あ。
あ、ああああうぎゃああ!
と、気が付くと朝だった。
おい、言ってるそばから、失敗だよ。ああ、失敗だ失敗だ。
昨日、帰ってきてからの記憶がない。かけ布団の上にはいた。中ではない、上だ。喉が痛い、鼻水が出る、酒のせいなのか、風邪ひいたのか分からない。
何だか、音読はした気がするが、覚えてないし、間違いなく筋トレストレッチはできなかった。そもそも、帰宅が24時過ぎだったから、もうその時点でダメじゃね? って気もするけれども、そもそも、家に帰ってからの習慣をしっかり作ろうという試みが、ここに来て失敗してしまったのだ。
やはり、飲み会はよくない。
いやなんというか、飲み会に一緒に行ってくれる友人がいるなんて、ダメブログ界の裏切り者だ、とか、そんな風になる気がする。何故こう最近、ダメブログ界を比較、対照として挙げるかというと、インプットのためである。何だろう、思うに、他者をうらやんで、蹴落とそうとか、そういう人たちを、僕は毛嫌いする。
と、同時にだ、結婚して、子どももいて、仕事も責任を果たし頑張っている話を聞いていると、「あぁー俺なにやってんだろうなー」って惨めな気持ちにさせてくれるし、「他者をうらやんで」という気持ちが分からないどころか、よく分かる。
だから、何というのか、非常に複雑な感覚を、最近もっていて、それが所属欲求的な何かがよく分からなくなっている。
表現の試しで書いてみると、「オレ教」を創立したいのかもしれない。――書いてみて、やっぱり馬鹿げてると思った、実感レベルで、やはりこれは違うのだろう。
何の話だ?
そう、だから、「嫉妬」「悋気」「ジェラシー」「妬み」といった感情は、人間らしいものだし、僕もよく分かる。この「分かる」という表現も、他者からすると、「お前なんかに分かるもんか。俺のこの苦しみは絶対理解できん!」という批判が成り立つのであり、そしてそれは絶対的に真実であり、非常に書きづらい部分である。
だから僕は、「そう、間違いなく、あなたが、この世界で一番悩み苦しんでいる人なのだよ」と言ってあげる。
そして、それは、僕の嫌いな言葉の一つである、「お前の中ではな」(プギャー)という、含意となる。
「君がそう思うならそうなんじゃない? 君の中ではね」
とか言われた、ものすごい腹立たしいと思う。けれども、僕はそれを自分自身でも思っている。では、何故他者から言われたら腹立たしいのか。それは、「理解する努力」を、相手が放棄していると感じ取れるからだ。
と思いながら、
その理解しようとする行為は価値があり、放棄することは許されない。
と思う。
これは矛盾概念であり、永遠に解決することがない。え、別に矛盾してないじゃん? と思う気がするが、「真に理解することができないにも関わらず、理解することをやり続けなければいけない」ということは、何と苦しみに満ちた世界だろうか。
シーシュポスさんが岩を山のてっぺんまで運んで、転げ落とされて、また運んで――と、永遠に繰り返すようなものだ。
シーシュポスさんの話はギリシア神話ということだけれど、シッダールタさんも一切皆苦だぜ、と仰ってるし、何だろう、人生とか世界とか、人間存在って、どうしても矛盾の中を進んでいかないといけないよね、ということ、その「概念」は、僕はそれこそ8年? 10年以上も前から、理屈じゃなくて何となく思っていて、それなりに色々な経験や出来事があったけれども、結局それが今まで覆ることは無かった、そして今も無い。
何度も書いていて、使い古してしまったけれども、例えばエヴァンゲリオンの人類補完計画とか、ガン×ソードの鉤爪の男の世界とか、フルメタルパニックのタルタロスとか、「幸せな世界」とは、ATフィールド(絶対領域:人と人との境界線)を取っ払っちゃったモノであり、それって、グチャァァーと、自他の区別がなくなったもので、そもそも「人」として成り立たなくなることである。
(もう二つ例を挙げると、EDENのコロイドと、アイアムアヒーローのZQNも同じく、グチャーの表現の一つ)
でもでも、たいていの人は、そんな矛盾に満ちて、苦しい世界であっても、騙しだまされがあって、殺し合い、蹴落とし踏みにじられることがあっても、そんな世界が良いのだと、楽しいのだと、そこで生きていたいのだと、そう言い切ることだろう。
「でもそれって、単純に君が恵まれているだけなんじゃないの?」
いわゆる、底辺の人たち(この言葉も、リア充とか、中身のない曖昧な表現でしかなく、意味はないのだけれども)にとっては、世界なんて、壊れてしまえ、自分も含めて全部死滅してしまえ、と、自暴自棄になることだろう。
そういった危険な人を増やさないために、社会福祉制度がある。
弱者救済とか、かっこつけたことを政治家の方々はいうけれども、実のところ、裕福な支配層が身をまもるための戦略の一つなのである。
だから、ゴミ屑犯罪者はバンバン死刑にしてけばいいんだ、とか本気で思ってる人は――この思ってるというのは、当然、家族を殺された人は、犯人を殺してやりたいと思うだろうし自然な感情。ただ、制度として、ルールとして単純にゴミ屑を排除すればいいとしか思っていないとしたら、早計である。
頭がいい人たちの生存戦略は、非常に巧妙である。
上を見ても下を見てもきりがない
から、「嫉妬」等感情は、無意味だし、それに振り回された行動に時間を使ってるのは、もったいないと言わざるを得ない、ということだ。
というのは、他の方のブログなどについているコメントなどで、「きんもー☆」「童貞乙」「キモブタ死ね」とか、そんな一言二言書いている人たちの感情・行動原理が、全く理解できないということである、が、それって、ブログ界だけじゃなくて、リアル世界においても、やっぱりそういう人いっぱいいて、くだらないなぁと思うわけである。
しかし、反転同時思考的に、ああ、でも、いわゆるリア充の方々にとって、僕のこれら記事についても、「え、何こんな長文書いて無駄してんの? 外出て遊んだほうが楽しいじゃん?」としか思われないのだろうなぁと、別に寂しい思いとかではないが、結局、「きんもー^^」のコメントする人たちと、僕も同じなんだなぁという思いが生じた。
(’この反転同時思考は、こうやって書いてみないと、頭の中で混沌状態になり、非常にストレスになるので、そういった意味でも書くことは大事、なんだが、そういう混沌状態にならない人にとっては無意味でしかない)
いや、厳密には、2時間可用ルールが適用され、失敗したわけではない。失敗したというのは、昨日の、「2時間ルールは使わないぜ!」という単発発言だけだ。
しかし、大抵、いつも、この体調不良もあいまって、習慣づけは失敗してきたのである。
取りあえず、今日の分の、音読筋トレストレッチは行った。頭が痛いが。
明日も、継続して、頑張っていこう。と思うのだけれども、何だか、自分への信頼度が低くなっている。先週土日を乗り切ったときに感じていた、ちっぽけな自己肯定感が完全になくなっている。そういう意味で、ルーチンはやはり失敗してしまったのだ。
ただ、むしろ、この、例外事象における対応こそが、今回の試みの最重要ポイントでもあったので、勝負はここからだ、とも思う。明日の自分の行動が、この先を決める。無責任で嫌いな言葉だが、「頑張れ」と言い残して終わりにする。
あ、ああああうぎゃああ!
と、気が付くと朝だった。
とにかく、今日もルーチン、乗り越えるぞ。可用時間が二時間未満だろうが、関係ない、免除規定は使用しない。この程度で免除してたら、この先思いやられる。(昨日の記事より)
おい、言ってるそばから、失敗だよ。ああ、失敗だ失敗だ。
昨日、帰ってきてからの記憶がない。かけ布団の上にはいた。中ではない、上だ。喉が痛い、鼻水が出る、酒のせいなのか、風邪ひいたのか分からない。
何だか、音読はした気がするが、覚えてないし、間違いなく筋トレストレッチはできなかった。そもそも、帰宅が24時過ぎだったから、もうその時点でダメじゃね? って気もするけれども、そもそも、家に帰ってからの習慣をしっかり作ろうという試みが、ここに来て失敗してしまったのだ。
やはり、飲み会はよくない。
いやなんというか、飲み会に一緒に行ってくれる友人がいるなんて、ダメブログ界の裏切り者だ、とか、そんな風になる気がする。何故こう最近、ダメブログ界を比較、対照として挙げるかというと、インプットのためである。何だろう、思うに、他者をうらやんで、蹴落とそうとか、そういう人たちを、僕は毛嫌いする。
と、同時にだ、結婚して、子どももいて、仕事も責任を果たし頑張っている話を聞いていると、「あぁー俺なにやってんだろうなー」って惨めな気持ちにさせてくれるし、「他者をうらやんで」という気持ちが分からないどころか、よく分かる。
だから、何というのか、非常に複雑な感覚を、最近もっていて、それが所属欲求的な何かがよく分からなくなっている。
表現の試しで書いてみると、「オレ教」を創立したいのかもしれない。――書いてみて、やっぱり馬鹿げてると思った、実感レベルで、やはりこれは違うのだろう。
何の話だ?
