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不安を幸福に変えるとは何か
2016/09/23 08:14 | Comments(0) | 思考及び書くこと
僕の試みは、果たして実を結ぶものなのか、分からない。ただの徒労なのか。いや、世界が残酷で、そして美しく、苦しみもありながら多幸感に満たされて心の安らぎを得ていくことが至上命題であることは疑いようがない。

であれば思考に何の意味があるのか。

その問いに、僕は常に答え続けなければいけない。その答えはその時々できっと変わってしまうほどに脆弱に過ぎないが、今回は、その現実と、自分自身とのか距離を縮めるために必要だとしよう。

さて、タイトルに戻り、不安について考える。
バタイユさんは、不安を、前出書のP.89において、至福に変えるという。

不安は、煽りこそできるが、他者の中に生じさせることはできない。
不安が生まれるのはチャンスだ。しかし、意気地のなさにより、不安をごまかそうとすると、より惨めになるだけだが、そのチャンスは失われるのである。

己の不安の深みにいく代わりに、ぺちゃくちゃと不安の囚われを話すことは、品位を失わせ苦しみを少しも和らげないだけである。


不安の深みに行くこと



ところで、本の読み方として、精読はする必要がない、エッセンスだけ読み取ればよい、というものがある。

否定はしないし、基本的にそんな読み方をするが、ただし、それを全面的に受け入れ従う必要もまたない。

いい機会だから、この作品、内的体験は、じっくり読んでみようと思う。

とはいえ、これは三部作の中編なのだという。エロティシズムの方が扇情的に有名という。

しかし、恐らく、今の僕は、いわゆる答えを求めているのではない。冒頭に書いたとおり、答えなど明らかなのである。

意味に到達するのは、決して、答えが重要なのではない。思い返せば、既に答えには、精神充足こそが人間存在の求めるところだと看破したギリシアのエピクロスの言により十代半ばに分かっていた。しかしその答えは、常々、役にたたなかった。いやむしろ、徐々に精神を磨り減らしていったのかもしれない。その所謂快楽主義は、現実の不条理さや思い通りへのならなさ、苦しみに対して赤子のように無力であった。

ここで、同じように、何か分かりやすい答えを求めて失敗するのも一興かもしれないが、短い人生においてその選択をする気持ちには単純になれない。

確かに、答えを求めなく、広大な表現の海原に帆を立て進むのは于遠で果てなきことに思える。

それはどこか、一点に集束するのではなく、むしろ混沌と混迷に進むだけかもしれない。


このことが、不安をはぐらかすことなく、その深みに向かうということと、僕は理解する。


思考とその向かう先



一ページにも満たない部分の解釈だが、こんな読み方とアウトプットをしていたら、いつまで経っても読み終わらないかもしれない。

ただ、重要なのはアウトプットにおもえる。

何となく読み進めることは可能になったけれども、きっと、僕の乏しい記憶力では、次から次へと大切なものがこぼれ落ちていくことだろう。

無気力



問題は、最近訪れる、無気力さんだが、彼女とどう付き合っていくか。
彼女は、常に陰鬱な表情と雰囲気を醸している。目には力がなく焦点が定まらず、長く枝毛が多い黒髪と丸まった背筋。

彼女の存在は、僕に、目肩の重さと鈍重な頭痛を与える。そうすると、体に杭を打ちこまれたかのように、布団から身を起こすことができなくなる。

その身体的な苦痛は、すぐさま思考へも及び、深い闇に落ち込むように何事への価値をも見いだせなくなっていくのだ。



しかし、僕もいけなかった。
彼女に、何の言葉もかけてやれなかった。ただ、自分の身体的な苦痛にもだえるだけで、彼女を理解しようと努めなかった。

今度、彼女がまたやってきたら、声をかけてやろうと思う。

それは、決して、拒絶ではならないだろう。

無気力。
言葉は恐ろしいが、可能性として、それはまた僕には必要なことかもしれないのだ。

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時間がないときほど回る
2016/09/21 08:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
メモの重要性は疑うべくない。
小林泰三の門という作品を読んで、これがsfかと、いたく感動したものである。
そして、解説というかあとがきの、こまけーこたーいいんだよ、ハイレベルな科学は時に一般人には魔術などファンタジーと同義だ、とかいう考え全くそのとおり。

