忍者ブログ
   
ルーチンの崩壊そして復興へ
2016/11/03 11:04 | Comments(0) | イライラ対処
あ。
あ、ああああうぎゃああ!

と、気が付くと朝だった。
とにかく、今日もルーチン、乗り越えるぞ。可用時間が二時間未満だろうが、関係ない、免除規定は使用しない。この程度で免除してたら、この先思いやられる。(昨日の記事より)

おい、言ってるそばから、失敗だよ。ああ、失敗だ失敗だ。
昨日、帰ってきてからの記憶がない。かけ布団の上にはいた。中ではない、上だ。喉が痛い、鼻水が出る、酒のせいなのか、風邪ひいたのか分からない。

何だか、音読はした気がするが、覚えてないし、間違いなく筋トレストレッチはできなかった。そもそも、帰宅が24時過ぎだったから、もうその時点でダメじゃね? って気もするけれども、そもそも、家に帰ってからの習慣をしっかり作ろうという試みが、ここに来て失敗してしまったのだ。

やはり、飲み会はよくない。
いやなんというか、飲み会に一緒に行ってくれる友人がいるなんて、ダメブログ界の裏切り者だ、とか、そんな風になる気がする。何故こう最近、ダメブログ界を比較、対照として挙げるかというと、インプットのためである。何だろう、思うに、他者をうらやんで、蹴落とそうとか、そういう人たちを、僕は毛嫌いする。

と、同時にだ、結婚して、子どももいて、仕事も責任を果たし頑張っている話を聞いていると、「あぁー俺なにやってんだろうなー」って惨めな気持ちにさせてくれるし、「他者をうらやんで」という気持ちが分からないどころか、よく分かる。

だから、何というのか、非常に複雑な感覚を、最近もっていて、それが所属欲求的な何かがよく分からなくなっている。

表現の試しで書いてみると、「オレ教」を創立したいのかもしれない。――書いてみて、やっぱり馬鹿げてると思った、実感レベルで、やはりこれは違うのだろう。


何の話だ?

そう、だから、「嫉妬」「悋気」「ジェラシー」「妬み」といった感情は、人間らしいものだし、僕もよく分かる。この「分かる」という表現も、他者からすると、「お前なんかに分かるもんか。俺のこの苦しみは絶対理解できん!」という批判が成り立つのであり、そしてそれは絶対的に真実であり、非常に書きづらい部分である。

だから僕は、「そう、間違いなく、あなたが、この世界で一番悩み苦しんでいる人なのだよ」と言ってあげる。
そして、それは、僕の嫌いな言葉の一つである、「お前の中ではな」(プギャー)という、含意となる。

「君がそう思うならそうなんじゃない? 君の中ではね」

とか言われた、ものすごい腹立たしいと思う。けれども、僕はそれを自分自身でも思っている。では、何故他者から言われたら腹立たしいのか。それは、「理解する努力」を、相手が放棄していると感じ取れるからだ。

理解可能性

人はお互いを全幅もって理解し合うことはできない。

と思いながら、

その理解しようとする行為は価値があり、放棄することは許されない。

と思う。

これは矛盾概念であり、永遠に解決することがない。え、別に矛盾してないじゃん? と思う気がするが、「真に理解することができないにも関わらず、理解することをやり続けなければいけない」ということは、何と苦しみに満ちた世界だろうか。

シーシュポスさんが岩を山のてっぺんまで運んで、転げ落とされて、また運んで――と、永遠に繰り返すようなものだ。
シーシュポスさんの話はギリシア神話ということだけれど、シッダールタさんも一切皆苦だぜ、と仰ってるし、何だろう、人生とか世界とか、人間存在って、どうしても矛盾の中を進んでいかないといけないよね、ということ、その「概念」は、僕はそれこそ8年? 10年以上も前から、理屈じゃなくて何となく思っていて、それなりに色々な経験や出来事があったけれども、結局それが今まで覆ることは無かった、そして今も無い。


