今日の一言「求むってか、望むのか」
幸せな社会のために物語を求む
要するに、幸せな人生、幸せな社会を望んでいるのである。
が、そういった、「幸せ」という言葉の器に入れると、なんとまぁ、いろいろなものが窮屈なことか。
――だから。ちょっと飛躍するけれども、僕は、「物語」ってのが、すげー重要だと思うのである。
最初の今回の連載記事に書いた、「泣いた」というのは、あくまで小説の中での物語であるけれども、でも、実際に現実社会であるかもしれない話だし、似たような話しはきっとたくさんあるのだ。
悲劇的な結末であっても、絶望的な状況であっても、それでも人は助け合ったり、信じたり、優しくしたり、そして生き続けることができるのは、物語があるからだ。
ああ! そうだ、だから――、物語的ではない仕事は、さっさと「効率よく」片づけて、時間をたくさん作って、物語を創らなければならないのだ。
以前から、何度も書いている。以前、「物語を創る――創作が大事なのはよい。が、なぜそれをおまえ自身がやるのか?」という問いに対して、「面白い作品に出あうまでの間隔を埋めるため」と書いたけれども、それがポイントではない。
要するに、僕が、価値を置いているのがその「物語」だからである。
ただ、別に「物語が重要だ」、今年の目標を頑張ろう、という結論にもっていこうと思って書き始めたわけではなかった。意図せず、今回の結論に向かったのは、悪いことではなかった。
まぁ、要するに、仕事とか、その他の日々の事象などいろいろあるけれども、創作を中心に据えて、目標に向かって頑張ってみようや、って叱咤激励だ。
いつもの、「オンラインゲーム症候群(すごい人を見て打ちひしがれる)」とか、残業が増えて平日の時間が取れなかったり、休日に予定が入ったりと色々あるだろうけれども、それでも、2018年、当初立てた目標を目指して行動していこう、と。
あー、1000字ってのは、ほんと、せせこましく窮屈であった。だが、いつまでもブログの心地よさに酔っていてはならんだろう。ずっとそこに酔っぱらっているのが僕の幸せなら、それはそれでいいのだろうけれども、きっと、それは違うだろう。
1000字連載
1月24日からの約1か月間。関連性があったような無かったような。無いな。ただ、別に「物語が重要だ」、今年の目標を頑張ろう、という結論にもっていこうと思って書き始めたわけではなかった。意図せず、今回の結論に向かったのは、悪いことではなかった。
まぁ、要するに、仕事とか、その他の日々の事象などいろいろあるけれども、創作を中心に据えて、目標に向かって頑張ってみようや、って叱咤激励だ。
いつもの、「オンラインゲーム症候群(すごい人を見て打ちひしがれる)」とか、残業が増えて平日の時間が取れなかったり、休日に予定が入ったりと色々あるだろうけれども、それでも、2018年、当初立てた目標を目指して行動していこう、と。
あー、1000字ってのは、ほんと、せせこましく窮屈であった。だが、いつまでもブログの心地よさに酔っていてはならんだろう。ずっとそこに酔っぱらっているのが僕の幸せなら、それはそれでいいのだろうけれども、きっと、それは違うだろう。
(かっこ書きである。この記事を機に、しばらくブログを書くのは中断しようと思う。ほんと、今度こそ、今年の目標の「創作」の優先度を上げたいと思う。(2/21追記)いやまて、ちょっとまて、まだだ、まだ終わらんよ!)
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今日の一言「前回の記事はなんか恥ずかしい」「傲慢さも感じ取れる」
いい加減自分の人生を生きろ
まぁ、前回書いた便所の落書きはともかく。
俺は、これも誤解を恐れず書くけれども、人生、楽しくなきゃ失敗だと思う。
仕事がどうこうではなくて、俺は、楽しいことがしたいのである。
しかしこの、「楽しまなきゃならぬ」というのが命題になると、これはこれでかたっ苦しくて重たくて、面倒くさくなる。
……んじゃー、結局、「何も考えない!」ってのが正しいんじゃねーのか、このめんどくさいやつめ!
というか、この、自分の過去をもとにして、卑下したり、評価したり、正当化したりするのも、ほんと嫌なんだ。
過去とかどーでもいい。今である。今後である。
今後であるんだけど、どうしても、自分という連続性を考えたとき、過去は切り捨てられないとは思う。自分の身体的限界性に、思考も縛られてしまうように。
単に「頑張ればいい」ということでもない。
体制順応的(他の誰かがやってることを自分もやる)でもダメだし、全体主義的(周りの人が自分に欲していることをやる)のでもダメだ。
人は、人であるのならば、みな、自分の欲するところに自分の人生を生きるべきだ。
かっこつけたいわけじゃない
ひとはみな――的な書き方をすると、「おめーがいうな」的になってしまうが、しかし、俺は世界がそういった方向に向かってくれることを望んでやまない。
その、人が人として生きるということを否定するような――自由からの逃避によって全体主義に流れていったヨーロッパや、カンボジア、ポル・ポトの共産主義の理想による大虐殺に、ちっとも戻る傾向がないような、そんな人間性を、誰もが持ってほしいと思う。
え? かっこつけすぎ? いや割とマジで思う。
でも、そのためには、みんな、「バカ」じゃあ駄目である。
みんな、自分で考えなければいけない。人のせいにしちゃあいけない。かといって、独善はだめだ。
そして、環境(政治や企業体制等々)の誤りは誤りであるとはっきりと主張できなければならない。
自分の感覚と反する人も認めなければいけない。同性愛者だろうが、独身者であろうが、宗教に入れ込む人だろうが何だろうが認めなければいけない。同時に、公共の福祉に反する場合は駄目だとはっきりと修正を求められるようでなければならない。
俺は全人類、若い人も年寄りも、だれに対してもそれを望む。
でもそれは、苦痛であってはならない。
みんなが、それを目指し、生きていることが、楽しくなければならない。失敗もするだろう。その失敗もあたたかく認められるようにならなければならない。
酒でもはいって、大言壮語になっているのだろうか? いや俺は大まじめにそう思う。
(かっこ書きである。次回、2/21(水)「幸せな社会のために物語を求む」。ついに次回が感動のフィナーレ! ……感動はしないが多分最後)
今日の一言「あと2回ぐらいかな」
仕事が楽しくないからいけないのか
前回は、「なるべき存在」になるために、その概念の中身について考えてみたいと書いた。
うーん。
うーん。
良いものを生み出したい。
単純にそういうことなのだ。
でもどっか冷めていて。フリーターを続けながら、「いつかビックなミュージシャンになってやる」って40歳50歳過ぎてもいってたり、小さな閑古鳥のなくラーメン屋で働く人が「生きる意味とは……」なんて考えてるのは滑稽だとも思う。
いや、さっき書いたように、他者がどうであるかは関係ないのだけれども、僕自身はそれはなんか違うと思っている。
金がない金がない言いながらパチンコに多額をつぎ込む人とか、信じられない。
デブってバカにされるのが嫌だって言いながら、間食ケーキを頬張る人とか信じられない。
ストイックであることを否定しない。
努力することを否定しない。
継続することを否定しない。
平坦な人生などない。
苦労のない人生などない。
楽な人生などない。
といった前提で、俺は一体全体、何をやればいいんだ? ということを常に考えているのである。
仕事も頑張る。自分のパフォーマンスを超えたこともやらなきゃと思う。成長しようとも思う。
けれども、じゃあ、仕事以外のことを考えるのは「余計なこと」かというと、そうではないし。
ゆとりがなければ、業務の改善なども行えない。
愚痴言って酒飲んで
考えない、という手もある。
上司や客の愚痴を言って、飲み屋に行ってうまい酒を飲んで、飯を食って、寝て。
朝起きて、あーめんどくせえなぁといいながら会社にいて働いて、帰って酒飲んで、寝る。
もしくは、死んだように、早く時間が過ぎることだけを考えて、テキトーに仕事して、給料もらって、副業しつつ老後の生活資金を計算しながら生きていく。
それらもありだろう、し、多くはそんな感じじゃなかろうか。
が。そんな「大人」に僕は憧れない。
「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
なんつーか。
基本、人生つまんなかったのである。
こんなこと書くと、せっかく育ててくれた親に大変申し訳なくなるので、言わないし(ああ、この前の正月は少し言っちゃったかなぁ)、考えないようにもしているが、とりあえず、「くっそつまんねー人生だった」ってことを認めておこう。
そういう蓄積があるから、僕は、上に前提として「頑張ることは否定しない」と書きつつも、頑張ることはさっぱり無意味であるとも同時に思っている。
いやまぁ、そこですら頑張らなかったら、ダメブロ界の人たちのように、ずーっと人生呪いながら、愚痴を言いながら生きていたかもしれない。紙一重である。
(かっこ書きである。次回2/14(水)「いい加減自分の人生を生きろ」。今回は、自分の価値観を振り返り、過去の体験(というか、その自己評価)を書いた。これだけで終わったら何にもならん。愚痴にすらなっていない。次回は、今回の内容を前提として、「やっぱり人生楽しまなきゃダメだろ」って方向にもっていく、たぶん)
(かっこ書きである。次回2/14(水)「いい加減自分の人生を生きろ」。今回は、自分の価値観を振り返り、過去の体験(というか、その自己評価)を書いた。これだけで終わったら何にもならん。愚痴にすらなっていない。次回は、今回の内容を前提として、「やっぱり人生楽しまなきゃダメだろ」って方向にもっていく、たぶん)
今日の一言「今後しばらく毎週水曜日更新予定とする」
忙しいことを認めた後で
前回の文章は、とってもサイコパス的だし、非人道的で、人間失格だ。
しかし俺は、誰かを傷つけたいなんて一切思ってないし、むしろ、人の役に立つことをしたい。
矛盾? 偽善?
