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時間がないときほど回る
2016/09/21 08:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
メモの重要性は疑うべくない。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。

また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。

内的体験


そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。

ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。

僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。 

いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。




本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。

ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。


なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。

一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。


アギュギテム


インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。

もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。

朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。


無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。

インプットとアウトプット


注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。

無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)

だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、

かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。






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