来週は、土日ともプライベートの予定がある。
という、書き方、プライベートってなんだよ、と何だか無性にいらだつ。いやつまり、誰か他者との付き合い的なことをプライベートというのか、「仕事」とそれ以外をプライベートというのか。であれば、結局今日だってプライベートで予定はあった(結局友達との食事会は取りやめたが、頼んだ本を受け取ったりとか)。
つまり、自分は、「自分一人の時間」を、「本当の時間」ととらえ、他者との相互関係、インターアクションが発生する時間を、別なものとととらえているのだろうか。それが、プライベートという言葉への違和感につながっているのか。
そんな細かいことはいい。「どうでもいいことはいい」と書こうと思ったが、上のような感覚をメモしておくことは、重要なことのように思える。「何か違う」という感覚こそが、「自分自身」の要素なのだと思うから。
言葉ってのが、難しいものだ。
言葉ね。言葉、言葉がなければ、記憶も成り立たず、記憶がなければ、人として存在ができない。
いやはや、やっぱり、電車とか、他人の車とか、それとはやっぱり違う。「馬を駆る」「運転する」という感覚は、全く別のものだと思う。この主体性ってのは、やっぱり大事だ。自分は○○ができる、という、この「できる」という感覚を大事にしなければならない。
しかし、ここで補足的に蛇足すれば、自分は、その「できる」が、主体的な感覚として認められず、他者との比較をすることによって、いわゆるオンラインゲーム症候群に陥り、自己喪失するのである。
と、いつもいつも補足しているが、そろそろ、まともな対策考えたらどうなんだ。いやだから、外に出かけて楽しかった、と言っているじゃないか。
しかしこう、少し、回復した。
どこまで保てるかは分からないけれども、最近、やはり、人と関わりすぎた。人中毒だ。なんじゃそりゃ。
とか書くと、「一人の時間ってのは大切なのですよ」とかしたり顔で諭される。いやいやそういう問題じゃない。
睡眠、と、何もしない時間、だ。
もう忙しくなってくると、あれもこれも、それで頑張っているのに、あれが足りないこれが足りない、努力が足りない、真剣さが足りない、ああもう、本当にたくさんたくさん言葉が降ってくる。
それは、他者から本当に言われることもあれば、自分自身の、内なる声の場合もある。
煩わしいものだ。
苛立たしいものだ。
面倒なものだ。
そう、この、面倒、という気持ち。やる気が起きない。
本当は、やりたいことが、こんな僕にも(こんな僕、という表現は、卑下しているようで、尊大である。危険な表現だ)あるはずなんだ。
とかく、もう少し、整理したいんだな。部屋も掃除機をかけられない日が続くと気が滅入るが、それだけじゃなくて、自分の好きなものとか、それは、ゲームの種類や、本、飲み物、食べ物、場所、服装、道具、音楽、……など。
「取りあえずいろんなことをやってみるのがいいよ」
という、どっか、阿頼耶識(あらやしき)に刷り込まれているのかもしれない。
俺の起源は何なんだ。
20代のうちに、どれだけ多くのインプットができたか、で人は決まるという。
はぁ? 勝手に言っとけ。
何ら方策無きインプットなど、何も生み出さない。
というのは、専門性の高度化複雑化である。
「超常的なことの衰退」が時代の象徴なのだとしたら、僕らができるのは、目標設定力と、自己解決力だけなのだとしたら、それは極度な自己満足の世界ということになる。
そうじゃねぇだろ、どっか正しいことってあるだろ。
一方で、生きる目的なんて考えてないで、トートロジー(同語反復)に、生きてるから生きているのだ、と言い切ってやれという。
この辺りの矛盾が問題なのかもしれないな。
大抵は、そのどちらかに自分を委任しているため矛盾に気づかないか、その矛盾を矛盾と感じないことだろう。
いやぁ、しかし、そんなことはさておき、やっぱり、休むことは大事だ。
特に、何で生きてるんだっけ、と、よく分からなくなる頻度が高まっているこの時期には、何もしない時間をできるだけ多くつくる必要がある。
何もしないって、結構難しい。あれやらなきゃ、これやらなきゃ、と、頭にめぐるのを、すっと消して、真っ暗な、もしくは真っ白な心象風景をつくりだし、内なる声に耳を傾ける……ことすらせず、本当に、何もしないのだ。
という、書き方、プライベートってなんだよ、と何だか無性にいらだつ。いやつまり、誰か他者との付き合い的なことをプライベートというのか、「仕事」とそれ以外をプライベートというのか。であれば、結局今日だってプライベートで予定はあった(結局友達との食事会は取りやめたが、頼んだ本を受け取ったりとか)。
つまり、自分は、「自分一人の時間」を、「本当の時間」ととらえ、他者との相互関係、インターアクションが発生する時間を、別なものとととらえているのだろうか。それが、プライベートという言葉への違和感につながっているのか。
そんな細かいことはいい。「どうでもいいことはいい」と書こうと思ったが、上のような感覚をメモしておくことは、重要なことのように思える。「何か違う」という感覚こそが、「自分自身」の要素なのだと思うから。
休むことの重要性
とはいえ、まぁ、今日はあまり活動はしなかった。しばらくぶりに愛馬にまたがったが、やっぱり、楽しかった。楽しいという言葉も貧相だな。「なんだか生きているな」という感覚を味わえた。……大げさか?言葉ってのが、難しいものだ。
