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想像上の秩序で膝を叩く
2016/12/17 19:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「自分の感じていることを明確に文字にされると感動するね」
今年の目標その2

ハンムラビ法典もまた秩序である

 腹を抱えて笑った。
 いやぁ、狩猟採集民の生活の分析も面白かったけれども、まだまだ面白さは加速しそうである。




 最近の、というよりもこれまでの中で買ってよかった本のベスト10ぐらいに入りそうだ。
 これを紹介してくれた方には感謝感謝である。

 いやまさか、こうした学術書? といっていいのか分からないが、歴史学的な本で、笑わせてもらうとは思わなかった。
 いや、端的に書けば、紀元前1776年のハンムラビ法典と、紀元1776年のアメリカ独立宣言との対比が秀逸だった。
 そもそも、同じ1776年を対照させるアイディアが面白い、のだけれども、結論的に、どっちも「想像上の秩序」であるという説明が、小気味よいほど面白かったのだ。

人間は自由か平等か

 ハンムラビ法典は、神に認められたハンムラビ王が、上層自由人と、自由人と、奴隷および、男女によって人を分けている。
 一方、アメリカ独立宣言は、同じく神(造物主)によって、生まれながらに自由で平等であると謡われる。

 でも、本当にそうなの? 生物学的にどうなの? という投げかけ。

「我々は以下の事実を自明のものとみなす。即ち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。」

 アメリカ独立宣言を、生物学的に再解釈した文章。これがどう面白くて、僕が大笑いしたかは、P.133~から読んでみる必要がある。

 とにかく、僕は思った。
 つい先ほどまで、「あー、こんなくだらないこと書いてたりするのは、きもいって思われるんだろうなぁ」とか思っていたけれども、この本の著者の方がよほどキモチワルイじゃないか!(失礼? いや、敬服である)

傲慢だけれども気持ちいい感覚

 正直なところ、これらの表現類は、僕にとって真新しさはなかった。
 というよりも、むしろ、「ああ、よく書いてくれた」的な感覚である。傲慢である。しかしながら、ちょっと歴史の勉強が好きでしてきた身としては、「人類って、そんな素晴らしいものだろうか」、という感覚がずっとあったのだ。
 自由と平等。美しい国、ああ、そういった表現は素晴らしいし、それに根差す社会システムもまた批判されるべきものではない。

 けれども、どっかしらおかしくないか? という感覚。「法律」は、絶対的なものだと、現代特に日本人は思っている。けれども、その法律なんて、その時代それぞれで変わってきたものだし、今この時点でさえも、国会では法改正の議論がされている。
 法律とか憲法とか、そうしたルールというもの、それ自体が「共同幻想」的(みんなそれが正しいと思うから正しい)なものに過ぎないのではないか、という感覚。

 その感覚は、「正しい」かどうか別として、「危険」なものだから、多くの人に忌避されるし、「お前は何をいってるんだ?」「ガキだな」「危険な思考だ!」と排除されることとなる。

 賢いエリート層は、そんなこと気付いたうえで、一般大衆を操るためのツールとして活用する。

 僕は賢いエリート層ではないが、一方で、社会(もそうだし、人間そのもの)の矛盾(というか、不十分性)にも気付かないままでいられなかった(真の凡人足りえなかった)ため、「中間派の苦悩」とか、意味不明な言語表現で、なんとか生きづらさというか、「くっそつまんねーな人生」という感覚を表現しようと試みてきた。


 まぁ、その試みは、未だ何ら成果もないし、表現し尽すこともできずに、中途半端なままなのであるけれども、だからこそ、この本で書かれていることが、非常に痛快に面白かった。

カオスを認めるということ

 著者も、その点も当然分かっていて、「ハンムラビ法典が神話だというのは受け入れられても、人権も神話だということも受け入れるのは、多くの読者にとって難しいだろう」と。

