忍者ブログ
   
仲間になりたい本能と面倒さ
2016/11/15 22:35 | Comments(0) | イライラ対処
人間関係的調整関連の仕事と、専門的な仕事の両方が積み上がってきて、どうにも最近は調子がよくない。

どうしよう……と不安や焦燥がつのる。さらに、関係者に落胆させてしまうのではという申し訳なさも増していく。



といった、感覚になっていると、過労死とか過労死寸前になった人たちの記事とかニュースとか目に入り、いやあ、俺はまだまだ余裕なんだなぁ、とか、比較思考に陥る。

ダメだって。比較思考は百害あって一利なし。やめた方がよい悪習の1つだ。



しかしだ、疲れたー、ああ疲れたーとか、そんなこと書き連ねても、気分は晴れないし、未来の読者からも飽きられてしまうだろう。

よし、気分転換に何か別のことを書こう。


30代女性の婚カツブログ



婚カツ頑張ってる女性のブログを読んだ。
かなり面白かった。まず、描写力がすごいいい感じ。
普通に体裁整えたら一人称の小説になりそうだ。

ダメブロ界の有名な方で、IT派遣されて英語の勉強も頑張ってる方のブログも、その幼少時代の孤独感と虐げられた生活と人間観が非常にコンパクトに核心ついてまとめられていて、すげーなぁっと思った。

リンクもさせていただいてる、様々なニュースや思想にたいして、独自の自分の見解を、軽妙かつ鋭い切り口でほぼ毎日のように綴られているかたのブログも、本当にすごいと思った。
毎日のように書く、というのであれば、文字数とか僕も負けない自信はあるけれども、テーマがとにかく大人なんだ。きっと波乱万丈修羅場を潜り抜けてきたかっこいい方なんだろう。



その方がおっしゃっていたのだけど、僕の言葉で置き換えてしまうと、選択的コミュニケーションの重要性について、触れられていたのが印象的だった。


選択的コミュニケーション



いわゆる、全人格的な承認じゃなくてもいいじゃない、ということだ。

徒弟制度だと、そうはいかないかもしれないけれど、いちから百まで全部尊敬できる人、とか、それをメンターとか表現されたりもするけれども、そんな必要ないと僕は思う。

よく、世間的に好評な言葉で、みんなちがってみんないい、とかあるだろう。人は長所と短所もある、とか。

それはつまり、この分やはこの人、この場合はこの人、といったように、場面に応じた付き合い方を選択できてもいいじゃないかと。



人間関係の組織的な規定



組織、というのは、一定のルールにもとづいあ集団のことであり、集団とは、二人以上の相互行為が発する状態だ。

組織とか集団においては、中々、選択的コミュニケーションはとれないと思う。

難しいよね。物理的な時間を共有しているのだから、ある程度不都合や、不快感など、抑え込む必要があるだろう。


その点、ニコニコ動画は、非同期的なコミュニケーションでありながら、まるで<祭り>
に参加しているような感覚をコメントを読むことで味わえる点で画期的なのだ。



昔に比べて、昨今は人間関係が希薄になった、とかいう言説もある。
けれども僕は、別に今も昔も、コミュニケーションとりたい! って人々の思いは、別に変わってないと思う。ただ、その在り方が変わっただけだと。
そとそも、人の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、なのだ。



孤独が好きとは何か



でもさ、男は一人の時間が必要だ、みたいなことがいわれる。
俺も一人の時間が別にそれほど苦痛に思ったことはない。が、ここ、別に女のひとだってそうだと思うよ。ここでジェンダーする必要ないと思う

それはそうと、では、本能は仲間になりたいと、思うはずなのに、何故孤独を求める心性も発生するのか?



……いかにも、答えがあるかのように問いかけたが、まさかこんな話になるとは、書き始めたときに全く思っていない(笑)

行き当たりばったりのログである。


頑張って答えを考えると、そうさな、おそらく、仲間になりたいという本能以上に、人間関係が複雑で面倒くさいものになっちまうから、だと思った。


やれ暑気払いだお歳暮だ、忘年会だ、空気よめだ、相手を慮れだ、思いやれだ、ビジネスマナーだ、笑顔が大事だ、同調圧力だ、だ、と、人間関係の維持は、かくもごとき、面倒くさいものである。

拍手[3回]

PR

攻殻機動隊と自動目次機能とアメブロ批判
2016/11/14 23:55 | Comments(0) | イライラ対処
〇書くべきか、書かないべきか、迷ったら、書こうか。

・JQUERYで目次を付けてみた。
・攻殻機動隊のFPSをやってみた
・攻殻機動隊の実写映画が海外で公開されているようだ
・……あれ、思い出せない

攻殻機動隊のFPS

 昨日、さぁ寝ようかな、と思ったら、ツイッターか何かかの宣伝で、「攻殻機動隊のFPSついに解禁!」とか何とかあって、えぇ、そりゃあ、取りあえずやる以外に選択肢ないよね……と、眠気を吹っ飛ばし、クライアントのダウンロード、インストールを開始。いくら高性能のPCでも、ダウンロードは如何ともしがたく時間はかかる、ああこれ、24時過ぎるなぁ……と。

 で、インストール完了し、チュートリアルプレイして、チームデスマッチ5本ぐらいやってみた。キルレート(倒した数÷やられた数)1.1ぐらい。オープン間もないし、初めての人が多いからかもしれないが、意外に倒せたりもして楽しかった。しかし、FPSって殆どやったことないんだよな。TPSのあるゲーム(もうサービス終了してしまった)は、学生のころ相当たくさんやり込んだけれど。

 ちなみに、FPSは、ファーストパーソンシューターで、TPSは、サードパーソンシューターということで、プレイヤーの視点が違う。FPSの方は臨場感たっぷり、TPSは自キャラが見える状態で戦う。

 これが、もうちょっと昔に始めてたら、結構はまってたかも。
 映像きれいだし、声優さんとか映画とかアニメーションと同じで、それだけでテンションが上がった。

 しかし、正直な感想として、うーん、これ、FPSの意味あるか……? と思ってしまった。
 なんだろう、架空キャラで戦う設定ならまだしも、実際原作に登場する少佐とかバトーさんとかトグサくんとかイシカワさんとかを選んで使えるという胸が熱くなる設定なんだったら、そのゲームプレイ中キャラクターが全然見えないFPSの視点って、如何なものなのか?

 もう一つ書くと、物語を求める最近の僕としては、いくら頑張ってFPSを鍛えて強くなって、勝ったり負けたり白熱した戦いを繰り広げたところで、結局FPSの腕前以外に何も残らないんだよな。

 先日、ゲームだって、単なる消費じゃないんだぜ、とか書いたけれども、FPSとか格闘ゲームは、ちょっと今本気でやろうとは思えなかった。という心境は、何だか寂しいものだったけれど。いやぁ、ほんと、TPSのあのゲームは相当やったなぁ。そこで出会った人たちも、懐かしいなぁ、今でも覚えてる。めっきりまったく音信不通になってしまったけれど。ああそういや、あのころは、メッセンジャーとかあったんだな。あの文化も廃れちゃったんだなぁ寂しいもんだなぁ……と、どこまで懐古すりゃあ気が済むんだ俺は。

 ただ、そのゲームで出会った方で、何人か、僕のブログを教えたことがあったんだけれど、その中の一人だけ、「遠藤くんの記事って何か深いよね」とか言ってくれた方がいて、そんときは嬉しかったなぁ。

攻殻機動隊の実写映画


http://wired.jp/2016/11/14/ghost-in-the-shell-trailer/


 うーん、これも、何だか、期待できるような微妙なような……。
 折々に、映画のシーンを思わせる場面があって、おーこれ、実写だと確かにこんな感じだよねーという感動はありそうなんだけれど、これも、実写映画にする必要あるんだろうか、という感覚もあり……。

 いやいや、必要がどうとか、そんなの関係ないね、面白きゃそれでいいんだ。面白いこと、とても大事。
 しかし、進撃の巨人は、実写映画の最初のやつだけ見たけれど、やっぱり漫画の面白さ(感動具合)には勝らなかった。アイアムアヒーローも実写をやるんだっけ? それもあまり期待できない。

 そういえば、昔、アバターの映画みて感動した、という記事を書いて、ただ、実写映画だと、その「解釈性」ゆえに、二回見て感動するってのはなさそうだ、ということを書いたような気がする。
 本とかアニメーションとか、結構何回見ても面白いな、と思うものはある。
 それこそ、攻殻機動隊の映画もアニメも、何回みたか分からないほどだ。けれども、実写の作品を、何度も見ようと思うことがあまりない、ということに気づいたのが、そのアバターの映画がきっかけである。確かに、アバター、面白かった。けれども、2回見ようとは中々思えない。インセプションもすげー面白かった、でも、2回見ようとは中々思えない。

 ああ、でも、ワイルドスピードは2回、3回見たな。でもあれは、車がかっこいいからそれでいいんだ(笑)。

JQUERY自動目次作成

 この忍者ブログのテンプレート編集とか、HTMLとかCSSとか、反映されるタイミングにラグがあって、自分の設置したJQUERY(javascript)が原因なのか、単にラグで反映されてないだけなのか分からず、非常に導入に時間がかかった。そもそも、javascriptいじるのもコードみるのも初めてである。
 昔、サイト構築始めたころ、2005年ぐらいから、javascriptの技術はあったけれども、昔はブラウザクラッシュさせる原因だとか、重くなるだとか、制限が多くて、敬遠していた。しかし、もう最近は、ほとんどのブラウザで対応しているようだし、そもそもPCのスペックが相対的に上昇しているから、javascript程度で重くなるようなことは殆どないだろう。結構できること多いみたいだし、少し学んでみようかな、と思った。うーん、しかし、感覚で何とかなるかと思ったけれども、やっぱり基本はちゃんと学ばないと、オリジナルでカスタマイズするのは難しそうだな。ほんとは、各ページごとに各記事ごとの上部に目次を表示させたかったけれども、何だか、一回ループさせたらアウトプットできなくなって、おかしな表示になっている……。まぁ優先度低めの課題だな。

 その、関係ないけれど、「ブラウザ重い」で思い出したけれども、アメーバブログ、あれ、嫌いだ。アメブロ使っているお気に入り登録しているブログさんたち、結構多いから、書くのは大変心苦しいとは思いながら、別にそのブログ記事がいけないとかじゃないので書いてしまおう。

アメブロは重いし宣伝が多い

 広告が多いのは、無料ブログだったら仕方がないと思う。サーバー管理だって、お金がかかるんだ。だから、他のサイトにおいて、広告なしで使わせて頂いているのは、本当に感謝である。何というか、「無料」が当たり前、というような感覚の人がいるけれども、何するにも結局お金ってかかってるんだ。飲食店で水が無料だってのも、日本では当たり前だけれども、実際は店側が水道代のコストを支払っているのである。いやだからといって、飲食店で水で金とるのが普通だとは全く思わない、そうではなくて、「無料」といったって、実際はコストがかかっているんだ、という話し。

 だから、ブログで広告表示して、それで利益になるんだったら、仕方がないと思う(ほんとに利益になるもんだかよく分からんが)。

 だが、アメーバブログは、「広告を先に表示させている」(気がする)ので、嫌いなのだ。

 HTMLとCSSのWEBの記述さえ気を付ければ、どの順番にブラウザにロードさせるかというのは調整することができる。ので、アメブロは敢えて先に広告を表示させている、ように思えるのだ。しっかり検証したわけじゃないから、僕の環境でそう見えるだけかもしれないけれども、ただ実際、コンテンツの本丸より先に広告が表示されるのである。

 それってどうなんだ? と思う。有名人のブログとか、アメーバ使ってる人はこんな芸能人もいるんですよ! とか自慢したい気持ちも分からんではないが、正直、……(閉口)である。
 他にも、イイネ的な機能とか、ブロ友的機能も、アメブロ会員限定なところとか、囲い込み的なところもマイナス印象であったりする。



 まぁ、忍者ブログも、トラックバック機能がないし、カテゴリの一括変更もできなくて、「えぇっマジかよ?!」と思ったこともあったけれど。
 はてブロも使ったことあるけれども、やっぱり、機能面(安定性)としては、FC2が良かったかなぁ……。

仕事が上手くいかないが想定の範囲内

 あー、何だ、上に書いたようなことは、特に生きる意味を考える上であまり重要性が無い、確かに、無い。そんなことを、書いている暇があるのか、そう思った、思ったから、どうしようかなぁと悩んでしまったから、じゃあ、取りあえず書けば? と。

 しかし、仕事は不調期である、中々上手くいかない、人間関係的な問題が発生している。
 しかし、まぁ、想定内である、とか言っちゃうと、負け惜しみみたいなんだけど。

 ああ、そうそう、一つ思い出した、何だか、昨日とか、結構長々と書いてしまったものだけれども、
 地獄のミサワ、という漫画というか作家さんのキャラクターの中で、「キング」みたいなこと、自分いってるんじゃないかって、そう思ったんだ。苦笑したわなぁ。

キング
http://jigokuno.com/cid_84.html


「あ、俺常に俯瞰視点だから嚙み合わないんだね~」
「そっか~会話レベル相当落としたんだけど、まだ足りなかったかぁ~」

 とか、そんなような感じの名(迷)台詞の数々(笑)。

「意識高い系」という言葉が流行る前から、このキャラクター描かれてるんじゃないかな。このクリエイターさんもすごいよなぁ。絵というか、ストーリーというか、キャラ作りがすごい。人間観察というか、人間理解がしっかりしてる人なんだろうなぁって、思うって感想がそもそも「俯瞰視点」か(かっこにがわらい)。


 それはそうと、上手くいかなすぎて、苛々することもできずに、WALKMAN忘れたから音楽きくこともできずにトボトボ帰ったわけだけれど、ふと周りをみて思った。

 何だか、どの誰をみても、こんなブログみたいなへにょへにょなことを書いてそうな人はいなそうだなって。
 というか、白髪まじりのおじさんとかが、「生きる意味とは~」「自分とは~」とか、何か書いてたら、気持ち悪くないか?
 試しに、目の前の人、スマホいじってるけど、こういったブログを書いているとする。

 うわ、似合わな!!

 じゃあ、あの人はどうだ、ちょっと若い感じの、きりっとしたスーツのサラリーマンさん。
 うーん、やっぱり似合わないなぁ。


 と、気持ち悪いことやってて、俺は思った。やっぱり、仲間はいないなぁっと。
 寂しい、という感覚には不思議とならなかったけれども、何だかこれまで他者とに違和感を覚えていたのも、致し方なかったと思った。いやそれは、お前がちゃんと自分を開示してちゃんと他者と向き合って付き合ってこなかったからだ、という批判はもっともだろうけれど、やっぱり、それやらなくて正解だったような気がしてならない。


 まぁ、その、何だ、自分を押し殺して生きるってのだって、一つ、物語の選択じゃあないかと、思う。
 誰しも、ヒーローになんかなれないんだ。すぐさま書いておくべきは、一方で、ヒーローにはなれなくても、誰しも、自分という物語の主人公なんだ(キリッ)。


 はぁ……よくもまぁ、歳がいなく、そんな恥ずかしいこと書けるよなぁと自嘲である。

 でも、仕方がない、このブログの目的の一つはまさにそれである。思考感覚としては、「バカらしい」というものであっても、それは、一般的、現実環境からのフィードバックによる疑似感覚であって、本来的自己により発生した感覚ではない、という観点だ。

 敢えて攻撃的に書いてみれば、「きもい」とか「ばからしい」とか「おこちゃまだ」とか、そんな批判ばっかしてるてめーの人生は、そんなマシなもんなんかと。おめーの生きる意味はなんだ? 言ってみろ? あ? 「日々楽しく一生懸命生きてます」だ? 一生やってろ! 一生楽しく幸せな人生おくって、充実した余生や友人や家族に囲まれて穏やかな気持ちで死にやがれ!!

 ……あれ、何か、褒めてない? 攻撃的というか、白旗宣言の気が……。


拍手[3回]


生きる意味を考える
2016/11/13 12:04 | Comments(0) | 生きる意味
最初の、一文字目が、中々浮かばない。近況をメモしておこうと思いながら、ああ、昨日は何もしなかったなという罪悪感が芽生える。やはり、最近過去の記事を読んでいても思ったことだけれど、昼まで寝ているとか、睡眠のリズムが狂うとよくない。よくないから、昨日は23時ぐらいに床について寝ようと試みたものの、今度は眠れない。じゃあ起きて何か活動できるほど元気か、というとそうではなく、何となく体のだるさと頭の痛さに苛まれる。

 日課、とはできないだろうけれども、この睡眠のコントロールというのも、一つ生活の一部に組み込む必要がありそうだ、と思いながら、過去の経験は、その失敗の数々、積みあがった屍の無量さにあきれ返るわけなのだけれども、それでも、このタイミングで一度問題提起としよう。

直近の振り返り

・ある女性の婚活ブログを読んだ
・ガンスリンガーガールの漫画とアニメをみた
・アイアムアヒーローの最新刊21巻を読んだ
・四諦と八正道の復習をした
龍樹の中論についてのホームページを見つけた
・合気道についての動画を見た

 これぐらいかなぁ。インプットも、アウトプットも微妙だ。風邪の具合はよくなった気がするけれども、金曜日は帰宅が遅く寝るのが遅くなった(といっても25時ぐらいには床に入った気がするが)ため、昨日は、9時ぐらいには目が覚めたものの、全般的なやる気が起きず、日課をやってからまた寝て、起きて簡単な料理をつくっては寝て、何かしなければ、何か考えなければと思いながら、何だかだるいなと寝て、の繰り返しであった。結果、夜、全然眠れず、今もまた、何だか身体がだるい状態である。

 そうだ、こういうときはカフェラテを作ろう。まぁ、コーヒーがエスプレッソじゃないから、カフェオレなんだけど、カフェオレっていうと、子供の飲み物というか、味が薄いというか、そんな印象が強いから、カフェラテって言ってしまう。これが見栄とか虚飾という奴なのだろう。誰に対して、というわけでもなく、自分に対して、という寂しいものだが。

 ――。

 うん、旨い。こんな簡単に作れるなら、昨日も飲めば良かった。牛乳のストックもあったわけだし。これを飲むか飲まないかで、昨日の時間の使い方が大きく変わった気すらしてならない。まぁ仕方がない、過去の過ぎ去った時間を後悔することは、僕の信念とかポリシーとか考えとか価値観とかその他もろもろに反するものである。というのは、単に自分への言い訳なんじゃね? という反転思考は無視しよう。

 近々、ある方の新しい作品が公開されるということで、楽しみでもある。

アイアムアヒーロー21巻の薄さ

 新しい作品というと、アイアムアヒーローは、相変わらず面白く、先が気になるところだが、アマゾンのレビューにおいて、「作品自体はよいのですが、値段が変わらず21巻は薄っぺらいので、出版社というか提供側のもうけ主義的なのが見え透いて評価☆1です」というのがあって(文意は捉えたつもりだが表現は僕の言葉で置き換えてあり全然違うと思う)、本屋さんで手に取ったとき、僕も、「ああ、ほんと、薄いなこれ(笑)」と思った。
 レビューを読まなければ気付かなかったかな? いや、きっと、僕も思っただろう、それぐらい薄い。本棚に並べてみると、やっぱり薄い(笑)。いや笑いごっちゃないかもな。何だか、連載の書籍って、巻数によって厚みが違うことは知っていたが、それは、最終巻をちょうどいい巻数(10巻とか20巻とか)にするため、最終巻が分厚くなっているとか、そういうことが多かったから、何だか中途半端なタイミングに薄っぺらいというのは珍しいなと思った。
 理由は、そのアマゾンレビューさんに、DVDとかグッズの販売タイミングに合わせたのだろうと書かれていて、ほー、そういうものなのか、と思った。よりもうけを出す、効果的に宣伝するというのは、間違いなく資本主義の方針として正しいものなのだろうけれども、やっぱり、印象は悪いよな。結局、ファンとしては21巻だけ買わないとか、そんな選択肢はないわけだから、ある意味強制徴収である。(この構造で、すぐ思いつくのは、ある放送局である)

書くべきことと書くべきでないこと

 ジレンマというのが、二つの事象があって、どちらを選んでも問題を避けられない、というような状態を示す。
 で、テトラ、というのが、ギリシア数字で、「4」を指すけれど、テトラレンマというのもある。四句否定、とも呼ばれる。

 肉体と精神は同一なのか、肉体と精神は同一でないのか、肉体と精神は同一であって同一でないのか、肉体と精神はどういつではなく同一なのか。

 A、Aの否定、AかつAの否定、Aの否定かつA。……よくわかんねーよ!(かっこ乾いたわらい)。
 ううん、「空の論理」という、中観派の思想に関する本を読んでいたときは、おお、なるほどな、となったのだけれど、今自分の言葉でアウトプットしようとすると、意味を成していない。


 この、自分の言葉でアウトプットできない、という状態のうちは、それは「理解」とは言えない。
 多く、本とか、人の話しとか聞いていて、「ああ、なるほどね」という感覚になることはあるけれども、その殆どが、自分の現在までの知識や経験に置き換えて「納得」したように感じさせているに過ぎず、完全に新しい概念を構築している瞬間ではない。

 そもそも、僕が他者との会話をあまり重要視しないのは、そのインプット性においてである、と言うと、ちょっと堅苦しくて、そもそも他者を蔑ろにするような言いぐさであり、「もうお前と何て話ししてやらねーぜ!」とか言われてしまうから、この表現はよくよく検討すべきなのだけれども、でも、ちょっと待ってくれ、僕が言いたいのは次のようなことだ。