そう、だから、「嫉妬」「悋気」「ジェラシー」「妬み」といった感情は、人間らしいものだし、僕もよく分かる。この「分かる」という表現も、他者からすると、「お前なんかに分かるもんか。俺のこの苦しみは絶対理解できん!」という批判が成り立つのであり、そしてそれは絶対的に真実であり、非常に書きづらい部分である。
だから僕は、「そう、間違いなく、あなたが、この世界で一番悩み苦しんでいる人なのだよ」と言ってあげる。
そして、それは、僕の嫌いな言葉の一つである、「お前の中ではな」(プギャー)という、含意となる。
「君がそう思うならそうなんじゃない? 君の中ではね」
とか言われた、ものすごい腹立たしいと思う。けれども、僕はそれを自分自身でも思っている。では、何故他者から言われたら腹立たしいのか。それは、「理解する努力」を、相手が放棄していると感じ取れるからだ。
理解可能性
人はお互いを全幅もって理解し合うことはできない。と思いながら、
その理解しようとする行為は価値があり、放棄することは許されない。
と思う。
これは矛盾概念であり、永遠に解決することがない。え、別に矛盾してないじゃん? と思う気がするが、「真に理解することができないにも関わらず、理解することをやり続けなければいけない」ということは、何と苦しみに満ちた世界だろうか。
シーシュポスさんが岩を山のてっぺんまで運んで、転げ落とされて、また運んで――と、永遠に繰り返すようなものだ。
シーシュポスさんの話はギリシア神話ということだけれど、シッダールタさんも一切皆苦だぜ、と仰ってるし、何だろう、人生とか世界とか、人間存在って、どうしても矛盾の中を進んでいかないといけないよね、ということ、その「概念」は、僕はそれこそ8年? 10年以上も前から、理屈じゃなくて何となく思っていて、それなりに色々な経験や出来事があったけれども、結局それが今まで覆ることは無かった、そして今も無い。
何度も書いていて、使い古してしまったけれども、例えばエヴァンゲリオンの人類補完計画とか、ガン×ソードの鉤爪の男の世界とか、フルメタルパニックのタルタロスとか、「幸せな世界」とは、ATフィールド(絶対領域:人と人との境界線)を取っ払っちゃったモノであり、それって、グチャァァーと、自他の区別がなくなったもので、そもそも「人」として成り立たなくなることである。
(もう二つ例を挙げると、EDENのコロイドと、アイアムアヒーローのZQNも同じく、グチャーの表現の一つ)
ぐちゃっとした世界
いや、それが確かに、この苦しみに満ちた世界においては、正しいのかもしれない。でもでも、たいていの人は、そんな矛盾に満ちて、苦しい世界であっても、騙しだまされがあって、殺し合い、蹴落とし踏みにじられることがあっても、そんな世界が良いのだと、楽しいのだと、そこで生きていたいのだと、そう言い切ることだろう。
「でもそれって、単純に君が恵まれているだけなんじゃないの?」
いわゆる、底辺の人たち(この言葉も、リア充とか、中身のない曖昧な表現でしかなく、意味はないのだけれども)にとっては、世界なんて、壊れてしまえ、自分も含めて全部死滅してしまえ、と、自暴自棄になることだろう。
そういった危険な人を増やさないために、社会福祉制度がある。
弱者救済とか、かっこつけたことを政治家の方々はいうけれども、実のところ、裕福な支配層が身をまもるための戦略の一つなのである。
だから、ゴミ屑犯罪者はバンバン死刑にしてけばいいんだ、とか本気で思ってる人は――この思ってるというのは、当然、家族を殺された人は、犯人を殺してやりたいと思うだろうし自然な感情。ただ、制度として、ルールとして単純にゴミ屑を排除すればいいとしか思っていないとしたら、早計である。
頭がいい人たちの生存戦略は、非常に巧妙である。
一言誹謗中傷コメント
ので、話しがそれてるけれども、何が書いておきたかったかというと、上を見ても下を見てもきりがない
から、「嫉妬」等感情は、無意味だし、それに振り回された行動に時間を使ってるのは、もったいないと言わざるを得ない、ということだ。
というのは、他の方のブログなどについているコメントなどで、「きんもー☆」「童貞乙」「キモブタ死ね」とか、そんな一言二言書いている人たちの感情・行動原理が、全く理解できないということである、が、それって、ブログ界だけじゃなくて、リアル世界においても、やっぱりそういう人いっぱいいて、くだらないなぁと思うわけである。
しかし、反転同時思考的に、ああ、でも、いわゆるリア充の方々にとって、僕のこれら記事についても、「え、何こんな長文書いて無駄してんの? 外出て遊んだほうが楽しいじゃん?」としか思われないのだろうなぁと、別に寂しい思いとかではないが、結局、「きんもー^^」のコメントする人たちと、僕も同じなんだなぁという思いが生じた。
(’この反転同時思考は、こうやって書いてみないと、頭の中で混沌状態になり、非常にストレスになるので、そういった意味でも書くことは大事、なんだが、そういう混沌状態にならない人にとっては無意味でしかない)
主旨
で、まぁ、その、この記事の主旨としては、失敗してしまったルーチンの、立て直しをしなければ、というものだ。いや、厳密には、2時間可用ルールが適用され、失敗したわけではない。失敗したというのは、昨日の、「2時間ルールは使わないぜ!」という単発発言だけだ。
しかし、大抵、いつも、この体調不良もあいまって、習慣づけは失敗してきたのである。
取りあえず、今日の分の、音読筋トレストレッチは行った。頭が痛いが。
明日も、継続して、頑張っていこう。と思うのだけれども、何だか、自分への信頼度が低くなっている。先週土日を乗り切ったときに感じていた、ちっぽけな自己肯定感が完全になくなっている。そういう意味で、ルーチンはやはり失敗してしまったのだ。
ただ、むしろ、この、例外事象における対応こそが、今回の試みの最重要ポイントでもあったので、勝負はここからだ、とも思う。明日の自分の行動が、この先を決める。無責任で嫌いな言葉だが、「頑張れ」と言い残して終わりにする。
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