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息をするように面白い記事を書けないものか?
2017/01/04 20:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
面白い記事とは何か。

まず、文章は、三つに分けられる。
1つは面白いもの、2つは役に立つもの、3つはつまらなく役に立たないものだ。

役に立つというのは比較的簡単だ。読み手が求める情報が含まれている文章のことである。

一方、面白さ、となると、これは難しい。それは、主観要素が強いからだ。


興味を惹く必要性



読者は、文章について、何か求めるものがある。
それが満たされたとき、面白いと思うか、役に立ったか、どちらかを得る。

例えば、知人のブログやFacebookの記事に対して、役に立つことをそれほど求めているだろうか?
料理のレシピを毎日のせてくれる友人がいるかもしれない。しかし、その友人よりももっと優れた料理記事を書く人は、残念ながら大勢いるだろう。

しかし、ここでは、その知人、という属性が多いに意味を高めている。それは様々な理由があるが、大きいのは、信頼性という面である。
知らない誰かの記事よりも、自分の知っている人が言ってることの方が信頼できるというのは当たり前である。


しかし、不特定多数に向けた記事においては、その信頼性が働かない。そうしたとき必要なのが、興味を惹くことだ。それには、自分自身についてや、そもそも、これから書こうとする記事についてインパクトを与えることを簡潔にキャッチーに記述する必要がある。


読者のイメージ


ゆえに、面白い記事を、身内だけでなくて、普遍的に書こうと思ったら、これは矛盾するようだが、逆に、読み手を限定する必要がある。

例えば、このブログは、30代の男が離婚したけどさぁどうやって生きていこうか考えるブログであって、その、同じような境遇の人に向けられたものである。

この、同じような、というのは、30代である必要もなければ、男である必要もなく、もちろん、離婚をしたかどうかも関係ないのは、過去の記事からの連綿とした内容を見れば分かることなのであるが、残念ながら、初見の人に対してそこまで伝える方法は、存在しない。



そうなると、もう、一つ一つの記事が、真っ向全力勝負となる。

資本主義やら、量子物理学やら、小難しいことを書いている記事にぶちあたったら、求めていたものが違うと、即座にブラウザバックになることだろう。

ゆえに、流し読みでもなんでも、とりあえず読んでくれた方にはいつも大変感謝である。

その上で、コマーシャリズムは好きではないが、書き手と、読み手のマッチングというのは、とても重要な仕事になりえると思う。
しかし、これまた逆説的に、そのマッチングしてくれる人と、自分の感性、求める方向性が一致していないと、その仕事はいくらがんばっても、空振りに終わるのである。


結論的には好きなことを書くしかない


そもそも、何故僕が、こんなことを書かなければいけなかったかといえば、似たような、思考をそのままアウトプットしたようなブログや記事を、いくつか拝見したことが起因である。

そして、なんというか……それらが、つまらなかった、というか、表現が稚拙すぎて面白くなかったのである。


それを思うと、ああ、俺が書いてるのも、つまらねーんだろうなぁと、思ってしまい、いくつかストックしていたものの、投稿することができなくなってしまった、のが、年末から最近にかけての出来事である。


ただ。そうはいっても、やっぱり、その、読者は、絶対的に限定せざるえないのであるがゆえに、結局あまり気にせず書いていくしかないとおもったわけだ。

傲慢すぎるけれど、これで面白くなかったら、残念、貴方にはあわなかったのですね、と、そんな意気込みでもいいかもしれない。
ただ、そうはいっても、過去か、未来の、せめて自分にとってだけは、何らか、面白いか、役に立つかの感情は起こさせてあげたいものだ。

まとめ


今年も好き勝手書いて行くので、適当な感じでお付き合いください。
どうぞ本年も宜しくお願いします。



タイトルの回収すると、無理。なるようになるしかない。
ただ、表現や文章作法、構成、小見出しの付け方など、留意すべきテクニックは多くある。これらについては慢心することなく、感情的に高ぶっているときも、留意していきたい。


補足


文中のあまり面白くなかった記事というのは、リンク先の方々とは別です。例えばミルトンのレビューとかむちゃくちゃ面白かったです。




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2017年中途半端な目標
2017/01/02 20:00 | Comments(0) | 目的・目標

2017年

などと書いていたら、年が明けてしまったよ。恒例の何だか自意識をこねくりまわしたような、来年の抱負とかそんなものをしてる間もなく、年老いた両親と過ごしたよ。まだ元気だけれどもね、年月の経過は否めないよね。

今回は休みが短いのもあり、完全に頭を切り替えることができなかった。仕事のことも気になるよね。前に、重く責任があることが迫ってると、三連休も嬉しくない、気が休まらないと書いたけど、似たようなもんだよね。

