忍者ブログ
   
いやなことむかつくこといらつくこと
2015/11/14 00:42 | Comments(0) | ポジティブ思考
ある程度のイライラの時は面白い文章がかけて、完全に超越するとどうなるんだろう。

人はストレスで死ぬのだろうか。理不尽なことに人は耐えられない。俺は特にそうだ。
自分の力でなにか解決できるならいいが、それもできない問題がふりかかったら、逃げ出すしかないだろう。
まぁ、それでも、命のやりとりじゃないだけ、紛争地帯と比べると大した問題ではない。

いや違う、問題の大きさは、それをどの程度自分で感じるかだ。すなわち、実存の問題でしかない。
比較の慰めは意味をなさない。それで解決する程度なら、自分で解決しろというものだ。

繰り返せば苛立ちは限りなく大きい。
だからといって、ぶつける相手もいない、いや、いるのだが、「大丈夫君が悪いんじゃないよ」って言われて回復する程度なら、そもそもこのような文章にしたりしない。

前に書いた通り、誰かに愚痴をいうことは瞬間的な対処であり、根本原因が厳然とある以上、解決の糸口はみえない。


まぁ、これもコミュニケーション能力が高い奴が勝つに過ぎない。
ゆえに、自分の能力のなさと不運さを嘆くだけでよい。

そう、運が悪かっただけなのだ。
誰も悪くはない。その環境がいけなかったのだ。
まぁ故に、だ、恨みはするまい。

しかしながら、同時にこの苛立ちはをどうすればいいのか!



とにかく書き続けるしかないだろう、しかしそれは、瞬間的な自慰に過ぎないと先ほど扱き下ろした愚痴を他者に話すすととなんら違いがあるのか! 愚の骨頂である。それどころか、害悪ですらある。



結局はそう、世界のすべての問題など、解決することはないのだ。根本的な解決を望み、理不尽さに苛立つ私は、単にヒーローに憧れるお子ちゃまなだけなのだ。

だがしかし! そんな、諦念、失望や絶望のみがこの世界で生きる手段であっていいのだろうか。
夢や理想はもってはいけないのか。
仕事に生き甲斐を見いだしてはいけないのか。人生を謳歌してはいけないというのだろうか!


断じて、否。人は楽しむために生きている。それは中学生で見いだした真理。その楽しむという定義を現実と理想のギャップにあると看破した大学生以降。

いまはただ、そのことを全力で実現するだけである。
欲をもて。欲は必ずある。それを見いだせないのは、安全を維持する諦念が働いているからだ。スタビライザー。しかし、その安定機自体が不安定な場所まで引きずり下ろされたとき、安定機の努力が何と何と虚しいことか。憐れだ。


であれば戦う。本来あるべき姿を望む。理想の形をイメージする。

もはや安定は望むべくないことが分かる。苛立ちは、安定の亀裂を告げる警鐘であったのだ。

なおそれに耳を傾けず、崩壊した土台のうえにボロボロなスタビライザーの働きに期待するのは、小学生以下の哀れなるゴミだ。

お前はゴミ虫か? それとも自らの意思をもつ人間か?


(帰宅中スマホより書き散らす)

拍手[0回]

PR

すべての小説は明日への活力でなければならない
2015/11/02 20:26 | Comments(0) | 創作について

エンターテイメントとは何か

もはや、思考が、まとまるなど、書き始めた瞬間から思ってはいない。タイトルが、唯一の羅針盤、ジャイロスコープとなってくれる……かも分からない。

とにかく、一つ、私の身の上に非常に嫌なことがあったと書き残しておこう。
それを事細かに書くことに意義は見いだせないが、他者の感情を深く感じ取ってしまう呪いのような感覚が原因の一つであること。
実際に言葉というものが、発した本人の意図をはるかにこえて他者に伝わることがあること、を書いておこう。