記憶の仕組み

 いつものごとく、天才とか頭のいい人のことは除外する。
 ふつーのひと、もしくは、頭の回転が僕のように遅くて悪い人においては、一を聞いて10を知る、なんて無理である。
 いや、それはそれでちょっと待って欲しい。1を聞いて10を知るって、どういうことだ?
 つまり、その9というのは、「自分自身で考えたこと」ではなかろうか?
 つまり、きっかけは、その1を話してくれた人なのだろうけれども、結局、その人が話をしているうちに、頭のいい人は、とっくに自分の頭の中で他の9を創造しているということなのだ。

 であれば、「他者との会話をあまり重要視しない」と僕が上で表現したことは、むしろ、皆さんの周りにいる頭のいい方々こそそうである、とはいえないだろうか。――足りないな、表現が非常に足りない、もう少し書き進めよう。というより、頭のいい人のことはどうでもいい。


 記憶とはどのようになされるのか。
 面倒だけれども、繰り返し想起することによって、短期記憶から中期記憶へ、そして長期記憶となってそれはときに価値観とか信念とか言われる状態に遷移していくのである。
 
 ここで、先ほどの、他者との会話、について戻るけれども、人と話すことの有用性はもちろん計り知れないほど大きいものだから言うまでもなくて、僕が上に書き残そうと思ったこととしては、「全く新しい概念」について、他者から一度なり二度なり聞いたところで、それが自分自身のインプットとは成りえない、ということである。

 やっぱり、新しい概念については、苦労して、一人で、何度も繰り返して、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、過去の経験や知識と照らし合わせながら、帰納的に否定を繰り返し、一つの名前を与え、概念としてインプットする必要があるのだと、そう思ったことを書いておこうと思ったのだ。


 ……ということを、例えば、口頭で表現したとしても、他者(ここでいう他者とは、自分も当然含まれる)に伝えることは困難であろう。こうして、文字として残すことで、少しばかり、結節点になるかならないか、という程度である。

仏典結集

 そう考えると、仏陀の言葉をまとめたスッタニパータとか、各地の弟子たちが集まって、あのとき仏陀はこうおっしゃった、あのように行動された、とか、長い時間をかけて話し合って、それをまとめ上げるという作業はとても困難で、大変なことであったのだろうと思う。
 人の記憶とは移ろいやすく、そのときの感情によってインプットが異なる場合もある。その人の用いる言葉の量や質、経験など、属人的な要素が多大に影響することだろう。

 ……と、ここまで書いて、あれ、僕は何をしようと思ってたのだ、と、はて分からなくなった。結集の歴史を調べようと思った? いや、あまり興味がわかない。何だっけ? 新しい概念をインプットするときの大変さと、その手順について考えようと思った? ああ、それは確かにメモしておこうと思った、けれど、何だ、指が動かない、頭が動かない、どうしたことだ?

 このとき、小見出し(H2)が役に立つ。


 ふむふむ、なるほど、書くべきことと書くべきでないこと、とな。


 そうそう、「理解」ということは何か、という復習をしようと思ったのだ。

理解すること

 人の会話に重要性を置かない、と敢えて、「人間嫌い」みたいな感情エラー(あってはならない、思ってはならないこと)の表現をしたのは、逆に僕が、他者の言葉や感情に対する感受性が高いことによる、デメリットを銘記する必要があると考えたからだ。

 いろんな本がある。いろんな言葉がある。いろんな人がいる。
 故に、その信念や価値観、感情といったものは多岐にわたり、色とりどりで複雑である。

 それに触れれば触れるほどに、僕は、「自分」というものがよく分からなくなっていく。いわゆる、八方美人的な、その場でその時その相手に対して「適切な」行動や言動を取らなければという制約を発するようになるのである。

 しかし、それは、往々にして決して「正解」なんて分からないものだし、すべての事象や対象において対応できるなんてことは不可能なのだ。
 だから僕は、これが初めてではなかろうが、今取り組むべきは、「自分」についての考察だと思うのである。

 ……ここで話を終えてしまえば、今までと何ら変わらないのであり、もう少し書き進めてみようと思う。さて、「自分」と何か、という、モラトリアム期の若者のような問いであるけれども、どこから解決の糸口を見出していけばいいのだろうか?


 それは、「理解」という概念が一つきっかけになるだろう。
 理解とは、ここまで書いてきた通り、単に、「ああ、なるほどね」となっただけでは不十分である。そのインプットしたことを、何も参照せず、いつどんなときも、不変に迅速にアウトプットできること、それが「理解」である。

 ではなぜ、その理解と自分とが関係するのだろうか。
 理解の総体が、自分であるといえるからである。

 人間とは、インプットとアウトプットの総体である。この定義によれば、人工知能(AI)もまた人間なのだろう。コンピュータは、基本的にインプットしかしない。もちろん、ディスプレイはユーザーに画像や文字をアウトプットしてくれるが、それは結局、コンピュータ内部での処理結果であり、アウトプット情報を用いるのは人間でしかない。人工知能がもし、人間に近づくことができるとしたら、その物理環境におけるインプットとアウトプットを繰り返し、相互行為の上発展させていくことができることに拠ることだろう。

 つまり、インプットしかできない人は、人ではない、ということである。
 すぐさま書いておくべきは、そのアウトプットというのが、決して、物理現実における、例えば対面コミュニケーションのみを指すのではない。別にこうやって、誰に聞かせるまでもなく、小さな辺境のブログにおいて書く行為であっても、それはアウトプットと言える。ただ、大学のレポートではないのだから、その他サイトや書籍の引用やコピーをしていてはダメだ。何にもよらず、ただ自分自身の思考のみで構築していく作業、それが理解としてのアウトプットである。

アウトプットすべきこと

 その理解というのは、いわゆる、知識、についての理解だけが重要なのでは無い。
 理解とは、生きるということに対する自らの思考の表現であるべきである。
 これは、宗教者としてのみ必要なものではない。
 最初に書いたある動画において、人が身体を考えて動かすときは、0.5秒のタイムラグが生じているのであり、武術においては、その0.5秒が致命的な遅れに繋がるという。考えて戦うのではなく、古い脳といわれる脳幹で、本能的に動くことができる方が圧倒的に強いということだ。

 僕は、決して、考えることがすべてにおいて優先される大切なことだとは思っていない。
 いやむしろ、その頭に生じる思考というものを嫌悪し、排除しようと試みたことすらある。そのうえで、やはり、「生きる」ということにおいては、その行為は無視できないものだと判断したのである。
 その相互結果として、自動筆記(これ、ヴィトゲンシュタインの流れで書いた記事があった気がしたけど、これ、シュルレアリスムの概念だよな)といった、むしろ思考を排したアウトプットを試みるものでもある。


 随分、「書くべきことと書くべきでないこと」という話しから長くなった気がする。そして、話しがそれていないだろうか。
 この疑義、これが結構大事である。アウトプットに任せてしまうと、どこまでも行ってしまうのであるが、それが果たして「正しい」方向に進んでいるかは分からない。それに、「待って、ちょっとまってよ~」というのが、「自分」という存在規定なのであるが、こう表現してしまうと、やはりそもそも、インプットもアウトプットも、相互密接に関連するものであり、分けられないものだと思われる。

空(シュニャーター)

 空(くう)とは、欠けていること、実体がないこと、を指す。しかし、無という概念とは異なる。ゼロは、確かに何もない状態を指すが、ゼロという概念は存在し、それゆえに1、2、3……という数量が存在する。
 すべては因縁(いんねん)、縁起といって、相互関連しあって存在するものである。真実不変の実体は存在しないが、だからといって、すべてが無であるというわけではないのだ、というのが仏教思想である。

 この概念に初めてふれ、「理解」※したのは、10年以上前になるけれども、これはやはりキリスト教とは全く異なる概念だと思う。
 本来、すべての宗教は人が幸福に善くなるために存在するものだと思うから、キリスト教もユダヤ教も、仏教もバラモン教もジャイナ教も、ゾロアスター教も、ヒンドゥー教もアニミズムも、そのすべてを否定する気はない。
 ただ、宗教については、何か「絶対的な概念」を尊重しそれを信仰するという在り方が多いと思われる。それを否定する気もないのだけれども、どうにも、それについては、僕の頭の在り方は、近しくなれないようであるというのが、10年ぐらいの結果として分かってきた。

 死後の世界だって、あった方がいいかもしれない。
 けれども、無かもしれない。そうそう、その死後は「無」である、というのも、相当に宗教的な考え方である、というある記事というかコメントを読んで、あーなるほどなぁ、と感心したのは最近のことだった気がする。

 その死後の世界とか、精神と肉体とは同一かどうかとか、そういうことについて、シッダールタさんは一切答えなかった。そのことを、「十無記」などと言われるそうだ。(前出の「空の論理」より)
 なんだか、潔いと感じないだろうか。分からないことは分からないんだぜ、という。尊者、真理に到達した人と呼ばれ、持ち上げられた人は、ついつい、思ってもないこと、思い付きで何か言いことを喋ってしまいそうである。でも、分からないことは分からないと、沈黙を貫くのである。この行動指針とか、見習うべきでなかろうか、ついつい、上司とか、親とか、立場が上の人は、分からないことを恥だとして、適当なことをその場しのぎで言ったりしがちだけれども、辞めた方がいいってことだ。すぐさま書いておくべきは、やっぱり、その立場において知っておくべきことってのはあると思う。例えば教師という立場において、勉強のこと何も知らないってのはおかしいわけだ。

※空の論理のことを、僕が学者的に、一般的に、正しく理解できているという傲慢では決して無い。ただ、ここまで書いてきた「理解」という定義――すなわち、自分の言葉で何も参照せずにアウトプット可能であったという事実――により、理解している、と表現した。

今後の指針

 御託は分かったけど、だから何だって言うんだ、と、未来の自分に言われそうだ。
 よく考えると、来週、再来週の休日はずっと予定が入っているのだった。こうしてじっくり思考に時間をまわせるのは昨日と今日ぐらいだった。そう考えるとやはり後悔が……いやいや、落ち着こう。

 とにかく、何か、数量的なやるべきことを定めておく必要がある。それを一般的に目標と呼ぶ。最近ブログを再開されたある方は目標を定められ、着実に成果を出しているようで、何とも焦燥感である。いやはや僕も、このブログ自体を、例えば、月の半分以上は書きます! とか目標を出していれば、十分すぎるほど達成であり、自己肯定感にひたれるはずだったのだ。
 だが、そんなことどこにも書いてないし、思ってもいない。むしろ、このブログは息するようなものだ、まぁそれはそれでいいのかもしれないが。
 そういう意味だと、日課を何とか、危機を乗り越え続けられているのは、プラス要素と言えるだろう。最近、暇があれば、「あ、ルーチンしなきゃ」と思うようになってきたから、いい感じと言える。しかし、カウンタみると、まだ26日なのか。次の危機はおそらく3か月後ぐらいになるだろうな。

 この前作ったライフチャートみても、長期的過ぎていまいち実感がわいてこない。

 これだ、これなんだ。なんというか、主体と客体という問題があって、このあたりがキルケゴールさんの素晴らしい業績なんだけど、客体的な問題(日本の政治とか世界の貧困だとか環境問題とかとっても重要な問題について)について考えているうちは、主体、自分自身の問題の逼迫した重さ、苦しさというものから少しばかり逃れることができるようになるのだ。
 ジョルジュバダイユさんの言う、「すべての芸術は死の恐怖からの逃避なのだ」というのも、言いこというよなぁと思わざるを得ない。

 空(くう)がどうたらとか、理解がどうたらとか、まぁしたり顔で語ってきたところで、それが何の主体的問題に役に立つのだろうか。(いや当然、役に立つとかいう次元ではなく、そもそも、自分自身についての定義をなさなければ、主体的問題も語りえないのであるから、必要なことであるのだけれど)

 だからだ、これから髪を切りに行って、食料を幾ばくか買い足して、お昼ご飯を何食べようかとか、部屋の掃除しなきゃとか、シンク周り磨きたいなとか、洗濯……は朝したからいいか、婚活するかとか明日の仕事の進め方……そりゃどうでもいいや、そろそろ何か「作品」に対しての行動したいなとか、……そういったことの積み重ねが、人生そのものだろう? と。

思考による逃げ

 物語が必要だ、と書いたのは、重大な知見の一つに思われる。

 自己卑下に苛まれて、自分はダメな奴だと言い聞かせて余生を送るのも一つだし、ポジティブ思考で何でも挑戦してやる頑張ってやるぞ! とキラキラ輝くのも一つだし、様々な物語がある。

 物語と書くと、またしても何だか、他人ごとのようで、客体的なことのようだけれども、これはそうではなく、主体的な物語を選択するべきだ、ということである。

 取りあえず、過去の様々なできごとなんて、別に関係ないだろう、と同時に、それは無かったことでも無駄でもあるまい。そのすべては事実であり、そして、重要性は帯びないのだ。重要性があるとしたら、その選択性においてである。






何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも 失われていくのか


 何のために生きるのか、何が大切なのか、何が必要なのか、……様々考えていくその瞬間も、時間は過ぎ去っていくのである。

がむしゃらに生きること

 かといって、ただ、がむしゃらに、日々の生活を忙しく、必死に生きるというのも、また違うと思う。(もちろん、これは一つの選択に過ぎず、全人類普遍のものとは思っていない)

 いい人生だった。我が人生に一片の悔いなしと、そう言い切れるような、積み重ねをしたいわな。

 そのためには何が必要か。ぱっと思いつくのは、

・仕事の成果
・人脈の多さ
・作品の数
・恋人の数
・子供の数
・ブログのPV
・趣味の数
・料理とかできることの数

 とか。ブレーンストーミングのため、批判せずに書いてみる。しかし、何か怪しいものも含まれてるな(笑)。嘘くせぇと自分でも思ったりする。

 何だろな、こうやって具体的にしようとすると、すぐに頭によぎるのは、「まぁ、俺別にいなくても世界困らないよな」という感覚。これが結構つらいものなのだ。
 それゆえに、若いころは、「恋人」という概念に結構期待して縋ったりしていた。この辺りが、「最終兵器彼女」という作品の面白いという感受性から悪害であるとの感覚への変化でもあるが。
 そりゃ、自分の遺伝子残せたら、それだけで生物としては勝ち組だよね。多けりゃ多いほどよいだろうよ。その結果の社会システムだ、というのもまた大分納得させられるものだ。

 いや、これはぶっちゃけ真理なわけであり、どんなに高尚な孤独の思想をうたったところで、生物論的にこられたら太刀打ちできないわけだ。故に、ここら辺、戦っても仕方がない分野である。それがいやなら、さっさと婚活して子供つくって養って死ねばいいのである。それが生きる意味でした~という、孫に看取られて死ぬ瞬間に、「ああいい人生だった喃」と言えば解決なのである。

 はたまた、人類の歴史に残る偉業を達成するか。歴史の教科書に載るようなことを成し遂げるのが生きる意味だというのか。

 それぞれ、事実だろう。

 それは、間違いなく、「意味」だろう。


 しかし、負け犬と謗られても、卑屈と罵られようとも、僕は、それらが、「自分の意味だったのか?」という疑問を投げかけようと思う。

 くだらない例えをもちだせば、鎌倉将軍の源頼朝の嗣子は、三代将軍実朝が暗殺されて途絶えたのではなかったろうか(特に調べてないし、他にも子供がいたような気がするから現代まで脈々と血が受け継がれているのかもしれない)。子孫を残す、という意味において、それは、一代だけ残せれば「意味」として感じられるのか、何百年とお家を存続させることが「意味」として感じられるのか、それもそもそも、その人次第ではなかろうか。

 歴史の教科書に載るという意味では、頼朝さんを知らない日本人は殆どいないだろうが、今後グローバル化がますます進んで、国家という概念がなくなるような未来がきたときに、「統一された世界の歴史教科書」においては、紙面の都合上掲載されない人たちがますます増えていくことだろう。専門的な学術書の一部には、自分の名前が掲載されているかもしれない、でも、そんな、ごくわずかな人にしか知られないような状態が、その人の本当の生きる意味、満足に繋がったことなのだろうか。もちろん、そのことをその人が知る由はないのだが……。

諸行無常

 この世のむなしさについて、適切に表現した最古の現存するものとは、やはりシッダールタさんの言葉と生き方なんじゃないかと、僕は思うので、これらについて、もっとインプットと「理解」を深めるために時間を使いたいと思う。

 この前のライフチャートにおいて、80歳を終点にしたのは、厚労省の生命表から平均余命を考慮してのものだったけれども、シッダールタさんの入滅も同じ歳だからというのもある。
 
 対照理解として必要になるのは、当然キリスト教やイスラム教のインプットも重要だ。専門性とは視野狭窄になることではなく、その普遍性の追究と思うのだけれど、まぁこれは理想であって、凡人の自分がどこまでできるかは分からないが、とかく、自分との折り合いをつけられるレベルまでは追究していく必要があるだろう。



 ので、上に挙げた、仕事とか人脈とか婚活とか、それはまぁ一つの手段として脇に置いておいて、やはり、信念や価値観といったものの強化を、しばらくの目標にしよう。目下、5年ぐらいのスパンとしよう。

 ああ、僕は、あれだな、面接なんかで、「尊敬する人物は誰ですか?」「生き返らせられるとしたら誰を生き返らせますか?」という問いに非常に悩んでしまうだろうが、今のこの感覚で言うと、シッダールタさんです、と素直に答えられそうだ。
 
 そう、だから、思うに、さっきの「歴史の教科書」問題じゃないけれど、名前が載るというのに、大した意味がないと、やはり僕は思っているのだ。
 重要性があるとしたら、その「考え方」とか、「教え」というのが残っていることの方が、よほど価値あることじゃあなかろうか、と。

 そうなってくると、話しが繋がってきて、やっぱり、「物語」って大事だよな、となる。
 その人の、誰か知らない人に対しても、心に突き刺さる、魂魄を揺るがすような、そんな物語が紡げたら、それは存在意義があったと、いえなかろうか。





 ……全然足りない。まだまだ表現すべきこと、書いておくべきこと、考えることがたくさんある。
 が、完全に時間オーバーだ。仕方がない、また夜にでも時間があれば続けたい。

拍手[2回]


苛々の落ち着け方と過去記事の意味
2016/11/10 22:12 | Comments(0) | イライラ対処
直近三日間ぐらいの苛立ちが今日、最高潮に達した!
 しかし、帰ってきたぞ、俺は、帰ってきたぁ! 帰り、いつもvolume10ぐらいのWALKMANからカナル型イヤホンを伝って流れる音楽を、倍のvolume20ぐらいに爆音にして、ユーロビートとかハードロックを流してきた。
 周囲の音が一切聞こえなくなって危ないことこの上ないが、この方法、初めて試したけれども、もうどうしようもなく心がざわついているときは、有効な手段な気がした。耳の鼓膜へのダメージはプライスレスだ。

 そんな狂ったテンションのまま風呂に入って、ルーチンをこなす。うん、だんだん、少しずつ落ち着いてきた。しかし、何か、何もする気が起きない。……酒だ、酒をもってこい! こんなときは、キンキンに冷やしたグラスに、大きなロックアイスを転がし、ビーフィーター24を注ぎ、グレープフルーツジュースを入れ、最近購入した金属製のちょっとカッコいいマドラー(100均だけどな!)でステア。そして飲む。うん、美味い。落ち着いてきた。

 ログ、ローカルな日記を掘り起こす。こういうとき、探してみるのは、同じ月の何年か前の日記。2004年までさかのぼった。
 やっぱり楽しいことをしなくちゃ!
 人生、たった一度の人生、誰のものでもない。ボクだけの人生。幸い、ルックスも、運動能力、頭の回転だって悪いけれど、僕にはこの、“思考”がある。なんだって可能にする思考が。
 勉強とは、頭を鍛えることだ。大学に行くために勉強しているんじゃない。
 自分が一番したいことをする。これこそ生きる意味ではないだろうか。
 それがないから困っているんだって? そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。
 生まれたとき“オギャー”って泣いたでしょ?
 おっぱい飲みたいって思ったでしょ?
 生きたいって思ったでしょ?
 それが人間だ。 これはみーんな同じ。
 人間の成長とは、欲望の変質の過程といえるのかもしれない。
 食べたい、寝たい、排泄したいというだけの欲望から、次第に認められたい、愛されたいというものに変わっていくのだ。

感情はないけどやっぱり自分

 10年以上前に書いた記事に、ちょっと勝てないと思ったよ。
 いやぁ、いいこと書いてるじゃないか。え、そうでもない? そうかもしれない。でも、少なくても、10年後の俺は、過去の君の記事が、面白いと思ったよ。
(――なんて、書き方まで似てきた気がする!)


 うん、これ、同じようなことが、つい最近も頭をよぎっていた気がするけれど、一週間前に書いた記事と、やっぱり10年前に書いた記事では、重みが違うよ。その重みってのは、書いた瞬間の心の傾けようという意味ではなく、今の自分に跳ね返ってくるずしりとした重み。


 それでいて、一応成果をだしているという、結果もあるから、本当に頭が下がるもんだ。

 今の俺はどうや? なんかやってるのか? がんばっとっか?



 その成果というのが、だいぶ、疲れ果てる原因でもある、というのは、結局、赤門の東京大学ぐらいじゃないと、「頑張ったね」とはならない、という事実。比較してもきりがないのだけれど、自分として頑張ったとしても、ああ、その程度なのね、的な。この感覚、伝わるだろうか、はっきりいって、これ、中卒だろうが何だろうが、このループにかかると、「成果」すべてが無価値になってくる。

 小説書いて、アクセス44人ぐらいあって、うれしーな、とか書いている。
 この今のブログのアクセス数から考えると、いや確かにすごいんだろうけど、その数字のしょぼさ、ってのは、もう明らかである。いかに、過去はネット利用者も少なかったとか、そんな説明をいくらしようとも、過去の武勇伝なんて、誰もすごいとは思わない。

頑張ることへの心労

 と、さも、今考えましたーといったように書いているけれど、恐らく、いや、過去記事読んでいた確信したけど、こいつ、絶対同じこと考えてた、思ってたと思う。

 
>自分が一番したいことをする。
>これこそ生きる意味ではないだろうか。
>それがないから困っているんだって?
>そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。

 この流れの記載が、その証左であろう。
「楽しいことする、やりたいことする、それが人生でしょ」
「うん、そりゃあ分かってんだけど、何だかやりたいことが見つからないんだよね……」
「そんなわけないじゃん! 人間、必ず欲求ってのがあるんだよ!」

 と、そんな脳内会話だったのだろう。


 というか、ほんと、笑っちゃうぐらい、寂しい人間だなぁ。このブログ記事は、いま一応公開してるけれど、上の引用記事って、ほんと、どこにも公開する気も、そんなこと思ってもいなかったわけだ。よくまぁ、飽きずに、ホント書き続けていたもんだ。

駄文選手権

 うん、何だか、全く自慢にならないけれども、先日書いた、「俺、くだらないことなら永遠にずっと書き続けてられるよ」ってのは、あながち嘘じゃなさそうだ。何やっても一位になれない中途半端な人間だけれども、何だか駄文選手権でもあったら、全国大会とか世界大会に出場してもいいせんいくんじゃなかろうか(かっこわらい)。


 いやぁ、その大会、いったい何を基準に審査するんだろうな。
 書いた文量?
 経験年数?

 それとも、1時間以内とか、決められた時間にどんだけ面白い文章書けるか、とか?

 最初に決めたテーマから、関連性は損なわさずに、どれだけ全く関係ない思考に展開できるか、とか。

 惨めさとか可哀そうさをどれだけ醸せるかとか。



 ――ものすごーく、生産性ない大会だなぁ(かっこわらい)。

でも落ち着いた

 まぁ、この、記事の中身自体に一切意味はなくとも、一つ事実として実感として書けるのは、今、ようやく落ち着いたよ、ということだ。(酒のおかけじゃね? いや、違う、やっぱり、こうぐだぐだ書いたことによる効能と思う)


 とにかく、もう苛々して仕方がないときとか、何もやる気が起きなくて、でも眠くもないようなときは、

・無心でルーチンをする
・爆音で音楽を聴く
・過去ログをあさってみる
・くだらないとか気にしないで書き続ける

 と、対応してみるのは如何かと、提案しておこう。


 いやでもさっきまで、本当に、イラついていたんだ。
 過去中学か、高校かぐらいに、「おめーマジ使えねーから消えろよ」と言われたのに匹敵するほどムカついてい……いや、うーん、それらと比べると、全然大したことない気もするな。


 このやり方、あんまり好きじゃないんだけどなぁ。いわゆる、他者とか、過去とかと比較して、「ああ、今って結構マシじゃね?」的に慰めるという方法。有効なのは分かるんだけど、何というか、好きじゃないんだよな。何か、「真理的」じゃない。うまく表現できないが、よい方法とは思えない。

 じゃあ、爆音で音楽ながして耳を悪くするのがいい方法なのか、と言われると、それは違う気もするのだけれど……。


 でも、この、比較思考は、常に自分より下の人間を探し続けるとか、逆に、常に自分より上の人を妬み続けるとか、落ちぶれていく原因だと思うのだ。
 ようは、バランスよく使ってみましょう、という、くだらない結論でしかないのだけれど、できるだけ使いたくないと思うわけだ。





 ……しかし、落ち着いたはいいが、やっぱり、10年前に思った通り、何だか、何をやりたいか、やっぱりよく分からない。

拍手[2回]


逆算思考とコメント等への感謝
2016/11/10 08:07 | Comments(0) | 思考及び書くこと
逆算の思考とは、ある目的を達成した瞬間から遡って考えることである。

このブログの目的、生きる意味を見つけた、その瞬間をイメージする。

その意味は、揺らぎなく、確定していて、暖かく、希望そのものであり、信念となるものであり、すべての行為の準拠点であり、喜ばしいものであり、永遠性があり、到達点である。



僕は、傷つき、涙し、悩み苦しみ、怒り、憎しみ、時に倒れ、諦めそうになり、それでも立ち上がり、そこに到達した。

いま僕は、最高の状態であり、これからもずっとそうあり続けるのである。

ここに僕は、至上の最大の深遠なる意味を得たのだ!

世界は輝いて見え、行き交う人への惜しみ無く止めない感謝が溢れ、呼吸の瞬間、朝目が覚めたこと、心地よい眠気、他者の語る言葉はまるで素敵か心踊る音楽のようで、沸き立ち希望に溢れ、何にでも興味が湧き、楽しく、今生きているこのこと自体が最高のものだと信じ感じる。



ああ素晴らしきかな!

ついに、僕はたどり着いたのだ!!

世界は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのだ!




悟りゲーム



二人以上の人の会話があったとき、それは言語によるルールが、暗黙の規定が発生するというのが、ヴィトゲンシュタインさんの言語ゲームの考え方であり、

それを応用して、ある宗教学者さんが、仏教の悟りというのは、それは悟りゲームなのだ、と言っていた。

仏陀により示された悟りの境地、しかし、そのサンガに加わる修行者たちは、その悟りというのを知らないのである。



悟りは分からない。
しかし、悟りというのは素晴らしいものであるとして、厳しい修行を投げ出さず、励むのである。




まだ到達していない真理に到達する、知るというのは、この悟りゲームのように、一見すると不毛のようで、一度そのゲームに組み込まれたものたちにしたら、それは絶対的なルールになるのである。


僕が冒頭試みた、逆算思考は、このゲームから抜け出すための唯一の方法かもしれない。

最高の状態。
真理とかいった言葉。

よくスピリチュアル系のブログにおいて散見されるものだけれども、これが多いほどに僕のイライラというか、虚しさというか、つまらなさ、胡散臭さというのが飛躍的に上昇する。


僕が単に、駄文をいつまでも書き続けられる能力があるから、そう思うだけかもしれないが、とにかく、真理とか最高とか幸せとかそういった言葉を使いたくなるのは、思考停止だ、と思う。

仏陀さんは、もうその存在が神がかっていて、悪意ある人の問いかけにも即座に臨機応変に答え続ける力があったから、ああ、この人は本当に悟りという状態にあるのだ、と、誰しも信じさせることができたのだろう。

対機説法という、その相手に合わせて分かりやすい例えを用いて説明するというやり方の徹底こそ、その人の信頼性に繋がるのだと思う。

だから、とにかく私を信じなさい! 神を信じなさい! そうしたら楽園に行けるのですよ! というのは、思考停止で、興味をもてないのだ。




懐疑主義との対抗



思考停止、というのは、何だかかっこいい表現っぽいが、これもまた危険な言葉なのだと、書いておいた方がいいかもしれない。

例えば、うえで書いてきた流れからすると、英語の勉強すればグローバル社会でも活躍できるよ、という標語があったときに、それもとにかく否定し続けるのだ。英語は、文法とか語彙力じゃあない、何を話すか、の方がずっと重要だよ、とか。

資本主義は社会主義にまさる、といったって、南北経済格差とか過労死とか色々問題起こってるじゃあないか、とか。



確かに、思考停止は危険なのだけれども、それは逆に、なにもかも否定し始める、懐疑主義に突如変貌することがあるのだ。

僕は結構、いまでも、これの呪縛から逃れられていない気がするものの、昔はもっとその強制力はきついものだった。

呪いの解除



どうやってそれから逃れたかというと、いやまぁいまでも完全に逃れられてはいないけれど、とにかく、その懐疑とは、反転して、その懐疑自体がまさに真実実感として生まれ生じているではないか、という考え方である。

懐疑主義という、そのあり方に、名前を与えてあげたのだ。

固有名詞を帯びると、それはひとつの概念となる。

その止めどない思考や表現のうずにおいては、どこまでいっても、それは現象であり、行為の一つにすぎず、終わらない旅、無限ループになる。


それを、概念かできれば、抽象化できれば、ひとつの存在として規定できれば、表現によって、到達点がみえてくるのである。


コメントなどの感謝



以上により、僕は例え周囲にとって意味がなかろうが、他のサラリーマンブログのように小遣い稼ぎの意味がなかろうが、拍手やコメントがなかろうが、

思考に、意味を与えるために、書き続けなければいけないのだ。それが無限ループだったり、トートロジーになっていると思わない限り、その行為自体に名前を、概念を与えることができるまで、繰り返しインプットし、アウトプットしていく必要があるのだ、

と、昨日書こうと思っていたら、拍手もコメントまで頂けた。
本当によい人たちに恵まれたなぁ幸せだなぁ嬉しいなぁ、と冒頭に戻る。

風邪の具合はよくなく、今日もまた、なかなか上手くいかない可能性、問題が待ち構えているけれど、精神的にはきっとなんとか乗り越えられそうである。


人はやはり、こうやって、支えられて生きているのだな。素晴らしきかな。

しかしだ、この、人にたいしての希望と絶望というものも、また今度メモしておきたいけれども、というのは、さわりだけ書けば、物理時間の共有性をどう対処するか。


温かい家庭



それにしても昨日の記事は長かった。もう少ししたら一万字に到達しそうだった。
毎日一万字書けたら、作家としてたいしたものだと、小説家を目指す何方かが、仰っていた。

それはいいのだが、まぁ、一時間程度は、お酒を飲みながら、他のことをしながらもかかっているのだ。
まぁ、その半分の30分でもいい。
その時間をだ、物理環境を共有する、例えば、ルームシェアの親友でも、恋人嫁でもいいが、毎日毎日話していたら、それどうなんだということである。

口頭で愚痴っちゃうと、すぐ消えてしまう。
第一の問題がこれで、話すことで一時的な感情は抑えられるかもしれないが、残らないから、読み返すことができない。

もうひとつは、口頭言語の限界性で、昨日のものも、今日の記事も、口頭ベースの筆記ではあるけれど、例えば昨日の記事を音声にしたとき、どれほど伝わるかってこと。
先日ついぞ思い出せなかったが、メラビアンの法則、言語以外の情報も大事な要素だよ、というのも関係するから、疲れてイライラした顔をしていたら、ますます話の中身が伝わらないだろう。

さらに、もうひとつはタイミング性。
対面コミュニケーションは、相手の時間を、言葉は悪いけど、奪う。
文章、メールとかは、いってしまえば、相手のペースで読むという行為をしてもらえる。というのは、自分の伝えたい情報も発信していながら、読むという行為は相手が主体なのだから、相手としては、自分がしている、という感覚を保持できるのだ。これを、自己コントロール感という。

となると、家に帰ったら温かい家庭が、というのは、中々よくよく考える必要がある。


思考との決別



家に帰って、いらいらを持ち帰って、愚痴をいうのは得策ではないということだ。
子供の寝顔をみて癒されるのでもいい、綺麗なお嫁さんの日常会話を聞いて和むのでもいい、その家庭自体がマイナス感情のリセットの場であるべきであり、決して、感情の発露の場であってはならないのだ。

にもかかわらず、家庭内暴力とか、まぁそんな問題はあるのだけれども、全く、、悲しいことである。


ゆえにだ、もし、家庭を望むとしても、このような記事は、どこかしら価値が残るのではないか、とすら思うのである。

例えば、ダメブログ界のエキスパートたちは、その多くがオフ会などでも面識があるという。しかし、これは完全邪推だけれども、多分、そのブログにおいては日々の口のようなものを書き連ねたとしても、実際対面であったときまで、愚痴の言い合い合戦みたいなことにはならないのではないか。

もっとふつーに、散歩楽しんだり、お酒のんで笑ったり、相互行為としてのコミュニケーションを楽しむのではないだろうか。

だから、ぼくのこの記事群からすると、なんとも随分愚痴愚痴して話が長いやつだと思われるだろうが、あまりこういったことを話すことはないのである。

逆に、これも試してみなければ分からないという発そうより、機会をみつけては、こういった思考や価値観や信念といった話を織りまぜてみようとはしているが、
なんとも悲しいかな、そんなことに付き合ってくれる人はいないのである。
(たまに会った友人とかはいたとしてもだ、繰り返しになるが、こんな話に毎日付き合ってくれる人がどこにいる? 物理的に無理だ。専業主婦の奥さんだって願い下げだろう)



だから。
ほんとに書きたかったことだけど、僕はなんか、ほんと、一般的には、普通の考えの人たちからは、気持ち悪いとか言われちゃうけれど、
物理世界の人たちより、毎日のようにこのブログを開いてくれて、わざわざもうワンクリックして読みましたボタン押してくれる方々を、本当に嬉しく、大切に思うのである。

すぐさま書いておくべきは、あぁ、もう時間がないけど、
すぐ、批判されるのは、いくらネット上で素晴らしい人にあえても、やっぱり現実世界を生きていることには変わらないから、いざ君が病気になったり問題を抱えたとき、そのネットの人たちは助けてくれるのか?

とか、そんな批判がとんでくる。

だが、病気なったら医者にいくだろ?
素人の友人が助けてくれるか? 不法医療行為じゃね? とか、そんなくだらないことはともかく、なんというかな、その、金があれば大抵解決する時代になっちゃってるよね、とか、それもちょっと暴言だし、

そもそも、別に物理環境の方々全部無価値とか、そんなこといってるわけじゃなくて、そりゃもちろん、多くの人に支えられて生きてるわけだけど、

なんというのかな、きっと、足りてないな、伝わらないな、いや、伝えてどうする、違う、この伝えるというのは、恐らく、明日の僕にたいして、伝わるかどうかということだろう。

もう現時点性として書き続けられないから、この記事で書ききれなかったことを、紡いでほしいと、そうした願いなのだろう。


















拍手[3回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング