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21日、キレる若者
2011/06/21 21:56 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
自分のせいなのかも、でも仕方がないからきれていた。

そしたら、キレる若者として扱ってくれそうだ。


人のオブラートの読み取りは瞬時にできる。気を使うのやら本音やら、先回りして言ってやった。

そして他者の思考の傾向は深く刻まれる。

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意識の受動仮説と幻想
2011/05/30 23:44 | Comments(0) | 思考及び書くこと
本来、携帯からの短文は、さほど意味をなさない。
ところが、これを「継続性」という観点からみれば、有用なのである。

ところで、意識の受動仮説、すなわち、「わたし」という意識も、脳という物質のつくりだす「幻想」のようなものであるという説に、私は共感を覚える。
これは、物質一元論である。心身は別であると考えることもできる。しかし、唯物論だとか唯心論だとか、心身を二分して考えるとか、そうしたことに興味をもっているのではない。

「自由意志」など存在しないという仮説が、有用なのか?

わたしはときに、「すべて、平等に、価値が無い」という。これは有用なのかといえば、まるで無気力にみえる。
同じことをいうのなら、「すべて、平等に、価値がある」でも構わないはずだ。しかし、そのことばは、まさに、となえてみればみるほどに、虚しさがこころを覆うのである。

価値の無いという宣言が、無気力ではなく、むしろポジティブであるということは、理解しにくい発想である。これは、凡人が陥りやすい、怠惰だとか、鬱といったものとも異なる。
むしろ積極的に価値を否定する姿勢……どこかで聞いたことが無いだろうか?

ニヒリズムである。
ニヒリズムは、価値を否定する思想である。リオタールのとなえる、「大きな物語の終焉」は、現代版ニヒリズムとも呼ばれる。

内部被爆したとしても、「ただちに健康に被害は無い」とする、これは、まさしく自暴自棄を引き起こすはずであるが、ところが、事態は、「仕方が無いのだ」という諦めにはいる。

現代人は、怒ることを忘れてしまったのか。あの、共産主義に燃えた人々は、どこにいったのか。

否、この考え方も間違っている。なにせ、電車で足を踏まれれば、我を失ったかのように怒りだす人は多数である。
むしろこの事態は、想像力の欠如と言い換えることも可能なのではないか。

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雑誌の面白さ――信仰の不在――
2011/05/16 23:59 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
図書館で雑誌を読んだ。

法学セミナーという雑誌で、サンデル教授の白熱教室について、「正義」について。
もう一つは都市政策に関する雑誌で、道徳教育について。内田樹氏の文章が面白かった。

ジャック・ラカンさんによれば、教卓の向こう側とこちら側、それに別れていれば教師として成り立つ、みたいな。
「知の非対象性」――十五少年漂流記では、ゴードンさんとか年長の人が、教員免許をもった先生でもないのに、「学校」をつくり、学習させる。
つまり、知ってる人と知らない人の関係があれば、「教師」「生徒」の関係は成り立つのだ。

けれども、今、教育は、「消費者マインド」となっている。
どういうことかといえば、教育における市場価値というのは、「いい大学に入る」とか「いい企業に就職する」といったもの。そういった目的があるから、「この先生の授業は、大学に入るために有用か?」といった視点に生徒もなる。
そうすると、「道徳」なんて無価値だよね、となる。

前提として、公教育とは何だろうか?

良識ある市民を育てることだという。
そもそも、社会が成り立つためには、7%の良識ある市民(すなわち、公的な意識、個の利益のみならず全体のことを考えられる人)がいれば、社会はなんとかまわっていくらしい。

7%の根拠は分からないけれど、妙に納得させられた、というのは、まぁ、やっぱり、人間は個人主義――この言い方は微妙で、「自分が一番大事」というニュアンス、ただこれもちょっと明確ではない(言いたいことを言い表せていない)。

100%良識ある市民だったら、それはよいだろう素晴らしいだろう。ただ、そんな高レベルを要求する社会、そんなシステムは長続きしないということだ。その通りだと思う。
パレートの法則なんてのもある。8:2の法則。