という、難しい言葉を使おうとすると、よく分からなくなるため、簡単に、簡単に書こうと試みると、嫌なことがあって鬱々としていたが、ある作品を読んで、元気が出た、ということだ。

それは小説のかたちをとっていたが、すべてのエンターテイメント、娯楽作品というものの意義は、そこにあると思う。
何故人は、娯楽に興じるのか。それは、明日生きるための消費である。これが第一義だ。

娯楽は消費に終わるものではない

「あー、楽しかった。よし、明日も頑張るぞ!」
とは普通、ならない。取り急ぎ、嫌なできごとを忘却させる手段にはなる。ただし、それは「逃避」という手段であって、根本的解決にはならないことがほとんどだ。
凡人代表を主張する私としては、逃避という手段を否定する気は殊更ない、むしろ積極的に肯定する。

が、しかし、逃避の手段だけで、解決できるのであれば、それは本当の凡人であり、凡人にすらなれない私のようなクズには、何ら役に立たない場合がある。そうだった、凡人代表ではなく、凡人の落ちこぼれだった。

結局、逃げるなら、もうそれは完ぺきに、問題が見えなくなる場所まで逃げるしかない。そうしてようやっと、問題は解決するのである。
そんなこと、クズにはもちろんだが、凡人たちにとっても難しいのは明白だ。そのため、他の手段が必要になる。

明日への活力になる作品とは何か

感動する作品である。
心を動かす必要がある。

人は怠惰に流れる生き物である。もちろん、エリートはそうではない。信仰者はそうではない。しかし、凡人以下は基本的に怠惰に向かう。低きに流れる生き物である。
凡人は、いい。凡人になれるなら、そのまま流され続けて生きることができるから、それはそれで幸せな人生を送れるだろう。家畜の安寧、虚偽の繁栄、だ。

ただし、凡人になりきれない種族は、遠き理想を懐きながら、怠惰な生活を改めようとしない。与えられた幸せに満足しようとせず、文句ばかりを吐きまわる。
それをクズという。だが、クズだって生きているのだ、むしろ、死ぬ勇気すらないのだ、だから、もっとクズに対しての言説があってよいと思う。

そのために必要なのは、感動する作品なのだ。

なんかいいこと言おうとすると何も書けなくなる

無は何も生まない。この記事の目的は、ボクに生じたイライラの溜飲を下げるためにある。

ただ、まぁ、分かっているんだ、イライラが発生した事象は、他者の言葉にイラついたことに起因するが、問題はもっと深い部分にある。
結局、自分自身を認められないという、自分を矮小な存在としか考えられないという、まるで中学生みたいな自意識が問題なのだ。
いい大人が、――大人ってなんだろう、なんて、考えている場合じゃない、単純に、歳を重ねれば大人だ。それがどういった存在だろうが、周囲はそう扱う。でもキモチワルイはずだ、この文章を書いている人間が、例えば50代だったとして。僕は間違いなくキモチワルイと思うね――自意識の問題で悩むってのは、本当にキモチワルイと思う。
だがまぁ、そうした人間が、ゼロだなどと思う必要はない。それはそれで、非常に傲慢な態度だ。
もし仮にだ、そうした大人がゼロだとしたら、僕は、世界でたった一人のオンリーワン……、いやナンバーワンということになる。そうしたらもう、尊重されるべきだ、むしろ。でもそんなことあるはずない。こうした問題は、必ず、ある。それが、10人か、1万人かの違いだけだ。

ゼロは何も生まない。羞恥心も何も生まない

いやはや、私にも羞恥心はあるのだから、こうした記事が非常に恥ずかしく、黒歴史であることは、感じている。
ただ、そうした羞恥心により、鬱屈した思いを頭の中だけで拗らせていると、余計問題が悪化する。
「何があったか」を細かに書く必要はない。この記事を読むだろう未来の自分に対してヒントを出せば、想像してみるだけでいい、自分が、今一番他人から言われて傷つく言葉を、イライラするだろう言葉を。

