とても興味深い記事を書いている人がいましたので、引用させて頂きます。
完全な相互理解が不可能であれば、言葉の上では誰も信じることなんでできません。
すべての存在は孤独だ、なんて言い方はその良い例かもしれません。
とは言え、人間は今や誰かとの関わりを絶つような生活は困難を極めます。直接的にも間接的にも100%全く誰にも関わらない生活なんてのは有り得ないと言ってもいいぐらいだと思っています。強いて言えば、野生に帰るとか、そんなレベルかな。
つまり、相手を疑い出せば、どこまでも疑うことができてしまう。すべての言葉や行動に、裏があると考えることができてしまう。際限なく、相手の行動や言葉を否定することができてしまう。
そんなことでは当然、人を信じるなんてできやしません。
だから、誰しもどこかで思考を中断し、良し悪しを別に言い方を変えれば「妥協」して相手を信用しています。
それは裏を返せば、誰もが他者を本当は信じていない、とも言えます。
この理屈でいけば、この理屈自体を覆すことも困難です。
では、何をして相手を信じるか。いかに妥協するか。
同じ趣味趣向や気の合う性格の持ち主、一緒に遊んだり過ごしたりして楽しい、心地いいと思える相手なら信用しますか?
否定的な言い方をすれば、それも利害の一致だと言うことができます。
疑い出せば、キリがありません。
そして、堂々巡りになります。
何をもって相手を信じるのか、理屈だけを求めても、答えはないように思います。
相手を認めるとは、あるがままを受け入れることだと思っています。
即ち、あるがままを認めることが「信じる」に繋がることだと思うんです。
騙されるかもしれないとか、利用されるかもしれないとか、警戒して疑うだけでは誰も信じられない。
悪意に騙されてもいいとは思いません。そういう意味では、警戒も必要ではあると思います。ただ、悪意の存在を疑ってしまえば、そのループからはまた抜け出せなくなってしまう。
人を信じるために必要なのは、きっと、信じようとする思いなんだと思います。
理屈で答えを求めることができないのなら、理屈でないところにあるものを答えとするしかない。
相手の好き嫌いに関わらず、言葉や行動に堂々巡りになるような根本での疑いを持たない。
信じようと思う。
それが大切で、そこから始まるんじゃないかと思うんです。
私は人という存在を信じたい。
――「信じるためには」
ここからわたしのコメントです。
わたしの場合は、人を信じることしかできません。
わたしは、人の本質というものを、深く信じています。
人は裏切ったり騙したりするものだということを信じているので、その次元において疑うことは不可能です。 裏切られることを信じているのですから、たくさんの人と仲良くできます。
逆に、半端に人を疑おうとすると、その後の失望に耐えられません。
――言語トリックで、言ってることは対人恐怖症のそのものです。
しかしこれをネガティブとするかポジティブとするかは、その人の思考度合いによるでしょう。
わたしの友人の一人は、自分の快のためにわたしを利用しています。
わたしはそれを不快になど感じません。むしろ潔さに心地よさを感じています。
その友人の心情説明を、「利害一致」と表現しようとも、「友情」と表現しようとも、わたしは興味がありません。
ただただ、その友人のあるがままを受容しているのです。
そして、その友人がわたしを利用しているという前提認識に立っている以上、わたしは、その友人を、疑いたくとも疑うことなどできもしないのです。
究極の絶望こそが救済であるのに関わらず、世間の人々はそれを認めようとはしない――それどころか、救済に導こうとする人を、まるで悪魔のように邪険にするのです。
真理はそれ自身と虚偽との判定者である。だが真理のこういう独断には人々は無論気付いていない、――いな一般に人間は真理との関係、すなわち自分が真理との関係のうちにあることを決して最高の善とは思っていない。したがってソクラテスのように、誤謬のうちに捉えられている事を最大の不幸であるとも考えていないのである。感性的なる者が人間においては大抵知性より遙かに優勢である。そこでたとえば、真理の光に照らして考えると実際は不幸なのにも拘らず、或る人間が自分では幸福であると思い込んでいる場合には、彼は大抵の場合こういう誤謬から引き離されることを決して望まない。逆に彼はそのことに憤りを感じ、自分をその誤謬から引き離す人を最悪の敵と看做すであろう、――よく幸福を殺すということがいわれるが、彼もまたほとんど殺人に近い襲撃でも受けたくらいに思い込むのである。 ―― 『死に至る病 (岩波文庫)』 P.69
ところで、キェルケゴールは、主体的真理を求めたといわれます。
対となる客体的真理として挙げられるのが、キェルケゴールも師事したヘーゲル哲学です。名前くらいは誰でも聞いたことがあるでしょう。いわゆる、正・反・合の弁証法をとなえたイケメンです。
キェルケゴールの思想のポイントとなるのは、彼が自身を「例外者」として認識していたことです。
現代風にいえば、「空気読めない」人だったのかもしれません。冗談です。キェルケゴール研究の人ごめんなさい(まぁ、今の時代まともにキェルケゴールを研究している人は稀と思われますが)。
ただ、「なんだかみんなと違う……」そんな意識をもっていたのは、間違いないでしょう。
で、そういうことを聞くと、「寂しいから楽しそうにやってる人たちを引きずり降ろそうとしてるんだ。悪い奴だ」と感じる人が大勢いることでしょう。
しかし、彼の文章を読んでいると、そんな次元じゃなくて、純粋に、……あまりにも純粋に、主体的真理を追い求めているのが伝わってきます。
「てめーらがどうこう言おうが関係ねぇ。俺は苦しいんだ!!!」
……いえ、むしろ、そう言えたらもっと楽だったろうにと思います。止まることを知らず、ただひたすら自己と向かい合って、そしてついに路上に倒れた彼を思うと、何とも複雑な気持ちになります。
わたしのこの書いている文章を読んで、少しでも何か感じるものがあるのなら、是非上記の書、読んでみてください。買わなくても、どこの図書館にでもあると思います。
こんな断片的な引用と不細工なわたしの文章より、絶対面白いはずです。
もっとも、分かる人には理屈抜きで内容が入ってくるでしょうし、分からない人には「何が分からないのかも分からない」と混沌を極めるでしょう。
わたしも、分かりやすくこの書を読むには如何なる「前提」が必要かよく考えて、これからもブログなどに書いていこうと思います。
取り敢えず、一つだけ注意すべきは、「神」の概念です。
既に何度か書いてきたことですが、神を、キリスト教的神としてとらえる必要はありません。
キェルケゴール自身、「救われるためには厳格なるキリスト者でなくてはならない!」といってますので、「俺キリスト教とか全然わかんねーしw」「信じれば救われる? アホかとw」と感じられるのはもっともです。
しかしここで、今回の記事の中で最初の方に書いたことを思い出して欲しいと思います。
キェルケゴールは、「例外者」意識をもち、「主体的真理」を追い求めたというそのことです。
その点をおさえると、この書が、ぐんと自らと近いものになります。