また上から目線体験だが、やはり自分が考えつく程度のことは皆既に思考を通りすぎているのだ、と。
もちろん、科学的にも、量子論の、例えばスピンという概念、言葉こそ出てこなかったが、距離をゼロとしつつ収束するとの考えをテレポーテイションに応用するなど、サイエンスとしてもよむことができて舌をまくばかりであった。

内的体験


そして、先般から読み始め、やっぱり投げ出そうかとしていたジョルジュバタイユの作品だが、これもまた、実感をともなって面白い。

ああ、まさか、読者を意識した一つの書物の作成について言及する思想書があるとは思わなかった。

僕の言葉で書くと、特殊性、凡人性、つまり、自分が特別な人間でしかなくこの内的体験が自分だけのものであったとき、思考は監獄の中に、抜けられない煉獄で永遠に苦しむというわけだ。 

いや、別に苦しまんでいいだろ? となりそうなところ、刑苦として、形をなさない不明瞭な叱責に耐え続けることになるのだ。




本当は引用して、書くべきだ。
そうすると、大きな勘違い、ジョルジュさんそんなこと言ってないし! と、なる可能性もある。

ただ、重要なのはその検証作業ではなく、そうした意識を、現に私に生じさせた、というその実感のメモである。


なにせ、いま書いている言葉は、きっと明日にはつむげないし、もちろん、この作品を読まなければ書くことができなかったのだ。

一期一会という陳腐な四字熟語しか浮かばないが、ひとたびの出会いは、代替が二度とできない貴重な瞬間をうみ出してくれるのだ。


アギュギテム


インプットとアウトプットのバランスが崩壊している。
せっかくよい作品を書いても、その表現がなかれなければ、我が身へのインプットにはならない。もちろん、アラヤシキとして、無意識としての影響はあるだろうが、その取り扱いはコントロール困難だ。

もうひとつ、メモすべきは、とある小説。
内容はここでは書かないが、とにかく、寝る前に読んだら、久しぶりに夢をみて、非常にカオスで、監獄的で、群像的で、緊張をしいられるものであった。

朝起きると、最近は一日の始まりに、気だるさと、価値の再確認など気乗りのしないばかりであったが、夢から覚めて、敢えて悪夢とは書くまい、身体をすぐさま起こし、次の行動に即座にうつっていったのである。


無理矢理、昨日の、物語が必要だ、との言葉に結びつければ、そう、やっぱり、物語が足りていないのだ。
そして、まだまだ不十分かもしれないが、その作品はそれを充足してくれたのである。

インプットとアウトプット


注意、注意、インプットのみでは、失敗は目に見えている。いま、必要なのは、解釈を伴ったインプットであり、それはもはやインプットとアウトプットのハイブリットである。

無遠慮の、無考慮の、全身全霊でおおらかに感じるのは、もう必要ない。
それは、子供の頃の、世界とは知らず、ひとつひとつが、新しく、時間が長く、価値のあるもので、傷つきやすく、壊れやすかったあの郷愁の時代とは異なるのだ。
(そんな時代が自分にあったかは知らないし、意識もせずに書いている。このことが、読者=他者存在を意識すること、だという理解だ)

だから、いま、その一つ一つが退屈で、同じことのようで、気だるいものだとしたら、少しでもアウトプットとして、価値を自らの手で再構築し、その積み上げによって、

かねてからの、自分の目的に向けての材料に、幾ばくかはなるのではと、思う。






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ジョルジュバタイユの内的体験
2016/09/16 00:14 | Comments(3) | 思考及び書くこと
無意識、夢の中で、「生きるのであれば、こんな生活変えてやる!」と言った(想像)。

