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保険と人生設計について
2016/06/08 21:34 | Comments(0) | 生きる意味
終身保険に加入しようか検討している。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。

じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。

結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。

子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。

どんな、死に様になろうか、イメージができていない。

女性は現実的だというが

男性は夢見がちで、女性はリアリストという風潮もある。

ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。


60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。



ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。

ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。


とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。

果たして僕はどうだろうか。


なやみ続けた自分との戦い

ああ、ところで、サイバー攻撃や炎上というのには、気を付けた方がいい。ネット空間は、もうそれは自分の家なんかじゃない。
玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。

このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。

でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。

例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。


これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。

もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。

はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。



だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。

プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。


いやほんと、もうそろそろ、し


人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。


凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。


時代とは全くあっていないだろう。

イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。

でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。




















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タイトルを変えるべきか孤独な戦い
2016/06/06 21:00 | Comments(0) | 生きる意味
理屈っぽいところは、相性があるが、生きる意味とかその辺の話は、相手によっては気持ち悪いと感じる。
みんな考えていることだけど、いざ言葉にすると、気持ち悪いと感じる。

と、友人(果たして継続できているのか)から言われた。
数少ない本音以上の部分で会話できる相手なので、失うと痛手であるけれども、上のような感想というか知見をもらえたことは、有意義であった。


出会いの場、というのも、別れた話を大っぴらにして、笑いながら話せば、次の機会をと提供してくれる方にも新しく出会うことができる。

こういった書き方をすると、先の記事で想定した30才の男性からは、リア充死ね、的な扱いになり、一切僕の言葉が響かなくなることは明らかであって、ここにおいても、表現のたリナさには、頭を抱えるばかりである。

笑顔の裏にある哀しみや絶望に気づいてくれる人はいないのだ、……と書いていけば、これはこれで、対面コミュニケーションの相手には得たいの知れない気持ち悪い人間、サイコパスのように捉えられるだろう。

この表現の可能性、という面で、どうにもこうにも、言語的な限界性を感じてしまう。
と書くと、これはこれで、何をかっこつけてるんだ、となるし、もうどうにでもなれ、となる。


言ってはいけない



とにかく、役に立つ文章をかきたいのだ。
言ってはいけない

という書籍を読んだ。これは、性的な役割分担とか、知能の遺伝性とか、犯罪の遺伝とか、女も実は複数の男との性交を望んでいるとか、時おり嫌悪するようなことが書かれている。

僕は別に特になにも感じることなく、ではないが、特段突拍子もないとか、大発見!とかいう感覚はなかったけれども、あぁ、なるほど、僕のつくりだす言葉というのも、同じように受け入れがたい面があるのかもしれない、それを感じることができたことで、有意義な書物だった。800円ぐらいの価値は十分だ。

そうすると、役に立つ、という目的からはずれていると感じざるをえない。
これはかなり苦痛なことだと思う。ゆえに、本当に、ある二人の読者さんには、感謝というよりも、救われたという表現がぴったりなのだ。



孤独な戦い



ゆえに、本来的には、このblog含めた生活全体が、孤独な戦いにならざるをえない。

本来的というのは、人はみな一人で生まれて一人で死ぬのだ、という標語的なものではなく、求めるものの無意味性との戦い、という水準になる。

これは、もう本当に怖いもので、下手をしたら、悪魔との謗りを受けかねない。

当たり前で、嫌な思いをさせることを信奉するというのは、社会的にも生理的にも、排除されるべきものである。


例えば、科学が、果たして真理を目指しているかは疑問であり、いわゆる人類の幸福、というものを前提にしていることは明らかである。


そこから外れたことを望み、構築することは、せいぜい、憲法で思想信条の自由が保障されている程度の、保障しかない。

本来的には、唾棄すべきものとなる。
 

善なるものの肯定が善か



アンダーグラウンドが排除されるべきかというレベルと、僕の行為、思考がそもそもそれに当たるのか、という二重、の意味で、反論というか、疑義をつくることができる。


今回は、冒頭の友人(仮)の、意味に対する思考への見解のメモができれば成功だと思う。

孤独な戦い、という実感がえられたこともメモできたことで、十分だ。

スターバックスのストロベリーフラペチーノ美味しかった。

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社会人になって友人ができないとは
2016/06/05 00:42 | Comments(0) | 対人関係

