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知性と死について戯れでありながら重要なこと
2012/11/15 18:47 | Comments(0) | 生きる意味
本を読むために必要な、透明ふせんがなくなったため、時間を日記を書くことに費やす。

知性とは、自分が知らないこと、できないことを知ろうとする、やろうとすることだ。
実用的(プラグマティック)な知識があれば、生活することはできる。


それだけで十分な人もいる。しかし多くは、孤独になったとき、死を思う。多細胞生物の宿命である。
四六時中人と一緒で、孤独が怖いという人は、死を恐れているのかもしれない。

わたしたちはどこからきて、どこへいくのか。

誰しも思うことだが、怖いから口にしない。口にする人は、鬱だ変人だと斥ける。

大人はポジティブであるべきで、自分の生きる意味を知っているとされる。宗教、民族、祖先、コミュニティー、イデオロギー、国家、会社、金……。
例をあげればきりのない、「神」という概念の中身。過去の歴史は、中身の入れ替わりは、幾度となく革命的に変化した。
しかし、構造主義、構築主義の台頭により、「神は死んだ」のだった。


ニーチェの超人や、ハイデガーのダーザイン。哲学は、神の代わりに、「個人」を提示した。
しかし、結果は散々だった。

人はそれほど賢くはなかった。今のところは、無自覚に「資本主義」を肯定するもの、消去法として「資本主義」を追求するもの、スローライフに憧れるものの、3パターンである。

無自覚な資本主義肯定派は、今後減っていくので気にしなくてもよい。消去法で選択する派も、既存の概念があるからよい。問題はスローライフ派だ。

スローライフとは、つまるところ、自分らい生き方だ。
しかし、自分らしさとは、形容矛盾ながら、他者が存在しないことにはありえない。奇抜な考え方や行動をしようが、無限の相対化により、それらは意味をなさない。
自給自足が至高とする。カンボジアのポル・ポト政権は、知識人を抹殺した。

現実は、物理法則に従う。資源は限られる。正義とは、限られた資源を正当に分配することだ。
かつて日本のその正当性は、努力の多寡であった。努力は誰でも平等に実行できることだという幻想のもと、日本の企業は発展した。
成果主義は、安定をとりはらった。努力しても、そのことが評価の対象ではなくなった。自分の行動が、神である「金」に結び付くとは限らなくなった。

そこまで神(=金)をあがめなくてもいいか。

これがスローライフである。


この考え方がいきつくのは、生活を成り立たせる知識である。知性から乖離している。
そうだとしても、やはり、僕たちは、何故生きるのかを、孤独になったとき考えないわけにはいかない。


こうした不安が、年間3万人の自殺につながってはいないか。もちろん、大半は、経済的理由による。そうだとしても、何故、経済的な理由程度で、死を選ばなければならないのか。
死を選んだ人は、自殺が人生の目標だったのだろうか。違うはずだ。にもかかわらず死んだ。経済的理由をこえるだけの、生きる意味を見いだせなかったからだ。

歳をとるほど、考えることができなくなる。悩むのは、よい上司ではないし、大人としてカッコ悪い。


ただし、自分の神(宗教だけでなく、例えばお金など)を知らなかったり、個人(自己啓発)のみが意味であったとき、現代人は、昔ほど幸せそうな顔で死ぬことはない。

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80年代ローリング族
2012/11/03 10:21 | Comments(0) | 生きる意味
80年代、今から30年前、僕が生まれた時代。
僕の先輩たちは、こんなことをやっていたんだ。

夢を失った時代に若者は~

といったナレーションがあるが、大澤真幸氏の時代区分を持ち出せば、戦後1945年から、70年代までが理想の時代、95年までが虚構の時代、そして今は不可能性の時代ということになる。
1983年はTDL(東京ディズニーランド)の開園。

理想を失い、虚構(夢)に生きた時代。
それでも、若者の一部は、夢なんか見られなかった。むしろ、不可能性の時代にあるような、現実を極限化した現実を、ここでいえば、コーナーに猛スピードで突入するような、危険こそが「現実(リアル)」と感じていたのだろう。


時代区分は、分かりやすい考え方だけれども、アンダーグラウンドな世界や人々を持ち出せば、途端に分かりにくくなる。
しかし、時代に通底する変数Xを考えることは無駄ではないと思う。村八分にされるような人が、今の時代は成功者になったりもするのだ。





PDさんの作品において、実力とは、「才能」「努力」「運」の総合ということだ。
理想の時代、虚構の時代では、「努力」に重きが置かれていた。その努力とは、勉強ができることを指していた。
それも、1970年代後半から、いじめ・校内暴力が起こるようになる。
詰め込み教育の弊害と言われるが、ホントに勉強ができるやつが偉いのかよ、という疑念の顕在化かもしれない。




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情けは人のためならず
2012/10/25 22:07 | Comments(0) | 対人関係
めぐって自分に報いられるという意味。人に情けをかけるとろくなことにならない、というのは誤用。

落とし物をしていた人に、ひろってあげた。その年配の方は、笑顔でありがとう、ありがとうと繰り返していた。

「勝手に触るんじゃない!」
と怒られる可能性もあるので、いつでも逃げられる状態で、「落ちてますよ」と声をかけた。

感謝される気は全くなかったので、素直に嬉しかった。「どういたしまして」は恩着せがましいので、
「大丈夫です」とだけ言って、笑顔で会釈した。


すぐに行動できたわけではない。
よくよく考え、思考をめぐらせば、イメージした結果の行動だ。


善い行為と、良い結果の積み重ねが、その人の行動習慣だ。

しかし、習慣化された行動を脅かすことが起こると、人は焦るし、防衛本能むき出しになる。


歳をとると、生き方が変えられなくなる。だから、自分の習慣にしがみつく。既得権はこうしてできあがる。




気持ち悪がられるが、僕は許せない何かというのは、普通の人より少ないのだ。
こだわりがないし飽きっぽい。

何かに熱中できない人は、自分を持たない人は、人間関係を上手く築けない。


そんなことをずっと言い続けてきた僕は、すっかり習慣付いている。




思えば、自分を嫌いなのも重要なことだ。しかし、容易に変えられないことが自分の本質で、しかもそれが周囲に受け入れられにくいことだったとき、革命が必要になる。


革命を経て人は人になる。
自分の思考回路、考え方や価値観を変えるのは、言葉に表現するのは簡単だが、難易度は最高だ。


暴力をふるう夫を愛情で変えようとしても無駄だ。
人は思いのほか、他人に影響されることは少ない。もっとも、世間とか、一般というネットは、それが「主体的」と思われている限りは、強力な影響をもつ。


そうはいっても、良い結果をもたらした(と本人が信じている)習慣は、一般という影響を簡単に打ち破る。


タバコやアル中の治療は、中毒症状に、患者が気付いた時点で、治癒に向かう。

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残業について
2012/09/27 20:06 | Comments(0) | 対人関係
自分の考えなど、無駄なものである。個性など必要ない。

残業とは、無駄である。

そういった認識が、一般常識である。
では自分の上司はどう考えているのか。上司の上司はどうか。人事はどうか。会社組織はどうか。

全く別問題である。

そして、自分がどう思うのかが、最低辺にどうでもよい。


埼玉の公務員が800万の残業代をもらったという。
それについての熱い批判や、なだめるコメント、諸々ある。それ自体が大事である。





昨日あるきっかけから、古い知り合いたち数人に連絡をとった。

そのとき気付いた。
僕は、「関係」をみている。

今に始まったことではないが、一つの具体的エピソードだ。

直情型の人をよくみかける。
ああなりたいものだ、と思うことはある。

しかし、僕はやはり、感情が希薄である、この表現は厳密ではない。
自分のことを、棚上げしている、これも正確ではない。

とはいえ、そう表現するしかない。思考が優先される。そしてその思考は、意識しなければ止められない。


大多数が苦手なのは、処理能力がおいつかないからである。つまり、愚か者なのだ。ダメな人間の典型である。

だから、仮想人格の構築を思い立ったのはなんら不思議ではない。

考えが止められないなら、委任してしまえばいいのだ。



しかしこれは、最適解を見つけようとするあまり、螺旋のごとく沈んでいく罠である。

人生とは、自分の未来のことである。

ゆえに、解答は、自らが描き、かつ、採点も自分なのだ。




それでも、基本的ルールは存在する。人を殺してはいけない。しかし、人を殺すことを解としたら?

1980年代後半のMの事件は、100点だったのではないだろうか。


こういった思考に陥らないように、基本的ルールは、反射できるように刷り込まなければいけない。それが初期教育である。
思考の何たるかを知らない人間は、ルールを守れない人間になる。思考を知らない人間は、ゆえに反射だけがあればよい。

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OrdinaryDays
2012/09/13 15:20 | Comments(0) | 対人関係
槇原敬之氏のOrdinary Days良い曲だ。歌詞がいい。
槇原氏はデビュー当初は恋愛をテーマの曲を作っていたが、ある時期から、人生そのものをテーマにした曲を多くつくるようになった。

ただ文字にしただけでは、偽善や胡散臭さを感じさせるようなことも、槇原氏のメロディーにのると、不思議な説得力がある。


表現とは、そこまで高められて価値を発する。
小説のもつ表現とはなんだろうか。綿密さが一つの要素だ。出来るだけ詳細に書き込むことができる。ケータイ小説やライトノベルはまた特殊なジャンルというべきだ。

古池の蛙飛び込む水の音

芭蕉の句は、情景を想像する能力がなければ分からない。

満ち月の我が世とぞ思うこの世かな

道長の句は、道長の権勢を知らなければ分からない。

俳句とは短い言葉で心情情景を伝える優れた手段だ。しかし、そのルールを知らなければ伝わらない。


小説は、そうした事前知識を必要としない、表現手段といえる。



不思議なのは、現実の事象の複雑さに対する表現手段の少なさだ。

言葉をかえると人生が変わるという。

悲しいとかつらいという感情も、脳がラベリングした情報に過ぎない。そうした感情を、言葉で思考し、必要があれば発するのである。


めんどくさいとか嫌だとかむかつくとか、表現手段として必要とは思うが、中身の伴わないそうした言葉を発する必要があるとも思えない。

サラリーマンでも女子高生でも、上司や友達の悪口を言っているのを聞くと、未熟に思う。
同じ愚痴でも下記はためになる。

●●は、◎◎をした。(私は)こうするべきだ。おかしいと思う。

そうか、あなたは、◎◎をすることをおかしいと思う性質をもっているのですね。
ということが分かる。

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