これを例えると、いつもの極端だけど、死刑囚みたいなものだ。毎朝、今日は執行の日か、と怯えるのだよ。年末の執行はないとのことだから、28日ぐらいまで大丈夫だと、しばし何日かは安寧なんだと聞いたよ。でも、その一日や三日や、その程度の時間が、なんになるのかって思うよね。

壮大な人生のカウントダウン

でもね、今思ったけど、まぁ、人生そのものが、明日終わるかもしれないカウントダウンなわけだよ。
平均寿命? 単なる気休めにすぎないよね。

それにたいして、僕たちがとれる手段って、

考えないこと、なわけだよね。

だから、考えない生き方ってのもあるわけだよ。それは、ヤンキーとかチンピラとか、バカ野郎とか屑人間とか、一般にダメなやつらにカテゴライズされる人たちがいても、実はそこに学ぶことは多いのかもしれないよ、まぁあまり関わりたくないが。

ただ、すぐさま書いておくべきは、僕はそんなカテゴライズをそもそも信用してない。茶髪、ピアスしてたらヤンキー? 悪い奴? そんなことないよね。見かけだけの問題じゃないし、パリッとスーツできめた真面目そうな人でも、詐欺師かもしれないよ、怖いよ。

そういう、他者、の信頼性が、大人になるほどに構築が難しいという点で、子供のころ若い頃の友人が大切だということが言われるわけ。

だから、別に大人になってからとか、会社のなかで友人ができないとか、そんなのもくだらない思考でしかない。

でも、シビラシステムなんてないせかいだと、そもそも他者をスキャンする、時間的精度的コストが高いから、そもそも他者を信頼しない、という行動方策もまた、正しいという場合もある。

ようは、完全敵役悪役だった、サイコパスの狩猟大好き会長のいってた、程度の問題、というわけだよ。


まぁ、そんなこと皆わかってるんだろうね。わかっているなかで、みんな、心の自動的なスタビライザーによって、安定させて、日々を生きているのだろうね。

何で生きてるとか、こんな役に立たないことを考えたりしないんだろうね。

だが。

死ぬ直前まで死ぬことを認められない

これも何かで見たり聞いたことだけど、人は、最後まで自分の死ぬことを認められないという。
それは、ギロチンで、首をかせにはめられ、ロープが断ちきられ鋭い刃が落下するおとを聞いた瞬間でさえも、自分はなにか奇跡がおきて助かるのではないか、と。

これはまぁ、突発的な状況においてで、キューブラーロスの、死ぬ瞬間においては、終末期医療における、五段階ぐらいの、患者が死に向かう際の心の移り変わりが事例をもって示されている。

最初はやはり、何で自分が? と、認められないけれど、徐々に死を認めて諦念していく、というわけなので、突然事故にあったようなときでは、死ぬことを簡単に認められないことは当然に思える。


だから、一日一日を、大切に生きなさいよ、という結論だ、しかし。

本当にそうか?

どうなの? ヤンキーのように、日々を楽しく暮らしてればそれでいいんじゃない?

めめんともり、死を毎日感じながら生きてるなんて、そんなの死刑囚の生き方じゃない?

もっと自由に、自分にはまだまだ可能性がたくさん広がっていて、ますます喜ばしく楽しい人生が広がっていくって、そんな風に感じて生きてりゃいいんじゃない?


さてここで問題だ。

あなたは、2017年を、どのように生きるのか?

2008年や2010年ぐらいのように、感覚的に享楽的に生きるのか。

それとも、2004年や2009年ぐらいのように、思考的に禁欲的に生きるのか?


答えは決まっている。

ハードウェアの部分は後者で思考的に、ソフトウェアの部分は前者で享楽的に生きる。

矛盾する概念であり、難しいところだ。

が。

これしかないだろう。
今年、あまり目標だとか目的だとか書こうと思わなかったのは、方針がもう固まっていたというのもありそうだ。

目標

なんだろう。目標をたくさん掲げて、今日はこれを達成できましたーとかやってく、意識高い系のblogって、嫌悪してしまう。

なに頑張ってる感だしてるの? 勝手にやってろよ。

なんて思ったりしたりどうだったり。ただ、ある派遣プログラマの方のblogも、そんな目標書いていて、スゲーちゃんと実現とかしていて、すげーなぁって思うけど、あんまり嫌な気分にならない。

これって、SNSで、幸せな家庭ですアピールをするために写真をせっせとあげる人なのか、本当に自分のせっぱつまった生きざまにおいての必要性にせまられてるものなのかの違いな気もする。