何度も書いていて、使い古してしまったけれども、例えばエヴァンゲリオンの人類補完計画とか、ガン×ソードの鉤爪の男の世界とか、フルメタルパニックのタルタロスとか、「幸せな世界」とは、ATフィールド(絶対領域:人と人との境界線)を取っ払っちゃったモノであり、それって、グチャァァーと、自他の区別がなくなったもので、そもそも「人」として成り立たなくなることである。
(もう二つ例を挙げると、EDENのコロイドと、アイアムアヒーローのZQNも同じく、グチャーの表現の一つ)

ぐちゃっとした世界

いや、それが確かに、この苦しみに満ちた世界においては、正しいのかもしれない。

でもでも、たいていの人は、そんな矛盾に満ちて、苦しい世界であっても、騙しだまされがあって、殺し合い、蹴落とし踏みにじられることがあっても、そんな世界が良いのだと、楽しいのだと、そこで生きていたいのだと、そう言い切ることだろう。

「でもそれって、単純に君が恵まれているだけなんじゃないの?」


いわゆる、底辺の人たち(この言葉も、リア充とか、中身のない曖昧な表現でしかなく、意味はないのだけれども)にとっては、世界なんて、壊れてしまえ、自分も含めて全部死滅してしまえ、と、自暴自棄になることだろう。

そういった危険な人を増やさないために、社会福祉制度がある。

弱者救済とか、かっこつけたことを政治家の方々はいうけれども、実のところ、裕福な支配層が身をまもるための戦略の一つなのである。
だから、ゴミ屑犯罪者はバンバン死刑にしてけばいいんだ、とか本気で思ってる人は――この思ってるというのは、当然、家族を殺された人は、犯人を殺してやりたいと思うだろうし自然な感情。ただ、制度として、ルールとして単純にゴミ屑を排除すればいいとしか思っていないとしたら、早計である。

頭がいい人たちの生存戦略は、非常に巧妙である。

一言誹謗中傷コメント

ので、話しがそれてるけれども、何が書いておきたかったかというと、

上を見ても下を見てもきりがない

から、「嫉妬」等感情は、無意味だし、それに振り回された行動に時間を使ってるのは、もったいないと言わざるを得ない、ということだ。

というのは、他の方のブログなどについているコメントなどで、「きんもー☆」「童貞乙」「キモブタ死ね」とか、そんな一言二言書いている人たちの感情・行動原理が、全く理解できないということである、が、それって、ブログ界だけじゃなくて、リアル世界においても、やっぱりそういう人いっぱいいて、くだらないなぁと思うわけである。

しかし、反転同時思考的に、ああ、でも、いわゆるリア充の方々にとって、僕のこれら記事についても、「え、何こんな長文書いて無駄してんの? 外出て遊んだほうが楽しいじゃん?」としか思われないのだろうなぁと、別に寂しい思いとかではないが、結局、「きんもー^^」のコメントする人たちと、僕も同じなんだなぁという思いが生じた。

(’この反転同時思考は、こうやって書いてみないと、頭の中で混沌状態になり、非常にストレスになるので、そういった意味でも書くことは大事、なんだが、そういう混沌状態にならない人にとっては無意味でしかない)

主旨

で、まぁ、その、この記事の主旨としては、失敗してしまったルーチンの、立て直しをしなければ、というものだ。
いや、厳密には、2時間可用ルールが適用され、失敗したわけではない。失敗したというのは、昨日の、「2時間ルールは使わないぜ!」という単発発言だけだ。

しかし、大抵、いつも、この体調不良もあいまって、習慣づけは失敗してきたのである。
取りあえず、今日の分の、音読筋トレストレッチは行った。頭が痛いが。

明日も、継続して、頑張っていこう。と思うのだけれども、何だか、自分への信頼度が低くなっている。先週土日を乗り切ったときに感じていた、ちっぽけな自己肯定感が完全になくなっている。そういう意味で、ルーチンはやはり失敗してしまったのだ。

ただ、むしろ、この、例外事象における対応こそが、今回の試みの最重要ポイントでもあったので、勝負はここからだ、とも思う。明日の自分の行動が、この先を決める。無責任で嫌いな言葉だが、「頑張れ」と言い残して終わりにする。