そうしたときに、スカッとする具体的な反論などを考えてもいいが、それは僕が望むところではない。
抽象的に、そういった場面でどう対応できるか、どう感じることができるか、それを考えることが、未来の自分に対しての今の自分の責務であると思う。

信念をもて。価値観をもて

万物の真理に準じて、幸福を最大限にすること。今思いついた言葉を並べただけなのでこれに意味はない。ただ、自分が正しいと思うことを、信念をもって続けるべきだということを言いたかった。信念って何だ? 自分が正しいと確信する考え、って意味じゃないの? トートロジーじゃないの? とかいう同時思考が本当に邪魔だが、後から読んで分からなくなるのもいやなので、ちょっとだけ辞書を開く。
デジタル大辞泉さんは、正しいと信じる自分の考え、のことだと仰っている。
となると、言いたかったこととしては、信念を常に銘記し行動しろ、ということだ。

そしてその信念を作る作業や、信念が場面においてどう具現化するかという思考実験のために、エンターテイメントは存在する。

とはいえ、娯楽は娯楽として価値があるものだ

いやそのとおり。エンターテイメントは楽しいからエンターテイメント足るのであって、高尚な思想が反映される必要は一切ないのだ。楽しくない作品は、娯楽としての価値がない。

ただ、その楽しさを超えて語りかけてくるものがあった時、それを、「感動」と呼ぶ。
感動を与えてくれる作品は、何らかのメッセージがある、テーマがある、「思い」がある。

ここに、娯楽には、消費のためのものと、生産のためのものがあるといえる。
人のコミュニケーションも同様に、消費と生産がある。
どちらも、尊いものである。

ただし、どちらも、バランスよく摂取することが大切である。特に、躁と鬱とのふり幅が大きい人にはそうである。

拍手[0回]


創作活動のモチベーションが下がる理由
2015/10/20 21:14 | Comments(0) | 創作について

すごい人は大勢いる

世界でトップになるどころか、日本でトップになることだって難しい。どんな分野でもそうだ。
特に、創作活動においては、殊更にそうである。

すごい人を見て、知って、よし、俺もがんばるぞ! と思えているうちはいい。しかし、大半はそのレベルに到達できずに、やめてしまう。
だからこそ、続けることが大事だ、とこれまで述べてきたわけだ。

しかし、その続けることが、実に難しいのである。

ナンバーワンにならなくてもいいもともと特別なオンリーワン、なんて嘘っぱちだ

私は槇原敬之さんが好きだし、世界に一つだけの花という曲自体も好きだし、その歌詞だって好きだが、嘘だと思っている。
オンリーワンでいいんだよ、というのは、理想ではあるが、どこのだれが、そんなことを言ってくれるのか。マッキーだけである。

しかし、唯一言ってくれるものはいる。

自分で自分を認められなきゃ誰に認めてもらえるというのか

自分だ。
もちろん、承認欲求は、自分では満たせない。他者とのかかわり合いで欲求は充足される。しかし、だ。お山の大将、井の中の蛙でいれば、それでもよいだろうが、世界に目を向けたときに、自分はなんて矮小な存在なんだと感じることがある。

例えば、私はタイピングは速い方だ。間違いなく平均よりは上だ。だが、私より速い人は何万人もいるだろう。
といったことは、完全なる自分向けの記事(日記)では、まったく不要な記述だ。けれども、何らかのエピソードがあった方が、初めて読む人とか、あとから読んだときに分かりやすいのだ。
結局、そのエピソードで何をいいたいかというと、そういったことを考え出すと、きりがないということだ。

上をみてもきりがないし、下をみてもきりがない

そもそも、はっきりいって、自分ひとりいなくなったとしても、世界は何も変わらない。
無価値である。

そんなことをいったら、有名な会社の社長さんだって、確かに大勢に影響を与えているが、世界的には、いなくなってもそれほど影響はない。

日本を出て、海外、特に発展途上国でがんばっている人が大勢いるという。そこで初めて生きがいを得られたとか、人との関係に温かみを覚えたとか、そういった感想があるという。日本はもはや、飽和しているのである。自分の価値を感じられなくなっているのである。

