今日の一言「2016年、残りで何を成そうか」
もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
ストレス社会である
自分で何とかコントロールできる範囲のことの方が、ストレスを感じるという。もう天変地異的に、どうしようもねーや、的なことには、ストレスを感じようがない。「もうちょっと頑張ればできた」的な感覚が、余計人を惨めにさせる。
全能感という言葉もある。特別な自分、特別な私、みたいな。子どもの頃は、皆自分が世界で立って一人の価値ある人間だと思っている。それが、まぁ、いろんな体験をすることで、そんなことはないなと気付いていくものだけれども、何事にも真剣に慣れない人は、いつまでもその全能感を持ち続けることもあるという。
本気で勉強しない。本気で恋愛しない。本気で頑張らない。
でも、いざとなって、やろうと思えばできるんだ。やればできる子なんだ、と。ずっとそう思い続けて、20代、30代、40代、50代、60代、70代、ええと、いつやるんだい? と。
まぁそんなに歳をとらなくても、大抵は、どっかで挫折する。
そして、その気付くのが遅ければ遅いほど、ダメージは大きいし、立ち直れなくなったりする。
燃料なきゃ只の鉄の塊
でもさ、俺は最近少し思った。高速道路を100km/hでる軽自動車で、フルスロットルアクセルべた踏みで走り続けるよりも、一般道を60km/hぐらいでまったり走るのだっていいんじゃなかろうか。ベンツとかリッターバイクなら別だろうが、フルフルぎりぎり精一杯やる必要があるのか。いやむしろ、高級車とかSSバイクだと、100km/hが逆にたるい、と思うかもしれない。そしたら、それなりのステージで頑張って頂ければいいじゃないか。どんな高性能のスポーツカーでも、ガソリンなきゃ走れないっしょや。というのも、思う。
いやお前はスポーツカーでも高級車でも大衆車ですらねーよ、とかいうのは、まぁ例えの話しだから重要ではない。人間の価値って、何で図る? 点数をつけられる? ノルマって何?
かといって、すぐさま思ってしまうのは、堕落した人生ってのも如何かと思うし、……例えば、2000万円とか親族に借りてまでギャンブルにのめり込む人とか、本当にいるらしいが、正直救いようのない愚か者だと思ってしまう。
いやいや、こんな記事を書いてしまう時点で、お前も愚か者だよ、英単語の一つでも覚える時間に使えよアホ、となるから、先日の記事のとおり、やっぱり、他者との比較って、本当につまらねえなぁと思う。
生存戦略
かといって、すぐさま思ってしまうのは、特別なオンリーワン、なんてありえねーという感覚。最初に戻るけれど、結局、全能感なんてありゃしないのだ。70億人の中の、一人に過ぎない。自分のできることなんて、他にたくさんできる人がいる。専門性を鍛えなければと、教育社会学者の方は仰っているが、しかし、その方策で救われる人がどれほどいるのか。
それに対しての僕の以前書いた答えを思い出してみよう。
それは確かに、プログラムが少し書けるとか、ピアノが少し弾けるとか、タイピングがちょっと速いとか、そんなの小学生の部でだって優勝はできないだろう。しかし、それを複合的にからめていけば、走って泳いで歩いてみたいなトライアスロン的な競技にしたら、少しはまともに戦えるんじゃなかろうか、と。
でも、時代の要請は、そんなマルチな人間でなく、職人が必要だとされる。エンプロイアビリティーとか。雇用される能力。うっせーハゲ、めんどくせーよ。
それはともかく、もう一つ、答えを思い出してみよう。
それは、ニッチなコミュニティーで自己有能感を得る、というものだ。
ニッチとか流行りの言葉を使ってしまったが、僕自身の言葉としては、「ローカルコミュニティ」となる。
それは別に、知り合いの間で、ということではなくても、とあるグローバルではないコミュニティにおいて、「役に立つ人間」という立ち位置を保持し、頑張りを再生産していくという方策だ。
これは意外に応用のきくものである。いじめられた子どもたちも、決して、そのコミュニティが絶対的なものなんかじゃない、ということは、気付いて欲しいと思う。そういう意味で、いじめは、環境(親や教師や学校組織や教育委員会や政治や行政やその他全部ひっくるめろ)が重要なのだ。当事者だけで解決なんて基本的にできないと思っていい。
朝のホームルームで先生が、「いじめよくない! ダメ絶対!」とかいっても、裏サイトとかまでいかなくても、まぁ、効果は薄いだろうことは目に見えている。
つーか、いじめって、殴るけるとかそういう問題だけじゃない。感じ方の問題ってのもある。
だから、そのグループ、組織が居心地がいいかどうか、それが重要だということだ。
かといって社会性も重要
といいつつも、じゃあ、とっかえひっかえ周りの環境を変えていけばいいのか、というのもまた否である。転校繰り返しても、毎回いじめられるのであれば、それは何らか事情がある。
原発の影響でいじめられた、というのであれば、そりゃあもう本人にどうしようもない部分があるにせよ、本人のいじめられる素質・問題、というのを、完全に無視していいものではない。
いじめられっ子、というと、陰気で無口で運動もできなければ勉強もできない、というステロタイプイメージが醸成されるが、そうとも限らない。いわゆる「うぜーやつ」ってのもいる。
スクールカースト、とか、くっせぇ言葉だって生まれるこの現代、狂ってると感じてしまうほどである。
と、ああ、書いていて気分がよくないな。しかし、このループ的な感覚……。
つまり、「答え」が無い、という感覚。
これの表現であることを、果たして未来の自分は読み取れるだろうか。
答えの無さ
取りあえず、今日は、仕事にきりをつけて、もうここまでやったから終わり! と半ば逃げ出すように帰ってきた。もう精神的に苛々して仕方がなかった。それが正解かどうか。判断できる人は誰もいない。唯一いるとしたら、俺、なのだけれども、その僕が迷っているからたちが悪い。
さぁ、では明日はどうか。
できるだけ残業をせずに、さっさと家に帰ってきて、創作や読書をする時間を、一分一秒でも多く取れることが正解か?
