言葉を発するごとに、その問題が小さく思えるのは、よくあることだ。
しかしそれは本当にそうなのか、という思い、その思いにさえ、気づかせないようにする「効力」(敢えてポジティブな言葉を用いよう)があることも、僕は生きていく中で気づいた。


ある人が、いや、僕の「メンター」(この言葉を僕はよく知らないが、流行のようなので用いよう)が使っている、「アウトプット派」と「インプット派」という言葉は、僕もまだ理解しきれているとはいえないが、重要な概念と思えるのだ。

ここで、詳細な意味を掘り下げるということではなく、利用してみれば、「アウトプット」と「インプット」が一致している人は、さほど多くないだろうという推測ができる。裏の意図というものを、常にコミュニケーションにおいては、含有しているのだ。

さて……、

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表現の限界性と物理時間
2011/07/20 21:52 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
何が正しいかが見えなくなるのは、記憶力のなさが原因だろうか。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。

パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。


そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。


だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。

すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。

ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。


この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。


何も信じられないという人はまず考えが足りない。

何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。

これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。


だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。

何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。

これが第三の段階である。


この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。

魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。



現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。

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テストとか評価というもの
2011/07/05 07:46 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
今日は6時起床の40分活動開始。就寝は0030。

努力をやめろということではないが、テストとか赤点とかいうのはどうかと思う。
そういった学校教育だから、所詮決められた尺度の思考にとどまり、入試に役立つ程度のレベルでしか考えがおよばない。

とはいえ僕も学生時代は同じで、勉強しかしなかったわけだが、勉強の無意味さは強く感じ、興味と本質まで考えようとした、が、受験勉強にはてきさないし、社会の評価もその程度でしかはかれない。

と愚痴をいうなら、わたみのような社風の会社に入れということになる。しかしそれもまた違う。

合わないからやめる程度の信念しかなければ、所詮役立たずである。
社長になる気概と知恵がなければ結局どこの会社も必要とはしない。



まだ私もブレがある。生き方のレベル感が定まっていない。

覚悟の問題である。オルタナティブな人生など存在しない。天国と地上のエレベーター、途中階は存在しない。


口当たりのいいねいげんなど言いたくないが、それも能力である。

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21日、キレる若者
2011/06/21 21:56 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
自分のせいなのかも、でも仕方がないからきれていた。

そしたら、キレる若者として扱ってくれそうだ。


人のオブラートの読み取りは瞬時にできる。気を使うのやら本音やら、先回りして言ってやった。

そして他者の思考の傾向は深く刻まれる。

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