基本的に世界はパターンで構築されているので、子どもの不安は、たいてい、大人になることで、パターンとして処理できることが多いのです。
パターン処理は、物理現象のみならず、感情など精神部分にも及ぶものでありますので、いわゆる快不快といったものも、ある程度コントロールされうるものであります。
そのパターン処理は、経験的に構築運用されるものですので、様々な経験をすることで、それだけ奥行きが深く、様々な場面において対応できる人間になるのです。
私は、数多くの(もちろん主観的時間軸においての比較の上での話しでありますが)経験をすることで、身体と心の適応力を高めてきました。それは、実感を伴い、手ごたえを感じるものです。
しかしながら、ここからが重要なのですが、そのパターン処理の例外事象こそ、大きな問題をはらんでいるのです。
一切の例外を排除することは、数多の次元間の中でも不可能です。
もちろんすぐさま、むしろ、その例外を排除することは可能だという、ただそれは困難を極める方法だということを言っておかなければなりません。
まず例外とは何かを考えておく必要があります。
例外とは、予想された結果に反する事象のことです。
予想された結果、それは、目標という言葉でも表すことができます。
もちろん、目標まで高める必要はなくて、単に、夕飯は何にしようか、というのも、予想された結果となります。
無意識的な思考すらも、この場合、含めて考える必要があります。
この次元での思考は、思考というものが、おそらく人間においては必ず成立するものだという定義の上での話となります。
勉強的な思考のみを思考というのではなく、単に意識的・無意識的な選択性、そうしたものを思考と考える、というわけです。
ここで例外についてからめてみれば、この選択性において、例外が存在しないということは、全くありえないことだと分かります。
というのは、ある選択において、その選択以外の事象というのが例外ということになるからです。
その選択は、確かに選ばれたものの、その選択をすることによって生じると予想された答え、それと異なるものが生じるということは、どのような次元においても、避けられないことなのです。
ここにおいて、「期待」というものを排除することも、また不可能だということが分かります。期待には、「こうなって欲しい」という水準と、「こうなって当然だ」という水準のものがあります。
ここで、その期待について、より無意識的なものを仮定します。それでもなお、両者は、同じ期待であります。ところが、その両者は、選択による例外発生時の影響性からして、全く異なる振る舞いをします。
「こうなって欲しい」という水準の期待は、例外処理に強い期待ということになります。
反して、「こうなって当然だ」という期待は、例外処理に非常に弱いものとなります。
便宜上、前者を「希望期待」、後者を「必然期待」とすれば、圧倒的に「必然期待」が、生活上多いことが分かります。
例えば、明日戦争が起こって物価が高騰して食うにも困ることが「起こらない」という期待は、当然「必然期待」であり、この、「~~しない」という期待は、もはや無限に存在することになります。
精神的な総体は、この無限に連なる「必然期待」によってなりたっているといえます。そのため、この「必然期待」そのものは、善でも悪でもありません。
話を少しまとめれば、例外は避けられず、「必然期待」もまた避けられないということになります。
問題となるのは、「必然期待」と「希望期待」との混濁が発生した場合です。
通常意識下において、こうした混濁は起こりえません。というのは、「希望期待」というものは、「必然期待」が無意識かで処理されているのに対し、そのほとんどが意識的に処理されているからです。
ところが、パターン処理の追いつかない、「ゆらぎ」の中においては、そもそも意識・無意識の境は生じず、いわば「前意識」のような状態が続くため、当然のごとく二つの期待が入り混じることになるのです。
いわゆる、矛盾を受け入れられるかどうか、という思考が働く場合は、この「ゆらぎ」の中にいることになります。
この「ゆらぎ」は、パターン処理の対極をなすもので、いうなれば、今までの経験すべてが全く役に立たない状況ということになります。
もちろん、経験は「道具」として利用することはできます。ところが、それは処理に利用される「部品」ではなく、あくまでも「道具」なのです。道具ということは、即ち、使用者次第、ということです。
すべては可能性であらわせるに過ぎなくなります――厳密に言えば、可能性すら生じることはできません。ただ一点、一ドットにも満たない本当にあるかないか分からないほどのその瞬間しか生じない状態となります。これが究極の現時点性です。
未来も、過去も、いわゆる現在もありません。そこにおいて、すべての因果は、因果として振舞うことができないのです。
そのような状況においては、期待が入り混じるというのも当然のように思われるでしょう。
しかしそのまま期待を、目標を放置することは、非常に危険な行為になります。道具を、間違った使い方をしてしまう可能性があるからです。
道具は、用い方によって、人を救うものにもなり、人を殺すものにもなります。
しかしながら、「ゆらぎ」においては、何も聞こえないに等しいのです。
頼りになるものは、何もありません――、もちろん、社交的な人は「他の人と交わる」ことを勧めるでしょうし、内向的な人であれば、「思索に耽る」ことを勧めるでしょう。
ところが、そもそも「経験」が道具化されることによって、「他者」も存在しなくなるし、また「自己」すら存在できなくなるのです。
自己も存在できなくなるというのは、現時点においてこうやってキーボードを打ち付けていることから、電話ごしに話をしていることから、中々イメージがつかないことであります。
ただし、それもまた、純化された現時点性においては、因果性が発生していないために、いわゆる、「こじつけ」にしかなっていないのです。
逆に言えば、「現時点性」を記録できる手段は存在しません。
他者のアドバイスや、愚痴を聞いてもらうというのは、確かに有効な手段でありながら、ただし、それが存在するためには、「自己」が必要であり、しかし、その「自己」が存在しない場合、頼れるものは「自分」となりますが、その「自分」を成り立たせているのは「自己」であるために、残りは、物理的現象としての身体しかありません。
そこから発せられる声に耳を傾けることになります。
疑問が生じるでしょう、その耳を傾けているのは何か、ということです。それこそ、「自分」や「自己」なのではないか、ということになります。
それについては、また今度にしましょう。
ただ一つ、「ゆらぎ」において、同定できるものは、何もないということになります。