劇場版ガンダムを見た。
ガンダムファースト、と言うのだろうか。今まで生きてきて、ガンダムシリーズを見るのは初めてだ。いつもの、流行りのものは何となく避けてしまうというので、これまで一度も見てこなかった。
思えば、ロボットものは、嫌いではない。ガン×ソードも、ロボットをメインにしたわけではないが、「鎧」ヨロイはやっぱりロボットだ。
フルメタルパニックのアームスレイブもそうだ。
エヴァンゲリオンも、人造人間ということだが、まぁロボットジャンルに入れていいだろう。
パトレイバーもそうだ、が、あれの映画はイマイチであった。
ううむ、何か忘れている、……ああ、マクロスもロボットか。他にもあったような気がするが、意外と挙げてみると少ない。
そんな自分がガンダムを初めてみた感想。1979年の作品、つまり、40年近く前の作品としては、これほど長寿命になるのも頷ける、と思った。
やっぱり、映像・音声としては、安っぽさ、陳腐さが正直ある。しかし、設定、ストーリー、構図など、良いところが多くある。主人公がただの熱血少年じゃなくて、ガンダムに乗るのにダダをこねたり、無気力になったりして、幼馴染の少女やブライト少尉(中尉?)に張り手されながら頑張っていくのは面白かった。
有名なシャア少佐の「ぼうやだからさ」というセリフ、実はBARでテレビを見ながらのものだったとは意外だった。
しかし映画は、よくある総集編的な内容になっていて、場面の因果性の説明がなく、この映画を一つの作品として見たときに「面白かった」といえるかは微妙だ。ただ、ガンダムを初めて見る人にはよいと思う。
しっかし、地球連邦軍とジオン公国との戦争で、わずか一か月で人口の半数が滅するとは、恐ろしき哉。それにしては、世紀末的な雰囲気無くテクノロジーの維持もされていて、少し違和感があったが、無粋か。


ガンダムファースト、と言うのだろうか。今まで生きてきて、ガンダムシリーズを見るのは初めてだ。いつもの、流行りのものは何となく避けてしまうというので、これまで一度も見てこなかった。
思えば、ロボットものは、嫌いではない。ガン×ソードも、ロボットをメインにしたわけではないが、「鎧」ヨロイはやっぱりロボットだ。
フルメタルパニックのアームスレイブもそうだ。
エヴァンゲリオンも、人造人間ということだが、まぁロボットジャンルに入れていいだろう。
パトレイバーもそうだ、が、あれの映画はイマイチであった。
ううむ、何か忘れている、……ああ、マクロスもロボットか。他にもあったような気がするが、意外と挙げてみると少ない。
そんな自分がガンダムを初めてみた感想。1979年の作品、つまり、40年近く前の作品としては、これほど長寿命になるのも頷ける、と思った。
やっぱり、映像・音声としては、安っぽさ、陳腐さが正直ある。しかし、設定、ストーリー、構図など、良いところが多くある。主人公がただの熱血少年じゃなくて、ガンダムに乗るのにダダをこねたり、無気力になったりして、幼馴染の少女やブライト少尉(中尉?)に張り手されながら頑張っていくのは面白かった。
有名なシャア少佐の「ぼうやだからさ」というセリフ、実はBARでテレビを見ながらのものだったとは意外だった。
しかし映画は、よくある総集編的な内容になっていて、場面の因果性の説明がなく、この映画を一つの作品として見たときに「面白かった」といえるかは微妙だ。ただ、ガンダムを初めて見る人にはよいと思う。
しっかし、地球連邦軍とジオン公国との戦争で、わずか一か月で人口の半数が滅するとは、恐ろしき哉。それにしては、世紀末的な雰囲気無くテクノロジーの維持もされていて、少し違和感があったが、無粋か。
PR
メモの重要性は疑うべくない。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。
また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。
そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。
ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。
僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。
いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。
本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。
ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。
なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。
一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。
インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。
もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。
朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。
無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。
注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。
