今日の一言「実践すべきことはそう多くはない」
な、何だって!? パクられた!! ……と思ったわけではないが、手に取ってみると、まぁ、僕がこれまでやっていたようなこと、今やっているようなことであった。
B6版で厚みがあり、1400円ぐらいで、あるコンサルタントさんが著者となれば、さも重要ですごい効果的なメソッドな気がしてくる。
しかし、こと、このことに関しては、僕は、10年~15年ぐらい続けてきている。まぁ、もっと、もう少し「良い方向へ」注力していくための方法としては、もっと早く上のような書籍に出会えたらよかったと思える。
これで、著作権問題みたいになったら、僕の方が早くからやってきているが、その有名人の著者の方が、きっと正しい、となるのだろう。だからこのブログはこれからもひっそりと続いていくのである。
コンサルタントさんだったり、有名な大学を卒業していたり、テレビに出演していたり、有名な人だったりすれば、その書いてあることがどうであれ、本になって、お金になって、それを読んだ人たちに影響を与えていくのである。
コマーシャル、というのは、本来的には、価値多様化社会の中では、いったい何が重要な情報なのか、ますます探しにくくなるために、「おすすめ」をしてくれるという意味で、価値あることなのである。ところが、多くは、「脅してむしり取る」という方針が、まことしやかに行われる。
と、いうよりも、「意味」(目的)を失った現代人たちにとっては、もはや、何が「主体的」なことなのか、その判断すら失われて行っているのである。だから、盲目的に、テレビや書店に並ぶキャッチーな脅し文句につられて、ますます自己自身を見失っていくのである。
……みたいなね! もっともらしいこととか、さも「一般的」みたいに書かれていることが多いのだ。
これらを全くすべて否定する気などない。
ただ、一つ、基盤的に、根本的に重要なことは、恐ろしいほどにシンプル、単純、簡単である。そのことができていないまま、やれ「ダイエット」やら「頭がよくなる」やら「お金が増える」やら「不透明な時代に生き残る」やら、色んな不安に煽られて「何かやらなきゃ!」と思ったところで、まず、その人は何も変わらない。何も変えられない。今まで通り、ずーっと、煽られ続け、不安を感じながら、搾取されながら生き続けるしかないのである。それよりだったら、むしろ、本なんて読まなくていい。ただ、目先の欲望……と書くとこき下ろしすぎだが、日々の楽しい友人たちの会話や、美味しいごはんなどについてだけ考えて、一日一日を過ごした方がよっぽどましである。
本当に大切なことは、「続ける」ことである。
継続は力なり。これだけである。この続けるという能力、これがあれば、大抵のことは何でもできる。その基盤があった上で、その上に走らせるプログラム(ソフトウェア)として、時間対効果をあげるためのメソッドが有効になっていくのである。
シックスパックの腹筋に憧れて、様々な筋トレの仕方を学ぶのはよいだろう、しかし、その微妙な「正しい」腹筋の仕方を追及するよりも、まずは毎日、ど素人のやり方でもいいから、続けていくことが大前提だ。一時期腹筋のしわが薄まっていったけれども、ここ90日ぐらい筋トレを続けて、またほりが深くなった。3日やったら1日の休みをいれる、とか、肘を床につけて90度にしてそのまま維持するとか、流行りの方法など無視して、ふつーに、毎日やっていただけでも、それなりに効果はでる。確かに、「正しい」方法をしてやっていたら、もっと良い効果になったかもしれない。けれども、続けられなければ、所詮はゼロに過ぎないのだ。
笑顔は大事。表情筋は、脳の感情等を司る尾状核と繋がっている。笑顔をつくることで、脳の働きも良くなるのである。そして、社会学的には、笑顔の人は警戒されにくい。心を許してもらえやすい。人が集まりやすい。幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せなんだ。
でもさ、それって、どうやりゃいんだよ! どうも、何をやっても長続きしないんだよ!
という方もいるでしょう。
「5分ルール」とか、「例外規定」とか、「強制実行」とか、「カウントダウン法」とか、色々と方法はあるでしょう。
しかし、重要なのは、そういったテクニック的なのではなく、これも至ってシンプルですが、「目的」「目標」を立てる、ということです。
腹筋を六つに割りたい!
これは、目的でも、目標でもありません。ただの願望です。これでは、いくらたっても、望みが実現することはありません。
腹筋を6つに割るため、筋トレを毎日しよう!
これもダメなパターンです。
確かに、これは、数値化(毎日やろう)という意味で、目標にはなっていますが、目標の立て方が下手すぎます。
というよりも、目標が二重の意味で低いのです。
一重の意味は、その目標が具体化されていないことです。まぁこれは、もう少し、腹筋する回数とか、朝やるのか夜やるのか、何か月続けるのか、チェックはいつするのか、などなど、詳細化していけば解決する話です。
しかしもっと問題は、二重の意味の方で、この腹筋を割りたい、という目的・目標が、いったい、何のため? なのか、ということです。
鏡の前に立って、自分で自分の身体を見詰めて、「おぉ、かっこいいぜ!」と陶酔することが目的なのでしょうか? 海にパンツ一丁で行って、ギャルに「かっこいい! 腹筋さわらして!」と言われることが目標なのでしょうか? それとも、近くに控えた健康診断のためなのでしょうか? 彼女や奥さんに、「ちょっとあなた、最近太ったんじゃない?」と言われたからでしょうか?
何のために、その行為を達成するのか。
それを、より具体的に、明確にするということが、目的や目標を立てる上で重要なことなのです。
確かに、トレーナーに付き合ってもらって、食事制限とか頑張るのはいいでしょう。最初は、そういった強制的な行動規制も必要になります。しかし、本来的な、自己意識としての、自分の主体的な思いが強くなければ、その達成する目標が高ければ高いほど、実現は困難になるのです。
皆さんも、何か新しいことを始めようとか、何か達成したい目標ができたら、まずは、「継続すること」と、その目標自体の目的について、掘り下げて考えるようにしてみてください。そうすることで、ますます自分の望む自分になることができ、日々の生活や、人生がより豊かなものになるでしょう!
基本的には、
・タイトルをキャッチーで、不安をあおるようなものにする。
・現状分析、こうしなきゃ大変になりますよ! 的な事例をいくつか挙げる。
・私も昔は悩んでいました。でも大丈夫、こんな方法があります!
・具体的にはこんな感じです。
・それを実践すれば、最初の不安は解決します! おめでとう!