だからこそ、自分だけは、自分を認めてあげなければいけない。
でも無理だ。論理矛盾だ。その他大勢の凡人には、認められるだけの能力がない。

働いて税金を納めて消費活動をして、立派な社会人だ、日本人だ、人間だ、と思ったところで、そんなことで自分を納得させられるのか。
これは、例えばで書いているだけで、ニートであろうが社会人であろうが、同じ問題を抱える可能性をはらんでいる。
もちろん、この問題を抱えない人間も大勢いる。「生きる意味」を考えずに、自明のものとできる人間も大勢いるのだ。
それが本当の凡人だ。ゆえにこの記事は、凡人にすらなれない「クズ」に向けての記事である。

凡人宣言

こういった問題が存在するため、かなり昔に、「凡人宣言」を書いた。いつの記事かは忘れてしまったが、凡人宣言とは、生きることを自明に感じようという意味をもっている。
だが、そういった考え方と、上昇志向とか、「できる社員になるためには!」、「お金持ちになる方法!」とかとは、矛盾が起きる。
大抵自己啓発本で有効とされているのが、「目標」を設定することだ。

私もそれは賛成している。しかし、目標を設定するというのは、凡人から外れたクズにはつらい作業である。何故なら、目標を具体化……、いや、抽象化していくと、いきつくのは、「生きる意味」になるからだ。

拍手[3回]


創作活動においてやる気がなくなる原因
2015/10/04 21:25 | Comments(0) | 創作について
もしこの記事を目にした方がいらっしゃったら、思った以上に長くなったため、最後の「総括」だけでも読んでいただければ嬉しいです。



創作活動においてやる気がなくなる原因、それは、オンラインゲーム症候群とでも呼ぼうか。

オンラインゲームには、「廃人」と呼ばれる人々がいる。
もちろん、オンラインゲームには、様々な種類がある。ブラウザゲームと呼ばれる、ターン制や「スタミナ」といった呼称で一日に操作できる回数が決まっているものがある。それを増やすアイテムが課金だったりする。ジャンルは、畑を耕したり、モンスターを連れて冒険に行ったり様々だ。
スマホゲームは、ほとんどがオンラインゲームだろう。パズルでモンスターを倒したり、ディズニーのキャラクターを三つ以上つなげてスコアを競ったりする。
もちろん、ハードなゲームも存在する。MMORPGと呼ばれる、大規模な仮想空間で、様々なクエストを、マルチプレイヤーと協力してこなしていく。もしくは、プレイヤーキル(キラー)と呼ばれる、マルチプレイヤー同士で殺し合いをすることもあったりする。
殺し合いと言えば、FPSやTPSと呼ばれる、ガンシューティングゲームもある。ちなみに、FPSとTPSは、一人称(ファーストパーソン)視点か、三人称(サードパーソン)視点かの違いである。これらも、たいていはプレイヤー同士で遊ぶ。


で、オンラインゲーム総論をやりたいわけではなくて、創作活動においてやる気がなくなる原因を、オンラインゲームをやっていて発生しがちな現象との関連性を述べてみたいというわけだ。

その理由が、冒頭にもふれたが、「廃人」と呼ばれる人々である。

廃人とは何か。詩を詠む人々のことではない。簡単に言えば、極めた人々だ。トッププレイヤーのことだ。
だから、廃人とはすごい人々なのだ。何で「廃」と呼ばれるかといえば、そのゲームを究めるために、その他の生活を犠牲にしている場合が多いからだ。
むしろ、ゲームの構造自体が、時間をかけないと強くなれなかったり、重要なアイテムを手に入れるためには運要素があったり、廃人を生み出す要素をはらんでいたりするのだが、これも脱線してしまう。