無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)
だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、
かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。
また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。
内的体験
そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。
ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。
僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。
いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。
本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。
ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。
なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。
一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。
アギュギテム
インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。
もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。
朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。
無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。
インプットとアウトプット
注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。
無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)
だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、
かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。
ぐずついた天気のように、晴れやかにならない三連休であった。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
物語の必要性
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
三つの人生要素
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
そんなこといいから勉強しなさい
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
考えることがよくないとしたら
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
細田守監督のバケモノの子を視聴した。
☆5つ評価中、☆3つといった感じ。面白くなかったわけでもないけれども、さほど感動するわけでもないといったところ。
闇に取り込まれたライバルを倒すために旅立ちを決めた際に、お世話になった二人に「ありがとう」といって、泣いて抱き合うシーンは少し感動した。
ストーリーとしては、
離婚した母親が亡くなり、親戚に引き取られそうになった主人公レンは、反抗して街に家出すると、不思議なバケモノの世界に迷い込み、そこで弟子を探していたクマテツの下で修業することになる。
数年をバケモノの世界で暮らしたレンは、ある日人間の世界に戻り、そこで闇を抱えた高校生の文学少女をDQNから救い、一緒に人間の人間の世界の勉強をして仲良くなっていく。
そのうち、クマテツのライバルの子が闇に取り込まれ、人間世界を巻き込んで戦い、勝つ。その際、渋谷で大立ち回りをするが、奇跡的に、人的被害はゼロだった。
映像がきれいで、東京の街並みや、車とか建物のリアリティ、大勢の人、雑踏の滑らかな動きとか、よかった。
けれども、ストーリーとして、面白かったかというと、まぁ、普通である。
やっぱり、なんというか、不良に囲まれた少女を救って仲良くなって勉強して「大きな敵」の中「心」を正しく保って戦いのサポートをしてくれる、という。
なんか、男の子が好きな女の子をよく表現しているなと思う。
いやまぁ、みんな誰しもそんなのが好きなので、良いと思うが、リアリティという面で今一つだなぁと思ったりする。まぁ、女の子としても、自分の危機に現れて、なんか複雑な事情を抱えてそうで、まっすぐ自分の生きる道を探して頑張っているような男の子に出会ったら、きっとときめいてしまうだろう。いや、俺が女の子でもきっとそうだろう。そういう意味で、決して、リアリティがないわけじゃあないのだけれども、そもそも、そういった事態があるかってことだ。
いや、あってもいいし、むしろ、物語なのだから、その平々凡々とした僕ら多くの生活の一部を切り取ったところで面白くないのは明らかだし、少しくらい特異なことが起こってもいいだろう。
けれども、なんというか、そういう「主人公」に思いを託す的な見方しかできない作品って、いい年の大人がみるとなんだかやるせなくむなしくなるものだなぁと思った(じゃあみるな!)。