友人ができた


よく、社会人になると友人ができない、といわれる。
ただ、それらは根本の人間関係を知らないがゆえに発生する誤解である。


ジョハリの窓、という研究があり、それは自分でも自分の知らない部分があるということだが、それよりも、信頼関係をえるには、自己開示が必要だということ証左である。

社会人になって友人ができない、というのは、その人の来歴の共有不足である、これは物理環境と時間の由来であり、もはや覆しのできない事実でありながら、そこに、友人という言葉の何を求めるか、になる。


ともに新しい目的、遊び、行為、それらを作り上げるとき、もはや、その来歴を確認する作業が面白いものとなりえる。
これは、友人という表現でよいと考える。

親友という存在がどれほど重いかはわからない、そう、その友人と親友の違い、というものを、卒業論文のテーマにそえようとしつつも、その意味の無さに気づいて、やめたのであった。


深い人間になること



表層的な、コミュニケーションの構築は、もう大体おっけーだと思う。お世辞かなにかはわからないが、話しやすい雰囲気です、とか、話なれてますね、とか言われた、これは全くもって、こういった文章を書く人間とは思われないくらいの技術の構築を示しているといえる。

人との関係構築にどれだけ怯え、学び、実践し、調整してきたことか、それは一切伝わることがない。
伝えてはならない、それはすべての覆しを意味する。

そして、その過程を知ってなお、自分という今を見つめてくれる人、それが友人だとしたら、僕は友人が一人もいないことになるし、そんな友人を欲しいとは思わない。


それらの過程は、自己の自信のなさによるものかもしれない。いやはや現に、いまにおいても、その所属コミュニティにおいては、僕はかなり厳しい立場状況におかれるし、一方あるコミュニティでは、ある程度の価値が認められるのである。

そして、たいていは、その認められるコミュニティを重要視して、拠り所とするが、僕はただ、そのコミュニティさえも、不安定な、崩れやすいものとしか思えないという、表層的な問題である。


かっこよくあるために


人は、かっこよくあることを要求される。愚痴愚痴してマイナス思考な人は排除される仕組みである。



……、生きづらいとは思わないか。この投げ掛けに、呼応する人はいない、それは、まさにこれに共感する人こそが、排除の対象になる仕組みだからだ。

エセポジティブとは、臭いものに蓋をして、なんとかやりきろうとする、対処療法である。


イデオロギーがあり、ある方向に人々が向かっていた時代は、よかっただろう、いまは、マニュアル人間は塵で使えない、と断罪される。

自分の力で考えろ、という。

それをしていいのは、次の前提を実感できている人たちだ。


世界がよいものであると


世界がよいものであると、世界をよくしたいと、自分に価値があると、自分には力が備わっていると。


後二分しか、時間がない。

一言で説明できないことから、僕の頭のなかは、まだまだ十分に整理できていないのだ、ただ、ひとつ、笑顔をたやさず、目的をはっきりとし、自己を開示していけば、この世界の動き、それはすなわち自分を取り巻く環境は、少しずつ変化するのである。














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コミュニケーションスキル
2016/06/03 23:00 | Comments(0) | 対人関係
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8418146.htmlコミュニケーションのスキルを学ぶ研修に参加した。

聞くことが大事とか、ノンバーバル(非言語)コミュニケーションが重要だとか、相手のペースに合わせること(呼吸を合わせる)や、真正面に向かい合わない方が良いだとか、ロジックツリー(テーマなど大きなポイントから、枝葉末節に伸びていく)だとか、説得の手法(ポイント、理由、事例、ポイント(結論))だとか、大体はすでに知識としてあった。(というのは、今テキストを見なくてもアウトプットできている)
頷きだとか、相槌、オウム返し、そして何より笑顔、これが重要。

