今日の一言「サイコパス2期も面白かった」
神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
単独者としての概念
キルケゴールさんの本を読んでいて、単独者という概念を、ふと思い出した。神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
幻想であった審判が実現する社会
で、何故キルケゴールが出てきたかというと、サイコパス2期で取り扱われるテーマが、「集合的社会秩序(集合的サイコパス)」であったため、頭に浮かんだからだ。個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
神への冒涜
ええと、ちょっと違うな。その、システム(神)によって、監視されて等しく裁かれる仕組みというのは、前作(一期)のシビラシステムで既に完成されていたのだ。そういった意味で、キルケゴールさんのいう、単独者として神と向き合わなければいけない、という社会は、既に実現していたのだ。そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
一般意思2.0的な
東浩紀さんという思想家の方の著作を少し思い出した。ルソーの社会契約論の新しい現代版解釈として、WEB(インターネット)社会が、まるで神の見えざる手のように、オートマティックに正義とか秩序といった概念を「集合知」として形成していくのではないか、という提案というか、概念の提供。ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
前向きになれる作品だったか?
ひとまず、いえることは、見てよかったと、自信をもって言えることだろう。例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
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コメント
コメントありがとうございますバールさん!
うーむ……なるほど、一期と二期のシビラさんの変化を「人格の統合」という観点で考えられているとは、深い……さすが思考次元が違いますね。
私は単に、手ごまを失っていって追い詰められた挙句の苦渋の決断、ぐらいにしか思ってませんでした(トウガネ会長人格のシビラが殺されるまでは、あくまでキリトくんを排除しようとしていたので……)。
シビラさんも、一般ピーポーへ完全秘匿している現状について問題視もしているわけですし、バールさんの分析の通り「集合的サイコパスから外れる存在」(=それはやっぱり「神」という表現が似合う気がします)になれるという、何らかの目論見・可能性があったのかもしれないですね。
そうすると、僕が記事で書いた、「この作品は、『社会や秩序は、やっぱり「人」自身が作りあげていくもんなんだぜ』ということを言いたいのではなかろうか(キリッ)」というのが的外れな気がしますねぇ……。
どちらにせよ、現代社会において、「完璧なシステムとは?」「正義、秩序を維持するには?」といった問いかけのようには思われまして、今流行りらしい下手な道徳教材より良い作品ではないかと思いましたです。
それはかとなく、恐らくバールさんの仰る通り、一期のシビラは「邪悪・醜悪さ」を意図して強調して描かれていたのだと思いますが、何だか自分としては、一期も、そんなに邪悪に思えませんでした。確かに、「免罪体質者」(≒「変態・きちがいさんたち」)の均質化された集団が「正義」というのは気味の悪さがありましたし、マキシマさんも「パノプティコン」と批判していました。
けれども、大多数の日本人がそれなりに安定的に幸せに暮らせる社会が維持できている、というのは、シビラ自体の存在が邪悪だとしても、結果としては理想的な社会を目指そうとする「動機自体」は、正義なのではないかと。
あー、と、ダラダラ書いていたら、その感覚って、ツネモリさんが、友人とか見殺しにする羽目になった欠陥シビラシステムにワナワナと怒りに震えながらも、明確に拒絶できなかった感覚に似ているのかなぁ。
3期とかあったらどんな方向に向かうんだろう。
うーむ……なるほど、一期と二期のシビラさんの変化を「人格の統合」という観点で考えられているとは、深い……さすが思考次元が違いますね。
私は単に、手ごまを失っていって追い詰められた挙句の苦渋の決断、ぐらいにしか思ってませんでした(トウガネ会長人格のシビラが殺されるまでは、あくまでキリトくんを排除しようとしていたので……)。
シビラさんも、一般ピーポーへ完全秘匿している現状について問題視もしているわけですし、バールさんの分析の通り「集合的サイコパスから外れる存在」(=それはやっぱり「神」という表現が似合う気がします)になれるという、何らかの目論見・可能性があったのかもしれないですね。
そうすると、僕が記事で書いた、「この作品は、『社会や秩序は、やっぱり「人」自身が作りあげていくもんなんだぜ』ということを言いたいのではなかろうか(キリッ)」というのが的外れな気がしますねぇ……。
どちらにせよ、現代社会において、「完璧なシステムとは?」「正義、秩序を維持するには?」といった問いかけのようには思われまして、今流行りらしい下手な道徳教材より良い作品ではないかと思いましたです。
それはかとなく、恐らくバールさんの仰る通り、一期のシビラは「邪悪・醜悪さ」を意図して強調して描かれていたのだと思いますが、何だか自分としては、一期も、そんなに邪悪に思えませんでした。確かに、「免罪体質者」(≒「変態・きちがいさんたち」)の均質化された集団が「正義」というのは気味の悪さがありましたし、マキシマさんも「パノプティコン」と批判していました。
けれども、大多数の日本人がそれなりに安定的に幸せに暮らせる社会が維持できている、というのは、シビラ自体の存在が邪悪だとしても、結果としては理想的な社会を目指そうとする「動機自体」は、正義なのではないかと。
あー、と、ダラダラ書いていたら、その感覚って、ツネモリさんが、友人とか見殺しにする羽目になった欠陥シビラシステムにワナワナと怒りに震えながらも、明確に拒絶できなかった感覚に似ているのかなぁ。
3期とかあったらどんな方向に向かうんだろう。
posted by 遠藤at 2017/01/12 00:56 [ コメントを修正する ]
私もサイコパスは一通り見ましたが、個人的にはそんなに低評価するようなものではなかったと思っています。
普通以上には、というかエンターテイメントとしては十分以上に楽しめましたし。
攻殻機動隊とは方向性とかが違うような気がするので、それと比較するのはどうなのかなーと思ったりするわけですが。
あれこれ話されたりしているようなので、もう知っているかもしれませんが劇場版があるよ、と触れておきます。
時系列的には二期の後になるので、ある種三期目とも言えるかもしれません。
ただ、メタ的な話ですが、劇場版は二期の製作決定より前に製作が始まっていたらしく、直接的な繋がりは一期の方が強く、イメージ的には一期のエピローグみたいな感じです。
普通以上には、というかエンターテイメントとしては十分以上に楽しめましたし。
攻殻機動隊とは方向性とかが違うような気がするので、それと比較するのはどうなのかなーと思ったりするわけですが。
あれこれ話されたりしているようなので、もう知っているかもしれませんが劇場版があるよ、と触れておきます。
時系列的には二期の後になるので、ある種三期目とも言えるかもしれません。
ただ、メタ的な話ですが、劇場版は二期の製作決定より前に製作が始まっていたらしく、直接的な繋がりは一期の方が強く、イメージ的には一期のエピローグみたいな感じです。
白銀さんもサイコパス御覧なられていたのですね!
確かに、攻殻機動隊とは方向性が違うようで、比較は難しいかもしれませんね。ひろーい意味で、SFというジャンルな気はしますが、どっちかというと、攻殻は自我や自己へ、サイコは正義や社会へ目が向いている気がします。
劇場版、ご紹介ありがとうございました! 早速借りてきました! これから見ます!
確かに、攻殻機動隊とは方向性が違うようで、比較は難しいかもしれませんね。ひろーい意味で、SFというジャンルな気はしますが、どっちかというと、攻殻は自我や自己へ、サイコは正義や社会へ目が向いている気がします。
劇場版、ご紹介ありがとうございました! 早速借りてきました! これから見ます!
posted by 遠藤at 2017/01/21 09:57 [ コメントを修正する ]
ところが二期においてはこの印象がラストでがらりと変わり、自分にも非がありうることを殊勝に認めるシビラパイセンに、衝撃を受けると同時に何か肩透かしめいた感情を抱きましたねー。自分が神ではないことを認めるなんて、クソ汚物たる君ららしくないよ! どうしちゃったの!? 変なもん食ったの!?
どうも一期と二期の間の時間の経過で、シビラはんの人格的統合が進んだんじゃねえかなと思います。「共有される部分もある集団」から「集団的な要素もあるひとつの意識体」に変わったことで、構成員の処分に抵抗が少なくなっていたのではないかと。そしてこのまま統合が進めば、いずれ自分は集合的サイコパスの定義から外れられるんじゃねえのこれ的な打算があったのかもしれません。