今日の一言「臨時の記事」「土曜日も書く」
自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。
本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。
ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。
「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
と意見が出た。
意見?
俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。
だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。
まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。
いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。
いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。
で、あるとしても――ということだ。
例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。
……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。
社会制度の維持は、「税金」である。
まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。
税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。
そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。
おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。
今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。
え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。
子供というのは素晴らしいものだろう。
自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
幸せな人生だ。
という前提があるだろう。
もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。
幸せな家庭、夫婦とその子供。
ああ、何と羨ましい法界悋気!
――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!
とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。
「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。
「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。
いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。
そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。
マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。
ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。
むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。
そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?
馬鹿げた妄想?
そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。
(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))
																																				前書き
精神的に弱っているときは、インプットが足りていないときである。自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。
本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。
ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。
議論における後出しじゃんけんは卑怯だ
全然、自分とは関係ない(当事者)ではないのだけれども、ある会議において、事務局が、「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
と意見が出た。
意見?
俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。
だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。
まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。
いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。
最近話題のLGBTについて
その、要するに、「当事者意識」がない人に苛立つ。いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。
で、あるとしても――ということだ。
例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。
……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。
社会制度の維持は、「税金」である。
まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。
税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。
そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。
おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。
独身税制控除制度を設けるべきだ
むしろ、逆である。今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。
え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。
子供というのは素晴らしいものだろう。
自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
幸せな人生だ。
という前提があるだろう。
もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。
幸せな家庭、夫婦とその子供。
ああ、何と羨ましい法界悋気!
――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!
とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。
ちょっと役に立つかもコーナー
(唐突に入れる)「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。
「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。
マイノリティはマイノリティで尊い
累進課税制度と、限度額を設けた、社会主義的で、かつ資本主義的な制度は、現状、これを超える納得感が得られる考え方はないと思っている。いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。
そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。
マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。
ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。
むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。
そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?
馬鹿げた妄想?
そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。
(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))
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								今日の一言「例によって20分で書く」
もう面倒なので、「前書き」と固定にする。
さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。