よく分からない。
何が正解だ?
誰か教えて欲しい。
仕事でお金を稼ぐのが正解?
コミュニケーションをとって、忘年会に出席してニコニコしているのが正解?
すげー、むなしいよ。
虚しさの中に
何だか、同じことするのに、MP(精神ポイント)の消費量が多くなってる気がする。そんな中で、こういった記事とか、過去のログとかは、まぁ、あってよかったな、と思えるわけだ。
先日着手したサイトとかも、形に残ってるし、使ってくれる方々もいることが、単純にうれしい。
えー、でもそれだと、仕事だって、同じじゃないの? お客さんとか、同僚とか、上司とかその他たくさんの人たちの関係の中で、認められたリ、怒られたり、褒められたリお礼を言われたり、いろいろあるんじゃないの?
その中で、資本主義社会で最も価値があるとされるお金も与えられるのだから、もっとそれに注力したら?
そうなんだけど……。
まぁ、いいんだ、それはそれで、いい。別にがんばらないとか言ってるわけじゃない。
ただな、昨今、思うのは、結局、僕が10代ぐらいから問題視してた問題、悩んでいた、苦しんでいた問題に対しての対応って、なんもしてないんじゃないの、ってことだ。
何で生きるのか?
バカらしい問いだよ。お前、いくつになってそんなこと言ってるの? アホちゃう?恥ずかしいことである。全くその通り、そう思う。だから誰にも相談できないし、しようとも思わない。
それどころか、最近ますます、他者に相談することの無意味性を強く思うようにすらなってきている。これはよくない。
ある精神科医さんのブログとか、よい記事を読んで、気持ちを落ち着けなければならない。
一方で、くっだらない自己啓発的な表現とか本とかネット記事とかで散乱してるのは、「自分の頭で考えろ!」とか、主体性をもって取り組めとか、まぁそんな感じの言葉たち。
「もともと特別なオンリーワン♪」
とか言ってるのと同じレベルに低俗である。
(といいつつ、僕は槇原さんの音楽は好きである)
え、何故自分で考える、ということがバカらしいのかって?
まず、第一に、僕はずっとそれしかやってこなかった。今更言われるまでもないというのが一点。
もう一つは、そもそも、「自分」って概念が未定義であって、じゃあ、「自分で考えろ」という言葉に感銘受けて考え始めたら、それってそもそも自分で考えてないんじゃないの、とかいう天邪鬼というか屁理屈的なことを持ち出すまでもなく、人間相互に依存し関連しあってるのだし、言語表現自体の限界性だってあるのだから、「自分で考える」というのは、甚だアドバイスとしては無責任に過ぎない。
自分で考えろ、というアドバイスは、結局、この多様化した社会において、明確な単一の答え、真理が無いことの示唆である。こうしたら成功する、という図式がなくなっているのだ。いい学校に入ったらいい会社に入れて、いい会社には入れたらお金をたくさんもらえて出世して結婚して子供ができて……なんて、今誰も信じられなくなっているのだ。
だから、「自分で考えて、自分が正しいと思う道を探し、それに向けて努力してがんばれよ!」と投げ出すのである。
アメリカ大統領のリーダーシップ
大抵の散乱する記事群は、そんなんばっかである。まともなアドバイスってのをついぞ最近みたことない。いや、あるっちゃあ、ある。ただそれは逆に、「いや、それってあなたの特殊な事情による場合に過ぎないんじゃ……」という、いわゆる断定、決めつけ的なものだったりする。しかし、むしろ逆に、そういった、「こうしろああしろ!」と、批判もたくさんありながら、はっきり明確に言うような人が、逆に求められてきていたりする。
どこかの国のリーダーが熱烈に支持されたのも、それが一つの要因だと僕は思う。
使い古されたロジックだろうけれど、自由からの逃走、エーリッヒフロムさんのおっしゃる、まぁ、自由って結構辛いんですよね、というものだ。
最近読んでいるサピエンス全史の、農耕社会ってストレス多いし狩猟採集社会より実はつらいんですよね。まぁ数は繁殖しましたが。的な感じ。
自分の人生
まぁ、だからね。結局、自分で考えるしかないわけだ。
残業もほどほどにダッシュで帰ってきて、何をするかといえば、日々のルーチンプラスで、こんな何の役にも立たないような記事を書いているわけですよ。
でも僕は、思う。
確かに、この記事自体に、何ら価値はないのだろうけれども、これは、プラス何時間か残業して、まぁその分残業代はでるかもしれないが(サービス残業になるかもしれないが)、それよりも価値があることだと、思う(いや思いたい)。
仕事が生きがい、という生き方を否定する気は毛頭ない。
ただ同時に、それが絶対的な真理だ、と、自信をもって言えるかというと、それもまた自信がない。
答えはでないかもしれない。
無駄かもしれない。
恥ずかしいかもしれない。
