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大人になるには
2018/08/10 20:40 | Comments(4) | 思考及び書くこと
熊代さん(シロクマ)さんの本を読んだ。

成熟困難時代をどう生きるか

 興味深かった。

 20代までは自我を確立して、それ以降は大人になる。大人とは何か。エリクソン氏によれば、それは「世話をする」人であるということだ。
 そして、上の著者は、「世代や立場が異なる人と、その違いを踏まえて対応できる人」としている。
 他には、自己評価を重視する人は若者で、後進を育てようとする人が大人だという。自分の評価をおいておいて、他者を成長させようとするのは、一見コスパが悪いようだけれども、大人はそれを目的的にできるのだという。

 そういう意味で、僕はまだまだ未熟、若者なんだろうなぁと思う。

 あと、著者はサブカルチャーにも造詣が深いところでも共感をもっているのだけれども、アニメでもゲームでもコスプレでも、ずっと最先端で趣味をおいかけていくのは、大人になると困難になってしまうということだ。

 それは、肉体的な衰えであったり、その他になさねばならない責任による時間の制約であったりする。若者は、最先端のコンテンツに触れて、友人とも遊んだり、恋人をつくったり、仕事にも打ち込んだりと、熱気にあふれている。しかし、大人は、「本当に自分に必要なもの」にのみ注力し、そのすべてを扱うことはできなくなる。


 10代向けのライトノベルの主人公は、学生服を着た10代が多いだろう。そのほうが共感性がある。
 そういった作品を、20代、30代、40代が同じように読んでいくには、それなりの気構えが必要になる。



 まぁ、その、生きる意味を考える的な方向性はとりあえずおいておいて、メモしておきたいのは、そうした「おっさん・おばさん」向けのライトなノベルってのは難しいのだろうか、ということだ。
 例えば、いぬやしき、は、定年間近のおっさん、が主人公だが、僕は、それだけではおっさん向けの作品とはいえないと思う。いや確かに、おっさんの、みじめな姿や心情描写はされているのだが、いぬやしきはやっぱりバトルなのである。若者とおっさんの戦いであったとしても、それは、「超常的な力」をもった者同士の、どっちが強いかヒーロスティックな構造が軸なのだ。それはもちろん、若者的、に面白いのだけれども、僕がここで考えたい、おっさん向け、というのはちょっと違う。

 なんかの週刊誌、モーニングか、アフタヌーンか忘れたけれど、それこそ60代のおじいちゃん、おばあちゃんの恋愛もの、定年を迎えた後の第二の人生的な作品を少し読んだことがあった。
 それは確かに、主人公は歳を取っているが、結局、恋愛的な内容を扱うとすれば、それは、若者への憧れを捨てきれていないのではないか。

 正解するカドの主人公たちは、まぁ若者といえる年代だけれども、おっさん・おばさんといってもいいだろう。序盤の、交渉を軸とした内容も「大人」って感じがした。あんな感じがいいと思う。なんか、面白いし、新しいと思う。が、後半はやっぱりバトルになった。少し残念であった。



 バトルが悪いわけじゃない。ただ、「だれが一番強いか!」というテーマだけだと、僕はもう楽しめないような気がする。



 難しい問題をはらんでいる。
 なぜならば、「大人」ってのは、たいていかっこ悪いのである。ホリエモン氏や、経営者や、アーティストたちは、自由で、かっこいい大人かもしれない。しかしそれらは一握りであり、また、アーティストたちはどちらかといえば、上の本の著者も書いていたが、「若者」のコンテンツを創り出すことに力をいれなければいけなかったりする。

 大人ってのは、自分自身という殻を破って、周囲の人間のために時間や能力を使う、世話をする人たちなのである。
 そういう人たちは、すでに「個」をもっていないのではないか。いや、それは、アイデンティティが拡散しているということではない。むしろ、確固たる、自分とはこういうものだ、という認識を、そして実感をもっているのが大人である。
 しかし、それがゆえに、特徴的な「個」、いわゆる「主人公」にするには要素が足りなすぎるのである。

