前述の、ジョルジュさんの書を読む。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。
手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。
適当なページ、それは170ページぐらいからだった。


やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。
ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。
私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。
ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。
何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。
真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。
精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。
しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。
これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。
確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。
リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。
本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。
何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。
何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。
それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。
この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。
これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。
これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。
こんなことが許されるはずがない。
しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)
そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。
ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。
自分とは何か。
この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。
しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。
実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。
感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。
記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。
では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。
表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。
そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。
仕事から帰るとき、特に遅い時間になったときは、特に、何もしなくても、言葉が、不快感が、苛立ちが、焦燥が、後悔が、希望のなさが僕に言葉を生じさせるのであるが、昨日は、何も生まれなかった。
手持ちぶさたさが、本を手に取らせたのだ。
適当なページ、それは170ページぐらいからだった。
やはり、死は、生きることを考えるときに避けては通れない。
そこに、生きる自我と死にゆく自我という言葉をもって語られている。どうにも、やはり分かりづらいが、言葉を追うのではなく、感情に語りかけると、途端に分かりやすい言葉に見えてくるのだが、それが果たして、正確な、科学的な、学問的な読み方なのかはわからない。
ただ、自我とは、すなわち、自分自身のこと、私が私であると思うこと、その記憶のことであるが、それらは所謂生きる自我である。
私は私であって、他の誰でもないという自己意識、それは誰しも強烈にあるものだと。
これは、矛盾したような表現にならざるをえないが、誰しも自我をもつがゆえに、その誰しもが自我をもつことを、なかなか信じられないのである。
ああ、しかし、この矛盾した所謂知識を、やはりひとつ、真実だと思う必要があるのだろう。
死にゆく自我
死が持っているあの不安をそそる性格は、人間が不安に対して抱く欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって容易なものと見えるであろう。人間は苦しんで死ぬことによって自然から遠ざかり、幻想上の、人間的な、芸術のために作りなされた一世界を生み出す。私たちは悲劇的な世界に、わざとらしい人工の雰囲気の中に生きている。「悲劇」がこの世界の、この雰囲気の完成された形式だ。動物にとっては何事も悲劇的ではない。動物は、自我の罠にはまらない。
何か、文章を読んで、思ったことを、瞬時に書き留めておくということは、中々難しいことだ。
次の瞬間には、自分の感情はあらぬ方向にいき、ひどいときには、帰ったら何を食べようかなどと思考から遠ざかることもまた少なくない。
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。
真実的な思考とは何か。
今、自分が考えていることが、果たして、真実性を帯びているのか。現実の言葉なのか。実感を伴った言葉なのか。
精神病患者に対して、認知療養として、ものごとの考え方を改めさせようとする方法がある。同じ事象でも、その捉え方、例えば同じ時間量でも「しか」なのか「まだ」なのかによって、受ける印象は異なる。
しかし、そうした、認知によって変化可能な認識というものが、自分の真実的な心のうちなのか。
このことを考えるには、とにかく、自分の思いの内を、すべて書き出す必要があるだろう。
これは、恐らく、口に出して、言葉にしてみるという方法と方針は同様に思える。
しかしながら、口に出した言葉は、砂上の楼閣のように朝露のように消えてゆく。ICレコーダーに保存してみるという手も考えたが、その「想起性」(再び見たり聞いたりすること)の頻度が著しく低下することだろう。
確かに、文章を書くよりは、同じ内容を口に出した方が速い。が、口に出すよりも、黙読の方がなお速い。
リアルタイムの思考を記述するのは、口頭がベストだが、ICレコーダーから書き起こすなど作業が発生するのであれば、結局、最初から書いた方がよい。
もう一つ理由記述の優れた点をあげれば、口頭の録音は、結局、スピーディーな語りにはならないということだ。「あー」とか「えー」とか、沈黙。文章は、このまとまりがどれほどの時間単位なのか意識させない。
ここで例えば、小見出しの前は昨日書いた記事であり、小見出し以降はノンストップで書いているというメモを残さなければ、「一つの文章」としてしかの認識を与えることは無い。
死にゆく自我2
同じ、小見出しにしてしまうというのは、ミスである、何がみすかといえば、完全に前の小見出し部分が、本来書こうとしたことから外れたことによる。本当は、純粋に、かっこつけた言葉とかいらなくて、引用の「死にゆく自我」という表現が面白いと思ったということだ。
何が面白いかと言えば、ショーペンハウエルでもないが、まさに、人の創りだした芸術が「悲劇」であるという点だ。悲劇、ここでは、「死」という避けられない事象を「忘れさせる」ための全ての尊い、あえかなる人の行為。
何故、同じことを表現するのに、複数の表現があるのか、言葉があるのか。そして、確かに、その与える言葉は、聴く人に厳密な違いの認識はできなくても、確かな「違い」を意識させるのである。
それは、死とは別のところに、確かなる幻想を創り出したかったからではないか。
自我の確証
……とかいうことを、僕が本当に、昨日読んだときに思ったかどうか、それがもはや分からない。この感覚、つまり、例え口に出してレコーダーに録音してまさに、同じ発言をしていたとしても、それは「僕自身」=「自我」なのか、その確証がない。
これは、非常にずるい言い訳だ。つまり、「僕は僕の発言に一切の責任を持たない」との宣言なのだ。
これでは、一切の他者との相互行為、取引が不可能だろう。
何せ、信頼・信用が起こりえない。何を言って、何を約束しても、それは実は僕の本心ではありませんでしたと、逃げられることが発生する。
こんなことが許されるはずがない。
しかし逆に、何故、人は……というより、僕は、僕自身から逃げ出そうとするのか。
(という疑問提起すら疑問の域をでなくなってくる、本当に、剥いても剥いても「コア」があらわれない玉ねぎのようだ)
そして逆に、つまり、「本当の自分」といったものを探すことの無意味性を強く思うのである。
ここまでの記述において、恐らく読んだ感想としても、非常に、自己に執着した人間(自分大好き人間!)のように思える。
しかし、その、大好きであるべき自分など、一体どこに表現されているというのか。
ここではむしろ、その自分の不在性を嘆く表現ではないかとすら思える。
自分とは何か。
この問いは、まさに「生きる意味は何か」という問いに直結するものだ。
しかし同時に、こう書いてきて気づいたのは、その自分というものへの無頓着である。
実感できること、感情、それは確かにある、が、その感情というものを表現する自分を想定したとき、その感情は「解釈可能なもの」となり下がる。
前の記事で同じく前出書を読んで書いたことだが、「恍惚」「法悦」といった、神的体験、エクスタシーは、例えば「私は神を見た」といった瞬間から、隷属的なものになり下がる。
感情は、確かに、その人をその人として規定する一つの要素であるが、感情が表現されたとき、もはやそれは、その人としての要素、部品からは除外されているのである。
記憶の同一人物性
昨日の自分と今日の自分が、同じ自分であるということ、それが「自我」であるが、その自我とは、いったい何にもとづいているのか。記憶である、としている。これは珍しく、疑ってはいない。僕は遠藤という名前であり、30代であり、独身だという属性情報の認識が、ああ、確かに僕は僕であると、そうした感覚を生じさせるのである。
では、感情とはなにか。
感情もまた、その人の属性情報である、ただし数値化も可視化も、そして表現もできるものでない。
表現をした瞬間に、それは、自我を構成する要素としてのそれではなくなる。
であったとき、その瞬間、刹那において、まさにその時そのモノとしてのもの、それが自我の要素としての感情である。
そうしたとき、かなりシンプルに、自分という存在についての考え方については理解できる。
ところが結局、その表現の不可能性によって、反転して自分という存在を覆い隠すのである。
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一流の人はボロいケータイや車や時計を使う。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
問題点
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
他人に流されやすい人たち
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパス
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
表現
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
体調が悪いのはおいておいても、精神的にささくれだっている。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
仕事が原因、としておこう。たぶんそれ以外にもありそうだが。
とりまず、攻殻機動隊ARISEの二巻三巻をみたこと、ガンダム劇場版二巻哀戦士をみたこと、一人小旅行は一日ほぼ費やしたが楽しかったこと、メモ。
いつも、冗長なほど、言葉が出てくるのに、何も浮かばない。ただ、腹痛とか、目の重さとか、身体のだるさとか、頬骨の痛みとか、そんなつらさが続く。
思うに、Facebookとかで、こんなことばかり書いていたら、間違いなく知り合いはますます知り合いと化して、友人は知り合いと化していくであろう。
にもかかわらず、何故、書くのか。
有用な情報以外は淘汰されるという、Google先生の世界への反逆だ。
なんでも効率化させて、役に立つことの純度を高めて、くだらないこと、不必要なものはどんどん切り捨てていく。
ああ、じゃあ、これまでの世界がそうではなかったか?
たぶん、もっとひどかった。
奇形児とか障害者の共生とか、重要なことだろうが、指が六つ生えていたら山に捨ててしまうということなんて、珍しくなかったろう。
高齢化問題も、姥捨て山が解決してくれていた時代もあるのではないか。
そうしていけば、現代の、日本の、僕たちの生きる時代に問題を帰することはできないのではないか。
しかし、しかし、
そんなことは誰もが分かっているだろう。問題はそこにない。時代論が正しいか正しくないか、現代先進国日本が美しいか幸せかという問題も些末に過ぎない。
いま、まさに、ここに、この瞬間に感じ、生きている自分、それだけが唯一の問題なのだ。
しかし、こんな陳腐な表現では、なんら、生きる意味を徹底して、など考えられていない。
この瞬間の自分というものを大切にしようとしたとき、その自分とは、そして、大切にするとは何か。
とうて、問うて、問いの中に、その答えはあるのか。
あってもなくてもいい。とにかく、真剣に生きてみろってんだ。
そして笑えることに、またしても、真剣、とか、抽象的な言葉に陥るのである。
この問題は一日にして発生するのではなく
こうして、思考もどきをやっていると、これは、最近の問題のようにとらえられる。
しかしそれは誤りである。
初恋のひとと相思相愛になれなかった十代前半から、おそらく13歳ぐらいから連綿と続く問題だ。
このブログの始まりは、2008年ぐらいだが、その時期は、反転して目的創成を成し遂げた時期である。
読んでいけば、それなりにポジティブで、それなりに不満や不幸を内包しているが、方向性はプラスである。
客観的な状況を、一次関数の上向き方向とし、その瞬間瞬間の自己イメージを切り取ったとき、その矢印の向きがプラス方向かマイナス方向かは、一概にいえない。
たとえ、客観的な状況が、マイナス方向であっても、自己イメージがプラスであれば、自己肯定感をえられ、幸せな人生を送れるだろう。
客観的な状況が例えプラスでも、例えば、学校の成績が向上していても、親から何故100点をとれないんだと言われ続ければ、自己イメージはプラスにはならない。
自己イメージ
なんだ簡単だ、じゃあ、自己イメージを向上させればいいじゃない。自分のできることを増やして、周囲に認めてもらって、楽しんでもらって、感謝されて、ああ、生まれてきてよかったなって、感じればいいじゃないか。
最近、ある女性と会話して、どう考えても不幸が続いてつらい思いをしているのに、いずれ起業してでっかいこと成し遂げるんだと、自信たっぷりに話しをしていたのを聞いた。
まじか、すげーぜ、かっこいい。そんな生き方もあるんだなって、感動した。
まあ、初対面の俺に、どこまで本気で語っていたのか、いまにしておもえばわならない。
むしろ、そんな強がりをみぬいて、分かってるよ、よく頑張ったな、もう、無理しなくていいんだぜ……、というと、あなただけよ分かってくれたの! 嬉しい! 抱いて!と、なるかもしれない、かっこわらい。
仮想現実
腹痛に悶えてしばらくしてから書き始めると、ふと思った。
こんなこと書いてなんになるんだと、思いつつ、この場所には、もう自分についてで、書き漏らしたことは無いようにする、それが徹底してという表現だと思い、であれば、書こう。
インターネットを始めとした、二次的なコミュニケーションと、物理現実の対面コミュニケーションとを敢えてわけたとき、
僕自信に対して決定的な影響を与えたのは、すべて二次的なコミュニケーションにおいてかもしれない。
親、教師、友人恋人、様々な人との交流は人格形成に間違いなく大きな影響を与えたろう。
しかしながら、人に対しての考え方や見方が変わったり、これまで言えなかったことを言えたり、自分が思いはしてもうまく表現できなかったことを見抜き伝えてくれたり、
それら、内面に大きな影響を与えてくれたのは、思えば、二次元の人だった。
裸の付き合い
もう、二ヶ月も前になるが、離婚したあと初めて会った友人と、一緒に温泉に行ってはなしをした。
大学時代ばかやって遊んだことの郷愁から、女性に関しての感じかたや考え方や。
話したことはほとんど覚えていないが、あの、共有した時間はかけがえのないものだ。
歳を取って記憶が衰えても、魂魄に突き刺さる経験だった。
このブログとして生き残ったわけ
だが、こうやって、このブログのように、ほとんど思考を介さずに、思いのまま、適当に書ける場所が今年の危機において生き残ったのは、二人のコメント、メールだった。
文字量は、既に二人あわせてもこの記事よりも少ない。
しかし、本当に、人に対しての不信と諦めを確定させようとした瞬間に、ああ、それでも、こんな俺にも関心をもってくれる人がいるのだと、うまい表現はできないのだが、とにかく、本当に嬉しかった。
不細工な俺がありえないが、道行く女子高生に、あ、なんかあの人かっこいいね! と言われるよりも、段違いに次元が違うほど、二人の言葉は僕に充足を与えた。
といった、こうした表現は、いつも、往々にして、あとから読むと面白くないが、まとめて他にも影響を与えてくれた人を書いておこう。
チャット
まだ、パソコンが普及し出してそれほどたっていないとき、チャットができるメッセンジャーなるアプリケーションがあった。
そこで出会った一人、彼とは、それこそ毎日のように話をして、ゲームしたり遊んだ。もちろん、リアルではみたこともない人だ。
ただ、その人には、何故か、なんでも話すことができた、チャットだが。
逆にそれゆえに、お互いの意見がぶつかりあうこともあった。
僕は、丁寧に話し合えば必ず同じ感覚や見解になるとその当時は信じて感じていたが、どこまでも話し合っても、決してわかり会えない部分はあると、何度も喧嘩してはくっついて、喧嘩してはくっついてを繰り返すうちにわかった。
SNS
次に、このブログの記事が残っている時期の一時の期間出会った人は、ソーシャルネットワークサービスで、僕が、こんな風なくだらない記事を、誰に読ませるでもなく書いていたら、突然現れて、毎日、毎日、コメントをくれるようになった。
その人のいうことは難しくて、もちまえの頑固な性格や疑い深いところで、真剣に向き合わなかった部分もあった。そのうち、その人とは絶縁状態になってしまった。
そう、この、くっついて離れて、という点が、やはり、二次元とリアルの違いだろう。
例えば大学の友人や会社の同僚は、好きだろうが嫌いだろうが、逃げ出すことはできない。
その点、二次元は、電話帳の連絡先を消すよりもっともっと簡単に、会わないことが選択できる。
この点をもって、多くの大人は、リアルな体験が何よりも大事だ。パソコンで引きこもってるなら、外に出ろ、という。
否定はしない。
ただ、事実、として、僕は、僕に強い影響を与えたのは、その批判対象の二次元だった、とただメモをする。
そんなこと言ってるから、離婚されて不幸のどん底に陥ってんだろ、ぷぎゃあ~、という批判はもっともであり、まぁ普通そう思うよな、と思う。
ただ、先にあげた、SNSで出会った方、適当にSさんとすれば、彼の、インプットとアウトプット思考派とか、二重思考とか、神視点とか、人真似と神真似とか、曖昧記憶のまま思い起こすと、今も役に立つ生き方や考え方を、言葉というより、その態度や量で示してくれた。
茫然自失のさいにコメントとメールくれた二人の方は、最高のタイミングで最高の言葉をくれた。
そしてもっと
それでもって、ハッピーエンドで終わればいいが。
この、終わりなき物語、いな、いずれは避けられない終わりがもたらせられるこの、人生という物語は、今後どのような結末を迎えるのか。
人は、自分の未来を知ると、生きられなくなるという。ある未来を見透せる魔女が言った。人はみな、自分の未来を占ってほしいと詰めかけるが、いざ未来を知ると、知らなければよかったと後悔するのだと。
人生に前向きな人は、発生する事象のコントロール性が高い。お金はひとつ、自由のための手段だから、多くの人はお金をほっする。
この、誰もが認める事実を知ったうえで、敢えて僕は書いておく。
未来を知って後悔するのは現時点性が幸福である場合だ、と。
先ほど、といっても、この記事は、三日前から書き初めて、隙間時間に書き足しているが、先ほど触れた、自己イメージがプラス向きの場合は、未来を知る必要はない。その未来が例えよいものであっても、間違いなく、もっとその先は死でしかないのだ。
そうはいっても、しかし、現時点性が不幸な人は、未来があろうがなかろうが、もはや泥沼である。
逆に、未来を知った方が、まだ希望があるのでは、と思うのだ。
僕は、よくわからない、この先、どうなるか。
でも、やはり、いつもの、退屈な思考に落ち着くのだけれども、もはや、与えられた価値観など、その真実性がいかに科学的で権威的で高級で価値があるものであろうとも、そんなことはどうでもよく、ただひとつ重要なのは、実感として、その答えが、価値が、自分にとって本当に大切に思えるか。
いやむしろ、価値自体を、自ら創りだすことが、何よりも重要なのだと。
そして、最近の記事の復習をすると、その、価値を創造するには、今は、物語が重要ではないかと、そう思うのだ。
なんだかとても「さみしく」なって、僕と同じようなことを「思う」人はいないものかと、ブログやらサイトやらを巡っていた。
「自殺サークル」という映画邦画から、「GHETTO」というサイトを見つけたり。
「人工知能」「アカシックレコード」「仏教」「人生の意味」など、キーワードからして面白い。
特に、「妄想」という記事が気に入った。
http://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12118066213.html
>「とここまで考えておきながら、妄想について完全に勘違いしてたことに気づいた。」
!!
なるほどなるほど。
>「しかし、しかし・・・」
この最後の、「しかし」と続く流れがよい、面白い、ただではすまない。
僕も全面的によく分かる、と思う。その「わかる」の解釈など、捨ておいていい。ただ、間違いなくこの作者と感覚を「共有している」感覚を感じられる。
僕に共感されたところで、嬉しくないだろうが……と、すぐさま思うのが僕だが、そういったことを指摘した記事などもあって、本当に面白いと思った。
面白い、と書くと、上から目線でバカにしてる、と思うのだろうか。しかし、他によい表現が浮かばない、というよりも、むしろそんなことを書いているより、もっと書きたいことがある。
やっぱり、僕が考えている、感じていることなど、大したことではないということである。
この「大したことない」としてしまうと、そのブログの作者さんへの批判にもなってしまうが、そういう意味ではなくて、ジョルジュ・バタイユさんが「この問題に取り組む世界で最初の最後の男のような気持ち」と表現しているようなこと、そんなことは全然ない、ということだ。
やっぱり、僕は、ただの凡人であるということ、そのことが実感できる体験になったことは良いことだ。
そして、「じゃあ、今すぐ思考とか、生きる意味とか、そんなくだらないこと投げ捨てて人生楽しもうZE☆」という方針が、ああ、なんて無謀で、表層的なことなのだろうと思うのだ。
きっと、それなりに、生活を、人生を、送れているのだろうと思う。
ただ、断言できるのは、「苦しんでいる」ということだ。
遊びで、あんな表現はつくれないと思う。一つの記事ぐらいなら、僕も頑張れば架空のものとしてつくれるけれども、「量」という数値基準からして、単に冗談で表現を続けることはできない。
そして、それを分かってくれるひとは、周囲にはそれほどいないのではないだろうか。
しかし、僕は「分かってやれる」。その苦しみが何なのかが「分かる」。
そして、次の瞬間気づく。
ああ、僕はなんて無力なんだ、と。
彼(彼女?)を救うすべが、僕にはないのだ。
ただ、寄り添って、頭をなでてやることしかできないだろう。言葉などないのだ。
その透明な枷をはずしてやることはできない。
そもそも、ここまで、カッコつきの「わかる」という表現を繰り返してきたが、そうはいっても、その「分かる」ってのを、どうやって伝えるかという問題が、まず現実として立ちはだかる。
僕が、そのブログの作者さんに、感動した気持ちを伝えたいと思っても、その伝えるすべが見つからない。
コメントを残そうとも思った。
「あなたの記事に感動しました。応援しています。これからも頑張ってください」
え? 生きる意味がないなら死んでしまった方が「得」という思いすらよぎる人が、何を「頑張る」というのだ。
バカげたコメントだ。僕はコメント画面をひっそりとバッテンボタンで閉じる。
一つ、重要なことだと、自分にとって役に立った、有益だと感じたのは、自分のブログが他者からどう見えるかという一面である。
僕の女心のように、秋の天気のようにコロコロ変わる気持ちであったとき、陰鬱な瞬間はその一ワード一ワードに感動を覚えるだろうし、陽気なときは「うじうじ書いてるなんて気持ち悪いな」と思うだろう。
で、僕の場合はその「キモチワルイ」と「カンドウ!」が同居するが、たいていは、そのどちらかに統一された感覚を抱くことだろう、と。
そして、この記事は何となく面白くないだろうと。
ただ、それでも、よい作品を見つけた、ということで、メモ投稿。
「自殺サークル」という映画邦画から、「GHETTO」というサイトを見つけたり。
こちらのブログを見つけたり。
何のために生きるのか・・・
何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・
http://ameblo.jp/taitakau-tan/
「人工知能」「アカシックレコード」「仏教」「人生の意味」など、キーワードからして面白い。
特に、「妄想」という記事が気に入った。
http://ameblo.jp/taitakau-tan/entry-12118066213.html
人生に希望を持つのは妄想なのだろうか・・・将来に期待を持ちながら人は生きているが、その期待は一体何の意味があるのか?むしろ、困難や失望が待ち受けていることが多いだろうし、何より、期待が成就されても「だから何なんだ?」という虚しさが待ち受けている。なるほどなるほど。
子を持つ親なら、子の為に色々一生懸命になるであろう。自分自身の将来のことよりも、子供の為に献身的に世話し、子供が将来幸せに偉大な人になってくれることに夢を託す。しかし、それも、妄想に過ぎない・・・
子供もいない未婚独身者なら、自分自身のためにあれやこれや日々の暮らしをエンジョイすることだろう。友達付き合いを大事にし、人脈がネズミ算的に倍々に広がることに嬉々とする。まるで、ニューロンのネットワークのように・・・まるで側坐核の報酬系を刺激されて、ドパミンもしくは神経成長因子を分泌させることに没頭するかのごとく。脳に電極を埋め込まれたラットのように。覚醒剤中毒者のように。
>「とここまで考えておきながら、妄想について完全に勘違いしてたことに気づいた。」
!!
それは、病的な妄想と、正常の妄想があるということだ。病的か正常かの境目は、単純だ。現実生活に害があるかないかだ。
>子供の幸せの為に子育てを頑張ることのどこが有害か?
自分の夢実現の為に人生を前向きに意欲的に頑張ることのどこが有害か?
努力・前向き・意欲的なことはそれ自体は良いことだと思う。有害どころか、これが人生の目的と言ってもいいのかもしれない。
なるほどなるほど。
>「しかし、しかし・・・」
この最後の、「しかし」と続く流れがよい、面白い、ただではすまない。
共感
面白い、非常に良い記事だ。僕も全面的によく分かる、と思う。その「わかる」の解釈など、捨ておいていい。ただ、間違いなくこの作者と感覚を「共有している」感覚を感じられる。
僕に共感されたところで、嬉しくないだろうが……と、すぐさま思うのが僕だが、そういったことを指摘した記事などもあって、本当に面白いと思った。
面白い、と書くと、上から目線でバカにしてる、と思うのだろうか。しかし、他によい表現が浮かばない、というよりも、むしろそんなことを書いているより、もっと書きたいことがある。
やっぱり、僕が考えている、感じていることなど、大したことではないということである。
この「大したことない」としてしまうと、そのブログの作者さんへの批判にもなってしまうが、そういう意味ではなくて、ジョルジュ・バタイユさんが「この問題に取り組む世界で最初の最後の男のような気持ち」と表現しているようなこと、そんなことは全然ない、ということだ。
やっぱり、僕は、ただの凡人であるということ、そのことが実感できる体験になったことは良いことだ。
そして、「じゃあ、今すぐ思考とか、生きる意味とか、そんなくだらないこと投げ捨てて人生楽しもうZE☆」という方針が、ああ、なんて無謀で、表層的なことなのだろうと思うのだ。
救済
先に上げたブログの作者さんは、見えない何かに苦しんでいる。いやはや、その「苦しみ」が、例えば彼女ができないことだとか、お金が足りないことだとか、身体の不健康のことだとか、原因は全く分からない(そもそも年代が分からない。年上かも、年下かかも)。きっと、それなりに、生活を、人生を、送れているのだろうと思う。
ただ、断言できるのは、「苦しんでいる」ということだ。
遊びで、あんな表現はつくれないと思う。一つの記事ぐらいなら、僕も頑張れば架空のものとしてつくれるけれども、「量」という数値基準からして、単に冗談で表現を続けることはできない。
そして、それを分かってくれるひとは、周囲にはそれほどいないのではないだろうか。
しかし、僕は「分かってやれる」。その苦しみが何なのかが「分かる」。
そして、次の瞬間気づく。
ああ、僕はなんて無力なんだ、と。
彼(彼女?)を救うすべが、僕にはないのだ。
ただ、寄り添って、頭をなでてやることしかできないだろう。言葉などないのだ。
その透明な枷をはずしてやることはできない。
表現
しかしだ、そうは言っても、やっぱり、「言葉」が必要なんじゃないかと思う。そもそも、ここまで、カッコつきの「わかる」という表現を繰り返してきたが、そうはいっても、その「分かる」ってのを、どうやって伝えるかという問題が、まず現実として立ちはだかる。
僕が、そのブログの作者さんに、感動した気持ちを伝えたいと思っても、その伝えるすべが見つからない。
コメントを残そうとも思った。
「あなたの記事に感動しました。応援しています。これからも頑張ってください」
え? 生きる意味がないなら死んでしまった方が「得」という思いすらよぎる人が、何を「頑張る」というのだ。
バカげたコメントだ。僕はコメント画面をひっそりとバッテンボタンで閉じる。
一つ、重要なことだと、自分にとって役に立った、有益だと感じたのは、自分のブログが他者からどう見えるかという一面である。
僕の女心のように、秋の天気のようにコロコロ変わる気持ちであったとき、陰鬱な瞬間はその一ワード一ワードに感動を覚えるだろうし、陽気なときは「うじうじ書いてるなんて気持ち悪いな」と思うだろう。
で、僕の場合はその「キモチワルイ」と「カンドウ!」が同居するが、たいていは、そのどちらかに統一された感覚を抱くことだろう、と。
そして、この記事は何となく面白くないだろうと。
ただ、それでも、よい作品を見つけた、ということで、メモ投稿。
僕の試みは、果たして実を結ぶものなのか、分からない。ただの徒労なのか。いや、世界が残酷で、そして美しく、苦しみもありながら多幸感に満たされて心の安らぎを得ていくことが至上命題であることは疑いようがない。
であれば思考に何の意味があるのか。
その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。
さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。
不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。
己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。
ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。
否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。
いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。
とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。
しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。
意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。
ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。
確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。
それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。
このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。
一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。
ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。
何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。
問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。
彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。
その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。
しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。
今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。
それは、決して、拒絶ではならないだろう。
無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。
であれば思考に何の意味があるのか。
その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。
さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。
不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。
己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。
不安の深みに行くこと
ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。
否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。
いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。
とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。
しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。
意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。
ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。
確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。
それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。
このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。
思考とその向かう先
一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。
ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。
何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。
無気力
問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。
彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。
その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。
しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。
今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。
それは、決して、拒絶ではならないだろう。
無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。
