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サピエンス全史上巻とサイコパス視聴完了
2016/12/30 08:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット

サピエンス全史の下巻突入

 共産主義や資本主義などイデオロギーも、超越したものの信仰に基づく点で宗教と同じであるという見解自体は、僕もかなり前から思っていて、記事にも何度もしていたけれど、それを体系的な本のなかで指摘されているのは中々刺激的であった。
 考えるポイントは、ああ、僕が思っていて、周りの人たちと何だか感覚があわないなぁとの孤独感につながっていたことの確認と、カタルシスではなまったくもって、なく、このサピエンス全史という本がベストセラーになっているこの事実の方にある。
 これが意味するのは、結局何年かして一笑にふされる可能性があることは、この際は脇において、例えば一神教の矛盾、すなわち悪の概念を孕んでいることなど、想像上の秩序と共同主観的な秩序によって、僕らの社会が維持されていることの認識が広まっていくだろうことである。
 もう1つ重要なことをメモすれば、歴史に必然はなく、僕らの未来も、統計学的な大量のデータによってある程度の推測は可能だとしても、ヨーロッパ連合からの主要国の脱退やとある国の大統領選のように、何が起こるかは基本的に定まってなどいないということについて。
 科学革命は、テクノロジーの進歩、というよりも、無知を認める態度の出現が重要であるとする知見は勉強になった。
 何が、ベストセラーであることが重要なのかは、僕らの社会が想像上の秩序に維持されるものであるのだから、この、超越したことへの批判の心が、多くの人に共通した見解になっていったとき、私たちの現実直面する生活にも、大きく影響が考えられることだ。
 先日の記事で、アニメやゲームに対する危険な意識は、この数十年で大きく変わったことについて、書いた。これは、まぁ僕にしてみれば良かった変化といえようが、果たして、良い方向の変化だけが起こる保障もまたないのである。

サイコパス第一期完了

 法律というのは、いくらマキシマ氏の様な異常殺人者を裁けないとしても、人の、よりよい社会をつくりたいという希う思いの総合なのだから、例え、その1つの事例が感情的に許せなくても、法律それ自体を遵守することが大事なのだ。
 ――というのは、サイコパスというアニメーション作品の、ツネモリ監視官の台詞。
 全部見終わった。結論、これは傑作だった。エンディングまでテンションを維持した作品は珍しいと思った。それほとアニメを見ているわけではないから分からないけど、どうしても24話くらすの作品は、全部みる気になかなかなれない。
 勝手な思い込みなのは承知だが、最初や中盤や終盤が面白くても、結局エンディングはまぁよくあるものになりがちと思ってしまう。
 いやこれは仕方がないのだ。最近よく考えてしまうのは、結局、物語って、ハッピーか、バッドか、この後も戦いは続いていく、か、その三通りしかない。
 その後の彼らを知るものはいない、とか、そんな投げ捨てられたダメな終わり方の作品も少なくない。
 だから、僕はあまりエンディングに拘らないというか期待しない。だから、途中まで見て、それぞれの話がまぁ面白ければそれでいいと思う。でもそれは、それで満足してるというわけではなく、もちろん、見終わった、読み終わったあとに、しばらく思考もわかないぐらい、感動して動きがとれないような、そんな体験をずっと期待しているのである。

感動欠乏症

 感動することを求め続けているのかもしれない。仏教的にはダメなパターンとされることだが。
 サイコパスは面白かったなぁ。ツネモリさんと、シビラシステムと、鴻上さんと、マキシマ氏の四者の価値観のぶつかりが良かったね。シビラさんは、価値観なんていったら気に食わないんだろうけどさ。