拍手[1回]

PR

ルーチンの危機その2
2016/11/02 08:09 | Comments(2) | イライラ対処
昨日の記事は中身がなかったなぁと思いながら、ただ、書いて、意識を高めなければ筋トレ音読ストレッチは頓挫していたように思う。

一週間、二週間続けられても、序章に過ぎない。習慣化するには、ここから長い道を歩む必要がある。

そして、今日も帰りが遅いことが確定しているため、どう乗りきるかがポイントになる。だから、朝起きてやってしまおうと思っていたのに、気付いたら寝過ごしていた。

悪夢



いやぁ、高校時代ぐらいの夢なんだが、それを見て、目覚ましがなったことすら気づかなかった。

あくむというには平凡な、高校時代に友人と会話したり、部活いったり、授業をうけたり、って、そんな普通な生活。

それが、僕は、何故か末恐ろしい悪夢に覚えた。

僕が常々、過去には戻りたくないという、、その実感レベルの証拠に思えた。

やっぱり、くだらないけれど、あえて比較すれば、過去よりも、それは本当にどの時点よりも、僕は今がよいと思う。


時間経過が成すこと


ダメブログのよいところって、時間経過が、その価値を高めていくことだと思う。

例えば、運動選手とかだと、年齢により経験を得て、大成していくことはあるが、身体のポテンシャルは若い方がいい。
女の子も若い方が価値があるとされる。もちろん内面の大成は関係するだろうが、美貌的には若い方がいいだろう。


しかしダメブログはちがう。
そのダメさは、すべての面で時間経過はその強化に繋がる。
肉体的な劣化もまた、ダメブログにおける価値のひとつなのだ。


仲間になりたい



昨日思ったことのメモだが、自己啓発も違うし、スピリチュアルも違うし、そしてダメブログもやっぱり違う。

ここでの違う、は、所属欲求を満たしてくれる、という意味であり、それらはそれぞれ、面白いことを書いている方々は多いと思う。


けれども、そのどれも、その道でやっていこうとは思わなかったのだ。
先日書いた、スゴい人はいっぱいいたけど、その誰もが目指そうと思うような人ではなかったと、その感覚。

2009年と、最近何人か魂魄を揺るがしてくれる人はいたけれども、例の悪夢の高校とか、その辺りは何か違うという感覚、それを僕は生きづらさ、と表現しているが、そう思っていた。
換言すれば、居場所のなさ、のような。



趣味



趣味のある人とか、欲求が強い人は、やっぱりどこか魅力的だと思う。

ミニチュアゲームというジャンルがあることは最近知ったけれども、中々面白そうである。戦闘とか見てみたいなぁと思った、ただ、実際やるのは、プラモデルとか、数年前大人向けのレゴブロックとか、途中で投げ出してしまう僕には厳しそうだなぁと感じた。

そうそう、百億の夜と千億の、昼? だっけ、萩尾もとの作品、あれの原作って小説だったんだなぁ。


ああ、趣味のはなしだ。
趣味って、所属欲求を満たすために必要なものだ。
好きなことをして、それで他者とつながれる場、これが大事である。


深夜徘徊オフ会とか、面白いことやってるなぁと、あるブログさん読んでて思った。

で、こんなニッチなことに少しでも興味を持った人は、同じ穴のムジナだぜ、今すぐ連絡くれよな! 的なことが書いてあって、あはは、面白いなぁ、確かにそうかもなぁと思った。



けれども、何だか、僕は、常々、よく、浮いている、感覚に悩まされる。 

この、浮いているという感覚が、やっぱり、ダメブログ界も、もちろん、読むのは重要だし面白いし興味があるけれども、所属という点で違う気がしてならないのだ。


そういう意味では、ただ純粋に、生きる意味を模索しようと、価値を探し、自己に向き合っていると感じさせる最近リンクさせて頂いたブログは近いものを感じ、期待しているものである。
(すぐさま書くべきは、完全に上から目線になっていて申し訳ありません。そして期待というのも、勝手なものであり、申し訳ありません。そもそも期待って、身勝手だよなぁ。自己の思いを他者にぶつけて、それでその思いが違ったら、裏切られたとか、責任とれだとか言う奴が本当に多い。違うだろ? その期待は、あくまで、自分自身のものだろ? その結果がどうであれ、責任主体は自分だろ? ……と、いつも思ってしまうのは、他者をなかなか頼れない自分の悪いところの一つだとも思ってるが)