とにかく、この記事の中で重要なのは、オンラインゲームには、廃人がつきものだ、ということである。



ではこの廃人が、創作活動と何の関係があるというのか。

これは誤解を生む可能性が高いけれども、簡単にいえば、創作活動においても、廃人はいるのだ。
さすがに、廃人といってしまうと語弊の方が強いため、上手い人、優れた人ぐらいの意味で考えて頂きたい。

例えば、頑張ってイラストを描いてみた。自分の中では上出来だと思った。近しい友人にみてもらった。いいじゃないか! と褒められた。気分がよくなった。
しかしながら、イラスト投稿サイトで自分が描いたのと同じジャンルの作品を偶然見つけてしまった。その作品は、自分のものより、段違いで上手だった。嫉妬も少し感じたものの、そんな次元をはるかにこえている。

ははぁ、さては、プロのイラストレーターが遊びで描いたものなんだろう、と、作品のプロフィールをみてみる。
なんと、自分より10歳も下の素人の方の作品だった。しかも、イラストを描き始めたのは、ここ1カ月ぐらいらしい。その上手な作品も、1時間ぐらいでかきあげたというのだ。自分は、会心のできだと思った作品を作るのに、1か月以上費やしたというのに……。


オンラインゲーム、関係なかったかもしれない。(すみません、説明崩壊かも……)

ただし、ポイントは、つまり、「自分より優れた人を見てやる気をなくしてしまう症候群」ということだ。
最初からこのネーミングの方がよかったかもしれない。


ともかく、これは、創作活動においてやる気をなくす原因の一つである。

もちろん、逆に奮起するパターンだってあるだろう。人生の師、メンターのような存在になってもらうのは、とても有意義だ。そんな機会がえられたなら、むしろ感謝すべきだろう。

しかしながら、それが「仕事」であれば、有無を言わさず、優れた人を見習うことをしなければいけない、が、創作活動は必ずしも「仕事」ではない。
仕事の場合もあるが、趣味だったり、自己啓発だったり、交流が目的だったりもする。
そんなとき、「ああ、自分はいくら頑張っても、せいぜいこれぐらいにしかなれないだろうな」なんて悪魔のささやきに耳をかしてしまったら、もう、創作活動自体をやめてしまうかもしれないだろう。


だから、この病気、というか症候群というかの対処方法は、「目的を見失わない」ということだ。
「この分野でてっぺんをとってやる!」という目標であれば、かなり辛いことになるかもしれない。けれども、それは「目標」であって、目的ではないはずだ。何故あなたは、その分野で一番になりたいと思ったのだろうか? 単純に、他の人たちを見下したいと思ったからだろうか? きっと他の理由があるはずだ。

目的と目標は違う。目標は、目的を達成するための通過点を、数値で表現したものだ。必ずしも数値で表現されなくても、目的のために行う手段をまとめたものである。
では目的とは何か。理念のことである。企業でいったら、経営理念とか、企業理念とか、企業精神とかそういうものだ。
では個人の場合、目的とは何だろうか? 生きる目的のことだ。何故自分がその行動をしたいのかをまとめたものだ。
――、目的について、言いたいことをまとめきれたか微妙だけれども、このことも、本筋と外れるため、ここまでにしておく。いずれ、このテーマは自分にとって重要だし、これまでも何度か書いてきたから、もう少し掘り下げて書く必要があるだろう。


自分より優れた人(作品)をみて、やる気がなくなってしまったときは、何故自分が創作活動をしたいと思ったのか、もう一度冷静に考えてみることだ。
そして、もう一ついえることは、継続は力なりということだ。
継続は力なりとは、繰り返し練習しないと、物事は上達しないものだ、ということを示した教訓でもあるが、実は、ずっと続けていると、ライバルもだんだん減ってくるという事だ。減るというのは、その業界自体が縮小する場合もあるだろうし、本当に単純に、人間の寿命的に減るという意味もある。
優れた作品が、例えば100点だったとしよう。自分は、どう頑張っても、80点しかとれなかった。しかし、100点を取った人は、80歳で亡くなった。すると、次点で自分の80点の作品が、この世界でもっとも優れた作品になるのである。
いやはや、くだらない考え方と思われるだろう。その間に、もっと優れた、例えば120点の作品が生み出されるかもしれないじゃないか、と。そうかもしれない、けれども、それまでずっと継続して作品を作り続けていったのならば、その頃の自分は、きっと、80点以上の作品を作れるようになっているのではないだろうか。

と、時に自分を慰めながらでもいいのだから、続けていこうじゃないですか、ということだ。
ゼロは、何を乗算してもゼロだ。けれども、1ならば、2倍、3倍と増えていく可能性を秘めている。
(小数点をかけたらどうするんだ、とか考えてる暇はないのだ。こういうのを屁理屈という。けれども、私は、いつもこういうことを同時並行で考えてしまう。私だけではないだろう、中学生ぐらいから、大人のいうことを素直に受け取れずに、あれこれと抗弁を試みるのである。これは決して悪いことではない、成長するのに必要なことだと思う。問題は、いい大人の自分がそんなんなことだ)


以下まとめ。
【総括】
最近、以前制作したWEBサイトを構築(復旧)しようと頑張っていた。
しかし、何年も経ってしまい、いまや自分のサイト(作品)よりも、もっともっと優れたサイト(作品)が星の数ほどある。
このままでは、そこら辺に転がっている石にすらなれないのではないか……と、やる気をなくしかけてしまったのだ。
けれども、上のように、目的と目標を考えることで、やる気をもちなおし、結果なんとか復旧することができた。


そうすると、嬉しいことがあった。昔交流していた方々から、励ましのメッセージを頂いたのだ。突然行方をくらましたというのに、温かい言葉を頂いて本当に嬉しかった。
目的は、「優れたサイトを作る」ということではないのだ。それは、目標に過ぎなかったのだ。



――という、一般論を語っているような書き方でいて、結局自分に対して語りかけているだけの記事でした。
ただ、もし誰か、創作活動でスランプなどに陥って、やる気をなくしたり、悩んだりした人がいて、この記事を読んで少し元気になってくれたら、この記事の本当の目的が達成されると、思います。

拍手[0回]


新幹線の中で旅の整理をする
2015/07/21 15:54 | Comments(0) | イライラ対処
仕事の先輩、人生の先輩と話す機会があった。
国の政策の話しになって、納得させられた。選挙での立場表明をしていない人が多いなか、そして、選挙の結果がでたとき、デモはいかほどの意味があるのか、正当性はどちらにあるのか、ということだ。
総論は賛成で、各論は反対というのが一番嫌いだといっていた。私もそう思う。政治はよく分からないが、その点が納得いった。

そこで、決定についての想像力をもたなければいけないということだ。今の職場の人たちにはその能力が不十分だといっていた。若者は、とは言わないところが流石だと思う。年取ってもつかえないやつはつかえないし、若くてもできるやつはできると。その点も同意だ。

具体的に仕事の内容に関連付けた話しは面白かった。

仕事の飲み会は、そういう場であるべきだと思う。ある先輩は、自分の成功談を語る、それは参考になるはずが、若かったときの話しに過ぎず、いまの会社がこれからどうあるべきか、そもそも正しいことは何かを語るまでには至らない。

6ヶ月間の中で事務処理が必要なのに、実はシステムの中でその機能が抜けていることを見抜き、それを会議で指摘しなかった部下を叱責しつつ、裏で手をまわして解決したという話しは面白いし、業務のことも勉強になる。

若かったときは出張の接待で朝まで騒いでも、次の日もまた飲み会をしたとか、それはすごいことだと思うが、正直興味ないし面白くないし、なんの参考にもならない。


ゆえに、若い人が集まる飲み会で、どんな話しをしたらいいのかといえば、そういう、現場と、いまの自分の立場における仕事のみえかたと、あるべき姿を語るべきなのだ。

そういう話しを面白くないとして、若い女の子をどう攻略したのかという話しをしたい人はそれはそれでいいが、会社の飲み会なんて、所詮は仕事ありきでしかない。本当の友人などできるはずがない。
とかくと、言い過ぎだが、そう考えるべきだという戒めである。


まぁ、人それぞれだ。価値観はいろいろ。人生はいろいろ。
だからこそ、けれども、とはいえ、自分はどう思うのか。どう感じるのか。
もう学生ではないのだから、今の自分を中心に考えるしかない。そして、今の自分が、カオスではないことは認めてあげていい。
この考え方は、快楽殺人者には通用しないが、私の思考の中においては、例外として、切り捨ててよい。

すなわち、私の考え方や価値観は、正しいのだということだ。
数年前の記事を読んでも、カオスではあるが、根源は変わっていない気がする。環境による影響があるが、考え方の骨格は同じだ。

表現の仕方によって、変人扱いされるだろうが、一般大衆と違うことが悪いことではない。快楽殺人者は別だ、という前提はここにきいてくる。

ここに、凡人を目指せというこれまでの方針との齟齬が生まれる可能性がある。

おさらいすると、凡人を目指す必要があるのは、幸せの追求をしてはならないからだ。幸せは相対的概念のため、追求をすればするほど遠ざかる。
凡人とは何かと言えば、今を必死に、満足して生きる人の概念である。


この概念を崩す必要はない。ただし、これば、具体的な目標や指針にはなりえない。必死に、満足してという言葉は、抽象概念であり相対概念でもあるため、幸せの追求との相違点を的確に示しているのではない。重要な点は、幸せとは、ゴールではなく、過程の中にこそあるのだ。

例えば、ワイルドスピードのブライアンオコナーは、六作目のユーロミッションの冒頭で、大金を手にし、引き渡し協定がない国に妻と移り住み、息子が生まれ、幸せな日常を過ごしている。しかし、スリルのあった前の生活が忘れられず、悶々と悩み続けている。


自分で幸せだと認識しない限りは幸せではない。その認識は無限に広がる。だから、凡人になるとは、あるがままでいいとか、楽をするとか、そういういみではないと、前の記事で述べたはずだ。
すなわち、自分を認め、普通の人の感覚と違う方向に進もうが、凡人を目指せという目標との齟齬は発生しないのだ。



長くなったため、まとめよう。
若手との飲み会では、仕事の内容に関連付けて、あるべき姿を語ろう。


んん、何だか違うような。


自分の考え方は既に確立して正しいとの認識のもと、今この時を一生懸命生きよう。


うーん、何だか違うような。つまり、言いたいことはないということか。本来ブログとしては削除すべきだが、未来の自分のために残しておこう。

もしかすると、全く関係のない通りがかりの人が、コメントをしてくれるかもしれない。

そのコメントは、批判かもしれない。批判であれば、どう批判するのか興味もあるし、ありがたい。

バカ、アホ、死ね、というコメントは、何がダメなのかあればいいが、それだけでは愚かな自分は分からないのでいらない。


どうなんだろう。まぁ、普通の人が読めば気持ち悪いんだろうな。こういうブログを探したこともあったが、見たことない。需要もないし、そもそもこういうことを、普通の人は思わないのだろう。

ただ、それでも、このブログが残っているのは、2009年に知り合った人が、すごかったからだ。
その人は、私の中途半端さというか、美意識の低さに結局愛想つかして去ってしまった。

悲しい寂しいとかそんな気持ちを抱くほど余裕もなかったから、そのまま時間が過ぎたが、思考の分野でも到底勝ち目がない人もいるのだとそのとき、知識ではなく心から感じられたので、とても、謙虚になれたと同時に、「生きてていいんだ」と思うことができた。

感謝している。

本当に長くなったためここまで。

拍手[0回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング