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文字の発明と人工知能による支配
2016/12/19 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今年の目標その3

前書き

 休日に、読書に時間をあてるというのは、如何なものだろうか。
 もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。

 それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。

 という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
 しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。

数理的データの取り扱いの必要性

 国を維持するには、税金が必要である。
 税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
 狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。

 税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
 数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。


 ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。

不完全な書記体系と完全な書記体系

 まず、私たちの用いる言語表現は、「完全な書記体系」である。一方、はじめに使われ始めた文字、書記といった体系は、もっぱら、「数理的データ」を取り扱うものだった。

 2万9千 大麦 37年 クシム

 みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。


 不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。

 アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。

今回インプットすべきこと

 本の内容をまとめる作業というのは、大学のレポートなどでは重要だろうが、正直面倒なものである。しかし、ここで、正確な引用(例えばページの何ページにこう書いてあるから、これはこういう意味である、とか)を行って考察するということは必要ない。
 本のレビューをしようというのではないのだ。


 例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。

 そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、

 文字は、まずは数を保存するために用いられたこと


 ということだ。
 同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。

 巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。

 もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。

「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」

 というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。

 サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。

文字とそれをアウトプットする方法

 流れに沿って書いていくのに飽きてきた。
 今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。

 虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。

 こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
 確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
 そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。

 初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。


 だが、それでめでたしめでたしではなかった。
 たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。

 それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。

コンピュータへの教育

 そして今私たちは、更に思考方法を変えて、コンピュータに対して分かりやすい言語を用いるようになっている。1か0の世界。2進法。
 外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。

 人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
 そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。

 この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
 精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。

https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
 ↑これはまだ不気味の谷が残ってる

https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
 ↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う

 見た目の問題は解決するかもしれない。
 しかし、思考については如何だろうか。

感情の体系

 不確定な要素があるから、人間は人間なのだ。と言い切ってしまえば、人工知能など不要である。
 治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。

 人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。

 サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
 共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。

 マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。


 しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
 例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。

人工知能

 複雑な製造を行う工場でのロボットたちも、「知能」をもっていると言っていいのではないか?

 多分、違う。

 人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
 つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。

(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)


 そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。

 いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
 汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
 楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。

(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)

 と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。


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東京マグニチュード8.0感想
2016/12/18 22:24 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「久しぶりに作品見て泣いた」

ミスリードが多すぎて見事に引っかかった

 やられた……。まさか、8話目がそういうことだとは全然気付かなかった。
「心配」
 という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
 ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。

 しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?

 よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。


 たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。

 突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。

いい感想じゃあないな

 どういうシーンが、どうであったから、こう感じた、というのが正しい感想なのだろうが、ネタバレ的な感じも何だか今の気分に合わないし、まぁ、最後まで見てよかった、という感想を残しておこう。

 こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
 これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。

 感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
 そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。

 頑張ることは無意味だ、と最近書いている。

 しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」

 今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
 しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、

 まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。

何かいいこと書きたい気分

 何か書きたい気分になった。
 けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
 ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。

 東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?

 一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。


 ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。

 貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
 孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。


 なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。

 特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。

 取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
 でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。

メリークリスマス

 5歳の難病で死にかけた男の子に、サンタさんがやってきてくれたというニュースがやっていた。大反響で、いい話だなぁとなったということだ。

 僕もうるっときた。
 その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
 変なの。

 何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
 実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。

 イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
 東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。

 なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。

 みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
 自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?

 今年も残りわずか。
 どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。

非常に憂鬱な気分に

 あぁ……。書いていると段々ハイになっていて、苛々とかそういった感情もなくなっていく、というのが最近分かったことだが、逆に、「感動した」ということを書いていくと、だんだんその感動が劣化し、苛々……というよりも、非常に鬱屈した、鬱々とした、憂鬱な気分になっていく、のだろうか。

 いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。


 その両方かもしれない。


 ヘルプミーである。

 ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
 書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?

 人生に自分を全力でぶつけているだろうか。


 残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。

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想像上の秩序で膝を叩く
2016/12/17 19:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「自分の感じていることを明確に文字にされると感動するね」
今年の目標その2

ハンムラビ法典もまた秩序である

 腹を抱えて笑った。
 いやぁ、狩猟採集民の生活の分析も面白かったけれども、まだまだ面白さは加速しそうである。




 最近の、というよりもこれまでの中で買ってよかった本のベスト10ぐらいに入りそうだ。
 これを紹介してくれた方には感謝感謝である。

 いやまさか、こうした学術書? といっていいのか分からないが、歴史学的な本で、笑わせてもらうとは思わなかった。
 いや、端的に書けば、紀元前1776年のハンムラビ法典と、紀元1776年のアメリカ独立宣言との対比が秀逸だった。
 そもそも、同じ1776年を対照させるアイディアが面白い、のだけれども、結論的に、どっちも「想像上の秩序」であるという説明が、小気味よいほど面白かったのだ。

人間は自由か平等か

 ハンムラビ法典は、神に認められたハンムラビ王が、上層自由人と、自由人と、奴隷および、男女によって人を分けている。
 一方、アメリカ独立宣言は、同じく神(造物主)によって、生まれながらに自由で平等であると謡われる。

 でも、本当にそうなの? 生物学的にどうなの? という投げかけ。

「我々は以下の事実を自明のものとみなす。即ち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。」

 アメリカ独立宣言を、生物学的に再解釈した文章。これがどう面白くて、僕が大笑いしたかは、P.133~から読んでみる必要がある。

 とにかく、僕は思った。
 つい先ほどまで、「あー、こんなくだらないこと書いてたりするのは、きもいって思われるんだろうなぁ」とか思っていたけれども、この本の著者の方がよほどキモチワルイじゃないか!(失礼? いや、敬服である)

傲慢だけれども気持ちいい感覚

 正直なところ、これらの表現類は、僕にとって真新しさはなかった。
 というよりも、むしろ、「ああ、よく書いてくれた」的な感覚である。傲慢である。しかしながら、ちょっと歴史の勉強が好きでしてきた身としては、「人類って、そんな素晴らしいものだろうか」、という感覚がずっとあったのだ。
 自由と平等。美しい国、ああ、そういった表現は素晴らしいし、それに根差す社会システムもまた批判されるべきものではない。

 けれども、どっかしらおかしくないか? という感覚。「法律」は、絶対的なものだと、現代特に日本人は思っている。けれども、その法律なんて、その時代それぞれで変わってきたものだし、今この時点でさえも、国会では法改正の議論がされている。
 法律とか憲法とか、そうしたルールというもの、それ自体が「共同幻想」的(みんなそれが正しいと思うから正しい)なものに過ぎないのではないか、という感覚。

 その感覚は、「正しい」かどうか別として、「危険」なものだから、多くの人に忌避されるし、「お前は何をいってるんだ?」「ガキだな」「危険な思考だ!」と排除されることとなる。

 賢いエリート層は、そんなこと気付いたうえで、一般大衆を操るためのツールとして活用する。

 僕は賢いエリート層ではないが、一方で、社会(もそうだし、人間そのもの)の矛盾(というか、不十分性)にも気付かないままでいられなかった(真の凡人足りえなかった)ため、「中間派の苦悩」とか、意味不明な言語表現で、なんとか生きづらさというか、「くっそつまんねーな人生」という感覚を表現しようと試みてきた。


 まぁ、その試みは、未だ何ら成果もないし、表現し尽すこともできずに、中途半端なままなのであるけれども、だからこそ、この本で書かれていることが、非常に痛快に面白かった。

カオスを認めるということ

 著者も、その点も当然分かっていて、「ハンムラビ法典が神話だというのは受け入れられても、人権も神話だということも受け入れるのは、多くの読者にとって難しいだろう」と。

 でも、僕が生きるこの何十年かでは変わらないかもしれないが、きっと、もう数十年、数百年したら、きっともう、サピエンスが、「神話」に基づいて協力体制をしいていることは、多くの人に受け入れられていくことだろうと思う。

 漫画とか、アニメとか、映画とか、小説とか、その他エンターテイメント作品においても、この世界の不平等さ、矛盾、カオス、絶望といったものの取り扱いが、どんどん鋭敏になっているように感じられる。