その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。
さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。
で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。
これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。
そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。
国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。
いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。
前置きはこんなもんでいいだろうか。
別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。
そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。
その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。
そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。
問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。
要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。
つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。
それでいいのか?
という価値観の問題だ。
ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。
あ、もう20分だ。
(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)
																																				前書き
最初の小見出しが結構悩むのである。もう面倒なので、「前書き」と固定にする。
さて今回は、ニュースで読んで思ったことをメモしたいと思う。
ある議員が、「LGBTが増えると国が崩壊する」と発言したことについて、批判を浴びているということだ。
その話題自体の興味はさほどではないが、「批判」とか「失言」とかが起こるメカニズムという点を考えてみたいと思う。
多様性を認めない議員は糾弾されるべきだ
政治的な主張をしたいわけでもないし、LGBTについて批判的な意見をもっているわけではない。これについては、この記事においても、誤解が生じないように繰り返し何度も書かなければならないだろう。さてそもそもLGBTとは、「同性愛者」のことであると理解する。――実際は、バイセクシャルも、トランスジェンダーも含む概念ということなので、「同性愛者」とイコールではなかろう。ただ、上の議員氏の発言は、おそらく同性愛者というニュアンスが強いと思われる。
で要するに、男と男、ないしは、女と女では、子供は生まれないのである。
これは、価値観とかそういった問題と全く関係なく、生物的に仕方がないことだ。「人は何故自分の身体で空を飛べないんですか! 飛べる人がいたってよいじゃないですかああああああ!」とかいっても仕方がないことと同義である。
そういった事実と、価値観を広く受容しましょうといった、社会の理想の話とは全く関係ない。切り離すべきである。
とはいえ、切り離しては考えていけない場合もある。両面が必要。
国とは、同じ民族性を保持していると考える集団であり、同一のルールが適用される集団である。
で、移民とかそういったホットな話題は別として、単純に考えて、その同一の民族性(価値観)を再生産するのは、家庭という単位である。――というか、要するに、子供が生まれないと国の概念の保持は難しい。――いや、学問的にどうかは知らない。ただ、誰も子供を生まなくなったら、国は亡びる――というか、人類は滅びる。
いやいや、実際そんな極端なこと起こらないだろ、というのは最もな話。
だから、LGBTを認めることがイコール、国が亡ぶって論調に結び付けるってのはナンセンスだろう。だから、ましてや、国の理想像掲げ、近づけるために舵取りする責任がある議員氏は、批判を浴びて当然だと思う。
前置きはこんなもんでいいだろうか。
子供が生まれないと国は亡ぶ
ただ、実際問題、子供が生まれないと、国は亡ぶし、人類は滅ぶ。別にそれでいいんじゃん? って価値観もありだ。
ありだけれども、取りあえず、「持続可能な人類社会」を理想として考えてみよう。
そしたら、人には寿命があるんだから、いずれ次世代に引き継がないとダメだろう。
さらに、ギリシアのスパルタみたいに、共同で子供を育てるコミニティをつくるでもなければ、子供を育てる基本単位は「家庭」だ。
その家庭を構成するのが、同性愛者だったら、子供は生まれない(生物的に。養子とればいいだろうとかそういう問題は今しゃべってんじゃない)。
そうしたときに、LGBTの人たちに政治的資源を投下するのか、少子化対策に資源を投下するのか、どっちが喫緊の課題だろうか。
問題の本質はそっちだと僕は思ったわけである。
要するに、「価値の多様性を認めましょう」なんてスローガンは、もう当然なんだから、そんなことも分からないバカな大人たちはさっさと滅べばよかろう。
そんなバカな次元の話で、マスコミもワーワー言ってないで、「実質的な話」に民衆を導いたらどうだろうか。
つまり、「資源は有限である」ということだ。政治なんてのは、要は、「再配分」の論理なのである。なんか新しく創造するって仕事なのではない。いやそういうことを官僚や公務員に求めている風潮もありそうだが、いやまぁ、そうあったら尚よいのだろうが、それは、民意を受けて代表となった政治家の仕事である。
みなさんは、年間100万円の税金を払ってもらいます。
LGBTの人たちは、今多くの問題を抱えているので、かわいそうです。多様性を認める社会にするために、LGBTの人たちが暮らしやすい社会にするために、90万円の政策を行います。その他少子化対策などは10万円の範囲内でやります。
それでいいのか?
という価値観の問題だ。
ちなみに、僕は、申し訳ないが、LGBTではないので、その政策はちょっと違和感がある。
ただし、LGBTの人たちが住みやすい街にすることによって、それ以外の人も住みやすくて、結果的に子育てに適した街になって少子化対策にも繋がる、とかってストーリーが(外連味でも)あれば、まぁそういうのも良いかなって思うかもしれない。
あ、もう20分だ。
(かっこ書きである。やべえ、ここで記事が終わったら、人権団体の方々や、良識人の方々にコテンパンにされてしまう。繰り返し書くが、僕はLGBTの人たちを認めてはならないといっているのではない。仲の良い友人がLGBTだったとしても、特に何も思わないと思う。へー、そう、ぐらいな。逆に言えば、あまり興味がないともいえる――としたときに、というよりも、多くの人がそんなに積極的興味があるわけではないだろう、今時点では。そうしたときに、政治的な判断がどうあるべきか、ということが、本来考えるべきことである。議員発言がどうだあーだとか、どうでもいいのである。要するに、どういった政治判断が行われようとしているのか、ということだ。そして、その判断が、結果的にどういったメリット・デメリットがあるのか、そうした分析をちゃんとするべきであるし、そういう記事なら読む価値があると思う。言葉の言い間違いは恥ずかしいことだが、それをもってして「議員の資質があるのか!」とか、うんざりではなかろうか。あと、「国の責任」って言葉を多く耳にすることがあるが、要するに、「国の責任」ってのは、僕ら民衆の責任でもあるのだ――ってかくと、これも批判の的になるんだろうが、要は、実際にその責任の尻ぬぐいをするのは、僕らの税金が財源だということである。一人の官僚が横領したのなら、刑事責任で糾弾できようが、数億というお金を一人が稼げるものだろうか。よくて免職にして、生涯賃金分の人件費を浮かせることぐらいだろう(資産があれば差し押さえできるかもしれないが、そういう意味で書いているのではない。概念的な話だ)。長くなった。けれども、全然書き足りない。タイトルの「メインストリーム思考」について、本当は書きたかったのだが……。次に書くタイミングで、まだそのことを書く気力があったら触れたいと思う)
								生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。
気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。
そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。
書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。
平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。
別に、書かなくてもいいじゃないか。
しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。
なにかを失って、人はようやっと気付く。
そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。
でも、果たして、
働くこと、生きることに、何があるのか
僕は、誰だったのか。
これが人なのか、こういうのが人間なのか
まぁ、これでいいのか
本当か?