言葉ね。言葉、言葉がなければ、記憶も成り立たず、記憶がなければ、人として存在ができない。
いやはや、やっぱり、電車とか、他人の車とか、それとはやっぱり違う。「馬を駆る」「運転する」という感覚は、全く別のものだと思う。この主体性ってのは、やっぱり大事だ。自分は○○ができる、という、この「できる」という感覚を大事にしなければならない。
しかし、ここで補足的に蛇足すれば、自分は、その「できる」が、主体的な感覚として認められず、他者との比較をすることによって、いわゆるオンラインゲーム症候群に陥り、自己喪失するのである。
と、いつもいつも補足しているが、そろそろ、まともな対策考えたらどうなんだ。いやだから、外に出かけて楽しかった、と言っているじゃないか。
しかしこう、少し、回復した。
どこまで保てるかは分からないけれども、最近、やはり、人と関わりすぎた。人中毒だ。なんじゃそりゃ。
とか書くと、「一人の時間ってのは大切なのですよ」とかしたり顔で諭される。いやいやそういう問題じゃない。
睡眠、と、何もしない時間、だ。
もう忙しくなってくると、あれもこれも、それで頑張っているのに、あれが足りないこれが足りない、努力が足りない、真剣さが足りない、ああもう、本当にたくさんたくさん言葉が降ってくる。
それは、他者から本当に言われることもあれば、自分自身の、内なる声の場合もある。
煩わしいものだ。
苛立たしいものだ。
面倒なものだ。
そう、この、面倒、という気持ち。やる気が起きない。
本当は、やりたいことが、こんな僕にも(こんな僕、という表現は、卑下しているようで、尊大である。危険な表現だ)あるはずなんだ。
とかく、もう少し、整理したいんだな。部屋も掃除機をかけられない日が続くと気が滅入るが、それだけじゃなくて、自分の好きなものとか、それは、ゲームの種類や、本、飲み物、食べ物、場所、服装、道具、音楽、……など。
「取りあえずいろんなことをやってみるのがいいよ」
という、どっか、阿頼耶識(あらやしき)に刷り込まれているのかもしれない。
俺の起源は何なんだ。
整理する時代
時代、というか、年代というか。20代のうちに、どれだけ多くのインプットができたか、で人は決まるという。
はぁ? 勝手に言っとけ。
何ら方策無きインプットなど、何も生み出さない。
というのは、専門性の高度化複雑化である。
「超常的なことの衰退」が時代の象徴なのだとしたら、僕らができるのは、目標設定力と、自己解決力だけなのだとしたら、それは極度な自己満足の世界ということになる。
そうじゃねぇだろ、どっか正しいことってあるだろ。
一方で、生きる目的なんて考えてないで、トートロジー(同語反復)に、生きてるから生きているのだ、と言い切ってやれという。
この辺りの矛盾が問題なのかもしれないな。
大抵は、そのどちらかに自分を委任しているため矛盾に気づかないか、その矛盾を矛盾と感じないことだろう。
いやぁ、しかし、そんなことはさておき、やっぱり、休むことは大事だ。
特に、何で生きてるんだっけ、と、よく分からなくなる頻度が高まっているこの時期には、何もしない時間をできるだけ多くつくる必要がある。
何もしないって、結構難しい。あれやらなきゃ、これやらなきゃ、と、頭にめぐるのを、すっと消して、真っ暗な、もしくは真っ白な心象風景をつくりだし、内なる声に耳を傾ける……ことすらせず、本当に、何もしないのだ。
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新しい曲、アルバムを探すときに困ったから、メモ。
いらない曲は思い切ってデリートしていってもいいかもしれない。
何となく、その日の気分とか、その時期とかで、良いと思うかどうかが分かれたりするから、中々消せないんだけど、下に書いたアーティストは、10年~5年前ぐらいから聞いていて、今聞いても、6割以上の確率でいいな、と思うから、今後も取っておいていいと思う。逆にここに上がらなかったのは、今後、整理の対象かな。
スティービーワンダーとか、好き、なんだけど、なんか、聴くタイミングあんまりないんだよな。思い切って消していいのかもしれない。
最近、どこかで見つけた、
「bring me the horizon」というアーティストは、アルバム借りて聴いてみたいと思った。
エヴァネッセンスという女性ロックアーティストが、ナイトウィッシュの雰囲気に近くて、いいなと思った。スピード感が違うんだけどね。
ナイトウィッシュと、ディープフォレストは、他に追随するジャンルの作品を知らない。
と、思ったら、deep forest は、今年2016年7月15日に、新しいアルバムを出しているじゃないか。
ディープ・フォレスト 『Evo Devo』
早速、購入。
と思ったら、ナイトウィッシュも、2015年に新作のアルバム出してたのか。
エンドレス・フォームズ・モスト・ビューティフル
早速購入。
しかも、アマゾンの、MP3マーケットで、速攻で購入できた。クレジットカードって、怖いね、家にいて、すぐ買えてしまう。まぁ、全然お金を使う暇もないから、これぐらいいいだろう。