まぁ、その、リア充自慢する人も、ある意味必死なのだろうから、別に否定する気もないのだが、恐らく、その、優しい旦那さん(奥さん)がいて、子供が健康ですくすくそだち、頭がよくて、友人も多くて家でクリスマスパーティーやって、と、そういう幸せ観を絶対視していて、それを享受できる私ってすごいでしょ、という感覚がにじみでていると、うわ、なんかイラつくな、ってなるのかもしれない。

例えば、非モテなアラフォー女性が婚カツパーティーでいい男ゲットだぜ! とかいうブログは面白いよ。目標もはっきりしてるし、創作だとしても、なんか頑張ってる感じが応援したくなる。



はて?
では俺は、応援したくなる人間なのだろうか?

この問いは結構、自分でやってて心がえぐられる。
うーむ、確かに、あんまり、こいつ、応援したくないな(笑)

ただ、ある精神科医のブログの方なんて、とても応援したいなぁって思う。まぁ応援なんてもう必要なくて、能力も高くて、妻子に恵まれ幸せな生活を送られてる方なんだけどさ。

でも、書いてる内容的には、ちょっと僕も目指したいというか、その方のブログを読んだときに僕が感じた、ああ、よく言ってくれた! という感覚を、僕も、僕のブログをもし読んでくれた方がいたら、その人に与えたいなって、そう思うよ。

というのを前提に、目標を立て並べる。

目標

ブログ継続。
思考の体系化。

ええと、これは、僕は、自分ってどんなひと?
と聞かれると、困ってしまう人間なんだけど、明確な答えを言えるようになりたいということだ。

仕事にも関係する。君はなにできるの? といわれたとき、明確に価値を語れるような人間になる、ということ。

これが何故大事なのか? 仕事人間になるということか? すわ社畜か?

ノーだ。むしろ、効率的に時間を捻出できる方策だ。つーかむしろ、誰にでもいい顔して、やる気を見せて、がむしゃらに頑張るってのを遮断する方策だ。

俺はこれができる、そのためにはこれくらいの期間が必要だ、だからそれはできない、と。読んだことないけど、断る力、みたいなもんだろう。たぶん、それ系統の本を読んでも、コアコンピタンスをもてとか、その程度のことしか書いてないはずだ。

もう1つ消極目標を掲げれば、コラムとか、ビジネス本とか、自己啓発的なニュースとかは、極力目にもしないようにしたい。ああいうの、不安だけ煽って対した答えが全くないのだ。99%ないといっていい。当たり前ちゃあそうで、責任もなければ、そもそも、これやって誰でも絶対成功する遣り方があるなら、それでもうみんな大成功してる人ばっかりになるはずだ。

1つ、誰にでも絶対に当てはまって、成功することをここで書いてみようか。

それは、習慣をつくることだ。
筋トレでも、勉強でも、ビジネスの営業でも、繰り返し学び身に付けそれを見直し改善していくというプロセスとメソッドを自分のものとして、習慣化することが、人生の大成功のための唯一絶対普遍的な方法である。



誰にでも当てはまる、ただし、誰でもできるわけではない、ここがポイント。

メソッドはあっている、ただ、あなたが成功できないのは、あなたがそれを正確に毎日ちゃんと実践できていないからです!

というわけだ。責任はとる必要などない。

具体的に、こういう方法が必要です、と描かれる本やニュースはまだいい。その殆どが、不安を煽るだけで終わってるからたちが悪い。


まぁそれは2017年、僕にとってはどうでもいい。きっとこれからも、そうした記事や本はなくならず、コマーシャリズムはこれからしばらくも続くことだろう。

だから、頑固親父になろう、というのでもないけれども、例え後ろ指さされてクレームや批判をされても、必要以上に気にしないことだ。

不安を煽ってるのはお前自身では?

不安を煽るだけ煽って、答えを示さない。
それって、このブログそのものじゃないかと思った方はその通りだ鋭い。

あれもだめ、これもだめ、じゃあ何がいいの?

なんだろう?

それを探し求めているのが、このブログの主旨そのものである。

生きる意味を徹底して考える。


これー、結構大変なことな気がしてきたよ、と、いまさらか!