ただし、実践として、それを使う機会を多くが持てたことが良かった。

相手の考えていることをできるだけ引き出すこと、隠された心を開くこと、それは、自分でも気づいていない面の発見にも繋がる。


やりたいこと好きなこと



人格形成の重要な時期に、自分の好きなことを否定される経験があったとき、自分の感情を分からなくなることがある。

バイクが趣味です、というのは分かりやすいものであり、自己表現のひとつであるが、例えば、スピードを出すことが好きとか、集団で暴走することが好きとか、反社会的であれば共感を得られない、それは表現の仕方であり例えば、車では味わえないバイクと一体感、風を切る感覚、気軽に遠出できる点、など。

これらをロジックツリーにより構築し、説明をしやすいようにしておくと、コミュニケーションで役に立つ。
そう、好きなこと、というのは、好き、であって、その理由が説明できないことが多い。
コーナーを思い通りのラインで曲がれたときの快感は、達成感という言葉で表現しようが、それだけで他者に伝えられるものではない。

ただ、それを面倒がっていれば、対人関係の構築も、恋活とか婚活とか、会社内での出世とか仕事の効率とか活性化とか、その他もろもろのことには繋がらない。


他者にあわせて、他の人の好きなことをやってみるのもいい。ただ、それだけでは、全く、面白くない人間になる。このあたりの表現も難しい、別に、趣味がないことが問題ではない。

それは、

好きなことは何ですか?


夢は、この先死ぬまでにやりたいこと、なしとげたいことはなんですか、という説明でもいい。

つまり、対人関係において重要なのは、信頼を得ることであり、では信頼とはなにかとは、その行為こ目的が信じられることである。

類義語として、信用という言葉があるが、これは、行為が理解できるということだ。
同じ作業をしていても、その目的が分からないと、人は不安がぬぐえない。

ファイナンシャルプランナーの紹介をうけたとき、まず貴方の目的、利益になるポイントは何ですか、と率直にきいたのはその目的である。


相手は、よく聞かれることですとのことであったが、まぁ、たどたどしかったが、主張としての論理は通っていると思ったので、許容できたわけだ。


難しいものではない


ノンバーバルコミュニケーションが重要ならば、英語だって、簡単な言葉を覚えればなんとかなるっという説明が成り立つというのと理解可能、ただ、それだけでは上手くいかない。

実践、実感、生きていくのに重要なもの。

これらは、意識する必要なく、人は自然と身に付けていくものだ。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8418146.html

あとで、内容もメモしておこうと思うが、社会や組織、コミュニティ、人は自然の驚異から身を守り、種の反映のために様々な知恵を作り上げていった。

そこから、こぼれおちるもの、人、は必ずある。

そういった人たちへの一助になれば、という目的だったが、上の記事は無力感をぬぐえない。

ただ、改善すべき、もんだいてんは一瞬でわかる。このわかるという感覚、これは実感レベルになってきたため、ここらへんは
成長であり、楽しいところだ。


しかし、ロジックツリーではないが、表現がたりない、説明がたりない。


僕が得た概念、処世術、知恵、考え、思考、方針、信念……、それは万人に役立つものではないだろうし、必ず必要かどうかも、わからない。
ただ、これからの時代において、その概念が重要になることは間違いないとそれは感じられる。

その理由を解き明かすことが目的ではなく、たんに多くの人に感銘をあたえるならば、その実践的な、処方的な、即時性を持ったことが重要なのであって、概念は、それがなっときしたときに発生するのは、

ああ、それは元々おもっていたよ

とかいう感覚なのである。


問題は、それが初期的に備わっていたかどうかではなく、常に意識されていたかどうか、になるのだけれども、そこまで気づくにはまた、いくばくかの痛みが必要なため、これはこれで受け入れられない、イコール、需要が少ないということだ。

積極的に暗い気持ちになるえんたーていめんとを人は欲するだろうか。

目的か快楽か



僕たちが生まれた意味を一緒に探していこう!


というプロポーズに、グッと心が動くのだろうか。

仕事で、

この業務がどんな価値があるかやっていこう!

と上司にいわれて、やる気モチベーションは高まるのだろうか。

普通は、否である、当たり前の知見だが、ゴールが見えないと、動機は高まらない。


だから、これら、これから、問題や課題、タスク、やるべきこと、求めること、確かめること……、僕が目指すことは、とてもとても孤独な作業である。

だから、少しだけ、読者を求めてしまっている、それは弱さということなのだけれども、

ただ、本当にだからこそ、前々に書いてきたことに反応をしてくださった方々は、本当に感謝、なのであって、貴重である

時間切れ、


ただ、1つだけ、この問題に対する取り組みと、対人関係の演習や研修における大変さは、後者が軽いもの、もはや楽しんで行えるレベルであって、それは、上のURLの記事の内容への処方せんでしかないと確信するのだけれども、やはり、表現説得のための力が不足している感情なんだ










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ファイナンシャルプランナーと生きる意味
2016/06/01 22:14 | Comments(0) | 生きる意味
資産運用を本気で考えるために、ファイナンシャルプランナーとの面談を重ねている。

この機会というのも、離婚して落ち込んで?引っ越しして荷物整理していたら偶然舞い込んできた話。

昨今、祖父がなくなり、その病気についての新しい治療法がうみだされそうだというニュース。

興味のあるニュース出来事に目が行く、というのはあるけれども、人生における運命的な感覚を、思う、と書くと、やはり怪しげな宗教に感化されたように思われるのだろう、どうにも現実的なリアルタイムのコミュニケーションは慎重になる必要がある。



さて、お金のこと、資産運用とか形成を考えることと、生きる意味とは、どう関係するのか。

結局、お金とは、何か行動し、何かをうみだすための材料であるのだ。
つまり、お金を何に使うか、ということがひっきょう重要な問題である。

一方、お金をためることを、増やすことには誰しも熱心だが、どうやって、何に使おうかを、考えて行うことは少ない、というと馬鹿にしすぎかもしれないが、そうではなく、使うことについては、本来的な欲求に従うものだから、その必要性が薄い、ということだ。

おいしいものを食べたい、だからお金を使う、何ら不思議でもない自然なことである。


自然だからこそ、その、いわゆる性欲とか食欲とかに代表される欲求がある以上、お金の大切さとか、増やすこと貯めることに疑問は起こり得ないのである。





ところが、僕が少し変なところは、それ以前に生きる意味を問題視するところにある。
おいしいもの食べて、かわいい人を抱いて、ぐっすり眠れて、それはいわゆる幸せ、という言葉に示される状態だろうが、果たして、それが永遠かは明らかである。


話はあるぬと飛ぶが、バイクでナビがきかない場所を深夜に走っていて、非常に怖くなった、それは不明な土地であるというのと、小石でつまづいて転倒したとき、自分の身体はいともかんたんに、死という状態になるのだ、と。


ここら辺から、もうまったく、気持ち悪いと思われ始めることは確信に近いながら、死、という状態は、何においても重要である。

人は死ぬために生きている、この表現は全く受け入れがたいが、ある側面では真実でしかない、もちろん、いつも補足的に書くように、その真実が万人に必要とは限らない。

しかしながら、それは、十代や二十代では起こらないかもしれないが、いずれ、身体の衰えと共に、思考の隅に発生する可能性が高まってくる。
安心してほしい、と、ここまで言って、誰も信じられないことであるが、こういった文章を読んだところで、人は死の恐怖は発生しない。

そこら辺には、実感、というスタビライザーが備わっている。
だから、ゆえに、僕は、人の言葉でなんか人は変われないんだ、変わる要素は自分のなかにあるのだ、と思っているが、これも一般感覚的には受け入れられない、何故ならば、承認欲求もまた、人にはかかせないからであり、自分が他者への影響力をもっているということを、人は信じたいのである。

これらを、営業テクニックの本とか読めば、分かりにくく説明してくれる。顧客に自己決定したように、自分の営利に向けて誘導するのである、とかね。

それで、WINWINの関係になれば、お互い気持ちよければいいじゃない、というのも最もなんだけれど、どこか欺瞞的で、気持ち悪いと僕は思う、この感覚を、高2病とか大2病
とかいう、かっこわらい。




話が、前にすすまない。まとめようとすれば、人はいずれ死ぬのだから、いまを精一杯生きよ、とかになる。このブログは、そんなことは分かっている、そこで思考停止するんじゃない!と発破をかける。と同時に、生きる意味なんて考えるのは無駄であるとするエセポジ言説への警鐘である。いやもちろん、全否定なんて、こうやって書いてきたことがむしろ、できないことの証左なんだけれども

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