でも僕は、もう少し書き続けるよ。「きもい」「あほなんじゃない?」というコメントがあったとしても、それはとても悲しいと思うけれど、でも、これをやめてしまって、まぁ仕事とか婚活とかに打ち込んで、頑張ったとして、俺は、60歳、70歳、80歳ぐらいになって、さぁそろそろ死にますよ、となったときに、自信をもって、「あのとき、こうして考えることをやめてよかった」と思えるとは、残念ながら思えない。
取りあえず、銘記しておくべきは、このままじゃいかん、ということだ。
極端を承知で書いておけば、自殺するにしても、結婚するにしても、子どもつくるにしても、仕事やめるにしても、仕事がんばるにしても、副業するにしても、起業するにしても、何も変わらずこのままいくにしても……、どの道を選ぶにしても、このままではいけない。
思考が足りない。
インプットが足りない。
ということで、今年残りの目標は、サピエンス全史、上下巻の読了としよう。
それだけでは、数値目標になっていないから(そもそも、数値化できないと目標とはいわない)、当該書籍に対するブログ記事を、そうさな、全部で20章あるから、その半分の、10記事書く、ということにしよう。
もちろん、ルーチンは引き続きがんばろう。
(本来、最後の数行だけで本記事タイトルは満たせているのだけれども、ここに辿り着くまでの思考過程が長い。しかも、一度立てた目標は非常にもろいので、数日はよくメンテナンス(インプット)してやって、補強する必要があるというのが、凡人であるなぁという証左)
PR
昨日、ライフ&マネープランを立ててみようと思い立ち、取り組んだところ、4時間ぐらいかかった。先に結論を書いてしまうと、
・50歳でリタイアしようとすると、約1750万円を用意する必要がある。
・55歳でリタイアしようとすると、約240万円を用意する必要がある。
ということが分かった。60歳でリタイアするとすれば、特に追加資金は不要。
ということで、厚労省の簡易生命表を元にして考えてみる。
(厚労省簡易生命表 第1表(男性)から遠藤作成)
あ、歳ばれてしまった。まぁいいや。つまり、2007年の生命表(平均寿命とか算出するもとになる統計表)からすると、21歳の人が死ぬのは58.69年後なので、79.69歳まで生きるということになり、
2015年の最新の生命表で計算すると、29歳の人が死ぬのは52.43年後なので、81.43歳まで生きるということになる。
昨今、平均寿命が80歳ぐらい、といわれているので、まぁ納得する計算結果である。
ということで、取りあえず僕も、80歳まで生きることを前提に試算してみることとする。
家賃とか、普段の生活費(インフラ)はずーっと同じだと考える。
ここで、食費は含めるが、飲み会とか車両等維持費とか、DVD・CD借りたり、本やゲーム買ったりとか、突発的な経費は含めないとする(というのは面倒だったというだけだけど)。
病気にかかる医療費とかも特に考慮していない(65歳以後のリスクは格段にあがるとのことだけれど)。
年金は、65歳から受給とし、国民年金が約6万5千円ぐらいと聞くのでそれと、厚生年金は、
http://www.dcnavi.jp/shinkin/F0600/F0406/html/F0406_01.asp
これを参考に計算する。
退職金はよく分からないので計算には含めないこととする。
給与も、特に変わらず、ずーっと同じだと考える。(ボーナスもあるか分からないし含めないこととする)
60歳以後、年金受給まで、収入はゼロとなる。ので、64歳の時点で収支がプラスかマイナスかで、用意すべきお金が分かる。
で、60歳まで働いた場合、資産(普通預金など)が、64歳までどんどんマイナスになっていくが、それでも、マイナスにはならなかった。
(試算の仕方としては、エクセルを用いて、現年齢から80歳までを横軸に並べて、それぞれの収支の要素を立てに並べ、毎年の資産合計を導いた)
というわけで、60歳まで現行生活を維持していくと、取りあえず破産はしないということになった。
もちろん、これは、80歳まで、特に何も新しいことはせず、ずっと同じことを、決められた経費内で生きていくという場合の試算である。
不動産など大きな買い物をした場合はまた、変わってくる。
まぁ、現状変わらず(給与削減とか物価高騰とか、災害とか詐欺とか、致命的な何かが起こらない限り)慎ましく生きていく分には、何となくそんな感じはしていたから、これは新しい発見でも何でもない気がする。
ただ、実際、何歳の時の預貯金がいくらぐらいなのか、とか、実際の数値で見ることができるようになったのは、有益だと思った。
で、重要なのは、次のシミュレーションからだ。
そうすると、収入源が、51歳から0円となる。
すると、65歳の年金受給まで、ずっと収入なしとなり、その間は預貯金等資産を食いつぶして生活する必要があるわけだ。
すると、55歳ぐらいの早々に、資産はゼロとなる。この時点で、保険(終身・個人年金)を解約し、臨時収入とする。
一時的に資産は回復するが、それもつかの間、翌年にはやっぱりマイナスになって、マイナス額はどんどん膨れ上がっていく。
結果として、64歳時点では、1750万ぐらいのマイナス額になる。うひゃー。
65歳からは、年金がもらえる、という想定で、若干、マイナス額は減らしていけるものの、80歳時点でも、1590万ぐらいのマイナスのままとなる。完全破産である。
ということで、最初に書いた結論のとおり、もし50歳でリタイアするならば、50歳の時点で、1750万ぐらいを資産として計上しておく必要があるのだ。
うーん。退職金は計算に含めてないけれど、50歳での退職金なんて、300万ももらえたら良い方なんじゃないかな。そもそももらえるかも分からないし。となると、このシミュレーションはちょっと現実味がない気がしてくる。
この場合も、64歳時点の資産合計を見てみる、すると、240万ぐらいのマイナスである。
うーん、やっぱりマイナスかぁ……でも、まぁ、なんか、ちょっと現実味がある気もする。
運よく退職金が300万ぐらいもらえたら、何とか年金受給まで食つなぐこともできそうである。
(もっとも、実は今回の資産において、年金額は満期間で計算しているため、早期リタイアした場合の減額分を考慮できていない。※)
※いや、それってやっぱり大きな違いなんじゃなかろうか、と思って再計算を実施。
↓↓↓
(年金受給後も、今の生活レベルを続けると、マイナス収支になってしまった。ということは、64歳時点の資産合計ではなく、80歳時点の資産合計をみなければ、用意するべき金額が分からないということだ)
結論、
50歳リタイアの場合、約2300万円必要。
55歳リタイアの場合、約580万円必要。
60歳リタイアの場合、長生きすればするほど資産は目減りしてくものの、80歳時点でもプラス状態を維持できている。
となった。
必要金額は変わったものの、大きな結論として、やっぱり50歳リタイアは厳しそうだなぁというのと、55歳リタイアの場合、何とか方法はあるのではないか、という気もする。
しかし、年金計算ではないけれど、ちょっとした前提が変わると、試算結果が全く異なってくるという点が面白い。
例えば、食費を2万円ぐらい切り詰めると、結果は大きく変わって、55歳リタイアの場合も、80歳時点の収支がプラスになってくるのだ。
4時間ぐらいかけて作った表だけど、経費とか、数値をいろいろ変更して結果をシミュレーションできるのは面白いし有意義だと思った。
ここまでが言ってしまえば大きな前提に過ぎない。
僕がいつも意識が向いているのは、どうやって生きるか、というよりも、何故生きるのか、何のために生きるのか、の方であるので、重要なのはここからである。
とか書くと、「裕福な野郎は今すぐ地獄に落ちろ」とか「今まさに貧困で苦しんでいる俺の苦しみなんて理解できないのだろう」とか、まぁそんな批判がたくさんくるだろう。
どっかの記事で読んで面白いなーっと思ったのは、批判とか、妬みってのは、自分に近い人に向くものだ、というものである。もっとお金持ちの、石油王とかゲイツさんとか、会長社長さんとか、資産が億単位であるような人には、妬みは生まれにくい。それよりも、僕が今何千万ぐらいでどうしよっかなーといっている方が、攻撃の対象になりやすいのである。
その気持ちも分からないでもない。
これもあるブログで読んだのだけれど、
「左手で女の肩を抱きながら、右手のスマホで『僕はもうだめだ……』とか言ってる奴は信用ならん」
というのは全くその通りに思うし、はっきりいって僕もむかつく対象だ。
ただ、これは、かなり前から僕はそう思ってきたのだけれど、妬みとか憎しみって、ほんと無駄な感情だよな、と思うわけである。人を憎む時間があったら、もっと楽しいことに使うべきである――もちろん、すぐさま書いておくべきは、そんなこと言ってお前が単に家族を殺されたこともない甘ちゃん坊ちゃんだからそんなこと言ってるだけだ、という批判はもっともだと思う点である。そこで僕は、学生時代虐められた経験を持ち出して反論することもできるけれど、そもそも、このやりとりというか、考え方というか、感じ方というか、その全体が僕はもう無駄としか思えない。
とか言っていて、上のように長文になるのは、どこか自信のなさなんじゃないの、と、これも同時思考的に発生するのだけれど、だからこそ、書いておいているのである。永遠に僕は、自分一人でも批判を続けられる。一生終わらない永劫回帰。そこから導かれるのは、「他者への興味のなさ」なわけであって、でも、これはちょっとそのまま用いると害悪が多くて……ああ、話しが逸れまくる、中断。
ライフプラニングの話しじゃなかったんかよ!