何をしても、何を感じても、この価値基準ではかられるわけだ。

友人と楽しく徹夜で遊んだと、で、それは意味につながったのか? と、常々聞かれるのだ。
ええ、楽しかったよと。わざわざ出向いてくれて、気兼ねせず好き放題やれる関係があるって、ほんと素晴らしいことだとおもったよ。

家族もよいものだった。一緒に酒を飲んで、リビングで寝転がって、テレビを見て他愛ない話をして。


それらは、それだけで価値のあるものだろう。

それらについて、果たして生きる意味を考えることに資する行為だったのかというのは、これはもう野暮というか、頭がおかしいサイコパスでしかなかろうに。



だからこそ。
いやそれでもなぉ、どうしても、このブログのタイトルを変えずに続けるというならば、それはかなり困難な大変なことであるのは、、間違いないのだ。


今から方針を変えるか?
感覚的に、享楽的に生きたあの頃に戻るのか?

煽りに対して安定している

うん、さんざん馬鹿げたことだと書いてもなお、やっぱり、今年の方針は変えようとは全く思わない。

このまま攻める。


攻める?

うん、新しい言葉が出たけれど、この攻めるのはいいかもしれない。
あるリアルタイムストラテジーのゲームが好きで、高校のときずっと友人と遊んでいたものだけれども、高い城壁を築いて、大砲を配置し、内政に力を入れて守りを固めても、その友人にはいつも勝てなかった。結局、攻めなきゃ、どんどんじり貧になって、滅ぼされてしまうのである。

もちろん、今の世の中で、軍備拡張して他国に攻めいるとか、帝国主義的なことではなく、言論とか法律とか資本主義とか、したたかな外交とか、他の面での戦いが必要だというのは当たり前である。

じゃあ、何をして攻めようかというのは、今後の検討だけれども、まぁ、どんどんやってこう。

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サピエンス全史上巻とサイコパス視聴完了
2016/12/30 08:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット

サピエンス全史の下巻突入

 共産主義や資本主義などイデオロギーも、超越したものの信仰に基づく点で宗教と同じであるという見解自体は、僕もかなり前から思っていて、記事にも何度もしていたけれど、それを体系的な本のなかで指摘されているのは中々刺激的であった。
 考えるポイントは、ああ、僕が思っていて、周りの人たちと何だか感覚があわないなぁとの孤独感につながっていたことの確認と、カタルシスではなまったくもって、なく、このサピエンス全史という本がベストセラーになっているこの事実の方にある。
 これが意味するのは、結局何年かして一笑にふされる可能性があることは、この際は脇において、例えば一神教の矛盾、すなわち悪の概念を孕んでいることなど、想像上の秩序と共同主観的な秩序によって、僕らの社会が維持されていることの認識が広まっていくだろうことである。
 もう1つ重要なことをメモすれば、歴史に必然はなく、僕らの未来も、統計学的な大量のデータによってある程度の推測は可能だとしても、ヨーロッパ連合からの主要国の脱退やとある国の大統領選のように、何が起こるかは基本的に定まってなどいないということについて。
 科学革命は、テクノロジーの進歩、というよりも、無知を認める態度の出現が重要であるとする知見は勉強になった。
 何が、ベストセラーであることが重要なのかは、僕らの社会が想像上の秩序に維持されるものであるのだから、この、超越したことへの批判の心が、多くの人に共通した見解になっていったとき、私たちの現実直面する生活にも、大きく影響が考えられることだ。
 先日の記事で、アニメやゲームに対する危険な意識は、この数十年で大きく変わったことについて、書いた。これは、まぁ僕にしてみれば良かった変化といえようが、果たして、良い方向の変化だけが起こる保障もまたないのである。

サイコパス第一期完了

 法律というのは、いくらマキシマ氏の様な異常殺人者を裁けないとしても、人の、よりよい社会をつくりたいという希う思いの総合なのだから、例え、その1つの事例が感情的に許せなくても、法律それ自体を遵守することが大事なのだ。
 ――というのは、サイコパスというアニメーション作品の、ツネモリ監視官の台詞。
 全部見終わった。結論、これは傑作だった。エンディングまでテンションを維持した作品は珍しいと思った。それほとアニメを見ているわけではないから分からないけど、どうしても24話くらすの作品は、全部みる気になかなかなれない。
 勝手な思い込みなのは承知だが、最初や中盤や終盤が面白くても、結局エンディングはまぁよくあるものになりがちと思ってしまう。
 いやこれは仕方がないのだ。最近よく考えてしまうのは、結局、物語って、ハッピーか、バッドか、この後も戦いは続いていく、か、その三通りしかない。
 その後の彼らを知るものはいない、とか、そんな投げ捨てられたダメな終わり方の作品も少なくない。
 だから、僕はあまりエンディングに拘らないというか期待しない。だから、途中まで見て、それぞれの話がまぁ面白ければそれでいいと思う。でもそれは、それで満足してるというわけではなく、もちろん、見終わった、読み終わったあとに、しばらく思考もわかないぐらい、感動して動きがとれないような、そんな体験をずっと期待しているのである。

感動欠乏症

 感動することを求め続けているのかもしれない。仏教的にはダメなパターンとされることだが。
 サイコパスは面白かったなぁ。ツネモリさんと、シビラシステムと、鴻上さんと、マキシマ氏の四者の価値観のぶつかりが良かったね。シビラさんは、価値観なんていったら気に食わないんだろうけどさ。

2016年に思う来年の目標

 良書にであい、10冊をめざす。とか数は必要ないな。一冊でいい。これは生き方に影響するものを見つけられたらそれでいい。
 だいたい、俺の生き方というのも、わかってきた。他者との比較や、常識というものそれは、たとえば、年功序列とか旧来の価値観もあれば、株をやったり資産形成をしなければいけないとか、結婚とか子孫繁栄とか、新しいものであっても俺は懐疑してしまうだろう、これからも。
 サピエンスの本は面白かったが、これが普遍的になった社会に、僕は埋没できるのか、これも疑問だ。
 恋愛資本主義への懐疑は、もはや、この社会で受け入れられつつあるだろう。もちろんこれからも、ナンパして付き合った数を自尊心につなげられる人は絶えないだろうが、そこから離脱を試みる人も増えていくだろう。
 情報通信技術の発展は、僕らにつながりをもたらしつつも、個別化をも深めていくだろう。
 そしてこの感覚に反駁する人もいれば、共感する人もいるだろう。

 シビラシステムは、特殊性を持つ人の集合脳を普遍化した秩序であった。
それは、いささかに気持ち悪さや嫌悪を抱かせるのであるが、ツネモリ監視官はそれを批判するが全否定はできない。
 快楽が普遍化し、システムが生き死にを、生きざまを決定する時代になり、
 どうやって生きるかを悩めた時代は、それは素晴らしかったという。
 描かれ方としては、多くの人にそういった感じを抱かせたろう。
 しかし、それは才能のあるツネモリさんだからだ。
 能力がないひとにとって、なんでもできる環境というのは、なにもできないことはその人の努力不足と糾弾される。

 ある方が、多くの人が満足しているなら、それはそれでシステムとして完成されているといった。
 そのとおり。
 完璧なシステムは存在しない。
 システムを使うのは、運用者たる人間である。

 人間をなめるなよ、と。ツネモリさんは、よりよい社会をつくりたいという思いの総合が法律だから、感情を拝してでも、守らなければならないという。

徒然故郷へ移動中

 移動中にかいていたら、記事が消えた。よくあることとはいえ、悲しいなぁ。
 クラウドとか、ネットワークサービスの向上というけれども、やっぱり、ローカルな媒体の方が安心するよなぁ。

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感動の種類(サイコパス感想後半)
2016/12/28 17:00 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「正解は、無い。あるのは妥協だけだ」

オタクとアニメ

 昔、アニメが好き、とか言うと、スクールカースト最下層であった。
 いわゆる、「オタク」という言葉が、連続幼女殺害事件あたりで最高潮に有名になって、その余波がじわじわと浸透していた時期である。アニメ=気持ち悪いの図式、もちろん、小説とか漫画とかラノベとかそういった趣味も認められるものではない。スポーツと勉強、あと女の子、それがスクールカースト上位の条件であった。
(注:脚色して書いている)

 それが今や、先日資格試験の関係で、とある高校の教室に入る機会があったけれども、図書室の前を通ると、ふつーに、リゼロ(読んだことない)とかゼロの使い魔(とかその辺の奴だった気がする)が新刊コーナーとかおすすめ図書的に紹介されているのである。これはちょっと驚いたものだ。

 そもそも、あまりアニメに詳しくないから分からないけれども、「今期はどうだった」「来期のあれは期待できる」とかそういった記事とか会話とかも耳にするようになった。そんな、アニメって、毎年ラインナップされるようなものだったのだろうか。それは、1990年代ぐらいから、ずっとそんな毎年何本もの作品が放映されていたのだろうか? 多分そうなんだろう。そしたら、今やすごい数の作品があふれているのだろう。

厖大な数の作品

 その中には、低予算でつくられて、放映時間もあんまりよくなくて、殆ど見られず忘れられていった作品も多いことだろう。

 しかし、それを嘆く暇なんてない、オンライン小説の世界も大きく様がわった。そもそも、膨大な数の作品にあふれ、(という感覚は、既に10年前にも思ったものだが、今はそれよりももっと、もっとだ)それを公表する場すら増えて、その中には、書籍化するような作品もますます増えていっている。
 しかし、その中でも、カーストはあって、落ちぶれていく奴や、歯牙にもかけられない作品も増えているし、面白いし品質もよいにもかかわらず、宣伝が不足しているため目が出ないものだってたくさんある。

