終身保険に加入しようか検討している。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。
じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。
結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。
子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。
どんな、死に様になろうか、イメージができていない。
女性は現実的だというが
男性は夢見がちで、女性はリアリストという風潮もある。ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。
60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。
ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。
ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。
とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。
果たして僕はどうだろうか。
なやみ続けた自分との戦い
ああ、ところで、サイバー攻撃や炎上というのには、気を付けた方がいい。ネット空間は、もうそれは自分の家なんかじゃない。玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。
このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。
でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。
例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。
これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。
もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。
はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。
だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。
プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。
いやほんと、もうそろそろ、し
人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。
凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。
時代とは全くあっていないだろう。
イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。
でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。
PR