どこに向かうのか



中々認められなかった感覚がある。
それは意外にも、仲間がほしいというものだ。

仲間って、なんだろ、メンターとか目指したい人でもなく、一緒に遊ぶ友人でもなく、ましてや恋人とか結婚相手でもなく、


僕もあまりこのことは書いてこなかった、いや、全く書いたことないかもしれないぐらおで、上手く表現できないが、この点は、先日感動した、カバネリという作品にたいしての考察記事が参考になる。

そこで触れられていた、イケメンサイコパスのラスボスが、主人公に抱いていた思い、最後の戦いの後、瀕死の主人公を助けた理由。
それが、仲間、との認識だというのだ。


イケメンサイコは、ある組織のリーダーで、多くの部下や、カッコつきの仲間、は大勢いた。
ただ、それは、真の目的を目指し共に戦おうとしてくれる、本当の意味での仲間ではなかった。

ゆいつ、狭い壁を越えて屍というゾンビ軍団に立ち向かおうと強い思いをもつのは、お互い戦うことになった主人公だけだったのだ、、と。



考察記事の、更なる僕の考察なので、そもそも勘違いの可能性はあるけれども、重要なのは、仲間という概念が、単純に物理距離を共有するものではなく、目的を共に果たそうとする心をもった人たち、という点である。


反転思考



危険な考えだ。
問題がすぐ浮かぶのは、二つ。

ひとつは、その目的の曖昧性。まず、今僕はそもそもの目的を追求するためにブログやってるわけだ。

ふたつは、全人格的承認の不可能性。換言すれば、他者との理解可能性の限界性。



まとまらないまとめ



とにかく、今日もルーチン、乗り越えるぞ。可用時間が二時間未満だろうが、関係ない、免除規定は使用しない。この程度で免除してたら、この先思いやられる。

そして、所属欲求と、生きづらさと、仲間という概念。この辺りが今まで書いてきて弱い部分な気がするので、もう少し深めていきたい。

最後に、過去の存在。


ああ、ほんと、どの昔にも戻りたくねぇなぁ……。
いつか、輝かしい、あの頃に戻りたいというような時期ができるんだろうか?

でも、……もう時間がないからひとつだけメモだが、戻りたい輝かしい瞬間があるって、それ、すごく、悲劇なんじゃなかろうか?

つまり、それを思ってるそのタイミングは、人生というなかで、斜陽なんじゃないかって、そんな気がする。









拍手[2回]


ルーチンの危機
2016/11/01 23:08 | Comments(0) | イライラ対処
くたくたである。
恐らく、家にたどり着くと、24時近いと思う。

ルーチンって、日付変更されても有効なんだっけ?
ああ、そもそも、可用時間が2時間とれないから、今日初めて、ルーチン免除該当じゃなかろうか。

でも、何だか、やらなきゃって気持ちだ。
そして、明日も、もっと遅くなる可能性があるから、免除該当しそう。

二日も連続で該当したら、そのままずっとやらなくなる、というのが、これまでの経験上よくあることだ。

まずいぞ、土日の正念場を乗りきったら、いきなりまた崖っぷちに立たされたみたいである。



体調の悪いときの免除ルール構築もまだなのに、それどころじゃなさそうだ。とにかく、今日は帰って、24時過ぎようが、筋トレストレッチ音読をする、絶対だ。

ちなみに、恥ずかしいから書いたこと今までなかったけれども、30秒ルールというのも自分のなかで存在する。これが構築されたのがいつだったか、全く覚えていないが、ジパングという漫画で、戦艦の最大戦闘速度、という言葉が気に入って、30秒戦速(さんじゅうびょーせんそー)と呼んでいる。

