本当は、本を読んだり、勉強したり、創作的なことをしたりと、有意義に使う方がいい気がする。
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
拍手とコメント
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
脳の使い方
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
無駄かそうでないか
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
努力の構造
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
比較思考
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
ストイック
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲的生き方
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度な社会は魔術化する
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
分からない地獄
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
PR
あるアーティストが、インスタグラムかなにかに、ポエミーなことを書いたら、女性のアイドルから、何が言いたいか分からない、気持ち悪い、と言われたとのことだ。
今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。
的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。
別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。
ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。
思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。
そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。
ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。
アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。
なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。
思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。
それほどの悲劇はないのではないか。
アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……
自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。
勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。
前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。
一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。
と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。
しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。
徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。
以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。
その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。
僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。
人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。
分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。
騙されることなんてない。裏切りなんてない。
そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。
けれども、今なら、その、意味するところは分かる。
もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。
人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。
そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。
ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。
なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。
と、思ったのは、感情エラーだと思う。
きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。
だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。
本当にそうか。
話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。
この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。
このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は
今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。
的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。
別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。
ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。
思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。
そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。
ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。
アリのたとえ
アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。
なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。
思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。
それほどの悲劇はないのではないか。
アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……
自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。
努力至上主義
勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。
前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。
一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。
と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。
しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。
徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。
以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。
その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。
僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。
人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。
分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。
裏切りの所在
騙されることなんてない。裏切りなんてない。
そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。
けれども、今なら、その、意味するところは分かる。
もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。
人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。
マナシキとアラヤシキ
そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。
現実の些末性
ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。
なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。
と、思ったのは、感情エラーだと思う。
きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。
だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。
本当にそうか。
話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。
この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。
このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は
前述の、ジョルジュさんの書を読む。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。
手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。
適当なページ、それは170ページぐらいからだった。


やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。
ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。
私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。
ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。
何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。
真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。
精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。
しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。
これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。
確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。
リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。
本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。
何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。
何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。
それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。
この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。
これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。
これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。
こんなことが許されるはずがない。
しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)
そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。
ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。
自分とは何か。
この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。
しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。
実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。
感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。
記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。
では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。
表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。
そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。
手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。
適当なページ、それは170ページぐらいからだった。
やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。
ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。
私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。
ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。
死にゆく自我
死が持っているあの不安をそそる性格は、人間が不安に対して抱く欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって容易なものと見えるであろう。人間は苦しんで死ぬことによって自然から遠ざかり、幻想上の、人間的な、芸術のために作りなされた一世界を生み出す。私たちは悲劇的な世界に、わざとらしい人工の雰囲気の中に生きている。「悲劇」がこの世界の、この雰囲気の完成された形式だ。動物にとっては何事も悲劇的ではない。動物は、自我の罠にはまらない。
何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。
真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。
精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。
しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。
これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。
確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。
リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。
死にゆく自我2
同じ、小見出しにしてしまうというのは、ミスである、何がみすかといえば、完全に前の小見出し部分が、本来書こうとしたことから外れたことによる。本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。
何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。
何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。
それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。
自我の確証
……とかいうことを、僕が本当に、昨日読んだときに思ったかどうか、それがもはや分からない。この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。
これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。
これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。
こんなことが許されるはずがない。
しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)
そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。
ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。
自分とは何か。
この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。
しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。
実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。
感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。
記憶の同一人物性
昨日の自分と今日の自分が、同じ自分であるということ、それが「自我」であるが、その自我とは、いったい何にもとづいているのか。記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。
では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。
表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。
そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。
一流の人はボロいケータイや車や時計を使う。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
問題点
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
他人に流されやすい人たち
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパス
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
表現
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
体調が悪いのはおいておいても、精神的にささくれだっている。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
しかし、しかし、
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
この問題は一日にして発生するのではなく
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
自己イメージ
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
仮想現実
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
裸の付き合い
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
このブログとして生き残ったわけ
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
チャット
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
SNS
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
そしてもっと
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