 物語における主人公は、二つの立場がある。
 一つは、特殊な力や思考をもっていて、その人自身の魅力でひきつけるタイプ。
 もう一つは、平々凡々ではあるが、周囲の特異な事件やできごとにまきこまれていくタイプ。
 大人を主人公にするには、後者のパターンしかありえなくなるのではないか。それでも、物語としては構成できなくもなさそうだ。しかし、後者の平々凡々ナ主人公にみえても、多くの作品では、意外に賢かったり、強かったり、だんだん成長したりして、全然平凡じゃなかったりもするが。



 時間切れ。
 とにかく、今回メモしたかったのは、「大人」とはなんぞや、という思考と、僕はどんな物語をかきたいのだろうか、ということであった。
 面白い物語をかきたいのだ、しかし、面白いって、なんだろうか。チート無双系も、はまる条件があればきっと楽しめると思うけれども、自分で書きたいとはきっと思ってない気がする。と、いうよりも、メモしたかったのは、そうだ、思い出した、そもそも、「創作をしたい」とか、「生きる意味を考えなきゃ」ってのは、まぁ、もうそれだけで、「大人」な方々からみれば、「若々しいねぇ。いいぞいいぞ、悩め試せ若人よ」的に思われるんだろうなぁと思ったことだった。

(かっこ書きである。まー、若者でも大人でも、それは、自分自身がどう実感するかというのが重要である。そして、「それでいいんだ!」と強く思えるのだったら、たとえ、10年後に、黒歴史だと頭を抱えたとしても、それは貴重な体験であり、思考であったのではないか、と思うわけである。なので、前にも書いた気がするが、僕が自分より若い人たちに何か「絶対に」という修飾付きで教えられるとしたら、日記でもブログでも、自分自身の思考を表現した文章を残しておいたほうがよい、ということだ。しかし、俺、それこそ数年前の記事を読んでも、「若々しいわぁ!」とか思わんな。そういう意味では、人生損していると思う、うん。しかし、今回掲載の本を読んで思った、わかったのは、要するに、「自我」にこだわっているうちは若者である、ということだ。しかしこれは、わかったところですぐさま役に立つものではない。なぜならば、すぱっと頭を切り替えて、アイデンティティを確立し誰かのお世話をしようなどとは瞬時に思うことは不可能だからだ。しかし、目指すべき方向性である可能性の一つとしては、記憶に止めておいて、決して誤りでも損でもなかろうと思う)
)

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ブログを書くのが何かの手段であってたまるかよ!
2018/08/05 13:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先日の記事は、まとまりもなく、表現も稚拙であり、中身もなくの三拍子そろって最低だ、しかし、何かもういっそ投稿しなければ今後何にも書けなくなる(投稿できなくなる)のではないかというどこか強迫観念的に投稿した、というのを覚えている。

 読み返してみて、確かにひどいなぁとは思いつつも、だけれども、目的とか、意味とか、そんなんばっかり考えていて、結局何もできないよりは、投稿して良かったとポジティブに思える。現実。それが、今の自分の最大限の実力なのだ、と認めたほうが良い。

 仕事、とプライベートとか、本業と娯楽とか、そんなん、本来的に分けられないのではないか。
 働き方改革とか言われ始めたのは、過労死とか実際問題死人が出始めたというのもあるのだろうけれども、価値が多様化(というと良い意味にとらえられるが、価値が分散、離散ともいえる)がされた故に、「時間をかける」ということが必ずしも成果に繋がらないと多くが気付き始めてきたからだろう、と勝手に思う。

 まぁそんな面白くないことはともかくとして、「ゲームが何かの手段であってたまるか!」って表現をとある方の記事で読ませていただき、なんか上のタイトルが思いついた。



 僕が、「書かなきゃ!」って思うのは、仕事の締め切りに追われて焦燥している感覚とは全く違うのである。どっちかというと、「やりたい!」ってのに近い。小説とか創作もそうである。
 夢を、――快楽的ではないのだけれども、面白い夢をみた。自分の、公開とかあまり考えてなくて、単に自分にとって面白い作品にしたいという思いで断片的に書いていた作品の一場面であった気がして、先ほど、その作品を読んでみた。物語としては成り立っていないのだけれども、その、(夜に見る)夢のような断片的なシーンは、面白かった。こんな描写が、こんな表現が、こんなシーンが続く作品なら、きっとわくわくのめり込んで読めると思った。……自分の作品の話である。お恥ずかしい限りである。
 しかし、少し思い出したのだけれども、中学生ぐらいに、なんか「お話」を書きたいと思ったのは、確か、そんなしょうもない動機であった気がするのだ。ゲームか、何か、娯楽作品に触れて、それが面白くて、そんな作品を自分でつくりたくなった、そんなかわいらしい動機なのである。


 それと、ブログの話と何が関係あるのか。あまりない(キリッのアスキーアート)。
 ただ、目的とか、意味とか、動機とか、論理とか、それはもちろん大事だけれども、それだけで人は動くのではない、と思った。
 前回のブログの記事、断片的な、メモといえるかも怪しい記事内容。なんの意味があるのか? と問われたら不明だろう。けれども、それに「意味」を与えるのは、後付けでも可能なのだ。要するに、その瞬間、今、そのときに、行動ができるのか。文字をキーボードに打ち込むことができるのか。それが大事なんだと思う。

 編集(推敲)と創作は、密接にかかわりながら別ベクトルな気がする。気持ちの盛り上がりがないと、やっぱり創作はできないものだと思う。だからこそ、スランプ(何もできなくなるとき)というのが生じるのだと思う。エロ漫画先生(数話流してしか見れていないが)の一場面で、創作ってのは「やる気マックスファイアーの時しかつくらないものだ」というシーンがあったりして、まぁそういう面もあるよな、と思ったりもしたり。


 人々よ。楽しくあれ!!(ただし、他者に大きな迷惑をかけない限りで)

 と言いたい。そして自分も、楽しくあるための方向性や、実生活について、やはり今後も考え、実践し、ルーチンの筋トレは続けつつ生きていきたい。

(かっこ書きである。なんだ、この、小学生の夏休みの日記か感想文か何かみたいな。しかし、レポートとか、「何かの事実について書くもの」というのは、正直面白い文章たりえるのだろうか。家族と沖縄に旅行に行きました。海が青くてきれいでした。でも、お父さんは泳げないので泳ぐことはなくて、パラソルの下でスイカを切ってくれました。とても楽しかったです。――ってのは面白いのだろうか。先生は、「家族と楽しい思い出がつくれてよかったですね。スイカはおいしかったですか」ぐらいな他の子にもかけるようなテンプレと、その子が書いた内容の一部を「オウム返し」(言葉はよくないが、これはページングというコミュニケーション手法にもつながる重要な方法に思われる)するぐらいしかできなそうだ。やっぱり、オリジナルに、その子が考えたことを表現された文章が面白いのだ。「楽しかった」という感情は事実である。しかし、どういった面が楽しかったのか、どうして自分は楽しいと思ったのか。それを、事実やエピソードを踏まえて踏み込んで考えること(考察)することが、面白い文章になりえる。ある子は、沖縄の海と、東京湾の風景との差異に着目するかもしれない。ある子は、気温や湿気の感じ方の違いを思うかも。ある子は、そもそも沖縄にはいきたくなかったのかもしれない。同じ場で、同じことをやったり体験しても、感じ方はそれぞれあるのであって、それは、言葉にしないと他者には伝わらないのであって。話は変わるけれども、言語力ってのは、やっぱりその人の脳内の豊かさでもあるのではなかろうか。喜怒哀楽って簡単にいってしまうが、しかし、それは果たして、同じ感覚かどうかなどわからない。そしてそれを客観的に伝えることができるのは、やはり言語力(表現なのだ)。数式は論理的で明快で、誤解の余地はないのだろうけれども、しかし、数式で感覚や感情を表現できるとは思われないだろうだからなんだ、といったところで終わる)

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書きたい5
2018/07/26 19:23 | Comments(0) | 思考及び書くこと
blogがさっぱり更新できなくなって、はや数ヵ月。といっても、半年は経ってないんだな。

諸氏は、こやつ、飽きたんだな、と思われるだろう。断じて違う。光速に否定する。かきたい気持ちは高まっている。コメントにも返信したいし、他の方のblogなどにもコメントしたい気持ちが沸き上がっている。

しかし、かけない。

原因は、環境にある。物理的な時間が問題なのではない。
ので、ノートパソコンなど欲しいなって気もする。

ああしかし、いったいどうしたらいいのだ。

悩む。


以下の小見出しからの内容は、少しずつかきためていたものだ。あえて掲載するのは、かきたいって気持ちが嘘じゃないとの証明……になるのかな。ってか誰に証明する必要があるのか。

とにかく、シュタインズゲートは、面白い。
ある方が、女性登場多すぎ、とおっしゃっていて、その通りに思うけれどもでも、でも面白い。
ゼロの、ゲームをクリアした。
ゼロの、アニメを三話だけ見た。

いやぁもう面白い。
なんでこんな面白いのか、かきたい。でもかけない。


なんかモヤモヤした話



どうせ、話しても無駄だろう。変わらないだろう。
そういった諦念がよく生じる。これ自体はよくない傾向だ。

しかし、分かりあえて、それで何がかわるというのか。
変わるというのは、行動があってこそのことだ。

結婚がゴールじゃない、と書いた。
このテーゼは、別に批判されないだろう。そっからの生活が大事。

で、あったとき、結婚という結果の先にある生活とは、どのようなものなのか。

もっといえば、恋愛自体も同じく、告白してつきあい
……付き合うって、なんなのか。

ただ、体験価値として、無理に意味を持たせる必要なんてない。好きという感情は、生じたのならそれは事実だ。
そして、その感情を満たせる関係を続けられるなら、それは、意味など必要ない。ただ、それだけで価値がある。

が、しかし、ただそれだけでよいのか。
まず、そうした関係を構築できない人はどうするか。
そして、その関係を維持するためにどうするか。人は、飽きる。




仕事の話



面談で言いたかったことは、
視点を高くする
俯瞰する、
多角的に見る
アンテナを貼る

というのは、ぶっちゃけキリがないのである。
それを、評価の軸とするのは難しいのではないか。
具体的に、ある程度範囲があるなかでの生活であり、仕事なのだ。

世界平和を求めたら、いまの判断は違うものがあるかもしれない。
誠に腹立たしいし、現実味はないが、例えば、拉致問題は解決したこととしてりんごくとの協力をするのもありなのだ。それが平和につながるかもしれない。

抽象的な言葉は、空虚だ。
中身が伴わない、現場の業務レベルを考えられない理想は無価値だ、と思う。



これは根源的な問題。
どっちが優先というわけでもない。両輪。
しかし、それで話が終わっては、このモヤモヤがいつまでと晴れない。



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シュタインズゲート・ゼロ
2018/06/21 18:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
注意:前回までの文脈全く関係ありません。

主張:シュタインズゲート・ゼロが面白い。


要は上のとおりなのだが、もう少し書きたいので、書く。

<前置き>

シュタインズゲートという作品・アニメーションが自分作品ランキング上位に躍り出た、とは前に書いた。もうそれも一年前ぐらいなのだろうか? スマホからだと調べるのが大変だから分からない。

それで、プレイステーションビータを買って、シュタインズゲートのゲームと、今回話題にしたいシュタインズゲート・ゼロを買ったわけだが、シュタインズゲート(以下無印とする)のゲームは、途中までやるものの、やはりアニメでネタバレしているため、あまり進めるきになれなかった。積みゲーになってしまっていた。

シュタインズゲート・ゼロ(以下ゼロ)は、パッケージの透明袋を開けることすらなく積んでいた。

ゼロについては、今年度、オーバーロードと同じく、アニメになるということで、まぁ、ゲームやらなくても、後々アニメでも見るか、と思っていた。



そんなとき、先日、思いがけず、トラブルが発生し、身動きがとれない状況になった。そんなとき、たまたまビータと、ゼロが手元にあった。



暇潰し、程度にやってみた。

→くっそ面白い。いまここ。
状態になったわけである。

<はまり込む>

とはいえ、最近はあまり時間をとれず、進められていないのがげんじょう。とはいえ、逆に、これは真面目に、細切れではなく、まとまった時間がとれるときに、本気で取り組みたいと思ってるので、まぁそれはいい。とにかく、あのゲームをやり終えるまではまだ死ねない!っと、いい大人がバカみたいだが、わりかしマジで思うのである。



んじゃあ、何がそんな面白いかというと、恐らくこれは、やっぱり無印が好きだからなんだと思う。 
ゼロから初めて触れた人は、正直話についていけないのではないか。

無印ヒロインのアーティフィシャル・インテリジェンスが登場したりするが、その郷愁というか、懐かしさというか、切なさというかは、間違いなく無印あってのものである。
無印がなければその感動も、哀愁も味わえないのだ。



ということが、この作品シリーズ全体にいえることなのだ。
この点が非常に重要。

<前作シュタインズ・ゲート>

どういうことかというと、この、郷愁という感情が、非常にうまく引き出せている。
というのは、まさに、シュタインズ・ゲートの作品は、「時間」をテーマにしていて、やり直したい過去などを変えてしまうことが、一旦は、可能である。
しかし、その変革は、タイムパラドクスを起こさないために、世界線の変動(本作品独自ワード)によって、すべての過去、現在、そして未来までが書き換えられるのである。


その世界線の変動については、一般人は分からない。なんの疑問も抱かない。だから過去が変わっているなんて認識はもてない。

一方、主人公オカリンは、その世界線の変動を観測することができる。それゆえ、周りの友人たちとの記憶相違などによって孤独を感じたりもするが、問題はそれだけではない

世界の因果律である。
いくら世界を変革、タイムリープなどで変えたとしても、発生する事象は、世界に決められているのである。運命。
そこに到達する手段は違えど、到達する結果は同じ。

発生した運命、事実は、必ず起こる。
無かったことにはできないのだ。



その上で、主人公は選択を迫られた。
というのが無印の話。
起こり得る可能性を徹底的に体感し、それは頭の中で想像するなんて生易しいものでなく、文字通り体験し、体感した現実。
それにもかかわらず、運命は変えられないという無力感。

これは相当恐ろしいものである。
例えば、恋愛で考えてみよう。
好きな人ができた、その人をデートに誘うことができた、デートにいった、何らかの自分の台詞に腹をたててデートは失敗してしまった。と。

それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻る。失敗した言葉を発しないように注意する。

今度は、
何だか本心で話してないね。私たち合わなさそうだね。
といわれる。

それでは、と。
タイムリープマシンを使用して、過去に戻って、失敗した言動をとらないようにする。

しかし、やはり同じように、別の理由で、デートは失敗した。


何度も。何度も何度も何度も!!

失敗し続けるのである。
これと同じような場面が、無印でもある。主人公の努力むなしく、悲しい結末に収束する。

世界の因果律。
変えられない運命。
定められた運命。



その運命を、無印では、とある方法で打破するのだ。

……が、今回のゼロは、むしろ、その運命に抗うことを諦めてしまった場合の話なのである。




ちなみに。
この、諦める、ということに、僕は何ら悲観的な意味を感じない。
すぐに諦める、という形容がつけば別だが、しかし、どうしようもないことは、ある。

諦めた方がよいことは、ある。

しかし、その諦めなきゃいけないことが、自分のレーゾンデートルに関わるようなことだったら?

そんなとき、死よりも恐ろしいことが爆誕し、自らを縛っていく。
と同時に、物語に強烈な命が吹き込まれるのだ。ここでいう物語というのは、エンターテイメントだけでなく、我ら人生においても。


話が少しずれた。

スマホにしてはよくここまで書いた。



その、なんだっけ。複数日に分けて書いているので、最初に「書きたい!」と思った強い感情がどこにあったのか、分からなくなってくる。
こういったことを避けたいから、ゼロも、次がいつになるか分からないが、まとまった時間が取れるときにやることとしたい。

その、なんだ、「なかったことにはしてはいけない」という、「Hacking to the Gate」というOP曲の歌詞にあらわれていることが、とても心を打つのである。

無駄な過去なんて無いんだ。

失敗も、苦痛も、怒りも、憎しみも、全部ひっくるめて、なかったことにはできない。全部、つながっている。それは、時間という次元の壁をこえたとしても変えることのできない真理なのだ。

Fate Stay nightをやった後に、Fate Zero という、前日譚という作品を楽しめるのだろうか?

と、かなり昔思ったことがあったが、当然(?)そんなことは全くなかった。どちらも超面白かった。
これと同じことが、シュタインズ・ゲートゼロでも同様だった。

あー、しかし、もう時間切れ。とりあえず、というのは大変失礼なのは承知の上でとりあえず投稿しよう。多分、自分の受けた衝撃を全然表現できていないが、これ以上書いてもダメそうだ。

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書きたい4
2018/06/14 12:00 | Comments(2) | 思考及び書くこと
信念がないと、人生は楽しめないと書いた。

ところで、お国のために死ぬ、という言葉をもってして、尊敬と蔑視とをあわせもつ感覚は、僕ら、30代ぐらいが転換期なのではないか。

お国のため、
というと、直接的に気持ち悪さは際立つが、しかし、会社のためだったり、家族だったり、組織や集団というものに奉仕するという構図が、
やっぱりどこかかっこいいという思いはあるはずだ。

それでいて、文脈によっては、ブラック企業とかサービス残業といった事象は蔑むことができる。昔はもーれつ社員とか、もてはやされたりしていたのだろう。もちろん、一定数は冷めていたのだろうが。



ただし、まだもってして、我々に、共通の信念というものは存在しない。

むしろ、共通の信念というものが、お国のためテーゼであったのだ。

それは、やはり人生において重要な要素であったのだ。人は、孤独では生きられない。自給自足する人もいるかもしれないが、完全な自給自足は難しいし、自給自足したところで、子をなし、集団形成できなければやがて滅ぶだけだ。




とはいえ、僕らはもう、共通の信念、イデオロギーといってもいいが、そういうものだけでは生きられない。

そんなものは存在しないのだ、というのが、世界の風潮である。
いやはや、愛国主義、ナショナリズムに傾く可能性もあるかもしれないが、そこら辺は専門家の議論にまかせればよい。どうなるかなど、結局わかりようがないし、一個の自分ないきるレベルの時間では、これ以上変化しないかもしれない。


だからこそ、物語をつくらなければいけない。作り続けなければいけない。
それが人生というものだ。


素敵な王子さまと結婚し、いつまでも幸せに暮らしました……。

という若い物語はもう通用しない。

結婚がゴールじゃない。



魔王を倒して、世界は平和になりました。めでたしめでたし……。

というのも通用しない。

共通の敵、魔王がいなくなってからの世界がどうなるとか、どうあるべきか。

それを表現していく必要があるし、たくさんの創作者たちに表現してもらいたいことである。

攻殻機動隊や、アニメのサイコパスなどは、未来の社会のあり方のひとつを描いている。と思う。単純にキャラクターやストーリーが魅力的、というのもあるが、世界観がよい

けれども、答えにはなっていない。問題提起のレベルだ。
いや、それができるだけでも非常に大切で優れた作品だ。

しかしまだ足りない。



そう、余地があるのだ。


完璧。

それは目指すべき素晴らしいものだが、
序盤に書いた、

飽きる

という人間の能力や性質によって、同じことの繰り返しに人は耐えられない。
厳密に同じ日はやってこない。
流れる川の水も、同じように見えてそうではない。


すると。
ワレワレは、ラットレースのごとく、終わりのない目的や目標をめざし、達成感というご褒美をところどころでもらいながら次を目指し続けるしかないのか。


そこに、以前書いた、満足度レベルというか、生活度レベルというか、人生に対しての自己評価がプラスかマイナスか、という、ああええと、波が流れるグラフを書いたええとそんな記事だが、次を目指せるだけの体力があるかどうかが、重要になる。



続け!

(かっこ書きである。こんなに続くと思わなかった。間違いなくコメントや拍手のおかげである。そういう意味でも、思考というのは、自分のものでありながらも、他者の存在が非常に大きい。この辺を、10代のときから実感していればよかったなぁとも思う。わかってはいたのだ、だが認められていなかった)







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