未来、未来がないのだ。だから今が幸せだろうが、不満や不安でしかないのだ、と言った。


――ならば、未来を、創ればいい。


ジョルジュ・バタイユの内的体験を読んで

別に、新しく買った本ではない。かなり前に購入し、読み始め、「うわ、なんだこれ、分かりづらい、難しい、やめよう」と、本棚に埋まっていた。

で、恒例の本棚整理の日に、当然、売却対象候補になった。

しかし、意外やに、今の現時点においても、かなり高評価であり、アマゾンのUSEDも下落していない(1円になっていない)。

難解なのが面白いというわけではない、ただ、何か人を惹きつける何かはあるのだろう、そう思って、残しておいた。


最近になって、ちょっと開いてみた。特に、理由はなかった。ただ、息をするとか、鼻水をかむとか、そんな程度に、手に取った。

なんか、ちょっと「わかる」って感じになった。

もし私が思いきって「神を見た」と言うとしよう。すると、私の見るものは質を変えてしまうだろう。想像もできない未知のものの代わりに死んだ客体が、神学者の持ち物が顔を出すことになる。そして未知のものはそうした客体に従属させられてしまうだろう。なぜなら、神ということになれば、恍惚が啓いてくれるおぼろな未知のものは、私を隷属させるべく隷属させられてしまうからだ。

例えば、上のような表現が、なんとなく、わかるのだ。

この本、そもそも、何について書かれたものなのか、実は未だに分からない。

ただ、「内的体験」というタイトルの通り、人間の内面の存在を表現する試みなのだろうと推測する。
それはおそらく、心理学的なものではなく、まさに、瞑想したような状態、法悦の、恍惚の、感動の状態を表そうとしたものなのだろう。


解説のあとがきにあるように、きっと、全部の文章、一文一文を理解する必要がないのだと思う。
つまり、神をも恐れず言いのければ、僕のブログのようなものなのだと。(天罰がくだるぞ!)



もっというと、自己啓発的な奴とは違い、きっと、結論だけ読んでも、何も分からないだろう。
いやむしろ、結論めいたものが書かれているのかどうかすら怪しい(フランス思想書の研究者たちに石を投げられる!)。

ただ、表現として、面白そうだと、今は思う。

昔は思えなかった。これは、読書力があがったとか、そういう問題ではないと思う。
おそらく、「思考」がかわったのだ。そして、「文字」に対しての考え方が変わったのだ。


無気力さの取り扱い

「何もしたくねぇ」
と、本気で思う。
最近特にその傾向が高い。

その、何もしたくないというのが意味するのが、非常に曖昧模糊であり、ただ単に、何かに集中できないような状況であるともいえる。「こんなことして、なんになるのか」とか。これら、なんでも「意味」を求めようとする呪い、というか悪癖というか。ただ、意味を捨て、家畜のように生きることは、おそらく、一度呪いにかかったものは、することができないだろう。それが、このブログタイトルへの決意である、「徹底して考える」という点にあらわれているのだろう。(推測、の文末表現になるのは、過去の自分は他人、という考えによるものだが、それより、単に記憶の曖昧さに起因する)

しかし、よくよく、休んで時間をつくってみれば、
・ゲームオブスローンズは面白い。ストーリー、セリフまわし、映像、たまに入るエロシズム、よく入るグロスティック。良い作品である。DVD1巻が、2時間で、5章の4巻目までみたから、少なく見積もっても、48時間費やしていることになる。え、まじか、そりゃすげぇな。数字にすると驚く。

・進撃の巨人は面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。

・アイアムアヒーローは面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。スピンオフ作品? オメーはダメだ(いや、そんなダメじゃないかもしれない。でも、1話だけ読んでみて、あまり読もうとは思わなかった)。