 厖大に増えていく表現媒体。

 そしてそれを、日々の食事のように摂取し排泄している私たち。

 本来、「趣味」というのは、個々人の価値観を集約し、共通の場や会話を得るための手段であった。イギリスなどの喫茶店では新聞がおかれ、サロンでは、多くの人たちが集まって、社会世相についてああでもないこうでもないと言い合ったという。他愛ない世間話が言論となり、世論となり、社会に影響を与えることもあったのだろう。

趣味の枝分かれによる個人化

 ところが、今は、趣味の多様化、分化が進んでいると思われる。(注:勝手な妄想だ)

 例えば、アニメが趣味です、といったところで、その相手が、全然自分と異なるジャンルの作品ばかりをみていたら、例えばロボットアニメが好きな人と、ひだまりスケッチとか仄々萌えアニメが好きな人とでは、残念ながらまり会話がはずまないだろう。
 進撃の巨人とか、テラフォーマーズとかしか見てませんというライト層と、深夜アニメを録画もしてかかさずみている人とでは全く違う人種と言ってよいだろう。

 ますます個人化していく社会。一方で、学校教育は、未だ集団での生き方を教えようとする。社会秩序、連帯責任、協調性エトセトラ。


 年末・年始になれば、忘年会や新年会で会社の人たちと一致団結してがんばろうと。あまり関わらない人とも話をしようと。人脈が大事だぞ、と。

 うん、それはとても大事だ。
 大事なんだけど、一方で、社会自体が、人々の心のありよう(もちろんここでの人々とは、個々人に還元されるレベルのものではなく、集団的傾向としてのありようである。もっといえば空気感みたいな)自体が個人化、個別化が進んでいるのではなかろうか。

一般論の無意味性とその標準化

 まぁ、それは究極的にどうでもいい話である。上のような疑問立てをして、それを検証していくのが、文系学問の命題やお仕事である。
 しかしその証明は、往々にして、普遍化すればするほど(当然、学問における真理とは、万人万物に通用する普遍化である)一般人に理解しがたいものへと変容していく。

 本当に自分が明らかにしたかったこと、証明したかったこと、例えば僕がずーっと長い間感じてきた「なんか違う」という感覚(それを閉塞感やら生きづらさやら、いろんな言葉で表現してきたが、結局その表現はその場その場で変わるような流動的なものにしかなり得ない。だから、厳密な言葉の定義はここでは重要ではない。単に「なんか違う」というズレ、その認識)を明らかにしたいと思って、様々本を読んだり人と話したり自分で考えたりしたとしても、結局のところ、その「普遍性を求める」方針は、自己に対して有用な語り部にならなかった(ならない場合が多かった)ということなのだ。

(↑なんか、大事なことを書いた気がする。明日の俺……は、色々予定が入っていて多分読んでる時間がないが、2017年新年になってからの俺は、是非読み返して、赤面するか、感心するか、是非そのことを記事にすべきだ)

あれアニメ感想じゃなかったの?

 先日の記事で、サイコパスの公安局の局長が、「悪役っぽいんだけど明快な説明してくれるんだよね~悪役っぽいけど」って書いてたら、ホントに悪役だった(笑)。
 ただ、ほんとにそれが悪なのだろうか、という問いなのだろう。結局、その人はマキシマさんに負けちゃうのだ。しかしその人は実は……という展開は、中々しびれた、面白かった。

 ただ、シビラシステムの正体の説明というのが、うーん……何か、ちょっと、並列負荷分散と言われていたけれども実は○○でした、というのが、何だろう、あまり驚かなかった。局長さんも、その前話あたりで「黒幕感」出しちゃったしなぁ。やっぱり、今作はある程度「わかりやすさ」を前面に押し出してる気がする。ちゃんと順番にみていけば、話においてけぼりになることができるだけないように、色々工夫されてるんだなぁ、と。

 まぁそんな感じではあったけれども、その後の展開がまた一局面動いて、「おぉぉ! まだ続きますか!」と感動した。
 なんだろう、音楽で言うコード進行で、セブンスコードでテンションをずっと保ってる感じで、なんというか、そろそろトニックコードに戻って落ち着いてくれよ! と思わせてくれるほどだ。
 例えが分かりづらいな、何というか、執行官のやよいさんパートぐらいしか、本筋からズレている話がなくて、ある意味初めからずっとマキシマ氏を追い続けているような流れである。いや、これは悪いことじゃないな。


