なんだかとても「さみしく」なって、僕と同じようなことを「思う」人はいないものかと、ブログやらサイトやらを巡っていた。
「自殺サークル」という映画邦画から、「GHETTO」というサイトを見つけたり。
「人工知能」「アカシックレコード」「仏教」「人生の意味」など、キーワードからして面白い。
特に、「妄想」という記事が気に入った。
http://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12118066213.html
>「とここまで考えておきながら、妄想について完全に勘違いしてたことに気づいた。」
!!
なるほどなるほど。
>「しかし、しかし・・・」
この最後の、「しかし」と続く流れがよい、面白い、ただではすまない。
僕も全面的によく分かる、と思う。その「わかる」の解釈など、捨ておいていい。ただ、間違いなくこの作者と感覚を「共有している」感覚を感じられる。
僕に共感されたところで、嬉しくないだろうが……と、すぐさま思うのが僕だが、そういったことを指摘した記事などもあって、本当に面白いと思った。
面白い、と書くと、上から目線でバカにしてる、と思うのだろうか。しかし、他によい表現が浮かばない、というよりも、むしろそんなことを書いているより、もっと書きたいことがある。
やっぱり、僕が考えている、感じていることなど、大したことではないということである。
この「大したことない」としてしまうと、そのブログの作者さんへの批判にもなってしまうが、そういう意味ではなくて、ジョルジュ・バタイユさんが「この問題に取り組む世界で最初の最後の男のような気持ち」と表現しているようなこと、そんなことは全然ない、ということだ。
やっぱり、僕は、ただの凡人であるということ、そのことが実感できる体験になったことは良いことだ。
そして、「じゃあ、今すぐ思考とか、生きる意味とか、そんなくだらないこと投げ捨てて人生楽しもうZE☆」という方針が、ああ、なんて無謀で、表層的なことなのだろうと思うのだ。
きっと、それなりに、生活を、人生を、送れているのだろうと思う。
ただ、断言できるのは、「苦しんでいる」ということだ。
遊びで、あんな表現はつくれないと思う。一つの記事ぐらいなら、僕も頑張れば架空のものとしてつくれるけれども、「量」という数値基準からして、単に冗談で表現を続けることはできない。
そして、それを分かってくれるひとは、周囲にはそれほどいないのではないだろうか。
しかし、僕は「分かってやれる」。その苦しみが何なのかが「分かる」。
そして、次の瞬間気づく。
ああ、僕はなんて無力なんだ、と。
彼(彼女?)を救うすべが、僕にはないのだ。
ただ、寄り添って、頭をなでてやることしかできないだろう。言葉などないのだ。
その透明な枷をはずしてやることはできない。
そもそも、ここまで、カッコつきの「わかる」という表現を繰り返してきたが、そうはいっても、その「分かる」ってのを、どうやって伝えるかという問題が、まず現実として立ちはだかる。
僕が、そのブログの作者さんに、感動した気持ちを伝えたいと思っても、その伝えるすべが見つからない。
コメントを残そうとも思った。
「あなたの記事に感動しました。応援しています。これからも頑張ってください」
え? 生きる意味がないなら死んでしまった方が「得」という思いすらよぎる人が、何を「頑張る」というのだ。
バカげたコメントだ。僕はコメント画面をひっそりとバッテンボタンで閉じる。
一つ、重要なことだと、自分にとって役に立った、有益だと感じたのは、自分のブログが他者からどう見えるかという一面である。
僕の女心のように、秋の天気のようにコロコロ変わる気持ちであったとき、陰鬱な瞬間はその一ワード一ワードに感動を覚えるだろうし、陽気なときは「うじうじ書いてるなんて気持ち悪いな」と思うだろう。
で、僕の場合はその「キモチワルイ」と「カンドウ!」が同居するが、たいていは、そのどちらかに統一された感覚を抱くことだろう、と。
そして、この記事は何となく面白くないだろうと。
ただ、それでも、よい作品を見つけた、ということで、メモ投稿。
「自殺サークル」という映画邦画から、「GHETTO」というサイトを見つけたり。
こちらのブログを見つけたり。
何のために生きるのか・・・
何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・
http://ameblo.jp/taitakau-tan/
「人工知能」「アカシックレコード」「仏教」「人生の意味」など、キーワードからして面白い。
特に、「妄想」という記事が気に入った。
http://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12118066213.html
人生に希望を持つのは妄想なのだろうか・・・将来に期待を持ちながら人は生きているが、その期待は一体何の意味があるのか?むしろ、困難や失望が待ち受けていることが多いだろうし、何より、期待が成就されても「だから何なんだ?」という虚しさが待ち受けている。なるほどなるほど。
子を持つ親なら、子の為に色々一生懸命になるであろう。自分自身の将来のことよりも、子供の為に献身的に世話し、子供が将来幸せに偉大な人になってくれることに夢を託す。しかし、それも、妄想に過ぎない・・・
子供もいない未婚独身者なら、自分自身のためにあれやこれや日々の暮らしをエンジョイすることだろう。友達付き合いを大事にし、人脈がネズミ算的に倍々に広がることに嬉々とする。まるで、ニューロンのネットワークのように・・・まるで側坐核の報酬系を刺激されて、ドパミンもしくは神経成長因子を分泌させることに没頭するかのごとく。脳に電極を埋め込まれたラットのように。覚醒剤中毒者のように。
>「とここまで考えておきながら、妄想について完全に勘違いしてたことに気づいた。」
!!
それは、病的な妄想と、正常の妄想があるということだ。病的か正常かの境目は、単純だ。現実生活に害があるかないかだ。
>子供の幸せの為に子育てを頑張ることのどこが有害か?
自分の夢実現の為に人生を前向きに意欲的に頑張ることのどこが有害か?
努力・前向き・意欲的なことはそれ自体は良いことだと思う。有害どころか、これが人生の目的と言ってもいいのかもしれない。
なるほどなるほど。
>「しかし、しかし・・・」
この最後の、「しかし」と続く流れがよい、面白い、ただではすまない。
共感
面白い、非常に良い記事だ。僕も全面的によく分かる、と思う。その「わかる」の解釈など、捨ておいていい。ただ、間違いなくこの作者と感覚を「共有している」感覚を感じられる。
僕に共感されたところで、嬉しくないだろうが……と、すぐさま思うのが僕だが、そういったことを指摘した記事などもあって、本当に面白いと思った。
面白い、と書くと、上から目線でバカにしてる、と思うのだろうか。しかし、他によい表現が浮かばない、というよりも、むしろそんなことを書いているより、もっと書きたいことがある。
やっぱり、僕が考えている、感じていることなど、大したことではないということである。
この「大したことない」としてしまうと、そのブログの作者さんへの批判にもなってしまうが、そういう意味ではなくて、ジョルジュ・バタイユさんが「この問題に取り組む世界で最初の最後の男のような気持ち」と表現しているようなこと、そんなことは全然ない、ということだ。
やっぱり、僕は、ただの凡人であるということ、そのことが実感できる体験になったことは良いことだ。
そして、「じゃあ、今すぐ思考とか、生きる意味とか、そんなくだらないこと投げ捨てて人生楽しもうZE☆」という方針が、ああ、なんて無謀で、表層的なことなのだろうと思うのだ。
救済
先に上げたブログの作者さんは、見えない何かに苦しんでいる。いやはや、その「苦しみ」が、例えば彼女ができないことだとか、お金が足りないことだとか、身体の不健康のことだとか、原因は全く分からない(そもそも年代が分からない。年上かも、年下かかも)。きっと、それなりに、生活を、人生を、送れているのだろうと思う。
ただ、断言できるのは、「苦しんでいる」ということだ。
遊びで、あんな表現はつくれないと思う。一つの記事ぐらいなら、僕も頑張れば架空のものとしてつくれるけれども、「量」という数値基準からして、単に冗談で表現を続けることはできない。
そして、それを分かってくれるひとは、周囲にはそれほどいないのではないだろうか。
しかし、僕は「分かってやれる」。その苦しみが何なのかが「分かる」。
そして、次の瞬間気づく。
ああ、僕はなんて無力なんだ、と。
彼(彼女?)を救うすべが、僕にはないのだ。
ただ、寄り添って、頭をなでてやることしかできないだろう。言葉などないのだ。
その透明な枷をはずしてやることはできない。
表現
しかしだ、そうは言っても、やっぱり、「言葉」が必要なんじゃないかと思う。そもそも、ここまで、カッコつきの「わかる」という表現を繰り返してきたが、そうはいっても、その「分かる」ってのを、どうやって伝えるかという問題が、まず現実として立ちはだかる。
僕が、そのブログの作者さんに、感動した気持ちを伝えたいと思っても、その伝えるすべが見つからない。
コメントを残そうとも思った。
「あなたの記事に感動しました。応援しています。これからも頑張ってください」
え? 生きる意味がないなら死んでしまった方が「得」という思いすらよぎる人が、何を「頑張る」というのだ。
バカげたコメントだ。僕はコメント画面をひっそりとバッテンボタンで閉じる。
一つ、重要なことだと、自分にとって役に立った、有益だと感じたのは、自分のブログが他者からどう見えるかという一面である。
僕の女心のように、秋の天気のようにコロコロ変わる気持ちであったとき、陰鬱な瞬間はその一ワード一ワードに感動を覚えるだろうし、陽気なときは「うじうじ書いてるなんて気持ち悪いな」と思うだろう。
で、僕の場合はその「キモチワルイ」と「カンドウ!」が同居するが、たいていは、そのどちらかに統一された感覚を抱くことだろう、と。
そして、この記事は何となく面白くないだろうと。
ただ、それでも、よい作品を見つけた、ということで、メモ投稿。
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僕の試みは、果たして実を結ぶものなのか、分からない。ただの徒労なのか。いや、世界が残酷で、そして美しく、苦しみもありながら多幸感に満たされて心の安らぎを得ていくことが至上命題であることは疑いようがない。
であれば思考に何の意味があるのか。
その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。
さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。
不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。
己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。
ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。
否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。
いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。
とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。
しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。
意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。
ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。
確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。
それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。
このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。
一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。
ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。
何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。
問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。
彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。
その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。
しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。
今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。
それは、決して、拒絶ではならないだろう。
無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。
であれば思考に何の意味があるのか。
その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。
さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。
不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。
己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。
不安の深みに行くこと
ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。
否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。
いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。
とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。
しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。
意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。
ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。
確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。
それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。
このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。
思考とその向かう先
一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。
ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。
何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。
無気力
問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。
彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。
その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。
しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。
今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。
それは、決して、拒絶ではならないだろう。
無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。
劇場版ガンダムを見た。
ガンダムファースト、と言うのだろうか。今まで生きてきて、ガンダムシリーズを見るのは初めてだ。いつもの、流行りのものは何となく避けてしまうというので、これまで一度も見てこなかった。
思えば、ロボットものは、嫌いではない。ガン×ソードも、ロボットをメインにしたわけではないが、「鎧」ヨロイはやっぱりロボットだ。
フルメタルパニックのアームスレイブもそうだ。
エヴァンゲリオンも、人造人間ということだが、まぁロボットジャンルに入れていいだろう。
パトレイバーもそうだ、が、あれの映画はイマイチであった。
ううむ、何か忘れている、……ああ、マクロスもロボットか。他にもあったような気がするが、意外と挙げてみると少ない。
そんな自分がガンダムを初めてみた感想。1979年の作品、つまり、40年近く前の作品としては、これほど長寿命になるのも頷ける、と思った。
やっぱり、映像・音声としては、安っぽさ、陳腐さが正直ある。しかし、設定、ストーリー、構図など、良いところが多くある。主人公がただの熱血少年じゃなくて、ガンダムに乗るのにダダをこねたり、無気力になったりして、幼馴染の少女やブライト少尉(中尉?)に張り手されながら頑張っていくのは面白かった。
有名なシャア少佐の「ぼうやだからさ」というセリフ、実はBARでテレビを見ながらのものだったとは意外だった。
しかし映画は、よくある総集編的な内容になっていて、場面の因果性の説明がなく、この映画を一つの作品として見たときに「面白かった」といえるかは微妙だ。ただ、ガンダムを初めて見る人にはよいと思う。
しっかし、地球連邦軍とジオン公国との戦争で、わずか一か月で人口の半数が滅するとは、恐ろしき哉。それにしては、世紀末的な雰囲気無くテクノロジーの維持もされていて、少し違和感があったが、無粋か。


ガンダムファースト、と言うのだろうか。今まで生きてきて、ガンダムシリーズを見るのは初めてだ。いつもの、流行りのものは何となく避けてしまうというので、これまで一度も見てこなかった。
思えば、ロボットものは、嫌いではない。ガン×ソードも、ロボットをメインにしたわけではないが、「鎧」ヨロイはやっぱりロボットだ。
フルメタルパニックのアームスレイブもそうだ。
エヴァンゲリオンも、人造人間ということだが、まぁロボットジャンルに入れていいだろう。
パトレイバーもそうだ、が、あれの映画はイマイチであった。
ううむ、何か忘れている、……ああ、マクロスもロボットか。他にもあったような気がするが、意外と挙げてみると少ない。
そんな自分がガンダムを初めてみた感想。1979年の作品、つまり、40年近く前の作品としては、これほど長寿命になるのも頷ける、と思った。
やっぱり、映像・音声としては、安っぽさ、陳腐さが正直ある。しかし、設定、ストーリー、構図など、良いところが多くある。主人公がただの熱血少年じゃなくて、ガンダムに乗るのにダダをこねたり、無気力になったりして、幼馴染の少女やブライト少尉(中尉?)に張り手されながら頑張っていくのは面白かった。
有名なシャア少佐の「ぼうやだからさ」というセリフ、実はBARでテレビを見ながらのものだったとは意外だった。
しかし映画は、よくある総集編的な内容になっていて、場面の因果性の説明がなく、この映画を一つの作品として見たときに「面白かった」といえるかは微妙だ。ただ、ガンダムを初めて見る人にはよいと思う。
しっかし、地球連邦軍とジオン公国との戦争で、わずか一か月で人口の半数が滅するとは、恐ろしき哉。それにしては、世紀末的な雰囲気無くテクノロジーの維持もされていて、少し違和感があったが、無粋か。
メモの重要性は疑うべくない。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。
また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。
そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。
ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。
僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。
いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。
本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。
ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。
なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。
一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。
インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。
もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。
朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。
無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。
注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。
無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)
だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、
かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。
また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。
内的体験
そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。
ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。
僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。
いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。
本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。
ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。
なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。
一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。
アギュギテム
インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。
もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。
朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。
無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。
インプットとアウトプット
注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。
無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)
だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、
かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。
ぐずついた天気のように、晴れやかにならない三連休であった。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
物語の必要性
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
三つの人生要素
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
そんなこといいから勉強しなさい
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
考えることがよくないとしたら
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