 でも、僕が生きるこの何十年かでは変わらないかもしれないが、きっと、もう数十年、数百年したら、きっともう、サピエンスが、「神話」に基づいて協力体制をしいていることは、多くの人に受け入れられていくことだろうと思う。

 漫画とか、アニメとか、映画とか、小説とか、その他エンターテイメント作品においても、この世界の不平等さ、矛盾、カオス、絶望といったものの取り扱いが、どんどん鋭敏になっているように感じられる。

 それは、個々の作品においては、単なるカタルシスかもしれないが、僕は、決して、人々を厭世的にさせ、絶望を与え、破滅に追いやるものではないと思う。


 僕の言葉で書けば、

「反転したポジティブ」

 ということになる。落ち込んで、嫌になって、憎しみ、哀しみ、怒り、絶望し、無気力になって……そのうえで、「ああ、くそみたいな人生で無茶苦茶楽しいな」と、反転して感じられるようになること……、うーむ、何か表現がやっぱり気持ち悪いけれども、まぁ、何となく分かるだろう。

 その上で。

 生きる意味なんてないし、人類はいい人ばかりじゃないし、くだらなくつまらないとした上で、だからこそ、「こうする」「こうしたい」「こうあるべきだ」という感覚。

 そうしたものを選択していくということが、先日こき下ろした、「自分の頭で考える」ということなんじゃないのかな、と思う。



 あり得ないのは分かっているけれども、最近特に、「ああ、どうせ俺の感覚に共感してくれる人などいないのだろう」という感覚が、実感として深まってしまっていた。70億人いるんだぜ、人類? それなのに、お前みたいな凡人レベルの感覚や思考が、世界でたった一人のオンリーワンなんてありえるはずがない。それは「知識」としてそう思いつつも、実感としては、そう思わなかった。(この知識と実感の乖離という問題は、長らく自分の中で大問題であり、今も解決できていない重大案件の一つである)

 それが、この作品(敢えて物語性を含めて作品と表現する)によって、この本がベストセラーになっていることから、そのうち何人かは自分と同じように大笑いした人がいるだろうと、少し信じられて、孤独感が少し薄れた、そんな気がした。

孤独感

 いやはや、それにしても傲慢な記事である。
 こういうのを、「黒歴史」というのだろう。視野狭窄に陥った中学生的な邪気眼的発想。

 まぁでも、そう感じてしまう、感じてしまったのだから、仕方がないだろう。それが「大人として」「社会人として」思考(感情)エラーだということは分かっていても、内なる心として発する声を無視してはいけないと、そう思う。

 その結果、友人を失い、恋人を失い、家族に勘当され、職を失ってでも……ということは「無い」のだから、まぁ、せめて、ブログとしてだけにとどめておこうというわけである。


 そしてふと思ったのだけれど、俺はやっぱり、寂しいのかなぁ。
 それでいて、他者と一緒にいる時間が多いほど、その孤独感ってのが深まってくという感覚は、恐らく、「本当の自分を誰も分かってくれない」という思いが深まっていくからなのではないかと思う。

 でた、でた、これまた気持ちの悪い表現である。うら若き女子中学生か、と(女子中学生をバカにするわけではない)。
 エリートは孤独だとか、出世して立場が上になると孤独になるとか、そんなこと言われたりするけれども、エリートでも地位が高いわけでもないのに孤独を感じるとは、まったくもってこの世界は不平等である(かっこわらい)。


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コンサルタントさんの記事から思うこと
2016/12/16 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
1.こうやって人はかわれなくなっていく
http://blog.tinect.jp/?p=28396

2.ほとんどの場合「意志」ではなく環境が決める
http://blog.tinect.jp/?p=34512

物語の重要性

 2.の記事は、軽く読んで見るとよいと思う。僕も納得である。人は、自分の「意志」というよりも、環境によって大きな変化をしたり、行動したりする。
 僕も受験期に、テレビはもちろん、ゲームもパソコンも全部ゴミ袋に入れて段ボールの奥底にしまって、勉強しかできない環境をつくっていた。学校が終わっても、家にはまっすぐ帰らずに、自習室に通って勉強した。

 問題は、1.の方の記事である。結局、結論的に何を言いたい記事かはよく分からないけれども、ただ、物語としてはとても秀逸だと思ったから取り上げた。

頑張ることの無意味性

 努力。苦しいこと。悩み。頑張ること。

 なんか、苦しめばそのうちいいことあるみたいな、そんな淡いことを考えていたのか?

