タイトルは、先日買ってみようと記事に書いた本のタイトルの引用。
結論は、ロングテールのなかのさらにニッチな分野でトップを目ざしそれでだめならさらにニッチの分野に着目していく。
そして、ローカルコミュニティ戦略について。人は承認をもらうことが幸せだ。リナックスは無料OSだが、バグを改修するプログラマーたちには称賛という褒美が与えられ、生き甲斐となる。
私とは、心とは何かという問いには、他者の気持ちをシュミレートする機能だと答える。
明解で分かりやすい作品だと思った。
心とは何か、に対し、他者のことを思いやり、社会性を営むための機能だ、としたとき、そもそも私とは何かとは、何者でもない、ということになる。
これは、梵我一如や、禅による世界との一体化という、方策である。
それは正しいと思う。自我に執着すると、せかいが小さくなってしまうというのは、ひ肉的だが正しいだろう。
ところが、その一方で、ニッチな部分を探して、その言わば小さなコミュニティで承認をえながら幸せを感じていく戦略。
これ、違和感があるのは自分だけだろうか。
なんか、違うよな、というのは、結局、お金持ちが必ずしも幸せじゃない、とかいうなら、他者の承認とかも果たして、それほど重要なものなのか、と。
貨幣のルールのなかで、実は、お金じゃなくて承認を得たい、と、これがひとつ矛盾に思える。
私とは何者でもない、としたときに、他者の存在に心を使うというのが、次に不明だ。
整理できていない。言葉が、頭がカオスである。
とにかく、ひとつ言えるのは、500円ぐらいの価値はあったと思うが、まぁ、次の本だな整理の際には残らないだろうな、ということだ。なぜか。
救済になる、福音になるほどの感動はなかったことによる。
なぜか。
自分の現実的な行動に、影響を与えられなそうだ、ということだ。
先日の、へとへとになりながら準備したプレゼンは、結果的に、よかったと褒められた。もちろん、反対意見や批判なんかもあった。ただ、今回としては成功だったといえる。
まぁそれはよかった。また今度、もう少し頑張ろうかと思った。
お金は、散財しているから、減ってきている。が、生活するには困っていない。
はたからみれば、いな、僕自身でさえ、幸せ絶頂最高ハッピーマグナムグレート究極人生生活ではないか、と、思う。
うそか?
いや、無駄な、修飾語は省いたとしても、よい方向に向かっている、とはいっていいだろう。
が、何でこう、精神力が減退するのか。
先が、ないのだ。
というのは、トラウマ的なものとか、難しいことはおいておいて、100年後を考えたとき、まっくらだ。当たり前だ、100年たつと、死んでいる。
何をくだらないことを、と、誰も理解してくれないから、もう言うことはないのだが、重要なことなのだ。
分かりやすく、10年後だとして、そのとき、僕は、どうなっていたら楽しく幸せに生きているのか。
まったく、イメージがつかない。
それは、夢があればいい。ミュージシャンになるとか、政治家になるとか、実現性がとぼしくても、こうなったら幸せだろうというイメージがあれば、例え直接的成功が厳しくても、代替欲求充足が可能だ。野球選手になれなければ、スポーツトレーナになるとか、子供を育てて夢をたくすとか。
まあ、10年後、というから、こんな例えだが、その次元で困ってるわけでもない。
50年後。死ぬとき。どうあれば、我が人生に悔い無し、といえるのか。
そういう意味だと、明日死んでも、特に、悔いはない。
なんだかんだ、平凡であり、悲劇的であり、ドラマチックであり、よい人生だったと思う、それは今でもだ。
満足しているのだ。
ただ、未来を問うたとき、僕は、なんだか不思議な、不快な気分に陥るのだ。
そんな感じでいっていくと、まぁかけられる言葉は、じゃあ死ねば、となる。もしくは、黙って友人たちが離れていくか。
貧しいひとたちには、呪いをかけられそうだ。
しかし、貧しいひとは幸いである。
それは、裕福になるという夢がもてるからだ。
いやいや、くだらないことを書いておけば、別に自分はそれほど裕福ではない。もっとお金持ちはたくさんいる、どころなさわぎじゃなくてたくさんだ。ただ、地球規模でいけば、僕はとても恵まれている。
この比較性の無意味さ。
政治ゲームという、他者の承認、評判を高めていく幸せゲームの無意味さ。
無意味というか、意味はあるのかもしれないが、僕は、どうも、価値が、見いだせない。
どっかの、15歳ぐらいのギャング集団が、仲間をリンチして殺した。
そんなくそったれな集団でも、集団内の承認を求めて政治ゲームが行われているのである。
うるさいな。わかってるよ。ちょっと高級な寿司を食べたり(一皿250円とかだ!)、お酒飲んだり、お風呂入ったり、ぐっすり寝たり。
それは、生理的に気持ちよいものだ。
でも、それを際限なく続けていくのが人生ってことでいいの?
もしくは、誰かから、すごいね、頑張ってるね、助かるよ、ありがとう! と、言われ続けるのが人生?
それはとてもとても幸せなことだ、楽しいことだ。
でも、だから、どうしたっていうのだ。
むむ、ここで時間切れか。
ここで終わってしまうと、本当にダメ人間になってしまうから、なにか、
なにか、前向きなこと書かなきゃ。
うぉー! なにも思い付かない。
うーむ、もしかして、あれか、何もしたくないことをしたい、ってことなんだろうか。
でも、今後の休日はつまっているし、再び仕事も帰りが遅い。
思いきって、先日のように、友人と会うのもやめさせてもらって、何もしない時間をつくったほうがいいなかもしれないな。
しかし、予定を解除すると、結局うだうだ、頭のいたさに耐えながら、昼過ぎまで惰眠をしつつ、夜は夜でなにするわけでもなく無駄な時間を過ごして……みたいになりそうで、怖い。それよりなら、誰彼と一緒に過ごした方がいいきがする。
まったく、失礼なこときわまりないやつだ。
結論は、ロングテールのなかのさらにニッチな分野でトップを目ざしそれでだめならさらにニッチの分野に着目していく。
そして、ローカルコミュニティ戦略について。人は承認をもらうことが幸せだ。リナックスは無料OSだが、バグを改修するプログラマーたちには称賛という褒美が与えられ、生き甲斐となる。
私とは、心とは何かという問いには、他者の気持ちをシュミレートする機能だと答える。
明解で分かりやすい作品だと思った。
いまいちな点
心とは何か、に対し、他者のことを思いやり、社会性を営むための機能だ、としたとき、そもそも私とは何かとは、何者でもない、ということになる。
これは、梵我一如や、禅による世界との一体化という、方策である。
それは正しいと思う。自我に執着すると、せかいが小さくなってしまうというのは、ひ肉的だが正しいだろう。
ところが、その一方で、ニッチな部分を探して、その言わば小さなコミュニティで承認をえながら幸せを感じていく戦略。
これ、違和感があるのは自分だけだろうか。
なんか、違うよな、というのは、結局、お金持ちが必ずしも幸せじゃない、とかいうなら、他者の承認とかも果たして、それほど重要なものなのか、と。
貨幣のルールのなかで、実は、お金じゃなくて承認を得たい、と、これがひとつ矛盾に思える。
私とは何者でもない、としたときに、他者の存在に心を使うというのが、次に不明だ。
おちつこう
整理できていない。言葉が、頭がカオスである。
とにかく、ひとつ言えるのは、500円ぐらいの価値はあったと思うが、まぁ、次の本だな整理の際には残らないだろうな、ということだ。なぜか。
救済になる、福音になるほどの感動はなかったことによる。
なぜか。
自分の現実的な行動に、影響を与えられなそうだ、ということだ。
先日の、へとへとになりながら準備したプレゼンは、結果的に、よかったと褒められた。もちろん、反対意見や批判なんかもあった。ただ、今回としては成功だったといえる。
まぁそれはよかった。また今度、もう少し頑張ろうかと思った。
お金は、散財しているから、減ってきている。が、生活するには困っていない。
はたからみれば、いな、僕自身でさえ、幸せ絶頂最高ハッピーマグナムグレート究極人生生活ではないか、と、思う。
うそか?
いや、無駄な、修飾語は省いたとしても、よい方向に向かっている、とはいっていいだろう。
が、何でこう、精神力が減退するのか。
未来への信仰心
先が、ないのだ。
というのは、トラウマ的なものとか、難しいことはおいておいて、100年後を考えたとき、まっくらだ。当たり前だ、100年たつと、死んでいる。
何をくだらないことを、と、誰も理解してくれないから、もう言うことはないのだが、重要なことなのだ。
分かりやすく、10年後だとして、そのとき、僕は、どうなっていたら楽しく幸せに生きているのか。
まったく、イメージがつかない。
それは、夢があればいい。ミュージシャンになるとか、政治家になるとか、実現性がとぼしくても、こうなったら幸せだろうというイメージがあれば、例え直接的成功が厳しくても、代替欲求充足が可能だ。野球選手になれなければ、スポーツトレーナになるとか、子供を育てて夢をたくすとか。
まあ、10年後、というから、こんな例えだが、その次元で困ってるわけでもない。
50年後。死ぬとき。どうあれば、我が人生に悔い無し、といえるのか。
そういう意味だと、明日死んでも、特に、悔いはない。
なんだかんだ、平凡であり、悲劇的であり、ドラマチックであり、よい人生だったと思う、それは今でもだ。
満足しているのだ。
ただ、未来を問うたとき、僕は、なんだか不思議な、不快な気分に陥るのだ。
いますぐ死ねばいい
そんな感じでいっていくと、まぁかけられる言葉は、じゃあ死ねば、となる。もしくは、黙って友人たちが離れていくか。
貧しいひとたちには、呪いをかけられそうだ。
しかし、貧しいひとは幸いである。
それは、裕福になるという夢がもてるからだ。
いやいや、くだらないことを書いておけば、別に自分はそれほど裕福ではない。もっとお金持ちはたくさんいる、どころなさわぎじゃなくてたくさんだ。ただ、地球規模でいけば、僕はとても恵まれている。
この比較性の無意味さ。
政治ゲームという、他者の承認、評判を高めていく幸せゲームの無意味さ。
無意味というか、意味はあるのかもしれないが、僕は、どうも、価値が、見いだせない。
どっかの、15歳ぐらいのギャング集団が、仲間をリンチして殺した。
そんなくそったれな集団でも、集団内の承認を求めて政治ゲームが行われているのである。
めんどくさいやつ
うるさいな。わかってるよ。ちょっと高級な寿司を食べたり(一皿250円とかだ!)、お酒飲んだり、お風呂入ったり、ぐっすり寝たり。
それは、生理的に気持ちよいものだ。
でも、それを際限なく続けていくのが人生ってことでいいの?
もしくは、誰かから、すごいね、頑張ってるね、助かるよ、ありがとう! と、言われ続けるのが人生?
それはとてもとても幸せなことだ、楽しいことだ。
でも、だから、どうしたっていうのだ。
むむ、ここで時間切れか。
ここで終わってしまうと、本当にダメ人間になってしまうから、なにか、
なにか、前向きなこと書かなきゃ。
うぉー! なにも思い付かない。
うーむ、もしかして、あれか、何もしたくないことをしたい、ってことなんだろうか。
でも、今後の休日はつまっているし、再び仕事も帰りが遅い。
思いきって、先日のように、友人と会うのもやめさせてもらって、何もしない時間をつくったほうがいいなかもしれないな。
しかし、予定を解除すると、結局うだうだ、頭のいたさに耐えながら、昼過ぎまで惰眠をしつつ、夜は夜でなにするわけでもなく無駄な時間を過ごして……みたいになりそうで、怖い。それよりなら、誰彼と一緒に過ごした方がいいきがする。
まったく、失礼なこときわまりないやつだ。
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