 それは、個々の作品においては、単なるカタルシスかもしれないが、僕は、決して、人々を厭世的にさせ、絶望を与え、破滅に追いやるものではないと思う。


 僕の言葉で書けば、

「反転したポジティブ」

 ということになる。落ち込んで、嫌になって、憎しみ、哀しみ、怒り、絶望し、無気力になって……そのうえで、「ああ、くそみたいな人生で無茶苦茶楽しいな」と、反転して感じられるようになること……、うーむ、何か表現がやっぱり気持ち悪いけれども、まぁ、何となく分かるだろう。

 その上で。

 生きる意味なんてないし、人類はいい人ばかりじゃないし、くだらなくつまらないとした上で、だからこそ、「こうする」「こうしたい」「こうあるべきだ」という感覚。

 そうしたものを選択していくということが、先日こき下ろした、「自分の頭で考える」ということなんじゃないのかな、と思う。



 あり得ないのは分かっているけれども、最近特に、「ああ、どうせ俺の感覚に共感してくれる人などいないのだろう」という感覚が、実感として深まってしまっていた。70億人いるんだぜ、人類? それなのに、お前みたいな凡人レベルの感覚や思考が、世界でたった一人のオンリーワンなんてありえるはずがない。それは「知識」としてそう思いつつも、実感としては、そう思わなかった。(この知識と実感の乖離という問題は、長らく自分の中で大問題であり、今も解決できていない重大案件の一つである)

 それが、この作品(敢えて物語性を含めて作品と表現する)によって、この本がベストセラーになっていることから、そのうち何人かは自分と同じように大笑いした人がいるだろうと、少し信じられて、孤独感が少し薄れた、そんな気がした。

孤独感

 いやはや、それにしても傲慢な記事である。
 こういうのを、「黒歴史」というのだろう。視野狭窄に陥った中学生的な邪気眼的発想。

 まぁでも、そう感じてしまう、感じてしまったのだから、仕方がないだろう。それが「大人として」「社会人として」思考(感情)エラーだということは分かっていても、内なる心として発する声を無視してはいけないと、そう思う。

 その結果、友人を失い、恋人を失い、家族に勘当され、職を失ってでも……ということは「無い」のだから、まぁ、せめて、ブログとしてだけにとどめておこうというわけである。


 そしてふと思ったのだけれど、俺はやっぱり、寂しいのかなぁ。
 それでいて、他者と一緒にいる時間が多いほど、その孤独感ってのが深まってくという感覚は、恐らく、「本当の自分を誰も分かってくれない」という思いが深まっていくからなのではないかと思う。

 でた、でた、これまた気持ちの悪い表現である。うら若き女子中学生か、と(女子中学生をバカにするわけではない)。
 エリートは孤独だとか、出世して立場が上になると孤独になるとか、そんなこと言われたりするけれども、エリートでも地位が高いわけでもないのに孤独を感じるとは、まったくもってこの世界は不平等である(かっこわらい)。


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コンサルタントさんの記事から思うこと
2016/12/16 19:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
1.こうやって人はかわれなくなっていく
http://blog.tinect.jp/?p=28396

2.ほとんどの場合「意志」ではなく環境が決める
http://blog.tinect.jp/?p=34512

物語の重要性

 2.の記事は、軽く読んで見るとよいと思う。僕も納得である。人は、自分の「意志」というよりも、環境によって大きな変化をしたり、行動したりする。
 僕も受験期に、テレビはもちろん、ゲームもパソコンも全部ゴミ袋に入れて段ボールの奥底にしまって、勉強しかできない環境をつくっていた。学校が終わっても、家にはまっすぐ帰らずに、自習室に通って勉強した。

 問題は、1.の方の記事である。結局、結論的に何を言いたい記事かはよく分からないけれども、ただ、物語としてはとても秀逸だと思ったから取り上げた。

頑張ることの無意味性

 努力。苦しいこと。悩み。頑張ること。

 なんか、苦しめばそのうちいいことあるみたいな、そんな淡いことを考えていたのか?

 否、否。もはや、それしかなかった。今考えると、いや、誰がみてもアホにしか思えないが、大学受験失敗したらもう死ぬしかないと思っていた。結構マジでだ。そういう意味で、よく「死ぬ」という言葉が登場するけれども、死ぬ死ぬ詐欺みたいではあるけれども、結構身近な感覚だったといえる。

 だから別に、今、仕事において、評価されなかったり、問題が起きたことの責任をきせられたりしても、「あーそもそも、部活でいじめられたりはじかれたり、使えねー奴だとか面と向かって言われたり、まぁ色々あったことを思えば、別に普通だよな(笑)。むしろあの頃に比べたら人生イージーモードだな(かっこわらい)」とすら思う。

 すぐさま、いつも言っているように、他者と比較することは無意味であり、それはもちろん、過去の自分と比較することも意味はないのだから、これは完全に思考及び感情エラーである。

 まぁそうなんだけれども、色々と、コンサルさんの記事を読んでいて思い出したというか、思ったわけだ。
 そもそも、ものすごい嫌なことが最近あったから、マイナス思考的状態であるというのは一つ誘因である。

努力しても無駄とはどういうことか?

 この言葉は、正直、僕に部下ができたとしても、後輩ができたとしても、子どもができたとしても何であれば、絶対伝えないだろう。

 ただ、ここでは書いておく。

 頑張っても、努力しても、苦しんでも無駄だ。
 もっと言えば、苛々しても、悲しんでも、悩んでも無駄だ。アホのすることだ。


 と。

 まぁ、いろいろ批判があることだろう。何せ、70億人もの人がいるのだ。日本にも、未だ1億2千万ぐらいは人がいる。言葉をしゃべれない赤ん坊や、ボケてしまった老人たちを除いても、1億ぐらいは人だろう。

 そんな中、凡人の一個人の発言が、1億人の心に響いて感動させるなんて、そんな小説でもそんな描写ができるとは思えない。
 だから、他者の評価や感じ方なんてどうでもいい。僕が所有していた250ccのバイクは、やたら批判されている。見た目だけで性能が悪くてださい、と。そもそも非常に爆発的に売れているから、「良い」と感じる人が多いのであって、そういった批判をする人は、マイノリティとしての存在感で優越に浸りたい部分があるというわけだ。しかし、流行にはブームがある。最近読んでいるサピエンス全史は、ベストセラーだそうだが、やっぱり面白いと思った。まだ、上巻の半分ぐらいだけど。

努力しても無駄なのは時間が限られているから

 努力が無駄だ、というと、本当に何も「がんばる」ということをしなくていいと思ってしまう人がいるから、この発言は禁句である。
 ただ、「がんばる」こと、それ自体に全くもって意味が無いということは、よく理解しておく必要がある。

 ノルマとか成果とか、そんな言葉に嫌悪を覚えるけれども、そもそも、だ。何か「生産」できていなければ、無駄、である。
(補足、すぐさま書いておくべきは、ある方がコメントしてくださっていたが、外面上生産していないようでも、それは生産行為の可能性がある、ということについて、絶対に忘れてはならない。そういう意味においても、やはり、頑張る、ということは無意味であるのだが、もう少し表現を続けてみよう)


 つまり、言いたいことというか、表現したいこととしては、ストイックさの否定ではなく、「つらい」という感情を重視することの「愚かさ」加減について、ということだ。

 俺は兎に角、マイナス思考人間のようにしか思えない表現を重ねているが、とんでもなくポジティブ人間であることは、きっと誰も分からない。
 いや逆に、ポジティブ過ぎて、一切の「不都合」が、無駄であり、イライラの根源に思ってしまうところが、生きづらさの一つ原因にも思えるが。

 ランニングとか、筋トレとか。身体的苦しさってのが重要なのは、その後のカタルシスがあるからだ。
 身体を鍛えて何か楽しいか? むかつくデブに絡まれなくなる? そんな消極的な理由で続けられるほど、逆に甘いものじゃないだろう。

楽しい努力とは?

 努力というのは、反転して、「楽しいもの」である必要がある。

 ある方にこういった言い方をしたら、そんなの努力とは言わない、と言われた。

 うむ……そうかもしれない、が、少し、目的や目標と、現実行為との距離感という問題についての、認識合わせがきっと足りないのだろうと、思う。


 何故鬱になるのか。
 脳の病気? まぁそういった科学的(医学的)なことは置いておいて、憂鬱な状態というのは、「無気力」とか、やる気が起きない、という状態を現す。 


 何故やる気が起きないのか?

やる気が起きないときのチェックリスト
http://d.hatena.ne.jp/nishiohirokazu/touch/20121118/1353244629


 上のチェックリストはちょっと面白かった。
 ただ、まぁ、複雑な条件分岐で分析しても、取りあえず、実際の行動に結び付ける現実的方策を考えれば、「行動」に対する「報酬」の明確化である。

自己報酬神経群

 難しいことを書けるほど頭がよくない。簡単な話であって、「あー、この仕事やりたくねぇな」というとき、それは何故かと言えば、

1.まず単純に作業的でつまらない

2.達成したとしても別に当たり前で、評価があるわけでも、報酬が増えるわけでもない

3.やったらやったで、もっと大変になるのが目に見えている


 という理由が挙げられる。

 やりたくないけど、やらざるをえない。
 そういうときは、その「やらざるをえない」という感覚の明確化が足りないわけだ。

 何でやらざるをえないのか? やらないと自分の信頼が下がり、給料が下がり、挙句クビになるかもしれないからだ、としよう。
 その結果と、実際に今の自分の感覚とを比較したときに、「しかたねーなー、やるかー」となるかどうか、そのせめぎ合いというわけだ。


 しかし、鬱というのは、それが、明確な原因が既に存在しなくなり始める状態である。

 やる気が起きない。
 死ぬ、という気力さえおきない。
 ただ、目が覚めてすべてが消え去ってくれていたらいいのに。

 そんな感覚になった人は、どれほどいるだろうか。
 割かし上に書いてきたように、「死ぬかぁ」みたいに思って完全自殺マニュアルとか買ってみたり、「死にたいとは思わないけど、消えたいと思う」ということを言ってる人がいて、「はぁ、ふざけんな、中途半端なこと思ってんじゃねぇ」ととんがって思っていた時期もあったけれども、今はどちらかというと後者に近い。

 さすがにひかれるか……。ここまで書くとキモチワルイを通り越しておかしな人に思われるだろうか。
 だが、先日体当たりをかましてきたクソ野郎に比べたら、人畜無害のクリーンな人間だと思うが、そういった感覚すら、この社会というのには存在しないという意味で、変だなぁ、おかしいなぁ、と思うわけだが、まぁ、この記事を投稿するかどうかは別途検討しよう。


 完全自殺マニュアル買ったり、精神科にいってみたり、まぁいろんなことやってみて、「あーもうどうでもいいわ。ちょっと最後に頑張ってみるか」となって、大学時代に初めて彼女ができて、一時期もうこの世の最高のように楽しく人生過ごして、それも半年ぐらいで終わったとかいうのも、まぁ懐かしい話であるシミジミ。

修羅場

 修羅場をくぐってきてない奴は使えない奴だ、とか、上司とか先輩が言ってたりする。
 それをきいて、中流家庭で幸せに育ってきた僕は、きっとダメなんだろうな、もっともっと頑張んなきゃ、と思ったりもするけれども。

 まぁ、大した経験など、実際していないわけである。
 僕自身も、そう思う。

 だから、先輩たちの、もっと頑張れよ、という言葉を真摯に受け止めるわけだけど、でも、最近、ほんと、メンタルポイントの消費が激しくなっている。



 実際問題。
 上の、「まぁ割かし死のうか思っとりました」ということについて、70億でもいいし、1億人でもいいけれども、「修羅場ランキング」というか、「苦労経験ランキング」みたいなので、数値化できたとしよう。

 僕はどれぐらいだろうか? 多分、中間ぐらいな気がする。ふつー、ってことだ。

 そりゃあ、もっと楽々人生やってきた人もいるだろう。逆に、もっと貧困にあえいで苦しんできた人もいるだろう。いっぱいいるだろうさ。

 だから、何?

おー、また消えた

 また、ブラウザクラッシュで途中まで書いていたのが消えてしまった。
 よし、もう、クロームやめよう。先日すすめて頂いた、スレイプニールというブラウザ試してみるか。

 ――。インストール完了。
 おー、文字が、全然、違う(笑)。見やすいか、というと、うーん、なんか、慣れないけれども、まぁ、何となくきれいな気がする。

 これで、しばらく使ってみてクラッシュしなければ、常用ブラウザにスピード出世だ! おめでとう!


 何だっけ。
 なんか、すげーくだらないことをつらつら、つらつーら、書いていた気がする。あまりにも苛々しすぎて、帰ってきてもやっぱりイライラがとれずに、お酒をたくさん飲んでしまった。ジンベースブルドックおいしいな。はぁ、明日は明日とて責任重大な仕事があり、来週も大変であり、再来週も……いや、再来週は、もう年末で三日だけか。

 はぁ……、もうちょい、頑張るかなぁ。って、頑張ることを否定する記事だった気がするけれども(かっこわらい)。



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意味を問うこと生きること
2016/12/15 19:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「他人と比べても意味が無いと思う」

徒然赴くままにしていると実感が抜け落ちる

 徒然、硯に向かいて指の赴くままに書きたくなったよ。
 今日は、天気が良いな。寒いけれど。頭が何となく痛い。そんな日もあるさ。
 ああ、しかし、何か、やることが終わった。いやまだ沢山、まだまだ色々あるのだけれど、一週間か、二週間前ぐらいにやらなきゃ、やりたい、やろう、と思ったことは、一通り終わった。

 しかし、目まぐるしすぎて、フルスロットル過ぎて、終わってみると、本当に終わったのか、何をやれたのか、やったのか、よく分からない。感覚がわかない。

「●●をして、○○の点数をとる」

 という目標があって、その通りになったら、それは及第点だろう。しかし、そういった振り返りができたわけでもなく、そもそも「点数」化できるようなものでもない。

 だから、記憶の軸として、意味の軸として、こうして、書きとどめなければならないと、そんなことを今思いながら、残り20日ぐらいの今年を振り返って思う。

生きる意味の段階性

 生きる意味と単純に言ったところで、それは段階がある。

 個人的な生きる意味。
 親族や家族といった近しい人たちの中での生きる意味。
 人類規模の生きる意味。
 生命(宇宙)規模の生きる意味。

 生きる意味が分からないと嘆く人は、まず自分がどの次元の問題を抱えているのかを知る必要がある。

 といったアプローチも確かに存在するが、そもそも、その1から4つの意味については、相互に関係しあっていることも念頭におくべきである。

 と、いいつつも、話しが分かりづらくなってしまうが、個人的な生きる意味をひたすらに追い求めることができる人であれば、その他の問題は大したことではない。家族のため、例えば我が子のためという意味において、必死になれる人はそれでいいし、趣味や仕事を生きがいとして生涯を全うする人だっていいだろう。様々だが、それは、第一類型である。

 そのどれの行為に対しても、コミット(自分を委託する、約束する、任せる)できないときに、この中間的な、第二類型としての「生きる意味」が表面化する。



 ちなみに、この記事は、コメントを頂こうとか、読了を押してもらおうとか、反応をもらおうとか、いいことを書こうとか、そういった他者性、「わかりやすさ」は完全に無視することを、最初に書いておく。
 とにかく、カオス、混沌とした頭の中をそのまま、まずはアウトプットし、今後の自分に後を託そうと思う。

漠然とした不安

 正直、車やバイクに乗るということは、危険な行為である。しかし、その危険が、命をかけているということ、もっといえば、事故をおこして誰かに怪我を負わせるという人生をかけているということが、何とも楽しいことのように思える。急な車線変更をしてきたトラックに巻き込まれそうになったときの心臓のバクバク感は他に味わえないものである。

 そんなリアルな、命のやりとりにしか、「自己を」「自分を」コミットできない、という人もいる。
 戦国時代の武士、戦争に明け暮れる兵士、傭兵、彼らは皆、「愛する祖国、家族を守るため」という美しい理由だけで戦ったのか。そういう人もいただろう。しかし、只人を殺すこと、殺伐として抜き差しならない戦場にこそ生きがいを見出すような人種もいたことだろう。

 格闘技のみではない、スポーツが、何故「プロ(=お金をもらう職業)」として成り立っているのか。
 そこに、人間の攻撃性が隠れている……というのは暴論だろうが、「戦うこと」(それは命がけでなくても)「競い合うこと」というのが、人間に対して享楽やカタルシスを与えるものなのだということに、反論はあまりないだろう。回りくどい言い方がよくないなら、単純にスポーツは楽しいものなのだ、ということに、批判は少ないように思われてならない。

(蛇足:別に批判がどうあろうが関係なく、ここでは、自分の実感問題こそが重要であることは、常々書いている通りである)

生きるということはゲームか

 いずれやってくる終わりに心を馳せるよりも、今、この場所で、このときの楽しさに身を任せた方が、絶対的に真理のように思われる。

 ここで重要になるのは、別に、今、楽しいことが無いとか、鬱々として何もしたくないとか、そういうことではないのだということだ。
(いや、そうはいっても、鬱々とした気分であることは間違いないのだが)

 ただ、選択的に、この問題について考えたいと、そういった実感なのである。

 いやいや、やめよう、まだ、ちょっと取り繕った言葉を使っているそうじゃないだろう。

 最近、だから、こうやって書いている時間を取れなかったせいで、ますます混乱と苛々がましたということだ。
 いやいやもちろん、それが単に睡眠時間の短さによるものだという可能性は否定できない。
 いやそんなことよりも、実際、その生活を楽しんでいた自分すらいたのではないかという疑問だってある。

 よく分からない。

 ただ、気付いたら、今、こうしている。

 早いものだ。早いなぁ。この「早い」という感覚を「止める」のが、この書くということである。
 いや確かに、BARで一人お酒を飲んで、頭の整理をするのだって、かっこいいことかもしれない。が、それは頭のいい人ができることなのだ。俺は無理だ。まず、集中できないし、それよりなによりも、何も残らない。

「考えているようで何も考えていない」のではなく、「考えているけれども、浮かんだときから消えていく」のである。

 だから、書かなきゃだめだ。もはや強迫観念になりそうであるが、その通りだ。

 前に、書くことは、遊びでも仕事でも、ましてやルーチンでもない、ただそれは独立した行為なのだ、と書いた。

 これは中々いい表現だったように思える。

この後紡ぐ言葉は何か

 日曜日にここまで書いて、はたと、投稿を躊躇ってしまった。
 意味を問うとかいって、何もできてないじゃないか。俺はもっといいこと書けるんだ、とでも思ったのだろうか。

 高校一年生で自殺した男の子。A4ノート一枚に、遺書が書かれていたという。たったそれだけか。僕もそれぐらいの時期に、日記を書き始めたが、もっとたくさん書いていたと思う。書けばいいってものじゃないけれども、たった一枚程度の紙で、その人の受けたいじめの苦しみとか、そんなの表現しきれるはずはないじゃないか。

 もっとたくさん、いろんなことを思ったはずだ。苦しんだはずだ、悩んだはずだ。けれども、死んだらそれまで。いくら専門家が遺書を分析したところで、本当の理由なんて結局分からない。

 いや、分かって欲しいなんて気持ちすらなくなっていたことだろうとも思う。ただただ人生が苦しい、痛い、つらいという人に、いったいかけてやる言葉があるのだろうか。


 ある無職の人のブログで、昔付き合ってた彼女が結婚してた、みたいな記事があって、それに沢山コメントついてて、「きもい」とか「妄想乙」とか。どうしてそういう感想になるのか。無職で、底辺で、虐げて自分を慰めていたのに、実はその相手は彼女がいてセックス三昧な日々を送っていたことが許せないのか自分は真性童貞だというのに、ということなのか。
 よく分からない。いつも僕は思うに、他者と比較したところで、自分の苦しみなんてわかりゃしないというか、意味が無いと思う。何度も書いているのは、そう自分で思いたいだけかもしれない。そう思いたいけど、思えない、みたいな。

 でも、確かに、今、とても憂鬱な気分であるとはいえ、高校一年生で自殺するしかなかった男の子の苦しみを思えば、俺、世界で一番幸せなんじゃないかと思うぐらい最高な人生である。ラッキー。

 上の感覚。なんと空しいことか。

 他者と比較するというのは、上をみても、下をみても、結局はねかえって辛くなるだけなのだ。






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