いや、むしろ、子供たちにとって、そういった空から少女が……! 的な作品をみせてもいいものだろうかとすら思う。いやいや、それは決して、ぐちょぐちょでドロドロな群像劇が適切というわけではないが、何だか、夢や希望や理想ばっかり広がっても必ずしもうまくいくとは限らないことであり、その壁にぶつかったとき、「こんなはずじゃなかった」という失望感にさいなまれないだろうか、という余計なお世話な話である。
何というか、同じ前向きとかポジティブとかそういう表現においても、どこか「失敗した」記憶や実感が残っていて、逆にその思考を元にして困難を乗り越え、ときに失敗しながら成長し冒険していく物語であって、ストーリー展開に目が離せなかった。
それって単にお前が卑屈でダメな奴だから単純な前向きな熱い作品が苦手なだけじゃないか、というのは、きっとそうだろうね~と同意する。と、いうか、逆に、そういう作品は、むしろ「現実」がその体現なのだから、物語として、創作物として、必要ではないのだ。
だって、自己啓発本とか読んでいれば、そもそも前向きで明るくて人生頑張っていこうじゃないか、って思えるじゃあないか。わざわざ物語で、小説で、映画で、ドラマで、敢えて触れる必要性が分からない。
だから、恋愛そのものを取り扱う作品も、昔から好まなかった。いやそもそも、そんなリア充的な経験がないからなのかもしれないが、むしろその「ありえなさ」を楽しむために喪女的な人がはまる(たとえば、韓流ドラマが流行ったってのはそういうことじゃないのだろうか)というのも一面であるのだろうけれど、俺はそれよりだったら、現実で色々試行錯誤して試してもいいんじゃないかと思う。
ここで、「リア充」の定義や、喪男とか喪女とか、とくに「イメージ」だけで話をしていくとただのチラシの裏でしかないが、自分の中ではある程度イメージができているから、まぁ書き進めていくとしよう。
うーむ、しかし、恋愛要素ってのは別に悪いことではない。ロマンティック・ラブという概念は、現代人にとって一つ夢理想であり続けるものである。
それが、結婚制度によってゆがめられ……いや、これ、今書きたいことでも、メモしておくことでもないな。
多分、今の自分として、男女の関係というレベルの思考が必要になっていないことが原因だろう。
むしろ、もう一つ大きい次元として、人としての生き方ってなんだ、って話だ。
先ほどの、バケモノの子の最後のナレーション的解説では、「主人公は、きっとこれから大きな困難が訪れようとも突破して強く生きていくだろう、何せ胸の中に強い剣を宿しているのだから」的なものだったが、いやむしろ、その先の人生ってなんだよ、ということが僕の疑問である。
まぁ、これから見る人は、第一章から見たとすれば何のことか分からないだろうし、既にみた人はネタバレなんて関係ないだろうから、印象に残ったシーンを書けば、
・ある国の王が、戦争の勝利のため、自らの娘を火あぶりにかけて生贄にするシーン。その前に、娘は、父からも母からも自らの病気により疎んじられていたと思い込んでいた。それが、あるきっかけで瓦解する。「お前は、私の娘だ」と抱きしめるシーンは、非常に感動的だった。その後、何やかんやがあり、火あぶりである。
「父上! 母上! どこですか! こんなことやめさせてください! ――いやぁあああ! 助けて! 父上、ちちうえ!! ああああああ」
という悲鳴、ちょっと頭から離れない。
一歩引いて、ドラマとして考えたとき、子役の人、ほんとまだ十代前半ぐらいだろうに、すげぇ演技だ(いや、吹き替えで見たから、声優の人がすごいのかもしれないが)。
いや、まじですか、そこで、その選択しますか。という、驚き。様々な人の決断ってのがあるなって思う。そして、そんな大仰な儀式をしたんだから、きっと戦争では華々しい戦果があるのだろうと思うだろう、俺は思った、ところが、蹴散らされ味方はちりじり。しかも敵の領主が、いやなやつで、サドスティックな奴で、突き抜けた異常さが逆に癖になってしまうぐらいなのだが、そいつが勝利するのだ。
・他の部族との争いで頭角を現した若い男が、選挙によりある領地の総帥となった。そこに、ホワイトウォーカーという、怪物、いわばゾンビみたいな軍団が攻めてくる。そこで、今まで敵対していた部族との和平を行い、ともに戦うことを約束しあう。
おお、これで、ついにバケモノの軍団と一致団結して戦うって展開になるんだな、とワクワクした。その次の場面では、敵対した部族に家族を殺されたり、憎しみをもった人たちの反逆にあい、裏切られ、殺されてしまう。


何だか虚しさだけが残るという感想を抱く人もいると思う。
でも、何だか、大した経験も大した考えもあるわけではないが、そうした物語の方が、僕は何だか「現実的」だと思うのだ。
逆に、その努力したり頑張っていたら、必ずうまくいくような作品ばかりで育ってきた人は、「そうならなかったとき」どう思うのだろうか。
「人生うまくいかないこともあるさ♪」的な表現はよく聞くことだが、本当に本当に頑張って、真面目に、正しく、強く生きてきて、それが完全にひっくり返ってしまったり、裏切られたりしたことまで想像できているだろうか。
スピリチュアル的には、「そういうことを考える時点でダメですよ♪」となるわけだし、潜在意識とか無意識とか、自己意識とか、それらに働きかけられる意味や現象を、僕も全て否定する気はない。
だけど、どこかしら、「世界は残酷だ」ということを、僕らは分かっているようで、分かっていないのではないだろうか。
とか、知った風な言葉なんて、誰も必要としていない。
「え、そんなこと、みんな誰でもわかっているよ。そのうえでみんな大変なこともある中でがんばってるんだよ? 君だけじゃないよ? 30代にもなって幼稚だね~」
と言われることも分かっている。が、本当に皆わかっているのだろうか。否、分かる「必要がない」だけだろう。むしろ、有害であり、きっと遠ざけるべきなのだ。
それよりむしろ、「僕」が、きっとわかっていないのだ。そんな、「世界は残酷だ」とか言いながら、ずっと、これまでも、そのことをどこか認められない自分がいるのではないだろうか。
と、随分話が混線したので、とりあえずここまでにしよう。どれが創作の言葉で、どれが実感の言葉なのか、自分でもてんで分からなくなった。


☆5つ評価中、☆3つといった感じ。面白くなかったわけでもないけれども、さほど感動するわけでもないといったところ。
闇に取り込まれたライバルを倒すために旅立ちを決めた際に、お世話になった二人に「ありがとう」といって、泣いて抱き合うシーンは少し感動した。
ストーリーとしては、
離婚した母親が亡くなり、親戚に引き取られそうになった主人公レンは、反抗して街に家出すると、不思議なバケモノの世界に迷い込み、そこで弟子を探していたクマテツの下で修業することになる。
数年をバケモノの世界で暮らしたレンは、ある日人間の世界に戻り、そこで闇を抱えた高校生の文学少女をDQNから救い、一緒に人間の人間の世界の勉強をして仲良くなっていく。
そのうち、クマテツのライバルの子が闇に取り込まれ、人間世界を巻き込んで戦い、勝つ。その際、渋谷で大立ち回りをするが、奇跡的に、人的被害はゼロだった。
映像がきれいで、東京の街並みや、車とか建物のリアリティ、大勢の人、雑踏の滑らかな動きとか、よかった。
けれども、ストーリーとして、面白かったかというと、まぁ、普通である。
やっぱり、なんというか、不良に囲まれた少女を救って仲良くなって勉強して「大きな敵」の中「心」を正しく保って戦いのサポートをしてくれる、という。
なんか、男の子が好きな女の子をよく表現しているなと思う。
いやまぁ、みんな誰しもそんなのが好きなので、良いと思うが、リアリティという面で今一つだなぁと思ったりする。まぁ、女の子としても、自分の危機に現れて、なんか複雑な事情を抱えてそうで、まっすぐ自分の生きる道を探して頑張っているような男の子に出会ったら、きっとときめいてしまうだろう。いや、俺が女の子でもきっとそうだろう。そういう意味で、決して、リアリティがないわけじゃあないのだけれども、そもそも、そういった事態があるかってことだ。
いや、あってもいいし、むしろ、物語なのだから、その平々凡々とした僕ら多くの生活の一部を切り取ったところで面白くないのは明らかだし、少しくらい特異なことが起こってもいいだろう。
けれども、なんというか、そういう「主人公」に思いを託す的な見方しかできない作品って、いい年の大人がみるとなんだかやるせなくむなしくなるものだなぁと思った(じゃあみるな!)。
いや、むしろ、子供たちにとって、そういった空から少女が……! 的な作品をみせてもいいものだろうかとすら思う。いやいや、それは決して、ぐちょぐちょでドロドロな群像劇が適切というわけではないが、何だか、夢や希望や理想ばっかり広がっても必ずしもうまくいくとは限らないことであり、その壁にぶつかったとき、「こんなはずじゃなかった」という失望感にさいなまれないだろうか、という余計なお世話な話である。
無職転生
無職転生という小説は、無職素人童貞のクズニートが異世界に転生してハーレムを築く話である、と書くと悪意のある粗筋になるが、そんなことなく僕はこの作品が好きだ。何というか、同じ前向きとかポジティブとかそういう表現においても、どこか「失敗した」記憶や実感が残っていて、逆にその思考を元にして困難を乗り越え、ときに失敗しながら成長し冒険していく物語であって、ストーリー展開に目が離せなかった。
それって単にお前が卑屈でダメな奴だから単純な前向きな熱い作品が苦手なだけじゃないか、というのは、きっとそうだろうね~と同意する。と、いうか、逆に、そういう作品は、むしろ「現実」がその体現なのだから、物語として、創作物として、必要ではないのだ。
だって、自己啓発本とか読んでいれば、そもそも前向きで明るくて人生頑張っていこうじゃないか、って思えるじゃあないか。わざわざ物語で、小説で、映画で、ドラマで、敢えて触れる必要性が分からない。
だから、恋愛そのものを取り扱う作品も、昔から好まなかった。いやそもそも、そんなリア充的な経験がないからなのかもしれないが、むしろその「ありえなさ」を楽しむために喪女的な人がはまる(たとえば、韓流ドラマが流行ったってのはそういうことじゃないのだろうか)というのも一面であるのだろうけれど、俺はそれよりだったら、現実で色々試行錯誤して試してもいいんじゃないかと思う。
恋愛系の創作とはリア充のものか
何だか適当に考えていると、話しがどんどん脱線していくが、そもそも恋愛ものって、リア充のものではないだろうか。ここで、「リア充」の定義や、喪男とか喪女とか、とくに「イメージ」だけで話をしていくとただのチラシの裏でしかないが、自分の中ではある程度イメージができているから、まぁ書き進めていくとしよう。
うーむ、しかし、恋愛要素ってのは別に悪いことではない。ロマンティック・ラブという概念は、現代人にとって一つ夢理想であり続けるものである。
それが、結婚制度によってゆがめられ……いや、これ、今書きたいことでも、メモしておくことでもないな。
多分、今の自分として、男女の関係というレベルの思考が必要になっていないことが原因だろう。
むしろ、もう一つ大きい次元として、人としての生き方ってなんだ、って話だ。
先ほどの、バケモノの子の最後のナレーション的解説では、「主人公は、きっとこれから大きな困難が訪れようとも突破して強く生きていくだろう、何せ胸の中に強い剣を宿しているのだから」的なものだったが、いやむしろ、その先の人生ってなんだよ、ということが僕の疑問である。
ゲームオブスローンズ
同時期に見ているから、特に関連はなくても比較してしまうのだが、やはりこの海外ドラマは面白い。フィフスシーズン(第五章)まで、今貸し出しされている作品は全部見終わったが、いやはや、まさか、あの人が反逆にあって殺されてしまうとは……。まぁ、これから見る人は、第一章から見たとすれば何のことか分からないだろうし、既にみた人はネタバレなんて関係ないだろうから、印象に残ったシーンを書けば、
・ある国の王が、戦争の勝利のため、自らの娘を火あぶりにかけて生贄にするシーン。その前に、娘は、父からも母からも自らの病気により疎んじられていたと思い込んでいた。それが、あるきっかけで瓦解する。「お前は、私の娘だ」と抱きしめるシーンは、非常に感動的だった。その後、何やかんやがあり、火あぶりである。
「父上! 母上! どこですか! こんなことやめさせてください! ――いやぁあああ! 助けて! 父上、ちちうえ!! ああああああ」
という悲鳴、ちょっと頭から離れない。
一歩引いて、ドラマとして考えたとき、子役の人、ほんとまだ十代前半ぐらいだろうに、すげぇ演技だ(いや、吹き替えで見たから、声優の人がすごいのかもしれないが)。
いや、まじですか、そこで、その選択しますか。という、驚き。様々な人の決断ってのがあるなって思う。そして、そんな大仰な儀式をしたんだから、きっと戦争では華々しい戦果があるのだろうと思うだろう、俺は思った、ところが、蹴散らされ味方はちりじり。しかも敵の領主が、いやなやつで、サドスティックな奴で、突き抜けた異常さが逆に癖になってしまうぐらいなのだが、そいつが勝利するのだ。
・他の部族との争いで頭角を現した若い男が、選挙によりある領地の総帥となった。そこに、ホワイトウォーカーという、怪物、いわばゾンビみたいな軍団が攻めてくる。そこで、今まで敵対していた部族との和平を行い、ともに戦うことを約束しあう。
おお、これで、ついにバケモノの軍団と一致団結して戦うって展開になるんだな、とワクワクした。その次の場面では、敵対した部族に家族を殺されたり、憎しみをもった人たちの反逆にあい、裏切られ、殺されてしまう。
まじめな人が得をするとは限らない
いい人が必ず成功したり、幸せになったりする作品ではないから、きっと万人におすすめはできないだろう。何だか虚しさだけが残るという感想を抱く人もいると思う。
でも、何だか、大した経験も大した考えもあるわけではないが、そうした物語の方が、僕は何だか「現実的」だと思うのだ。
逆に、その努力したり頑張っていたら、必ずうまくいくような作品ばかりで育ってきた人は、「そうならなかったとき」どう思うのだろうか。
「人生うまくいかないこともあるさ♪」的な表現はよく聞くことだが、本当に本当に頑張って、真面目に、正しく、強く生きてきて、それが完全にひっくり返ってしまったり、裏切られたりしたことまで想像できているだろうか。
スピリチュアル的には、「そういうことを考える時点でダメですよ♪」となるわけだし、潜在意識とか無意識とか、自己意識とか、それらに働きかけられる意味や現象を、僕も全て否定する気はない。
だけど、どこかしら、「世界は残酷だ」ということを、僕らは分かっているようで、分かっていないのではないだろうか。
とか、知った風な言葉なんて、誰も必要としていない。
「え、そんなこと、みんな誰でもわかっているよ。そのうえでみんな大変なこともある中でがんばってるんだよ? 君だけじゃないよ? 30代にもなって幼稚だね~」
と言われることも分かっている。が、本当に皆わかっているのだろうか。否、分かる「必要がない」だけだろう。むしろ、有害であり、きっと遠ざけるべきなのだ。
それよりむしろ、「僕」が、きっとわかっていないのだ。そんな、「世界は残酷だ」とか言いながら、ずっと、これまでも、そのことをどこか認められない自分がいるのではないだろうか。
と、随分話が混線したので、とりあえずここまでにしよう。どれが創作の言葉で、どれが実感の言葉なのか、自分でもてんで分からなくなった。
無意識、夢の中で、「生きるのであれば、こんな生活変えてやる!」と言った(想像)。
未来、未来がないのだ。だから今が幸せだろうが、不満や不安でしかないのだ、と言った。
――ならば、未来を、創ればいい。
で、恒例の本棚整理の日に、当然、売却対象候補になった。
しかし、意外やに、今の現時点においても、かなり高評価であり、アマゾンのUSEDも下落していない(1円になっていない)。
難解なのが面白いというわけではない、ただ、何か人を惹きつける何かはあるのだろう、そう思って、残しておいた。
最近になって、ちょっと開いてみた。特に、理由はなかった。ただ、息をするとか、鼻水をかむとか、そんな程度に、手に取った。
なんか、ちょっと「わかる」って感じになった。
例えば、上のような表現が、なんとなく、わかるのだ。
この本、そもそも、何について書かれたものなのか、実は未だに分からない。
ただ、「内的体験」というタイトルの通り、人間の内面の存在を表現する試みなのだろうと推測する。
それはおそらく、心理学的なものではなく、まさに、瞑想したような状態、法悦の、恍惚の、感動の状態を表そうとしたものなのだろう。
解説のあとがきにあるように、きっと、全部の文章、一文一文を理解する必要がないのだと思う。
つまり、神をも恐れず言いのければ、僕のブログのようなものなのだと。(天罰がくだるぞ!)
もっというと、自己啓発的な奴とは違い、きっと、結論だけ読んでも、何も分からないだろう。
いやむしろ、結論めいたものが書かれているのかどうかすら怪しい(フランス思想書の研究者たちに石を投げられる!)。
ただ、表現として、面白そうだと、今は思う。
昔は思えなかった。これは、読書力があがったとか、そういう問題ではないと思う。
おそらく、「思考」がかわったのだ。そして、「文字」に対しての考え方が変わったのだ。
と、本気で思う。
最近特にその傾向が高い。
その、何もしたくないというのが意味するのが、非常に曖昧模糊であり、ただ単に、何かに集中できないような状況であるともいえる。「こんなことして、なんになるのか」とか。これら、なんでも「意味」を求めようとする呪い、というか悪癖というか。ただ、意味を捨て、家畜のように生きることは、おそらく、一度呪いにかかったものは、することができないだろう。それが、このブログタイトルへの決意である、「徹底して考える」という点にあらわれているのだろう。(推測、の文末表現になるのは、過去の自分は他人、という考えによるものだが、それより、単に記憶の曖昧さに起因する)
しかし、よくよく、休んで時間をつくってみれば、
・ゲームオブスローンズは面白い。ストーリー、セリフまわし、映像、たまに入るエロシズム、よく入るグロスティック。良い作品である。DVD1巻が、2時間で、5章の4巻目までみたから、少なく見積もっても、48時間費やしていることになる。え、まじか、そりゃすげぇな。数字にすると驚く。
・進撃の巨人は面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。
・アイアムアヒーローは面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。スピンオフ作品? オメーはダメだ(いや、そんなダメじゃないかもしれない。でも、1話だけ読んでみて、あまり読もうとは思わなかった)。
・モノガタリを創るのは面白い。
そう、意外やに、やりたいことは、あるのだ。
ただ、無気力の野郎は、本当に身近になっている。いや、これは冗談ではなく、本当にお友達になった方がいいのかもしれない。本当に無気力だと、自殺する元気もないと言うしなハハハ。
という存在に、未来はないのかもしれない。
でも、モノガタリは、創ることはできる。
自己を投影した主人公は、きっと面白くないだろう。
ただ、想像しうる、人間存在や、自然、科学、事象、因果、宇宙、物理法則、社会、集団、思想、価値観……それら諸々について創造することにより、本来的自己の「何か」片鱗をみることができるのかもしれない。
先日、書いたかどうか忘れてしまったから、もう一度書いておくと、
「生きる意味を考える」
というと、「キモーイ」と言われるが、
「自分の価値観の軸をつくり磨いていく」
といえば、なんか「できる男」みたいでかっこいいと思われるかもしれない。
そう、所詮、「表現」でしかない。
「表現性」の問題に気づいたことによることが、大きいかもしれない。
いくら回りくどく、小難しく、難解なテクニカルタームを用いたとしても、「平易な言葉で理解できる範囲に展開すること」ができなければ、所詮それは「理解」ではなく「暗記」である。
いやもちろん、暗記が悪いことではなく、むしろ、暗記というか、記憶の積み上げが、人格を形作っている、という現在の僕の立場である。
先般、「残酷な世界で生き延びる方法」(タイトルが違うかも)において、「こころ」とは、他者のこころをシミュレートする機能である、という表現があったけれども、というよりも、こころ=人=人格=自己=とは、「記憶である」と言った方が、僕は今のところすっきりする。
だから、固有名詞の記憶というのは重要なのだけれど(たとえそれが、因果を知らない暗記であったとしても)、記憶力の程度は、その人の頭の良さによるし、反復がなければ忘却は避けられないし、老いは必ずやってくる。
であれば、僕が思うに、重要なのは、「概念記憶」だと思うのだ。
何だろう、ここで、かっこいい例えが言えたらいいけれども、いえなくて、例えば、「重力」といったとき、英語でグラビティとか他の言語による表現などたくさんあるのだろうけれども、
重さをもった物同士が引き付けあう力
とアウトプットすれば、それは概念記憶といえる。
いや単に、高いところから物を落とすと、下に向かって落ちる現象を引き起こす力、といってもいいし、いろんな表現がある。
上に書いた表現、それって「万有引力」では? という疑問もあるが、厳密な違いの記憶が今はない。ただ、調べれば、なんとなく思い出すだろう。
とにかく、概念記憶とは、限りなく平易な言葉で表現するために必要な記憶(情報構成能力)のことである。
で、ここで僕が気になるのは、その「限りなく平易な言葉」ってなんだよ、となる。
これが、養老さんの仰る、「バカの壁」の話につながる。
つまり、人のインプット能力(記憶の多寡)によるコミュニケーションの限界性である。
(「つまり」とかいって、全然要約できていない。)
ええと、なので、「限りなく平易な言葉」が、人によって異なるというわけだ。
またしても、バカげた例えをすれば、「異なる」といっても通じない人がいるかもしれない。「違う」と言ってあげなきゃいけないかもしれない。
でも、でも、だ。違うと異なるの、違いを、残念ながら、以前調べた気もするが、今は覚えていない。が、そのほとんどの人が、特に差異を気にせず用いている表現、それを記憶して、なんになるというのか、という疑念、それが、「通常記憶よりも概念記憶の方が重要なんじゃないか」と、先に書きたかったことである。
では、そういった、概念記憶は、どうやってつくっていけばいいのか。
潜在的な意識に刻み込まれ、無意識下で行動の源泉となるもの。
それが、概念記憶を作り出す。
だから、先の、ジョルジュ・バタイユの、内的体験の、その「体験」とは何かを表現する試み、今僕はとても興味がある。
この「興味」。
これは大事だ。
これは、言い換えれば、「未来」だ。
良い作品の、続きを「読みたい」。これは「欲求」という。欲求も非常に重要だ。
そして、僕は、そんな良い作品を創りたいと、今はそう思う。
これは、もしかして、無味乾燥な僕の人生に、少しばかり潤いを、「未来」を、もたらしてくれるのではないだろうか。
――と、前向きに書いておいて、興味深いのは、明日の自分の感想だ。
未来、未来がないのだ。だから今が幸せだろうが、不満や不安でしかないのだ、と言った。
――ならば、未来を、創ればいい。
ジョルジュ・バタイユの内的体験を読んで
別に、新しく買った本ではない。かなり前に購入し、読み始め、「うわ、なんだこれ、分かりづらい、難しい、やめよう」と、本棚に埋まっていた。で、恒例の本棚整理の日に、当然、売却対象候補になった。
しかし、意外やに、今の現時点においても、かなり高評価であり、アマゾンのUSEDも下落していない(1円になっていない)。
難解なのが面白いというわけではない、ただ、何か人を惹きつける何かはあるのだろう、そう思って、残しておいた。
最近になって、ちょっと開いてみた。特に、理由はなかった。ただ、息をするとか、鼻水をかむとか、そんな程度に、手に取った。
なんか、ちょっと「わかる」って感じになった。
もし私が思いきって「神を見た」と言うとしよう。すると、私の見るものは質を変えてしまうだろう。想像もできない未知のものの代わりに死んだ客体が、神学者の持ち物が顔を出すことになる。そして未知のものはそうした客体に従属させられてしまうだろう。なぜなら、神ということになれば、恍惚が啓いてくれるおぼろな未知のものは、私を隷属させるべく隷属させられてしまうからだ。
例えば、上のような表現が、なんとなく、わかるのだ。
この本、そもそも、何について書かれたものなのか、実は未だに分からない。
ただ、「内的体験」というタイトルの通り、人間の内面の存在を表現する試みなのだろうと推測する。
それはおそらく、心理学的なものではなく、まさに、瞑想したような状態、法悦の、恍惚の、感動の状態を表そうとしたものなのだろう。
解説のあとがきにあるように、きっと、全部の文章、一文一文を理解する必要がないのだと思う。
つまり、神をも恐れず言いのければ、僕のブログのようなものなのだと。(天罰がくだるぞ!)
もっというと、自己啓発的な奴とは違い、きっと、結論だけ読んでも、何も分からないだろう。
いやむしろ、結論めいたものが書かれているのかどうかすら怪しい(フランス思想書の研究者たちに石を投げられる!)。
ただ、表現として、面白そうだと、今は思う。
昔は思えなかった。これは、読書力があがったとか、そういう問題ではないと思う。
おそらく、「思考」がかわったのだ。そして、「文字」に対しての考え方が変わったのだ。
無気力さの取り扱い
「何もしたくねぇ」と、本気で思う。
最近特にその傾向が高い。
その、何もしたくないというのが意味するのが、非常に曖昧模糊であり、ただ単に、何かに集中できないような状況であるともいえる。「こんなことして、なんになるのか」とか。これら、なんでも「意味」を求めようとする呪い、というか悪癖というか。ただ、意味を捨て、家畜のように生きることは、おそらく、一度呪いにかかったものは、することができないだろう。それが、このブログタイトルへの決意である、「徹底して考える」という点にあらわれているのだろう。(推測、の文末表現になるのは、過去の自分は他人、という考えによるものだが、それより、単に記憶の曖昧さに起因する)
しかし、よくよく、休んで時間をつくってみれば、
・ゲームオブスローンズは面白い。ストーリー、セリフまわし、映像、たまに入るエロシズム、よく入るグロスティック。良い作品である。DVD1巻が、2時間で、5章の4巻目までみたから、少なく見積もっても、48時間費やしていることになる。え、まじか、そりゃすげぇな。数字にすると驚く。
・進撃の巨人は面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。