2016年に思う来年の目標

 良書にであい、10冊をめざす。とか数は必要ないな。一冊でいい。これは生き方に影響するものを見つけられたらそれでいい。
 だいたい、俺の生き方というのも、わかってきた。他者との比較や、常識というものそれは、たとえば、年功序列とか旧来の価値観もあれば、株をやったり資産形成をしなければいけないとか、結婚とか子孫繁栄とか、新しいものであっても俺は懐疑してしまうだろう、これからも。
 サピエンスの本は面白かったが、これが普遍的になった社会に、僕は埋没できるのか、これも疑問だ。
 恋愛資本主義への懐疑は、もはや、この社会で受け入れられつつあるだろう。もちろんこれからも、ナンパして付き合った数を自尊心につなげられる人は絶えないだろうが、そこから離脱を試みる人も増えていくだろう。
 情報通信技術の発展は、僕らにつながりをもたらしつつも、個別化をも深めていくだろう。
 そしてこの感覚に反駁する人もいれば、共感する人もいるだろう。

 シビラシステムは、特殊性を持つ人の集合脳を普遍化した秩序であった。
それは、いささかに気持ち悪さや嫌悪を抱かせるのであるが、ツネモリ監視官はそれを批判するが全否定はできない。
 快楽が普遍化し、システムが生き死にを、生きざまを決定する時代になり、
 どうやって生きるかを悩めた時代は、それは素晴らしかったという。
 描かれ方としては、多くの人にそういった感じを抱かせたろう。
 しかし、それは才能のあるツネモリさんだからだ。
 能力がないひとにとって、なんでもできる環境というのは、なにもできないことはその人の努力不足と糾弾される。

 ある方が、多くの人が満足しているなら、それはそれでシステムとして完成されているといった。
 そのとおり。
 完璧なシステムは存在しない。
 システムを使うのは、運用者たる人間である。

 人間をなめるなよ、と。ツネモリさんは、よりよい社会をつくりたいという思いの総合が法律だから、感情を拝してでも、守らなければならないという。

徒然故郷へ移動中

 移動中にかいていたら、記事が消えた。よくあることとはいえ、悲しいなぁ。
 クラウドとか、ネットワークサービスの向上というけれども、やっぱり、ローカルな媒体の方が安心するよなぁ。

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感動の種類(サイコパス感想後半)
2016/12/28 17:00 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「正解は、無い。あるのは妥協だけだ」

オタクとアニメ

 昔、アニメが好き、とか言うと、スクールカースト最下層であった。
 いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)

 それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。

 そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。

厖大な数の作品

 その中には、低予算でつくられて、放映時間もあんまりよくなくて、殆ど見られず忘れられていった作品も多いことだろう。

 しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
 しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。

 厖大に増えていく表現媒体。

 そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。

 本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。

趣味の枝分かれによる個人化

 ところが、今は、趣味の多様化、分化が進んでいると思われる。(注:勝手な妄想だ)

 例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
 進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。

 ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。


 年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。

 うん、それはとても大事だ。
 大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。

一般論の無意味性とその標準化

 まぁ、それは究極的にどうでもいい話である。上のような疑問立てをして、それを検証していくのが、文系学問の命題やお仕事である。
 しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。

 本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。

(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)

あれアニメ感想じゃなかったの?

 先日の記事で、サイコパスの公安局の局長が、「悪役っぽいんだけど明快な説明してくれるんだよね~悪役っぽいけど」って書いてたら、ホントに悪役だった(笑)。
 ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。

 ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。

 まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
 なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
 例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。


 何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
 敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。

深くシニカルな群像劇

 そして、群像劇が面白い。マサオカのとっつぁんカッコいい。上司と部下との軋轢に悩むギノザ監察官。「いったい何が正解なんだ……」それに答えるマサオカのとっつぁん、「正解はない、あるのは妥協だけだ」って。
 いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。

 いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。

 でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
 もう一個引用すると、

「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)

 とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
 ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!