運用は非常に簡単。

まず、必ず行う、絶対行うことを想起する。

例えば、朝、眠くて、起きれない、布団からでれない、あと、5ふん寝たい、とか身体的欲求など、抗えない強い問題が発生する。
そのとき、絶対に身体を起こし、顔を洗いにいく、と銘記する。

次に、30秒戦速! と叫ぶ。これは心のなかでも、実際に口に出してもいいが、大抵口に出せるほど元気がないときに用いる、最終切り札なので、心の中だけが多い。

次に、30秒からカウントダウンしていく。
そして、ゼロ秒になるまでに、必ず、銘記した行動を起こすのである。



自己コントロール



こんなアホみたいなことを、ときに真剣にやって、実際に行動をする場面もこれまで何度もあった。そして、この30秒ルールは、今まで、一切失敗したことがない。

どんな命令も、必ず、0秒になるまでに実行できてきた。


これが、もはや、自分の中で絶対に破れないルールになってくると、それが相乗効果、重ねがけのように、そのルール自体がそのルールの強化に繋がるため、より強固なものになる。

だから、逆に滅多なことでは使えなくなったりするのだけれど、いざというときは役に立つ行動方策である。


先日も、過去記事において、ウェイティングタイム、というルールをみつけた。まぁこれは忘れてしまっていて、規定にはならなかったけれども、考え方としては役に立ちそうと思った。


理性によるコントロール



いや、本当は、ダメブログ界のブログたちに付く、心ないコメントについて、書こうと思っていたのだけれども、時間が足りなそうだというのと、嬉しいコメント頂いたこととで、優先度が下がった。


ただ、メモしておこうと思うのは、とにかく、このダメブログ界というのを、自分は本当に最近知ったということである。

繰り返し話題にあげるのは、記憶のためでもあるし、未来に繋げるためでもある。



素敵な人との出会いもありながら、誹謗中傷コメントの哀しさを思う。

ああ、やっぱり、俺が、人間嫌い、と表現した、あの瞬間は、決して間違いじゃない、……いや、感情エラーなのはそのとおりとは思うが、でも、そう感じさせてしまった事象を思えば、仕方がなかった、と思わざるえない。

これが、昨日書いた、後悔も言い訳も嫌いだ、という意味だ。

この、仕方がなさ、……仕方がない、と表現すると、諦めとか妥協のようだが、しかし、本当に心から、どうしようもなかった、仕方がなかったと思うのであれば、それは後悔でも言い訳でもなく、ただ、全力でやりきったあかしである。


自分に言い訳や後悔してもなんの意味もない。

それは、下手すれば、自分の非を認められない頑固じじいになるが、客観的な、相対的な基準における非というのは、当然認めざるえない。

現実において、テストで70点しかとれなければ、頑張りが足りなかったとの指摘はさけられない。資格試験に落ちたら、それは勉強が足りなかったことに他ならない。

そこは、反省、すべきだ。
後悔しても仕方がない。できなかった自分を分析し、それは行動だけでなく、心も、感情も引っくるめて、そうたいとしての分析を……



あああ、まずい、このまま終わったら、単に自己啓発ブログみたいじゃないか。

ちがう、そうじゃないんだ、いや、なにが?


よく考えると、ここ数ヵ月、いやそれ以前からかもしれないが、特に何か考えて書いているってことがない。


単に思ったこと、メモしなきゃってことを、ほぼ、自動筆記で書いている。
なんだ、俺、何がしたいんだっけ?

ううん……なんだ、かなり混乱してる。


俺はだれだ?

目的は……そう、意味を、徹底的に、考えなきゃ、いけないんだ。


しかし、それ、本当にできてるのか?


他者を気にしたり


物理環境の忙しさに
いや、それは現実物理時間は確かに要しているものの、それを言い訳にしていないか?




いつだかの記事で書いたよな?

もう2016年終わるぜ?

いいの?

あと、いくつ記事をかけるだけの時間残ってると思ってんの?


仮に、今年中に答えを出さなきゃならないとしたら、

一日ひとつのペースとしたら、60個の記事のうちで、
答えを出さないといけないんだよ?