・アイアムアヒーローは面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。スピンオフ作品? オメーはダメだ(いや、そんなダメじゃないかもしれない。でも、1話だけ読んでみて、あまり読もうとは思わなかった)。
・モノガタリを創るのは面白い。
そう、意外やに、やりたいことは、あるのだ。
ただ、無気力の野郎は、本当に身近になっている。いや、これは冗談ではなく、本当にお友達になった方がいいのかもしれない。本当に無気力だと、自殺する元気もないと言うしなハハハ。
未来がないなら創ればよい
「僕」という存在に、未来はないのかもしれない。
でも、モノガタリは、創ることはできる。
自己を投影した主人公は、きっと面白くないだろう。
ただ、想像しうる、人間存在や、自然、科学、事象、因果、宇宙、物理法則、社会、集団、思想、価値観……それら諸々について創造することにより、本来的自己の「何か」片鱗をみることができるのかもしれない。
先日、書いたかどうか忘れてしまったから、もう一度書いておくと、
「生きる意味を考える」
というと、「キモーイ」と言われるが、
「自分の価値観の軸をつくり磨いていく」
といえば、なんか「できる男」みたいでかっこいいと思われるかもしれない。
そう、所詮、「表現」でしかない。
表現という世界
最近、新しい書物にあたるのが億劫になったのは、歳をとったから、というよりも、「表現性」の問題に気づいたことによることが、大きいかもしれない。
いくら回りくどく、小難しく、難解なテクニカルタームを用いたとしても、「平易な言葉で理解できる範囲に展開すること」ができなければ、所詮それは「理解」ではなく「暗記」である。
いやもちろん、暗記が悪いことではなく、むしろ、暗記というか、記憶の積み上げが、人格を形作っている、という現在の僕の立場である。
先般、「残酷な世界で生き延びる方法」(タイトルが違うかも)において、「こころ」とは、他者のこころをシミュレートする機能である、という表現があったけれども、というよりも、こころ=人=人格=自己=とは、「記憶である」と言った方が、僕は今のところすっきりする。
だから、固有名詞の記憶というのは重要なのだけれど(たとえそれが、因果を知らない暗記であったとしても)、記憶力の程度は、その人の頭の良さによるし、反復がなければ忘却は避けられないし、老いは必ずやってくる。
であれば、僕が思うに、重要なのは、「概念記憶」だと思うのだ。
概念記憶
概念記憶とは、そうさな、固有名詞を一切用いずに、事象を説明できること(アウトプットできる記憶)、である。何だろう、ここで、かっこいい例えが言えたらいいけれども、いえなくて、例えば、「重力」といったとき、英語でグラビティとか他の言語による表現などたくさんあるのだろうけれども、
重さをもった物同士が引き付けあう力
とアウトプットすれば、それは概念記憶といえる。
いや単に、高いところから物を落とすと、下に向かって落ちる現象を引き起こす力、といってもいいし、いろんな表現がある。
上に書いた表現、それって「万有引力」では? という疑問もあるが、厳密な違いの記憶が今はない。ただ、調べれば、なんとなく思い出すだろう。
とにかく、概念記憶とは、限りなく平易な言葉で表現するために必要な記憶(情報構成能力)のことである。
で、ここで僕が気になるのは、その「限りなく平易な言葉」ってなんだよ、となる。
これが、養老さんの仰る、「バカの壁」の話につながる。
つまり、人のインプット能力(記憶の多寡)によるコミュニケーションの限界性である。
(「つまり」とかいって、全然要約できていない。)
ええと、なので、「限りなく平易な言葉」が、人によって異なるというわけだ。
またしても、バカげた例えをすれば、「異なる」といっても通じない人がいるかもしれない。「違う」と言ってあげなきゃいけないかもしれない。
でも、でも、だ。違うと異なるの、違いを、残念ながら、以前調べた気もするが、今は覚えていない。が、そのほとんどの人が、特に差異を気にせず用いている表現、それを記憶して、なんになるというのか、という疑念、それが、「通常記憶よりも概念記憶の方が重要なんじゃないか」と、先に書きたかったことである。
では、そういった、概念記憶は、どうやってつくっていけばいいのか。
体験・経験・感動
心に刻まれること。潜在的な意識に刻み込まれ、無意識下で行動の源泉となるもの。
それが、概念記憶を作り出す。
だから、先の、ジョルジュ・バタイユの、内的体験の、その「体験」とは何かを表現する試み、今僕はとても興味がある。
この「興味」。
これは大事だ。
これは、言い換えれば、「未来」だ。
良い作品の、続きを「読みたい」。これは「欲求」という。欲求も非常に重要だ。
そして、僕は、そんな良い作品を創りたいと、今はそう思う。
これは、もしかして、無味乾燥な僕の人生に、少しばかり潤いを、「未来」を、もたらしてくれるのではないだろうか。
――と、前向きに書いておいて、興味深いのは、明日の自分の感想だ。