まぁ自分の参考にはあまりならない

 いやぁ面白いけど、このまま最後まで見てたら時間がやばい、ということで、そんなことを思っていたら、この記事の最初みたいなことを書いていたわけだ。

 何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、

 僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。

 その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
 今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
 いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。

精神力の回復

 今年……いや去年かに読んだ、ある超人完璧な高校生が、神と合体して悪魔を倒していくという小説読んだときや、ヘルマンヘッセのシッダールタを読んだときとか、ああそう、無職転生も面白かったし、その他、色々思い返せばあるだろう。
 その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。



 願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。

 しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
 確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
 しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……



 時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。

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一般的という言葉への懐疑
2016/12/26 22:43 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「サイコパスそんなに人気が無いわけでもないみたいです」

さも正しいことを信じる人たち

 先日、サイコパスって一般的に評価低いみたいだよ、と書いてしまって、それが他者へ与えた影響に僕自身驚いたのと、そもそも、「一般的に」という言葉を安易に使ってしまったことへの反省が、この記事に繋がった。

 まわりくどいな、簡単に書けば、例えば、

https://www.anikore.jp/anime/3707/

 こちらのサイト上では、かなり高評価を得ているといえる。いやもちろん、僕が評価低いんだなぁと書いたのも、
https://matome.naver.jp/odai/2139022427268660101
 これとか、その他某巨大掲示板系まとめサイト的なのを複数参照した上で、「いまいち感」な人が多いんだなぁという印象は受けた。そのうえでのコメントだったわけだけれども、果たして、その「一般的」というのが、1万人の視聴者がいたときに、9割なのか、7割なのか、5割なのか2割なのか、それを具体的にイメージなど、全くしていなかったという点が反省点である。

攻殻機動隊を超える作品か

 この作品は、プロダクションIG製作とのことで、攻殻機動隊を超える作品になるのでは、と期待されていたらしい。だが、それを超えるようなものではなかった、というのも、特定の人たちのがっかり感の原因の一つなのかもしれない。

 僕もこの点は思った。確かに、攻殻機動隊を比較対象に出したときに、じゃあ、何度も見返したくなるような作品なのか、と言われると、まぁ一回でいいかなぁ、という感覚ではある。いやもちろん、かなり面白いのは事実だ。
 今更に見進めると、先日書いた「シビュラシステム」への欠陥性への指摘に対しても、公安局局長が、非常に明快な説明をしてらっしゃる。(説明内容は、「臭いものには蓋をしようか、それも一般人には誰にも気付かれないようにこっそりとね!」といった感じで、悪役めいた感じなのだけれども、即ち、システムの完璧性への懐疑を述べてらっしゃるのである)

 なんだろうか、このストーリーの明快さ加減が、何度も見返そうかと思う気持ちをあまりもたせていないのかもしれない。代替よくできているから、一回みると分かるんだよな。攻殻機動隊は、最初にみたときは全然分からなかった。そもそも、電脳とは、自己とは、と、テーマすらよく分からなかった。取りあえずサイボーグがかっこよく戦ってるな! 何喋ってるかよくわかんねーが! といった感じで見終わって、二回目をみて、だんだんストーリーとか、伏線とかわかるようになって、その上でもう一回みると新しく面白くて……とか、何回見返したか分からないぐらいである。サイコパスがそうなるか、というと、うーん、今のところはならなそうだ。まぁこれは、最後までみたら分からないけれども。

すみませんでした

 というわけで(いや何も関係していないが)、この記事は、取りあえず適当なことをさも当然みたいに書いてしまったことに対しての謝罪と、深い反省である。本当に申し訳ございませんでした。

 ……まぁこれが、人気ブログとか、立場がしっかりした人の発言だったら、やれ責任問題だ、やめろ、引責辞任だ、とかなるのだろう。

 んでもって、あるところによると、政治家は、謝ったら終わりだ、とかいう言論もある。黒をしろといわないものの、政治なんてのは、駆け引きなんだから、グレーを黒、といったなら、どんな矛盾があろうが指摘を受けようが、一度黒っていったら最後までそれを貫き通せよ、というのが、政治家のあるべき姿だ、みたいな論である。

 まぁ、政治ゲームとか、ご職業とか、そういった想像上の秩序を維持するためには、そういう役割も重要だろうと思う。
 でもそれって面倒だったり生きづらいよなぁと思う。


 でもまぁ、信頼感って大事なものだ。これを崩してしまうと、修復は難しくなる。
 これはサイコパスのシビラシステムに対しての、その局長の見解とも合致する。システムが完璧に機能するのは、システムが完璧に機能していると末端がそう信じて行動していることによるのだと。
 だから、それを脅かす言動なり人物なり存在なり思想なり、そういったものは、大きくなる前に摘み取る、誰にも気づかれないように排除する……と。

 陰謀論みたくなってしまうが、まぁホント、気を付けた方がいいことだと思う。そしてそれに対抗すべき唯一の方法は、先日こきおろした「自分の頭で考える」という方法しかないだろう。ただ、その言葉の意味自体を、よく考えなければ、結局無限螺旋の混沌に沈むだけになる。


 とかなんとか、照れ隠しみたいで非常に恥ずかしい記事である……。



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面白い感覚のズレ(ウォークラフト感想)
2016/12/26 00:25 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「映像が綺麗でもストーリーがダメだと総じてダメだよな、というのは映画でもゲームでも同じ何だよな」

人間(オーク)関係が希薄

 オークと人間の橋渡し的存在を担うことになった女性性をもつハイブリットさんが、何故人間に心を寄せていくのかイマイチ理解ができなかった(というよりも、描写が足りなすぎる。一目ぼれして恋に落ちるレベルで理由が希薄)。

 うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
 それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)

 なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。

 うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。

 具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。

その割に高評価である

 と、正直、全くおすすめできる作品ではないのだけれども、案の定(?)、高評価なのである。
 マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
 これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。

 僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。


 というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。

 と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
 みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
 もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。

周りに流されるな自分を信じろ

 取りあえず、思ったのは、その、なんだ、好き勝手やるしかないってことだよ。
 いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
 その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。

 いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
 いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。

 そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。

 だから、他人のことなんて考えても無駄だ。

 というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。

 その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。


 ものすごーく、端折って書いている。
 恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
 とても大事なことを書いている気がする。

 明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。

目的を果たす

 他者の感情が重要なのではない。
 他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。

 こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。

 愛して欲しい?

 そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
 愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。

主体的に生きる

 結局、主体的に生きるしかないんだ、そう思った。

 彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
 それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
 そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。

モテたいという感覚への懐疑

 なんだっけ、話しがそれた。
 モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。

 となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
 けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)

 話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!

 ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
 そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
 というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。

 北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。

 いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。

プロットを書かないと収拾がつかなくなる

 あれ、この記事って、ウォークラフトの感想じゃなかったの?(かっこわらい)

 というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。

 ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
 人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)

 インプット無くして、アイディア無し。

 何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。


 反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
 くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。


 ……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。




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システムの完璧性への認識度合い(サイコパス感想)
2016/12/25 19:30 | Comments(2) | 創作について
今日の一言「影響されることの恐怖が孤独を招く」

システムに対する認識

 いやぁ、マキシマ氏チーター並みに強い。その強さが批判になっているようだ。

 ええと、サイコパス、一期の半分ぐらい見た。これは良作に思う。しかし、ちょっと調べたところ、一般的な評価はかなり低いようだ。シビュラシステムが欠陥システム過ぎてダメだ、ということが一つの要因らしい。

 けれども、思うに、その「システム」というものに対する認識の違いが感覚の違いなんだと思う。
 この作品はそもそも、システム(今流行のAIなどを含めてもいい)の完璧性への懐疑をしたいんだと思う。その意味で、この半分ぐらいみた段階では成功していると思うのだけれども、いやいや、裁判も何もないままドミネーター(対象となる人の性格や思考や感情などから判断する犯罪係数によって制圧から処刑までしてくれる銃)が全部判断してくれて、それを良しとする社会何て、リアリティなさすぎっしょ、というのが、批判の主たるものじゃなかろうか。

 それは、もっともなようで、あまり興味をもてない指摘である。
 人は何故生きるのか、生きるために生きるのだ、というぐらい、トートロジーでつまらない感想に思える。

 そもそも、資本主義だとか、法律だとか、宗教とか、人のつくった広義のシステムで、完璧なものなどあったろうか。
 世界的な宗教は、人類の愛と普遍性を求めていただろうが、聖地を邪教徒から取り戻そうと、幼い子供たちまで戦地に送り込んだ。そして、戦うことが死後神の国に行けると信じ込ませた。今の資本主義は大分改善されたものの、勃興期では、過剰な労働で多くの人が命を落とした。昨今のブラック企業どころの騒ぎではなかっただろう。

 そうした、システムを信奉する人たちへの懐疑、警鐘というのをしたいのだろうと、2話か、3話ぐらいまで見た段階で何となく思ったが、半分ぐらい見た段階で、(恐らく)ラスボスのマキシマが登場したことで、彼の台詞の中などで分かった。

ラスボス登場

 マキシマは、頭も良くてイケメンで、運動神経も抜群だけど、犯罪者だ。女の子を人質にして、カミソリで切り刻むぐらい悪者だ。
 しかし、前述のドミネーターは反応しない。犯罪係数は低いままだ。撃てない。
 ますますエスカレートするマキシマの行動、ついには人質を……。
 それでも、ドミネーターは反応しない。おかしいだろ! 人を殺す意志をもつ相手に対して、犯罪ではないと、「悪」ではないというのか! 欠陥システムだ! というわけである。

 しかしそれこそが、システムを「神」として信奉し、自らの意志を機械に任せてしまった人々への警鐘というわけである。

 まぁ、これについては、今後、何故シビュラシステムが、マキシマの犯罪係数を計測できなかったのか、もう少し明確な説明が欲しいところだ。
 ただ、批判ばかりする人のレビューはつまらないから、勝手な妄想を書くと、恐らく、多くの「普通の犯罪者」は、「自己の快楽」を求めているのではなかろうか。シヴュラシステムは、人類の幸福、正しいこと、正義、発展に寄与する指数を計測して定め、それと乖離する行動や思考や感情や性格を持つ人を、犯罪者認定していると思われる。
 マキシマ氏の場合は、彼の言動の表面的に見てしまうと、全くもってクソ外道なわけだけれども、彼の本来的な意図、理念、理想自体は、シヴュラシステムをも、「正しい」と判断させるだけの、普遍性や正義をもちあわせているということなのでは無かろうか。

 か弱い女性の喉を掻っ切ることは正義などでは無いだろう。しかし、それを補ってあまりあるほど、「人類」という存在への禍々しくも神々しい「愛」とか「正義」みたいなものに満ちているということなのでは無かろうか。

(そうはいっても、彼自身も何か楽しそうであるし、「自己」はなくて、人類の幸福を希求しているのだ、という説明はどうにも不十分な気がするし、まぁそこら辺は今後の展開に期待しよう)

他者からの影響

 というよりも、レビューをしようと思って記事を書こうと思ったわけではないのだ。
 問題は、面白いと、自分は思った、ということのメモなのである。一方で、この作品の評価はかなり低いようだ。何故二期まで製作が決まったのか全く理解できないという意見も多数のようである。

 それによって僕は思った、あれ、やっぱり、この作品面白くないのかな、と。

 他者からの影響というか、周りに流されるというか、空気を読むというか、そういうこと全般を、特に最近、嫌悪すべきと思っている。

 いやもともと、何か流行にのるとか、そういうのに気持ち悪さを覚えていたし、右に倣え的な行動や考え方というのも違和感があった。いまさら、である。

 ただ、そうはいっても、やっぱり、人間っていうのは社会的な動物であって~みたいな、そういう常識的なものによって、やっぱり、「正しい」考え方ってのがあるのだろうと、そんな風に合わせてやってきたことが多かった。


 結局、何か上手くやろうと思ってやったことって、今になって残ってないよな。

 サイトの運営なんて、金にもならなければ、周囲の人に言わせたら、無駄でしかないということになる。英単語の一つでも、数学の問題といたり、文系がいいなら、国語の文章題でもやってた方がましなんじゃないか、と言われるだろう。

 けれども、交友関係然り、勉強しかり、趣味しかり。

 結局、今となって、30代となって残ってるものは、本当に「やりたい」「やろう」と思ったことだけである。

選択的関係性

 これは、時代の進歩を素直に喜ぶべきである。
 これまでは、ローカルなコミュニティで一生を過ごした。家族、血縁、地域、学校、会社、など。それがすべてであった。だから、そこでの地位の向上や、周囲との関係性の円滑化が、人生始まりから終わりまで、至上命題だった。

 今はどうなのか?

 全部が全部そうじゃないし、未だローカルな関係が重要なのは、あまり変わっていないと思う。(よく分からないけどかっこいいから使えば、未だゲマインシャフトが有効である、とか言ってみたり)

 だから、ローカルがいいとか、グローバルがいいとか、そういう問題じゃなくて、重要なのは、今の時代は、「選択が可能になった」ことにある。
 そして、すぐさまインプットすべきは、自分はどうであるか、ということである。

 一般論的なことしか書かれないブログは、総じて面白くない。
 スピリチュアル系のブログであれ、そのスピリチュアルを批判するブログであれ、人類とはー、新興宗教の奴らはー、愛とはー、悩みを解決するにはーとか。ぶっちゃけ、全部くだらないと最近思う。いやもちろん、最初はいろいろ参考にさせてもらったものは大いにある。ザ・シークレットの引き寄せの法則とか、面白い本だった。けれども、いまや、それらの、二次、三次、四次……といった情報ばかりである。いや、反転すぐに書いておけば、それらが無駄とは思わない、何故ならば、最初に書いたように、ローカルなコミュニティは未だ有効性はなくなっていないと思うからであって、というのは、同じ神託であっても、全く知らない人からきくのと、信頼する身近な人から聞くのでは、意味合い(影響力)がまったく異なるからだ。
 つまり、「僕にとって」は、それらはくだらない、というわけである。

批判軸の構築

 上のようなことは、それ自体くだらないと思っている。
 何かを批判するということは、正直、あまり意味ある行為ではないのだ。
 その批判とは、「批判しなければ自分に害が及ぶ」からするべきであるのだ。全く関係ないところで、ただ批判だけするというのは、「批評家」という職業であれば別だが、単なる暇つぶしでしかないのだが、それは全く持って悪趣味な暇つぶしと言わざるを得ない。

 サイコパスで、全身サイボーグ化して、後は脳みそだけだね~その脳みそを若返らせるには、狩りで殺した人間の骨でつくったパイポを吸って、血肉わき踊るような壮絶な命のやりとりをすることだよねーといっていた、サイボーグ技術の会社の会長さんぐらい悪趣味である。



 ただ、ちょっと離れて考えてみれば、どうして批判のための批判をしてしまうのか、その理由も理解できる。
 つまり、秩序というのは、結局共同主観的なものであって、その批判する対象というのは、自分の感覚から「ズレ」があるものである。そのズレをほっておいて、そのズレが段々と大きくなって、それが主流となってしまうと、結局のところ自分が困るのである。
 だから、異端をできる限り排除しようとする心が生じる。

 だから、とても人間的な行為である。

 けれども、それって、隣の国の野蛮人、ちょっと人間とは思えないから虐殺するよ~というのと、同じ心性と思ってしまう。いやもちろん、生物的に殺すのと、社会的に殺すのでは、意味合いもその抵抗感も違うことだろうが、まぁ、上に取り上げた会長さんの言葉を借りると「程度の問題」である。

マサオカのおやっさんの台詞

 突然、サイコパスの作品に戻ると、一番好きなキャラはマサオカさんだな。
 猟奇的な殺人を繰り返す高校生女子の犯人を追い詰めた際、そのカリスマを持つ女生徒を先生も生徒もみんな守ろうとする。そんな中、マサオカさんは、クソ女を守ろうとする先生を取り押さえて、こう言い放つ。

「いやー先生、今のご時世、少年法とか無いんですわ」

 やば、しびれた、濡れた、かっこいい!(とか、こんなシーンに感動するとかやっぱりちょっと俺はおかしいのか(かっこわらい))

 まぁ、取りあえず、二期をみるかどうかはまだ未定だけれども、年内最後に近づいて、面白い作品に出会えたのはよかった。(年内期待していた小説は残念ながら翌年に持ち越しなのか……)

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