 何というか、まだ途中だけれども、この後数話でどんな展開になるか分からない。
 敵の敵は味方だぜ、みたいになるのか。楽しみである。

深くシニカルな群像劇

 そして、群像劇が面白い。マサオカのとっつぁんカッコいい。上司と部下との軋轢に悩むギノザ監察官。「いったい何が正解なんだ……」それに答えるマサオカのとっつぁん、「正解はない、あるのは妥協だけだ」って。
 いやー、これ、単にシニカルな批判者だったら、クソ役にも立たないゴミ野郎の台詞なんだけれども、この言葉が似あう人物って、いいね、よく表現されてる、描かれている、かっこいい、素晴らしい、ここら辺は手放しで称賛である。他の誰が何といおうが、僕は良いと思った! 感動した。

 いやでもこれは、中二病的心性によると、ついつい傾倒しちゃうんだけど、これにかまけちゃうとね、無気力とか、その他さまざま問題を抱えるようになるんだけどね。

 でも、よくいってくれた、よく言った! と、僕は思ったわけだ。アニメだけど。
 もう一個引用すると、

「ご主人様とボール遊びする犬なんだよ。犬になりきるしかないんだよ。でもな、それもできないなら、ボールになればいいんだよ。好き勝手投げられて大変に思えるかもしれないが、その場に合わせてどんな風にもなれるんだよ」(ちょっと引用がテキトウである)

 とか、まぁ、歳食った老害みたいなこと言うんだよ、このマサオカさんは。
 ところが、同僚のある一人の脱走を見過ごしたことを「そんなに正義のヒーローになりたいってのか! かっこつけたいってのか!」と咎められたとき、「正義? いいや、違うね。これは男の意地だ」とか言っちゃうんだよこの人は! 「男のロマン」とかも言っちゃいそうだよこの人! まったくどこの時代遅れの老人だよ、でもな、何かすげーいい感じの生き方だなって思ったよ!

まぁ自分の参考にはあまりならない

 いやぁ面白いけど、このまま最後まで見てたら時間がやばい、ということで、そんなことを思っていたら、この記事の最初みたいなことを書いていたわけだ。

 何だろな、やっぱりその、何というか、「真理を追い求める生き方」というのは、誤りなんだということは思った。いやもちろん、きっとこれからサイコパスの展開でも、それと反する在り方の存在が登場するだろう、それがきっと、ツネモリ監視官に与えられるロールモデルなんだろうと、勝手なこの予測が当たるかどうかは別として、

 僕としては、恐らく、幼いころの感覚とは反するのだろうけれども、いわゆる、「他者に合わせた生き方」というのは、これから先、自分にとっては役に立つものではないだろうという感覚である。

 その感覚が強まる程に、孤独感や、疎外感や、そもそも生きることへの懐疑といった、無気力の覆いに包まれていくのだけれども、ただ、そこに負けてはならないなと、そんな珍しく前向きに思ったわけだ。(いや、いつも自分は前向きでしかないのだが)
 今日も、最近のいつものごとく、どうしようもなく苛々というか、焦燥というか、不安というか、とにかく感情が落ち着かないのが24時間中半分以上を占めていたという状態だったのもあるかもしれない。
 いや、逆に、そのような状態であっても、良い作品に出会うと、ちょっとまだ精神を保てるんじゃないかという感覚を呼び起こしてくれる。メンタルポイント(精神力)の回復である。睡眠時間は5時間未満で体調はよくないけれども、やはり、ただ「休む」んじゃなくて、良い作品にふれる、というのが、メンタルポイント回復の方法なんだろう、僕にとっては。

精神力の回復

 今年……いや去年かに読んだ、ある超人完璧な高校生が、神と合体して悪魔を倒していくという小説読んだときや、ヘルマンヘッセのシッダールタを読んだときとか、ああそう、無職転生も面白かったし、その他、色々思い返せばあるだろう。
 その、ずがーんと、雷でうたれたような、心の内から爆発するような感覚、ありていにいえば「感動」こそが、精神力を回復させてくれる方法なのだ、と。



 願わくは、自らも、そういった作品をつくりたい。

 しかしどうなんだろ。自分でつくった作品でずがーんと、回復するものなんだろうか?
 確かに、作品を一つ完成させられたときは、大きな充実感や達成感のようなものを得ることができる。
 しかし、それが、まるで自慰のように、自己回復い資するものになっているだろうか? これは結構難しい問いな気がする、そもそも、感動というのは、自分の知識経験言語からあまりにも乖離している場合は発生しえない、一方で、「ああまたか」といったような従来の感覚を踏襲するものであってもそれは……