ただ、今の学校教育が、そのような市民を生み出すように機能しているとは思えない。
受験勉強よりも、思いやりとか協調性が大事です! といったことを挙げたとして、それは単に、「受験勉強」が、就職に役立たなくなって、もっと全人的な能力(例えば「コミュニケーション」とか)が要求されるようになったから、ともいえる。

もちろん、そういった理念をもった教師も大勢いることだろうが、「システム」上そうなっていないと思う。というより、社会全体が、消費者マインドにつつまれている気がする。

まぁ、そんな「思う」レベルの話しを書いても、「へー」で終わってしまうし、「いや『私は』そう思わない」といわれたらそれまでのものだ。よく他の人の日記やブログを読んでいると(そもそも日記とブログって何だろう? 日記はもともと、他者に読まれる前提で書かれはしない)、「思う」レベルのことを「至上」としている人がいる。もしくは、いやこれがもっとやっかいなのだけれども、「規則」「ルール」「マナー」「道徳」「法律」といったものを普遍に通用すると思っている人もいる。そういう人の文章は、どこかしら「面白くない」――そう、結局そのレベルの戯言だから聞き流して欲しい。



例えば、最初に挙げた法学セミナーの方の、正義についての話だけれども、リベラリズムとリバタリアニズムの違い、後者の方がより一層、政府の介入をよしとしない、今でいう新自由主義路線のようなものらしいが、そもそも何が正義(正しいのか)といったことも、突き詰めれば普遍ではないということだ。

であるから、私は前々から、「信仰」の重要性を思っている。
宗教を信じろ、というのではないけれども、宗教はやはり、歴史的に、社会的に、民族的に、重要な意味をもってきた、そして今でももっていると思っている。
まぁ逆に、そういうこと書いてしまうということで、問題は明らかに、私の「信仰のなさ」であるのだけれども。


まぁ、戯言の結論を無理やりだせば、当初の目的、タイトルの通り、雑誌も面白いな、ということだけだ。

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読書とは無となる
2011/05/11 19:23 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
葉の定義をしたいのではない、すなわち、方法論と感覚のメモとなる。

読書に先立つものとして、思考を挙げる、しかしそれもまた順番に意味はない。

問題意識、それは生の欲望というよりも生き方である。経験を絶対視するわけではない、何せ経験こそそれを上回る経験に打ち消される程度のものだ。

すなわち順番ではない。

論理はコミュニケーションにおいては重要だが、生き方としての意味はそれほどではない。
なにせ、この順番のなさこそが、まさに生きるということなのだ。

論理といえる重要なものは諦めしかない。

そして矛盾、矛盾を説明する論理がすなわちその価値を否定する。

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神なき世界で生きる日本人
2011/04/21 21:28 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
例えば欧米が個人主義といわれるが、それでもなお孤立はしないことに注意しなければいけない。

飲み会の後の寂しさを思う、だけど、欧米ではそうならない、何故なら、常に手を取り一緒にいてくれる神がいるからだ。

冷酷な、時に殉教を厭わない宗教者たちを日本人は理解できない、けれども、自殺者の数を考えれば大した問題ではない。

自己をもつ人間は少ない。むしろ自由意志(意思)を否定する考え方もある。

果たして自分は自己をもっているか?
バリバリ仕事で活躍する自分、妻や子どもを愛し家庭を守る自分、誰もが自分についての認識はもっている。
しかしそれらは自己の証明にはならない、いや、その信仰具合ではもはや自己自身でもありえるが。
ただし、自己は、上記の自分の見出している価値に対して、自分を含めて再度価値を見いだす、いわばメタ価値をもって、初めてようやく朧気な輪郭がみえてくる。

そして重要なのは、その構造が再帰的であることだ。
常に自分を認識し続ける、そのプロセスこそ自己だし、人だといっていい。


この視点をもっている人は少なくはないと信じたいが、意外にもその表現者は少ないように思える。
ただこれは付加価値のようなもので、他者にこれらを求めるわけではない。



統括者なき思考は暴走し溺死するが、統括者に任せるのはともかく、統括者の存在を知らないのはドールである。

ちなみに重要なのは、かといって人に価値を見いだすべきという主張ではないということである。

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