 否、否。もはや、それしかなかった。今考えると、いや、誰がみてもアホにしか思えないが、大学受験失敗したらもう死ぬしかないと思っていた。結構マジでだ。そういう意味で、よく「死ぬ」という言葉が登場するけれども、死ぬ死ぬ詐欺みたいではあるけれども、結構身近な感覚だったといえる。

 だから別に、今、仕事において、評価されなかったり、問題が起きたことの責任をきせられたりしても、「あーそもそも、部活でいじめられたりはじかれたり、使えねー奴だとか面と向かって言われたり、まぁ色々あったことを思えば、別に普通だよな(笑)。むしろあの頃に比べたら人生イージーモードだな(かっこわらい)」とすら思う。

 すぐさま、いつも言っているように、他者と比較することは無意味であり、それはもちろん、過去の自分と比較することも意味はないのだから、これは完全に思考及び感情エラーである。

 まぁそうなんだけれども、色々と、コンサルさんの記事を読んでいて思い出したというか、思ったわけだ。
 そもそも、ものすごい嫌なことが最近あったから、マイナス思考的状態であるというのは一つ誘因である。

努力しても無駄とはどういうことか?

 この言葉は、正直、僕に部下ができたとしても、後輩ができたとしても、子どもができたとしても何であれば、絶対伝えないだろう。

 ただ、ここでは書いておく。

 頑張っても、努力しても、苦しんでも無駄だ。
 もっと言えば、苛々しても、悲しんでも、悩んでも無駄だ。アホのすることだ。


 と。

 まぁ、いろいろ批判があることだろう。何せ、70億人もの人がいるのだ。日本にも、未だ1億2千万ぐらいは人がいる。言葉をしゃべれない赤ん坊や、ボケてしまった老人たちを除いても、1億ぐらいは人だろう。

 そんな中、凡人の一個人の発言が、1億人の心に響いて感動させるなんて、そんな小説でもそんな描写ができるとは思えない。
 だから、他者の評価や感じ方なんてどうでもいい。僕が所有していた250ccのバイクは、やたら批判されている。見た目だけで性能が悪くてださい、と。そもそも非常に爆発的に売れているから、「良い」と感じる人が多いのであって、そういった批判をする人は、マイノリティとしての存在感で優越に浸りたい部分があるというわけだ。しかし、流行にはブームがある。最近読んでいるサピエンス全史は、ベストセラーだそうだが、やっぱり面白いと思った。まだ、上巻の半分ぐらいだけど。

努力しても無駄なのは時間が限られているから

 努力が無駄だ、というと、本当に何も「がんばる」ということをしなくていいと思ってしまう人がいるから、この発言は禁句である。
 ただ、「がんばる」こと、それ自体に全くもって意味が無いということは、よく理解しておく必要がある。

 ノルマとか成果とか、そんな言葉に嫌悪を覚えるけれども、そもそも、だ。何か「生産」できていなければ、無駄、である。
(補足、すぐさま書いておくべきは、ある方がコメントしてくださっていたが、外面上生産していないようでも、それは生産行為の可能性がある、ということについて、絶対に忘れてはならない。そういう意味においても、やはり、頑張る、ということは無意味であるのだが、もう少し表現を続けてみよう)