 時間切れと、話が変わりまくってるためここで終わり。

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一般的という言葉への懐疑
2016/12/26 22:43 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「サイコパスそんなに人気が無いわけでもないみたいです」

さも正しいことを信じる人たち

 先日、サイコパスって一般的に評価低いみたいだよ、と書いてしまって、それが他者へ与えた影響に僕自身驚いたのと、そもそも、「一般的に」という言葉を安易に使ってしまったことへの反省が、この記事に繋がった。

 まわりくどいな、簡単に書けば、例えば、

https://www.anikore.jp/anime/3707/

 こちらのサイト上では、かなり高評価を得ているといえる。いやもちろん、僕が評価低いんだなぁと書いたのも、
https://matome.naver.jp/odai/2139022427268660101
 これとか、その他某巨大掲示板系まとめサイト的なのを複数参照した上で、「いまいち感」な人が多いんだなぁという印象は受けた。そのうえでのコメントだったわけだけれども、果たして、その「一般的」というのが、1万人の視聴者がいたときに、9割なのか、7割なのか、5割なのか2割なのか、それを具体的にイメージなど、全くしていなかったという点が反省点である。

攻殻機動隊を超える作品か

 この作品は、プロダクションIG製作とのことで、攻殻機動隊を超える作品になるのでは、と期待されていたらしい。だが、それを超えるようなものではなかった、というのも、特定の人たちのがっかり感の原因の一つなのかもしれない。

 僕もこの点は思った。確かに、攻殻機動隊を比較対象に出したときに、じゃあ、何度も見返したくなるような作品なのか、と言われると、まぁ一回でいいかなぁ、という感覚ではある。いやもちろん、かなり面白いのは事実だ。
 今更に見進めると、先日書いた「シビュラシステム」への欠陥性への指摘に対しても、公安局局長が、非常に明快な説明をしてらっしゃる。(説明内容は、「臭いものには蓋をしようか、それも一般人には誰にも気付かれないようにこっそりとね!」といった感じで、悪役めいた感じなのだけれども、即ち、システムの完璧性への懐疑を述べてらっしゃるのである)

 なんだろうか、このストーリーの明快さ加減が、何度も見返そうかと思う気持ちをあまりもたせていないのかもしれない。代替よくできているから、一回みると分かるんだよな。攻殻機動隊は、最初にみたときは全然分からなかった。そもそも、電脳とは、自己とは、と、テーマすらよく分からなかった。取りあえずサイボーグがかっこよく戦ってるな! 何喋ってるかよくわかんねーが! といった感じで見終わって、二回目をみて、だんだんストーリーとか、伏線とかわかるようになって、その上でもう一回みると新しく面白くて……とか、何回見返したか分からないぐらいである。サイコパスがそうなるか、というと、うーん、今のところはならなそうだ。まぁこれは、最後までみたら分からないけれども。

すみませんでした

 というわけで(いや何も関係していないが)、この記事は、取りあえず適当なことをさも当然みたいに書いてしまったことに対しての謝罪と、深い反省である。本当に申し訳ございませんでした。

 ……まぁこれが、人気ブログとか、立場がしっかりした人の発言だったら、やれ責任問題だ、やめろ、引責辞任だ、とかなるのだろう。

 んでもって、あるところによると、政治家は、謝ったら終わりだ、とかいう言論もある。黒をしろといわないものの、政治なんてのは、駆け引きなんだから、グレーを黒、といったなら、どんな矛盾があろうが指摘を受けようが、一度黒っていったら最後までそれを貫き通せよ、というのが、政治家のあるべき姿だ、みたいな論である。

 まぁ、政治ゲームとか、ご職業とか、そういった想像上の秩序を維持するためには、そういう役割も重要だろうと思う。
 でもそれって面倒だったり生きづらいよなぁと思う。


 でもまぁ、信頼感って大事なものだ。これを崩してしまうと、修復は難しくなる。
 これはサイコパスのシビラシステムに対しての、その局長の見解とも合致する。システムが完璧に機能するのは、システムが完璧に機能していると末端がそう信じて行動していることによるのだと。
 だから、それを脅かす言動なり人物なり存在なり思想なり、そういったものは、大きくなる前に摘み取る、誰にも気づかれないように排除する……と。

 陰謀論みたくなってしまうが、まぁホント、気を付けた方がいいことだと思う。そしてそれに対抗すべき唯一の方法は、先日こきおろした「自分の頭で考える」という方法しかないだろう。ただ、その言葉の意味自体を、よく考えなければ、結局無限螺旋の混沌に沈むだけになる。


 とかなんとか、照れ隠しみたいで非常に恥ずかしい記事である……。



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