いらない曲は思い切ってデリートしていってもいいかもしれない。
何となく、その日の気分とか、その時期とかで、良いと思うかどうかが分かれたりするから、中々消せないんだけど、下に書いたアーティストは、10年~5年前ぐらいから聞いていて、今聞いても、6割以上の確率でいいな、と思うから、今後も取っておいていいと思う。逆にここに上がらなかったのは、今後、整理の対象かな。
スティービーワンダーとか、好き、なんだけど、なんか、聴くタイミングあんまりないんだよな。思い切って消していいのかもしれない。
最近、どこかで見つけた、
「bring me the horizon」というアーティストは、アルバム借りて聴いてみたいと思った。
エヴァネッセンスという女性ロックアーティストが、ナイトウィッシュの雰囲気に近くて、いいなと思った。スピード感が違うんだけどね。
ナイトウィッシュと、ディープフォレストは、他に追随するジャンルの作品を知らない。
と、思ったら、deep forest は、今年2016年7月15日に、新しいアルバムを出しているじゃないか。
ディープ・フォレスト 『Evo Devo』
早速、購入。
と思ったら、ナイトウィッシュも、2015年に新作のアルバム出してたのか。
エンドレス・フォームズ・モスト・ビューティフル
早速購入。
しかも、アマゾンの、MP3マーケットで、速攻で購入できた。クレジットカードって、怖いね、家にいて、すぐ買えてしまう。まぁ、全然お金を使う暇もないから、これぐらいいいだろう。
大した問題もないのに、きぶんが塞ぎ混んでいる。
毎日深夜帰宅のせいか、最近時おり入る土日出勤のせいか。明日も知人との約束があるが、気乗りがしなくなってきた。
こんなこと書いてるblogなんてあるだろうか、恐らく無駄だからないだろう、ただそれより、こんなに気分が滅入ってくると、おそらく、書くことすらできないはずだ。
この説明によると、まだ書いたり話せたりしてるうちは余裕ってことか。
むしろ、書くことによる不満や焦燥や、気力のナサが助長されているのか、まあまあ、そんな分析はあとでいい。とりあえず、現在の気分を、正確に記述しておくべきだ。
とりあえず、久々にゲームセンターにでも行ってみるか。
何か、気分がかわるかもしれない。
のみにけーしょん、友人や女の子達との遊び、それらは気分が変わるも知れないが、疲れていると、それら自体が、とてつもなくエネルギー消費となる。
メール等のやりとりもそうだ。
いや、作品の感想のやりとりとかは楽しい。何が違うのか。
それは、現実世界との接点だろう。それは、現実的な他者の忌避なのか、というよりも、もうお腹一杯といった感じだ。
といった心境で本屋をまわっていると、あらやしきの発見という本をみつけて読んでみる。
あらやしき、とは、そういえば、空の境界という那須きのこの作品で、根元に到達しようとする魔術師として出てきたなぁとか。
あらやしきは、記憶の貯蔵庫であるという。
フロイトとかの、無意識とは違う、と強調されていたが、僕は、深層心理みたいなものなのかな、と思ったりした。
よい行為も悪い行為も関係なく、沈殿していくのだという。
いやぁ、しかし、そういう、面白い作品にたどりつくまでが、結構大変なんだよね。そういう意味で、同じ趣味、というか、同じ感覚を共有した人との付き合いは大事。
いい作品とか、いい経験とか教えてくれるからね。
ところで、足のしこりが、やはり治らない痛いな。鼻血も突然でるし。
そうそう、もう一つ、他依起という考え方で、自分を小さくしていくことが、世界を大きくすることだ、といったこと。僕の表現になるとつまんなくなるから、ちゃんと読んだ方がいいがまぁ、自己に執着するのが、やはりよくないことだな、と思わせてくれた。
何故生きてるのか、生きているから生きているのだ、と、どうご反復を自信をもっていいなさいということだった。
で、アマゾンレビューでは、私のような凡夫には、そのような境地は説教臭くてかなわん、別の人の本の、科学でも宗教でも、死後の世界などわからないという言葉の方が響いた、という
その感想もまた面白かった。
俺が最近ダメなのは、記憶力の低下だろう、そしてそれは、認識力の低下であり、興味の低下だ。
例えば、ゼロの概念と、無との違いは重要だが、シューニャと、空のことをサンスクリット語で記憶していても、結局概念きおくとしては同じである。
概念記憶、本当は、ジンと、グレープフルーツジュースと、トニックウォーターを混ぜたカクテルを、ジンモーニという、とそれを覚えていても、精々、居酒屋やバーでメニューを見たときに、味を思い出しやすいぐらいにしかやくにたたない。ああもちろん、自分でつくるときにも役に立つ。
ただ、逆に、ジンモーニの単語が分からなくても、ジンとグレープフルーツとトニックと、と、それだけ覚えていれば飲みたい味はつくりだせる。
概念記憶とは、固有名詞とは違って、例えば、違うとか、例えばとか、思考とか、目的とか。
概念記憶の多さというか、種類で、人間の個性がつくられているのかな。
あらやしき、ってのも、その、蓄積された記憶を概念化している役目、はたらきをしているのなら、まさにそれが、人そのものといえるのかもしれない。
と、先の本を15分くらいしか読めていないから、取り合えず購入して、ちゃんと読んでみようかな。