こんな感じである。
だから、読まなくていいとか、買わなくていいとか、価値が無いとか、そういうことを言わんとするわけではなく、いくら本を買っても、実践に結び付けられなきゃ意味ないよ、というわけだ。
そして、何ということでしょう、こんな分析ができてしまう時点で、僕は一体、どれだけこういった系の本を読んできたということなのか! 全くもって、恥ずかしい限りである。
ゼロ秒思考
書店をふと歩いていたら、「ゼロ秒思考で頭が良くなる!」みたいな書籍が置いてあった。な、何だって!? パクられた!! ……と思ったわけではないが、手に取ってみると、まぁ、僕がこれまでやっていたようなこと、今やっているようなことであった。
B6版で厚みがあり、1400円ぐらいで、あるコンサルタントさんが著者となれば、さも重要ですごい効果的なメソッドな気がしてくる。
しかし、こと、このことに関しては、僕は、10年~15年ぐらい続けてきている。まぁ、もっと、もう少し「良い方向へ」注力していくための方法としては、もっと早く上のような書籍に出会えたらよかったと思える。
これで、著作権問題みたいになったら、僕の方が早くからやってきているが、その有名人の著者の方が、きっと正しい、となるのだろう。だからこのブログはこれからもひっそりと続いていくのである。
自己啓発本について
最近書店に足を運ぶことが殆どなくなったが、やはり、あちらこちらに、煽情的なメッセージが並ぶ。コンサルタントさんだったり、有名な大学を卒業していたり、テレビに出演していたり、有名な人だったりすれば、その書いてあることがどうであれ、本になって、お金になって、それを読んだ人たちに影響を与えていくのである。
コマーシャル、というのは、本来的には、価値多様化社会の中では、いったい何が重要な情報なのか、ますます探しにくくなるために、「おすすめ」をしてくれるという意味で、価値あることなのである。ところが、多くは、「脅してむしり取る」という方針が、まことしやかに行われる。
と、いうよりも、「意味」(目的)を失った現代人たちにとっては、もはや、何が「主体的」なことなのか、その判断すら失われて行っているのである。だから、盲目的に、テレビや書店に並ぶキャッチーな脅し文句につられて、ますます自己自身を見失っていくのである。
……みたいなね! もっともらしいこととか、さも「一般的」みたいに書かれていることが多いのだ。
本当に大事な習慣
ビジネス本、自己啓発本、その他さまざまな人たちの「アドバイス」といったもの。これらを全くすべて否定する気などない。
ただ、一つ、基盤的に、根本的に重要なことは、恐ろしいほどにシンプル、単純、簡単である。そのことができていないまま、やれ「ダイエット」やら「頭がよくなる」やら「お金が増える」やら「不透明な時代に生き残る」やら、色んな不安に煽られて「何かやらなきゃ!」と思ったところで、まず、その人は何も変わらない。何も変えられない。今まで通り、ずーっと、煽られ続け、不安を感じながら、搾取されながら生き続けるしかないのである。それよりだったら、むしろ、本なんて読まなくていい。ただ、目先の欲望……と書くとこき下ろしすぎだが、日々の楽しい友人たちの会話や、美味しいごはんなどについてだけ考えて、一日一日を過ごした方がよっぽどましである。
本当に大切なことは、「続ける」ことである。
継続は力なり。これだけである。この続けるという能力、これがあれば、大抵のことは何でもできる。その基盤があった上で、その上に走らせるプログラム(ソフトウェア)として、時間対効果をあげるためのメソッドが有効になっていくのである。
シックスパックの腹筋に憧れて、様々な筋トレの仕方を学ぶのはよいだろう、しかし、その微妙な「正しい」腹筋の仕方を追及するよりも、まずは毎日、ど素人のやり方でもいいから、続けていくことが大前提だ。一時期腹筋のしわが薄まっていったけれども、ここ90日ぐらい筋トレを続けて、またほりが深くなった。3日やったら1日の休みをいれる、とか、肘を床につけて90度にしてそのまま維持するとか、流行りの方法など無視して、ふつーに、毎日やっていただけでも、それなりに効果はでる。確かに、「正しい」方法をしてやっていたら、もっと良い効果になったかもしれない。けれども、続けられなければ、所詮はゼロに過ぎないのだ。
ポジティブ思考
もう一つ大切な習慣というか、ライフハック的な、メソッド的なうんたらを書けば、「笑顔」である。笑顔は大事。表情筋は、脳の感情等を司る尾状核と繋がっている。笑顔をつくることで、脳の働きも良くなるのである。そして、社会学的には、笑顔の人は警戒されにくい。心を許してもらえやすい。人が集まりやすい。幸せだから笑うんじゃない、笑うから幸せなんだ。
習慣をつくるためには?
分かった分かった、習慣をつくることと、笑顔が大事なんだね。でもさ、それって、どうやりゃいんだよ! どうも、何をやっても長続きしないんだよ!
という方もいるでしょう。
「5分ルール」とか、「例外規定」とか、「強制実行」とか、「カウントダウン法」とか、色々と方法はあるでしょう。
しかし、重要なのは、そういったテクニック的なのではなく、これも至ってシンプルですが、「目的」「目標」を立てる、ということです。
腹筋を六つに割りたい!
これは、目的でも、目標でもありません。ただの願望です。これでは、いくらたっても、望みが実現することはありません。
腹筋を6つに割るため、筋トレを毎日しよう!
これもダメなパターンです。
確かに、これは、数値化(毎日やろう)という意味で、目標にはなっていますが、目標の立て方が下手すぎます。
というよりも、目標が二重の意味で低いのです。
一重の意味は、その目標が具体化されていないことです。まぁこれは、もう少し、腹筋する回数とか、朝やるのか夜やるのか、何か月続けるのか、チェックはいつするのか、などなど、詳細化していけば解決する話です。
しかしもっと問題は、二重の意味の方で、この腹筋を割りたい、という目的・目標が、いったい、何のため? なのか、ということです。
鏡の前に立って、自分で自分の身体を見詰めて、「おぉ、かっこいいぜ!」と陶酔することが目的なのでしょうか? 海にパンツ一丁で行って、ギャルに「かっこいい! 腹筋さわらして!」と言われることが目標なのでしょうか? それとも、近くに控えた健康診断のためなのでしょうか? 彼女や奥さんに、「ちょっとあなた、最近太ったんじゃない?」と言われたからでしょうか?
何のために、その行為を達成するのか。
それを、より具体的に、明確にするということが、目的や目標を立てる上で重要なことなのです。
確かに、トレーナーに付き合ってもらって、食事制限とか頑張るのはいいでしょう。最初は、そういった強制的な行動規制も必要になります。しかし、本来的な、自己意識としての、自分の主体的な思いが強くなければ、その達成する目標が高ければ高いほど、実現は困難になるのです。
皆さんも、何か新しいことを始めようとか、何か達成したい目標ができたら、まずは、「継続すること」と、その目標自体の目的について、掘り下げて考えるようにしてみてください。そうすることで、ますます自分の望む自分になることができ、日々の生活や、人生がより豊かなものになるでしょう!
とかね。
と、まぁ、自己啓発本とかは、上に書いてきたようなそんな流れである。基本的には、
・タイトルをキャッチーで、不安をあおるようなものにする。
・現状分析、こうしなきゃ大変になりますよ! 的な事例をいくつか挙げる。
・私も昔は悩んでいました。でも大丈夫、こんな方法があります!
・具体的にはこんな感じです。
・それを実践すれば、最初の不安は解決します! おめでとう!
こんな感じである。
だから、読まなくていいとか、買わなくていいとか、価値が無いとか、そういうことを言わんとするわけではなく、いくら本を買っても、実践に結び付けられなきゃ意味ないよ、というわけだ。
そして、何ということでしょう、こんな分析ができてしまう時点で、僕は一体、どれだけこういった系の本を読んできたということなのか! 全くもって、恥ずかしい限りである。
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今日の一言「今週はほぼ24時帰りばかりで書く時間が取れないよ!」「寝てない(忙しい)自慢乙」
ただ、感動そのものの保持、ではなく、感動したというその事実と、それにまつわる状況の書留は、これは非常に有効である。若いうちは、がむしゃらに経験を重ねることも重要だ。しかし、いい歳した大人になってくると、経験できる時間もリソース(体力的、精神的な)も限られてくる。脳科学的にも、思考とは、繰り返し同じことを考え続けることで、感動、価値観や信念といった強固なものが生み出されるという。その意味において、ブログとか、書く、という行為は、非常に有用であるのだ。
「人生で一生覚えているだろう、衝撃的な体験。快哉!
ああ、素晴らしい。やられた。この、自分自身について、完全なる言語表現をされること! この感覚を、僕はずっと待ち望んでいたのかもしれない。これが、僕が求め続けて、えられなかった、希っていた感覚なのか。
思考すること自体を止められない。それは、大衆に埋没することへの恐怖。自分自身失うのではという恐怖。
一方で、協調しなければいけないという、常識への憧れ。
この二つに引き裂かれながら、目標を定めては行動し、解決してはまた悩み、それを繰り返している。
まさにそのとおり。
この、自分自身をずっと追い求める心性をなんというか?
青い鳥症候群という。
青い鳥症候群は、本当の自分はこれじゃないと、あちらこちら自分勝手に生きて、自立できないひとのことである。
高校時代ぐらいからずっとそうだ。
ずっと、自分は何か、なりたいものは? やりたいことは? 夢は?
ずっと考えていた。でもわからなかった。とりあえず勉強した。大学にいった。よくわからなかった。とりあえず楽しんだ。よくわからない、就職しよう。した。でもやっぱり分からなかった。
ここで、本気で考えてないとか、本気で取り組んでないとか、そんな批判は、あまり意味がない。その時点で僕は、僕レベルの次元では本気だった。
感情もコントロールしていた。青い鳥症候群のけいこうもわかっていたから、協調性を大事にしたし、答えを出さずにずっと甘えてばかりいるというのも、やめた。独り暮らしして、生活した。仕事してお金を稼いだ。
結局、それらの方法では、僕の、生きる意味は、見つからなかったのだ。
僕は、考え続け、悩み続けることを目的としているという。
そうなんだろう。
なるほどねぇ」
最初のコメントを読んだ時点で、「生きる意味の定義かぁ……」と、ずーっと一日考えていて、「そうだなぁ、『ぶれない価値観』とかかなぁ」とか思っていたら、話しが飛躍して仰天途端に昂揚した。(当ブログに頂いたコメントもそうだけれども、僕のあるブログコメントへの返信として、いやー遠藤さんが読んでくれるってのも意味ありますわ~と頂いたのも同時期で、ああ何と嬉しいのだろうと思った)
これはまさに、僕が最近(というかこれまでも)ずっと書き続けてきた内容の、正確な描写であると思う。
一方で、しばらく時間が経って、コメントなどを、二回、三回と音読(ルーチンの音読に組み入れるほど頂いたコメントが気に入った)しているうちに、「違う点」も見えてきた。
これは、またいつもの「逃げ」な思考ではあるが、「ある次元」においては、正確でありながら、一つ足りない部分があるのである。それは、「考えること自体を意味にすること」自体が、それで「思考停止」にならざるえない状況をつくれるとは、思えない、という点だ。分かりにくいな! これは、今後、2017年ぐらいの長期目標で分解していけたらよいと思うが、簡単に、簡単に書こうと頑張ってみれば、
考えること自体が目的
なのではなく、やはり、「幸せ」「涅槃」「充足」とかいった、そんな状態を目指しているのである。(究極にポジティブ思考でしかありえないのだ、的な表現をしている時が、その際の感覚)
思考停止、というと、否定的な意味に思ってしまうが、僕は否定語も肯定語も、その本質的な意味を捉えようと頭が動いてしまう(というのは、例えば「今日は仕事がまぁまぁ上手くいった! よかった!」という感覚になったと、ほぼ同時に、瞬間的に、「ダメだった点」「もっと頑張れた点」などが想起されるのである。これをストイックという肯定的な語で表現すれば、頑張り屋さんだね、みたいに言ってもいいだろうが、僕自身は、この思考傾向が、単にアホ(病的)なだけだと思ってしまう)。しかし、僕が求めているのは、まさにその、「思考停止」状態なのだ。思考停止を換言してみれば、只管打座とか言っていい。あるでもなく、ないでもなく、ただあるがままを、「空(くう)」なりと見詰める、と言ってもいい。
つまり、「幸せとは~」と探し求めて、ボロボロになって、失意の中で家にかえってみたら、あれ、うちのなかに幸せおったやん! というたとえ話であり、僕はまさにその旅路の中にいるのではないか、と思ったのだ。
ただこの状態については、2008年初期ぐらいの記事を読んで見れば、まさに、同じようなことを書いていて、「いやぁ、まぁ何かいろいろあるけれど、今がとっても幸せだなぁ」としみじみ書いているのである。
あれは、きっと……いや、間違いなく、あの頃はあのころで、本気でそう思っていたのだ。「幸せ」、であったのだ。それは決して、すべての問題が解決し、悟りを開いたとか、そういうわけではなかった。ただ、人生というもの、そのものが明るく、前向きにとらえられ、将来起こるであろういかなる不安についても、どうにかなる、達成できるという強い思い、生きがいに満ち溢れていた状態であったのである。
僕は、その境地に戻ることが、恐らくできる。ただ一方で、もうきっと、できない、のである。物足りなくなっているのだ、きっと。もっと深いところまで、入り込んでいきたいと思っているのだ、きっと。
科学者は思考に答えをもとめる。哲学者は思考に答えをもとめない。
結論を出そうとするか、そうではないかという考えというか、話し、なるほどなぁと感動したものである。
今まさに、「凡人(一般大衆に溶け込もうとすること)への憧れ」と、「超人(既存の枠組みに取り入れられてしまって自己を失うことへの恐怖)」について、僕は両面の思いを抱き、双方に引き裂かれそうになっているのであるが、しかしその綱引きについて、僕は、いつまでも引っ張り合っていてもらおうとは思っていないのである。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
……あおぉう、時間切れ、うーむ、上の記述は、コメント頂いたことへの反論にうつるだろうか? むしろ僕の感動の表現になるはずなのだが、上手く言っているとは思えない。この難しさがまた、逆に面白いと、楽しいと、本気で思ったのであるが……そうやって書くと、やっぱりその書くこと、考えること、思考すること、目的を求めることそれ自体を目的としようとしている、としか思えない表現なのだけれども、何だか、ちょっと違うんだよなぁ。
うん、それはまぁともかく、今年の目標はかなり明確になってきた。やっぱり、本気で部屋の片づけ(整理整頓)と、思考の体系化だな。なんか、久しぶりに本気になれそうな気がする。これはもう、本当にあの素晴らしきお三方の賜物でござる。素晴らしい、人間素晴らしい。(という本気の感覚と同時に、瞬時に、「あーってことは、やっぱり普段思っている、『ありがとうございます!』的な俺の気持ちってのは、『社交辞令』的なレベルなんだなぁ。冷たい人間だなぁ」とか浮かぶのである。Aという事象に対して、A´もしくは、Aの反対が浮かぶというのは、決して、Aという事柄が「嘘」というわけではないのだけれども、「気持ち悪いなサイコ野郎!」と言われるというのは、まぁこれは仕方がないのかもしれない。でも嘘じゃないんだ、ああ、本気なんだ、でも誰も分かってくれない! ああ、もう人間なんて!(かっこわらい))
これまたすごい記事だ。
すごすぎて、こんな、名も無き人の記事がすごすぎて、
逆にこういったことが、僕の考える「問題」のまさにその原因なのだけど、
ただ、その問題(もう時間オーバーだ! でも、簡単にメモしとくとだな、その、価値の選択(意味)がものすごく沢山になってしまったため、それが逆に選べなくなっていることが、反転した目的喪失の原因なのだということ)について、まさに自己言及的に記述されていて、もうまいっちまったぜ!
というわけで(いや、この接続詞もおかしい)、何か批判の対象ではあるんだけど、
ヴィクトール・エミール・フランクルさんのロゴセラピーの本をアマゾンで購入。4500円ぐらいした。すげー衝動買いだ。精神が昂っている時は、お金の使い方に気を付けましょう(何の話だ……もうほんと時間切れ)。


衝撃的体験から時間が過ぎ
15分ぐらいしか時間が取れなそうだ。しかし、そろそろ、メモでも何でも書いておかないと、せっかくの感動的、衝撃的体験がどんどん失われていく。いやまぁ、書いたところで、その瞬間的な感動は、残しておくすべは殆どないのだけれども。ただ、感動そのものの保持、ではなく、感動したというその事実と、それにまつわる状況の書留は、これは非常に有効である。若いうちは、がむしゃらに経験を重ねることも重要だ。しかし、いい歳した大人になってくると、経験できる時間もリソース(体力的、精神的な)も限られてくる。脳科学的にも、思考とは、繰り返し同じことを考え続けることで、感動、価値観や信念といった強固なものが生み出されるという。その意味において、ブログとか、書く、という行為は、非常に有用であるのだ。
他者が描く自己の表現の貴重さ
メモ、メモ。スマホのメモ帳に殴り書きした一部。「人生で一生覚えているだろう、衝撃的な体験。快哉!
ああ、素晴らしい。やられた。この、自分自身について、完全なる言語表現をされること! この感覚を、僕はずっと待ち望んでいたのかもしれない。これが、僕が求め続けて、えられなかった、希っていた感覚なのか。
思考すること自体を止められない。それは、大衆に埋没することへの恐怖。自分自身失うのではという恐怖。
一方で、協調しなければいけないという、常識への憧れ。
この二つに引き裂かれながら、目標を定めては行動し、解決してはまた悩み、それを繰り返している。
まさにそのとおり。
この、自分自身をずっと追い求める心性をなんというか?
青い鳥症候群という。
青い鳥症候群は、本当の自分はこれじゃないと、あちらこちら自分勝手に生きて、自立できないひとのことである。
高校時代ぐらいからずっとそうだ。
ずっと、自分は何か、なりたいものは? やりたいことは? 夢は?
ずっと考えていた。でもわからなかった。とりあえず勉強した。大学にいった。よくわからなかった。とりあえず楽しんだ。よくわからない、就職しよう。した。でもやっぱり分からなかった。
ここで、本気で考えてないとか、本気で取り組んでないとか、そんな批判は、あまり意味がない。その時点で僕は、僕レベルの次元では本気だった。
感情もコントロールしていた。青い鳥症候群のけいこうもわかっていたから、協調性を大事にしたし、答えを出さずにずっと甘えてばかりいるというのも、やめた。独り暮らしして、生活した。仕事してお金を稼いだ。
結局、それらの方法では、僕の、生きる意味は、見つからなかったのだ。
僕は、考え続け、悩み続けることを目的としているという。
そうなんだろう。
なるほどねぇ」
最初のコメントを読んだ時点で、「生きる意味の定義かぁ……」と、ずーっと一日考えていて、「そうだなぁ、『ぶれない価値観』とかかなぁ」とか思っていたら、話しが飛躍して仰天途端に昂揚した。(当ブログに頂いたコメントもそうだけれども、僕のあるブログコメントへの返信として、いやー遠藤さんが読んでくれるってのも意味ありますわ~と頂いたのも同時期で、ああ何と嬉しいのだろうと思った)
生きる意味の追求が自己目的化している
「遠藤くんは、考えることそれ自体を生きる意味にしたいんだろうね」これはまさに、僕が最近(というかこれまでも)ずっと書き続けてきた内容の、正確な描写であると思う。
一方で、しばらく時間が経って、コメントなどを、二回、三回と音読(ルーチンの音読に組み入れるほど頂いたコメントが気に入った)しているうちに、「違う点」も見えてきた。
これは、またいつもの「逃げ」な思考ではあるが、「ある次元」においては、正確でありながら、一つ足りない部分があるのである。それは、「考えること自体を意味にすること」自体が、それで「思考停止」にならざるえない状況をつくれるとは、思えない、という点だ。分かりにくいな! これは、今後、2017年ぐらいの長期目標で分解していけたらよいと思うが、簡単に、簡単に書こうと頑張ってみれば、
考えること自体が目的
なのではなく、やはり、「幸せ」「涅槃」「充足」とかいった、そんな状態を目指しているのである。(究極にポジティブ思考でしかありえないのだ、的な表現をしている時が、その際の感覚)
思考停止、というと、否定的な意味に思ってしまうが、僕は否定語も肯定語も、その本質的な意味を捉えようと頭が動いてしまう(というのは、例えば「今日は仕事がまぁまぁ上手くいった! よかった!」という感覚になったと、ほぼ同時に、瞬間的に、「ダメだった点」「もっと頑張れた点」などが想起されるのである。これをストイックという肯定的な語で表現すれば、頑張り屋さんだね、みたいに言ってもいいだろうが、僕自身は、この思考傾向が、単にアホ(病的)なだけだと思ってしまう)。しかし、僕が求めているのは、まさにその、「思考停止」状態なのだ。思考停止を換言してみれば、只管打座とか言っていい。あるでもなく、ないでもなく、ただあるがままを、「空(くう)」なりと見詰める、と言ってもいい。
目的志向と生きる意味
上のメモにおいて、「青い鳥症候群」という表現が浮かんだことが読み取れる。つまり、「幸せとは~」と探し求めて、ボロボロになって、失意の中で家にかえってみたら、あれ、うちのなかに幸せおったやん! というたとえ話であり、僕はまさにその旅路の中にいるのではないか、と思ったのだ。
ただこの状態については、2008年初期ぐらいの記事を読んで見れば、まさに、同じようなことを書いていて、「いやぁ、まぁ何かいろいろあるけれど、今がとっても幸せだなぁ」としみじみ書いているのである。
あれは、きっと……いや、間違いなく、あの頃はあのころで、本気でそう思っていたのだ。「幸せ」、であったのだ。それは決して、すべての問題が解決し、悟りを開いたとか、そういうわけではなかった。ただ、人生というもの、そのものが明るく、前向きにとらえられ、将来起こるであろういかなる不安についても、どうにかなる、達成できるという強い思い、生きがいに満ち溢れていた状態であったのである。
僕は、その境地に戻ることが、恐らくできる。ただ一方で、もうきっと、できない、のである。物足りなくなっているのだ、きっと。もっと深いところまで、入り込んでいきたいと思っているのだ、きっと。
科学者は思考に答えをもとめる。哲学者は思考に答えをもとめない。
結論を出そうとするか、そうではないかという考えというか、話し、なるほどなぁと感動したものである。
今まさに、「凡人(一般大衆に溶け込もうとすること)への憧れ」と、「超人(既存の枠組みに取り入れられてしまって自己を失うことへの恐怖)」について、僕は両面の思いを抱き、双方に引き裂かれそうになっているのであるが、しかしその綱引きについて、僕は、いつまでも引っ張り合っていてもらおうとは思っていないのである。
答えが欲しい、けど足りない
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
……あおぉう、時間切れ、うーむ、上の記述は、コメント頂いたことへの反論にうつるだろうか? むしろ僕の感動の表現になるはずなのだが、上手く言っているとは思えない。この難しさがまた、逆に面白いと、楽しいと、本気で思ったのであるが……そうやって書くと、やっぱりその書くこと、考えること、思考すること、目的を求めることそれ自体を目的としようとしている、としか思えない表現なのだけれども、何だか、ちょっと違うんだよなぁ。
うん、それはまぁともかく、今年の目標はかなり明確になってきた。やっぱり、本気で部屋の片づけ(整理整頓)と、思考の体系化だな。なんか、久しぶりに本気になれそうな気がする。これはもう、本当にあの素晴らしきお三方の賜物でござる。素晴らしい、人間素晴らしい。(という本気の感覚と同時に、瞬時に、「あーってことは、やっぱり普段思っている、『ありがとうございます!』的な俺の気持ちってのは、『社交辞令』的なレベルなんだなぁ。冷たい人間だなぁ」とか浮かぶのである。Aという事象に対して、A´もしくは、Aの反対が浮かぶというのは、決して、Aという事柄が「嘘」というわけではないのだけれども、「気持ち悪いなサイコ野郎!」と言われるというのは、まぁこれは仕方がないのかもしれない。でも嘘じゃないんだ、ああ、本気なんだ、でも誰も分かってくれない! ああ、もう人間なんて!(かっこわらい))
ロゴセラピー
ちょうど、そんなこんなで電車の中で考えていたら、こんな記事を見つけた。「人生」に「意味」を求めることのリスク。ヴィクトール・エミール・フランクルの「ロゴセラピー(実存療法)」の副作用。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n16560これまたすごい記事だ。
すごすぎて、こんな、名も無き人の記事がすごすぎて、
逆にこういったことが、僕の考える「問題」のまさにその原因なのだけど、
ただ、その問題(もう時間オーバーだ! でも、簡単にメモしとくとだな、その、価値の選択(意味)がものすごく沢山になってしまったため、それが逆に選べなくなっていることが、反転した目的喪失の原因なのだということ)について、まさに自己言及的に記述されていて、もうまいっちまったぜ!
というわけで(いや、この接続詞もおかしい)、何か批判の対象ではあるんだけど、
ヴィクトール・エミール・フランクルさんのロゴセラピーの本をアマゾンで購入。4500円ぐらいした。すげー衝動買いだ。精神が昂っている時は、お金の使い方に気を付けましょう(何の話だ……もうほんと時間切れ)。
今日の一言「答えは自分で導くものだ」
よくある刑事ドラマとか、サスペンスとかで、狂人的犯人が、「だってお前、ほら、みんな人は、人を殺したいって欲望があるだろ? 人間の歴史みてみろよ、戦争のオンパレードだぜ! もっと正直になれよこの偽善者どもがァ!」とか叫んだりする。
それに対して、刑事さんとか、主人公サイドの人たちが、「バカはてめーだ! みんなそんなこと分かってるんだ。分かっていて、そんなことをしても無意味だから、やらねーだけだ! 哀れな奴だな!」とか煽りかえすシーンを何度かみたことがある。
この、「みんな分かっているけれども無意味だからやらない」理論が、さも正しいように吹聴されているのだが、僕はこれには違和感を覚える。
逆に言えば、「人間は誰だって殺害衝動がある」という犯人側の主張も、何ら根拠がないものであり、「てめーが思うなら、そうなんだろうよ」程度のことである。
だから、上の例シーンにおいては、刑事側も犯人側も、低レベルな煽りの応酬に過ぎないのである。
にもかかわらず、ドラマ的には、刑事側の主張がさも正しいかのように描かれたりする。そのことに違和感なのである。
それを僕は分からず、無駄なことをしているというのだろうか?
残り僅かな時間。人生には限りがある。清く正しく美しく生きるべきだ。人に思いやりを持って優しく生きていくべきだ。いまここを大事にし、日々の生活を精一杯いきて輝いていくべきだ。
「家畜と何の違いがある!」
と、敢えて強烈な言葉で言い放とう。いや僕自身も、未だ、僕の成そうとしていることが正しいなどと、心底信じられているわけではない。しかし、逆に、他者の、というよりも一般的に「正しい」とされている生き方というもの、すなわち、意味など求めずに、ただ「生きていることそれ自体が素晴らしいことなのだ」という価値観、それに対しても、僕は正しいと心底信じることができない。
がしかし、3万人未満程度の自殺者数や、200万だかの生活保護者数(しかしこれは逆に豊かさと換言すらできよう、皮肉なもんだが)、労働時間の多さや過労死、いじめや犯罪、政治汚職や他国の外圧などなど、マイナス要素だって大したものである。
だが、その「正しいこと」から零れ落ちてしまう人はいつの時代も、どんな社会においても存在する。
そんな人を切り捨てて、理想的な社会を構築しようというのが、「サイコパス」という作品においては、シビラシステムの目指す社会であるし、政治家や経営者が求める理想的な統治である。
理想、という表現は美しいが、この理想をいかに現実化しようとすると、その急進的なやり方は、「世界系」という、全ての人の垣根を取り払ってしまおうとする、急進的な「虐殺的世界再構築」になる可能性がある。
攻殻機動隊ARISEを見終わった。そのために、そちらに思考が偏っている気もするが、「スタンドアローン」と「ゴースト」(人としての人格そのもの)を重要視しながら、「組織」的に生きることが、それと反比例する場合があることに対しての抗い、そんな表現がなされている作品だと思っている。
ただ、この記事において理解できればいいのは、「無駄だからしない」という判断は、到底、個人でできるものではないことを理解しつつ、同時に、誰かから言われたところで変えるべきものですらないということだ。
無駄だからやらないでいいのか?
面白い記事みんな書けやぁごるぁ! みたいなことを先日書いた。けれども、これは、傲慢チキ極まりない。よくある刑事ドラマとか、サスペンスとかで、狂人的犯人が、「だってお前、ほら、みんな人は、人を殺したいって欲望があるだろ? 人間の歴史みてみろよ、戦争のオンパレードだぜ! もっと正直になれよこの偽善者どもがァ!」とか叫んだりする。
それに対して、刑事さんとか、主人公サイドの人たちが、「バカはてめーだ! みんなそんなこと分かってるんだ。分かっていて、そんなことをしても無意味だから、やらねーだけだ! 哀れな奴だな!」とか煽りかえすシーンを何度かみたことがある。
この、「みんな分かっているけれども無意味だからやらない」理論が、さも正しいように吹聴されているのだが、僕はこれには違和感を覚える。
本当にみんな分かっているのか?
まず疑問その一。「みんな」というけれども、本当にみんな分かってるの? それは、無意識下で、「人を殺すのは無駄なことだ」というのはあるのかもしれない。ただ、それを意識的に、「分かっている」と断定する根拠はあるのか、あるはずがない。逆に言えば、「人間は誰だって殺害衝動がある」という犯人側の主張も、何ら根拠がないものであり、「てめーが思うなら、そうなんだろうよ」程度のことである。
だから、上の例シーンにおいては、刑事側も犯人側も、低レベルな煽りの応酬に過ぎないのである。
にもかかわらず、ドラマ的には、刑事側の主張がさも正しいかのように描かれたりする。そのことに違和感なのである。
書けないから書かないのではない?
話を戻すと、「面白い記事(=意味や価値を表現するもの)をみんな書いてくれよ!」という主張は、みんなが、書けないということではなく、むしろ、書いても意味がないことを、重々わかっていて、それで、できる限り、そのことに触れないように、触らないように、恐れ多いものだとして書かないだけなのだろうか? という疑問。それを僕は分からず、無駄なことをしているというのだろうか?
残り僅かな時間。人生には限りがある。清く正しく美しく生きるべきだ。人に思いやりを持って優しく生きていくべきだ。いまここを大事にし、日々の生活を精一杯いきて輝いていくべきだ。
「家畜と何の違いがある!」
と、敢えて強烈な言葉で言い放とう。いや僕自身も、未だ、僕の成そうとしていることが正しいなどと、心底信じられているわけではない。しかし、逆に、他者の、というよりも一般的に「正しい」とされている生き方というもの、すなわち、意味など求めずに、ただ「生きていることそれ自体が素晴らしいことなのだ」という価値観、それに対しても、僕は正しいと心底信じることができない。
ただ生きることだけが目的ならばもはやユートピア
慎ましく生きるだけであれば、現代日本は、批判も多くあるだろうが、これまでで最大に「幸せな国」の一つであるといえよう。縄文時代など、狩猟採集民たちの時代に戻らずとも、戦国時代や、大戦下と比較するまでもなく、「生存確率」的な意味と、人口総数的な意味においては、素晴らしい時代と国であると、僕は思う。がしかし、3万人未満程度の自殺者数や、200万だかの生活保護者数(しかしこれは逆に豊かさと換言すらできよう、皮肉なもんだが)、労働時間の多さや過労死、いじめや犯罪、政治汚職や他国の外圧などなど、マイナス要素だって大したものである。
スタンドアローンを維持すること
パッケージ化された生き方(一般的に正しいとされていることに従った生き方)にすがり生きていくことに、家畜のような生き方に、人は耐えられない。こんな表現をすれば、「当たり前だ!」と誰しもが思う。みんな誰もが、自分は特別な人間で、自分の人生は自分の手で切り開いていくものだと信じ疑わない。だが、その「正しいこと」から零れ落ちてしまう人はいつの時代も、どんな社会においても存在する。
そんな人を切り捨てて、理想的な社会を構築しようというのが、「サイコパス」という作品においては、シビラシステムの目指す社会であるし、政治家や経営者が求める理想的な統治である。
理想、という表現は美しいが、この理想をいかに現実化しようとすると、その急進的なやり方は、「世界系」という、全ての人の垣根を取り払ってしまおうとする、急進的な「虐殺的世界再構築」になる可能性がある。
攻殻機動隊ARISEを見終わった。そのために、そちらに思考が偏っている気もするが、「スタンドアローン」と「ゴースト」(人としての人格そのもの)を重要視しながら、「組織」的に生きることが、それと反比例する場合があることに対しての抗い、そんな表現がなされている作品だと思っている。
まとめ的な
読みづらい文章になったなぁ。ただ、この記事において理解できればいいのは、「無駄だからしない」という判断は、到底、個人でできるものではないことを理解しつつ、同時に、誰かから言われたところで変えるべきものですらないということだ。
今日の一言「信じるものは救われる?」「死ぬまで続けられたらね」
その人自身が何者か分からないうちから、その人独特の、ユニークな見解とか表現とか、そんなもの楽しむ余裕はない。
頑張って読んだとして、結果的に面白くなかったときの時間の無駄さ加減が凄まじく悲しくなる。
そこで僕は、書き手の位置付けを、そしてその記事の次元を、瞬間的に分析していることに気付いた。逆に言えば、それをすぐに気付かせてくれて、その傾向が僕が求める方向と合致する場合、面白い! と感じることが分かった。
どういうことか?
例えば、自分の知らない小説作品について、その人が感じたことを述べる記事だったとしよう。その作品のことを知らなければ分からない次元のこと、即ちその主人公がどうしたこうした、と、行動についてのみ書かれている記事は、残念ながら面白くない。
これは、読書感想文の書くのが下手な人によくあるパターンだ。その作品の、抜粋とか引用とかに終始するのは、ダメな例である。
大事なのは、その登場人物、またはそのシーンがあって、それについて、書き手自身が、どうしてどのように思ったか、感じたか、それが書かれていることである。
こんな経験をした、楽しかった、以上。
というブログの何と多いことか。意識高い系のブログは、こんなすごい人と会った、こんなすごいことをした、と、その事実の列挙になりがちだ。それは、その人が有名人なら、そうした情報は読者に興味を与えるだろう、しかし、どこの誰かも分からない人が、どんだけ頑張っていようが、何ら面白くない。それだけではダメなのだ、その経験に対して、何を感じ、おもったのか、そこまでの言及がなければ、面白くなくなる。
と、スピリチュアル系の構造はみなこれである。何か、超越的なものについて、その存在を絶対視し、それを妄信的にお勧めするブログたちもまた、面白くない。
重要なのは、なにも、超越的なものについて書くことがダメなのではない。そして、間違っているとか、あっているとか、それも問題ではない。
ここでの問題点は、超越的なものなのに、それを絶対的に信じていることでる。
こういう人は、何を言おうと、信じているものをまげはしない。その頑なさは、むしろ見習うべきだが、むしろ、自分に都合の悪いことをみないように、自分の信じたいことしか認めないようにしているのである。そして、そのことに自分では気付けない。こういう人の書く記事は面白くない。
ブログを、いわゆるFacebookのような、SNSと同様の媒体として考えてしまっては、何とも面白くない。逆に、リアルのコミュニティー及びコミュニケーションの延長(スマホでラインを用いてチャットするような感覚)でしかないのであれば、ブログは甚だ一方通行であり、適さないメディアということになる。
だからこそ、5行だか、その程度の内容しか更新しないのに、もったいぶって1週間に一回だとか、低頻度更新のブログは、見るに値しない(巡回する面倒さと、いざ更新されて開いてみたときに、内容のあまりの軽さ!! 何とも徒労感となる)。
長ければ面白いかと言えば、そうではない。「いやだいやだいやだ仕事嫌だいきたくないやってらんない」「頭が痛い方が痛い腰が痛い目が痛いつらい哀しい苦しい」「いとしの彼……今日も目が合っただけで嬉しかったけど、話しかけることはできなかった。よーし明日こそ頑張るぞハート」とか、同じ繰り返し表現ばかりで、思考とも感情とも言えない落書きレベルの文章というのも面白くない。
ちょっとまったぁぁぁーーー!! お前、それ、ものすごいブーメランじゃね??(かっこ死んだ目をした笑い)
そもそも、それについて「断定」している時点で、まさに自分で上に書いてきた、「決めつけ」しているに過ぎないではないか! というブーメラン。
トートロジーで、同じことを思考ともいえない稚拙な表現を繰り返しているという……はいこれもブーメラン。
やっぱり、お前自信も面白く無いじゃないか!
いや、しかし、ところが、自分の記事は、たまーには、面白いのである。これは、やはり「自分の記事」だから、言外(文章に記載ない部分)の表現もくみとれているから、面白いというのだろうか? それは、数日間おいてから読み返した場合を考えると、影響は低いと思う。何せ、今、一週間前の記事で、何を書いたか、何を思ったか、残念なことに一切思い出せないのである。三日前でもそうだし、前日の記事も、ほとんど思い出せん。アホの露呈、なのかもしれないが、まぁ、自分の記事だから覚えていて面白い、という理由ではないと思う。
となると、面白いと感じる場合の理由というのは、その「テーマ性」が、興味があるからなんだと思う。
じゃあ、そのテーマとは何か。「意味」である。……なるほど、やはりそこにポイントがあるわけか。
で、そのテーマ性に近い内容が書かれている記事を、僕は感覚的に「面白い」と感じているというわけか。
例えば、同年代の、サラリーマンの、仕事が嫌で仕方がなくてアーリーリタイアを目論む人の資産運用ブログなんかは、結構面白いし、集団行動が苦手で、小学生のころ昼休みにみんなで遊ぶよりも一人図書室にこもっていたとか、そんな感覚よく分かる気がする(まぁ小学生の頃は、何も考えず皆と楽しく遊んでいた。高学年になってクラブだか部活動をやるようになってから段々おかしくなってった)けれども、ただ、最近、あんまり面白みがなくなってきたのは、なんでだろうと思っていた。
それはきっと、その、「アーリーリタイア」が目的であって、何かその、生きることそのものに対しての見解があまりにも無さ過ぎて、飽きてきちゃった、というのがあるんだと思う。
色々と、資産形成のための勉強というか、資料集めというか、人に聞いたり、相談したり、考えたりもしているけれども、いまいち、本気になれないというのは、今力を注ぐべき部分だとは思えていないからだ。
そうはいっても、今現状としてやるべきことは、絶対にあるので、日々生活を送るために必要な行動、作業は、おろそかにするつもりは、あまりない。ただ、本気でやれてはいない。
ある。間違いなく、あるだろう。もっと生産的なこと、いや、アウトプットであれ、インプットであれ、両方の作業としても、もっと生産性があることがあるだろう。
ただ、――ここでは敢えて、決めつけというか、断定的というか、感情的に書いてしまえば、価値や意味など、人の創り出した幻想に過ぎない。その幻想が、共同的な幻想なのか、個人的な幻想なのかは分類があるだろうが、どちらにせよ、自分自身を本気で「騙せる」ような何かがなければ、その自分自身が行うこと、すべては、等しく無価値であるにすぎないのである。
↑のいってること、理解できるだろうか? それは、他者もそうだが、明日、もしくは三日後ぐらいの自分自身もそうであるが、分かってくれるだろうか? 分かったとして、同意してくれるだろうか? 同意してくれたとして、自分も同じように考え、行動しようと思ってくれるだろうか?
この、他者(自分も含む)へ、納得してもらい、行動してもらうような、そんな言葉をつむぐこと。
それが重要なことなのである。
一応考えた。
今月中に、今部屋に存在している書類を半分にする。
ということだ。
部屋を綺麗に保つためには、物が少ない必要がある。平積みにされた本や書類、チラシなどを片付ける。
おおう……小学生の目標か(かっこわらい)。
まぁこれ、結構が逆に大変なのである。帰りが遅くなると、まず家のことなど殆どできやしない。けれども、本を読んだり、くつろいだり、少し休憩はしたい。そうすると、だんだん物というかゴミが積み重なってくる。綺麗な状態を維持するというのは非常に難儀である。
うん。
そうだな、何やかんや、「片づけをする! 生活感の無いぐらいな家にする!」という目標は何年も前に立てて、それなりにやってきたけれども、一か月とか、半年とか、長期スパンで本格的にやるってのは、これまでなかったように思える(すなわち、土日とか三連休とか、短い期間で可能な限り実行し、それで満足してきたというわけだ)。
1.1月 部屋の片づけについて3月までの計画を立案する。(PLAN)
2.2月上旬 1.について、作業を実施する。(DO)
3.2月下旬 2.の作業について、評価を行う。(CHEACK)
4.3月上旬 3.の評価を元に、再度作業を実施する。(ACTION)
5.3月下旬 3.の作業を確認し、足りていないことを補完する。
読者限定
他者のブログを様々読んでいて分かったことは、一目で、何について書いてあるか分かる記事が面白いということだ。その人自身が何者か分からないうちから、その人独特の、ユニークな見解とか表現とか、そんなもの楽しむ余裕はない。
頑張って読んだとして、結果的に面白くなかったときの時間の無駄さ加減が凄まじく悲しくなる。
そこで僕は、書き手の位置付けを、そしてその記事の次元を、瞬間的に分析していることに気付いた。逆に言えば、それをすぐに気付かせてくれて、その傾向が僕が求める方向と合致する場合、面白い! と感じることが分かった。
どういうことか?
例えば、自分の知らない小説作品について、その人が感じたことを述べる記事だったとしよう。その作品のことを知らなければ分からない次元のこと、即ちその主人公がどうしたこうした、と、行動についてのみ書かれている記事は、残念ながら面白くない。
これは、読書感想文の書くのが下手な人によくあるパターンだ。その作品の、抜粋とか引用とかに終始するのは、ダメな例である。
大事なのは、その登場人物、またはそのシーンがあって、それについて、書き手自身が、どうしてどのように思ったか、感じたか、それが書かれていることである。
よい感想文の記事が面白い
この、引用と、感想との配分が結構大切なのだが、これは読書感想文だけではなくて、ブログ全体について言えることだ。こんな経験をした、楽しかった、以上。
というブログの何と多いことか。意識高い系のブログは、こんなすごい人と会った、こんなすごいことをした、と、その事実の列挙になりがちだ。それは、その人が有名人なら、そうした情報は読者に興味を与えるだろう、しかし、どこの誰かも分からない人が、どんだけ頑張っていようが、何ら面白くない。それだけではダメなのだ、その経験に対して、何を感じ、おもったのか、そこまでの言及がなければ、面白くなくなる。
決めつけをしていると面白くない
神様がいます。皆さん信じましょう。そうすると幸せになります。と、スピリチュアル系の構造はみなこれである。何か、超越的なものについて、その存在を絶対視し、それを妄信的にお勧めするブログたちもまた、面白くない。
重要なのは、なにも、超越的なものについて書くことがダメなのではない。そして、間違っているとか、あっているとか、それも問題ではない。
ここでの問題点は、超越的なものなのに、それを絶対的に信じていることでる。
こういう人は、何を言おうと、信じているものをまげはしない。その頑なさは、むしろ見習うべきだが、むしろ、自分に都合の悪いことをみないように、自分の信じたいことしか認めないようにしているのである。そして、そのことに自分では気付けない。こういう人の書く記事は面白くない。
悩みが含まれている記事が面白い
科学的事実、を述べるにあたっては、悩み、などという要素は不要である。しかし、ブログという媒体で求めることとしては、その生きた人の実感であり、その人の生き様であり、その人の思考感情そのものの吐露に触れることである。ブログを、いわゆるFacebookのような、SNSと同様の媒体として考えてしまっては、何とも面白くない。逆に、リアルのコミュニティー及びコミュニケーションの延長(スマホでラインを用いてチャットするような感覚)でしかないのであれば、ブログは甚だ一方通行であり、適さないメディアということになる。
だからこそ、5行だか、その程度の内容しか更新しないのに、もったいぶって1週間に一回だとか、低頻度更新のブログは、見るに値しない(巡回する面倒さと、いざ更新されて開いてみたときに、内容のあまりの軽さ!! 何とも徒労感となる)。
長ければ面白いかと言えば、そうではない。「いやだいやだいやだ仕事嫌だいきたくないやってらんない」「頭が痛い方が痛い腰が痛い目が痛いつらい哀しい苦しい」「いとしの彼……今日も目が合っただけで嬉しかったけど、話しかけることはできなかった。よーし明日こそ頑張るぞハート」とか、同じ繰り返し表現ばかりで、思考とも感情とも言えない落書きレベルの文章というのも面白くない。
ちょっとまったぁぁぁーーー!! お前、それ、ものすごいブーメランじゃね??(かっこ死んだ目をした笑い)
自己分析しましょう
散々、面白い記事とは何かと、つまらない記事とは何かを書いてきた。そもそも、それについて「断定」している時点で、まさに自分で上に書いてきた、「決めつけ」しているに過ぎないではないか! というブーメラン。
トートロジーで、同じことを思考ともいえない稚拙な表現を繰り返しているという……はいこれもブーメラン。
やっぱり、お前自信も面白く無いじゃないか!
いや、しかし、ところが、自分の記事は、たまーには、面白いのである。これは、やはり「自分の記事」だから、言外(文章に記載ない部分)の表現もくみとれているから、面白いというのだろうか? それは、数日間おいてから読み返した場合を考えると、影響は低いと思う。何せ、今、一週間前の記事で、何を書いたか、何を思ったか、残念なことに一切思い出せないのである。三日前でもそうだし、前日の記事も、ほとんど思い出せん。アホの露呈、なのかもしれないが、まぁ、自分の記事だから覚えていて面白い、という理由ではないと思う。
となると、面白いと感じる場合の理由というのは、その「テーマ性」が、興味があるからなんだと思う。
じゃあ、そのテーマとは何か。「意味」である。……なるほど、やはりそこにポイントがあるわけか。
タイトルは間違っていない
小説とか、映像作品の感想を書いたりする記事があったりして、これ、タイトルと関係ないのではないか、と思ったりもしているが、そういうわけではないのだ。結局、大きなこのテーマというものに、僕は影響しているのであったのだ。なるほど。で、そのテーマ性に近い内容が書かれている記事を、僕は感覚的に「面白い」と感じているというわけか。
例えば、同年代の、サラリーマンの、仕事が嫌で仕方がなくてアーリーリタイアを目論む人の資産運用ブログなんかは、結構面白いし、集団行動が苦手で、小学生のころ昼休みにみんなで遊ぶよりも一人図書室にこもっていたとか、そんな感覚よく分かる気がする(まぁ小学生の頃は、何も考えず皆と楽しく遊んでいた。高学年になってクラブだか部活動をやるようになってから段々おかしくなってった)けれども、ただ、最近、あんまり面白みがなくなってきたのは、なんでだろうと思っていた。
それはきっと、その、「アーリーリタイア」が目的であって、何かその、生きることそのものに対しての見解があまりにも無さ過ぎて、飽きてきちゃった、というのがあるんだと思う。
色々と、資産形成のための勉強というか、資料集めというか、人に聞いたり、相談したり、考えたりもしているけれども、いまいち、本気になれないというのは、今力を注ぐべき部分だとは思えていないからだ。
そうはいっても、今現状としてやるべきことは、絶対にあるので、日々生活を送るために必要な行動、作業は、おろそかにするつもりは、あまりない。ただ、本気でやれてはいない。
書くことが面白いということ
ポイントは、この、こうして、ブログを書いている時が、一番充実しているような気になることである。ここはいつも、ちょっとまったぁぁ! と自分で掛け声をかける。そんなわけないだろうよ。もっと他にすべきことあんだろうよ。ある。間違いなく、あるだろう。もっと生産的なこと、いや、アウトプットであれ、インプットであれ、両方の作業としても、もっと生産性があることがあるだろう。
ただ、――ここでは敢えて、決めつけというか、断定的というか、感情的に書いてしまえば、価値や意味など、人の創り出した幻想に過ぎない。その幻想が、共同的な幻想なのか、個人的な幻想なのかは分類があるだろうが、どちらにせよ、自分自身を本気で「騙せる」ような何かがなければ、その自分自身が行うこと、すべては、等しく無価値であるにすぎないのである。
↑のいってること、理解できるだろうか? それは、他者もそうだが、明日、もしくは三日後ぐらいの自分自身もそうであるが、分かってくれるだろうか? 分かったとして、同意してくれるだろうか? 同意してくれたとして、自分も同じように考え、行動しようと思ってくれるだろうか?
この、他者(自分も含む)へ、納得してもらい、行動してもらうような、そんな言葉をつむぐこと。
それが重要なことなのである。
今月の目標
さて。そいでもって、今日の、23時59分が、今月の目標を立てる期限となっている。アッというまだなぁ。早いなぁ。一応考えた。
今月中に、今部屋に存在している書類を半分にする。
ということだ。
部屋を綺麗に保つためには、物が少ない必要がある。平積みにされた本や書類、チラシなどを片付ける。
おおう……小学生の目標か(かっこわらい)。
まぁこれ、結構が逆に大変なのである。帰りが遅くなると、まず家のことなど殆どできやしない。けれども、本を読んだり、くつろいだり、少し休憩はしたい。そうすると、だんだん物というかゴミが積み重なってくる。綺麗な状態を維持するというのは非常に難儀である。
うん。
そうだな、何やかんや、「片づけをする! 生活感の無いぐらいな家にする!」という目標は何年も前に立てて、それなりにやってきたけれども、一か月とか、半年とか、長期スパンで本格的にやるってのは、これまでなかったように思える(すなわち、土日とか三連休とか、短い期間で可能な限り実行し、それで満足してきたというわけだ)。
1.1月 部屋の片づけについて3月までの計画を立案する。(PLAN)
2.2月上旬 1.について、作業を実施する。(DO)
3.2月下旬 2.の作業について、評価を行う。(CHEACK)
4.3月上旬 3.の評価を元に、再度作業を実施する。(ACTION)
5.3月下旬 3.の作業を確認し、足りていないことを補完する。
今日の一言「サイコパス2期も面白かった」
神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
単独者としての概念
キルケゴールさんの本を読んでいて、単独者という概念を、ふと思い出した。神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
幻想であった審判が実現する社会
で、何故キルケゴールが出てきたかというと、サイコパス2期で取り扱われるテーマが、「集合的社会秩序(集合的サイコパス)」であったため、頭に浮かんだからだ。個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
神への冒涜
ええと、ちょっと違うな。その、システム(神)によって、監視されて等しく裁かれる仕組みというのは、前作(一期)のシビラシステムで既に完成されていたのだ。そういった意味で、キルケゴールさんのいう、単独者として神と向き合わなければいけない、という社会は、既に実現していたのだ。そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
一般意思2.0的な
東浩紀さんという思想家の方の著作を少し思い出した。ルソーの社会契約論の新しい現代版解釈として、WEB(インターネット)社会が、まるで神の見えざる手のように、オートマティックに正義とか秩序といった概念を「集合知」として形成していくのではないか、という提案というか、概念の提供。ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
前向きになれる作品だったか?
ひとまず、いえることは、見てよかったと、自信をもって言えることだろう。例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