なんと言われようが、そこは問題ではない。
要は、「俺は、どのように行動するか」である。
思考的なこと、抽象的なことを書いているが、抽象論に興味をもてないのはその点にある。
簡単に書くと、「実存」を重要視しているのだ。
世の中の真理がどうであろうが、それは正直どうでもよいのだ。どうでもよい、と書きつつも、世の中の仕組みを無視しては生きていけない。
ああ、面倒である。
ここら辺の感覚を、簡単に、うまい具合に伝えたい。分かってもらいたい。だが、表現として僕は全然伝わらないだろうことが「わかる」。
要するに、僕は「大人」になりたいのである。
が、その「大人」とは何なのだ?
こういうことを言うと、「大人になんてならなくていいんじゃない?」とかいったアドバイスも発生したりする。くだらない、そうじゃないんだ、そこが問題じゃないんだって。
「大人」
というのは、単に言葉の器である。
僕がなりたいのは、「大人」であって「大人」ではないのだ。トートロジー。
先日表現した、「いい人」ってのもそうだ。僕は「いい人」になりたいし「いい人」にならなくてもいいのだ。
表現を変えれば、「なるべき存在」になりたいのである。自我がぐちゃぐちゃになってるな。
しかし、「考え続けるのが正解だ」的なのは退けたいのである。
(かっこ書きである。次回2/7(水)更新予定「仕事が楽しくないからいけないのか」。今回は、他者や世界がどうであるかは置いておいて、「俺自身はどうするのか」という点に目を向けなおした。要するに、「なるべき存在」を目指したいということであるが、その概念の中身が現在不明である。大人とかいい人とか、役に立つ人とか、まぁいろんな表現はあるわけだが、中身の伴わない言葉は空虚だ。次回は、その中身について考えてみたい)
(かっこ書きである。次回2/7(水)更新予定「仕事が楽しくないからいけないのか」。今回は、他者や世界がどうであるかは置いておいて、「俺自身はどうするのか」という点に目を向けなおした。要するに、「なるべき存在」を目指したいということであるが、その概念の中身が現在不明である。大人とかいい人とか、役に立つ人とか、まぁいろんな表現はあるわけだが、中身の伴わない言葉は空虚だ。次回は、その中身について考えてみたい)
今日の一言「小説で泣いたのは久しぶり」「感動ってどうしたら発生するのか」
大切な人を失ってしまうといったストーリーの小説を読んで泣いてしまった。
しかし、前から(というのは、ここ数年の間で)気づいていたのであるが、僕は、何か喪失したというよりも、「人の優しさ」というものに弱い気がする。
こう、なんだろ、死にゆく人が、残された人に対してみせる優しさだったり、逆に、その死にゆく人を取り巻く人の思いやりだったりするものに、心が動かされる。もしくは、喪失感を乗り越えようとする人たちの姿にも。
涙を流しているときの俺は、純粋に泣いているのであるが、しかし、日々の生活において、僕はそんな「優しさ」的な感じを全くもてていない。
仕事のことで頭がいっぱいになり、不機嫌でイライラしているときに、駅のホームでうずくまって苦しんでいる人をみても、何ら感情はわかないだろう。そして、何もせず通り過ぎたことを、一秒たりとも後悔しないだろう。というよりも、そもそも気づかないほど周りがみえていない。冷たい人間だ。
しかし、さほど卑下しようとも思わない。現に、この世の多くの人が、そういった「冷たい人」だと思っている。「そんなんじゃない! それはお前が思ってるだけだ!」と、多くの人はいうだろうが、しかししかし、遠くの国でおこった戦争や紛争や、飢餓や貧困にまで意識を飛ばすことはあまりできない。それは飛躍しているといわれるだろう。けれども、自分の子供と赤の他人(どっかのおっさん)じゃあ、優劣はある。そんなバカげた比較をしても意味がない? 意味はないだろう。でも、人の冷たさや温かさなんてのは、その場の関係性によるものである。
この文脈でエンターテイメントを持ち出すのは滑稽だろうが、ウォーキングデッドのリック氏は、「仲間」を守るために必死ではあるが、「仲間」以外は切り捨てることも厭わない。さらに、その「仲間」っていう区分もかなり恣意的で、変遷していく――。
が、まぁ、このあたりのことをいくら書いても、結局、「お前の心の卑屈さや矮小さを自己弁護したいだけだろ乙」という風に言われたらオシマイなので、上のようなことは僕は一切言わない。言うもんか。――この「言うもんか」ってのが、それはそれでストレスなのであるのは愚かしいほど皮肉だ。
(かっこ書きである。次回1/31(水)更新予定「忙しいことを認めた後で」。今回の記事は、自分の卑屈な考え(感情)の整理であるが、次回は、世の中がどうであるかは一旦おいておいて、自分はどういった人間になりたいのかを考える)
喪失というより優しさに弱い俺
泣いた。大切な人を失ってしまうといったストーリーの小説を読んで泣いてしまった。
しかし、前から(というのは、ここ数年の間で)気づいていたのであるが、僕は、何か喪失したというよりも、「人の優しさ」というものに弱い気がする。
こう、なんだろ、死にゆく人が、残された人に対してみせる優しさだったり、逆に、その死にゆく人を取り巻く人の思いやりだったりするものに、心が動かされる。もしくは、喪失感を乗り越えようとする人たちの姿にも。
涙を流しているときの俺は、純粋に泣いているのであるが、しかし、日々の生活において、僕はそんな「優しさ」的な感じを全くもてていない。
仕事のことで頭がいっぱいになり、不機嫌でイライラしているときに、駅のホームでうずくまって苦しんでいる人をみても、何ら感情はわかないだろう。そして、何もせず通り過ぎたことを、一秒たりとも後悔しないだろう。というよりも、そもそも気づかないほど周りがみえていない。冷たい人間だ。
しかし、さほど卑下しようとも思わない。現に、この世の多くの人が、そういった「冷たい人」だと思っている。「そんなんじゃない! それはお前が思ってるだけだ!」と、多くの人はいうだろうが、しかししかし、遠くの国でおこった戦争や紛争や、飢餓や貧困にまで意識を飛ばすことはあまりできない。それは飛躍しているといわれるだろう。けれども、自分の子供と赤の他人(どっかのおっさん)じゃあ、優劣はある。そんなバカげた比較をしても意味がない? 意味はないだろう。でも、人の冷たさや温かさなんてのは、その場の関係性によるものである。
この文脈でエンターテイメントを持ち出すのは滑稽だろうが、ウォーキングデッドのリック氏は、「仲間」を守るために必死ではあるが、「仲間」以外は切り捨てることも厭わない。さらに、その「仲間」っていう区分もかなり恣意的で、変遷していく――。
が、まぁ、このあたりのことをいくら書いても、結局、「お前の心の卑屈さや矮小さを自己弁護したいだけだろ乙」という風に言われたらオシマイなので、上のようなことは僕は一切言わない。言うもんか。――この「言うもんか」ってのが、それはそれでストレスなのであるのは愚かしいほど皮肉だ。
(かっこ書きである。次回1/31(水)更新予定「忙しいことを認めた後で」。今回の記事は、自分の卑屈な考え(感情)の整理であるが、次回は、世の中がどうであるかは一旦おいておいて、自分はどういった人間になりたいのかを考える)