毎日深夜帰宅のせいか、最近時おり入る土日出勤のせいか。明日も知人との約束があるが、気乗りがしなくなってきた。
こんなこと書いてるblogなんてあるだろうか、恐らく無駄だからないだろう、ただそれより、こんなに気分が滅入ってくると、おそらく、書くことすらできないはずだ。
この説明によると、まだ書いたり話せたりしてるうちは余裕ってことか。
むしろ、書くことによる不満や焦燥や、気力のナサが助長されているのか、まあまあ、そんな分析はあとでいい。とりあえず、現在の気分を、正確に記述しておくべきだ。
とりあえず、久々にゲームセンターにでも行ってみるか。
何か、気分がかわるかもしれない。
のみにけーしょん、友人や女の子達との遊び、それらは気分が変わるも知れないが、疲れていると、それら自体が、とてつもなくエネルギー消費となる。
メール等のやりとりもそうだ。
いや、作品の感想のやりとりとかは楽しい。何が違うのか。
それは、現実世界との接点だろう。それは、現実的な他者の忌避なのか、というよりも、もうお腹一杯といった感じだ。
あらやしき
といった心境で本屋をまわっていると、あらやしきの発見という本をみつけて読んでみる。
あらやしき、とは、そういえば、空の境界という那須きのこの作品で、根元に到達しようとする魔術師として出てきたなぁとか。
あらやしきは、記憶の貯蔵庫であるという。
フロイトとかの、無意識とは違う、と強調されていたが、僕は、深層心理みたいなものなのかな、と思ったりした。
よい行為も悪い行為も関係なく、沈殿していくのだという。
いやぁ、しかし、そういう、面白い作品にたどりつくまでが、結構大変なんだよね。そういう意味で、同じ趣味、というか、同じ感覚を共有した人との付き合いは大事。
いい作品とか、いい経験とか教えてくれるからね。
ところで、足のしこりが、やはり治らない痛いな。鼻血も突然でるし。
そうそう、もう一つ、他依起という考え方で、自分を小さくしていくことが、世界を大きくすることだ、といったこと。僕の表現になるとつまんなくなるから、ちゃんと読んだ方がいいがまぁ、自己に執着するのが、やはりよくないことだな、と思わせてくれた。
何故生きてるのか、生きているから生きているのだ、と、どうご反復を自信をもっていいなさいということだった。
で、アマゾンレビューでは、私のような凡夫には、そのような境地は説教臭くてかなわん、別の人の本の、科学でも宗教でも、死後の世界などわからないという言葉の方が響いた、という
その感想もまた面白かった。
固有名詞の必要性
俺が最近ダメなのは、記憶力の低下だろう、そしてそれは、認識力の低下であり、興味の低下だ。
例えば、ゼロの概念と、無との違いは重要だが、シューニャと、空のことをサンスクリット語で記憶していても、結局概念きおくとしては同じである。
概念記憶、本当は、ジンと、グレープフルーツジュースと、トニックウォーターを混ぜたカクテルを、ジンモーニという、とそれを覚えていても、精々、居酒屋やバーでメニューを見たときに、味を思い出しやすいぐらいにしかやくにたたない。ああもちろん、自分でつくるときにも役に立つ。
ただ、逆に、ジンモーニの単語が分からなくても、ジンとグレープフルーツとトニックと、と、それだけ覚えていれば飲みたい味はつくりだせる。
概念記憶とは、固有名詞とは違って、例えば、違うとか、例えばとか、思考とか、目的とか。
概念記憶の多さというか、種類で、人間の個性がつくられているのかな。
あらやしき、ってのも、その、蓄積された記憶を概念化している役目、はたらきをしているのなら、まさにそれが、人そのものといえるのかもしれない。
と、先の本を15分くらいしか読めていないから、取り合えず購入して、ちゃんと読んでみようかな。
いやはや、仕事の時間自慢など無意味だが、自慢ではなく、ただ事実として、メモしておくのも、今後のことを考えれば重要だ。
とにかく、家に帰ると玄関で寝てしまうぐらいに帰りが遅く、疲れている。睡眠時間は五時間達していない。
俺なんて徹夜だ、まだましだね、とか、比較しだすときりがない。
まず、こういうときは、自分でどうか。
限界、というと語弊、だが、通常続けられる生活様式を100%としたら、120%くらいでずっと続いてるようだ。
ここで、輝かしい未来があるなら、ふんばりどこだ! とやるのだが、もう半年前から書いてるように、生きる意味を喪失した状況である。
本当は、がんばる、ということが、完全にできない状態である。だから、実力の90%ぐらいの発揮でなんとかしていたけれども、やはり、足りなそうだ。
といっても、点数がでるような仕事ばかりじゃないし。
おぉ、思い出した。がんばって、も、無駄である。
本気で、がちで、真剣に、必死に、自分のできる以上にがんばった。で、結果が一部ダメだった。罵られた。
やってられない、と自暴自棄になるというよりも、頑張ったことに対する、後悔が、生じた。
鞄があたった、とかで、まじ切れして掴みかかってくるクソ親父っているんだな。スキンヘッドで髭をはやして、酒の臭いをさそている。でもスマホゲームやってんだけどな(笑)
ヒジウチされて、なにやってんだよ、と、怒鳴られた。
本当に、いやはや、いらっと度はボルテージだが、ある意味冷静にスルーした。