よく考えたら、朝からコーヒー以外ほとんど何も口にしていない。
取りあえず、今日はここまでにしよう。
・50歳でリタイアしようとすると、約1750万円を用意する必要がある。
・55歳でリタイアしようとすると、約240万円を用意する必要がある。
ということが分かった。60歳でリタイアするとすれば、特に追加資金は不要。
前提
まず、そもそも、お前は何歳まで生きるつもりなんや?ということで、厚労省の簡易生命表を元にして考えてみる。
推計1 | 推計2 | |
簡易生命表 | 2007 | 2015 |
当時年齢 | 21 | 29 |
平均余命 | 58.69 | 52.43 |
死亡予測年齢 | 79.69 | 81.43 |
あ、歳ばれてしまった。まぁいいや。つまり、2007年の生命表(平均寿命とか算出するもとになる統計表)からすると、21歳の人が死ぬのは58.69年後なので、79.69歳まで生きるということになり、
2015年の最新の生命表で計算すると、29歳の人が死ぬのは52.43年後なので、81.43歳まで生きるということになる。
昨今、平均寿命が80歳ぐらい、といわれているので、まぁ納得する計算結果である。
ということで、取りあえず僕も、80歳まで生きることを前提に試算してみることとする。
前提2
ひとまず、住宅、結婚・子供その他ライフイベントはすべて無視。家賃とか、普段の生活費(インフラ)はずーっと同じだと考える。
ここで、食費は含めるが、飲み会とか車両等維持費とか、DVD・CD借りたり、本やゲーム買ったりとか、突発的な経費は含めないとする(というのは面倒だったというだけだけど)。
病気にかかる医療費とかも特に考慮していない(65歳以後のリスクは格段にあがるとのことだけれど)。
年金は、65歳から受給とし、国民年金が約6万5千円ぐらいと聞くのでそれと、厚生年金は、
http://www.dcnavi.jp/shinkin/F0600/F0406/html/F0406_01.asp
これを参考に計算する。
退職金はよく分からないので計算には含めないこととする。
給与も、特に変わらず、ずーっと同じだと考える。(ボーナスもあるか分からないし含めないこととする)
シミュレーション1(60歳リタイア)
60歳まで働いた場合。60歳以後、年金受給まで、収入はゼロとなる。ので、64歳の時点で収支がプラスかマイナスかで、用意すべきお金が分かる。
で、60歳まで働いた場合、資産(普通預金など)が、64歳までどんどんマイナスになっていくが、それでも、マイナスにはならなかった。
(試算の仕方としては、エクセルを用いて、現年齢から80歳までを横軸に並べて、それぞれの収支の要素を立てに並べ、毎年の資産合計を導いた)
というわけで、60歳まで現行生活を維持していくと、取りあえず破産はしないということになった。
もちろん、これは、80歳まで、特に何も新しいことはせず、ずっと同じことを、決められた経費内で生きていくという場合の試算である。
不動産など大きな買い物をした場合はまた、変わってくる。
まぁ、現状変わらず(給与削減とか物価高騰とか、災害とか詐欺とか、致命的な何かが起こらない限り)慎ましく生きていく分には、何となくそんな感じはしていたから、これは新しい発見でも何でもない気がする。
ただ、実際、何歳の時の預貯金がいくらぐらいなのか、とか、実際の数値で見ることができるようになったのは、有益だと思った。
で、重要なのは、次のシミュレーションからだ。
シミュレーション2(50歳リタイア)
50歳で仕事をやめたとする。そうすると、収入源が、51歳から0円となる。
すると、65歳の年金受給まで、ずっと収入なしとなり、その間は預貯金等資産を食いつぶして生活する必要があるわけだ。
すると、55歳ぐらいの早々に、資産はゼロとなる。この時点で、保険(終身・個人年金)を解約し、臨時収入とする。
一時的に資産は回復するが、それもつかの間、翌年にはやっぱりマイナスになって、マイナス額はどんどん膨れ上がっていく。
結果として、64歳時点では、1750万ぐらいのマイナス額になる。うひゃー。
65歳からは、年金がもらえる、という想定で、若干、マイナス額は減らしていけるものの、80歳時点でも、1590万ぐらいのマイナスのままとなる。完全破産である。
ということで、最初に書いた結論のとおり、もし50歳でリタイアするならば、50歳の時点で、1750万ぐらいを資産として計上しておく必要があるのだ。
うーん。退職金は計算に含めてないけれど、50歳での退職金なんて、300万ももらえたら良い方なんじゃないかな。そもそももらえるかも分からないし。となると、このシミュレーションはちょっと現実味がない気がしてくる。
シミュレーション3(55歳リタイア)
では間をとって、55歳でリタイアの場合はどうだろう。資産の仕方はシミュレーション2と同じ。この場合も、64歳時点の資産合計を見てみる、すると、240万ぐらいのマイナスである。
うーん、やっぱりマイナスかぁ……でも、まぁ、なんか、ちょっと現実味がある気もする。
運よく退職金が300万ぐらいもらえたら、何とか年金受給まで食つなぐこともできそうである。
(もっとも、実は今回の資産において、年金額は満期間で計算しているため、早期リタイアした場合の減額分を考慮できていない。※)
※いや、それってやっぱり大きな違いなんじゃなかろうか、と思って再計算を実施。
↓↓↓
結論の修正
50歳、55歳、60歳における、厚生年金の計算をそれぞれ実施してみたところ、結論が大きく変わった。(年金受給後も、今の生活レベルを続けると、マイナス収支になってしまった。ということは、64歳時点の資産合計ではなく、80歳時点の資産合計をみなければ、用意するべき金額が分からないということだ)
結論、
50歳リタイアの場合、約2300万円必要。
55歳リタイアの場合、約580万円必要。
60歳リタイアの場合、長生きすればするほど資産は目減りしてくものの、80歳時点でもプラス状態を維持できている。
となった。
必要金額は変わったものの、大きな結論として、やっぱり50歳リタイアは厳しそうだなぁというのと、55歳リタイアの場合、何とか方法はあるのではないか、という気もする。
しかし、年金計算ではないけれど、ちょっとした前提が変わると、試算結果が全く異なってくるという点が面白い。
例えば、食費を2万円ぐらい切り詰めると、結果は大きく変わって、55歳リタイアの場合も、80歳時点の収支がプラスになってくるのだ。
4時間ぐらいかけて作った表だけど、経費とか、数値をいろいろ変更して結果をシミュレーションできるのは面白いし有意義だと思った。
ライフプラニング
で、ここまではあくまで、マネープラニングである。ここまでが言ってしまえば大きな前提に過ぎない。
僕がいつも意識が向いているのは、どうやって生きるか、というよりも、何故生きるのか、何のために生きるのか、の方であるので、重要なのはここからである。
とか書くと、「裕福な野郎は今すぐ地獄に落ちろ」とか「今まさに貧困で苦しんでいる俺の苦しみなんて理解できないのだろう」とか、まぁそんな批判がたくさんくるだろう。
どっかの記事で読んで面白いなーっと思ったのは、批判とか、妬みってのは、自分に近い人に向くものだ、というものである。もっとお金持ちの、石油王とかゲイツさんとか、会長社長さんとか、資産が億単位であるような人には、妬みは生まれにくい。それよりも、僕が今何千万ぐらいでどうしよっかなーといっている方が、攻撃の対象になりやすいのである。
その気持ちも分からないでもない。
これもあるブログで読んだのだけれど、
「左手で女の肩を抱きながら、右手のスマホで『僕はもうだめだ……』とか言ってる奴は信用ならん」
というのは全くその通りに思うし、はっきりいって僕もむかつく対象だ。
ただ、これは、かなり前から僕はそう思ってきたのだけれど、妬みとか憎しみって、ほんと無駄な感情だよな、と思うわけである。人を憎む時間があったら、もっと楽しいことに使うべきである――もちろん、すぐさま書いておくべきは、そんなこと言ってお前が単に家族を殺されたこともない甘ちゃん坊ちゃんだからそんなこと言ってるだけだ、という批判はもっともだと思う点である。そこで僕は、学生時代虐められた経験を持ち出して反論することもできるけれど、そもそも、このやりとりというか、考え方というか、感じ方というか、その全体が僕はもう無駄としか思えない。
とか言っていて、上のように長文になるのは、どこか自信のなさなんじゃないの、と、これも同時思考的に発生するのだけれど、だからこそ、書いておいているのである。永遠に僕は、自分一人でも批判を続けられる。一生終わらない永劫回帰。そこから導かれるのは、「他者への興味のなさ」なわけであって、でも、これはちょっとそのまま用いると害悪が多くて……ああ、話しが逸れまくる、中断。
ライフプラニングの話しじゃなかったんかよ!
よく考えたら、朝からコーヒー以外ほとんど何も口にしていない。
取りあえず、今日はここまでにしよう。
やはり過去の記事を読んでいて、分かった。決して、自分は、何も考えていなかったわけではないと。
ただ、書くのをさぼっていたのである。
そして、書いて言語化しないと、自分の中で、潜在意識に到達しないのである。
今日から、音読と計算のルーチンを再開しよう。そして、ブログも、今日から毎日つけよう。いや、今月は毎日にして、7月は週一にして、8月は月二にして、9月は月一にして、9月末時点で今後の方針を再度話し合おう。
話し合う内容としては、音読と計算の継続性を確認する。
何故段々と確認を少なくするかというと、継続性が担保されるだろうという予測だ。
まず今月、残り半分を何とかしないといけない。もちろん、いつぞやの正月目標のとおり、時差更新は可とする。
まずは、そうだな。やはり、自分の起点とは、「ログ」であるのだ。迷ったら、はじめに戻りたいと思ったら、ここに戻ればいいのだ。
ログだけは、目標を立てて、完遂した実績がある。自信もあるし、誇りもある。
そして、いまは余裕があるなら、明日書くことを考えてもいい。攻殻機動隊が6月20日に動き出す。とかね。
ただ、書くのをさぼっていたのである。
そして、書いて言語化しないと、自分の中で、潜在意識に到達しないのである。
今日から、音読と計算のルーチンを再開しよう。そして、ブログも、今日から毎日つけよう。いや、今月は毎日にして、7月は週一にして、8月は月二にして、9月は月一にして、9月末時点で今後の方針を再度話し合おう。
話し合う内容としては、音読と計算の継続性を確認する。
何故段々と確認を少なくするかというと、継続性が担保されるだろうという予測だ。
まず今月、残り半分を何とかしないといけない。もちろん、いつぞやの正月目標のとおり、時差更新は可とする。
まずは、そうだな。やはり、自分の起点とは、「ログ」であるのだ。迷ったら、はじめに戻りたいと思ったら、ここに戻ればいいのだ。
ログだけは、目標を立てて、完遂した実績がある。自信もあるし、誇りもある。
そして、いまは余裕があるなら、明日書くことを考えてもいい。攻殻機動隊が6月20日に動き出す。とかね。
2009年ごろの記事を読んで、よくこんなに考えていたなと思った。
間違いなく、書いていた当時は、くだらないことを書いていると自覚があった。
ただ、SNSをやっていて、友人がコメントをくれるから、書いていていいのだと思って続けていたのだろう。
そのうちの一人は、強烈に自分の他者存在に対する印象をかえた。
しかし、その他の人たちがどんな印象をもっていたかは、わからない。
今未来の自分が読んでいると、すごく面白いと思った。小説のプロットとか、面白いじゃあないか。三日坊主で完結しないけど、続きが気になる。しかし、いまの私が続きを書いても、二次創作にしかならない。もったいない。
最初の記事にあるこのブログの目標はずれているから直さないといけないと思うけれども、確かに、そうしたことから始まったのだと思う。まぁ、別のブログから統合させたのだから違っていて当たり前だが、そんな当たり前のことすら忘れてしまう。何せ五年前だ。
そのころ立てた目標、達成しているんだよな、ほとんど。だから、ここ2~3年、書くことがなくなった。
当初のブログ目標からすると、完結なんだよな。
ただ、明確に終わりを引いていないから、なんとなく自然消滅になっている。世の中の卒業式が重要だということがよくわかる。
社会人は、卒業が長い。だから見失う。それなりに目の前の仕事は忙しい。
生活面は、2010年の9月12日で満たされたのだ。だから、そこから、2013年1月17日まで、エピローグだとして、そこから新しいステージが始まっていたのだ。
にもかかわらず、止まってしまっている。そう、今の私は何者でもない。過去の自分とすらたちきれてしまっているのだ。
そういう危惧から、半年前だかいつだか忘れたが、毎週土曜日夜を自分会議の時間にしようと提案した。が、計画倒れだった。
いまのままじゃだめだ、とか、そういった焦燥感ではない。そうではなく、自分が本当にやりたいことというのを、もっとそれに向けて進まないといけないと、そう思うのだ。
是非もう一度、この感覚を維持するため、仕事終わりにこの記事をみてほしい。
きっと疲れていて頭は働かないし、心も動かないだろうが、それでも、この感覚を少しでも呼び起こせたのなら、ようやく一歩進める気がする。
間違いなく、書いていた当時は、くだらないことを書いていると自覚があった。
ただ、SNSをやっていて、友人がコメントをくれるから、書いていていいのだと思って続けていたのだろう。
そのうちの一人は、強烈に自分の他者存在に対する印象をかえた。
しかし、その他の人たちがどんな印象をもっていたかは、わからない。
今未来の自分が読んでいると、すごく面白いと思った。小説のプロットとか、面白いじゃあないか。三日坊主で完結しないけど、続きが気になる。しかし、いまの私が続きを書いても、二次創作にしかならない。もったいない。
最初の記事にあるこのブログの目標はずれているから直さないといけないと思うけれども、確かに、そうしたことから始まったのだと思う。まぁ、別のブログから統合させたのだから違っていて当たり前だが、そんな当たり前のことすら忘れてしまう。何せ五年前だ。
そのころ立てた目標、達成しているんだよな、ほとんど。だから、ここ2~3年、書くことがなくなった。
当初のブログ目標からすると、完結なんだよな。
ただ、明確に終わりを引いていないから、なんとなく自然消滅になっている。世の中の卒業式が重要だということがよくわかる。
社会人は、卒業が長い。だから見失う。それなりに目の前の仕事は忙しい。
生活面は、2010年の9月12日で満たされたのだ。だから、そこから、2013年1月17日まで、エピローグだとして、そこから新しいステージが始まっていたのだ。
にもかかわらず、止まってしまっている。そう、今の私は何者でもない。過去の自分とすらたちきれてしまっているのだ。
そういう危惧から、半年前だかいつだか忘れたが、毎週土曜日夜を自分会議の時間にしようと提案した。が、計画倒れだった。
いまのままじゃだめだ、とか、そういった焦燥感ではない。そうではなく、自分が本当にやりたいことというのを、もっとそれに向けて進まないといけないと、そう思うのだ。
是非もう一度、この感覚を維持するため、仕事終わりにこの記事をみてほしい。
きっと疲れていて頭は働かないし、心も動かないだろうが、それでも、この感覚を少しでも呼び起こせたのなら、ようやく一歩進める気がする。
何の気なしに「the last of us」の動画をみたら、面白そうだった。プレイ動画、全部みたい、けど、長い。しかもこれもしかして、続編もあるのだろうか。
バイオハザードみたいなストーリーのようだ。バイオハザードも、怖いの嫌だから敬遠していたけど、映画みてみると面白かったし、ゲームのプレイ動画もみてみると面白そうだった。
けれども、長い。長いのは、もう年を取ると疲れる。いやというよりも、長くてもいいんだが、続編がでるのを待たないといけない。
今、待てているのは、無職転生と、ゲームオブスローンズと、アイアムアヒーローと、進撃の巨人ぐらいだろうか。キングダムも、テラフォーマーズも、ドリフターズも、攻殻機動隊ARISEも、面白いし好きなのだが、如何せん更新をチェックして待つことができない。気付いた読むのだけれど。
そういう、熱い思いがないから、一般人なのだ。だから、それを話題にして人と話ができないのだ。ある先輩は、ものすごくバイクに詳しい。僕も好きなことだから、話しを聞いていて面白いし、だからこそ、それがどれだけ深いことなのかもわかる。いや、たぶん、深くはないのだろうその業界の人たちの間では。でも、一般人、興味がない人からしたら、かなり深いと思う。
ある先輩は、ものすごく映画に詳しい。そして、それを一般人にも分かりやすいように話せる能力もある。
バイオハザードみたいなストーリーのようだ。バイオハザードも、怖いの嫌だから敬遠していたけど、映画みてみると面白かったし、ゲームのプレイ動画もみてみると面白そうだった。
けれども、長い。長いのは、もう年を取ると疲れる。いやというよりも、長くてもいいんだが、続編がでるのを待たないといけない。
今、待てているのは、無職転生と、ゲームオブスローンズと、アイアムアヒーローと、進撃の巨人ぐらいだろうか。キングダムも、テラフォーマーズも、ドリフターズも、攻殻機動隊ARISEも、面白いし好きなのだが、如何せん更新をチェックして待つことができない。気付いた読むのだけれど。
そういう、熱い思いがないから、一般人なのだ。だから、それを話題にして人と話ができないのだ。ある先輩は、ものすごくバイクに詳しい。僕も好きなことだから、話しを聞いていて面白いし、だからこそ、それがどれだけ深いことなのかもわかる。いや、たぶん、深くはないのだろうその業界の人たちの間では。でも、一般人、興味がない人からしたら、かなり深いと思う。
ある先輩は、ものすごく映画に詳しい。そして、それを一般人にも分かりやすいように話せる能力もある。