俺は、本当に後悔しないのか?
問うているのか? 本当に?
ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。
魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。
ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。
が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。
この先のみちしるべを感じられないでいる。
どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。
																																				気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。
そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。
書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。
平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。
別に、書かなくてもいいじゃないか。
しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。
なにかを失って、人はようやっと気付く。
そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。
でも、果たして、
働くこと、生きることに、何があるのか
僕は、誰だったのか。
これが人なのか、こういうのが人間なのか
まぁ、これでいいのか
本当か?
俺は、本当に後悔しないのか?
問うているのか? 本当に?
ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。
魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。
ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。
が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。
この先のみちしるべを感じられないでいる。
どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。
								今日の一言「人と会いたくなければ、何もしたくない」
この記事で、何を表現したいのか? 正直、思考ができるだけの余裕がない。
よゆう?
なんの?
心の余裕だ。しかし、心とは何か?
そういった問いからいつも始まるのが特長の私のblogだが、当然答えはでなければ、そもそも言いたいことも異なる。
言いたいことは、忙しくて疲れた、ということだ。
こう、未来が見えない、という表現を何度かしてきたと思う。よく言い当てている。
僕がいつも言ってるのは、目標を立てることが重要だ、というものだ。
だが、その目標は、まずもって、自分が達成したいものであるべきだし、次に、それを自分で考えて設定できるものであるべきだ。
やりがいあって、楽しい仕事ってあるのだろうか?
もしくは、楽しくなくても楽で早く終われる仕事はあるのだろうか?
分からない。いまやってることを肯定するのもありだけど、毎日24時過ぎに帰るのが、いつまで続くのか。
きっと落ち着くタイミングはある。
そして、手を抜こうと思えば、もっと楽にもできる。
ただ、そういう問題でもない。
もっと人間関係がひどくて、忙しいこともあった。それに比べたらいまはましだ。
が、もはや、そういう比較の問題ではないのだ。
嫌なこと、苦しいことをする意味が分からない。
それが人生だと、したりがおな大人たちはいう。くだらない、と思う。
何故人は、そうまでして生きるのか。
楽しいからだ……という、中学校ぐらいに導いた哲学は、もはや役に立たない。
フランクル氏のいう、人生は意味をみつけるものではなく、人生から意味を求められているのだ、とか、創造かち、体験価値がなくなっても、実存価値があるのだ、とか。
その説明が理解できれば、僕は、もう一段階高次の世界に行けると思う。
これまでの人生の意味や体験にも、新しい意味が与えられるかもしれない。
しかし、分からない。理解できない。
文字としては分かる。日本語としては分かる。しかし、理解できない。いや理解というか、それはどちらかというと、納得というか、感覚が伴わないというか、そういった状態だ。
しかも、やっかいなのが、世界の不条理である。
今日も、昨日も、テロや殺人は起こり、たくさんの人が意味もなく死ぬ。
たまたま、僕は生き残っている。日本は、生き残る可能性が高く恵まれているといえる。
だから、なんだ?
という感情。
他人がどうだから、なんだ。社会が、家族が、なんだ。
この、なんだ? という感覚、これがつらい。
簡単に表現すれば、無気力……なのだが、いろいろと行動はできる。
行動や思考はできるのだけど、それらが、いったいなんだ、なんなのだ? という感覚が付きまとう。
俺は疑問なのだが、この感覚は、たくさんの人が……女子高生や、おばちゃんたちや、リーマンや、オタクや、大学生や、ミュージシャンや、その他、普通の人たちは、みな常に感じているのか???
これまでの経験から、どうも違うようだと、あんまし、他者はそんなこと感じてなさそうだと、そう思うようになってきた。
それがさらに孤独感を深めたりする。
で、その、独りよがりな考え、なのであるが、これによって、他者を尊敬できる可能性が減ってしまっている。
仕事ができる人。よい物を作れる人。話が面白い人。スポーツができる人。心が優しい人。
すごい人、たくさんいる。
すごいなと、思う。
思いはするが、なんか違う。
その違うというのは、すごいというのの否定ではなく、モデルにならなそうである、という意味が近い。
だから、なのか。
なんだか、それがなんだ、という思いが強くなる。
◇死ぬこと
携帯からだと、たくさん書いているようで、たいした文字数ではない。
この、内から溢れる言葉と、実際の文字に表れる表現との違い、は面白い。
僕が、僕の記事が長くなるのは、タイピングが速いからというのはあるだろう。
もちろん、思考言語よりはタイピングが遅いが、普通の人よりは速いので、その反映が多くなる。そうなると、結果、カオスな文書津になったりする。
関係ないことかいた。
死ぬのが、怖いのかもしれない。
怖いから、意味をもたせないのかもしれない。
別に死んでもよければ、今すぐでも死んでよければ、未来も、目標もどうでもいいはずだ。
ふと、過去を思い出す。
その過去とは、直近十年ではなく、もっと、小学生とか、中学生とか、高校生とか、十代のころだ。
うむ。いまよりつらかったかも。
比較すると、幸せな気分にひたれる。が、やっぱり、なんの意味もないと思う。
まぁただ、戻りたい過去が一切ないってのも、いいもんかもしれない。
ないか? ……ないな(笑)
これは、珍しい人間なのか? いや、そうでもないか。その、過去よりもいまが大切、と思ってる人は多いだろう。
あー。そうだな、やっぱり、あのときや、あのときはつらかった。大変だった。過去に比較を求めればたくさんある。
だからこそ。
だからこそ、なんだって、生きてるんだろう。
毎日死にたい、終わりたい、消えたいといって泣いた。
涙が止まらなくて、声を出さずに枕に突っ伏して泣いてた頃が、どんだけ続いたろう。
最近はそんなことない。疲れてるからだが、すぐ眠れる(笑)
じゃあ幸せなのか?
よく分からない。
決定的に努力して、決定的によくなった、とは言えるだろう。
その、自分の頑張りを、行動を、どこか他人事のように、どうでもいいことのように感じ、見ている俺。
そして、こんなこと書いてるのを、くだらない、文章で、分かりにくく、ネガティブで、ダメ人間だなぁと思っている俺。
ああ、つまらないなぁ。
明日は、少しは早く帰れるかもしれない。
でも、だからなんだ?
ああ……もう、言葉もでなく、、なってきた。
まぁ、対策は。
徹底的に休むべきだろう。が、それすら、結局やすんだところで、人生は続くわけだし、課題や問題は続くわけだし、どうでもよく思ってしまう。
休んで、気力が回復し、元気になるだろう。それは分かってる。
けど、いずれはまた、日々の忙しさや苦しさや繰り返しに飽きて疲れて、同じように感じるようになるだろう。
そうしたとき、今度は、再び立ち上がれるだろうか?
正直、困難に打ち勝つごとに、問題を解決するごとに、自信がなくなっていく。
だから。
だから、前から……といっても、二年前ぐらいからだが、僕は、子供を作る必要があるかもしれない、と書いたのだ。
しかし、それすら、解決になるかもわからなくなってきた。
子供ができて、もっと別の意味でも忙しくなって……といったときに、これでの忙しさや問題や課題と違って、ああ、これこそ生きているという意味なのだ、って思えるだろうか?
ああ、また面倒がふえたぐらいに思ってしまったら、俺も不幸だし、子供も不幸だ。
どうしたらいいんだ、しかし、この、経験の悪魔というのは、やってみないことには絶対分からない、ということになるのだ。恐ろしい。
ああしかし、この、子供というイベントが、拠り所にならなければ、本当に詰みかもしれない。
																																				この記事で、何を表現したいのか? 正直、思考ができるだけの余裕がない。
よゆう?
なんの?
心の余裕だ。しかし、心とは何か?
そういった問いからいつも始まるのが特長の私のblogだが、当然答えはでなければ、そもそも言いたいことも異なる。
言いたいことは、忙しくて疲れた、ということだ。
こう、未来が見えない、という表現を何度かしてきたと思う。よく言い当てている。
僕がいつも言ってるのは、目標を立てることが重要だ、というものだ。
だが、その目標は、まずもって、自分が達成したいものであるべきだし、次に、それを自分で考えて設定できるものであるべきだ。
やりがいあって、楽しい仕事ってあるのだろうか?
もしくは、楽しくなくても楽で早く終われる仕事はあるのだろうか?
分からない。いまやってることを肯定するのもありだけど、毎日24時過ぎに帰るのが、いつまで続くのか。
きっと落ち着くタイミングはある。
そして、手を抜こうと思えば、もっと楽にもできる。
ただ、そういう問題でもない。
もっと人間関係がひどくて、忙しいこともあった。それに比べたらいまはましだ。
が、もはや、そういう比較の問題ではないのだ。
嫌なこと、苦しいことをする意味が分からない。
それが人生だと、したりがおな大人たちはいう。くだらない、と思う。
何故人は、そうまでして生きるのか。
楽しいからだ……という、中学校ぐらいに導いた哲学は、もはや役に立たない。
フランクル氏のいう、人生は意味をみつけるものではなく、人生から意味を求められているのだ、とか、創造かち、体験価値がなくなっても、実存価値があるのだ、とか。
その説明が理解できれば、僕は、もう一段階高次の世界に行けると思う。
これまでの人生の意味や体験にも、新しい意味が与えられるかもしれない。
しかし、分からない。理解できない。
文字としては分かる。日本語としては分かる。しかし、理解できない。いや理解というか、それはどちらかというと、納得というか、感覚が伴わないというか、そういった状態だ。
しかも、やっかいなのが、世界の不条理である。
今日も、昨日も、テロや殺人は起こり、たくさんの人が意味もなく死ぬ。
たまたま、僕は生き残っている。日本は、生き残る可能性が高く恵まれているといえる。
だから、なんだ?
という感情。
他人がどうだから、なんだ。社会が、家族が、なんだ。
この、なんだ? という感覚、これがつらい。
簡単に表現すれば、無気力……なのだが、いろいろと行動はできる。
行動や思考はできるのだけど、それらが、いったいなんだ、なんなのだ? という感覚が付きまとう。
俺は疑問なのだが、この感覚は、たくさんの人が……女子高生や、おばちゃんたちや、リーマンや、オタクや、大学生や、ミュージシャンや、その他、普通の人たちは、みな常に感じているのか???
これまでの経験から、どうも違うようだと、あんまし、他者はそんなこと感じてなさそうだと、そう思うようになってきた。
それがさらに孤独感を深めたりする。
で、その、独りよがりな考え、なのであるが、これによって、他者を尊敬できる可能性が減ってしまっている。
仕事ができる人。よい物を作れる人。話が面白い人。スポーツができる人。心が優しい人。
すごい人、たくさんいる。
すごいなと、思う。
思いはするが、なんか違う。
その違うというのは、すごいというのの否定ではなく、モデルにならなそうである、という意味が近い。
だから、なのか。
なんだか、それがなんだ、という思いが強くなる。
◇死ぬこと
携帯からだと、たくさん書いているようで、たいした文字数ではない。
この、内から溢れる言葉と、実際の文字に表れる表現との違い、は面白い。
僕が、僕の記事が長くなるのは、タイピングが速いからというのはあるだろう。
もちろん、思考言語よりはタイピングが遅いが、普通の人よりは速いので、その反映が多くなる。そうなると、結果、カオスな文書津になったりする。
関係ないことかいた。
死ぬのが、怖いのかもしれない。
怖いから、意味をもたせないのかもしれない。
別に死んでもよければ、今すぐでも死んでよければ、未来も、目標もどうでもいいはずだ。
ふと、過去を思い出す。
その過去とは、直近十年ではなく、もっと、小学生とか、中学生とか、高校生とか、十代のころだ。
うむ。いまよりつらかったかも。
比較すると、幸せな気分にひたれる。が、やっぱり、なんの意味もないと思う。
まぁただ、戻りたい過去が一切ないってのも、いいもんかもしれない。
ないか? ……ないな(笑)
これは、珍しい人間なのか? いや、そうでもないか。その、過去よりもいまが大切、と思ってる人は多いだろう。
あー。そうだな、やっぱり、あのときや、あのときはつらかった。大変だった。過去に比較を求めればたくさんある。
だからこそ。
だからこそ、なんだって、生きてるんだろう。
毎日死にたい、終わりたい、消えたいといって泣いた。
涙が止まらなくて、声を出さずに枕に突っ伏して泣いてた頃が、どんだけ続いたろう。
最近はそんなことない。疲れてるからだが、すぐ眠れる(笑)
じゃあ幸せなのか?
よく分からない。
決定的に努力して、決定的によくなった、とは言えるだろう。
その、自分の頑張りを、行動を、どこか他人事のように、どうでもいいことのように感じ、見ている俺。
そして、こんなこと書いてるのを、くだらない、文章で、分かりにくく、ネガティブで、ダメ人間だなぁと思っている俺。
ああ、つまらないなぁ。
明日は、少しは早く帰れるかもしれない。
でも、だからなんだ?
ああ……もう、言葉もでなく、、なってきた。
まぁ、対策は。
徹底的に休むべきだろう。が、それすら、結局やすんだところで、人生は続くわけだし、課題や問題は続くわけだし、どうでもよく思ってしまう。
休んで、気力が回復し、元気になるだろう。それは分かってる。
けど、いずれはまた、日々の忙しさや苦しさや繰り返しに飽きて疲れて、同じように感じるようになるだろう。
そうしたとき、今度は、再び立ち上がれるだろうか?
正直、困難に打ち勝つごとに、問題を解決するごとに、自信がなくなっていく。
だから。
だから、前から……といっても、二年前ぐらいからだが、僕は、子供を作る必要があるかもしれない、と書いたのだ。
しかし、それすら、解決になるかもわからなくなってきた。
子供ができて、もっと別の意味でも忙しくなって……といったときに、これでの忙しさや問題や課題と違って、ああ、これこそ生きているという意味なのだ、って思えるだろうか?
ああ、また面倒がふえたぐらいに思ってしまったら、俺も不幸だし、子供も不幸だ。
どうしたらいいんだ、しかし、この、経験の悪魔というのは、やってみないことには絶対分からない、ということになるのだ。恐ろしい。
ああしかし、この、子供というイベントが、拠り所にならなければ、本当に詰みかもしれない。
								今日の一言「何も考えたくない、したくない
」
生存報告、という書き出しで始まり始めたブログは、そう長くはないだろう。
ただ、僕の場合は、いずれは戻ってくるだろうとは思う。
しかし、最近は、全く書く時間が取れない。
ということは、考えることも、思考の整理もできていないということだ。今年の目標に資することもできていない。
人生。
何が忙しいかと言えば、平日は仕事、休日はデートである。
仕事は充実しているし、デートは楽しい。
だが、それでいいのだろうか?
人生。
僕という人間は、それでよかったのだろうか?
人はみな、決断せよという。自分の人生を生きよと。やりたいことをやれと。
僕が仕事や、デートをするのは、やりたいことではないのだろうか?
家事をすること、寝ること、掃除すること、ご飯を食べること、それら生活に関する行動は、僕のやりたいことではないのだろうか?
やりたいことと、やらなければならないことを、分けることができるのか?
仕事というカテゴリの中でも、楽しいこともあれば、イライラすることもある。
デートもしかり、家事もしかり。
すべて100%の生活など送れやしない。
そうしたとき、僕の人生として、どこまでが許容範囲なのか?
そこが分からない。
要するに、僕ができる、僕の最大の選択の中の、最高のことが僕はいまできているのか?
それが分からない。
誰に相談しようとも、まともな、、、というか、僕が欲する回答はできない。できるはずがない。何せ、答えがないものなのだから。
故に僕は自分を、納得させようとする。
これが、僕の最高で最大の人生なのだと。
しかし、この疲れ、苛立ち、眠気、未来に対する不安、望みのなさ、退屈感などを、いったいどう制御すればいいのか。
みんな、30代の大人たちは、そうした自己制御が完璧なのか?
分からない、
分からない。
こんなとき、孤独を感じる。
たくさん人がいるのに、誰もいない感じがする。
そんなことはないと思って人とかかわって、やっぱり違う感じがしてがっかりして。
似た感覚をしてるだろう人は、見つかる。
でも、その人たちが存在していることも、具合がとても悪いときは、僕の孤独感を埋めるには足りない。
ああ、こうした、独りよがりな文章は、駄目な極みだ。
何故なら、読んだ人を不快にさせるからだ。けれども、いま、この瞬間の自分は、人との関わりに本当に絶望しているというか、孤独を感じているということ、その表現としてらは、これ以上は書けなかった。
ああ、もう望むのは、明日の自分が、今よりもましな感覚であること……。
																																				」
生存報告、という書き出しで始まり始めたブログは、そう長くはないだろう。
ただ、僕の場合は、いずれは戻ってくるだろうとは思う。
しかし、最近は、全く書く時間が取れない。
ということは、考えることも、思考の整理もできていないということだ。今年の目標に資することもできていない。
人生。
何が忙しいかと言えば、平日は仕事、休日はデートである。
仕事は充実しているし、デートは楽しい。
だが、それでいいのだろうか?
人生。
僕という人間は、それでよかったのだろうか?
人はみな、決断せよという。自分の人生を生きよと。やりたいことをやれと。
僕が仕事や、デートをするのは、やりたいことではないのだろうか?
家事をすること、寝ること、掃除すること、ご飯を食べること、それら生活に関する行動は、僕のやりたいことではないのだろうか?
やりたいことと、やらなければならないことを、分けることができるのか?
仕事というカテゴリの中でも、楽しいこともあれば、イライラすることもある。
デートもしかり、家事もしかり。
すべて100%の生活など送れやしない。
そうしたとき、僕の人生として、どこまでが許容範囲なのか?
そこが分からない。
要するに、僕ができる、僕の最大の選択の中の、最高のことが僕はいまできているのか?
それが分からない。
誰に相談しようとも、まともな、、、というか、僕が欲する回答はできない。できるはずがない。何せ、答えがないものなのだから。
故に僕は自分を、納得させようとする。
これが、僕の最高で最大の人生なのだと。
しかし、この疲れ、苛立ち、眠気、未来に対する不安、望みのなさ、退屈感などを、いったいどう制御すればいいのか。
みんな、30代の大人たちは、そうした自己制御が完璧なのか?
分からない、
分からない。
こんなとき、孤独を感じる。
たくさん人がいるのに、誰もいない感じがする。
そんなことはないと思って人とかかわって、やっぱり違う感じがしてがっかりして。
似た感覚をしてるだろう人は、見つかる。
でも、その人たちが存在していることも、具合がとても悪いときは、僕の孤独感を埋めるには足りない。
ああ、こうした、独りよがりな文章は、駄目な極みだ。
何故なら、読んだ人を不快にさせるからだ。けれども、いま、この瞬間の自分は、人との関わりに本当に絶望しているというか、孤独を感じているということ、その表現としてらは、これ以上は書けなかった。
ああ、もう望むのは、明日の自分が、今よりもましな感覚であること……。
				