そう考えたとき、ほんとに、今日、この選んだ話題が適切だった?

胸をはって、正解たったと、そう言い切れる?



お前は本当に、今日一日を、全力で生きたと、そう言い切れる?


俺は……

とにかく、ルーチンをこなすことに残りの時間を使う



拍手[1回]


拍手コメントと同時反転思考
2016/10/31 21:00 | Comments(2) | イライラ対処
ニートの履歴書というブログをweb拍手で教えていただき、読んでみた。面白そうだ、と、また微妙な表現。この、面白そうという感覚はなんなんだろう。ただ、これは、ほんの2、3の記事を読めば分かる。

ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。

拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。



しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。

通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。

たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。

そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。

いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。



今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。

ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。

同時思考


しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。

そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。

完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。



ルーチン



で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。

今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。

ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。

それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。

そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。


結婚観


ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。

高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。



差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。

そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。

ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。


同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。


ステータスとしての結婚



青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。

その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。


もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。

これが問題のひとつ。

逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。



この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。


戦う必要はない



ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。

むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。

結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。

某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。


……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。


なんでもかんでも反論が浮かぶ。



ダメブログ界カースト



とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。

んなわけないだろ。

むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。


思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。

現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
 
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。

そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。


死ぬ瞬間



そして、また反転するが、


思考とはどうでもいいものだ


と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。

50歳かもしれない。
60歳かもしれない。

本当に死ぬ直前かもしれない。

メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。


じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。


真剣になるべきこと



補足。

問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。

もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。

例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。


では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?

今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?



実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。

この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。


しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。

これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。









拍手[2回]


自分へのお疲れ様
2016/10/28 00:23 | Comments(0) | 思考及び書くこと
人の紡ぐ文章は面白いなぁ。記憶言語学(?)を学び翻訳家をされている人のブログを拝見し、それに寄せられていたコメントと、それに対する返信、やりとりを読んでいて、何だかすげーレベルで会話してるな! かっけぇな! よくわかんねーけど! と思った。

この「理解」というのは、長らく、僕にとっても課題というか、問題であり続けた。
クオリア、というのは、認識や感覚の「質感」のこと、「青を青を感じるそれ自体の感覚」のことであると理解している。そして、そのクオリアというのが、誰しも持っているものだろうか、という懐疑が哲学的ゾンビという考え方である。

僕は、どうしたら、人と人がお互いを理解しあえるのだろうと、割かし真剣に考えていた。
そして、パレートの法則じゃなくて、ええと、何だっけ、人は言葉よりも表情やジェスチャーの方でコミュニケーションの意味を理解しているという、アレだ、ダメだすぐ思い出せない。
あ、今日も20分程度の時間制限付きで書いてます。

とにかく、理解って、何だろなと思う。そして、俺が論理的でなくて、学者にもなれないのは、その理解を突き詰めようとは思わなかった点だ。
結局、感覚的なことも重要なんだろ、と思ってしまうのだ。そして、論理的であることが必ずしも、僕の「目的」に合致しないだろうという思いもある。まぁもちろんこれは、単なる諦念、慢心、逃避とも言えるから、断言はできない。

ただ、先日の記事で、仏教は「感動」も否定する、ということを知ったと書いたが、僕は、「感動」は大事だと思うのだ。その感動とか、欲求というものを求める心性というのは、「ああ、若い人だねぇ」と見られるかもしれないが、それは心外である。
僕はむしろ、逆に今まで、その「感動」とかいったものを、可能な限り排除しようと試みてきた。僕の造語でいえば、感情のコントロールである。理性と論理性で、感情を思い通りに操ろうとしたのだ。

それが、昨今、僕は逆転している。逆に、その感情ってもんを、いわゆる「実感」を大事にしようという方策に変わっている。

とか、そういう表現、これら、実は、8年前ぐらいにかなり詳細に書いていたことが分かって驚いた。

ブログの意味

思うに、――最近、拍手押して頂ける場合が増えてとっても嬉しいけれども――ブログの意味とは、やっぱり、未来の自分への遺産みたいなもんだと思った。

誰かに読んでもらえる、誰かに影響を与えられる可能性があるというその希望、これは、それが事実だろうがどうだろうが、その可能性だけで僕に充足感を与えてくれる。(とかいう表現は、実は恥ずかしいから、今までできる限り抑えようとしていた)

そう考えると、何年も前の僕の記事は、本当に、あれ、何のためやってたんだろうと、意味不明である。

と思って読み進めると、「書いていることそれ自体の楽しさ」に触れた記事もあった。
「理想自己と現実自己の乖離」なんて概念も、2008年ぐらいからあった。

2008年、かなり、僕にとって激動であった。


正直、自分大好き人間みたいで気持ち悪くて、自己陶酔、ナルシスト、うーん兎に角バカみたいだなぁという思いが同時に起こりながら、僕は、過去の記事が面白いと思ってしまった。


面白いなって思うのは、今回が初めてじゃないけれど、特に、何だか、「お疲れ様」って思いがわいてきた。これはきっと初めてだと思う。

自分に対して、お疲れ様って、これ、今まで、うん、やっぱり無いな。
残念ながら、今のこの瞬間の僕に対しては、正直そんな風に思えない。

ただ、過去の、8年前の僕に対しては、お疲れ様って思う。


いや、もっといえば、それよりも前の自分があったわけで。


うーん、何だろ、直接的な自分のことになると、語るべき言葉が浮かんでこない。
ただ、今日、メモしようと、書いておこうと思ったのは、過去の、何年も前の自分からのメッセージで、結構励まされたというか、暇な時間をつぶせたというか、有意義な時間になったという思いを頂いたということから、

僕は、今、この書いていることなどが、10年後の僕に対して、何らか、意味あるものになって欲しいと、そう思ったのだ。

正直、こんなこと書いている、現時点の俺に対しては、何も感慨もない。
何へかは分からないが、もっと頑張れるんじゃないか、なんて思う。もっと効率的な時間の使い方があるんじゃないかなんても思う。

だけれども、8年前の僕に対しては、素直に、お疲れ様、まぁゆっくり休みなよ、と、そんな優しい言葉をかけてあげられそうなのだ。

明日への言葉

ああ、もう、時間切れか。
なんだ、もっと、その、未来の、そんな10年とか後じゃなくても、せめて明日の俺に対してでも、何か声をかけてあげたい。

ええと、なんだ、その、頑張れ……?

頑張れって言葉好きじゃない、頑張れって何だよ、それってつまり、「苦しめ」ってこと? アホちゃう? 苦しむこと、悩むことが目的じゃないだろ? 何か目的のために、そのプロセスとして、過程として苦しんだり悩んだりすることは必要かもしれない。でも、頑張れって何? 思考停止な言葉だよな。具体的に、何をしろ、と、はっきり明確に言ってやれよ。
同じく、「気を付けてね♪」なんても嫌いな言葉だ。何を気を付けりゃええねん。

すぐさま書いておくべきは、別に、口語表現として、単なる挨拶としての言葉として、別に否定するまでもない。おはようございます~。お疲れ様でした~。え、何がおはようなの、おはようって何? お疲れ様って、何が疲れてんの? 疲れてると思ってんのにお前先に帰ろうってんの? ――とか、そんなこと思わない。言葉ってのは、「意味」を伝える言葉と、「感情」を伝える言葉があって、それは別である。

ただ、こうした、ブログとか日記とかログとかいったものにおいて、頑張れとか気を付けてとか、自分を信じてとか、そんな抽象まとった言葉なんて、不要である。書くだけ無駄である。
(すぐさま書いておくべきは……別に、そういったことを書いたところでダメじゃあない。そもそも、こうやって、「あー」とか「ええとー」「そのー」とか、そんなこと書いている時点で無駄ばっかである。ここで書きたいこと、メモしたいことはそうじゃなくて……だが、上手い表現が見つからないからカット)


非常に脱線した。
時間も切れた。

そう、明日の自分への言葉だ。
取りあえず、筋トレ音読ストレッチのルーチンは今日もOK。

明日も多分大丈夫だろう。問題は、4時起きぐらいになりそうな土曜日だ。
そんな土日を乗り切ると、もう11月になるわけだ。

早いなぁ。

今日も一日、後は寝るだけしか残っていない。

いやぁ、そんな風に思って、朝まで起きていようとか思ったことも、一度や二度ではなかった気がする。結局、明け方にものすごい睡魔に苦しむことになるから、もうやらないけれど……。
歳をとって夜更かしができなくなったなぁとかいう人を聞いたことあるけれど、正直、俺は今までずっと徹夜なんてまともにできた試しはない。

睡眠は大事だよ。残業すりゃ偉いなんてそんなのも前近代的だ。とはいえ、「効率」というだけではなくて、結局人の感情ってのが大きな影響を与えるものだってことも、別に敢えて書かずとももう分かってることなんだけど、ただ、ここで、このタイミングで書いておくのが、やっぱり、後で読んだ時の優しさになるわけだが。

目標について

いやそうじゃなくて、何だ、その、早いなぁ。
そろそろ、来年の目標……できれば、目的を立てなきゃ、間に合わなそうだ。

目標を公言して、実際に行動して、やり遂げようとしている方がいて、僕も見習わなければならない。
目標、大事だよやっぱり、うん、その、何というか、「目標」という言葉にしてしまうと、うわ、なんか面倒だ……と思ってしまうものだけれども、でも、間違いなくこれがあるかどうかで生き方は変わると思う。決して、自己啓発ブログなんてもんじゃなくて、どっちかというとダメブログ系なもんなんだが、そんなこと関係なく、目標は大事だ、どう大事かって、書いてきたっけっか。また今度確認してみるか。

うん、そうだな、まず、今立てるべきは、目標を立てるって目標を立てた方がよいだろう。本当は、目的を見つける、というのが最終目標なんだが、それは、エレファントテクニックで、細かく分解しなければ到底たどり着けないほど遠そうな気がしている。

そう、目標ってのは、何も面倒なものではない。
何せ、目標は、本当に、自分がやりたいこと、好きなこと、楽しいことを目指すものだからだ。

だから、目標が短ければ短いほど、それは直感的な快楽、嬉しさ、気持ちよさ、楽しさに漸近する。
例えば、サツマイモとカボチャの煮つけを作って食べる、という目標を立てたとしよう。1時間もすれば、目標は達成され、美味しい料理を食べれるという快楽が待っている。


だから、逆を言えば、今現時点最高に幸せで満足であれば、全然目標なんて立てる必要はないのである。
いまその瞬間を精一杯楽しんでれば、それで人生大正解だ。

(この、今書いていることは、あくまで、人々の個々、個人的なベースにおいて、現実規定(物理環境)に応じた上でという制約付きなことをメモして置かなければならないだろう。当たり前だが、快楽殺人嗜好者の幸福追求は、認められるものではない。さて、では、快楽殺人嗜好者が、社会規定を前提とした上で幸せに生きるには、いったいどういった方法が考えられるだろうか。残念ながら、早いところ死んでもらった方がいい、となる。これはかなり極端な想定なのだけれども、この点、後々かなり重要性が帯びてくる。即ち、果てしない理想をもって、その理想を諦められず縋るしかない人がいたときに、その人にとっての真の幸せは、恐らく、可及的速やかな自死では無かろうか、という点である。この点、この内容については、今日はとても書ききれない。だが、いずれしっかり思考し書く必要があるだろう、もしくは、過去記事の中で同様のテーマで触れているものがないか探し出す必要があるだろう)


逆に、だ。
目標を必要とするというのは、何らかの「不満」があるということだ。

その不満があるというのは、「欲求」があるということだ。

欲求があるという時は、それを解決する何らかの行動が必要になるということ、そして、むしろ逆に、解決する方法があるだろうということだ。

卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたが、兎に角、目標、欲求、感情、の発生する流れを鋭く感じ取り、それを相互関連させながら明確な、確固たる目標やそれに対する行動方策を立てていく必要があるだろう。


拍手[4回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング