自分で何でも解決しようと思うことがよくない。
でも、そうしたおかげで、幅広く人脈を増やせた。
20代のうちは、がむしゃらでもいいかもしれない。しかし、30代40代を考えられないと、驚くほど簡単に、不要な人間になる。
他者の、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求を、満たせる人間にならないといけない。歳をとるにつれ、欲求をみたす範囲は広がっていかなければ、歳相応とはみられない。
これは不安ベースの思考。歳をとるということは、選択肢が少なくなるということ。大人は、構築した人格が、時代にあわなくなったとしても、変わることができない。もうそのまま。だから、若い世代に老害と呼ばれたりもする。
でも、その若い世代も、大多数は要らない人間になる。せいぜい、家族からは稼ぎ手としての意味は与えられるかもしれない。
そんな家族からも、金だけおいていけ、といわれる始末だ。
これは特殊な例ではない。ただ、人間の言語は、高度に、他者に行動を喚起させることができる。
建て前と本音があるといわれる。そうではない。他者を動かすことができるかどうかの違いである。
言語という手段を失ったとき、残るのは暴力である。
相手に何かして欲しいと思ったとき、方法は、やはり本能に即して3つある。
生きたいという本能を刺激する。すなわち、危機感を与える方法。
知りたいという本能を刺激する。すなわち、好奇心を与える。
仲間になりたいという本能を刺激する。すなわち、感謝の心を伝える。
人それぞれ、どんな欲求を満たしたいか、優先したいかは異なる。仲間になりたいという欲求が強い人には、生きたい欲求とのあわせ技で、仲間でいるには何らかの貢献が必要なことをほのめかすなど。
僕はどうだろう。
知りたいという欲求が強く、後は同じぐらいかもしれない。
しかし、知りたいというのは、貢献心が強いからかもしれないし、仲間外れにされたら生きていけないという不安が強いのかもしれない。
何が一番か決めることに意味はない。
ただ、コミュニケーションとは、他者と自分との欲求をできるだけ満たす営みといってよい。
そしてそれは、ゼロサムゲームではないのだと、信じられるかどうかで、その人の器は決まる。
でも、そうしたおかげで、幅広く人脈を増やせた。
20代のうちは、がむしゃらでもいいかもしれない。しかし、30代40代を考えられないと、驚くほど簡単に、不要な人間になる。
他者の、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求を、満たせる人間にならないといけない。歳をとるにつれ、欲求をみたす範囲は広がっていかなければ、歳相応とはみられない。
これは不安ベースの思考。歳をとるということは、選択肢が少なくなるということ。大人は、構築した人格が、時代にあわなくなったとしても、変わることができない。もうそのまま。だから、若い世代に老害と呼ばれたりもする。
でも、その若い世代も、大多数は要らない人間になる。せいぜい、家族からは稼ぎ手としての意味は与えられるかもしれない。
そんな家族からも、金だけおいていけ、といわれる始末だ。
これは特殊な例ではない。ただ、人間の言語は、高度に、他者に行動を喚起させることができる。
建て前と本音があるといわれる。そうではない。他者を動かすことができるかどうかの違いである。
言語という手段を失ったとき、残るのは暴力である。
相手に何かして欲しいと思ったとき、方法は、やはり本能に即して3つある。
生きたいという本能を刺激する。すなわち、危機感を与える方法。
知りたいという本能を刺激する。すなわち、好奇心を与える。
仲間になりたいという本能を刺激する。すなわち、感謝の心を伝える。
人それぞれ、どんな欲求を満たしたいか、優先したいかは異なる。仲間になりたいという欲求が強い人には、生きたい欲求とのあわせ技で、仲間でいるには何らかの貢献が必要なことをほのめかすなど。
僕はどうだろう。
知りたいという欲求が強く、後は同じぐらいかもしれない。
しかし、知りたいというのは、貢献心が強いからかもしれないし、仲間外れにされたら生きていけないという不安が強いのかもしれない。
何が一番か決めることに意味はない。
ただ、コミュニケーションとは、他者と自分との欲求をできるだけ満たす営みといってよい。
そしてそれは、ゼロサムゲームではないのだと、信じられるかどうかで、その人の器は決まる。
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来年は、仕事とプライベート、両方で大きな動きがありそうだ。
自分の気持ちは、昔と同じ、何があっても絶対肯定なので、それほどの驚きはなかった。顔にでてたと言われるだろうか。しかし、緊張したときにでる嫌な汗はでなかったし、動悸もなかった。
今唯一肯定できないだろうことは存在するが、それは逆に、潜在意識としても起こらないことを確信している。
突発的なことが嫌いだ。アドリブに弱い。行動より先に思考が発生する。
僕の特性だから、突発的なことが起きたことを常に想定している。もちろん、些末な日常においての想定ができるわけではない。そんな予知ができれば、株や競馬で一儲けできる。
いつも言っているのは、明日死ぬとしたらどうするかだ。杞憂に過ぎない、だから、頭の何パーセントかだけ、常に配置する。
突然といえば、すべては突然。同じ朝がくることはない。何かが違う。ただ、自分の主観により、それをルーチンと見なすだけだ。
整理をしていて、ある新聞記事の切り抜きを見つけた。ある先輩からもらったものだ。今の自分に足りないことが書いてあった。
自分が周囲からどうみられているか、思春期の子どもでなくても気になることだ。
しかし、僕は自分が欠点だらけだと思う。傲慢さや見栄はあれ、底からくる自信などはなかった。だから常に周囲の目をおそれ、「自分らしさ」を如何に抑圧するかに気を使った。
それは、人間関係構築維持に一定の効果があった。それどころか、その維持を続けることで、少しずつ、自分らしさも表出できることが分かった。
例えばこのブログに書かれるようなことは、パスワードをつけた日記帳にひっそりと書かれるだけだった。
学生時代は、アニメを見たことがあるといっただけで、オタク、変人、気持ち悪いと言われた。
僕は、アニメオタクではない。そんなこといったら逆に失礼である。ただ、作品が好きだった。映画、音楽、小説……、何でも好きだった。ただ、勉強やお金や女やテレビ以外に興味をもつことは、変人とされた時代であった。
そういう空気を察知する能力はあったので、なんとか生き延びた。ただ、周囲の人間は、なんとつまらない人間ばかりなのかと、他人への興味は薄れた。
大学で、攻殻をみたことのある友人がいて、そのことを恥ずかしげもなく語る姿に、本当に驚いたものだ。
しかし、新しい環境においては、より深く、昔の自分を、死にたいと夜眠れなかった自分を、よく思い出すべきである。
自分の気持ちは、昔と同じ、何があっても絶対肯定なので、それほどの驚きはなかった。顔にでてたと言われるだろうか。しかし、緊張したときにでる嫌な汗はでなかったし、動悸もなかった。
今唯一肯定できないだろうことは存在するが、それは逆に、潜在意識としても起こらないことを確信している。
突発的なことが嫌いだ。アドリブに弱い。行動より先に思考が発生する。
僕の特性だから、突発的なことが起きたことを常に想定している。もちろん、些末な日常においての想定ができるわけではない。そんな予知ができれば、株や競馬で一儲けできる。
いつも言っているのは、明日死ぬとしたらどうするかだ。杞憂に過ぎない、だから、頭の何パーセントかだけ、常に配置する。
突然といえば、すべては突然。同じ朝がくることはない。何かが違う。ただ、自分の主観により、それをルーチンと見なすだけだ。
整理をしていて、ある新聞記事の切り抜きを見つけた。ある先輩からもらったものだ。今の自分に足りないことが書いてあった。
自分が周囲からどうみられているか、思春期の子どもでなくても気になることだ。
しかし、僕は自分が欠点だらけだと思う。傲慢さや見栄はあれ、底からくる自信などはなかった。だから常に周囲の目をおそれ、「自分らしさ」を如何に抑圧するかに気を使った。
それは、人間関係構築維持に一定の効果があった。それどころか、その維持を続けることで、少しずつ、自分らしさも表出できることが分かった。
例えばこのブログに書かれるようなことは、パスワードをつけた日記帳にひっそりと書かれるだけだった。
学生時代は、アニメを見たことがあるといっただけで、オタク、変人、気持ち悪いと言われた。
僕は、アニメオタクではない。そんなこといったら逆に失礼である。ただ、作品が好きだった。映画、音楽、小説……、何でも好きだった。ただ、勉強やお金や女やテレビ以外に興味をもつことは、変人とされた時代であった。
そういう空気を察知する能力はあったので、なんとか生き延びた。ただ、周囲の人間は、なんとつまらない人間ばかりなのかと、他人への興味は薄れた。
大学で、攻殻をみたことのある友人がいて、そのことを恥ずかしげもなく語る姿に、本当に驚いたものだ。
しかし、新しい環境においては、より深く、昔の自分を、死にたいと夜眠れなかった自分を、よく思い出すべきである。
本を読むために必要な、透明ふせんがなくなったため、時間を日記を書くことに費やす。
知性とは、自分が知らないこと、できないことを知ろうとする、やろうとすることだ。
実用的(プラグマティック)な知識があれば、生活することはできる。
それだけで十分な人もいる。しかし多くは、孤独になったとき、死を思う。多細胞生物の宿命である。
四六時中人と一緒で、孤独が怖いという人は、死を恐れているのかもしれない。
わたしたちはどこからきて、どこへいくのか。
誰しも思うことだが、怖いから口にしない。口にする人は、鬱だ変人だと斥ける。
大人はポジティブであるべきで、自分の生きる意味を知っているとされる。宗教、民族、祖先、コミュニティー、イデオロギー、国家、会社、金……。
例をあげればきりのない、「神」という概念の中身。過去の歴史は、中身の入れ替わりは、幾度となく革命的に変化した。
しかし、構造主義、構築主義の台頭により、「神は死んだ」のだった。
ニーチェの超人や、ハイデガーのダーザイン。哲学は、神の代わりに、「個人」を提示した。
しかし、結果は散々だった。
人はそれほど賢くはなかった。今のところは、無自覚に「資本主義」を肯定するもの、消去法として「資本主義」を追求するもの、スローライフに憧れるものの、3パターンである。
無自覚な資本主義肯定派は、今後減っていくので気にしなくてもよい。消去法で選択する派も、既存の概念があるからよい。問題はスローライフ派だ。
スローライフとは、つまるところ、自分らい生き方だ。
しかし、自分らしさとは、形容矛盾ながら、他者が存在しないことにはありえない。奇抜な考え方や行動をしようが、無限の相対化により、それらは意味をなさない。
自給自足が至高とする。カンボジアのポル・ポト政権は、知識人を抹殺した。
現実は、物理法則に従う。資源は限られる。正義とは、限られた資源を正当に分配することだ。
かつて日本のその正当性は、努力の多寡であった。努力は誰でも平等に実行できることだという幻想のもと、日本の企業は発展した。
成果主義は、安定をとりはらった。努力しても、そのことが評価の対象ではなくなった。自分の行動が、神である「金」に結び付くとは限らなくなった。
そこまで神(=金)をあがめなくてもいいか。
これがスローライフである。
この考え方がいきつくのは、生活を成り立たせる知識である。知性から乖離している。
そうだとしても、やはり、僕たちは、何故生きるのかを、孤独になったとき考えないわけにはいかない。
こうした不安が、年間3万人の自殺につながってはいないか。もちろん、大半は、経済的理由による。そうだとしても、何故、経済的な理由程度で、死を選ばなければならないのか。
死を選んだ人は、自殺が人生の目標だったのだろうか。違うはずだ。にもかかわらず死んだ。経済的理由をこえるだけの、生きる意味を見いだせなかったからだ。
歳をとるほど、考えることができなくなる。悩むのは、よい上司ではないし、大人としてカッコ悪い。
ただし、自分の神(宗教だけでなく、例えばお金など)を知らなかったり、個人(自己啓発)のみが意味であったとき、現代人は、昔ほど幸せそうな顔で死ぬことはない。
知性とは、自分が知らないこと、できないことを知ろうとする、やろうとすることだ。
実用的(プラグマティック)な知識があれば、生活することはできる。
それだけで十分な人もいる。しかし多くは、孤独になったとき、死を思う。多細胞生物の宿命である。
四六時中人と一緒で、孤独が怖いという人は、死を恐れているのかもしれない。
わたしたちはどこからきて、どこへいくのか。
誰しも思うことだが、怖いから口にしない。口にする人は、鬱だ変人だと斥ける。
大人はポジティブであるべきで、自分の生きる意味を知っているとされる。宗教、民族、祖先、コミュニティー、イデオロギー、国家、会社、金……。
例をあげればきりのない、「神」という概念の中身。過去の歴史は、中身の入れ替わりは、幾度となく革命的に変化した。
しかし、構造主義、構築主義の台頭により、「神は死んだ」のだった。
ニーチェの超人や、ハイデガーのダーザイン。哲学は、神の代わりに、「個人」を提示した。
しかし、結果は散々だった。
人はそれほど賢くはなかった。今のところは、無自覚に「資本主義」を肯定するもの、消去法として「資本主義」を追求するもの、スローライフに憧れるものの、3パターンである。
無自覚な資本主義肯定派は、今後減っていくので気にしなくてもよい。消去法で選択する派も、既存の概念があるからよい。問題はスローライフ派だ。
スローライフとは、つまるところ、自分らい生き方だ。
しかし、自分らしさとは、形容矛盾ながら、他者が存在しないことにはありえない。奇抜な考え方や行動をしようが、無限の相対化により、それらは意味をなさない。
自給自足が至高とする。カンボジアのポル・ポト政権は、知識人を抹殺した。
現実は、物理法則に従う。資源は限られる。正義とは、限られた資源を正当に分配することだ。
かつて日本のその正当性は、努力の多寡であった。努力は誰でも平等に実行できることだという幻想のもと、日本の企業は発展した。
成果主義は、安定をとりはらった。努力しても、そのことが評価の対象ではなくなった。自分の行動が、神である「金」に結び付くとは限らなくなった。
そこまで神(=金)をあがめなくてもいいか。
これがスローライフである。
この考え方がいきつくのは、生活を成り立たせる知識である。知性から乖離している。
そうだとしても、やはり、僕たちは、何故生きるのかを、孤独になったとき考えないわけにはいかない。
こうした不安が、年間3万人の自殺につながってはいないか。もちろん、大半は、経済的理由による。そうだとしても、何故、経済的な理由程度で、死を選ばなければならないのか。
死を選んだ人は、自殺が人生の目標だったのだろうか。違うはずだ。にもかかわらず死んだ。経済的理由をこえるだけの、生きる意味を見いだせなかったからだ。
歳をとるほど、考えることができなくなる。悩むのは、よい上司ではないし、大人としてカッコ悪い。
ただし、自分の神(宗教だけでなく、例えばお金など)を知らなかったり、個人(自己啓発)のみが意味であったとき、現代人は、昔ほど幸せそうな顔で死ぬことはない。
80年代、今から30年前、僕が生まれた時代。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。
夢を失った時代に若者は~
といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。
理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。
時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。
PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。
夢を失った時代に若者は~
といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。
理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。
時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。
PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。
めぐって自分に報いられるという意味。人に情けをかけるとろくなことにならない、というのは誤用。
落とし物をしていた人に、ひろってあげた。その年配の方は、笑顔でありがとう、ありがとうと繰り返していた。
「勝手に触るんじゃない!」
と怒られる可能性もあるので、いつでも逃げられる状態で、「落ちてますよ」と声をかけた。
感謝される気は全くなかったので、素直に嬉しかった。「どういたしまして」は恩着せがましいので、
「大丈夫です」とだけ言って、笑顔で会釈した。
すぐに行動できたわけではない。
よくよく考え、思考をめぐらせば、イメージした結果の行動だ。
善い行為と、良い結果の積み重ねが、その人の行動習慣だ。
しかし、習慣化された行動を脅かすことが起こると、人は焦るし、防衛本能むき出しになる。
歳をとると、生き方が変えられなくなる。だから、自分の習慣にしがみつく。既得権はこうしてできあがる。
気持ち悪がられるが、僕は許せない何かというのは、普通の人より少ないのだ。
こだわりがないし飽きっぽい。
何かに熱中できない人は、自分を持たない人は、人間関係を上手く築けない。
そんなことをずっと言い続けてきた僕は、すっかり習慣付いている。
思えば、自分を嫌いなのも重要なことだ。しかし、容易に変えられないことが自分の本質で、しかもそれが周囲に受け入れられにくいことだったとき、革命が必要になる。
革命を経て人は人になる。
自分の思考回路、考え方や価値観を変えるのは、言葉に表現するのは簡単だが、難易度は最高だ。
暴力をふるう夫を愛情で変えようとしても無駄だ。
人は思いのほか、他人に影響されることは少ない。もっとも、世間とか、一般というネットは、それが「主体的」と思われている限りは、強力な影響をもつ。
そうはいっても、良い結果をもたらした(と本人が信じている)習慣は、一般という影響を簡単に打ち破る。
タバコやアル中の治療は、中毒症状に、患者が気付いた時点で、治癒に向かう。
落とし物をしていた人に、ひろってあげた。その年配の方は、笑顔でありがとう、ありがとうと繰り返していた。
「勝手に触るんじゃない!」
と怒られる可能性もあるので、いつでも逃げられる状態で、「落ちてますよ」と声をかけた。
感謝される気は全くなかったので、素直に嬉しかった。「どういたしまして」は恩着せがましいので、
「大丈夫です」とだけ言って、笑顔で会釈した。
すぐに行動できたわけではない。
よくよく考え、思考をめぐらせば、イメージした結果の行動だ。
善い行為と、良い結果の積み重ねが、その人の行動習慣だ。
しかし、習慣化された行動を脅かすことが起こると、人は焦るし、防衛本能むき出しになる。
歳をとると、生き方が変えられなくなる。だから、自分の習慣にしがみつく。既得権はこうしてできあがる。
気持ち悪がられるが、僕は許せない何かというのは、普通の人より少ないのだ。
こだわりがないし飽きっぽい。
何かに熱中できない人は、自分を持たない人は、人間関係を上手く築けない。
そんなことをずっと言い続けてきた僕は、すっかり習慣付いている。
思えば、自分を嫌いなのも重要なことだ。しかし、容易に変えられないことが自分の本質で、しかもそれが周囲に受け入れられにくいことだったとき、革命が必要になる。
革命を経て人は人になる。
自分の思考回路、考え方や価値観を変えるのは、言葉に表現するのは簡単だが、難易度は最高だ。
暴力をふるう夫を愛情で変えようとしても無駄だ。
人は思いのほか、他人に影響されることは少ない。もっとも、世間とか、一般というネットは、それが「主体的」と思われている限りは、強力な影響をもつ。
そうはいっても、良い結果をもたらした(と本人が信じている)習慣は、一般という影響を簡単に打ち破る。
タバコやアル中の治療は、中毒症状に、患者が気付いた時点で、治癒に向かう。