・モノガタリを創るのは面白い。


そう、意外やに、やりたいことは、あるのだ。
ただ、無気力の野郎は、本当に身近になっている。いや、これは冗談ではなく、本当にお友達になった方がいいのかもしれない。本当に無気力だと、自殺する元気もないと言うしなハハハ。


未来がないなら創ればよい

「僕」
という存在に、未来はないのかもしれない。

でも、モノガタリは、創ることはできる。

自己を投影した主人公は、きっと面白くないだろう。

ただ、想像しうる、人間存在や、自然、科学、事象、因果、宇宙、物理法則、社会、集団、思想、価値観……それら諸々について創造することにより、本来的自己の「何か」片鱗をみることができるのかもしれない。


先日、書いたかどうか忘れてしまったから、もう一度書いておくと、

「生きる意味を考える」

というと、「キモーイ」と言われるが、

「自分の価値観の軸をつくり磨いていく」

といえば、なんか「できる男」みたいでかっこいいと思われるかもしれない。


そう、所詮、「表現」でしかない。


表現という世界

最近、新しい書物にあたるのが億劫になったのは、歳をとったから、というよりも、
「表現性」の問題に気づいたことによることが、大きいかもしれない。


いくら回りくどく、小難しく、難解なテクニカルタームを用いたとしても、「平易な言葉で理解できる範囲に展開すること」ができなければ、所詮それは「理解」ではなく「暗記」である。

いやもちろん、暗記が悪いことではなく、むしろ、暗記というか、記憶の積み上げが、人格を形作っている、という現在の僕の立場である。

先般、「残酷な世界で生き延びる方法」(タイトルが違うかも)において、「こころ」とは、他者のこころをシミュレートする機能である、という表現があったけれども、というよりも、こころ=人=人格=自己=とは、「記憶である」と言った方が、僕は今のところすっきりする。


だから、固有名詞の記憶というのは重要なのだけれど(たとえそれが、因果を知らない暗記であったとしても)、記憶力の程度は、その人の頭の良さによるし、反復がなければ忘却は避けられないし、老いは必ずやってくる。


であれば、僕が思うに、重要なのは、「概念記憶」だと思うのだ。

概念記憶

概念記憶とは、そうさな、固有名詞を一切用いずに、事象を説明できること(アウトプットできる記憶)、である。

何だろう、ここで、かっこいい例えが言えたらいいけれども、いえなくて、例えば、「重力」といったとき、英語でグラビティとか他の言語による表現などたくさんあるのだろうけれども、

重さをもった物同士が引き付けあう力

とアウトプットすれば、それは概念記憶といえる。
いや単に、高いところから物を落とすと、下に向かって落ちる現象を引き起こす力、といってもいいし、いろんな表現がある。

上に書いた表現、それって「万有引力」では? という疑問もあるが、厳密な違いの記憶が今はない。ただ、調べれば、なんとなく思い出すだろう。

とにかく、概念記憶とは、限りなく平易な言葉で表現するために必要な記憶(情報構成能力)のことである。



で、ここで僕が気になるのは、その「限りなく平易な言葉」ってなんだよ、となる。

これが、養老さんの仰る、「バカの壁」の話につながる。

つまり、人のインプット能力(記憶の多寡)によるコミュニケーションの限界性である。
(「つまり」とかいって、全然要約できていない。)

ええと、なので、「限りなく平易な言葉」が、人によって異なるというわけだ。


またしても、バカげた例えをすれば、「異なる」といっても通じない人がいるかもしれない。「違う」と言ってあげなきゃいけないかもしれない。

でも、でも、だ。違うと異なるの、違いを、残念ながら、以前調べた気もするが、今は覚えていない。が、そのほとんどの人が、特に差異を気にせず用いている表現、それを記憶して、なんになるというのか、という疑念、それが、「通常記憶よりも概念記憶の方が重要なんじゃないか」と、先に書きたかったことである。


では、そういった、概念記憶は、どうやってつくっていけばいいのか。

体験・経験・感動

心に刻まれること。
潜在的な意識に刻み込まれ、無意識下で行動の源泉となるもの。

それが、概念記憶を作り出す。


だから、先の、ジョルジュ・バタイユの、内的体験の、その「体験」とは何かを表現する試み、今僕はとても興味がある。


この「興味」。

これは大事だ。

これは、言い換えれば、「未来」だ。

良い作品の、続きを「読みたい」。これは「欲求」という。欲求も非常に重要だ。


そして、僕は、そんな良い作品を創りたいと、今はそう思う。
これは、もしかして、無味乾燥な僕の人生に、少しばかり潤いを、「未来」を、もたらしてくれるのではないだろうか。




――と、前向きに書いておいて、興味深いのは、明日の自分の感想だ。


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残酷な世界で生きる方法
2016/09/14 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
タイトルは、先日買ってみようと記事に書いた本のタイトルの引用。

結論は、ロングテールのなかのさらにニッチな分野でトップを目ざしそれでだめならさらにニッチの分野に着目していく。

そして、ローカルコミュニティ戦略について。人は承認をもらうことが幸せだ。リナックスは無料OSだが、バグを改修するプログラマーたちには称賛という褒美が与えられ、生き甲斐となる。

私とは、心とは何かという問いには、他者の気持ちをシュミレートする機能だと答える。

明解で分かりやすい作品だと思った。


いまいちな点



心とは何か、に対し、他者のことを思いやり、社会性を営むための機能だ、としたとき、そもそも私とは何かとは、何者でもない、ということになる。

これは、梵我一如や、禅による世界との一体化という、方策である。
それは正しいと思う。自我に執着すると、せかいが小さくなってしまうというのは、ひ肉的だが正しいだろう。

ところが、その一方で、ニッチな部分を探して、その言わば小さなコミュニティで承認をえながら幸せを感じていく戦略。


これ、違和感があるのは自分だけだろうか。


なんか、違うよな、というのは、結局、お金持ちが必ずしも幸せじゃない、とかいうなら、他者の承認とかも果たして、それほど重要なものなのか、と。

貨幣のルールのなかで、実は、お金じゃなくて承認を得たい、と、これがひとつ矛盾に思える。

私とは何者でもない、としたときに、他者の存在に心を使うというのが、次に不明だ。



おちつこう



整理できていない。言葉が、頭がカオスである。

とにかく、ひとつ言えるのは、500円ぐらいの価値はあったと思うが、まぁ、次の本だな整理の際には残らないだろうな、ということだ。なぜか。

救済になる、福音になるほどの感動はなかったことによる。 
なぜか。

自分の現実的な行動に、影響を与えられなそうだ、ということだ。


先日の、へとへとになりながら準備したプレゼンは、結果的に、よかったと褒められた。もちろん、反対意見や批判なんかもあった。ただ、今回としては成功だったといえる。

まぁそれはよかった。また今度、もう少し頑張ろうかと思った。


お金は、散財しているから、減ってきている。が、生活するには困っていない。

はたからみれば、いな、僕自身でさえ、幸せ絶頂最高ハッピーマグナムグレート究極人生生活ではないか、と、思う。


うそか?

いや、無駄な、修飾語は省いたとしても、よい方向に向かっている、とはいっていいだろう。

が、何でこう、精神力が減退するのか。




未来への信仰心



先が、ないのだ。


というのは、トラウマ的なものとか、難しいことはおいておいて、100年後を考えたとき、まっくらだ。当たり前だ、100年たつと、死んでいる。

何をくだらないことを、と、誰も理解してくれないから、もう言うことはないのだが、重要なことなのだ。

分かりやすく、10年後だとして、そのとき、僕は、どうなっていたら楽しく幸せに生きているのか。

まったく、イメージがつかない。
それは、夢があればいい。ミュージシャンになるとか、政治家になるとか、実現性がとぼしくても、こうなったら幸せだろうというイメージがあれば、例え直接的成功が厳しくても、代替欲求充足が可能だ。野球選手になれなければ、スポーツトレーナになるとか、子供を育てて夢をたくすとか。



まあ、10年後、というから、こんな例えだが、その次元で困ってるわけでもない。

50年後。死ぬとき。どうあれば、我が人生に悔い無し、といえるのか。


そういう意味だと、明日死んでも、特に、悔いはない。

なんだかんだ、平凡であり、悲劇的であり、ドラマチックであり、よい人生だったと思う、それは今でもだ。


満足しているのだ。


ただ、未来を問うたとき、僕は、なんだか不思議な、不快な気分に陥るのだ。




いますぐ死ねばいい



そんな感じでいっていくと、まぁかけられる言葉は、じゃあ死ねば、となる。もしくは、黙って友人たちが離れていくか。

貧しいひとたちには、呪いをかけられそうだ。

しかし、貧しいひとは幸いである。

それは、裕福になるという夢がもてるからだ。


いやいや、くだらないことを書いておけば、別に自分はそれほど裕福ではない。もっとお金持ちはたくさんいる、どころなさわぎじゃなくてたくさんだ。ただ、地球規模でいけば、僕はとても恵まれている。



この比較性の無意味さ。
政治ゲームという、他者の承認、評判を高めていく幸せゲームの無意味さ。

無意味というか、意味はあるのかもしれないが、僕は、どうも、価値が、見いだせない。

どっかの、15歳ぐらいのギャング集団が、仲間をリンチして殺した。
そんなくそったれな集団でも、集団内の承認を求めて政治ゲームが行われているのである。



めんどくさいやつ



うるさいな。わかってるよ。ちょっと高級な寿司を食べたり(一皿250円とかだ!)、お酒飲んだり、お風呂入ったり、ぐっすり寝たり。

それは、生理的に気持ちよいものだ。

でも、それを際限なく続けていくのが人生ってことでいいの?


もしくは、誰かから、すごいね、頑張ってるね、助かるよ、ありがとう! と、言われ続けるのが人生?


それはとてもとても幸せなことだ、楽しいことだ。


でも、だから、どうしたっていうのだ。




むむ、ここで時間切れか。

ここで終わってしまうと、本当にダメ人間になってしまうから、なにか、


なにか、前向きなこと書かなきゃ。


うぉー! なにも思い付かない。


うーむ、もしかして、あれか、何もしたくないことをしたい、ってことなんだろうか。


でも、今後の休日はつまっているし、再び仕事も帰りが遅い。

思いきって、先日のように、友人と会うのもやめさせてもらって、何もしない時間をつくったほうがいいなかもしれないな。

しかし、予定を解除すると、結局うだうだ、頭のいたさに耐えながら、昼過ぎまで惰眠をしつつ、夜は夜でなにするわけでもなく無駄な時間を過ごして……みたいになりそうで、怖い。それよりなら、誰彼と一緒に過ごした方がいいきがする。

まったく、失礼なこときわまりないやつだ。


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人間嫌いと障がい者を感動ポルノに
2016/08/29 08:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
しょうがいを持った方でも、必死に生きているという番組を、感動ポルノだとして批判がされた、という。健常者でも、しょうがいしゃでも、ともに怒ったり笑ったりするのが本当の感動だと。


先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。

まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。



例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。

人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。

繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。


それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。


というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。

ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。



自己の抑圧




本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。

と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。

結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。

そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。


ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)


なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。

メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。

それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。

概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。

それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、


そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。


そして午後



なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。

もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。


さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。

こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。


絶望について、

必然期待について、

不透明な時代について、

生きる意味を考えることについて、

ここまで書いた。

次は、理想的な自己とはなにか、についてか。

しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。


うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。

吉田さんの徒然草は参考になる。

あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。

気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。


十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。

それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。


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