 つまり、言いたいことというか、表現したいこととしては、ストイックさの否定ではなく、「つらい」という感情を重視することの「愚かさ」加減について、ということだ。

 俺は兎に角、マイナス思考人間のようにしか思えない表現を重ねているが、とんでもなくポジティブ人間であることは、きっと誰も分からない。
 いや逆に、ポジティブ過ぎて、一切の「不都合」が、無駄であり、イライラの根源に思ってしまうところが、生きづらさの一つ原因にも思えるが。

 ランニングとか、筋トレとか。身体的苦しさってのが重要なのは、その後のカタルシスがあるからだ。
 身体を鍛えて何か楽しいか? むかつくデブに絡まれなくなる? そんな消極的な理由で続けられるほど、逆に甘いものじゃないだろう。

楽しい努力とは?

 努力というのは、反転して、「楽しいもの」である必要がある。

 ある方にこういった言い方をしたら、そんなの努力とは言わない、と言われた。

 うむ……そうかもしれない、が、少し、目的や目標と、現実行為との距離感という問題についての、認識合わせがきっと足りないのだろうと、思う。


 何故鬱になるのか。
 脳の病気? まぁそういった科学的(医学的)なことは置いておいて、憂鬱な状態というのは、「無気力」とか、やる気が起きない、という状態を現す。 


 何故やる気が起きないのか?

やる気が起きないときのチェックリスト
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/touch/20121118/1353244629


 上のチェックリストはちょっと面白かった。
 ただ、まぁ、複雑な条件分岐で分析しても、取りあえず、実際の行動に結び付ける現実的方策を考えれば、「行動」に対する「報酬」の明確化である。

自己報酬神経群

 難しいことを書けるほど頭がよくない。簡単な話であって、「あー、この仕事やりたくねぇな」というとき、それは何故かと言えば、

1.まず単純に作業的でつまらない

2.達成したとしても別に当たり前で、評価があるわけでも、報酬が増えるわけでもない

3.やったらやったで、もっと大変になるのが目に見えている


 という理由が挙げられる。

 やりたくないけど、やらざるをえない。
 そういうときは、その「やらざるをえない」という感覚の明確化が足りないわけだ。

 何でやらざるをえないのか? やらないと自分の信頼が下がり、給料が下がり、挙句クビになるかもしれないからだ、としよう。
 その結果と、実際に今の自分の感覚とを比較したときに、「しかたねーなー、やるかー」となるかどうか、そのせめぎ合いというわけだ。


 しかし、鬱というのは、それが、明確な原因が既に存在しなくなり始める状態である。

 やる気が起きない。
 死ぬ、という気力さえおきない。
 ただ、目が覚めてすべてが消え去ってくれていたらいいのに。

 そんな感覚になった人は、どれほどいるだろうか。
 割かし上に書いてきたように、「死ぬかぁ」みたいに思って完全自殺マニュアルとか買ってみたり、「死にたいとは思わないけど、消えたいと思う」ということを言ってる人がいて、「はぁ、ふざけんな、中途半端なこと思ってんじゃねぇ」ととんがって思っていた時期もあったけれども、今はどちらかというと後者に近い。

 さすがにひかれるか……。ここまで書くとキモチワルイを通り越しておかしな人に思われるだろうか。
 だが、先日体当たりをかましてきたクソ野郎に比べたら、人畜無害のクリーンな人間だと思うが、そういった感覚すら、この社会というのには存在しないという意味で、変だなぁ、おかしいなぁ、と思うわけだが、まぁ、この記事を投稿するかどうかは別途検討しよう。


 完全自殺マニュアル買ったり、精神科にいってみたり、まぁいろんなことやってみて、「あーもうどうでもいいわ。ちょっと最後に頑張ってみるか」となって、大学時代に初めて彼女ができて、一時期もうこの世の最高のように楽しく人生過ごして、それも半年ぐらいで終わったとかいうのも、まぁ懐かしい話であるシミジミ。

修羅場

 修羅場をくぐってきてない奴は使えない奴だ、とか、上司とか先輩が言ってたりする。
 それをきいて、中流家庭で幸せに育ってきた僕は、きっとダメなんだろうな、もっともっと頑張んなきゃ、と思ったりもするけれども。

 まぁ、大した経験など、実際していないわけである。
 僕自身も、そう思う。

 だから、先輩たちの、もっと頑張れよ、という言葉を真摯に受け止めるわけだけど、でも、最近、ほんと、メンタルポイントの消費が激しくなっている。



 実際問題。
 上の、「まぁ割かし死のうか思っとりました」ということについて、70億でもいいし、1億人でもいいけれども、「修羅場ランキング」というか、「苦労経験ランキング」みたいなので、数値化できたとしよう。

 僕はどれぐらいだろうか? 多分、中間ぐらいな気がする。ふつー、ってことだ。

 そりゃあ、もっと楽々人生やってきた人もいるだろう。逆に、もっと貧困にあえいで苦しんできた人もいるだろう。いっぱいいるだろうさ。

 だから、何?

おー、また消えた

 また、ブラウザクラッシュで途中まで書いていたのが消えてしまった。
 よし、もう、クロームやめよう。先日すすめて頂いた、スレイプニールというブラウザ試してみるか。

 ――。インストール完了。
 おー、文字が、全然、違う(笑)。見やすいか、というと、うーん、なんか、慣れないけれども、まぁ、何となくきれいな気がする。

 これで、しばらく使ってみてクラッシュしなければ、常用ブラウザにスピード出世だ! おめでとう!


 何だっけ。
 なんか、すげーくだらないことをつらつら、つらつーら、書いていた気がする。あまりにも苛々しすぎて、帰ってきてもやっぱりイライラがとれずに、お酒をたくさん飲んでしまった。ジンベースブルドックおいしいな。はぁ、明日は明日とて責任重大な仕事があり、来週も大変であり、再来週も……いや、再来週は、もう年末で三日だけか。

 はぁ……、もうちょい、頑張るかなぁ。って、頑張ることを否定する記事だった気がするけれども(かっこわらい)。



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意味を問うこと生きること
2016/12/15 19:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「他人と比べても意味が無いと思う」

徒然赴くままにしていると実感が抜け落ちる

 徒然、硯に向かいて指の赴くままに書きたくなったよ。
 今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
 ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。

 しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。

「●●をして、○○の点数をとる」

 という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。

 だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。

生きる意味の段階性

 生きる意味と単純に言ったところで、それは段階がある。

 個人的な生きる意味。
 親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
 人類規模の生きる意味。
 生命(宇宙)規模の生きる意味。

 生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。

 といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。

 と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。

 そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。



 ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
 とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。

漠然とした不安

 正直、車やバイクに乗るということは、危険な行為である。しかし、その危険が、命をかけているということ、もっといえば、事故をおこして誰かに怪我を負わせるという人生をかけているということが、何とも楽しいことのように思える。急な車線変更をしてきたトラックに巻き込まれそうになったときの心臓のバクバク感は他に味わえないものである。

 そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
 戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。

 格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
 そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。

(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)

生きるということはゲームか

 いずれやってくる終わりに心を馳せるよりも、今、この場所で、このときの楽しさに身を任せた方が、絶対的に真理のように思われる。

 ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)

 ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。

 いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。

 最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
 いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
 いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。

 よく分からない。

 ただ、気付いたら、今、こうしている。

 早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
 いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。

「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。

 だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。

 前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。

 これは中々いい表現だったように思える。

この後紡ぐ言葉は何か

 日曜日にここまで書いて、はたと、投稿を躊躇ってしまった。
 意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。

 高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。

 もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。

 いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。


 ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
 よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。

 でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。

 上の感覚。なんと空しいことか。

 他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。






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暗黒モードだって徹底する
2016/12/14 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
今日はかなりいやぁな仕事があったが、終わってみるとお客さんから意外に褒められたというか感謝された。

普段気難しい相手なので、逆に嬉しかった。

後は、知人と久しぶりの会食をした。



しかし、帰りは、23時となり、気分もよくない。



なんか、誰か、こんなときは面白いブログでも書いてくれよ。

リアル物語が読みたいんだよ。最近、婚活頑張っている女性のブログも読んでるけど、本当面白い。残念ながら、下手な小説より断然面白いよ。

でも、こういうときに限って誰も更新しない。

更新した人も、短い。つーか、アメーバブログ、クソ過ぎる。いつ開いても、スマホからだと読み込み遅すぎる。



こういうときは、自分の過去ログを読む。


完全に自画自賛、手前みそだが、

10個に1つぐらいで、そのうち三割ぐらいの内容は、結構面白い。最近読了押してくれる方が減っていったので、あーやっぱりつまんねーんだろーなーと思っていたけど、いや、たまには面白いよ、自分の書いた内容だが(笑)


まぁでも、面白いというより、きもい、と思う人が多いんだろうなぁ。
そんななか、自分で面白いとか、もう数ヵ月たってるから、書いたときの思考も感情もなくても、それでも面白いと少し思うのは、きっと、やっぱり俺は変人なのだろうか。

ある飲食店においての客の会話


青年二人が、人生について、どうやって生きようか、仕事しようか、対人関係のありかたとか、色々話してるのが聞こえてきた。

いいぞ、色々なやめ若人よ。

そんななか、誰でも苦労して生きてるのを知って、自分も頑張ろうと思った、との発言があった。



うーん。いい考え方だけど、危険だな。
苦労というのを、相対化して自分のモチベーションにするのは良い方策とはいえない。


もっというと、苦労を前提に考えてしまってる時点で思考エラーだ。

頑張りゃ報われる、って考えは即刻捨てていい。
てめーの頑張りなんて、他者に伝わらなきゃ無価値だ。逆に、上手くその頑張りを伝えられるなら意味がある。しかしそれは、もっというと、自分自身で頑張ってる、と感じる必要がない、ということでもある。


わかるかな?

数ヵ月後の俺なら、分かってくれるだろうか?

最近、予約投稿をしている。
いまはまだ、数日程度だけど、忘れた頃に投稿されるぐらいになったら、新しい試みで面白いかなとか。



あーしかし、面倒だなぁ。
とか、そういったこと書くのを、無駄なのに、何故書いているのか、と、そのこと自体を問題にしている記事とか面白いよね。


話が少し違うが、

貯金頑張ってきて、いっぱいたまったなぁ、嬉しいなぁと思ってる人がいて、インフレなったらどうするのだろうか。

資本主義はイデオロギーであり、一種の信仰に過ぎないが、その支配下におかれると、お金が絶対価値に思えるが、そもそも金は流動的なものだ。

稀少性で価値が高まったり、バブル的に投資が投資を呼ぶといった自体もある。修正された資本主義と様々な現代システム、制度によって安定ははかられてるとはいえ、普通に交通事故で死ぬリスク程度にはあるだろう。


お金にもコミットできず、

恋愛にもコミットできず、

あとはなんだ? にんげん、人生で、絶対的なものは何かあるか?

友情? 家族? 上司? 仕事?

時間? 寿命?


そうだな、いずれは死ぬ、ということは、今の僕も信じられている。


めめんともり


僕らは死ぬ。

いつか死ぬ。

死ぬとは何だ?

死ぬとは無だ。無駄か?

闇だ、ゼロだ、終わりだ。

しぬ、しぬ、死ぬ……


あぁ……めちゃくちゃ怖くなってくるな。

なんだろか。
頑張れば頑張るほど、無気力というか、虚しさが増していく。ゆいつ、物語を創作したりサイトつくったり、この書いていること自体は、無気力を助長しない。


だから、くだらなくても、書いていいのだと、過去の僕はかっぱしていた。ありがとう、おかげで、いま、なにもしたくなくて苦しくとも茫然としているなか、なんとか、時間を過ごせている。ありがとう、ありがとう。

救ってくれる人


離婚という自体に陥ったとき、僕が奇跡的に救われたのは、ある二方のおかげだと書いた。

もっと遡れば、その前の自分自身の危機を救ってくれたのが、反転してその離婚の危機を引き起こした方だけど、それ以前の危機においても、僕の思考に影響を与えたある一方がいた。

ゆえに、僕は孤独ではなく、多くの人に支えられてここまできた……と、書くのが一般的に美しい文章だが、残念なことに、家族兄弟を含めても、10人に満たないとしか思えない。


いやもちろん、ここでの支えというのは、存在規定レベルの重大な案件において、ということであって、それいがいにお世話になった人は多いだろう。



だが、正直、残念なことに、申し訳ないが、どうでもいいレベルだ。その程度俺も他者に与えているし、与えられてもいるし、その程度だ。

いいぞもっとやれ


大分、暗黒モードになっているな。

帰宅後

 いいぞ、もっとやれ。
 何故、
もっとやれ、なのか。

これ書いてるときは本当に気分はよくないが、実はあとから読んで、あぁわかるわかる、となることが多いのである。

それは特に、本当にかなり落ち込むまで表現していた方がいい。
鬱の人は、重度になると、言葉がなくなるだろう。しかしだ、であればなおさら、その描写の価値というのはあるのではと思う。


よく、中高生のブログとかツイッターとかでも、まぁ日々の生活の不平不満とかは見受けられるし、街を歩いていても聞こえてくる。

けれども、所詮はひとこと二言の、賞味30秒の感情に過ぎない。

お前、よく人のこと書けるなと自分でも思うが、愚痴が多い人は嫌いである、この、嫌いという表現も実は厳密ではない、そもそも、嫌いになるほど興味をわけない、というのが実態だ。
人を憎んだり嫌ったりできるのは、ある程度の関係の上での話だ。あまり関わらなくていいひとが相手に、あいつは好きだ嫌いだと、よく女性のコミュニティにおいてはそれが噂話としてネタになって、そのコミュニティ維持に貢献するけれども、正直自分はそこに価値を見いだせない。

このあと、孤独についての記事を書くだろうが、むしろ一人でいた方がいい。むしろ、他者のなかにいることがもっと、孤独を深める可能性さえある。


愚痴も表現になれば面白い



愚痴を嫌いだといった。
一方、このブログ、特にこの記事なんてぐちでしかない。
が、
何故あとから読んで面白いと思うことがあるのか?


それは、自分のブログだけじゃない、負の感情や、日常の不満や問題点を表現されている方々の記事は、やはり面白いのだ。


それに、生産的な価値はないかもしれない

しかし、ランチで職場の上司の愚痴をいう程度のカタルシスよりかは、よっぽど有意義だ、というのはすぐさま、ある、特定の人の話題、に止めてはならないことかいておくべきだ。


僕が表現と書いたのは、
具体的描写が面白いとか、詳細だとかそういうことではない、

むひろ、抽象化である。

簡単に書けば、こういうことがあった、それはこうだから、社会は、人間は、現代は、こうこうこうだと感じる、と。

そういうロジックになってる話はちょっと面白い可能性が増える。

いつぞやの、ある、青年たちは、その結論がどうであれ、こういう、経験をして、こういう事情から、今後こうしていこうと思う、というロジックになっていた。
だから、僕は内容に共感はなかったものの、そういう考え方があるということを知ること自体面白かったし、興味がわいたのだ。

面白い記事を書くには?



これは、一般的に面白いもの、とか、そんな意味ではない。
自分にとって、今後未来の自分が読んだときあっ、ちょっと笑える、とか、面白いなとか、役に立つ、とかイライラの溜飲がおさまったとか、いまも、10に1つくらいはそういうのあるが、その、割合を増やすにはどうしたらいいか?


まず、暗黒面に堕ちる。

ノンストップでわきあがる感情というか言葉を書きなぐる。


少し落ち着く。


書いた内容を構造解析する。

その上で、書いた内容にたいしての感想をのべる。



スケルトン作るとこんなものか。

抽象化するとものすごい簡単なんだけど、実践するのは難しいかな。
まぁ、今後、このあたりを、カテゴリ分けと合わせて注意していくことにしよう。







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今年残りの目標を立てる
2016/12/13 19:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「2016年、残りで何を成そうか」

ストレス社会である

 自分で何とかコントロールできる範囲のことの方が、ストレスを感じるという。
 もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。

 全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。

 本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。

 でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。

 まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
 そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。

燃料なきゃ只の鉄の塊

 でもさ、俺は最近少し思った。高速道路を100km/hでる軽自動車で、フルスロットルアクセルべた踏みで走り続けるよりも、一般道を60km/hぐらいでまったり走るのだっていいんじゃなかろうか。ベンツとかリッターバイクなら別だろうが、フルフルぎりぎり精一杯やる必要があるのか。いやむしろ、高級車とかSSバイクだと、100km/hが逆にたるい、と思うかもしれない。そしたら、それなりのステージで頑張って頂ければいいじゃないか。

 どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。

 いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?

 かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。

 いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。

生存戦略

 かといって、すぐさま思ってしまうのは、特別なオンリーワン、なんてありえねーという感覚。最初に戻るけれど、結局、全能感なんてありゃしないのだ。
 70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。

 それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。

 それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。

 でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。


 それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。

 それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
 ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
 それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
 これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
 朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。

 つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
 だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。

かといって社会性も重要

 といいつつも、じゃあ、とっかえひっかえ周りの環境を変えていけばいいのか、というのもまた否である。
 転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
 原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。

 いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。

 スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。

 と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。

 つまり、「答え」が無い、という感覚。

 これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。

答えの無さ

 取りあえず、今日は、仕事にきりをつけて、もうここまでやったから終わり! と半ば逃げ出すように帰ってきた。もう精神的に苛々して仕方がなかった。

 それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。

 さぁ、では明日はどうか。

 できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?

 よく分からない。

 何が正解だ?

 誰か教えて欲しい。


 仕事でお金を稼ぐのが正解?

 コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?



 すげー、むなしいよ。

虚しさの中に

 何だか、同じことするのに、MP(精神ポイント)の消費量が多くなってる気がする。

 そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
 先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。

 えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
 その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?


 そうなんだけど……。

 まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。

 ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。

何で生きるのか?

 バカらしい問いだよ。お前、いくつになってそんなこと言ってるの? アホちゃう?

 恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
 それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
 ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。

 一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。

「もともと特別なオンリーワン♪」

 とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)


 え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?

 まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
 もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。

 自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。

 だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。

アメリカ大統領のリーダーシップ

 大抵の散乱する記事群は、そんなんばっかである。まともなアドバイスってのをついぞ最近みたことない。いや、あるっちゃあ、ある。ただそれは逆に、「いや、それってあなたの特殊な事情による場合に過ぎないんじゃ……」という、いわゆる断定、決めつけ的なものだったりする。

 しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。

 どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。

 使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。

 最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。

自分の人生

 まぁ、だからね。

 結局、自分で考えるしかないわけだ。

 残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。

 でも僕は、思う。
 確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。


 仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
 ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。

 答えはでないかもしれない。

 無駄かもしれない。

 恥ずかしいかもしれない。

 でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。

 取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。

 極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。

 思考が足りない。

 インプットが足りない。



 ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。

 それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。

 もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。


(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)

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