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2012年思索(1)「目標に対するアウトプットという対策について」
2012/01/02 06:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
2012年の目的を達成する手段(対策・方策)として、アウトプットを一つ掲げている。アウトプットは、必ずしも、文章としての表現にとどめるつもりはなくて、分かりやすい図を瞬時に描けるか、それもまた方策の一つである。
インプットの目的は、情報の集約と積み上げが重要になるのに対して、アウトプットについては、表現の容易さ、即ち、他者への伝達力が重要となる。まわりくどく長文をかいたとしても、それは自己のカタルシスになるかもしれないが、他者への伝えることはできない。
もちろん、レビューを、購入の判断材料とするか、もしくは、感想の「共有」にもとめるか、それは目的の差異であって、長文自体の否定では決して無い。
ただし、思考の過程を示す長文というものは、アウトプットを目標と掲げる場合、容認できないものである。

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残り僅かな日数の中で
2011/12/28 00:36 | Comments(0) | 生きる意味
忙しくて今日も今が帰りという事態だが、思うに、忙しい状況に陥ることがミスであり、能力不足という認識はある。

下請け会社をいじめてグレーゾーンに買いたたきしわ寄せがくるという事態に、下請け会社に非はないといいたいが、個人レベルでは、その会社に就職したことがミスである。


思うに、事象を他者のせいにする人間ばかりである。

環境も含めて自分の責任とする。
そうした主体性がない人ばかりである、そうした批判もまた他者のせい環境のせいにするその他大勢と同じである。


津波は防げなかった、ということを政府がいってはならないが、個人がいうのは自由とすることもできる。


思うに、戦国時代と思うのだ、下手な君主に仕えると、個人の裁量むなしく打ち首となる。

三国志などでは忠臣が美しく描かれるが、実際問題弱小劉備に仕えるのはリスクでしかない。


とはいえ、ここで短絡的に戦国時代と現代の戦国時代を比べてはいけない。ワーカホリックとの言葉はあれど、武人の最高の死に場所は戦場なのだ。

戦で死ぬ価値観が本当に普遍的な時代があったのかは分からない。とはいえ、自分の尻拭いを配下の首をはねることでとる者もいるし、同じようにも思える。


ところで現代の武器は、蛇矛ではなく言葉であり情報であるが、人脈が重要なのはいうに及ばない。

結局一旗あげるのは、個人の能力ではなく、大きな潮流に思える。

だから、中卒でも年収何億とかいうのはあながちでもない。


みもふたもないが、バランスに過ぎない。ルックスも声も、親の名声も、頭の良さも体つきも、笑顔の上手さも価値観や考え方、感情さえも、すべて構成要素にすぎない。

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マイナス思考によるサステナブルな人生観について
2011/12/21 21:58 | Comments(0) | ポジティブ思考
死にたい
むかつく
めんどうだ
思い通りにならない
痛い
苦しい


快状態を人生の目的にしたとして、その破綻は目に見えているわけだ。

かといって自暴自棄は持続可能ではない。
バランス感覚が重要となるが、その抽象性は実運用に意味をなさない。


ゆえに、コミュニケーション能力だとかクリエイティブだとか、そうした能力が重要だとする新人材観に惑わされてはならない。
空気をよむのは、正直大の苦手だが、モデルパターンの構築と経験の記憶照合をかけることで、ルーチン化することは可能だ。
次に、その対策の実行力が問題となる。その実行に対して(ここではやるべきことと、やるべき目的もはっきり認識しているとする)、効果と結果がプラスかどうかの判断だけでは、快の階層構造(アクラシア)によりノンサステナブルである。


目的や目標を立てることは重要で、その対策をたてることまではよくされる。実行のレスポンスと影響まで考慮し、その対策まで視野に含めることが重要である。

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アリストテレスのアクラシアについて
2011/12/18 15:09 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
目的を打ち立てるという目標、そのためのインプットと思考体系の整理をしている。
その中で使えるかもしれない概念として、アリストテレスの「アクラシア」がある。
「分かっちゃいるけど、やってしまう」という、人間ならだれでもやってしまいそうなことだ。
それについて、よく整理されているブログを発見したので、詳しくはそちらを見てほしい。
epsanのブログ「アクラシア Akrasia」

僕はこの概念について、先日からちょくちょく挙げている大澤真幸の『「正義」を考える』から知ったのだけど、当然アリストテレスなのだから、古代ギリシアからあった(知られていた)概念ということなのだ。

であるからにして、アクラシアについて、上記書籍の発刊前(2007)に書かれたブログも存在する。

 アリストテレスは行動を「実践三段論法」によって説明する。実践三段論法とは何かが邪魔したり強制したりしない限り、「大前提」と「小前提」の二つの前提から、必然的に一つの行為が導かれるというものだ。大前提とは「善いもの」への欲求であり、小前提とはそうした行為を「可能なもの」にする個別的状況についての認識であるという。例えば、こんな具合…

<「私は飲むべきである」と欲望が言い、「これが飲み物だ」と感覚なり表象なり理性なりが言うと、彼はただちに飲む。>

 この文で大前提は「私は飲むべきである」、小前提は「これが飲み物だ」、そして行為は「飲む」ということになる。

 しかし、人間は「そうしたほうがいよい」という欲求と、「そうすることができる」という認識があったとしても、必ずしもそうするとは限らない。著者も<帰結するのは「私はこれをすべきである」という判断にすぎないように思われる>と指摘する。例を挙げると、デヴが「甘いものを食べないほうがよい」と知っていて、冷蔵庫に甘物があると認識したとき、「私はこれを食べるべきではない」と判断するかもしれないが、帰結としての行為はきれいさっぱりたいらげる、ということになるからだ。

 どうしてこのようなアクラシアな事態が起こるのか。著者は<アクラシアは「無知な状態での行為」である>とする。つまり、意志の弱いデヴは甘物を見つけたとき、実践三段論法の大前提を一時的に忘れてしまい働かなくなるために、おのれのメタボリックな腹回りなどお構いなしにバクバク食ってしまう、というわけである。では、なぜ大前提を持っている人が、それを忘れ、働かせなくなってしまうようなことが起こるのか。その答えとして挙げられているのが、次のアリストテレスの言葉である。

<学習したばかりの人でもロゴスを繋ぎ合わせることはできる。だが、彼等には何も分かっていない。そのためにはロゴスが相互にしっかりと結び合わされ〔性向となら〕なければならないが、それには時間を要する。>
労働外論「アクラシアな事態」



ここではたと気付いたのだけれども、アリストテレス自身の説明、すなわち「実践三段論法」の説明で、僕としては納得してしまうのだ、ということなのだ。

大澤氏は、アリストテレスの説明は間違っている、だから私は、「快の階層構造」によって再説明を行う、と記述している。

快の階層構造によるアクラシアの説明:
アクラシアは、下位のレベルでは快であり、善であると評価されていることが、上位レベルでは悪であるとみなされているときに生じる。上位の包括的な視野のもとでは悪である行為が、下位のローカルな視野の中では快であり、善であるがゆえに選択される現象。
epsanのブログ「アクラシア Akrasia」




おそらく、したり顔で、「ねぇねぇ、アクラシアって知ってる?」と知人に話しをして、「じゃあ、快の階層構造と、実践三段論法の違いって何?」と聞かれたとき、僕は、はたと困ってしまうのである。


ということで、もう一度、大澤真幸に立ち戻ることになる。


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子どもの親への虐待
2011/12/07 07:58 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
介護と仕事

育児と仕事

介護と育児


両立は難しい


昨日は、ファラリスの雄牛と、自殺者抑止に取り組む赤松精神科医について見た。

1万6700件/年
殴る蹴る 60
言葉 30

地域のネットワークづくりにより家族を孤立させないべき

今後も増えていくだろう

市町村が業務指針を立てることが必要
もっと行政サービスを利用すべき


……という世論になれば、この問題を抱える人に有利な税金が使われる。




自殺者抑止も、うつ病の診断により治療が必要と認められる。認められない極めてグレーゾーンの人は、黙殺される


なので結局自分の身は自分で守るしかなく、それは声を大きくするしかないのである。



明確な論理ではなく、世論を知り、問題について説明ができ、自身の見解をもつ必要がある。


ニュースは、何も悲観的にみるのではなく、マスコミが作りだそうとする世論を観測するものである。


ダメなものはダメ


これは当然だが、同時に思考停止にも陥る、何も宮台氏のようなエリートばかりではない。

感情に訴えられても方策がなければ如何にしようもなく、無能のレッテルは感受するしかない

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