なんだその態度は、っていわれたらどうなってたか分からないが。
話は完全にそれたが、まぁ、そういう、クソ野郎であっても、俺のように様々他者を斟酌して、自分を律して生きていてもら結局、クソ野郎のような、自分の気持ちに正直なやつのほうが、楽しく生きていたりする。
って考えると、ほんと、がんばるとか、我慢するとか、馬鹿馬鹿しいよな。
まぁ、俺の特殊さは、苛立ったハゲ野郎も、昔はとっても繊細で、自分を圧し殺して生きてきた、とかかもしれない、とか思うことだが、だがあの野郎はぜってぇ違う(笑)
冗談はともかく、ほんと、このがんばること、我慢することの無意味性が、最近の僕を支配している。
そして、究極のポジティブ思考しかありえないことの証明。
そう、楽しく生きるしか、正解はない。中学3年生では到達した、生きる意味。楽しむこと。
やっぱり俺は正しかった、なんて思えるはずもなく、であれば、なおさら、楽しいことの無意味さに気づくたび、生きる気力がなくなっていくのだ。
仕事では頼りにされ、期待もされていても、それは限りない頑張れ世界に没入していくだけで。
ああ、もちろん、戦後ものがない時代とか、働くことがそのまま生きることに直結していた時代は、仕事そのものが生きることだったろう。
そんな時代は、スローライフとか、ワークライフバランスとかいう言葉がでてきたときに終わった。
趣味に生きよう、ローカルコミュニティを大切にしよう、新しい方策が示される。
それはそれで、多くの人を救い、長く保ち続けるだろう。
が、さて、そっからもこぼれたら、いったいどこにいく?
とかいう相談を誰かにすれば、え、じゃぁ、生きたくないなら死ねばいいじゃない。早く死んで、といわれるだけである。
冗談だが、ただ、内心そう感じさせるのは事実。
これが、他者を頼ってはダメな理由。アドバイスではない、共感が必要なんだ、としよう、で、共感してもらっても、じゃあ頑張って生きてみようか! となる。
だから、その生きる意味がわかんないんだってことを、理解できる人はいない。
いくら素晴らしいアドバイス、傾聴、共感であっても、それは、よく生きるためのものでしかない。そして、論理矛盾だが、そのよく生きるってのが、結局、それは一人ひとり考えてつくっていくものだよ! とか抽象になる。
究極のトップダウン思考がダメなのかもしれないが、やっぱり、生きるということは、そのことに意味があるはずなのだ。
それは、決して、万人にあてはまる真理でなくてもいい。ハゲ糞野郎にだって、スマホゲームとか、生きる目的があるのだ。
でも、シッダッタがいうように、人生は苦しみなのであれば、早々に諦めて死ぬのだって、一つ、正解なはずだ。
でも、死んだら終わり、生きていれば、そのうち生きる意味がみつかるかもしれないし、見つからなくても楽しく生きていけるかもしれない可能性があるから、死んではダメだ、という論理である。
が、その論理は、現時点として苦しむ人を救わない。
希望である。希望がないのだ。
とにかく、家に帰ると玄関で寝てしまうぐらいに帰りが遅く、疲れている。睡眠時間は五時間達していない。
俺なんて徹夜だ、まだましだね、とか、比較しだすときりがない。
まず、こういうときは、自分でどうか。
限界、というと語弊、だが、通常続けられる生活様式を100%としたら、120%くらいでずっと続いてるようだ。
ここで、輝かしい未来があるなら、ふんばりどこだ! とやるのだが、もう半年前から書いてるように、生きる意味を喪失した状況である。
本当は、がんばる、ということが、完全にできない状態である。だから、実力の90%ぐらいの発揮でなんとかしていたけれども、やはり、足りなそうだ。
といっても、点数がでるような仕事ばかりじゃないし。
がんばる無意味
おぉ、思い出した。がんばって、も、無駄である。
本気で、がちで、真剣に、必死に、自分のできる以上にがんばった。で、結果が一部ダメだった。罵られた。
やってられない、と自暴自棄になるというよりも、頑張ったことに対する、後悔が、生じた。
くそぼけなヤクザにからまれた
鞄があたった、とかで、まじ切れして掴みかかってくるクソ親父っているんだな。スキンヘッドで髭をはやして、酒の臭いをさそている。でもスマホゲームやってんだけどな(笑)
ヒジウチされて、なにやってんだよ、と、怒鳴られた。
本当に、いやはや、いらっと度はボルテージだが、ある意味冷静にスルーした。
なんだその態度は、っていわれたらどうなってたか分からないが。
話は完全にそれたが、まぁ、そういう、クソ野郎であっても、俺のように様々他者を斟酌して、自分を律して生きていてもら結局、クソ野郎のような、自分の気持ちに正直なやつのほうが、楽しく生きていたりする。
って考えると、ほんと、がんばるとか、我慢するとか、馬鹿馬鹿しいよな。
まぁ、俺の特殊さは、苛立ったハゲ野郎も、昔はとっても繊細で、自分を圧し殺して生きてきた、とかかもしれない、とか思うことだが、だがあの野郎はぜってぇ違う(笑)
冗談はともかく、ほんと、このがんばること、我慢することの無意味性が、最近の僕を支配している。
そして、究極のポジティブ思考しかありえないことの証明。
そして無気力
そう、楽しく生きるしか、正解はない。中学3年生では到達した、生きる意味。楽しむこと。
やっぱり俺は正しかった、なんて思えるはずもなく、であれば、なおさら、楽しいことの無意味さに気づくたび、生きる気力がなくなっていくのだ。
仕事では頼りにされ、期待もされていても、それは限りない頑張れ世界に没入していくだけで。
ああ、もちろん、戦後ものがない時代とか、働くことがそのまま生きることに直結していた時代は、仕事そのものが生きることだったろう。
そんな時代は、スローライフとか、ワークライフバランスとかいう言葉がでてきたときに終わった。
趣味に生きよう、ローカルコミュニティを大切にしよう、新しい方策が示される。
それはそれで、多くの人を救い、長く保ち続けるだろう。
が、さて、そっからもこぼれたら、いったいどこにいく?
とかいう相談を誰かにすれば、え、じゃぁ、生きたくないなら死ねばいいじゃない。早く死んで、といわれるだけである。
冗談だが、ただ、内心そう感じさせるのは事実。
これが、他者を頼ってはダメな理由。アドバイスではない、共感が必要なんだ、としよう、で、共感してもらっても、じゃあ頑張って生きてみようか! となる。
だから、その生きる意味がわかんないんだってことを、理解できる人はいない。
いくら素晴らしいアドバイス、傾聴、共感であっても、それは、よく生きるためのものでしかない。そして、論理矛盾だが、そのよく生きるってのが、結局、それは一人ひとり考えてつくっていくものだよ! とか抽象になる。
究極のトップダウン思考がダメなのかもしれないが、やっぱり、生きるということは、そのことに意味があるはずなのだ。
それは、決して、万人にあてはまる真理でなくてもいい。ハゲ糞野郎にだって、スマホゲームとか、生きる目的があるのだ。
でも、シッダッタがいうように、人生は苦しみなのであれば、早々に諦めて死ぬのだって、一つ、正解なはずだ。
でも、死んだら終わり、生きていれば、そのうち生きる意味がみつかるかもしれないし、見つからなくても楽しく生きていけるかもしれない可能性があるから、死んではダメだ、という論理である。
が、その論理は、現時点として苦しむ人を救わない。
希望である。希望がないのだ。
しょうがいを持った方でも、必死に生きているという番組を、感動ポルノだとして批判がされた、という。健常者でも、しょうがいしゃでも、ともに怒ったり笑ったりするのが本当の感動だと。
先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。
まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。
例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。
人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。
繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。
それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。
というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。
ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。
本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。
と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。
結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。
そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。
ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)
なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。
メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。
それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。
概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。
それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、
そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。
なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。
もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。
さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。
こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。
絶望について、
必然期待について、
不透明な時代について、
生きる意味を考えることについて、
ここまで書いた。
次は、理想的な自己とはなにか、についてか。
しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。
うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。
吉田さんの徒然草は参考になる。
あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。
気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。
十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。
それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。
先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。
まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。
例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。
人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。
繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。
それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。
というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。
ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。
自己の抑圧
本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。
と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。
結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。
そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。
ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)
なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。
メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。
それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。
概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。
それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、
そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。
そして午後
なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。
もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。
さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。
こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。
絶望について、
必然期待について、
不透明な時代について、
生きる意味を考えることについて、
ここまで書いた。
次は、理想的な自己とはなにか、についてか。
しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。
うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。
吉田さんの徒然草は参考になる。
あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。
気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。
十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。
それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。
